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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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天満宮

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天満宮(てんまんぐう)は、菅原道真祭神とする神社である。

 

三大天神とは、京都北野、福岡大宰府、山口防府のそれを指すと解説する

Wikipediaは、全国の主要天神一覧を掲載し、大阪天満の天神を日本三大天神の一つと注意書きしている。

 

道真がを愛し、庭の梅の木に

東風(こち吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」 (拾遺和歌集)

と和歌を詠み、その梅が大宰府に移動したという飛梅伝説ができたことから、梅を象徴として神紋に梅紋、梅鉢紋、星梅鉢などが多く使用されている。

 
 
道真が優れた学者であったことから天神は「学問の神様」ともされ、多くの受験生が合格祈願に詣でる。参拝して筆を買うと受験に利益があるともいう。
梅三分合格祈願の記憶なし

西山 宗因(にしやま そういん、慶長10年(1605年) - 天和2年3月28日1682年5月5日))は、江戸時代前期の俳人連歌師。本名は西山豊一。父は加藤清正の家臣西山次郎左衛門。通称次郎作。俳号は一幽と称し、宗因は連歌名。生れは肥後国八代(現熊本県八代市[1] 。談林派の祖。

 

15歳頃から肥後国八代城代加藤正方に仕えた。正方の影響で連歌を知り京都へ遊学した。里村昌琢(しょうたく)に師事して本格的に連歌を学んだが、1632年寛永9年)主家の改易浪人となる。

 

1647年正保4年)大坂天満宮連歌所の宗匠となり、全国に多くの門人を持つようになった。

 

一方では、俳諧に関する活動も行い、延宝年間頃に談林派俳諧の第一人者とされた。俳諧連歌ははじめ関西を中心に流行し、次第に全国へ波及し、松尾芭蕉の蕉風俳諧の基礎を築いたが、宗因は晩年連歌に戻った。 談林派は、言語遊戯を主とする貞門の古風を嫌い、式目の簡略化をはかり、奇抜な着想・見立てと軽妙な言い回しを特色としたが、蕉風の発生とともに衰退した。宗因流。飛体(とびてい) 。阿蘭陀(オランダ) 流ともいわれた。

 
 
 

繁昌亭

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梅日和繁昌亭の黒ポスト

繁昌亭が繁盛しているよう。 黒い郵便箱が見える。

「支店」を出すそうである。

 

神戸新聞NEXTより

 

神戸・新開地で検討されている上方落語の定席「神戸繁昌亭(仮称)」の建設構想について、上方落語協会(大阪市北区)は21日、同市内で臨時総会を開き、構想の推進を決めた。協会員の投票で賛成意見が上回った。大阪の天満天神繁昌亭に続く「第二の繁昌亭」構想は、実現に向けて大きく動きだすことになった。

 かつて大衆娯楽の街として東京・浅草と並び称された神戸・新開地。定席が実現すれば、新開地で約40年ぶりに本格的な寄席の灯がともる。

 

 

↑元祖 天満天神繁盛亭↓

天満天神繁昌亭(てんまてんじんはんじょうてい)は、大阪府大阪市北区天神橋二丁目にある寄席上方落語唯一の寄席で、落語を中心に、漫才俗曲などの色物芸の興行が連日執り行われている。通称「繁昌亭」。

 

神戸新開地の思い出:アメリカ映画の大作2本をはしごした。

従弟の父親(私の父方伯父)に連れられて。

おでん屋(関東炊きといったか)で蒟蒻を買ってもらった。

蒟蒻がこんなに旨いものかと思った。

それまでは蒟蒻は嫌いだった。

 

2日目の白い蒟蒻春隣

 

今では2日炊いて表面が白くなって体積が少々縮んだおでんの蒟蒻がひときわ

好物。

 

秋霖や繁昌してゐるビデオ店 竹内鈴子
 
顔見世や浪花の芝居繁昌記 高田寒水
 
東都繁昌顔見世日和つゞきけり 久保田万太郎 流寓抄以後

駅前

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少年液化す宮沢賢治の駅前で 高野ムツオ
 
駅前に茄子苗売りのこぼせし土 田川飛旅子 『花文字』
 
駅前の自転車置場干菜吊る 房川喜三男
 
トラックで売る駅前の青みかん 井口朝子
 
かき氷のみよく売れる駅前店 八木下ヨネ
 
駅前の筍飯も旅の味 高橋悦男
 
旅人の顔で降り立つ盆の駅 前岡茂子
 
駅前に自転車あふれ日脚伸ぶ 大町 莞子
 
駅前に茄子苗売りのこぼせし土 田川飛旅子
 
初売の蜜柑積まれて小駅前 葛西十生
 
駅前に犬橇一屯ろ汽車着到 高浜年尾
 
駅前に始まる古道花楝 茂里正治
 
駅前の一の鳥居の十三夜 山本洋子
 
冬の駅前犬過ぎ人過ぎぬけがら過ぐ 加藤楸邨
 
暮早し駅前にして暗き灯も 高濱年尾
 
駅前の蚯蚓鳴くこと市史にあり 高山れおな

読み返すと、一度は過去に引用紹介した気がする。

 

家から駅前までは徒歩7分程度。

↑こんなボックスが、あと徒歩一分で駅構内発券場の位置に立っている。

新幹線、JR、各私鉄のわっり引き切符を売る店は大阪駅や神戸三ノ宮駅周辺にはひしめいているが、私鉄の沿線駅前にこのようなボックス販売機が姿を見せ始めたのは5年ほど前だと思う。

 

今では阪急電車の主要駅前にはかならず設置されている。

京都河原町までだと、発券場で買うより50円位安くなる。往復だと100円だから、

切符はここで買うと決めている人もいるよう。

 

我が駅では駅の東西南北4か所に、同一業者によるものかどうか未確認だが

4ボックス設置されている。↑は西(北)のもの。

駅前通り。再開発に失敗して昔のまま。

右側に見える建物群を撤去して、駅前広場を作り、建物を高層化する市の計画は

地元商店街の反対で潰えた。

マックと通りを挟んでうどん屋。愛用の店である。

出汁がいい。

麺つゆ付きのうどんも贔屓。

マックが500円セットを販売して客が殺到した時には、半額になった。

今は共存共栄状態。うどん屋へは中年以上の客が、マックへは中年以下の客が集まる。

その横にマーサージ店があるが、ここは、付近に60分2980円の店が乱立。

ほぼ半額になった。何度か利用。半額になってからは利用していない。

その横は、珍しいフレンチパブ。去年初めて覗いたら、夜は大盛況だった。

そのまた東隣りはラーメン屋。一度だけ利用。

界隈で開店前から行列のできるラーメン屋は、この地点からは徒歩10分くらい離れたマンションの2階にある。そこへは出かけたことがない。

夫婦してラーメンすする労働祭 坂本登美子
 
ラーメンの縮れさみしき十二月 篠塚千恵美
 
ラーメンに星降る夜の高円寺 清水哲男(1938-)
 
膝の荷が卓押す梅雨のラーメン屋 岡本眸

向い側にイタリアン。もう開店後2年くらい。一度覗いたが、満員で席がなかった。

 

栗を焼く伊太利人や道の傍(はた) 夏目漱石 明治三十四年

 

西瓜種子とばして弾むイタリア語 桂樟蹊子
 
晩秋やイタリア青きゲーテの地図 有馬朗人 天為

イタリアンの西側(駅側)は花屋。

利用した記憶がない。娘が誕生日などに送ってくれる花は、他の店から届く。

ラーメン屋の東に、蒲団屋。この店は古くからここにある。

他の店は新しい。

時計宝石店。時計のバンドや電池交換はここでやっているので、かなり長い付き合いである。秋祭りの折の神輿はこの細い道を通るが、その日曜日には律儀に店は閉じたままだが、

祝金を差し出すために遠方の自宅から出勤なさっている。

 

前の道は「津門の中道」で、我が家の家の前へ通じる道のはず。

ただ異説もある。

 

 

その東側、伊丹線の線路側の家は仕舞屋になっている。NTTドコモショップであった。

 

新設のショップは、青山ビル(喫茶青山一号館跡)へ移転。

今日は昼前にその店へ。待ち時間1時間。機種変更のため。夫婦2台のための更新、切り替えのため1時間以上。店を出たのは午後3時前だった。

 

大型タブレット形式のものは散歩同伴には厄介なので、電池が3日持つというarrowsに変更。

 

待ち時間の間、ワイフを店に預けて、周囲の店の画像を集めた次第。

↑駅構内から眺めた駅前。右のドラッグストアでは、液体歯磨きを買う。

千鳥屋の看板が見える。この駅前にしか千鳥屋がなかった時にはよく利用した。

今や阪急電車沿線のみならず、大坂中に支店がある。

さらに駅構内に近いところにドラッグストアの2階部分へ行く階段がある。

いまはワインバーのようだが、かつては呑み屋であった。

句会の後、電車を利用して帰る仲間たちと3次会(2次会は喫茶青山)をやり

番外句会を繰り返した。箸袋を割いて、出句短冊として利用した。

 

駅前で、市の郷土史研究会の会長さんに出会う。

豊中のホールで北条政子についての講演だとか。

 

早春

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庄下川沿いの叢で今目立つのはリュウキンカ。

 

その花以外ではスイバ。

 

2月のうちに最盛期を迎えるよう。

陽を浴びると、花も葉もきらきら光る。

 

川の左岸のごくわずかの区域内で大繁栄。

 

雀、鳩、椋鳥、カルガモ以外の鳥をみた。

 

 

↓は街角

 

 

