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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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大寒波

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アメリカが内にこもった時、大国が現状維持を望んだ時、世界的な不景気が蔓延した時、

遅れた国に独裁者が現れ、世界戦争が勃発する。

 

優柔不断がもたらすものは大寒波

 

明日以降大寒波襲来のよう。

↑↓家の前に現れたアパート

1DK6軒 いわゆるワンルームマンション

 

4m道路を隔てた西側。よって我が家からは六甲山は全く見えなくなった。

 

1月10日

下水道をつなぐ工事

 

1月9日

 

1月7日

外枠(作業用足場)が露わに。外側の防塵防音幕が取り払われた。

足場をはずすのにまた一日かかった。

 

多分、我が家の地価は2割くらい下落したはず。

 

昨日の句会の最高点句は、

 

約束は延期しません蕪蒸し

 

私は大いに批判。「約束を延期する」は日本語ではないと。

 

約束は反故にしません蕪蒸し

とすることで決着。  句にはなったが不満

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


スケッチ

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ウィキペディアの解説:

スケッチ (sketch) は、人物や風景などを大まかに描写すること。写生(しゃせい)、粗描素描(そびょう)とも言う。

 

絵画における基本的な作業で、美術の訓練としても行われる。主に鉛筆を使用し、スケッチブックに描き留める。彩色を行う場合もあり、スケッチしたものを、水彩油彩の作品に仕上げることもある。

 

特に、簡単にスケッチすることをラフスケッチ、素早くより簡潔に描写することをクロッキーと言う。

↑卒業式は(明治37年)7月4日に開催されたよう。

祖父は明治13年11月生まれだから、卒業は満23歳半ばである。現在の東京芸大の第1期生である。

日本画の師は黒田清輝であると聞いている。

 

ワイフが実家の処分の中で箱ごと持ち帰ったものを開いた。

ワイフの祖父が描き溜めたものが卒業証書などとともに大量に出てきた。

 

美術学校の第1学年から4学年まで、成績評価のために提出されたと思われるものも

多数ある。描いた日付も記されているが、週に2,3枚描かれたデッサンも多い。

 

↑入学直後に描かれたもののよう。(明治)32年4月と読める。この時点では18歳である。

美術学校に何年在学したのであろうか?(後述参照)

 

薄い、2つ折りの紙に描かれたスケッチ帖の紹介

来月山形在住の従弟が我が家にやってくる。できればすべて天童市の美術館に収納してもらいたいと思っているので、記念の為すべて撮影。(天童市に新設された美術館の目玉は

熊谷守一コレクションである)。

 

紙は2つ折りにして綴じられていた気配があるので、ページ順を乱さないように撮影。

 

卒業証書を渡した正木直彦について。ウィキペディア

 

正木 直彦(まさき なおひこ、1862年12月17日(文久2年10月26日) - 1940年(昭和15年)3月2日)は明治から昭和初期の美術行政家。文部官僚出身で、東京美術学校(現東京藝術大学)の第五代校長を1901年から1932年までの長期にわたって務めた。

 

正木さんが第5代校長ということは、祖父は美術学校の1期生とはいえないかも。

 

正木さんの経歴:

1862年(文久2年)和泉国堺夕栄町(現・大阪府堺市)に、父林作の三男として生まれた。幼名政吉。

 

東京帝国大学法科大学法律科卒業後、奈良県尋常中学校長を経て、帝国奈良博物館学芸委員、古社寺保存委員。さらに文部省に出仕し、第一高等学校教授を兼任。

 

1899年明治32年)から美術などに関する調査のため欧米に出張、1901年(明治34年)に帰国。同年から東京美術学校校長となった。

 

1906年、黒田清輝大塚保治らとともに政府による芸術振興を建議し、これを受けて翌年文部省展覧会(文展)が開催されることになった。文展の委員長は文部次官(澤柳政太郎)で、主事に正木が就いた。その他にも博覧会や東京府美術館建設など多くの美術行政に関わった。

 

長期にわたり美術学校校長を務め、一時期工芸史の講義も行った。1932年、文部省の行政整理が行われるのを機会に校長を辞任した。後任を官僚が務めることには校内の反発が強く、(文部省専門学務局長赤間義信が2か月ほど校長事務取扱を務めたあと)西洋画科教授の和田英作が校長に就任した。

 

特に学校内部の各派の調停につとめ、体制の基盤を築いた人物として評価されている。正木が長年校長を務めた点については、作家揃いの美術学校を統制していくのは中々難しいことであり、正木以外に適任が見当たらなかったようだ、ともいわれている。1935年には美術学校敷地内に正木記念館が建てられた。

 

1940年没。墓所は護国寺にある。

正木千冬(ジャーナリスト、鎌倉市長)は、長男。

 

 

明治34年に正木さんは校長に就任。よって明治37年の卒業式は3度目か、4度目のお役目となる。

 

 

上に32年4月の日付のあるデッサンを紹介して、美術学校入学後の作と書いたが、

祖父の入学は明治33年のよう。同期に熊谷守一・青木繁がいたというので、

両者の経歴を調査。といってもウィキさん覗いただけ。

 

熊谷さん。富裕な父のもとで育ったが自身は貧乏暮らしをしたよう。

 

 

上京し、1897年(明治30年)、慶應義塾普通科(慶應義塾普通部)に入学するも1年程で中退し、1898年(明治31年)、共立美術学館入学。1899年(明治32年) 召集徴兵検査で乙種合格(前歯が7本抜けていたため甲種では不合格。日露戦争では徴兵されなかった)。1900年(明治33年)、東京美術学校に入学。同級生に青木繁山下新太郎らがいる。山梨県東北地方を巡るスケッチ旅行をする。1905年(明治38年)から1906年(明治39年)にかけて樺太調査隊に参加しスケッチを行う。

 

当然ながら同級生の中に祖父の名はあがっていない。

しかし美術学校の入学は明治33年である。

 

1909年(明治42年)自画像『蝋燭』は、闇の中から世界を見つめる若き画家の不安を描き、第三回文展で入賞した。

 

1913年(大正2年)頃、実家へ戻り林業などの日雇い労働の職につく。この時期作品は「馬」他3点のみ。1915年(大正4年)再び上京。第2回二科展に「女」出展。後に軍の圧力で二科展が解散されるまで毎年作品を出品する。

 

 

1922年(大正11年)、42歳で大江秀子と結婚。5人の子供に恵まれたが絵が描けず貧乏が続いた。熊谷は「妻からは何べんも『絵を描いてください』と言われた。(中略)周りの人からもいろいろ責め立てられた」と後に述べている。当時は日々の食事にも事欠くありさまで、次男の陽が肺炎に罹ったときも医者にみせることができず死なせてしまった。陽の亡骸を熊谷は絵に描いている(『陽の死んだ日』1928年(昭和3年))。熊谷は描いた後で、これでは人間ではない、鬼だと気づき愕然としたという。

 

1929年(昭和4年)二科技塾開設に際し参加。後進の指導に当たった。

 

青木繁:

青木は1899年(明治32年)、満16歳の時に中学校の学業を半ばで放棄して単身上京、画塾「不同舎」に入って主宰者の小山正太郎に師事した。その後肺結核のため麻布中学を中退。

 

 

1900年(明治33年)、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝から指導を受ける。

 

1902年(明治35年)秋から翌年正月にかけて、久留米から上京していた坂本らと群馬県妙義山や信州小諸方面へスケッチ旅行へ出かけている。これは無銭旅行に近い珍道中だったことが坂本の書簡などから窺えるが、青木はこの旅行中に多くの優れたスケッチを残している。1903年(明治36年)に白馬会8回展に出品した『神話画稿』は白馬会賞を受賞した。『古事記』を愛読していた青木の作品には古代神話をモチーフにしたものが多く、題材、画風ともにラファエル前派などの19世紀イギリス絵画の影響が見られる。

 

1904年(明治37年)夏、美術学校を卒業したばかりの青木は、坂本や不同舎の生徒で恋人でもあった福田たねらとともに千葉県南部の布良に滞在した。代表作『海の幸』はこの時描かれたもので、画中人物のうちただ1人鑑賞者と視線を合わせている人物のモデルはたねだとされている。この頃が青木の最盛期であった。以後は展覧会への入選もかなわず、下降線をたどっていった。

 

祖父の入学年が明治33年なら、青木や熊谷と同期であったことになる。

入学前に、青木も熊谷も他の学校で美術の教育を受けているので、

祖父も同じ道を辿ったのかも。

 

祖父の父親は亀岡藩士で、維新後は裁判官であったので、収入が安定しており、

フランスから絵具などを取り寄せていたが、青木繁にしばしば横取りされたという話が

ワイフの聞いた家族伝承として残っているとか。

 

実物をスケッチしたというより、誰かの画集を模写したように思う。

 

 

 

スケッチの揺れやまざりし猫じゃらし 橋本 道子
 
スケッチ帖をすぐに開きぬ思ひ草 山田みづえ
 
スケッチのグループの来る水芭蕉 椙本千代子

 

 

 

祖父の名前で検索したら、ワイフの従弟が書いたブログ登場:

 

2010年4月10日

 

天童市美術館新収蔵品展
 まもなく終了する展示ですが、私の祖父である岩鼻正修の絵画を寄贈しましたので、展示されています。
 明治末期から大正初期にかけての制作と思われ、自分の父親(私の曽祖父)を描いた肖像画です。
 大きなキャンバスに描かれているため、個人では保管がたいへんなこともあって寄贈しましたが、傷んでいる部分を修復していただいての展示で、ずいぶんきれいになりました。
 この美術館には、祖父と東京美術学校で同窓だった熊谷守一のコレクションがありますので、同窓生の絵が並ぶのもよいと思って寄贈したところ、今回の展示では、祖父の絵画と熊谷氏の絵画が並べて展示していただいていた・・・。

 

スケッチ帖にはまだまだ多数の絵が収められているが残りはまたの機会に。

デッサンや水彩画なども明日以降紹介のつもり。

 

 

卒業式の写真か?

