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- 彫刻の森林浴の聖者・裸婦 倉本 岬
- 鮟鱇の聖者のごとく吊られけり 三谷 和子
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- 野に逢ひて聖者のごとし毛皮人 井沢正江
- 白波の聖者行進夏来る 上田日差子
- 聖者の訃海鼠の耳を貫けり 前田普羅
- 山羊の貌つくづく聖者めく冬陽 中村苑子
- 牡丹雪聖者の胸を飾りけり 朝倉和江
- 蝙蝙はぼろ着の聖者なり日暮 佐藤鬼房 潮海
曲がりなりにも戦国大名。
高山右近。
聖者認定。
奇跡一つの段階で福者
↑高槻教会(旧の高槻城内)の庭に建つ。
私の友人(後輩)の息子。
名古屋にいて、PC周辺機や部品購入のため、中学時代から新幹線で大阪まで出かけていた。
名大病院の医者が匙を投げる病に倒れ、半身不随になり、
中学をなんとか卒業したものの、車椅子生活。
何かしらソフトを開発、会社を興し、車椅子で営業。
両親と一緒にルルドへ巡礼。
帰りは車椅子が不要になっていた。
明らかに奇跡が起こった。
カトリック教会はこれを奇跡と認定しない。
認定申請を出すと、過去の病歴と奇跡内容を徹底的に調査する。
しかし多大な時間と費用と不愉快が伴うので、一般人の申請はない。
高山右近の場合は、
教会の門内、右近像に向かいあうように碑が立っている。
1946年に建立された、高山右近列聖申請(請願)記念碑。当時の司教の名が記されている。
実に70年後になって奇跡一つが認定され、福者に。二つなら聖人認定。
先日、大阪、東京でローマからの使節を迎え列聖記念式典が行われた。
大阪の会場は、大阪城ホール。一般新聞も1万人の集会を報じていた。
↑城内公園に建つ右近像。
右近の先祖・家族・子孫 HPからの引用。
一説によると右近の先祖は、今の滋賀県甲賀郡水口町高山まで溯ることが
できると言う。ここに古くから藤原の姓を名乗る一族が居住し、後に高山と
名乗るようになった。
その子孫、高山源太左衛門は長亨の乱(1487年)に戦功があったため
甲賀五三家の一つに数えられている。その高山家の支流が摂津の国高山(現
在の大阪府三島郡)に城を構えたとされ、右近はそこで産まれた。甲賀五三
家には、後の高槻城主で右近と親しかった和田惟政の先祖もいる事実はこの
説を裏付けるものであろう。
別の説では、桓武平氏平重綱の子高山二郎重遠を祖とする系図がある。同系図
によれば、『太平記』には高山遠江守の名が記され、新田十六騎の一人であった。
越前守範重なる人物は武蔵野合戦(1352年)で将軍足利尊氏方に属して功があり、
上野国那波郡のうちに所領を賜った。その子孫重利(右近の祖父)が摂津国茨木に
移住したとされる。
一方、摂津高山の豪族が、実権を握って領主になった際、当時の慣例によ
り、その地名を自分の姓としたとも考えられる。
摂津において高山の名が現れるのは、15世紀半ばである。高山氏は勝尾
寺(現在も大阪府箕面市に現存する。)の代官であった。勝尾寺の記録によ
ると、1458年に「高山入道」という代官がいた。この領地をめぐって、
寺と高山氏の確執が続き、ついに高山氏が権力を握った。
★右近家族
右近の妻の父は、フロイスの書簡に余野の「クロード氏」と書かれているだけで
「黒田氏」と解釈されているが、日本側の資料には、余野に黒田という家系
は無い。フロイスによると、右近の父の勧めにより一族でキリシタンになった。
右近の子供については、資料が少ないので不明な点が多いが、イエズス会資料によると
1575年に長男十次郎(洗礼名ジョアン)が生まれ、その後生まれた3人の子供が幼くし
て亡くなり、1587年に娘(ルチア)が生まれている。
十次郎は結婚して5人の子が生まれているが、1608年に十次郎夫婦共に亡くなり、子供た
ちが残され、右近らに育てられたようある。
娘ルチアは加賀の横山康玄に嫁いだが、伴天連追放令が出てから離縁して右近らと行動を
共にした。
長男以外の息子については上述のようにイエズス会資料では死亡したことになっているが、大分在住の右近
の子孫に伝わる家系図によると、右近が加賀に追放されたとき、幼い息子助之進が大友義統に
匿われ生き延びたとされる。
↑高槻教会内右近会館の壁のレリーフ
右近の子孫
現在、高山右近の直系の子孫は、石川県の能登半島の羽咋郡志賀町の高山家 と、大分市の
高山家がある。右近がマニラで亡くなった後の1616年、妻とルチアと孫のひとりが帰国し
ていることが ロドリゲス神父の書簡に記されているが、この孫(長房)の子孫が石川県志賀町に
ひっそりと住み着き、現在の志賀町代田の高山家の祖先となったという。高山家に伝わる掛け軸
に、”高山右近孫長房”と記されている。
子孫はある時期は迫害のためか北海道に移住したようだが、大正初めに再び志賀町に戻った 。
一方、大分市大在にある1802年の碑文には、右近の次男亮之進(助之進)が、大友義統
(キリシタン大名であった大友宗麟の子)にかくまわれ、その子孫が大分の高山家であると記されている。
(現在その碑は大分市の舞子浜霊苑に移されている。)
昭和12年、片岡弥吉教授が、元大分市長の高山英明氏の系図を発見して、亮之進の子孫で
あることを確かめた。同時に高山南坊の塔を発見、そこには