桜草咲いてむかしの暴れ川 松本泰二
 
指組めば指が湿りぬ桜草 鈴木鷹夫
 
桜草たのしげに咲き増えにけり 高田風人子
 
カーテンと玻璃とのあひだ桜草 森田 峠
 
桜草砂場の鮫に子が消えて すずきりつこ
 
夜の部屋に日向の色の桜草 片山由美子
 
花びらにかくるる蕾桜草 倉田紘文
 
夜の部屋に日向の色の桜草 片山由美子
 
囲はれて桜草咲く河川敷 伊阪美袮子
 
咲きみちて庭盛り上る桜草 山口青邨
 
二鉢に競ひて咲けり桜草 手島知韶
 
桜草の鉢またがねばならぬかな 高浜虚子
 
わがまへにわが日記且桜草 久保田万太郎
 
風そよぐ田島ヶ原の桜草 新居さくを
 
引導の声のをさなし桜草 柢 太郎
 
桜草咲かせてあくまで女がいい 斉藤すず子
 
放課後の兎当番桜草 竹川貢代
 
位牌より遺影の親し桜草 塩谷はつ枝
 
桜草さくらより濃く野を染めぬ 沢 聰
 
桜草妻子が日射し惜しみつつ 橋本冬樹
 
子の机借りて文書く桜草 吉田とし子
 
一政の背文字太かり桜草 谷内田和子
 
起立する身の浮上感桜草 高島筍雄
 
まのあたり天降りし蝶や桜草 芝不器男
 
わがまへにわが日記且桜草 久保田万太郎
 
咲きみちて庭盛り上る桜草 青邨
 
桜草灯下に置いて夕餉かな 木歩
 
桜草かならずどれかふるへゐる 歔木
 
桜草の野に東京の遥かかな 風生
 
桜草の鉢またがねばならぬかな 虚子
 
まのあたり天降りし蝶や桜草 不器男
 
そはそはとしてをりし日の桜草 夜半
 
こどもの眼皆うららかに桜草 龍雨
 
見ゆるかと坐れば見ゆる遠桜 草城
 
ミシン踏む音に顫へて桜草 西村和子 夏帽子
 
行商の茶の風呂敷や桜草 日原傳
 
まのあたり天降りし蝶や桜草 芝不器男
 
武隈の松みせ申せ遅桜 草壁挙白
 
花摘みの稀に目こぼし桜草 手塚美佐
 
嫁のゐぬ日のさびしさの桜草 勝又一透
 
さらさらと水そゝぎけり桜草 飯島みさ子
 
桜草培ふ画師が娘かな 梅本塵山
 
寿ぎごとに患母涙ぐむ桜草 小原菁々子
 
フラスコの水美しき桜草 遠藤梧逸
 
嫁ぐすぐ妊るあはれ桜草 篠田悌二郎(1899-1986)
 
まのあたり天降(あも)りし蝶や桜草 芝不器男(1903-30)
 
桜草の鉢またがねばならぬかな 高濱虚子
 
海見ゆる窓に置きあり桜草 田中冬二 麦ほこり
 
吸呑みの水絞り切る桜草 蓬田紀枝子
 
桜草コツプにふれし匙の音 井上雪
 
桜草ポーチに風の少し出て 行方克巳
 
桜草身のうちも陽のさざなみす 小檜山繁子
 
桜草 棒パン呉れたは 竹中郁 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 花仙人
 
このところいゝことづくめ桜草 久保田万太郎 流寓抄
 
桜草にはかに雪となりにけり 久保田万太郎 流寓抄
 
町に住めば町に住んだ気桜草 久保田万太郎 流寓抄
 
わがまへにわが日記、且、桜草 久保田万太郎 流寓抄
 
雨音に心ゆるべば桜草 中村汀女
 
桜草のせてタイルの罅こまかし 横山白虹
 
まのあたり天降りし蝶や桜草 芝不器男
 
そはそはとしてをりし日の桜草 後藤夜半
 
桜草寿貞はそっと死ににけり 平井照敏
 
そはそはとしてをりし日の桜草 後藤夜半
 
まのあたり天降(あも)りし蝶や桜草 芝不器男

新築マンション

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新築のマンションの3階から我が家がどの程度覗けるか心配なご近所衆集合

 

ワンルームマンションではなかった。

2ルームあり、新婚家庭用。

2階のベランダから見た我が家

 

3階からだと我が家の屋根が見える

駅前の高層ビルも。

屋根を検索。驚いた500句以上。

屋根屋根に乳の香流れ春の月 原裕 『青垣』
 
屋根の影屋根に大きく藤の昼 中村斐紗子
 
屋根屋根の霧教会の塔へ行く 池内友次郎
 
暮遅き屋根を下りたる屋根屋哉 星野麦人
 
屋根屋根を余寒の雨の濡らしけり 道芝 久保田万太郎
 
北窓は屋根屋根夜のいわし雲 鍵和田釉子
 
屋根葺は屋根で凉の噂かな 炭 太祇 太祇句選後篇
 
屋根屋根に乳の香流れ春の月 原裕 青垣
 
屋根屋根はをとこをみなと棲む三日月 富澤赤黄男
 
藪入りのいづこも屋根の雪卸す 川上季石
 
西陣の屋根重なりて織始め 仁科翁童
 
食積や屋根の隙行く昼の雷 角川源義
 
屋根の上の火山灰掃く返り花 岡本 眸
 
漱石忌戻れば屋根の暗きかな 内田百
 
青竹で屋根押へたる追儺寺 細見綾子
 
焚火して小学校の屋根普請 栗田やすし
 
雪の晴舟屋の屋根に人のゐて 関戸靖子
 
屋根は大きな翼のごとく雪晴るる 成田千空
 
母恩遠し夜の霰は屋根駆けて 皆川白陀
 
熊笹屋根芋煮る匂ひよくこもる 熊谷愛子
 
屋根に木の実が降つてなんでも屋 細川加賀
 
屋根石に雨さだめなし秋蚕飼ふ 皆吉爽雨
 
屋根に帰郷の睡り茶立虫 桜井柳城
 
藁塚も屋根も伊吹の側に雪 橋本多佳子
 
台風来屋根石に死石はなし 平畑静塔
 
千木屋根に咲く捩花も神の国 岡部六弥太
 
屋根の上に草茂り居り薬草園 桂 信子
 
一八やはや程ケ谷の草の屋根 泉 鏡花
 
屋根も垣も網干し卯の花月夜なり 古賀まり子
 
屋根にある光陰や青楓 岡本差知子
 
三条の町や屋根覆ふ青胡桃 山口青邨
 
屋根の漆喰しるし仏桑花 堀 古蝶
 
屋根瓦こけづく里の夏書かな 室生犀星
 
鉛のごとき東京の屋根巴里祭 高島 茂
 
貴船茶屋屋根も屏風もみな葭簀 岩崎三栄
 
熊野路や屋根に石置く氷菓店 北野民夫
 
屋根石に降り込む木曽の桜しべ 小林鱒一
 
大寺の屋根に月あり蓮如の忌 成瀬櫻桃子
 
うらうらと屋根に日あそぶ壬生念仏 猿橋統流子
 
浄智寺の屋根替衆に鵯谺 肥田埜勝美
 
葺き替へて屋根石もとの位置に載る 橋本美代子
 
屋根替の藁全量を火となせり 中戸川朝人
 
屋根替の萱束ねあり能舞台 滝沢伊代次
 
屋根越しにマストのゆきき春炬燵 原田青児
 
大寺の屋根の起伏や春の雨 星野立子
 
貝寄風や屋根にかぶせて漁網干す 竹中碧水史
 
春の星触れむばかりに屋根の獅子 新田祐久
 
屋根の寺の門前鵯おどし 畔津 とみ
 
寺の屋根見ゆるところに萱を刈る 山本 千代
 
蝶一つ舞ひあがりゆくお屋根替 中村 千恵子
 
屋根替の雨となりたる雨やどり 本岡 歌子
 
初寅の屋根の宮まで火のつゞく 磯崎 緑
 
屋根を歩く鎌倉雀かな 高柳重信
 
望遠鏡不倫の屋根に狙はるる 一田玄之介
 
きようのジャム屋根のむこうに大陸 末氷通子
 
肉親に没日の屋根は一個なり 奥山甲子男
 
幸うすき人と霜夜の一つ屋根 林 翔
 
屋根明るむUFOでなく旱星 安西 篤
 
屋根の右から海動き出す真夏 森田高司
 
山小屋の屋根に敷詰め夏布団 秋田裕弘
 
出水あと屋根よりおりて居ずなりぬ 鈴木六林男
 
をだまきや女流詩人の屋根の下 原 裕
 
海棠の明かりや寺の屋根までも 滝沢伊代次
 
うそどりが鳴いて夕べの兜屋根 斎藤夏風
 
屋根替の男に梯子とどきけり 黒田杏子
 
屋根替の人くろぐろと跳ぶごとし 冨田正吉
 
家刀自へ深辞儀をして屋根葺けり 杉 良介
 
屋根替えや色変りゆく土佐の海 岩井久美恵
 
屋根替の大鍋畑に据ゑにけり 小原啄葉
 
曲り家の屋根の曲り目鳥ぐもり 能村登四郎
 
屋根替の大いなる北負ひにけり 波多野爽波 『一筆』以後
 
茸狩の帰り着きたる月の屋根 波多野爽波 『湯呑』
 
霜の朝一つの屋根に一つの陽 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』
 
鳥渡る辛抱づよき農の屋根 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』
 
翼あらば秋金閣の屋根に触れむ(三月、生母(より)死す。納骨) 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』
 
屋根替の唄降つてくる青木の実 柴田白葉女 『月の笛』
 
母の星屋根にとどまる霜庇 柴田白葉女 『冬泉』
 
屋根も秋父嶺も梅雨腐つかな 小林康治 『玄霜』
 
うぐひすや推古のひかり藁屋根に(飛鳥路三句) 河野南畦 『風の岬』
 
恋猫が屋根に居るピアノを叩く 加倉井秋を 『胡桃』
 
天といふ大きな屋根のうららかに 上村占魚 『かのえさる』
 
屋根に日のおごるあり利休の忌(三月廿八日利休忌三句) 『定本石橋秀野句文集』
 
月の出の露が溢れる妻子の屋根 飴山實 『おりいぶ』
 
屋根屋去り梅雨晴の空残りけり 阿部みどり女 『石蕗』
 
極月や葺きいそがせし屋根瓦 川越寛子
 
屋根石のふえて番屋の冬構 篠田悦子
 
街中の茅葺屋根に初しぐれ 癸生川昭
 
橡の実の屋根打つ音に覚めにけり 平岡喜美子
 
雨しげく屋根打つ夜のとろろ汁 佐藤仲子
 
坐り良き屋根石蒼し十三夜 田原口秋峰
 
秋晴や竝べ替へたる屋根の石 村上鬼城
 
わら屋根に影やはらかく竹の春 玉澤淑子
 
満月の屋根に子の歯を祀りけり 福田甲子雄
 
屋根石に雨さだめなし秋蚕飼ふ 皆吉爽雨
 
あかつきや蟀なきやむ屋根のうら 芥川龍之介
 
暁紅に露の藁屋根合掌す 能村登四郎
 
蜩や藁屋根小さき仁王門 遠藤梧逸
 
秋来ると町屋根越しの白マスト 野沢節子
 
屋根ごとに魔除獅子置き仏桑花 轡田 進
 
ポカポカと雲浮く屋根の花糸瓜 富田木歩

雪見旅行に出発。出石泊

 