最後列中央に(右から4人目)私の知る、上に名を挙げたワィフの従弟の父君によく似た人物がいる。それがワイフの祖父ではなかろうか?

この画像を今ワイフに見せたら、最後列左から2人目ではないかとのこと。

青木や熊谷さんも画像の中に入っているなら、関係図書等ですでに紹介されているはず。

 

 

 

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今日は定例の会合が神戸市北区で開催。

数年前にもこんな日があり、途中の県道がモーグル状のアイスバーンになっていた。

ギアをロゥにして、ハンドルをできるだけ動かさないようにして、運転するも、コブを越えるたびに

つるつるとタイヤがすべる。対向車線でも車がすべっている。

 

怖かった。

 

よって本日は車を諦めて、電車利用。よって6時起床。

阪急電車→神戸地下鉄→神戸電鉄を乗り継ぎ、

迎えのマイクロバスが待つ駅まで1時間半。

 

谷上駅

駅の北側、さらに高台になったところに病院。

ここに中学高校時代の学友が世話になっていた。

今では5か国語表示は当たり前になっているが、台湾中国語と中国本土で利用される簡体文字の比較ができる。簡体文字では、門構えが省略される。雨冠が省略される。言へンや、よんずいの簡略化は周知だが

言葉遣いにも違いがあるのが分かる。「乘坐」と「搭乗」、「在」と「需在」、「駅」と「車駅」

「換」と「轉」、「的」と「之」など。

 

雪は降っているがあまり積もっていない。積雪1センチとも言えない。

↑↓いつも画像紹介している施設の周辺


池にはごくごく薄い氷。一応、薄氷(うすらい)といえる。

 

それでも

この地では雪は歓迎すべきものでもある。

 

いつも昼食を摂る店の周辺

野草

オドリコソウ

10年前は田園地帯であったが、あちらこちらに工場施設が建設されている

↓はこの地特産の酒米 山田錦の精米センターのよう。

 

Wikipedia:

1923年(大正12年)に兵庫県明石市の兵庫県立農事試験場(現:兵庫県立農林水産技術総合センター(加西市))で山田穂短稈渡船を人工交配させて誕生し、1928年(昭和3年)に兵庫県加東郡社町(現:加東市)の酒造米生産地(現:酒米試験地)で産地適応性の試験が行われた。

 

1936年(昭和11年)に「山田錦」と名付けられ、兵庫県の奨励品種になった。その後、全国でも栽培されているが、全国の生産量8割を兵庫県産が占める。

 

 

六甲山の裏でも一面真っ白というまでにはなっていない。

酒米の冴えたる白さ寒造 水谷 たつ子
 
酒蔵に酒米届く鵙日和 根岸善雄

山田錦では例句なし。

三島由紀夫の鉢巻や鯉(於・小千谷市鯉センター) 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨
 
鯉それのも雪ざらし 和知喜八
 
とて雪の綺羅 和田悟朗
 
鯉雪間のなせりけり 阿波野青畝
 
帯橋(きんたい)の裏秋水の熟知せり 中原道夫
 
帯橋昏るる冬靄あたたかき 岩崎眉乃
 
木枯やをさらす京の店 大須賀乙字
 
木や砂揺りて湧く水屋敷 廣瀬釣仙
 
紗のごとく木に夜が及ぶべし 矢島房利
 
くれなゐの木越しの桜島 大高弘達
 
柿紅葉の中に木紅葉かな 河東碧梧桐
 
露霜に享けての肌守り 野澤節子
 
鱧を焼く匂ひも小路かな 木内怜子
 
ゆつたりと彩行き交へり鯉 木村道子
 
竹伐やにつつむ山刀 鈴鹿野風呂
 
陽に反りて木の葉のみな垂るる 姫野 丘陽
 
友招く木紅葉今盛り 小屋 貞子
 
洞門の岩に織りなすあや 並松 生代女
 
新幹線通る野山のかな 川井 梅峰
 
木の花のみどりのうすうすと 椎野 房子
 
木紅葉コーヒー店内みんな愉悦 中北綾子
 
木のぬばたまといふうらがへし 松澤雅世
 
木の一気に暮れてしまひけり 日美清史
 
深寝して木紅葉きはまりぬ 加藤三七子
 
木の空はありけり飛鳥寺 駒走鷹志
 
鯉飼はれて人の指を吸う 辻桃子
 
鎌倉や雪塊と浮き鯉 原裕 『葦牙』
 
木の逆ひか咲き黄のあはれ 河野南畦 『広場』
 
かばい手におくれの髪や房 仁平勝 東京物語
 
眼つむれば今日のの野山かな 高浜虚子
 
山のの中より鐘をつき出しぬ 青木月斗
 
荼毘の火に野山のきはまりぬ 山口峰玉
 
小流れのありて色添ふ野の 桜木俊晃
 
たのしさや草のといふ言葉 星野立子
 
木や鳥語いよいよ滑らかに 福永耕二
 
木に寄りそひ立てば我ゆかし 高浜虚子
 
袖ふれて木紅葉こぼれけり 富安風生
 
木や野仏も夜を経たまひぬ 森 澄雄
 
木の花こぼれつぐ山の駅 青柳志解樹
 
よろこびに木花をもちそめし 勝又一透
 
一八や鯉飼ふ大藁屋 吉井莫生
 
福寿草や卓にかけたる白 村上鬼城
 
冬雲に帯橋のとどきけり 荘所亀子
 
木の赤点々とちひろの絵 白石みずき
 
深寝して木紅葉きはまりぬ 加藤三七子
 
パスワード忘れて緋鯉鯉 松田ひろむ
 
竹伐やにつつむ山刀 鈴鹿野風呂
 
鯉人にも生れながらてふ 平子公一
 
驟雨来て色乱れだす鯉 藤井寿江子
 
薄氷に鯉のの滲みゐる 白岩三郎
 
湯葉小鯛小路の春たけなは 水原 春郎
 
暗きより呼び出してをり鯉 佐々木六戈 百韻反故 冬の皺
 
日の丸の飛び火を背に鯉 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨
 
流れゆく扱きの帯の鯉(餘所の女の父とこそ櫻桃忌) 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨
 
昭和の色大正の色鯉 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨
 
鯉跳ねて赤赤響きけり 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨
 
湯婆入れての夜着のふくれかな 岡本松浜
 
お歳暮の米の名前の佐賀 千川稚泉
 
鯉は夜がくるまでの雪女 尾崎喜八
 
たのしさや草のといふ言葉 星野立子
 
木や鳥語いよいよ滑らかに 福永耕二
 
木の垣の燃えどき人住まず 古賀まり子
 
木や野仏も夜を経たまひぬ 森澄雄
 
木のもの古びたる紅葉かな 後藤夜半
 
いまはまだ木の実の赤さのみ 富安風生
 
木に寄りそひ立てば我ゆかし 高浜虚子
 
あかつきの噴煙大根蒔く 加藤知世子
 
秋出水真ん中のみが空映す 岡村天
 
秋の谺の中に禽死す 榎本虎山
 
よろこびに木花をもちそめし 勝又一透
 
木の花のこぼるる土乾く 石井桐陰
 
木のいつしかに散る花ならん 川瀬カヨ子
 
苔の香や木の花散り溜る 織田烏不関
 
木の花がほつほつ地に小犬 新田加津子
 
木の花や籬にもたれ見る 高浜虚子
 
羽つつき合ふ鶏に初日さす 甲子雄
 
初鮭や只一尺の唐 蓼太
 
木も暮れてまじるや露葎 耕二
 
祇園会や古きに汗の玉 青々
 
神田から秋のの紅葉哉 蓼太
 
山のの中より鐘をつき出しぬ 青木月斗
 
野の昼の葬礼通りけり 正岡子規
 
滝はひかりをうしなはず 西本一都
 
祇園会やを濡らす通り雨 田中王城
 
秋の山に琥珀を掘りし坑 坊城としあつ
 
秋風に屑の中なるかな 原月舟
 
 

 

デッサン

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素描(そびょう、すがき)、デッサンフランス語: dessin)、ドローイング英語: drawing)とは、物体の形体、明暗などを平面に描画する美術制作技法、過程、あるいは作品のこと。これに準ずるものを指す場合もある。

一般に、ペン鉛筆木炭パステルコンテなどが用いられ、輪郭線によって対象の視覚的特徴をつかむことが目的となる。したがって、輪郭線そのものの強弱や太さなどが、主題的となる。対象に見える陰影や固有色質感、などをハッチングなどによって描き出すこともある。 古代において、線彫木墨によるデッサンは、呪術的な意味を持っていた。ルネサンス時代には、絵画や彫刻、建築の試作方法として大いに用いられるようになる。また、近代の銅版画リトグラフ線描や日本の浮世絵の影響を受けた様式も現在では存在する。

