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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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スサノオ

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昨日、尼崎市内66社に数えれていないのではないか思う稲荷神社に遭遇。
「コスモス畑」の→と反対側の方角に、杜あり。近づいてみると、
街角辻地蔵よりは広い敷地に地蔵堂とともに、赤い小さな鳥居が5本ほど。

その境内の入口に憩っていた人が、ここも行基さんが創建なさったと聞いていると。


Ⅰ昨日 須佐男神社を3社訪問。
1社は前に一度来たことがあるが、既に訪問した神社一覧からは書き洩らしているかも。武庫庄須佐男神社

祭の準備なのか、後片付けなのか分からなかった。ほとんどまったく
「一般客」=氏子の姿なし。

最初にここへ来た時、「武庫庄」という地名を見て、
通りかかる人に「武庫庄遺跡」について尋ねたがどなたも御存じなかった。中には、ここは武庫庄ではないと言われる方も。
「武庫庄須佐男神社」という掲示を指さして、ここは武庫庄ではないんですかと問うた。

地図を見ると周囲には武庫庄公園とか武庫庄小学校があるけれど
現在住所表記は、武庫之荘本町になっている。阪急電車の武庫之荘駅の北側は「武庫之荘」、南側は「南武庫之荘」。
武庫之荘駅北側の西は、武庫之荘西、東は武庫之荘東という町名になっている。

昨日、髭の渡しから武庫之荘駅まであるいた。(15000歩越え)
途中で武庫庄公園を通った。
公園の端で、標識発見

その前に西武庫須佐男神社と東武庫須佐男神社を訪問。

西武庫須佐男神社の「売り」は十三重塔。

西武庫須佐男神社境内に西面して建つ。鎌倉後期の花崗岩製の層塔である。相輪は後補で、この相輪を除くと410センチである。伊派の名石大工、行恒の作品と推定されていて、阪神地区における十三重塔の代表的な遺品のひとつである。
台石の東面には、
右造立供養之 意趣者為二親
菩薩法界衆生 平等利益也
元応二年八月十九 神主三室藤丸
              敬白
と39字の銘文が印刻され、鎌倉時代に神主三室藤丸を願主として両親の供養の為に建てられたことがわかる。 他の3面にはそれぞれ線刻した蓮華座上に舟形輪郭を彫り込み、南面には阿弥陀、北面には地蔵、西面には釈迦の仏座像を配している。阪神淡路大震災により倒壊、その後塔身が盗難に遭っている。

 

ただしこの神社、4面すべて閉鎖されていて、中へ入れない。

盗難除けのためか?武庫庄神社は富松神社が管理、西武庫神社は
生嶋神社が管理しているようである。

この辺りの神社はなべて阪神淡路地震で本殿などが崩壊。その後修復・復興されたものである。江戸時代、あるいはそれ以前の災害や火災で流出・崩壊した神社があったと思う。

東武庫須佐男神社



富松神社もまた、富松須佐男神社と呼べないこともない。


天高く素盞鳴神社の例大祭


ところで、例大祭の「例」はどんな意味があるのか?
「礼大祭」と記した幟もあるが、礼と例は同じ意味合いの言葉なのか?


主祭神 須佐男命(すさのおのみこと)・応神天皇(おうじんてんのう)

例祭日 10月10日(神賑行事は10月体育の日前日)

鎮座地 富松町2丁目23-1(TEL 06-6421-5830)

>>> 富松神社ホームページ(外部リンク)

≪お社の説明・御由緒≫

富松神社は、約1250年前に僧の行基が人々を指導して、猪名野笹原を開拓し、稲作を進めるとともに、富松の里の守り神として神様と仏様をおまつりしたのが始まりと伝えられています。

 平安時代には藤原摂関家の荘園を守る鎮守の社でした。

戦国時代には数度の兵火にかかり社殿や堂塔は焼失し、面影はとどめませんが、樹木などに微かに昔時が偲ばれます。江戸時代に至り、尼崎藩主松平遠江守公厄災除祈願所として特別の庇護を受け盛況を誇りました。大東亜戦争敗戦後は社会変化により神社の基盤は崩れましたが、人々のふるさと富松への信仰心は途切れることなく、里の人々に大切にされ、今日も神様への感謝のお祭りが続いています。 御本殿は1636年に再建されたもので、昭和43年に兵庫県重要文化財に指定されました。 境内の大きな楠は樹齢500年と言われています。




ウィキペディアさまさま:

例祭(れいさい)または「例大祭(れいたいさい)」とは、神社で毎年行われる祭祀のうち、最も重要とされるもののことである。

例祭は年一回、多くは祭神や神社に特別の由緒のある日に行われる。例えば人物神を祀る神社ではその人物の誕生日や命日に例祭を行うことが多い。特に由緒のある日のない場合は、春祭り秋祭りをもって例祭としている。例祭が行われる日は毎年一定で、みだりに変えることはできないものとされる。第二次世界大戦以降も、神社本庁被包括の神社については、例祭日を変更する場合は神社本庁の承認を受ける必要がある。

歴史

「例祭」という名称が使われ出したのは近世のことで、それ以前には「大祭(おおまつり)」「御祭(おんまつり)」などと呼んだり、社名に祭をつけて「春日祭」「石清水祭」などと呼んだりしていた。近世には、各地の名所図会などに「○○神社例祭○月○日」と記載されているのが見られ、その神社を代表する重要な祭を「例祭」と呼ぶことが定着していたことがわかる。