 

 

 

皿蕎麦

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皿蕎麦と言えば出石。

 

いつの間にか豊岡市に編入されたらしいが、

「町役場」といった標石はそのまま。

 

ここまで書いて画像を取り込みにかかったら

カメラの設定が「auto」から設定がずれていて、

すべて3MB以上。

 

以前は簡単に縮小できたのに、うまくいかない。

 

「こうのとり」号に乗って出石を往復するのは今回が初めて。

バス旅行で北近畿方面へ出かけると

出石で休憩したことはたびたびあるが、

 

今回は2日間出石市内を探訪。

 

 

画像は25日撮影のもの。

はこべらにもいくつか種類がある。

 

 

 

 

花ミモザ

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あと1週間か。例年より早い感じ。ミモザ。

生け花用にはこの程度のものが売りだされている。

大衆の衆が見えない花ミモザ

 

太陽の季節衰え二月尽

 

「月尽」は誰が使い始めたのか、最初は「二月尽」だけが季語化され、

次に「九月尽」が季語に加わった。

今ではほぼどの月でも利用可。

でも「一月尽」「四月尽」「五月尽」「六月尽」「七月尽」「一〇月尽」「一一月尽」は見た記憶はない。「歳晩」なる言葉があるので「一二月尽」も。

ミモザ咲きたる町に母住める 山内 二三子
 
曇天や塀に重たき花ミモザ 高井 邦子
 
かじかみて気ものらぬまま花ミモザ 落合よう子
 
ミモザ私に抗ヒスタミンの睡魔 尾田明子
 
黄色ミモザ手動筆記(マニュエリスム)の猫は逃げた 木村聡雄
 
ミモザ雨雲ながら夜明けたり 宮津昭彦
 
父と子にミモザの風の黄なりけり 小島千架子
 
野外劇はじまるミモザ降る下に 星野立子
 
喪の花環ミモザをはじめ既に萎ゆ 山口誓子
 
若者をつゆ見ぬ島の花ミモザ 尾熊靖子
 
発声の音域ひろがるミモザの午後 田村千代子
 
ミモザ少女の黒き乗馬服 鈴木寿美子
 
あいまいな地中海へとミモザの火の手 夏石番矢
 
惜しみなき愛の畢りや花ミモザ 黒鳥一司
 
祝婚やミモザのもとに咳こぼし 石田波郷
 
ミモザ咲き海かけて靄黄なりけり 水原秋櫻子
 
昨日より元気な富士山や花ミモザ 堤 保徳
 
野外劇はじまるミモザ降る下に 星野立子
 
喪の花環ミモザをはじめ既に萎ゆ 山口誓子
 
葬りを終へてミモザの只中に 仙田洋子 橋のあなたに
 
祝婚やミモザのもとに咳こぼし 石田波郷
 
ミモザ咲き海かけて靄黄なりけり 水原秋桜子
 
喪の花環ミモザをはじめ既に萎ゆ 山口誓子
 
ミモザ咲き地球は青いとは言へず 後藤立夫
 
ミモザ港にクイーンエリザベス 佐土井智津子
 
城下町茶房も遺跡花ミモザ 嶋田摩耶子
 
シャガールは会ひ得し人よミモザ咲く 嶋田一歩
 
ミモザ溢るるごとき明日はあり 佐藤美恵子
 
水平線見えぬ午後なり花ミモザ 景山薫
 
ミモザ雨の冷あるペン使ひ 前田陶代子
 
ミモザ雨雲ながら夜明けたり 宮津昭彦
 
遠くよりミモザの花と見つつ来て 稲畑汀子
 
針攻めの仮縫をはる花ミモザ 朝倉和江
 
北海を見し夜のミモザ束で挿す 伊藤敬子
 
神の国近しミモザの咲ける丘 稲畑汀子 汀子第三句集
 
逢ふたびのミモザの花の遠げむり 後藤比奈夫 花匂ひ

カレンダー捲ればノースポール威張りだす

↑どういうわけか、このかばん屋の画像のみKB水準で取り入れ可能。

他の画像は、すべて「ダイジェスト動画」形式になっていてブログへはアップできず。

ワイフのスマホ画像を借りて明日以降紹介。

肺炎で入院の報あり。

 

難波の梅

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難波熊野神社の梅まつりは3月5日。

 

既に紅白幕は準備完了

↓がメインの枝垂れ梅。5日頃が

境内はさほど広くないが、「正門」から「裏門」へ車が通り抜けることができる。

難波熊野神社は、西難波村の神社で、

東へ徒歩5分いないのところに東難波村の難波八幡神社がある。

 

東西の難波村は立花村に編入されたが、

現在の阪神尼崎駅や出屋敷駅に近いこともあり、

2村だけ立花村から離脱して尼崎町と合併、尼崎市が生まれた。

1916年。今から101年前。

 

尼崎八幡神社。

尼崎市の66社全部を画像に収めるつもりが、

昨年の初めまでに46社か47社を訪問。

その後は、散歩道がルーティン化され、残る20社にはなかなか出会わない。

 

この八幡神社は今日が初めての訪問。

47社目か48社目。

私にとっての目玉は、亀文さんの句碑

雪を見て又豊年か村の梅

 

談林俳句だから、「裏」があるかもしれないが特にうまい句というほどでもない。

彫られたのは昭和8年。城周辺の橋桁の石のようである。

 

亀文

尼崎郷土史事典アペディア;

 1742年(寛保2)5月26日 - 1805年(文化2)12月10日

 

  尼崎藩主松平忠告の俳号。忠告は若くして、大坂鰻谷の商家に生まれ、のち江戸談林七世となった谷素外に師事して俳諧を学んだ。18世紀後半ころから俳諧に嗜みをもつ大名も少なからず出ている。

 

本多清秋(伊勢神戸藩主)その子其香、松平不昧(出雲松江藩主)その子露滴斎、不昧の弟雪川、酒井忠仰(播磨姫路藩主)の子抱一、真田菊貫(信濃松代藩主)、酒井凡兆(出羽庄内藩主)などがその例である。亀文とこれら大名との交流については詳しくは知られない。

 

亀文は書画も巧みであったと伝えるが、俳人としての亀文の作品は1774年(安永3)師素外が編んだ『俳諧名所方角集』に早くみえる。

 

松平氏の江戸下屋敷(本所深川新大橋東)内の池は芭蕉の名句「古池や蛙とびこむ水の音」ゆかりの古池とされ、『俳諧名所方角集』には素外の「古池や蛙若やく庭の艸」などこの古池にちなんで作った句のなかに「古池の昔語となく蛙」という亀文の一句ものせている。亀文の作品をのちに集めて編んだ句集『一桜井発句集』がある。『一桜井発句集』は二世桜井亀幸を号した忠告の嗣子忠宝が、亀文生前の句のなかから159句をえらび、四季に類別して編み、91歳の素外の跋を付して1822年(文政5)に刊行したものである。

 

この辺り一体は梅林だったらしく、梅の字がつく地名が多い。

梅干しの産地だったのか?

 

八幡神社境内には梅の木はあまりない。

↑画像の右端に見えるポールは戦艦「榛名」のマストらしい。

最初は武庫村へ払い下げられたよう。帰宅後ネットで知った。

 

海底の戦艦を発つ黒揚羽 高野ムツオ 雲雀の血
 
戦艦描く鉛筆をまた十本削り 五十嵐研三
 
戦艦が沈んでゆきし夜長かな 大口元通
 
まぼろしの戦艦ゆけりさくら貝 白岩 三郎
 
戦艦の如く冬雲進みけり 本居三太
 
戦艦は海底にあり黄砂降る 大庭紫逢

翼賛会俳句は収録されていないので、別途検索しないと戦争昂揚俳句中の戦艦は見つからない。

 

梅の木公園の梅

 

熊野神社の裏門を出るとすぐ公園。

そこにも梅の木

20本ほどだが枝ぶりみごと

今日もまた郷土史研究会の会長さんと出会った。

市役所周辺からバスに乗ってこられた。

 

 

 

 

 


ビデンス

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ウィンターコスモスなどの総称がビデンス。

ヤサシイエンゲイの説明

 

世界中に約230種が分布するキク科の草花で一年で枯れてしまうものと毎年花を咲かせるものがあり、日本でもセンダングサなど6種が自生しています。現在栽培されているものは、主にフェルリフォリア種とラエビス種の2種です。

ウィキペディアのセンダングサ属についての解説:

 

センダングサ属(栴檀草属、学名Bidens)は、キク科の1属である。日本ではごく普通に見られる雑草で、種子が衣服につく、いわゆるひっつき虫のひとつである。国外では観賞用のものもある。

 

欧米では、ビデンスといえばかわいい花を連想するらしい。

 

リュウキンカ

 ウィキペディア

 

リュウキンカ(立金花、学名:Caltha palustris var. nipponica)は、キンポウゲ科リュウキンカ属多年草

 

学名に「日本」がついている。

熊本県球磨郡あさぎり町では町花とされ、町の天然記念物に指定されている。日本においては本町が自生の南限と言われている。

 

花期は5-7月となっている。

庄下川では今が盛りだが。

 

根出葉は長い葉柄をもって束生し、葉身は心円形から腎円形で、長さ、幅とも3-10cmになり、縁には低い鈍鋸歯を持つ。は直立し、花茎の高さは15-50cmになる。茎は中空で、茎葉は茎の上部につき、根出葉に似るが小型になる。

 

 

花期は5-7月。茎の先端および葉腋から長い花柄を伸ばし、径2.5-3cmの黄色いをつける。花弁はなく、花弁に見えるのは萼片で、ふつう5枚、ときに6-7枚ある。雄蕊は多数あり、雌蕊は4-12個ある。果実袋果となり、長さ1cmになる。は白色でヒゲ状になる。

 

茎が直立し、黄金色の花をつけることから立金花と呼称されるようになった。

 

花言葉は「必ず来る幸福」。属の学名となっているCalthaラテン語で「強い匂いのある黄色い花」という意味を持つ。

 

紅花のマーガレットにはいろいろ品種名があるよう。

 

花屋の店頭で。これ↑にはウォーターメロンという名札が付いていた。

ネットでみると↓の画像には、マーガレット:モリンバ ヘリオウォーターメロンという名が記されている。

マーガレット:モリンバ ヘリオウォーターメロン4.5号鉢植え

全く同じものかどうか、よくわからない。

 

