なかなか記憶しにくい名前。
プレクトランサス・ピンククリッカ
ダルマギク
↑2つとも道を隔てた北側の家の玄関先で
会も社も、文字の本義は、一字にて衆人集団の意義なるべけれども、今日にては、それを二字重ねて法律的にも動かすべからざる新語となれり。
この説明は今日初めてネット上でたどり着いたものである。
デジタル大辞泉の解説
1 会社の建物のなか。また、会社の内部。社内。
2 組合・結社などの仲間。
3 邦楽などで、同門の仲間。
2の意味で社中を使って、「shachu」と発音するのに
なぜ「氏子中」の場合は、「ujikoju」と読むのか?
坂本竜馬の時代になって、「ちゅう」と読むのが流行りだしたのか?
私が「うじこなか」と読んでいたことは紹介したが、
ワイフは「なかこし」(中子さん)と読んでいたらしい。
私がワイフより二学年年上故、横書き文字はかつては右から読むことを知っていたということであろう。しかしワイフは書道の師範資格を持っているのに、これだけでは理由説明にならない。・・・・・
塚口神社を覗いて新発見
次の2枚に注目↓
いまさら「氏子中」でもあるまいと、「氏子会」という名称を提起した人にはそれなりの見識があったように思う。
寛政2年(1790年)
↑天保7年(1836年)
塚口神社には「氏子中」が存在しなかったのである。
塚口御坊にあって真宗集団として結束していた時代、
この村には神社が存在しなかった可能性がある。
16世紀以前、この地は荒れ野で、古代の墳墓(古墳)用地として
人が集住する場所とはみなされていなかった可能性がある。
なにせこの地は、庄下川の水を利用できない。
はるか武庫川か、藻川から水分を引いてこなければならない。
井組への参加は、一番遅れたのではないかと思う。
多分JR宝塚線の東は、三平井から、西は武庫川の水を、富松井から分けてもらったのであろう。
↑「宗源」も意味が不明
「殖産」は分かるが。
東武庫神社のもの
なら、萬民悦楽も分かるが。たぶん「悦楽」は仏教用語なのであろう。法悦という言葉から連想して。
神社がなぜ、仏教用語を利用する?という別の疑問も出てくるが。
宗源はネット上では、仏教用語としての解説はなし。神社用語として
宗源については未調査で時間切れ。
悦楽か怡楽か桃の花ざかり 森澄雄 四遠
今日もまた別の恥をかいた。
プレクトランサス・ピンククリッカ
ダルマギク
↑2つとも道を隔てた北側の家の玄関先で
- 「会社」についての語源説明:
会も社も、文字の本義は、一字にて衆人集団の意義なるべけれども、今日にては、それを二字重ねて法律的にも動かすべからざる新語となれり。
されば、最初は種々の意義に用ひ、役所、仲間、組合、協会、または会の義に混用せるが、以下少しくその用例をあげん。
西洋の商事会社組織を、まづわが国に紹介したるは、慶応二年版『事情』あり、いはく(実は社債なるべし)、「西洋の風俗にて、大商売を為すに、一商人の力に及ばざれば、五人或は十人仲間を結て其事を共にす。之を商人会社と名つく。アクシヨンと云へる手形を売て金を集む。(利益の配当世間相対にて手形の売買、手形の価の高下等を略説せり)百万両入用なれば、手形百万枚を作り、一枚の価を一両と定め、自国他国の人に拘らず、此手形を買ふ者には、商社より年々四五分の利息を払ふ」といへり。
次いで明治二年、政府通商司の下に、通商会社、為替会社の二社成れり。前者は内外の商業を経営するを目的とし、後者は通商会社の経営のために、金融の援助を与へ、その他一般に金融の疏通を謀らしめんとせしものなりき。されども、後年の株式または合資の会社とは同じからず。 嘉永頃刊『万国輿地図説補』に、「勧農会社あり、専ら耕作の事を勉励す」とありて、会社にヤクシヨのふり仮名あり。また弱小国の合縦会盟の項に、「永遠相連合して力を戮すべし、此会社之をドイツフルボンドと名つく、此会社の|夥伴《なかま》は……」とあり、聯盟の意 に用ひたり。 慶応四年四月刊行の『内外新報』の発行所を「海軍会社」といひ、同五月刊行の『東西新聞』第一号記事に「会社」の二字は、ことごとくなかまのふり仮名あり。