日本のデッサンに比べ、西洋のデッサン及び西洋に倣ったデッサンは線的に描く場合であっても、形体表現が基礎に据えられ明暗の表現を尊重し描かれる。これは単に明暗比例尺度を写そうとする活動という意味ではなく、線の効果が明暗の表現を担うということである。

 

然れども、古代西洋の絵画は比較的線的である。デッサンは、簡便な絵画の試作・下絵であるだけでなく、絵画の基本的な習熟の手続きとして今日でも尊重される。『デッサンの技法』で著者小磯良平は、非具象抽象絵画が、具象絵画にとってかわり、その為にデッサンを必要としないと捉える人たちが現れ、デッサンを軽蔑する人たちさえ居るとしている。

 

しかし、ヨーロッパでも日本でも、非具象の第一線で活躍している人たちが皆、自らの若い時代には、デッサンの勉強に打ち込んでいたことを指摘し、デッサンの重要性を説いている。その後、様々な変化があったものの現在でも、デッサンを尊重する流れは続いている。挿絵としてのイラストレーションとは区別される。

 

美術学校在学中に描いたものは、成績評価のために提出され、返却されたものもあるようだ。

 

(明治)32年の年号があるものは、あるいは、美術学校入学前のものかも

絵具で面を塗る ペインティング英語painting)(フランス語peinture)とは対照的な分類。 面的な描画を含む制作を含む、鉛筆画木炭画パステル画などを、「デッサン」と呼ぶ場合も少なくない。 比較的古い表現として下絵を意味する場合もある。美術以外の分野では比喩表現として蓋然的記述や計画を指す場合もある。

通常の人体を描いた時に、右手と左手の長さが極端に違っているようにしか描き出せないとき、それはしばしば不適切とされ、「デッサンが狂っている」などと言われる。描き手が思ったとおりに描き出せているか視覚的に検証判断できる能力はデッサンの能力である。意図通りに描けないことと(例えば)通俗と異なる描画を意図的に為すことの異同をわきまえることが肝要である。

デッサンは通常モノトーンの表現であり、多色の場合も色彩表現に主眼は無い。このことから、白から黒の幅による表現である訳だが、これを明度の表現であるというのは全くの誤解である。過去のデッサンを見て分かる様に、固有の明度(、固有の色)の表現[補注 1]と明るさ[補注 2]の両立が絵画の基本であり、色彩に惑わされない明度の把握に有利なことから、この基本的な法則の理解と表現の把握にデッサンはしばしば使われる。

 


実在感を具えた絵画に求められる描画や観察、検証の技能、手順や技法の熟知を、広い意味で「デッサン」と呼ぶ。他方デフォルメなどと言うように、デッサンも絵画的表現である以上、強調、変形、単純化、抽象化などの操作が主立って意義を持つことは大いにあり得る。既存の迫真的な絵画の全てがこれらの操作と無縁でないことからもその不可避性がわかる。 当然これが不可避であるとしても、その操作を少なく見積もる活動が無意味だという結論が論理的に帰結するわけではない。少ないか多いかでその操作の意義が失われるとは限らない。色彩表現にあるように、少ないからこそ有効という場合もある[1]。 写真の存在を以って写実的な絵画を否定する一般の論者は、このことを考慮しているとは考え難い。写真の存在によって迫真的な絵画表現を否定するの見解を肯定的に主張する場合に、ある種の再現性の不足から無意味とするのであれば、その他の観点が眼中にないと考えられるからである。肉眼の視覚と写真のような光学像による平面的な造形との相違はその実在性であり、絵画は写真のような光学的な造形よりも、人間の視覚に肉薄出来る。この相違は決定的である[2]

ウィキペディアの解説は解説というより論文の様相を呈している。

 

 

 

 

 

 

描画に用いる主要材料に従って木炭デッサン鉛筆デッサン、描く対象によって静物デッサン人物デッサン石膏デッサンなどという。

 

素描に使用される道具は多岐に亘り、一般的な黒鉛筆・木炭の他にペン色鉛筆パステルコンテフェルトペンクレヨンブラシ擦筆スタイラスなどに使用例がある。描き込む素材にはの他、板紙キャンバスが使用される。

カモメ見たさにデッサン線太く 小林健一郎
 
デッサンの蟻百態のノートあり 深見けん二

 

 

1.17

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関西局は、一日中、1.17関係を報じている。

 

 それぞれの追憶蝋梅の花の下

 

向う三軒両隣りの「向う三軒」とはどの家を言うのか?

玄関先から、向いに見える家とその両隣のことか。

ともかく家から見えるご近所の庭から匂う。

道を隔てた北側に建つ2軒の家

蝋梅の安房に身を寄せ去年今年 角川源義 『西行の日』
 
蝋梅や隠るるごとく安房に来し 角川源義 『西行の日』
 
蝋梅の香が勝つてをり初稽古 佐々木六戈 百韻反故 冬の皺
 
蝋梅の黄を重態と言いぬ 佃悦夫
 
蝋梅や枝疎なる時雨空 芥川龍之介 我鬼句抄

蝋梅の句はまだまだ多数あると思う。「蠟梅」が環境依存文字で、この字では例句検索できない。

暦の上でもまだ立春は先。

よって歳時記上でも今は冬。15日を過ぎたので新年とも言えない。

いつもリュウキンカが咲く、バレースクールの家の前の溝では、

それよりさらに駅に近い家の門脇

カミヤツデ

駅を通り越してさらに東へ行くと

何度も紹介している冬桜

 

 

エドヒガンはまだ↓の状態

 

 

 

 

 

水彩画

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ワイフの祖父の作品:

 

水彩画というより、これもデッサンかも。

 

↓のようなものを得意としていたように思う。

拡大したら字面まで読めそう。

↓こういった陰影画法のものも数枚

建築学科向けみたい。

水彩画と言えると思う。

水彩の水を描きし薔薇に捨つ 橋本美代子

 

作者は確か、多佳子さんの娘さん。

 

授業科目名を知りたい。

 

 

 

こういった水彩画(水辺の景色)も好きだったよう。モネを真似たような画法の絵もある。

 

 

写本作成なのかどうか。

上記の和紙綴じ本を丸丸一冊写したと思われるものがある。

 

前賢故實(ぜんけんこじつ)は、江戸時代後期から明治時代に刊行された伝記集。全10巻20冊。菊池容斎筆。上古から南北朝時代後亀山天皇の代)までの皇族、忠臣、烈婦など585人を時代を追って肖像化し、漢文で略伝を付す。日本の歴史上の人物を視覚化したものとしては画期的であり、明治中期頃から国家意識の高まりにつれ盛んに描かれた歴史画において、バイブルとしての役割を果たした。

 

かなりのページ数である。

 

宝篋印塔

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最上部の棒状の部分は相輪と呼ばれる。相輪は、頂上に宝珠をのせ、その下に請花(うけばな)、九輪(宝輪)、伏鉢などと呼ばれる部分がある。相輪は宝篋印塔以外にも、宝塔多宝塔層塔などにも見られるもので、単なる飾りではなく、釈迦の遺骨を祀る「ストゥーパ」の原型を残した部分である。

 

相輪の下には露盤と階段状の刻み(普通は6段)を持つ笠があり、この笠の四隅には隅飾(すみかざり)あるいは「耳」と呼ばれる突起がある。笠の下面も階段状(2段)に刻む。笠の下の四角柱の部分は、塔身(とうしん)という。その下の部分は基礎と呼ばれ、上部を階段状(2段)に刻んで塔身を受ける。隅飾の内側の曲線を二弧ないし三弧に刻むものもあり、またその側面に月輪を陽刻し、その中に種子(しゅじ、種子字とも)を刻むものもある。

 

塔身にはしばしば仏坐像や月輪に囲われた種子を刻む。手の込んだものではその月輪をさらに蓮華座で受ける。また基礎の四方の側面には区画の中に格狭間(こうざま)を一個刻む例が多い。さらに基礎石の下に格狭間を伴った反花座を置くものもある(太字=↑図参照)。なお特に高位者の墓塔では壇上積みの石段を伴うものがある(醍醐三宝院墓地宝篋印塔など)。

 

宝篋印塔残欠は、尼崎市内でも何か所かで見かける。

↑もその残欠のよう。

鎌倉時代に盛んに作られたようだが、↑の擦れた案内文によれば、

この残欠は「おそらく1520年頃のもの」らしい。

16世紀20年代は戦国時代である。この地では、塚口御坊が繁栄していたころである。

 

宝篋印塔こつと打つたる椿の実 野澤節子
 

打ちたるの誤植か?