マーガレット東京の空よごれたり 阿波野青畝
 
マーガレット何処にも咲いて蝦夷も奥 高浜年尾
 
陶乾くマーガレットの風たえず 江口竹亭
 
風眩しマーガレットの果は海 水田むつみ
 
フアウストのマーガレットに又会ひし 星野椿
 
マーガレットそれより白き産着干す 対馬康子 愛国
 
子の瞳マーガレットに囲まれて 山下亜紀
 
蝦夷に咲くマーガレットは野の花よ 稲畑汀子

この花もよく見かけるようになった。

ポリガラ・ミルティフォリア。

ポリガラといえば、これを指すよう。

 

 

 

街角

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町角のイタリア国旗梅雨明ける

 

という句を作ったことがある。

 

それから5年(?)、今では我が最寄り駅のような、郊外の

並の私鉄駅駅前周辺でもイタリア国旗を掲げる日本人シェフのイタリアンは

ありふれた風景の一部である。

 

駅の南改札口を出て真直ぐ南下、徒歩5分のところにアメリカ国旗を掲げる店がある。

国旗そのものはかなり古びている。

アメリカ国旗は今でも町角風景としては希少で、

大阪梅田、中之島界隈(アメリカ領事館も近くにある)、神戸三宮元町界隈では

みたことがない。

 

中華料理店は神戸でも大阪でもかなり多いが、台湾旗や中国国旗を掲げる店は見たことがない。

 

駅周辺めっきり増えた店の一つが処方箋受付調剤薬局。

一医院に1調剤薬局が対応している感がある。

 

↑切符自販機。 これは今日初めて見たものだが、駅の東西南北に合わせて5機以上設置されている。私鉄専用だからそう高額切符はない。せいぜい10円か20円の節約にしかならないが、機械を設置して利益があがるということはかなりの利用者があることを意味する。

 

大阪や神戸の都心では大きな交差点の4つの角に軒を接するように有人のディスカウントチケット・ショップがあるが私鉄沿線の途中駅の駅前に自販機コーナーが目立ちだしたのはここ2年以内である。

 

隣りに設置されているペットボトルの自販機も場所を提供した店主(地主)の受け取り額は、

光熱費が自己負担の為多くはないと聞いたことがある。

 

壊す人が少ないため、この種の自販機の多さは、それじたいが観光資源化しているようでもある。

 

最寄駅から10分以上離れると公共農園がいくつか存在する。

↑は抽選で、耕作権が一年ごとに更新される農園ではないよう。

市立の女子学園の正門ちかくにある。

そこから西をみると正門が見える。

 

畑の前の家は、建て替わったのか豪邸風。

この程度の家は珍しいとは言えないが、前庭部分が広い。

庄下川沿岸を覗いて帰宅。

 

日がかげるとキンリュウカの花を閉じる。

 

その近くで黄水仙

泥水に洗われた気配があるが、ヒメオドリコウ。

スイバ

 

ギシギシとの区別はまだ良くわかっていない。

 

イヌフグリ

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Wikipediaで「オジギソウ」を検索。

 

オジギソウ(お辞儀草、含羞草、学名Mimosa pudica)とはマメ科ネムノキ亜科[1]の植物の一種。別名ネムリグサ(眠り草)、ミモザ

なお、ミモザは本来オジギソウの学名に由来する植物名であるが、現在の日本語ではほぼアカシア類の花を呼ぶ名としてのみ使われていて、これは本来は誤用である。種小名のpudicaはラテン語で「内気な」の意味。

 

ではこの樹は何と呼べばいいのだろう。

 

アカシア類といえば確かに、オーストラリア原産の感じはする。

 

ウィキペディアで「ミモザ」を検索

 

ミモザ: mimosa、: Mimose)

オジギソウ

フサアカシア

フサアカシアと呼ぶのがいいようである。

「フサアカシア」を検索

 

フサアカシア (Acacia dealbata) とはマメ科ネムノキ亜科[1]の常緑高木。ミモザとも呼ばれるが、本来ミモザはオジギソウを指す言葉である。

 

ギンヨウアカシア

ギンヨウアカシア (Acacia baileyana) とはマメ科ネムノキ亜科[1]の常緑高木。別名ハナアカシアミモザとも呼ばれるが、本来ミモザはオジギソウを指す言葉である。

オーストラリア原産。花期は3月頃で総状花序に黄色の花をつける。葉は名前の通り銀色を帯びている。

よく似た仲間に同属のフサアカシアがある。

 

たしかに日本で今ミモザと呼んでいる樹は、銀葉である。

 

ともかく3分咲き、5分咲きの「ミモザ」を観察するのは今年が初めてである。

 

↑この樹が植わっている家の横は、近隣公園。

イヌフグリが咲き始めた。

なぜイヌフグリと呼ばれるのか?。もうちょい優雅な別名はないのか?

①については、種が二つ対になって実るから。なぜイヌなのか?

植物でイヌが付くと、食用不可の意味になる場合が多い。犬のふぐりは青い?

 

イヌノフグリ(犬の陰嚢、学名Veronica polita var. lilacina)は、オオバコ科[3]クワガタソウ属越年草

和名の由来は、果実の形状が雄犬の「フグリ」、つまり陰嚢に似ていることから、牧野富太郎が命名した[4]

 

牛洗うフグリに至り牛笑う

フグリを詠った句で忘れ得ぬ句。因島の寺の住職であった人の句。

 

「俳誌のサロン」  でイヌフグリの句100句閲覧可能。

 

ハコベラも

繁縷(はこべら)の気安く踏まれデモ果てる

 

↑旧作

 

ハコベ(繁縷、蘩蔞)とは、ナデシコ科ハコベ属Stellaria)の総称のこと。単にハコベというときは、ハコベ属の1種であるコハコベのことを指す場合が多い。コハコベは越年草ハコベラとも呼ぶ。春の七草のひとつ。

 

背の低い草本で、一年草越年草または多年草は株状になるか1本立ちになり、よく枝分かれして密集した群落を作る。茎には節があり、節ごとにを互生する。葉は扁平で、茎の下部に葉柄があるものと無いものがある。集散花序か茎先や葉腋に単生する。萼片は5個。花弁は白色まれに緑色で5弁であるが、根元近くまで深く2裂するものがあるため、一見では10弁に見える。まれに花弁が退化して無いものもある。雄蕊はふつう10個。花柱はふつう3個。果実蒴果でふつう6裂する。

世界に約120種あり、日本には約18種ある。

 

日本に18種あるそうな。「約」付き。

 

たしかにハコベといっても何種かあるのは、素人でもわかる。

コハコベよりさらに小型のものも近所でみかける。

 

 

高山右近

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白波の聖者行進夏来る 上田日差子
 
野に逢ひて聖者のごとし毛皮人 井沢正江
 
秋燕や聖者に似たるホームレス 春山道代
 
スランプや聖者の貌の羽抜鶏 浅沼眞規子
 
彫刻の森林浴の聖者・裸婦 倉本 岬
 
鮟鱇の聖者のごとく吊られけり 三谷 和子
 
釣瓶落しのいまはのひかり聖者らへ 築城百々平
 
野に逢ひて聖者のごとし毛皮人 井沢正江
 
白波の聖者行進夏来る 上田日差子
 
聖者の訃海鼠の耳を貫けり 前田普羅
 
山羊の貌つくづく聖者めく冬陽 中村苑子
 
牡丹雪聖者の胸を飾りけり 朝倉和江
 
蝙蝙はぼろ着の聖者なり日暮 佐藤鬼房 潮海

 

 

曲がりなりにも戦国大名。

高山右近。

聖者認定。

奇跡一つの段階で福者

↑高槻教会(旧の高槻城内)の庭に建つ。

 

私の友人(後輩)の息子。

名古屋にいて、PC周辺機や部品購入のため、中学時代から新幹線で大阪まで出かけていた。

名大病院の医者が匙を投げる病に倒れ、半身不随になり、

中学をなんとか卒業したものの、車椅子生活。

何かしらソフトを開発、会社を興し、車椅子で営業。

 

両親と一緒にルルドへ巡礼。

帰りは車椅子が不要になっていた。

明らかに奇跡が起こった。

 

カトリック教会はこれを奇跡と認定しない。

認定申請を出すと、過去の病歴と奇跡内容を徹底的に調査する。

しかし多大な時間と費用と不愉快が伴うので、一般人の申請はない。

 

高山右近の場合は、

 

教会の門内、右近像に向かいあうように碑が立っている。

1946年に建立された、高山右近列聖申請(請願)記念碑。当時の司教の名が記されている。

実に70年後になって奇跡一つが認定され、福者に。二つなら聖人認定。

先日、大阪、東京でローマからの使節を迎え列聖記念式典が行われた。

大阪の会場は、大阪城ホール。一般新聞も1万人の集会を報じていた。

↑城内公園に建つ右近像。

右近の先祖・家族・子孫  HPからの引用。

一説によると右近の先祖は、今の滋賀県甲賀郡水口町高山まで溯ることが
できると言う。ここに古くから藤原の姓を名乗る一族が居住し、後に高山と
名乗るようになった。
 その子孫、高山源太左衛門は長亨の乱(1487年)に戦功があったため
甲賀五三家の一つに数えられている。その高山家の支流が摂津の国高山(現
在の大阪府三島郡)に城を構えたとされ、右近はそこで産まれた。甲賀五三
家には、後の高槻城主で右近と親しかった和田惟政の先祖もいる事実はこの
説を裏付けるものであろう。

 別の説では、桓武平氏平重綱の子高山二郎重遠を祖とする系図がある。同系図
によれば、『太平記』には高山遠江守の名が記され、新田十六騎の一人であった。
越前守範重なる人物は武蔵野合戦(1352年)で将軍足利尊氏方に属して功があり、
上野国那波郡のうちに所領を賜った。その子孫重利(右近の祖父)が摂津国茨木に
移住したとされる。

 一方、摂津高山の豪族が、実権を握って領主になった際、当時の慣例によ
り、その地名を自分の姓としたとも考えられる。

 摂津において高山の名が現れるのは、15世紀半ばである。高山氏は勝尾
寺(現在も大阪府箕面市に現存する。)の代官であった。勝尾寺の記録によ
ると、1458年に「高山入道」という代官がいた。この領地をめぐって、
寺と高山氏の確執が続き、ついに高山氏が権力を握った。

★右近家族

右近の妻の父は、フロイスの書簡に余野の「クロード氏」と書かれているだけで
「黒田氏」と解釈されているが、日本側の資料には、余野に黒田という家系
は無い。フロイスによると、右近の父の勧めにより一族でキリシタンになった。

