朝食を抜くことはまずない。
朝7時前に家を出なければならない時でも、1時間以上前に起きてコーヒとパンは食べる。
15日は、12時半集合の会議であり、各自自由に昼食を摂ることになっていた。
朝5時頃に就寝したこともあり、ワイフは別用で早くに家を出ていたこともあり、
目が覚めたら11時であった。
コーヒを少し飲んだだけで、急いで花の水遣りだけして大阪梅田の会場へ駆け込み。
キンキの煮付け定食注文。4時前に家に戻って朝食を摂った。
よってこの日も朝食抜きといえるかどうか怪しいが、この日以前に朝食を抜いた日は思い出せない。
(現役時代、朝食抜きで定期健診を受けても終了後はすぐに近くの喫茶店に飛び込んで
モーニングを注文していた。)
↓この日はキンキ煮付けを注文する人が多かった。隣席の人も。
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朝食抜きは健康に悪いという観念がトラウマのごとく身に沁みわたっている。
25歳で結婚したが、その頃から朝食抜きはしなかった。しかし食は細く、
食パン一枚の耳の部分を切り取って胃に収めるのがやっと。
もちろんコーヒなんてまったく胃が受け付けなかった。牛乳も苦手であった。
(そんな折、勤務先の業務でホテルに宿泊。朝、若い男性は、皿からこぼれ落ちそうなくらい
茹で卵を乗せて席に戻ってゆくのを見て驚いたことがある。私はその頃は固ゆでの卵を一つ取ったらもう他の物を食べることが出来なかった)
バターは好きだったので、冷やしたバターをチーズ切りして食っていた。
よってもって若い時から中性脂肪値は一人前以上で、
最近は控えめにしているが、マーガリンに替えたことはことは一度もない。
年に10回以上ホテルの朝食バイキングを利用するが
バターではなくマーガリンしか置いていないところが多く不満であった。
客の要望が多いためか、最近はマーガリンしか置いていなかったホテルの多くで
バター(小容器)が復活しているように思う。マーガリンの弊害が云々されたためかも。
オリーブオイルに浸けてパンを食べるのは、(多分)イタリアからの導入であろうが、
悪くはないがやはりバターが欲しい。
もう一つの不満は、朝食にはトーストが欲しいが、小さなクロワッサンがレーズンパンしか置いていないホテルが多かった。これは最近10年ほどは様替りで、トースターを置いているホテルが増えた。しかし食パンは、半分か4分の1切りされている。「自動移動装置付き」(オーブン)トースターも私の好みではない。
朝食会場へ行くとすぐパンを一枚(半分)トースターへ入れるが、サラダなどを取っている間にもう一度トースターのところへ戻り、出てきたパンをもう一度トースターへ放り込む。
それでもなかなかこんがりとはならない。ほんの少し焦げ目が付く程度である。
バター以外の、チーズやハム類、一流ホテルでも、ミモレットやボンデスハムにはありつけない。
ホテル朝食の良いところは、コーヒが何杯でも飲めるところ。
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結社誌にスベリヒユについて書いたところ、スベリヒユを見たことがないという人のために
スベリヒユを採取して試食した人がいる。その人が、ねじり花を栽培していて株数が増えたのでと句会開催時に一鉢私に下さった。花が終わりに近づいているのでと、家の近くで開催されえる以前に神戸の句会(他結社の人も参加できるようにと、「神戸俳句会」と改名)開催時に渡された。↑
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阪神電車「尼崎センタープール」駅前のバス停。標高はー0.5メーター。
そこから800メーター南下すると北堀運河。
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国道43号線とその上の阪神高速を北から南へ渡る。
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道意線という南北道が、北は伊丹市まで走っている。