 

塚口御坊の、今では住宅密集地の中に辻地蔵と共に保管されている。

この背後はゴミ袋の集合地になっている。

尼崎市内では宝篋印塔がほぼ完全な形で残っているのは、尾浜の宝篋印塔だけのようである。南北朝時代のものである。

以前、このブログでも紹介した。

尾浜宝篋印塔

下図 通りに面したところにある地蔵群ではなく、別に祠があるが、格子越しには安置しているものはなかった。

 

この場所の名称を何というのか知らない。

 

 

本興寺

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本興寺は法華宗四大本山の一つで、応永27年(1420)日隆上人の開基した寺院。開山堂三光堂方丈は室町・桃山時代のすぐれた建造物として国の重要文化財に指定されています。

 

開山堂の日隆上人坐像(重要文化財)は、生存中に堺の仏工浄伝に命じて作らせたと伝えられています。方丈・開山堂などが兵庫県南部地震で大きな被害を受けたため3年かけて修理工事を行いました。

 

法華宗(ほっけしゅう)とは、妙法蓮華経を依拠教典とする仏教宗旨に対して使用される呼称のひとつ。以下の各種の用法で用いられる。

  1. 代の智顗を開祖とし、平安時代の最澄が日本に伝来した宗派。天台宗の別称。天台法華宗
  2. 日蓮を開祖とする宗旨の名称。宗旨「日蓮宗」の別称。伝統仏教十三宗旨の一つとしての呼称。日蓮門下の全門流の総称としての呼称。1334年後醍醐天皇より日像が宗派の名として法華宗の宗号を賜ったという。
  3. 日蓮を開祖とする宗派のうち、勝劣派の諸門流が形成した宗教法人の多くによって用いられる名称。

 

本興寺についてはネット上にも各種の情報がある。

法華宗本門派の大本山は4つ。

大本山 光長寺
大本山 鷲山寺
大本山 本能寺
大本山 本興寺

沼津市にある光長寺、千葉にある鷲山寺は日蓮が、京都の本能寺と本興寺は日隆の開創。

山門横の建物は、宝物殿である。

いつも閉鎖状態だが、

ネットで、毎年11月3日のみ虫干会と称して無料公開されることをいましがた知った。

尼崎寺町案内を見ても

本興寺は一番の「宝」持ちである。

境内に冬桜が2本。

この木で、私は冬桜を知った。豪華な樹であった。

何本も添木がされて枝垂桜のようだった。

今やみじめな姿で全身包帯をされている。

 

もう一本はひ弱な感じのものであった。

日当りの良くない場所に植えられていた。

今や大木になっているが、あいかわらずひ弱な感じ。

どの方角から撮っても花の姿がはっきりしない。

 

冬桜は総じて幹が細い感じがするが、この木はひときわそう感じる。

 

大方丈は、画像に収めにくい。

本興寺方丈の縮小画像

本堂の北側に位置し、桁行十間、梁間七間、入母屋造り、本瓦葺の建物で、前面に一間半の広縁(半間はのちに拡張)、東側に一間の広縁がめぐっています。

建立年代は天文17年(1544)の棟札が残されていることから元和に移築されたのではないかといわれていましたが、昭和56年の解体修理の調査で軸部に解体した形跡がないことが確認され、元和3年(1617)この地に移転した際の建築であることが棟札の存在とともに明らかになりました。保存されている天文13年の棟札はおそらく移転前に存在した建物のものと思われ、移転時に持ってきたものであろうと考えられています。平成7年1月17日の阪神・淡路大震災では大きな被害を受け半解体修理を行いました。

南向きの正面東寄りに玄関、内部は6間取りで、南側に3間四方(18畳)の3室、北側に2間半(15畳)の2室及び西端に書院付き上段の間、北側2室の外側に濡れ縁付きとしています。この方丈は客殿とも呼ばれていて、戒壇院として使用されていたので、元和・慶安の棟札では戒壇院・戒壇精進院と記されています。方丈内各室の壁面・襖には曽我招興(そがしょうこう)の水墨山水画や法橋(ほっきょう)高平春卜(たかひらしゅんぼく)の人物・花鳥画が華麗に描かれています。

 

以上は「尼崎の文化財」から引用。

 

背後の建物が迫っていて全体像が撮れない。

 

本堂

これも京都にある各宗派の本山寺に負けない規模。

本堂へ白き道ある茂りかな 田中 美代子
 
本堂の如来の前の扇風機 大江 ちよ子
 
寝冷して裸電球本堂に 中岡毅雄
 
本堂の開け放されて夏木立 伊藤たけ
 
本堂に大きな蝿の生まれけり 小島 健
 
足早に本堂よぎる汗手貫 加藤節子
 
本堂に年忌一覧松の花 山崎登起子
 
髪置に大き過ぎたるリボンかな 本堂蟹歩
 
秋光や甍の苔も黄金なす 風生 (道成寺本堂護摩堂の屋根瓦は特殊な金茶色を帯ぶ)
 
本堂に金銀の蓮鳥の恋 和田耕三郎
 
本堂を大きな雪間とも思ふ 田中裕明 先生から手紙
 
本堂に泊りて別れ蕗の薹 田中裕明 櫻姫譚
 
本堂につくばねの散りこみてあり 田中裕明 櫻姫譚
 
茄子苗の本堂にある花まつり 藤田あけ烏 赤松
 
本堂の隅なる蚊帳の吊手かな 高浜虚子
 
毛虫居たり竹の手すりの仮本堂 前田普羅
 
本堂は牡丹焔の上にあり 川井玉枝
 
本堂に電燈つくや竹の秋 前田普羅
 
本堂に兵隊泊る紅葉かな 滝井孝作 浮寝鳥
 
本堂の屋根にちらかる銀杏かな 寺田寅彦
 
本堂の瓦はがれし野分哉 寺田寅彦
 
本堂へ通ふ廊下や初嵐 寺田寅彦
 
本堂や昼寝無用と貼札す 尾崎紅葉
 
巌頭に本堂くらき寒かな 夏目漱石 明治三十二年
 
本堂は十八間の寒さ哉 夏目漱石 明治二十八年
 
本堂を右へまはれば田圃にて 山店 芭蕉庵小文庫
 
本堂に電燈つくや竹の秋 前田普羅
 
本堂に上る土足や秋の風 尾崎放哉

 

 

の縮小画像

三光堂 旧の国宝(現在は重文)

 

開山堂 これも重文。

 

6棟の院家(塔頭)がある。よって人手も十分にあるのか。

玉砂利も筋目がきれい。

某院家の塀の外に

Wikipedia:

鬼子母神(きしもじん/きしもしん)、: हारीती、Hārītī, ハーリーティー)は、仏教を守護するとされる夜叉で女神ヤクシニーの一尊。梵名ハーリーティーを音写した訶梨帝母(かりていも)とも言う[1]

なお、「きしじん」という読み方は「ぼ」が漢音表記であり、呉音を通例とする仏教用語としては厳密に正しいものではない。

三昧耶形は吉祥果。種字はहूं(ウーン, hūṃ)。

 

 法華宗で祀られることが多い。

 

鬼子母神は、法華経の守護神として日蓮宗法華宗の寺院で祀られることが多く、「恐れ入谷の鬼子母神」で知られる、東京都台東区入谷の鬼子母神(真源寺)、東京都豊島区雑司が谷法明寺鬼子母神堂鬼の字には「角」が無い)、千葉県市川市の遠寿院(法華経寺塔頭)の鬼子母神が有名である(江戸三大鬼子母神)。

 

縁日は毎月8の付く日(8日,18日,28日)である。また、お会式に併せて大祭を行う寺もある。なお、「鬼子母神」の「鬼」の表記について、寺院によっては、第一画目の点がない字を用いる場合がある。これは、鬼子母神が釈尊に諭されて改心した結果、角が外れたためである[6]

 

湯葉供へあり節分の鬼子母神 細見綾子
 
朝顔や境内浅く鬼子母神 石川桂郎
 
毛衣の四日のをんな鬼子母神 黒田杏子
 
毛虫焼く鬼子母神様子には見せず 岡田詩音
 
芒みみづく寒げに雨の鬼子母神 茂里正治
 
二百十日の鬼子母神森の夕星や 久米正雄 返り花
 
石榴裂け吾が中に濃き鬼子母神 野見山ひふみ
 
あさり来る春の烏や鬼子母神 中村史邦


調味料

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調味料か香辛料か大蒜干す

 

 

ネット上の「調味料辞典」の解説では、

 

香辛料(スパイス)は、

 

一般に植物の葉、実、種などの部位の乾燥物、またはこれらを粉状にしたものが香辛料(スパイス)とされています。

 

香辛料を基本的な機能により分類すると、以下のようになります。

◆ 香りをつける (香味料)
 クローブ、ミント、タイム、セージなど
◆ 辛味をつける (辛味料)
 コショウ、唐辛子、わさび、からしなど
◆ 色をつける (苦味料)
 サフラン、パプリカ、ウコン、クチナシなど
◆ 臭みを消す
 ニンニク、ローズマリー、セージ、タイムなど

 

色を付けるものを、「苦味料」というのは何ゆえか?これは「にがみりょう」と読むと思うのだが、付色料、ないし着色料と呼ぶべきでは?しかしサフランは単なる着色料ではない。香や味もある。パプリカは、苦味料と言えぬこともない。

 

大蒜は臭みを消すだけの効能ではないだろう。食欲増進(ある人にとっては減退)効果がある。刺食料とでも呼ぶべきか?