右近の子供については、資料が少ないので不明な点が多いが、イエズス会資料によると
1575年に長男十次郎(洗礼名ジョアン)が生まれ、その後生まれた3人の子供が幼くし
て亡くなり、1587年に娘(ルチア)が生まれている。
十次郎は結婚して5人の子が生まれているが、1608年に十次郎夫婦共に亡くなり、子供た
ちが残され、右近らに育てられたようある。
娘ルチアは加賀の横山康玄に嫁いだが、伴天連追放令が出てから離縁して右近らと行動を
共にした。
長男以外の息子については上述のようにイエズス会資料では死亡したことになっているが、大分在住の右近
の子孫に伝わる家系図によると、右近が加賀に追放されたとき、幼い息子助之進が大友義統に
匿われ生き延びたとされる。

↑高槻教会内右近会館の壁のレリーフ

 

右近の子孫

 

現在、高山右近の直系の子孫は、石川県の能登半島の羽咋郡志賀町の高山家 と、大分市の
高山家がある。右近がマニラで亡くなった後の1616年、妻とルチアと孫のひとりが帰国し
ていることが ロドリゲス神父の書簡に記されているが、この孫(長房)の子孫が石川県志賀町に
ひっそりと住み着き、現在の志賀町代田の高山家の祖先となったという。高山家に伝わる掛け軸
に、”高山右近孫長房”と記されている。
子孫はある時期は迫害のためか北海道に移住したようだが、大正初めに再び志賀町に戻った 。

 一方、大分市大在にある1802年の碑文には、右近の次男亮之進(助之進)が、大友義統
(キリシタン大名であった大友宗麟の子)にかくまわれ、その子孫が大分の高山家であると記されている。
 (現在その碑は大分市の舞子浜霊苑に移されている。)
昭和12年、片岡弥吉教授が、元大分市長の高山英明氏の系図を発見して、亮之進の子孫で
あることを確かめた。同時に高山南坊の塔を発見、そこには

”曩祖(のうそ)摂州 高槻城主 高山右近太夫長房塔”

と記されている。

Wikipediaによる高山右近

経歴の部分:

 

高山氏摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。父の友照が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀にしたがって大和国宇陀郡沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城とした。

 

 

そうした中、右近は天文22年(1553年)に友照の嫡男として生まれた。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄6年(1563年)に10歳でキリスト教洗礼を受けている[3]。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。右近はジュストの洗礼名を得た(父の洗礼名はダリヨ、母の洗礼名はマリア)。

 

 

永禄7年(1564年)、三好長慶が没すると三好氏は内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津においても豪族の池田氏伊丹氏などが独自の力を強めつつあった。

永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下、足利義昭が15代将軍となると状況は一変。義昭は摂津の土着領主の一つである入江氏を滅ぼすと、直臣である和田惟政高槻城に置き、彼と伊丹親興池田勝正を加えた3人を摂津守護に任命した(摂津三守護)。高山父子はこの和田惟政に仕えることとなった。

 

 

元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重中川清秀の軍に敗れて討死し(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏を乗っとる。村重は信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。こうして摂津は石山本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、村重の領有となった。

 

 

和田惟政の死後、高槻城はその子・惟長が城主となったが、まだ17歳だったため、叔父の和田惟増が彼を補佐していた。しかし惟長は何を思ったのか、この叔父を殺害してしまう。これにより高山家が主だった相談役となったが、これを良く思わない和田家臣たちが、惟長に高山親子の暗殺を進言した。高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届いた。友照はこの事を村重に相談、村重は「もしそうであるなら殺される前に殺すべきだ。自分は兵をもって援助する」と言い、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えた。

 

 

元亀4年(1573年)3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出した。高山父子は仲間から呼び出しが罠だと聞かされたが、14~15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いになった。夜だった上に乱闘で部屋のロウソクが消えてしまい、真っ暗になったが、右近は火が消える前に惟長が床の間の上にいるのを見ており、火が消えるとすぐさま床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも惟長に二太刀の致命傷を負わせた。だが、騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣達が加勢すると、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ、右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまう。およそ助かりそうにない傷だったが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになった。一方、惟長は輿に乗せられて家族や家臣たちと和田家の生国・近江国甲賀郡へ逃れたが、同地で死亡した[注釈 3]

 

 

この事件の後、高山父子は荒木村重の支配下に入った。村重は既に信長から摂津一円の支配権を得ていたため、この事件は問題にされることもなく、高山父子は晴れて高槻城主となることができた。2人はまもなく高槻城の修築工事を行い、石垣や塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れた。

 

 

友照は50歳を過ぎると高槻城主の地位を右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになった。この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けた。父の生き方は息子の右近に大きな影響を与えた。

 

教会の隣の神社でも今日はお祭り。

 

高槻教会には信者であった青畝の立派な句碑がある。

磔像の全身春の光あり

 

結社かつらぎ集団は、あちらこちらに句碑を建てまくっている。

(とはいえ他で見た記憶があるのは、生田神社内、須磨離宮公園内)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

炊事班長

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工兵第4連隊について詳しいブログから

 

明治40(1907)年9月、師團増設による師管區の改正により工兵第四大隊の京都からの移転が決定、大阪府三島郡高槻町(現、高槻市)が同じく誘致運動を行っていた和歌山市を制し、工兵第四大隊の誘致に成功、高槻町は工兵營・衛戍病院・練兵場用地を住民の寄付により準備、陸軍省に献納します。

8月7日、臨時陸軍建築部大阪支部高槻出張所を高槻町に設置、明治41(1908)年初旬、兵営の新築が開始され、明治42(1909)年3月、新兵営が竣工し、伏見から工兵第四大隊が移転してきます。

昭和11(1936)年5月、平時編成が改定され工兵第四大隊は工兵第四聯隊に改編されます。

昭和12(1937)年4月26、第四師團の滿洲駐箚に伴い工兵第四聯隊留守隊(昭和15年7月1日、補充隊に改称)が編成、昭和17(1942)年6月12日、工兵第四聯隊・同補充隊に復員下令、7月20日、聯隊は高槻の兵営に凱旋します。

昭和18(1943)年10月5日、工兵第四聯隊のスマトラ島出征後、工兵第四聯隊補充隊が編成、昭和19(1944)年4月6日、工兵第四聯隊補充隊は工兵第四十四聯隊に改編、7月6日、工兵第四十四聯隊が動員されたため、再び工兵第四聯隊補充隊が編成されます。
昭和20(1945)年2月28日、工兵第四聯隊補充隊に復員下令、大阪師管區工兵補充隊が編成され、8月15日、停戦を迎え、9月22日、大阪師管區工兵補充隊は復員完結します。

昭和21(1946)年、兵営は戦災により校舎を失った大阪外事専門学校(後、大阪外国語大学、現、大阪大学外国語学部)が使用しますが、昭和32(1957)年4月、天王寺区の新校舎に移転します。
高槻市の払下げ要求により、兵営跡は高槻市に払下げられ高槻市立第一中学校、教育研究所、母子寮、公園に、練兵場は府立島上高校(現、槻の木高校)、市民運動場、市民会館(現、現代劇場)になり現在に至ります。

 

高槻城内

工兵第4連隊

伊丹三樹彦は兵庫県工建築科出身

卒業後神戸市役所の営繕課へ就職。昭和15年20歳。第1乙種合格で

翌年高槻工兵隊へ

衛門が残っている。三樹彦は軍曹になってここに赴任し、文房具係(陣営具係)だったが衛兵当番は回ってきたようである。

煉瓦の門柱も当時のものである。

その奥に営舎があった。今は学校になっている。

以来、招集解除まで炊事班長であった。

誰(た)がわざや天衣(てんね)あかるむ花菜など

 

その頃休日に奈良を訪ねて詠った、若き三樹彦の代表作である。

 

秋に蒔いたノースポールは

プランターで蔓延ってきたが、

ロベリアは

いまだこんな状態。

ノースポールは近所でも珍しくないが、ロベリアは園芸店でも花付きの株は売られていないが、それにしても遅々たるもの。

 

奇妙に明るい時間衛兵ふやしている 阿部完市
 
リラ冷や衛兵は眉動かさず 森田 峠
 
薫風や衛兵交代整然と 築谷暁邨
 
まばたきもせで衛兵や片蔭に 嶋田摩耶子
火の酒を雪国の遠き連隊へ 仁平勝 花盗人
 
連隊は祖父とあやめを置き去りに 宇多喜代子

 

 

右近の像

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実に冴えないロベリア

 

 

玄関をでると目の前に干し物が。

101号室に住人が

302号室も契約済の噂なれどまだカーテンの設置もないよう。

 

草じらみつけての二人来る 前山 百年
 
鉦叩あらぬのたちそめし 吉本 信子
 
蜜豆やの人の遅れ来し 浅田 伊賀子
 
春めくや人のを尼もする 小林 千代子
 
頬被付け火のしてゆけり 茨木和生
 
顔見世のも遠し嵯峨ずまひ 大島民郎
 
身ごもりし鱒に重たきかな 笠原千佳
 
葱坊主越しに伝はるかな 波多野爽波 『鋪道の花』
 
頬被人のに裏ありて 道川虹洋
 
甚平着て人のの渦の中 青木重行
 
売られたるの畑青し 野崎加代子
 
嫁取りのや牡蠣を割りながら 小西 藤満
 
黄落や人のも降るやうに 隈元いさむ
 
秋風やひとののつつ抜けに 牛山一庭人
 
日盛や人のに口あはせ 馬場移公子
 
にも立派な尾鰭万愚節 西川五郎
 
初桜とびかふ恋のかな 仙田洋子 雲は王冠
 
柿食ひて恋のを聞き流す 仙田洋子 雲は王冠
 
河豚に死にしの人に逢ひにけり 関谷嘶風
 
藪入に来て居る聞えけり 中村汀女
 
借りかけし庵のや今日の菊 丈草
 
おぼろ夜や本所の火事もぎり 蛇笏
 
文字摺やも立たぬ山住ひ 五十嵐哲也
 
東京の妬まし春の風邪 西村和子 かりそめならず
 
初桜とびかふ恋のかな 仙田洋子
 
春の闇がうしろ通り過ぐ 谷口桂子
 
生き埋めはまだ生きてゐるかな 筑紫磐井 花鳥諷詠
 
火桶して式部の戀をかな 筑紫磐井 野干
 
きくばかりの三社祭かな 甲斐すず江
 
春の蚊のほどなる声曳きて 野沢節子
 
草餅や故郷出し友のもなし 寺山修司
 
春の雪ふはりときえてゆく 星野芋秋
 
わが知らぬ三月風に昏れ 伊藤京子
 
年忘の主も参じけり 荒井正隆
 
ひろごるごとまひまひの水輪かな 吉野義子
 
とりどりののなかの西日かな 龍岡晋
 
茄子苗を抱へて持ち歩く 廣瀬直人(1929-)
 