このあたりはプラタナスの古木並木。
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道意 尼崎郷土史事典より
17世紀ころの人、姓は中野。道意新田開発の端緒となった、西成郡海老江村(現大阪市福島区)の人。尼崎藩主青山幸利の針医として伺候するうち幸利に新田開発を勧められ、縁者の大坂玉造鍵屋九郎兵衛と相談。東新田村の地先、太布脇〔たぶわき〕の地を見立て、1653年(承応2)開発の願いを出した。1669年(寛文9)、開発地は検地を受け、そのときから道意新田と改められた。
道意新田:
大庄地区の大字。1653年(承応2)西成郡海老江(現大阪市福島区)の医師中野道意の係累の者3名が東・西新田地先の太布脇〔たぶわき〕開発を願い出て開発された。当初は太布脇新田と呼ばれ、1669年(寛文9)の最初の検地の際に道意新田と改名した。尼崎藩領で、天和・貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には村高643.548石、家数31軒、人数193人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には村高643.569石、44軒、234人とある。郷帳に村名が独立して記載されることはなく、天保郷帳では同村の村高は西新田に含まれている。
開発後もたびたび高潮被害にあったが、18世紀ころには土地も安定し綿作が発展していった。このころには地先に中浜新田が開発され、1782年(天明2)高入れされた。氏神は道意神社(近世には牛頭天王社、明治以降は素盞嗚神社、1951年(昭和26)成立の宗教法人法による登録切替の際に改称)。
1889年(明治22)以降は大庄村の大字、1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字道意となった。大正期以降古河電気工業大阪伸銅所などの工場が建設され、臨海工業地帯の一部となっていった。1949年の土地区画整理により道意町となったほか、一部が武庫川町・中浜町となった。
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古河電気の工場。 広大である。
古河電工の鋼管はもっぱらここで生産されているよう。
その南側
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むくげ
- 月今宵木槿は木槿出づるなく 齋藤玄 『雁道』
- 木槿咲く寺で木槿を食べにけり 仙田洋子 橋のあなたに
- 木槿垣とぼしき花となりゆくも 島谷征良
- 花木槿家並の低き漁のまち 石工冬青
- 西国の山々ゆるぶ花木槿 村沢夏風
- 北国の日の衰へし花木槿 青柳志解樹
- 道しるべして木曽路とや花木槿 濱坂みち子
- 木槿の花がおしまひになつて風吹く 尾崎放哉
- 花木槿鉱山は廃れて雨に冷ゆ 塩田藪柑子
- 曲家の籬木槿の咲きみちて 山口青邨
- 草の戸の起き臥し自在木槿咲く 水谷静眉
- その頃も今も木槿の垣結ひて 池邊 美保子
- 蝶去りて風ばかりなる花木槿 安倍 希佐恵
- 一夜なり野は木槿咲く絵蝋燭 川田由美子
- 道のべの木槿は馬にくはれけり 松尾芭蕉
- 鯉移すしぶき木槿をぬらしけり 大島民郎
- 歩をゆるめ木槿の花の白感ず 村越化石
- たましひの七分去りたる木槿たち 齋藤玄 『無畔』
- 木槿垣曲るところを得てまがる 加倉井秋を 『午後の窓』
- 旅情とは雨の木槿の咲くばかり 加倉井秋を 『午後の窓』
- 馬に喰はれぬ芭蕉の木槿咲きにけり 阿部みどり女 『石蕗』
- 路地ほそく細くなりきし木槿かな 大木あまり 火球
- 寺の出の黒子の多し花木槿 大木あまり 火のいろに
- 此処らはや犬も見知らぬ花木槿 中村汀女
- 子だくさん今は昔に木槿咲く 中村しげ子
- 残酷に少年老ゆる花木槿 稲野博明
- 木槿咲く籬の上の南部富士 山口青邨