また明治二年刊行『開智』第六に、「仏国の気灯は、富商等〈社中〉を結び、……又和蘭国気灯は、何れも商人の〈会社〉にて取建云々」、また同書五に、「英国々制、諸学校・病院・幼院及び養老院共、政府の建築せし者は更になく、皆商人等、会社を設けて取建てたる処にて云々」。 また同年刊栗本鋤雲の『暁窗追録』に、博覧会を博覧会社といふの類、実にまちまちなり。しかし、明治二年、政府の保護の下に設立せし「通商会社」「為替会社」等は、今日同様、商事会社の意味なり。 明治二年公議所『議案』第六号および明治六年七月発布『訴答文例』の第十四条に、商社とあるは、今日の会社をいへるなり。その方が、むしろ適当の名なりしが、いつか会社になりてしまへり。
この説明は今日初めてネット上でたどり着いたものである。
石井研堂『明治事物起原』橋南堂、1908年 より。
福沢諭吉などは英学故に、カンパニと呼んでいたようである。
会社の「会」は、「会所」から、「社」は「社中」から転用したという説明もどこかで読んだ記憶がある。
デジタル大辞泉の解説
しゃ‐ちゅう【社中】
2 組合・結社などの仲間。
3 邦楽などで、同門の仲間。
2の意味で社中を使って、「shachu」と発音するのに
なぜ「氏子中」の場合は、「ujikoju」と読むのか?
坂本竜馬の時代になって、「ちゅう」と読むのが流行りだしたのか?
私が「うじこなか」と読んでいたことは紹介したが、
ワイフは「なかこし」(中子さん)と読んでいたらしい。
私がワイフより二学年年上故、横書き文字はかつては右から読むことを知っていたということであろう。しかしワイフは書道の師範資格を持っているのに、これだけでは理由説明にならない。・・・・・
塚口神社を覗いて新発見
次の2枚に注目↓
「氏子会」となっている。氏子中ではない!!!
そういえば、残っている柵柱や献灯常夜灯などに「氏子中」という文字が見当たらない。
いまさら「氏子中」でもあるまいと、「氏子会」という名称を提起した人にはそれなりの見識があったように思う。
寛政2年(1790年)
↑天保7年(1836年)
塚口神社には「氏子中」が存在しなかったのである。
塚口御坊にあって真宗集団として結束していた時代、
この村には神社が存在しなかった可能性がある。
16世紀以前、この地は荒れ野で、古代の墳墓(古墳)用地として
人が集住する場所とはみなされていなかった可能性がある。
なにせこの地は、庄下川の水を利用できない。
はるか武庫川か、藻川から水分を引いてこなければならない。
井組への参加は、一番遅れたのではないかと思う。
多分JR宝塚線の東は、三平井から、西は武庫川の水を、富松井から分けてもらったのであろう。
↑「宗源」も意味が不明
「殖産」は分かるが。
東武庫神社のもの
なら、萬民悦楽も分かるが。たぶん「悦楽」は仏教用語なのであろう。法悦という言葉から連想して。
神社がなぜ、仏教用語を利用する?という別の疑問も出てくるが。
宗源はネット上では、仏教用語としての解説はなし。神社用語として
宗源については未調査で時間切れ。
悦楽か怡楽か桃の花ざかり 森澄雄 四遠
今日もまた別の恥をかいた。
創業百年の自転車屋さんの3代目の主人(和風レストラン兼営)に話しかけた。
「塚口村の中にひがしまち、きたまちなどという町があったんですかねえ?」
「 ああ、ひがしちょう ね」
私、園芸では、草を「ソウ」と読みがちであるが「クサ」と読むのがただしい場合が多い。チョウと読むと、御坊内の地域呼称となるらしい。
「きれいな菰ですね。矢野さん製ですか」
「いや、岸本さん製です」
「1斗樽に菰巻いて、中にお菓子を詰めて山車押した子供たちに
割らせるんです」