其のちの聞きたしさくら餅 高浜年尾(1900-79)
 
鮎は瀬に人はの淵に住む 佐藤春夫 能火野人十七音詩抄
 
黒船のも知らず薄荷摘み 芥川龍之介 蕩々帖〔その一〕
 
山鳩もも遠くみぞれけり 三橋鷹女
 
冬木立鳥ももきらきらす 原田喬
 
顔見世のも遠し嵯峨ずまひ 大島民郎
 
愉しき七面鳥へ流れる母国の 和田悟朗
 
母と妻街のを桜餅 深見けん二
 
白桃にの顔をして来たり 小檜山繁子
 
めつむりて花のを聴きゐたり 村越化石
 
屋根葺は屋根で凉のかな 炭 太祇 太祇句選後篇
 
過ぐ時雨のすぐる如くにも
 
雁ごや~おれがを致す哉 一茶 ■文化九年壬甲(五十歳)
 
懸想文売は知らねどその 後藤夜半
 
たばこ吸ふ人のや蜆とり 游刀 俳諧撰集「藤の実」
 
借りかけし庵のやけふの菊 丈草 芭蕉庵小文庫
 
咳気声や世間の衣がへ 安昌 選集「板東太郎」
 
乳母共の食のや夕すずみ 毛* 六 月 月別句集「韻塞」
 
黒船のも知らず薄荷摘み 芥川龍之介
 
わが死後のとかくのいわし雲 山口草堂
 
母と妻街のを桜餅 深見けん二
 
老い母はの泉柿の秋 草間時彦
 
借りかけし庵のやけふの菊 内藤丈草
 
絵仏に見ゆる古びを梅 斯波園女

 

 

春の新芽  トキワマンサク

ヤマツツジのつぼみも

オオキバナカタバミ

 

梅林

梅林梅林へ私は裏山へ 『定本阿部みどり女句集』
 
梅林に懶惰の風の棲みつける 中原道夫
 
炭を焼く煙いちにち梅林へ 宮田正和
 
梅林に寒肥了へし土乱れ 加藤風信子
 
梅林に干大根の痩せてをり 高木晴子
 
月ひかりだすまでゐたり梅林 飴山 實
 
立派なる厠を持てる梅林よ 波多野爽波 『一筆』以後
 
梅林の真中ほどと思ひつつ 波多野爽波 『湯呑』
 
梅林の内にて遠き櫂光る 齋藤玄 『玄』
 
火の山も妙義も指呼の梅林(上州秋間) 上村占魚 『天上の宴』
 
遊ばんと来て梅林の寒さかな 大木あまり 火球
 
如月の梅林といふ停留所 清崎敏郎
 
また空の青さを言って梅林 小池万里子
 
逢へるはずなき梅林の影をふむ 中村久美子
 
空問は梅林を容れなお余る 和田悟朗
 
梅林の花のはじめは花の声 阿部千代子
 
梅林の光りて落つる雨雫 山内年日子
 
梅林や丸太の柵の真新し 浅野京子
 
咲きみちて梅林の空紺深し 植田廣子
 
傘さして行く梅林の遠からず 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨
 
梅林に雪積む彼岸詣でかな 浦野栄一
 
暮れそめてにはかに暮れぬ梅林 草城
 
亡き妻のさきに来てゐる梅林 藤崎久を
 
遠景の鉄橋の音梅林に 杉本零
 
梅林の真昼間の香となりにけり 三村純也
 
正午とは梅林表裏入替はる 後藤立夫
 
亡き妻のさきに来てゐる梅林 藤崎久を
 
そゞろ来て夜の梅林を抜けんとす 高浜年尾
 
梅林をかかへこみたる蜜柑山 西村和子 夏帽子
 
梅林の径しばらく二人のもの 西村和子 夏帽子
 
傘さして行く梅林の遠からず 佐々木六戈
 
梅林といふ密々の花のこゑ 上田日差子
 
梅林の奥へ奥へと導かれ 石田郷子
 
雪吊のむかう梅林うすあかく 田中裕明 櫻姫譚
 
梅林の入口この世にひらき 宗田安正
 
梅林やさざなみに似し人のこゑ 横山美代子
 
眠りをるときの暗さを梅林 大石雄鬼
 
梅林を来てうなぎ屋の障子文字 高橋青塢
 
梅林やさざなみに似し人のこゑ 横山美代子
 
梅林の声なき方へ手繰らるる 的野雄
 
亡き妻のさきに来てゐる梅林 藤崎久を
 
弱法師めく梅林に杖曳けば 冨田みのる
 
梅林の真中はここと決めて坐す 茂里正治
 
梅林の中の一枚田を打てり 茂里正治
 
月ケ瀬の梅林風が手にひびく 右城暮石
 
梅林の青天井に飛行雲 右城暮石
 
梅林のむら北向きに山の形 滝井孝作 浮寝鳥
 
梅林渺と父と遊びしはゆふべ 大石悦子
 
梅林にじめじめと酌み次男坊 八木三日女
 
咲き籠めて鳥影うつす梅林 永井龍男
 
尾が見え隠れ梅林の夕まぐれ 柿本多映
 
うつそりと寺男をりけり梅林 関戸靖子
 
梅林のまんなかにゐて水の音 関戸靖子
 
梅林にまじり撫然と桜の樹 大島民郎
 
日は走り梅林隙間ばかりなり 和田悟朗
 
梅林を上りてきたる海鼠捕 斉藤夏風
 
梅林を尋常卒の父母歩む 坪内稔典
 
梅林を額明るく過ぎゆけり 桂信子 月光抄
 
梅林に白き夜が来る雉子のこゑ 堀口星眠 青葉木菟
 
夢死するもよし 梅林のこの日溜り 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 夢見沙羅
 
茶屋ひくし梅林とほくなだれつつ 竹下しづの女句文集 昭和十四年
 
梅林にいくさを勝ち来妻を具し来 竹下しづの女句文集 昭和十四年
 
そゞろ来て夜の梅林を抜けんとす 高濱年尾
 
暮れそめてにはかに暮れぬ梅林 日野草城
 
梅林をざっと見て来ぬ鼻っ風邪 ももすずめ
 
 

梅の香の届く辺りに右近の像

 

誕生日

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ご近所のミモザも色鮮やかに。

3月8日生まれの者祝ってくれるのはミモザの花だと気付いた。

 

 

近所のミモザと言えば、1昨年まではもうちょっと遠くのお吾のものを賞玩させてもらっていた。

その家では、木が大きくなりすぎて家の土台に影響を与え始めたのか

大幅に強剪定し、その翌年には、さらにバッサリ。

 

もう何の木か分からない切り株になっていた。

 

このミモザも、上の画像のお庭よりも狭いところに植えられているので、やがて伐られる運命にあるのかも。去年まではほんの若木といった感じだった。

↑今や切り株になっているミモザの2014年3月29日の姿。

↓同じく3月24日

 

伐採地実生の松の芯立てり 千原満恵
 
朴の木までの同行 伐採の若者と 伊丹公子
 
伐採の木を選びをり雪焼けて 中田ゑみこ
 
伐採の谺の雪となりにけり 西村博子
 
御幣紛れる 伐採予定の 風の林 伊丹公子
 
朴咲けり伐採音の頂点に 熊谷愛子

伊丹公子は、伊丹三樹彦の夫人。

5・7・5形式の俳句ではない。字間明けがなされている。

季語を無視している。

私も10年前まで字間明け俳句を作っていた。

俳句入門の頃、公子に添削してもらった句

 

もっと長い松葉をと 二十歳の森に昏れ

 

↑2014年3月1日 伊丹・緑ヶ丘の梅林。

ここは昨年全山伐採。というより伊丹市内全域で伐採され、

この丘は桜の薗に代わることに。

 

一度ウィルスが発生すると、5年以上梅は植え付けられず、待ちきれなくなった人々の要望を受け入れ、桜ヶ丘に換えることになったらしい。

 

夕刻、二人だけの誕生日祝い

刺身の目玉はタケノコ。

 

紙すきは白魚。

ロビー

 

桂文珍がホテルの催しに来るよう。

 

 

 

 


フユスミレ

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菫もまた早春の草花である。

門の横の路面を割ってニオイスミレ。

 