”曩祖(のうそ)摂州 高槻城主 高山右近太夫長房塔”
と記されている。
Wikipediaによる高山右近
経歴の部分:
高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。父の友照が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城とした。
そうした中、右近は天文22年(1553年)に友照の嫡男として生まれた。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄6年(1563年)に10歳でキリスト教の洗礼を受けている[3]。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。右近はジュストの洗礼名を得た(父の洗礼名はダリヨ、母の洗礼名はマリア)。
永禄7年(1564年)、三好長慶が没すると三好氏は内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めつつあった。
永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下、足利義昭が15代将軍となると状況は一変。義昭は摂津の土着領主の一つである入江氏を滅ぼすと、直臣である和田惟政を高槻城に置き、彼と伊丹親興・池田勝正を加えた3人を摂津守護に任命した(摂津三守護)。高山父子はこの和田惟政に仕えることとなった。
元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重と中川清秀の軍に敗れて討死し(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏を乗っとる。村重は信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。こうして摂津は石山本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、村重の領有となった。
和田惟政の死後、高槻城はその子・惟長が城主となったが、まだ17歳だったため、叔父の和田惟増が彼を補佐していた。しかし惟長は何を思ったのか、この叔父を殺害してしまう。これにより高山家が主だった相談役となったが、これを良く思わない和田家臣たちが、惟長に高山親子の暗殺を進言した。高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届いた。友照はこの事を村重に相談、村重は「もしそうであるなら殺される前に殺すべきだ。自分は兵をもって援助する」と言い、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えた。
元亀4年(1573年)3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出した。高山父子は仲間から呼び出しが罠だと聞かされたが、14~15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いになった。夜だった上に乱闘で部屋のロウソクが消えてしまい、真っ暗になったが、右近は火が消える前に惟長が床の間の上にいるのを見ており、火が消えるとすぐさま床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも惟長に二太刀の致命傷を負わせた。だが、騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣達が加勢すると、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ、右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまう。およそ助かりそうにない傷だったが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになった。一方、惟長は輿に乗せられて家族や家臣たちと和田家の生国・近江国甲賀郡へ逃れたが、同地で死亡した[注釈 3]。
この事件の後、高山父子は荒木村重の支配下に入った。村重は既に信長から摂津一円の支配権を得ていたため、この事件は問題にされることもなく、高山父子は晴れて高槻城主となることができた。2人はまもなく高槻城の修築工事を行い、石垣や塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れた。
友照は50歳を過ぎると高槻城主の地位を右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになった。この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けた。父の生き方は息子の右近に大きな影響を与えた。
教会の隣の神社でも今日はお祭り。
高槻教会には信者であった青畝の立派な句碑がある。
磔像の全身春の光あり
結社かつらぎ集団は、あちらこちらに句碑を建てまくっている。
(とはいえ他で見た記憶があるのは、生田神社内、須磨離宮公園内)