 

ともかく、香辛料は調味料の一部という位置づけである。調味料辞典では。

香辛料は、砂糖、塩、味噌、出汁などと同列に並ぶ調味料体系の一部とみなされている。

我が家の調味料の在庫を撮影。

こいくち醤油は昔は丸金であった。とっくに野田産に替っていると思ったが、

現在でもマルキンであった。しかし最近は生醤油なるものも利用している。

卓上に出てくるのはこちらの方(キッコウマン)である。

鍋物をやる時には、酢と醤油を混合していたが、今やどの家庭でも「味ぽん」を利用しているはず。これも最近は地物が出回っている。尼崎にもあるが、味ぽんに比するとかなり高価である。

ワインビネガーは、私がサラダ用に利用。

タバスコも我が家では必需品。これも最近は、イタ飯屋あたりでは国産品が出回っている。

 

スパイスを花型に振り本気なり 日浅啓子
 
スパイスに汗を流してタイ料理 毛利友美

 

ピザの宅配もよく利用していたが、最近は二人だけの夕食になったので、300円位で手に入る小型物を家のオーブンで温めている。

朝食用に登場するのが、ピザソース。超熟5枚切りの一枚に、ソース塗って、チーズとサラミを適当にのせて900ワット位で5,6分。

 

オリーブオイルはいろいろ凝ってはいるが、所詮はコープ産とイオン製である。

 

 

200グラムで1500円のオリーブオイルには手が出ない。

 

オリーブの島を恋ひ来し避寒かな 鎌田沙華
 
オリーブの残り実さむし風の坂 五十崎朗
 
ゆつたりと水脈オリーブの咲く島へ 宮津昭彦
 
オリーブの花咲き満ちて過疎の島 佐藤信子
 
オリーブの島より女礼者来し 小路智壽子
 
秋行くとオリーブ林の銀の風 石田 波郷
 
オリーブの空まつしぐら初燕 壺井 久子
 
オリーブの実を食べ神話ふりだしに 上田日差子
 
日本のオリーブの木と暖炉かな 依光陽子
 
オリーブの木のみな斜め五月来る 大石雄鬼
 
神宿るてふオリーブの実の苦かりき 赤尾兜子
 
オリーブの種子ほろほろと陸さみし 対馬康子 愛国
 
船出づるオリーブ林花のかた 玉置笑子
 
海上を往く太陽にオリーブ咲く 三好潤子
 
西班牙の花オリーブのひかりかな 佐川広治
 
神木にしてオリーブは愛の花 大島民郎
 
オリーブの銀緑叢中夏帽子 福永耕二
 
「オリーブ・オイル」の例句はないよう。
 
エキストラ・バージン・オイル秋茄子
 
エキストラ・バージン・オリーブ・オイル秋茄子
でもいいと思うが、字余り感を避けるために上記のかたちで公表した。
 
 

↑↓塩や胡椒も各種

 

昨夜日付が変わる頃

 

赤タイで就任演説首都寒雨

就任式抗議デモも暖を取り

北緯40度を超えると冬はながく、春は短い。ワシントンDCはほぼ北緯40度(正確には38度55分)に位置する。(盛岡市とほぼ同緯度) パリは48度51分。もはや四季が均等(3か月単位)ではない地帯。緯度だけでいえば、パリは稚内(45°11′)より北に位置する。

 

 

・・・・

 

加藤一二三9段が引退する。順位戦C2クラスを降級すると60歳以上なら引退する規定になっている。この間、新記録を多数達成。

通算負け数1000越えはかなり以前に達成。

最近は、最年長対局。対戦相手との年齢差62というのも。久し振りに実現した14歳中学生4段との対戦で。ひふみんさんは昭和15年(1940年)1月1日生まれ。

hifumi2

中学生プロは加藤一二三が最初で、以後、谷川、羽生、渡辺とつづくが、14歳2ヵ月でプロとなった藤井は、加藤の記録を破る最年少棋士誕生となった。

(谷川と藤井は中学2年生で4段になった。渡辺は中学卒業寸前にプロ資格を得て、

最初の公式戦参加は4月以降だったので、中学を卒業していた)。

 

加藤の最も最近の新記録は、77歳0か月で、公式戦に勝利。最年長対局の更新と最年長勝利。

 

私はず~と加藤ファンであった。

 

将棋連盟の規定では、順位戦の最下位リーグ(C2級)を60歳を超えて陥落すると

引退が決まるが、目下参加中の他のタイトル戦の予選には出場資格があるので、

最年長対局とひょっとすると最年長勝利は更新の可能性がある。

 

こういった人が予選を勝ち抜き、タイトル挑戦者になり、ひょっとしてタイトルを奪取すると

他の棋戦の参加資格は失い、引退予定棋士ながら、さらに1年後、防衛戦に登場して、もう3局ないし4局(以上)現役棋士として公式戦に参加することになる。

 

ノースポール

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さわがしき冥途は紙の力士たち 上田 玄
 
初場所の力士顛倒し顛倒し 三橋敏雄
 
鮎田楽力士の大き手形見て 大木あまり 火球
 
春場所や異国力士の大銀杏 椙本千代子
 
花道の繭玉ゆらし勝力士 西村英子
 
遠くへは飛ばぬ力士の年の豆 立野もと子
 
鍋の向こうに力士の手形冬深し 大山キヌ子
 
力士来る寒の両国橋長し 恩田秀子
 
梅雨晴や双子抱きて力士来る 長屋せい子
 
空港に眼鏡の力士雲の峰 吹野 保
 
巡業の力士迎へぬ河豚供養 名和三幹竹
 
もと力士花車今老鵜匠 伊藤柏翠
 
初場所の力士二十歳となりにけり 岸本尚毅 舜
 
力士髻土に汚れけり 河東碧梧桐
 
朝顔にしゝむら白き力士かな 久米正雄 返り花
 
兵営の力士毛布をまはし哉 森鴎外
 
鮨桶の蔭に土俵の勝力士 長谷川かな女
 
咲き初めし椿に力士の腋甘し 攝津幸彦
 
茫然と力士・朝潮つばめ来る 坪内稔典
 
初場所やひかへ力士のくみし腕 久保田万太郎 流寓抄

祝 稀勢の里 優勝 横綱昇進(多分)

今日学んだ発音

 

ありだみかん。   今日の今日までありたみかんと発音していた。

 

我が家、お餅もありだみかんも残存少々。

 

 

 

カンシロギク(寒白菊、学名Leucanthemum paludosum)またはノースポールギク[1]は、キク科フランスギク属半耐寒性多年草である。しかし、高温多湿に極端に弱いため、日本では一年草として扱われている。今日では[いつから?]ガーデニングにはなくてはならない存在にまでなった。

和名の由来は、花付がよく全体を真っ白に覆うように見えるところが北極を連想させることによる。「ノースポール」はサカタのタネ商品名[4]であるが、種苗登録などはされていないため、一般名として定着している。旧学名またはシノニムの「クリサンセマム・パルドスム[5] と表記されることもある。

ウィキペディア「本部」は、いつから冬花壇の主役になったかを示せと注文を付けている。
 

公共花壇のノースポール

 

 

かなり大きくなっている。

育てたことはないが、カモミールと同じく、プランターなどに勝手に生えて来るので、

育てやすいと思い、この冬初めて本格栽培。

30株程を6つのプランターに植え付けている。

4月に温度が急上昇すると、あっという間に花期が終わってしまうので、

早く咲かせなければならないが、蒔き時の9月に気温が発芽適温より高かったので、

種まき時期を逸したため、成長が遅れている。

花も咲きだしている。

我が家のもの。せいぜいこの程度。↓

寒波襲来時には枯れるのではないかと心配した。

寒菊なら例句豊富。寒白菊では例句ないだろう。

「寒菊」ではなく、「寒&菊」で検索

にあさの大富士澄めりけり 小林俊彦
 
や風の中なる鏡山 石原八束
 
を桶いっぱいに切り込みぬ 柴山 つや子
 
乾きて咲けり妻も他人 草間時彦
 
に夕の海光おとろへず 石原八束
 
乳張るとを切りそろへをり 佐藤鬼房
 
やあの世といふに父母がゐて 細川加賀 『玉虫』
 
の一本の香に置手紙 細川加賀 『傷痕』
 
の土掃きたてゝ人貧し 長谷川双魚 『風形』
 
や風の中なる鏡山(肥前唐津にて) 石原八束 『藍微塵』
 
火に乗せしに生気の暮かな 大木あまり 火球
 
盗ると鎌倉の来りけり 大木あまり 山の夢
 
にかりそめの日のかげり果つ 中村汀女
 
を憐みよりて剪りにけり 高浜虚子
 
古人形添へて捨てらるる 大塚とめ子
 
つつまれし解けば咲き乱れ 上野章子
 
や母のやうなる見舞妻 石田波郷
 
囲はれて白極まりし 河本好恵
 
人柄を辻まで広げ 増田萌子
 
さみしからずも黄を寄せ合へば 目迫秩父
 
や母のやうなる見舞妻 石田 波郷
 
のほかは刈るべきものばかり 片岡 青苑
 
の空の蒼さを身にまとひ 渡辺向日葵
 
庭に餅つくと束ねけり 池上浩山人
 
や耳をゆたかに老い給へ 越高飛騨男
 
や母のやうなる見舞妻 石田波郷
 
の霜を払つて剪りにけり 富安風生
 
の雪をはらふも別かな 室生犀星
 
や世にうときゆゑ仕合せに 岩木躑躅
 
を憐みよりて剪りにけり 高浜虚子
 
の隣もありや生大根 許六
 
さみしからずも黄を寄せ合へば 秩父
 
花びらを重ねてにほふ 龍太
 
のくれなゐふかく昃りけり 梅の門
 
にいぢけて居ればきりもなし みどり女
 
の霜を払つて剪りにけり 風生
 
や蕪引たる裏の畑 五城
 
を憐みよりて剪りにけり 虚子
 
の雪をはらふも別かな 犀星
 
に古鏡の塵を払ひけり 紫影
 
に頬かぶりする小猿かな 一茶
 
やいも屋の裏の吹透し 子規
 
や茂る葉末のはだれ雪 太祇
 
や虱をこぼす身のいとま 白雄
 
や水屋の水の薄氷 蓼太
 
やけふはほとびて朝雫 野坡
 
や日の照る村の片ほとり 蕪村
 
の気随に咲くや藪の中 来山
 
星冴て白う成にけり 唄子
 
にいぢけて居ればきりもなし 阿部みどり女
 
やひとつの色に暮れはじむ 谷口桂子
 
と白き障子をへだて住む 福田蓼汀
 
の雪をはらふも別かな 室生犀星
 
の避の宿に黄なるかな 青木薫風郎
 
や年々同じ庭の隈 高浜虚子
 
は咲きぬ吾庵仏無し 渋川玄耳
 
やころがり侘びて石一つ 日野草城
 
左の目病むの重さかな 佐怒賀直美
 
や消炭干せし売る茶亭 鈴木芋村
 
や母のやうなる見舞妻 石田波郷(1913-69)
 