冬菫で検索:  いつもお世話になっている「俳句検索」では検索対象になっていない

最近の結社誌掲載の例句を紹介するHPhttp://www.haisi.com/saijiki/huyusumire2.htm

から。

泣きやみて涙大粒冬すみれ斉藤小夜風土200605 
わだかまりとかす山路の冬菫坂本ひさ子遠嶺200605 
吾もまた天の配剤冬すみれ村本真由美遠嶺200605 
陽の中にみどり児ひとり冬すみれ糸川草一郎百鳥200605 
冬すみれ彝族誇りの黒衣装島田万紀子馬醉木200606 
老の手の竹刀風切る冬菫宮島宏子200702 
晩年と云ふべき歩み冬すみれ芝宮須磨子あを200702 
顔に来て日射匂へり冬すみれ岡本眸200702 
冬すみれ老女ばかりのクラス会戸田春月火星200703 
捨てきれぬ未完の句あり冬すみれ大石たか遠嶺200703 
大寺の賑はひの中冬すみれ芝尚子あを200703 
踏切りの四ツの柱冬菫竹久みなみ風土200704 
ふるさとへ戻る駿馬や冬すみれ奥田茶々風土200704 
里山に小さき声きく冬すみれ奥田茶々風土200704 
亡きものはなし道の辺の冬すみれ川口襄遠嶺200704 
老犬のしきりに嗅ぎし冬すみれ伊勢きみこ火星200704 
先生の指差されしは冬すみれ笠井敦子200704 
島行きのひびく汽笛や冬菫石川元子酸漿200704 
古き蔵取り壊されし冬菫早崎泰江あを200704 
道なぜか遠くなりゆく冬菫井上信子200705 
縄文の「むら」をこの目に冬すみれ小野寺節子風土200705 
人生の午後の日射に冬すみれ岡本眸200705 
胸奥に忌日加へぬ冬すみれ岡本まち子馬醉木200801 
プレハブに弥生の土器や冬菫あさなが捷200801 
地蔵さまに隠れ十字や冬すみれ芝山喜久子馬醉木200802 
歳月の継目たしかに冬菫水野恒彦200802 
冬すみれ筬音聞きつ蕪村訪ふ天野みゆき風土200803 
冬菫オパール色の遊歩道中島玉五郎200803 
異人墓のけふは誰が忌か冬菫荒井千佐代200803 
子の指の思はぬ力冬すみれ林八重子馬醉木200804 
冬すみれ初心のいろに咲いてをり浅田光代風土200804 
冬すみれ宇宙電波を受信せよ林昭太郎200804 
一森の白き静寂や冬菫寺内信遠嶺200804 
わが余命もかくありたしや冬すみれ乗光雅子雨月200804 
冬すみれ内緒話にゆらぎけり町田美枝子遠嶺200805 
冬すみれこころに刻み込みしもの近藤公子200805 
草の中それとなくある冬菫白石正躬やぶれ傘200805 
冬すみれ初心の色に咲いてをり浅田光代風土200901 
保線夫と歩いてをりぬ冬菫井上信子200902 
日だまりに頬張るおむすび冬すみれ木村美猫ぐろっけ200902 
散策の日溜り浄土冬菫北尾章郎200903 
冬すみれしんと里山日和かな田中浅子200903 
綿雲のゆつくり流れ冬すみれ中野京子200903 
蕪村より母なつかしむ冬すみれ神蔵器風土200903 
不器用に生きて一輪冬すみれ外川玲子風土200903 
幼子と影踏みごつこ冬すみれ國保八江やぶれ傘200903 
しじまなる隔雲亭の冬すみれ及川澄子風土200904 
冬菫気儘歩きの歩を止めて松尾緑富ホトトギス200905 
幸せは己がこころに冬すみれ藤井圀彦200905 
桁丈の合はずなりたる冬菫井上信子201002 
健気なりいや勝気なり冬菫布川直幸201002 
冬すみれ野道に一つ淡く咲く池部久子酸漿201002 
冬すみれふみの余白にあるこころ本多俊子201003 
冬菫わさびの如き根を持てる大橋敦子雨月201003 
せせらぎの光に揺れて冬すみれ鈴木英男末黒野201003 
日を集め山の斜面の冬すみれ赤羽正行遠嶺201003 
扁額の文字の掠れや冬菫多戸昌子遠嶺201003 
愛日や山路に白き冬すみれ鈴木直枝ろんど201003 
守りたきもの無くなりし冬すみれ代田青鳥風土201003 
武蔵野の日向に冬の菫かな大崎紀夫やぶれ傘201003 悼・川崎展宏先生
野仏は女人なりけり冬菫松岡和子201004 
母を呼ぶ子の声高し冬すみれ野口光江遠嶺201004 
郷土史の埋草として冬すみれ山中志津子京鹿子201004 
喪にありて冬の菫の光かな鈴木藤子ろんど201004 
定命として逝きにけり冬すみれ東芳子酸漿201004 
行雲の疾し禅院の冬すみれ安田久太朗遠嶺201005 
やきもち坂なる旧道の冬すみれ中島讃良ろんど201005 
水音へ傾くこころ冬すみれ間島あきら風土201011 
親指とナイフと冬の菫かな常田創201102 
冬すみれ風にも揺れて秩父線秋葉貞子やぶれ傘201102 
ひと握りほどの日溜り冬すみれ宮川みね子風土201104 
無人駅の監視カメラや冬すみれ福本郁子火星201104 
首里城の石段けはし冬すみれ寺沢千都子万象201106 
母の顔穏やかになり冬すみれ長谷川鮎ぐろっけ201201 
武蔵野の森の小径や冬すみれ今井弘雄春燈201202 
踏まれてもふまれても咲く冬菫沖則文ぐろっけ201202 
三輪山の風のとぎれし冬すみれ田中文治火星201202 
山腹にひつそりと墓地冬すみれ佐津のぼる六花201202 
短くもこの詩いとほし冬菫藤生不二男六花201202 
鎌倉に尼寺一つ冬すみれ佐野つたえ風土201203 
尼寺のことに彩濃き冬すみれ清海信子末黒野201203 
冬菫百四歳の訃に接す赤座典子あを201203 
上水の音を引き出す冬菫佐藤喜仙かさね201204 
海を見にたどる近道冬菫松本三千夫末黒野201204 
馬場跡に鳥影走り冬菫森清堯末黒野201204 
かたまつて咲いても孤独冬すみれ佐々木紗知京鹿子201204 
思い出のみちくさの道冬すみれ石田かし子万華鏡201206 
中庭は家のポケット冬すみれ頓所友枝冬の金魚201209 
卒寿なる女医手土産に冬すみれ酒井秀郎返り花201211 
日溜りにほっと安らぐ冬すみれ三川寿代子201303 
冬菫鼓の響む紐の艶佐藤凉宇子ろんど201303 
心音に触れてゐさうな冬菫大豆生田耕一ろんど201303 
対岸をわが影歩く冬菫根橋宏次やぶれ傘201303 
言ふべきは言はねばとこそ冬菫楠原幹子201303 
冬すみれ日本武尊かな神蔵器風土201303 
冬すみれ未来の夢は極秘とす明石文子ぐろっけ201303 
うす日さす円空塚や冬すみれ山田春生万象201304 
恋ふ人は夢でも無口冬菫山内碧201305 
使はねば言葉寂びたり冬菫菊川俊朗201305 
冬菫しづかにつよく生きるべし瀧春一花石榴201312退院して
またひとり送りし野辺や冬すみれ大滝敏子末黒野201402 
野ざらしの十二神将冬すみれ山田春生万象201403 
留守の間に小鳥の置きし冬すみれ井上信子201403 
冬すみれ無心の種を飛ばしをり田中一美ろんど201403 
ひつそりと冬すみれ咲く君に近藤喜子201404 
尼寺の小さき日向に冬すみれ宮川みね子風土201404 
氷点下十度が何さ冬すみれ植村一雄201404 
歓声に震へやまざる冬すみれ藤田素子火星201404 
垣に沿ひ冬のすみれの鉢並ぶ國保八江やぶれ傘201404 
行きすぎてふり返り見る冬すみれ池谷鹿次末黒野201404 
冬すみれ一人暮しにあこがれて大川ゆかり201404 
冬すみれ測量の杭打ちはじむ浅田光代風土201404 
一人づつ影置き忘る冬すみれ村田岳洋ろんど201405 
ふるさとの墓ふさはしき冬すみれ宮川みね子風土201405 
円墳の裾の崩れや冬すみれ黒滝志麻子末黒野201405 
ほどほどの日差しに睡し冬すみれ中田みなみ201501冬菫→ 3

 

結社誌の選択がどういう基準でなされているのか、不案内だが、

最近はどの結社誌も大同小異の作句基準、選句基準が浸透している。

 

そう言う私も句がめっきり古臭くなってきた。

 

本日句会参加  兼題「三」

 

花ミモザ孫もティーンエイジャーとなり

花ミモザ世界を駆ける一動画

花ミモザ三々九度の神酒運ぶ

花ミモザ一日一膳一善と

 

 

 

 

 

 

 

雛巡り

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駅前(駅中)の雛

↑①から順次番号が付せられている。

 

土佐街道という名の通りの両脇の家々に仕舞われていた雛飾りを11年目から

飾り始めたよう。「高取11回町家のひなめぐり」

94軒の家や、店先に飾られている。

 

↑メイン会場  街の駅(道の駅、海の駅は見たことあるが街の駅ははじめて)「城跡(きせき)」

吊るし雛は初めて見たような‥

吊るし雛水の滴る壺阪の

センブリなども「名産」のよう。

とある医院

家の前を流れる高取城山あたりからの川には、芹が。

 

芹育つ川辺に醫院の屋敷門

 

 

使用人部屋であったところ辺りに広々とした待合室あり。

我が吟行グル―プは15人ほど。他にも城山まで登ってきたようなストックもった人たちなど

かなりの人出であった。

 

なんと、6世紀のこと、藤原京建設に徴用された土佐の人々が、

造営労働が終わっても、帰りの「汽車賃」を貰えず、やむなくここに棲みついたがゆえに

町を土佐町、道を「土佐街道」と呼ぶようになったとか。

街中ではあちらこちら鉢植えの姫立金花が目についた。

 

ロベリア

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どうして奈良県に土佐町や土佐街道がある?

↑の由来書

土佐の由来 
 六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で、故里土佐国を離れ、この地に召し出されたものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に住み着いたところから土佐と名付けられたと思われる。

 故郷を離れて生きて行く生活を余儀なくされた人達のたった一つの自由な意志は故里の名を今の場所につけることであった。

 古代、中世を経て近世に入り植村氏が高取城に入部するに伴い、土佐はその城下町として政治、経済、産業の中心となり、町筋には商家が立ち並び伊勢屋、池田屋、観音寺や、さつまや等が名を連ねた。細長く続く道筋は、往年の面影を残し、せせらぎの音は訪れる人の心を癒してくれる。

 望郷の想いむなしく役夫らの
               せめて準う土佐てふその名


 高取町史を利用した土佐町の由来などを解説したHPから借用。

土佐町の成り立ち 
 藩政時代の土佐町、高取城大手釘抜門前の商人町として城下町の商業経済の中心地として近隣に聞こえた。

町域について見るに町の道をはさんで両側に町屋が並び、その町屋の宅地道限りが境界で、下子島・下土佐で耕地が全くない。境域図に示したように東側は北から南へ下子島地籍に取り囲まれ、西側が下土佐になり、あたかも下子島の一部のような形になっている。

 さらに大和盆地の中央をまっすぐに南下してきた中街道が観覚寺領桝屋橋付近で紀州街道に分岐し、下土佐までほぼ南北に通じる土佐街道(壷坂街道)が上土佐の入り口で屈曲し、城跡のある高取山が前面真正面に展開する。如何にも城の大手にふさわしい町の景観である。
 こうした町の構造によって上土佐は、自然発生的な町ではなく計画してつくられた町である。



 臼井愛司宅(今は大和郡山市矢田の大和民俗公園に移されている)は町でも旧家でその家屋は古い形式を存しているが、その臼井文書に「延元中伊勢路より和州高取山麓土佐の地に来住したるを以って代々伊勢屋と号し来りしが。・・・当時は竹藪雑木林の原野の中に点在せる一寒村にして、池田屋・弓家・和泉屋・伊勢屋・桝屋等数軒なりきという。・・・」とあり、

 

 