明治の神社制度においては、例祭は祈年祭新嘗祭などとともに「大祭(たいさい)」に定められ、官国幣社・府県社・郷社および一部の村社(神饌幣帛料供進指定神社)には勅使あるいは幣帛供進使が参向して国・皇室から神饌幣帛料が供進された。

第二次世界大戦以降は、国からの幣帛供進制度は廃止されたが、勅祭社については例祭に際し勅使が参向する。それ以外の神社では、公的な幣帛供進制度に代わって神社本庁から「本庁幣」として献幣が行われている(ただし神社本庁被包括の神社に限る)。

名称

例祭は祭祀の分類の中で「大祭(たいさい)」に分類されることから、例祭のことを例大祭(れいたいさい)と呼ぶことがある。ただし、これは俗称であり、正式なものではない(例祭の名称として「○○神社例大祭」としていることはある)。 正式には、大祭式例祭(たいさいしきれいさい)とする。

本来の「例祭」以外の祭祀についても、祭の名称に「例祭」を含んでいる場合(例えば「春季例祭」)があるが、一つの神社について例祭は一つだけである。



相変わらず、「例」の意味は分からない。

国語辞典:

「例」
  1. [名]
  1.  以前からのやり方。しきたり。ならわし。慣習。「長年の―にならう」
  1.  過去または現在の事実で、典拠・標準とするに足る事柄。「古今に―を見ない」
  1.  他を説明するために、同類の中から引いて示す事柄。「―を挙げて説明する」「その―に漏れない」
  1.  いつものとおりであること。「―によって話が大きい」
  1. [副]いつも。つねづね。
    • 「―ある所にはなくて」〈・二八〉



みだりに日を変えてはならないというなら、名詞の1の意味合いか?
しかし例祭はその場合、例を形容詞として用いているように思うが。

恒例なら「例」は名詞扱い。







初笑ゆぜん神社の高みより 上田五千石

どぶろくといふ名の神社はつもみぢ 渋沢渋亭

花韮や歩いて行けば猫神社 星野麥丘人

蟻の塔砂山に古る水神社 角川源義

乙子神社へおりゆく雨の鷽伴れて 山田みづえ

美保神社講じ水口祭りけり 山口青邨

雀より鳩たのし春日神社前 鴻巣又四郎


冬凪ぎにまゐる一人や山神社 飯田蛇笏

粥占に由緒の神社笹子鳴く 小山今朝泉

武運長久忘れし神社七五三 辰巳比呂史

鎮もりて小さき神社や七五三 林 やすお



江津神社とはおん小さく法師蝉 汀女

二月野に神社建つるにあづかりし 原月舟

大神神社の蟇に項のありにけり 西田美智子

梢より目白の囀り宇佐神社 滝沢伊代次

空稲架を玉垣なせる佐太神社 宮津昭彦

圓座ただ並べて波切神社かな 八木林之介 青霞集

右左口神社は小さい石の祠にて馬の手綱をかけし石なり 山崎方代 迦葉

青嵐神社があったので拝む 池田澄子

青嵐神社があつたので拝む 池田澄子

落葉焚松陰神社低からず 斉藤夏風

性器より湯島神社へ碧揚羽 攝津幸彦

空稲架を玉垣なせる佐太神社 宮津昭彦

長閑さに無沙汰の神社回りけり 炭 太祇 太祇句選

鯊釣れば雨の神社に犬跳ねて 永田耕衣 悪霊

夕焼けて護国神社の裏しづか 飯田龍太




いったいスサノオとはどういう人物(神)なのか?
(ウィキペディの解説の一部)

スサノヲの性格は多面的である[1]。母の国へ行きたいと言って泣き叫ぶ子供のような一面があるかと思えば、高天原では凶暴な一面を見せる[1]。出雲へ降りると一転して貴種流離譚英雄的な性格となる[1]。八岐大蛇退治の英雄譚は優秀な産鉄民を平定した象徴と見る説も根強く、草薙剣の取得はその象徴であるとの解釈も多い[2]。また、天下の王となる大国主之神あるいはその後の天皇の神器の出所がスサノオであるためキングメーカーの象徴とも解釈される[要出典]

しかし、日本初の和歌を詠んだり、木の用途を定めたりなど文化英雄的な側面もある[1]。これは、多数の神が習合してスサノヲという神格が創造されたためとする説もあるが、彼が成長するにつれて見せる側面であるとする説もある[3]

神名の「スサ」は、荒れすさぶの意として嵐の神、暴風雨の神とする説や(高天原でのスサノヲの行いは暴風雨の被害を示すとする)、「進む」と同根で勢いのままに事を行うの意とする説[4]、出雲の須佐郷(現在の島根県出雲市佐田町須佐)に因むとする説(スサノヲは須佐郷の族長を神格化したものとする)、州砂(=砂鉄)の王という説から、たたら製鉄の盛んであった意宇郡(おうのこおり)の首長とする説などがある[5]

『記紀』神話においては出雲の神の祖神として書かれているスサノヲであるが、『出雲国風土記』では彼はあまり登場せず、意宇郡安来郷や飯石郡(いいしのこおり)須佐郷などの地名制定や御子神たちの説話が書かれており、八岐大蛇退治の説話は記載されていない[注釈 1]。そのため元々は別の地方の神ではないかとする説もあり、その地として、以下のような説がある。

  • 『日本書紀』の一書で八岐大蛇退治が行われたとする備中とする説
  • 大国主がスサノヲのいる根の国へ行く前に「木の国」へ行っていること、子の五十猛が祀られているとしていることなどから紀伊国熊野)とする説
  • 『日本書紀』一書第4のまず新羅の曽尸茂梨に天降ってから出雲の鳥上峯に来たとの記述から、新羅の神とする説



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