や粉糠のかゝる臼の端 芭蕉
 
や佛師が妻の肺を病む 寺田寅彦
 
や仏となりし御身の色 尾崎紅葉
 
の雪をはらふも別れかな 室生犀星 魚眠洞發句集
 
消炭にすこし枯れにけり 室生犀星 魚眠洞發句集
 
我に返り見直す隅に赤し 中村汀女
 
にふれし箒をかるく引き 星野立子
 
や縫ひつつおとす針の錆 加藤知世子
 
霜や咲かずじまひの小豆 北原白秋
 
を匂ふごとくに描けといふ 今瀬剛一
 
や茂る葉末のはだれ雪 炭 太祇 太祇句選後篇
 
林に頭を灯し来る 堀口星眠 営巣期
 
や風の中なる鏡山 石原八束 藍微塵
 
むけれど匂ふ壷を前うしろ 臼田亞浪 定本亜浪句集
 
を懐炉を市に求めけり 臼田亞浪 定本亜浪句集
 
や赤土壁の鷹の糞 史邦 俳諧撰集「藤の実」
 
水たごにゆゆ竈(へつい)壁 大阪-荘人 俳諧撰集「藤の実」
 
や顔も洗はず懐手 京僧-通達 俳諧撰集「藤の実」
 
やわきてかしこき莟がち 黒柳召波 春泥句集
 
や猶なつかしき光悦寺 黒柳召波 春泥句集
 
や手をもみ初めてのはな 風斤 芭蕉庵小文庫
 
に野武士も住むか和邇堅田 史邦 芭蕉庵小文庫
 
や火を焼く方の真さかり 李由 十 月 月別句集「韻塞」
 
の隣もありや生大根 許六 俳諧撰集「有磯海」
 
の古薦のぞく日和かな 美濃-嵐舟 俳諧撰集「有磯海」

 

 

 

我が家の春花壇(プランター群)のメインはロベリアの予定だが・・

ノースポールよりさらに遅れている


一番おおきいものでも  ↓この程度

 

 

鹿に注意

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「猿に注意」「鹿に注意」と滝道に

春・夏・秋、年に3度は箕面の滝道を歩く。午後の散歩コースとして。

昨年の秋に滝道を歩いていると「猿に餌をやるな」という注意書きに加えて

「鹿に注意」の新しい立札、貼札が目についた。

勝尾寺ではなく、滝道では猿にお目にかかることも珍しい。

偶に道のはるか上の獣道を猿が歩いているのを見つけると遊歩道を歩いている人も

歩みを止めて物珍しく眺めるほどである。

そのあたりにも鹿が姿を見せるようになったのであろう。カナヘイきらきら

「箕面 滝道 鹿に注意の画像」の画像検索結果

美作のアジサイ寺は、鹿の出現で紫陽花の芽が食害に遭い全く観光価値を失くしてしまった。

「美作アジサイ寺」の画像検索結果

京都の北山植物園や淡路島のSAでは、「トンビに注意」の注意札がおびただしい。

木陰で弁当を広げていると確実に狙われるようである。ニヤニヤ

夙川や芦屋川の上流河川敷遊歩道周辺では、ゴミは回収時刻に合わせて出せという注意書きが目立つ。これはイノシシ対策である。子連れイノシシに出会って傷を負ったという「事件」もよく耳にする。

「芦屋川 イノシシ 画像」の画像検索結果

 
 

 

 

 

東粟倉の山道には、「熊に注意」「熊に出会ったら」の標識が目立つ。

携帯ラジオをonにして歩けとか、子連れ母熊には特に注意とか

 

読むだけで怖くなる。だから最近は武蔵が収監されていた牢獄跡などには近づかない。

ましてやベリビールなどへは。

 

美作富士(みまさかふじ)と呼ばれる日名倉山(ひなくらやま)の中腹・標高約865メートルに位置する自然公園。

 

兵庫県の氷ノ山、西に那岐山、津山市、南に小豆島が望めます。大きなアーチ型の鐘楼には、直径2メートル、重さ6トンに及ぶ、「リュバンベールの鐘」と名づけられた、大きなスウィングベルが備えてあり、ベルの音が緑の深山に鳴り響きます。

 

  リュバンベールとはフランス語で「緑のリボン」。心と心を結ぶ意味で、夫婦愛、家族愛、友人愛、子どもに対する愛など「愛の鐘」として存在しています。

 また、結婚式場「ベルピールホール」があり、大自然の中で挙げるウエディングスポットとしても人気。ブライダルプランナーも常勤しています。
 2階には、パノラマ眺望の喫茶スペースがあり、「愛の水」を利用したコーヒーなど喫茶メニューを提供しています。
 
ベルピール_サブ1 鐘楼の裏手には、平成24年3月に文化庁のふるさと文化財の森に「日名倉山茅場」として認定された、茅の群生地が約10ヘクタールに渡り広がり、登山道から片道35分ほどで日名倉山の頂上までのミニトレッキングも楽しめます。
 

それに真夏でもかなり(寒いに近く)涼しい!

 

 

 

 

縮畫粉法

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「縮畫粉法」というタイトルの和綴じ

 
このままの単語ではネット上に情報なし。
袋とじされているのものを見開きページ毎に画像撮り
水墨画のスケッチ帖のような感じ
ほんの素描、習作の感じのものも。
お手本通りを写しているのか?
アトランダムにいろいろなものから選んで模写っているのか
どうも適当に模写対象を選んでいるように思う。
 
 
 
 
 
明治35年前後に描かれたもの。
↑裏表紙。文字はほとんど読めない。
 
ワイフの祖父の作品ケースから出てきたものを全頁撮影。
 
句会参加
 
出句5句 席題は「東・西・南・北」の一字ないしそれ以上。東風や北風(きた)などもOK
 
薄氷を踏めば混沌就任式
東向きの札場の地蔵初日の出   席題句
冬桜昨日の誓約何だっけ
デモの声届かぬ隅の花八手
それぞれの追憶蠟梅咲く頃の
大雪情報(智頭町辺りすごい立ち往生)に接して
 
 
積雪を欲しいと思う邪念など
 
 
 

火事跡

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いい感じのテラスないしバルコニーの感じ。
駅前に残る(コーヒの)青山(商事)ビルの5階、エレベータ―内部から。
一つの階は、一つの店になっている。
5階は歯科医院。3か月に一度、歯の掃除に伺い。
この前は10月で、次は4月。
 
診察治療時間30分ほど。そのまま無目的に駅構内へ。
ネスカフェの100均コーヒ店。かなりの繁盛。1杯100円だが、定期券(30杯)だと980円。
ネスカフェの新戦略か?
大阪に一号店というわけではないはず、東京ではかなりの展開を示しているのだろうか?
 
ネットで検索:
↓の記事に出会った。
 
 
阪急電鉄株式会社及び株式会社エキ・リテール・サービス阪急阪神とネスレ日本株式会社では、新しい“バール”スタイルのカフェ「ネスカフェ スタンド」1号店を阪急塚口駅ホームに12月2日(金)オープンします。また、12月5日(月)には逆瀬川駅、岡町駅、総持寺駅、高槻市駅の各駅にもオープン予定です。

「ネスカフェ スタンド」は、カフェの本場イタリアの街角にある立ったままエスプレッソを楽しむ「バール」をモチーフに、本格的なコーヒーなど6種類を提供するとともに、新聞や菓子も販売(一部店舗を除く)します。沿線にお住まいの方や通勤・通学の方々に毎日気軽にお立寄りいただき、店員と、あるいはお客様同士が語らい楽しめるような、地域の皆様にも愛されるカフェを目指します。
サービス概要については、次のとおりです。・・・・。
 
ネスレ日本は、神戸に本社がある。東京1号店ではなかった。東京への展開はこれからであろう。
 
 
おなじ駅構内のすぐそばに、
モーニングを390円で提供する喫茶店↑や世界チェーンのタリーズコーヒ店もあるが
そちらの方の客が減ったようでもない。私も独身の新入社員ならこんな店を利用していたかも。
 
Wikipedia:
タリーズコーヒー(Tully's Coffee Corporation)は、アメリカワシントン州シアトルを本拠とするコーヒーチェーン店。アメリカ国外では、ブランドライセンス供与の形で日本韓国に出店している。
 
タリーズは、アメリカ国内ではスターバックスに次ぎ、業界2位だが、世界展開はしていないよう。
 
 
 
家は歯医者へ行って来ると言って出ているので、そう遠くへは行けない。
十三駅で下車。駅前の火事跡後の再開発地を見学。
 
 
10時前だがすでに開店している呑み屋もある。
↑の画像では影になっている部分くらいしかない道幅であった。
 
大分とか鹿児島といった地名が目立つ。
↑は仙台名物を謳っている。
もはや火事跡を示す痕跡はほとんどない。
店の数は半分くらいになったのか、どの店も入り口が広くなった感じがする。
 