また植村藩主入封と共に奉行普請によりお池ならびに町づくり、水路づくりが行われたことが記録にのこされている。さらに観覚寺もいまの町の一部に字新町裏があり、町の北端東側用地の辺を小字内垣内という。島本正義氏「『高取の古いみち』に「桧前より来たった道路は、現子島寺門前を過ぎ、高取川を渡り現街道の東丘麓を上方に通じて高取川左岸を上っていた。現在断続する小径が名残となっている。これから分かれて俗称ウエンダイを越え赤阪池の地を横切り丘を越えて奥出に出て、舟戸橋に通じていた。

 また土佐で分岐して春日裏を経、鰻井など過ぎて清水橋に至って前きの道と合する」と、これらの道路が城下町づくりで変更され新しい大手通として上土佐ー下土佐ー観覚寺、上土佐の辻から清水谷につづく連担市街地を形成したと考えられる。そのうち上土佐の町は下子島地内に一区域をなし、しかも下土佐からの屈折の形態は多分に当時の軍事的政治的必要からの計画であったであろう。         

                
お城の成り立ち 
  高取城について

 一般に高取城は南北朝の築城にはじまるといわれる。奈良から吉野に通ずる道路は、主として八木から岡に出芋峠を越す道によっていたので、高取山の位置は軍事上、その鎖鑰点(さやくてん)を占めていた。つまり進撃してくる主力を一時的に阻止することも出来るし、平野部の情勢を吉野に通報する連絡地点としても有力である。

 この地によったものは、越智氏の一党であるが、越智氏の本拠は越智の地にあった。越智本城は貝吹山を見張りにもつ細長い谷間の地であるが高取山はその一支城にすぎなかった。しかも南北朝の時代にはじまるということは、いろいろな客観的な事情からそのように考えてよいと思われるが、確実な文献史料のうえでは明らかでなく、またあったとしても一時的な砦、見張所にすぎなかったと思われる。大和永享の乱にも越智一党のものが、多武峰とともに、高取山にも拠ったことを伝えているが、その存在の明確になってくるものはやはり戦国期に入ってからである。

 

立金花登城道にも水流れ

 

 

立金花の鉢植えは見たことがあるが、販売されているのを見るのは初めて。

 

なべて姫立金花であった。

 

先年、風の盆を見にでかけた。

どういうわけか町中(村中?)酔芙蓉だらけであった。

土間の一等地で(通行人に見てもらうために)大きな鉢植えで育てられているもの、

ポット植で店頭に並べられているものなどなど。

 

ロベリアの苗が売られていた。これも初めて見たような気がする。

1株90円。

↓我が家のロベリアの苗。

30株程育成中だが、一番いい状態のものでこの程度

これだと満開時期が高温(20度越え)となり、花期が短いであろう。

 

 

他にも、昨日高取町の土佐街道で見た花は

 

菜の花もよく見かけた。

諸葛菜もみかけたが画像はない。

と書いたが、一枚「発見」

 

 

エリカ

エリカ咲く崎ふところの鰤場かな 杉山葱子
 
卓上のエリカに憩ふレストラン 塙 きく
 
エリカ母国の違ふ墓並び 松本澄江
 
エリカ咲くリタイヤ夫婦の喫茶店 初村迪子
 
船乗りの毛深き腕やエリカ咲く 磯貝碧蹄館
 
鴎啼くエリカや折ればこぼるるも 小池文子
 
エリカ雪後のごとくさびしけれ 角川源義
 
エリカ咲くひとかたまりのこむらさき 草間時彦
 
声交はすとエリカ散りさうそれを買ふ 加藤知世子
 
エリカ咲き干網つづく奥浜名 衣川 砂生
 
エリカ咲き鉄扉をひらく異人墓地 渡辺 立男
 
鴎啼くエリカや折ればこぼるるも 小池 文子
 
風の道は海鳴りの道エリカ咲く 伊丹さち子
 
エリカ咲き入江けぶれる朝の雨 山本 莎草
 
花温室のつづれる丘にエリカ咲く 広沢 道代
 
エリカ咲く岬に白き美術館 桑野秀子
 
海の照りあまねく返しエリカ咲く 原田 早苗
 
エリカといふさびしき花や年の暮 山口青邨
 
エリカ風待ち港情厚し 田中英子
 
嬰児にもあるためいきや花エリカ 岡田史乃

餅花も多数

餅花や水のしたたる壺阪の

河津桜

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カワヅザクラの解説

学名:Prunus lannesiana Wils. cv. Kawazu-zakura
カワヅザクラの原木は、伊豆急河津駅から天城山へ向かって1.2kmの地点、河津町田中の飯田氏宅の庭にあります。2014年(平成26年)現在、樹齢約60年、樹高約10m、樹巾約10m、幹周約115cmです。 


河津桜の由来    河津桜の原木を、河津町田中の飯田勝美氏(故人)が1955年(昭和30年)頃、偶然発見したさくらの苗を、現在地に植えたものです。1966年(昭和41年)から開花が見られ、1月下旬頃から淡紅色の花が約1ヶ月にわたって咲き続けました。


伊東市に住む勝又光也氏は1968年(昭和43年)頃からこのサクラを増殖し、このサクラの普及に大きく貢献されました。一方、県有用植物園(現農業試験場南伊豆分場)は、賀茂農業改良普及所、下田林業事務所(現伊豆農林事務所)や、河津町等と、この特徴ある早咲きサクラについて調査をし、このサクラは河津町に原木があることから、1974年(昭和49年)にカワヅザクラ(河津桜)と命名され、1975年(昭和50年)には河津町の木に指定されました。 
カワヅサクラは早咲きオオシマザクラ系とヒカンザクラ系の自然交配種と推定されています。

原産地では1月下旬から約1か月咲いているようである。

 

自宅から1キロ余、尼崎市から伊丹市へ越境した地にある、笹原公園。伊丹市の地区公園か近隣公園のはず。市のHPでは、笹原公園は近隣公園。ただし同時に防災公園で、

備蓄倉庫や井戸やかまども用意されているとか。

 

防災施設の方には目がいかなかった

天気も良く、幼稚園と小学校1クラス分以上の幼児とその親で桜の下はいっぱい。

 

この公園でも立金花の植え込みをみた。

 

 

この公園のすぐ近くに車塚公園という名の公園がある。古墳の跡かどうか知らない。

車塚は町名でもある。

その公園にギンヨウアカシアがある。この方が近所のものよりは樹齢はながい。

ほぼ満開。

 

 

ギンヨウアカシアは、俳句では(でも)ミモザとして詠まれる。

ニセアカシアは、俳句では(でも)アカシアとして詠まれる。

アカシアの花は黄色。だから葉の色合いで、銀葉アカシアと呼ばれるのであろう。

 

同じようなことが「ダチュラ」でも生じている。

 

↓今日のご近所のミモザ

こちらの方は8分咲きの感じ。

徒歩5分ほどのところにある造園屋さんの家の前の川沿い。(川は東富松川へ流れ込む)

パンジーやビオラには今日あたりの気温が最適。20度を超えると勢いが止まる。

かなりの距離に渡って、吊りコンテナを提供・管理なさっているよう。

市から表彰状か感謝状を受理されているであろう。

花のビオラの例句はなかった。

パンジーの吹かるる余韻なかりけり 行方克己 知音
 
パンジーの小さき花束わたす役 行方克己 無言劇
 
女教師の日記パンジー咲くことも 石谷秀子
 
パンジーの花びらめくれ風のまゝ 安藤 寿胡
 
パンジーの顔上げて咲く風の中 満田春日
 
パンジーの畑蝶を呼び人を呼ぶ 松本たかし
 
パンジーの仔熊の顔に似たりけり 森田 峠
 
パンジーが日を七色に振り分つ 本杉桃林
 
パンジーの黒き瞳にある嘘すこし 田川信子
 
パンジーの風のとりこになりゐたり 高岡周子
 
パンジーの群れて一つの強き黄に 吉村玲子
 
パンジーがこちら向くから涙拭く 近藤三知子
 
パンジーの瞳を前にきしむ椅子 岡本まち子
 
パンジーに光あつまる花時計 中島みちこ
 
パンジーの瞳の前にきしむ椅子 岡本まち子
 
大部屋の箱のパンジー犇ける 百合山羽公
 
パンジーやここの家の子知つてをり 今井千鶴子
 
つきささるやうな照明パンジーに 岸本尚毅 舜
 
パンジーの中に光るは箒の柄 岸本尚毅 舜
 
パンジーのくすくす笑ひ止まらずよ 西村和子 かりそめならず
 
パンジーが咲き横浜は好きな町 西村和子 窓
 
パンジーのつむり寄せあふ木絶かな 西村和子 夏帽子
 
パンジーや大きな犬の首を抱く 依光陽子
 
パンジーの花弁拡げつ陽にま向き 小川濤美子
 
パンジーのほとりの帽子掛暮るる 飯田晴
 
パンジーを植ゑて俄に風殖やす 冨田みのる
 
パンジーの紫ばかり金の芯 平野桑陰
 
パンジーのくすくす笑ひ止まらずよ 西村和子
 
パンジーが咲き横浜は好きな町 西村和子
 
パンジーの吹かるる余韻なかりけり 行方克巳
 
パンジーの小さき花束わたす役 行方克巳
 
パンジーを貌と見てゐる西東忌 辻田克巳
 
パンジーに妻が放てる水曲がる 攝津幸彦
 
パンジーの子熊の顔に似たりけり 森田峠 避暑散歩
 
むつまじき吾が老父母にパンジーなど 赤城さかえ

 

 

 

春爛漫

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春爛漫と言っていい好天気の中。

 

焼きそばを20食ほど焼いた。

いつものところで。たこ焼き5個と合わせて

味噌汁とお惣菜一品で一人分。

たこ焼きの方は多人数で

カメラマンは私なので、私は写っていない。

祭の屋台のそれより具は多い。

焼きそば、たこ焼きは例句あるかも、お好み焼きは6音だから句にしにくいかも。

 

いずれも上記の表記法では例句探し出せなかった。

 

蛸焼きの紅に日のさす初詣 沢木欣一

 

焼きそば、たこ焼きの会は昨日だったが、

今夕も家で焼きそば。

花ミモザ1日一膳一善と

 

 

という句を作ったが、今日はパン、ラーメン、焼きそばが朝、昼、夕食故、

米食に関しては無膳である。

 

合間に池を覗きに行った

 

太公望さんはお帰りの準備中だった。カメラの時刻では、11時31分。

自然環境の良い立地だが、足の便は悪い。1時間に1本程度のバスの停留場からも

歩いて20分近くかかる。

よって多くはマイカーで。車を運転しない人のためには、電鉄の駅前まで

マイクロバスの送迎がある。

 

 

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