- 宵の星かたみに灯し木槿咲く 角川源義
- 園丁の得たりと話す木槿垣 武田忠男
- いつ迄も吠えゐる犬や木槿垣 高浜虚子
- 湯あがりのみどりご重し夕木槿 羽部佐代子
- 木槿咲く窓辺に紅茶飲んでをり 菅井たみよ
- いつよりかひとりを好む花木槿 小林松風
- 鬼貫の町 木槿から木犀へ 伊丹公子
- 一生といえど一日 花木槿 三田村弘子
- 道すがらうかぶ木槿や徒労ばかり 石田 波郷
- 針置くや夕日残れる木槿垣 千手和子
- 俯きて木槿にもある日の疲れ 織野 健一
- 見上ぐれば雨一粒や花木槿 石田あき子
- しみじみと母あらぬ日の花木槿 白井 爽風
- 老犬の小屋より出でず花木槿 林 久子
- てのひらにのりさうな子や花木槿 風間 圭
- 秋来ぬと散華の木槿ましろなり 水原秋櫻子
- 木槿白し悪夢にからめられし夜も 仙田洋子 雲は王冠
- 涙かと思ふ木槿の雫かな 仙田洋子 雲は王冠
- 木槿咲くトランペットの破調音 遠山弘子
- けさ秋の木槿くさむらより咲けり 及川貞
- 日本の虫喰ひ木槿祭司館 加藤かけい
- 木槿咲かせて木曾人の無愛想 森澄雄
- 墓地越しに街裏見ゆる花木槿 富田木歩
- 藪入や皆見覚えの木槿垣 正岡子規
- 小包は木槿の挿木枝ばかり 飴山実
- 二日咲く木槿となりて朝寒し 暁台
- 四五人の讃美歌木槿咲きそめし 湘子
- 木槿咲く本家と分家との間 志解樹
- 尻ながき客に木槿の露けさよ 間石
- 掃きながら木槿に人のかくれけり 爽波
- 木槿たる証拠の花よ月日長し 耕衣
- 朝井汲む妻も木槿も露の中 麦南
- 道すがらうかぶ木槿や徒労ばかり 波郷
- 花木槿まひるすみくる鉦の音 梅の門
- 他人の母の八重歯や木槿も若々し 草田男
- 木槿咲く籬の上の南部富士 青邨
- 此処らはや犬も見知らぬ花木槿 汀女
- 墓地越しに街裏見ゆる花木槿 木歩
- いつ迄も吠えゐる犬や木槿垣 虚子
- 木槿垣本所区を野へ出る処 子規
- 盲児の端居淋しき木槿哉 白雄
- 修理寮の雨にくれゆく木槿哉 蕪村
- 秋あつき日を追うて咲く木槿かな 几董
- 手を懸けて折らで過行く木槿かな 杉風
- 川音や木槿咲く戸はまだ起きず 北枝
- 秋来ぬと散華の木槿ましろなり 秋櫻子(京都、法然院)
- 花木槿美作に来て汗白し 森澄雄
- 移り来し一家に子等や木槿垣 安原葉
- 今日は妻来ぬ日木槿の咲き替る 井上哲王
- ホテルあり木槿づたひにグリルあり 京極杞陽
- 本あけて文字の少なき木槿かな 岸本尚毅 舜
- 木槿咲く頃はいつもの旅心 西村和子 夏帽子
- 本あけて文字の少なき木槿かな 岸本尚毅
- 一日のまた夕暮や花木槿 山西雅子
- 落ちてゐる木槿の花の包むもの 山西雅子
- 夕暮の一本道の木槿かな 小川軽舟
- 旅立の花は木槿と決めてをり 田中裕明 櫻姫譚
- 薄墨の祖母と木槿の道に遭ふ 有住洋子
- 月光の降りぬけてゐる木槿かな 中田剛 珠樹以後
- ひとつだにこゑなく木槿ちかき厨子 中田剛 珠樹
- 木槿にも松にも露の一夜哉 米園
- 木槿垣只の親父の住む家かな 松瀬青々
- 発心の人見送るや木槿垣 路曳
- 家問へば木槿の垣の三軒目 中村楽天
- 木槿咲いて祭も過ぎぬ野の小家 河東碧梧桐
- 生垣にはさまれてさく木槿哉 正白
- よく眠れて木槿の白さ讃へをり 長谷川倫子
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出会い橋から蓬川方面を見ている。蓬川と合流して尼ドックへつながる。
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対岸の花はムクゲではなさそう。
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合流地点。尼ドックがわずかに見える。
北側の一般道へ戻るためには、工場内の道を通る。
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道路へ出たところで来た道を見ている。↑