 
火事は3年前の3月だった。
↑のニュースの中にも出て来るが十三駅は梅田を出た神戸線、宝塚線、京都線(千里山線)
のすべての電車が通過する阪急電車の重要駅。
私も現役時代はこの駅で乗り換えて通勤していた。
 
火事跡に横丁の跡鶏あゆむ 秋元不死男
 
火事跡の焦げし柱を月照らす 近森 千句葉
 
火事跡のまた匂ひ出づ雪催ひ 鷹羽狩行
 
そのままにせる火事跡に紫蘇の花 栗原加美
 
火事跡に虚空を掴む一樹あり 薮脇 晴美
 
火事跡に*かりんを置いてきたりけり 仙田洋子 雲は王冠
 
 
 
火事跡に鮮しき朝の午乳壜 高島茂
 
↑牛乳瓶の誤植である。こういう分かり易いものもあるが
意味不明の用語に出会うと誤植の断定が出来ず迷うことが多い。
 
火事跡の貼紙にある遠い町 林菊枝
 
火事跡のまた匂ひ出づ雪催ひ 鷹羽狩行
 
初霜や火事跡といふ黒きもの 鷹羽狩行
 
火事跡に焼けのこりたる窓のあり 藺草慶子
 
酔ひて乗る電車突つ込め火事跡へ 皆吉司
 
火事跡の屋根に穴あき空いちまい 皆吉司
 
火事跡のバケツの縁につもる雪 皆吉司
 
火事跡の間取りくきやかにて雨よ 櫂未知子 蒙古斑
 
火事跡や風をしづめし朝の雨 徳永山冬子
 
つゆけさや火事跡を這ふ大馬陸 塚本邦雄 甘露
 
火事跡の四五日経たり春の鴨 大峯あきら
 
蒼白な火事跡の靴下蝶発てり 赤尾兜子
ついでに塚口駅前の火事跡
私の推理:(いいかげん)
 
権利者間の話し合いがついて、再開発ビルを計画、整地を済ませて、建築計画を申請、
市に拒絶され、放置。
 
何しろ🚘が出入りできる場所が確保できない。北側は、一方通行の道へでるために、
そこへいたる10mか20mの間の通路を確保しなければならないが、そこは私道のようで、
4メートル幅に拡大しても工事車両などは入れないし、私道の拡張そのものがむつかしそう。
 
東側は、6メートル幅の南北道にほぼ面しているが、「ほぼ」が問題である。この8メートル道路は、南行きのタクシーのみ通行可で、タクシー以外は踏切を通ることが出来ない。
 
ということは南北道へ顔だしした車は、右へも左へも行けない。
 
通行人も多く、規制を緩和するためには大統領令でもないかぎり不可能。
 
南側は線路伝いの3m道路があるが、西側は私道を通じてしか本道へ出られないが
中型車も通行不可能な隘路である。右側(東側)で踏切脇で、踏切右折するのは技術的に難しく、法令上禁止だし、左折はもまた禁止されている。左折は技術的に可能だが、そfrすの先もまた大型車は進入禁止地帯である。
 
南側の金網越しに
 
 
大株のアメリカセンダングサが枯れずに残っている。
↑アカノママ
↓は木のようである。
帰路に見た
冬の花
キバナコスモス
パンジー
ポリゴナム 一年中咲いている。
我が家のカランコエ
3部屋に分かれて越冬中。
 
 
 
 
 

青山商事

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単に青山商事で検索すると、広島に本社がある「洋服の青山」に関する情報ばかりが現れる。

2,3覗くと、私ばかりなく(昨年一年間で柄物ネクタイを締めたのは1日だけだった)世に「スーツ離れ」が浸透しているらしく、洋服ス―パーは苦戦中のよう。
 
私も青山カードを持っているが、近年全く利用しない。駅前のダイエーでも手軽な価格で購入可能だし、普段着のズボンを1本買う場合、青山へ行くと3本買う羽目になるので。
 
取り上げる青山商事は、尼崎市塚口に本社がある喫茶の青山、リーフマークの青山を展開していた青山商事である。
 
 
本社がある駅前にあった喫茶店4店の現在を撮影
駅の北改札口から徒歩1分以内のところに建つ青山ビルの1階にあった店舗
ドコモショップになっている。このドコモショップはもう少し東にあった店舗が移転してきた。
かなり広い。幼児が遊べるスペースもある。
2階は整形外科のようである。
 
北側の隣は「魚民」の看板とセブンイレブンのトレードマークが見える。
もとは「佐藤旅館」であった。サトウ・ハチローさんの姉妹が経営者であった。
 
セブンイレブンは青山の閉店後開店したが、この種のコンビニでは100円でカップ入りコーヒを購入可能だし、カメラを構えている右手にはドットルコーヒ店がある。
 
著名な青山の向いにコーヒ店を開店してやっているいけるのかと心配したが、
良く流行っている。カウンターに並んで、コーヒ(と好きなパイなど)を注文、トレイに載せて
自分で席に運ぶシステムの店は御堂筋界隈にも多い。
 
駅の南改札口近くの店
コンビニになっている。この喫茶店は2階も利用していたので、このコンビニも珍しく2階建てで、1階で買ったコーヒを2階で座って呑むことが出来る。
コンビニの北側(線路側)はスリガラスになっているが、喫茶店であった時は、夜は店内が
丸見えの透明ガラスであった。その席にわが俳句の師匠が座って選句活動をやっていた。
 
このビルの地下にも青山の店舗があった。ここは不動産会社の管理下にあってまだ購入先がきまっていないよう。
 
シャッターの無い窓辺には青山時代のカーテンがそのまま利用されている。
この店がある1画(全画?)は完璧にシャッター街である。
もう一軒、北側改札口から徒歩4,5分のところにあった店は、マンションの一画に組み込まれ、喫茶店があった部分は証券会社になっている。
 
今日の花
 
Wikipedia

リビングストンデージー(英, Livingstone daisy, 学名Dorotheanthus bellidiformis)は、ハマミズナ科南アフリカ原産半耐寒性一年草。鉢植え用および暖地の花壇用草花として栽培されている。

メセンと呼ばれる植物群の一つで、同属植物は12種ほどある。

 

この花などは、多年草化・四季咲化している。季語として扱うなら春であろう。

古い図鑑には、紅玻璃草(べにはりそう)の和名を掲げるものもあるが、現在は全く使われていない。葉が多肉質で、花が菊に似ているため「サボテンギク」、同科のマツバギクに似ていて葉がへら状のため「ヘラマツバギク」ともいう。学名の種名は、「ヒナギク属のような形の」の意味であるが、キク科とは近縁ではない。

 

デージーは星の雫に息づける 阿部みどり女
 
踏みてすぐデージーの花起き上る 高浜虚子
 
デージーや意地悪さうな兎の眼 西村和子 夏帽子
 
デージーじたい例句少ないが、デージーとリビングストン・デージーは全く別物。
デージーは、ヨーロッパでは、イタリアからイギリスまで、芝生に咲くカタバミのような存在である。野生のものは園芸品種に比べ、はるかに小型で花も白く小さい。
 

ヴァイオレット・セージも我が町でよくみかける。これなどは野生化している気配。

 

 

 

蠟梅

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同じ道沿いの2軒の家の塀の中に咲いている蠟梅
 
 
強剪定されている蠟梅
 
寒波中断。梅が咲きだすと蠟梅は勢いがなくなってゆく。
 
 
満開や塩土老翁遠目して 渡辺誠一郎
 
満開の森の陰部の鰓呼吸 八木三日女
 
葬儀屋に金銀満開冬ざるる 檜 紀代
 
日曜の百合満開に脳死論 松本恭子
 
満開といへどあはあは黄蜀葵 木内怜子
 
満開にしてふつと消ゆ桃の花 齋藤玄 『無畔』
 
桜の森の満開の下傴僂が一服 仁平勝 花盗人
 
どくだみの満開敬語使はねば 大木あまり 火のいろに
 
乱れ菊括られてより満開に 小笠原須美子
 
菊芋の花が満開山の駅 青柳照葉
 
満開のほかにすべなく水中花 長谷川満子
 
満開のさつき水面に照るごとし 杉田久女
 
満開の牡丹風ごと買ひ帰る 高橋悦男
 
日の束となり海棠の花満開 福川悠子
 
満開の花の中なる虚子忌かな 秋元不死男
 
満開の桜に仁王の顔ゆるむ 中村きみ子
 
満開のしだれ桜の地へとどく 満田春日
 
満開を見上げる無限落下感 折笠美秋
 
もう一つ満開の花仏の座 上島清子
 
日の束となり海棠の花満開 福川悠子
 
満開の桜が雲を低くせり 松田秀一
 
盆梅が満開となり酒買ひに 皆川盤水
 
満開のしだれざくらに風翳る 西村 博子
 
樹液鳴りとよむ満開のさくら揺れ 仙田洋子 橋のあなたに
 
満開のさつき水面に照るごとし 杉田久女
 
連翹満開このあかるさはただならず 五味洒蝶
 
福寿草満開雪塊しりぞくに 青邨
 
満開といふ淋しさの稲の花 日比野さき枝
 
満開の花の中なる虚子忌かな 秋元不死男
 
樹液鳴りとよむ満開のさくら揺れ 仙田洋子
 
満開のさくらに軍鶏の飛び上る 和田耕三郎
 
金盞花満開にして島乾く 二村典子
 
満開おのが身に皮膚いちまい 辻美奈子
 
満開の桜や救急車が過ぎる 五島高資
 
毛皮剥ぐ日中や桜満開に 佐藤鬼房
 
満開の地獄の昼を間近にいる 津沢マサ子
 
満開の桜に吼ゆる海驢かな 和田悟朗
 
満開にしてふつと消ゆ桃の花 斎藤玄
 
満開の桜のこゑに耳とざす 坂本宮尾
 
満開のこみ上げてくる櫻かな 安田鈴彦
 
祈願して雨後満開の花の杜 対馬康子 吾亦紅
 
満開のすすきはしあはせだらうか 櫂未知子 蒙古斑
 
満開のさくらのうしろ魚籠ひゆる 中田剛 珠樹
 
満開のさつき水面に照るごとし 杉田久女
 
辛夷満開こぞりて天に祈るかな 成瀬桜桃子
 
満開の桜の下の子守唄 狩野みほ
 
満開人は地べたに座りたい 漆畑利男
 
胸乳ひらくごと花こぶし満開に 上野さち子
 
満開の花の枝に杖かけてあり 岸田稚魚
 
満開のさくらに浮きて鴉かな 岸田稚魚
 
わたくしの骨とさくらが満開に 大西泰世(1949-)
 
満開のふれてつめたき桜の木 鈴木六林男(1919-)
 
雪柳いま満開の重さかな 田中一生
 
満開の梅なり風もふれしめず 中村汀女
 
満開の桜の上に空のあり 片山由美子
 
満開の下をけもののように過ぐ 大西泰世
 
わたくしの骨とさくらが満開に 大西泰世
 
人格を穢す満開の花の幹 増田まさみ
 
満開のつつじきのうは古りにけり 森田智子
 
日曜の百合満開に脳死論 松本恭子
 
満開ひとりごろ寝してあれば 寺田京子
 
夜は桜の満開とおもふなり 金田咲子
 
満開の櫻のために琴を弾く 品川鈴子
 
満開の花の一枝とかざし見せ 深見けん二
 
地に深く居る満開の桜の根 辻田克巳
 
大雨の迫れるさくら満開に 辻桃子
 
満開の桜の中の辛夷かな 田川飛旅子
 
満開のこぶしに森も涯ならむ 福永耕二
 
雲白し蝉満開の故郷の杉 福田甲子雄
 
満開にしてふつと消ゆ桃の花 斎藤玄 無畔
 
満開のふれてつめたき桜の木 鈴木六林男 悪霊
 
満開の花の一枝とかざし見せ 深見けん二
 
 
 今日のお隣
 
 
今は1階2戸のベランダを半分囲う作業
 
昨日
それが終わると排水溝の整備。
 
 
25日
 
24日
 
 
23日
 
 

マーガレット

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↑私が勝手に決めている我が町の標準木。
裸木だが、花の準備は始まっている。
公園を歩いていると見知らぬご婦人から声をかけられる。
この辺りにお詳しいようなので、お尋ねするが、この公園には山梔子の木はないだろうかと。
足を病む姉に湿布薬を作ってやりたいとのこと。クチナシの葉の煮出し汁を小麦粉と混ぜて作るとか。
 
残念ながら、いたるところで山梔子をみているようで、とっさには思い出せなかった。
家に帰ってワイフに告げると、ご近所で工芸(ロウケツ染め)作品を作っておられる有名作家のお家の垣根が山梔子だった。
 
桜と違って、ミモザは、今にも咲きだしそうな気配。
近所で一番立派なミモザの大木は強剪定の翌年、さらに2メートル足らずの幹だけになって
しまったので、今や我が町を代表するミモザになった気配。
 
かなり成長が早く、かつ根張りが旺盛なのか、家の軒までの距離が十分でないと
育てにくいようである。
 
七月のミモザの花よジャンギャバン
 
夏の句会で他に持ち句がない時に出句しようとキープしている句。
ジャン・ギャバン主演のモノクロ映画の中のセリフで、
歌の一節であったかも。
 
北海道ではミモザはいつ頃咲くのだろう。
桜も5月には咲くようだから
せいぜい
5月のミモザの花だろう。
 
5月には、エルムもリラもレンゲツツジも咲くから、ミモザは目立たないかも。
 
今日の花
なんだろう?
紅花ノースポール? マーガレットなら花の中心部分が黄色のはずだし・・。
 
Wikipedia マーガレット
 

カナリア諸島が原産地で、17世紀末に欧州に渡る。日本には明治時代末期に伝わり、大正時代から幅広く栽培されるようになった。3-7月に花をつける。白色の一重咲きが普通であるが、黄色やピンクのもの、八重咲き、丁字咲きのものもある。本来は宿根草であるが、日本では温暖地でないと越冬できない。フランスギク属シャスターデージ Leucanthemum x superbum やフランスギク Leucanthemum vulgare とよく混同される。何年も越冬できて大株になってくると茎が木質化し、低木のようになる。繁殖は挿し芽による。

色々な花の咲き方があり、真ん中におしべ、めしべがありその周りに花びらがついている咲き方や、全体に花びらが付いている、オペラ咲きなどがある。

マーガレットの花言葉は「恋を占う」「心に秘めた愛」「貞節」「誠実」。

 
 
どうやら八重咲きマーガレットらしい。
 
フユサンゴ
↑蘇鉄  ↓石蕗の絮
↓アロエ
早咲きの唐梅
館長さん宅
その家の近く。白梅
 
 
 

太公望

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1月の沢で活き活きと蕾を養う植物。
藪柑子(十両)も育っていたが確認できない。
 
1月の池畔に朱の太公望
 
杉一樹観光バスの来ぬ冬野
 
春にはキランソウが芽吹く土手
今は花なし。
今月は神戸市北区へ計6往復。計370キロ。片道31キロ。
 
 
 
 
 
 

没稿

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太公望消え薄氷の平らなり
一本杉
 
地には椎の実の累々。
「累々」意外にも例句多い。
四萬六千日近き鳩の影累々 中原道夫
 
嵐めく夜なり檸檬の黄が累々 楠本憲吉
 
岩瀬ばかりに累々と酸橘熟れ 友岡子郷
 
月一つ杏子累々熟れはじむ 青柳志解樹
 
紀州鬼の国山累々と蜀魂 中村苑子
 
累々として馬鹿面の旱石 宇多喜代子
 
テロの予感甕累々と雪を被く 齋藤玄 『玄』
 
切株の累々薯を植うるなり 相馬遷子
 
初鏡闇累々と横たはり 阿波野青畝
 
赤まんま墓累々と焼けのこり 三橋鷹女
 
農学校実を累々とねずみもち 青柳志解樹
 
寒卵累々と灯を求め合ふ 中村秋農夫
 
累々たる夏野の堆土これ墳墓 加藤楸邨
 
古家や累々として柚子黄なり 子規
 
生も死も累々として寒卵 岩岡中正
 
曝涼や累々として南朝史 牧野春駒
 
赤まんま墓累々と焼けのこり 三橋鷹女
 
累々と徳孤ならずの蜜柑哉 夏目漱石 漱石俳句集
 
鹿の糞累々として花芒 河東碧梧桐
 
青柿の累々と終戦日なり 有馬籌子
 
累々たる焼跡の甘藍はやあらず 石田波郷
 
おろかなる実の累々とかりんかな 大橋敦子
 
涼しさの累々としてまり藻あり 佐藤春夫 能火野人十七音詩抄
 
赤まんま墓累々と焼けのこり 三橋鷹女
 
理立の土累々と陽炎へり 斉藤夏風
 
獣皮累々と日を享け不意のひとり 林田紀音夫
 
累々と屋根死に手から歩きだす 林田紀音夫
 
林檎累々メルヘンのはじまれる 松澤昭 面白
 
師無き者等累々彳てり寒葬 楠本憲吉
 
没稿累々大統領令矢継ぎ早
 
 
 
 
 

チョコ

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2月の声を聞くと、チョコ。
 
2段になっていて24粒のチョコが入っている。ドゥボーヴ・エ・ガレ
価格は、21,600円
 
フランスルイ16世の王室薬剤師であった貴族出身のSulpice Debauveスルピス ドゥボーヴ(1757-1836)はフランス革命後の1800年、パリの左岸Faubourg Saint-Germainフォーブルサンジェルマンにチョコレート店を開きました。現在、パリで一番歴史を持つチョコレート店となっております。
↑メサージュ・ド・ローズ  ベルローズ 1本税込み411円
 

古代から美と愛の象徴だった「薔薇」。
ギリシャやローマでは、結婚式のある家や出帆・帰帆する船、
また凱旋将軍の車などを薔薇で飾ったと言います。

そんな幸せに包まれたバラを、芳香豊かなチョコレートで表現できたら、
もっと気持ちを伝えられるはず・・・。

店名はフランス語で”薔薇のメッセージ”

メサージュ・ド・ローズはそんな思いから生まれました。
1989年の創業以来、美しいバラを育てるように、
デリケートな技術と細やかな心づかいで、
セピアの花びらをひとつひとつ手で重ね、心を込めて仕上げています。

チョコレートの本場、フランスで認められた原料と、日本の繊細な技術の融合によって
生みだされたスイートなバラが、あなたのメッセージを気品高くお届けいたします。

 
ユーゴ・アンド・ヴィクトール  クール・ド・フレーズ 12個入り5,184円
 
ユーゴ・エ・ヴィクトールは星つきレストランのエグゼクティブシェフパティシエを務めたユーグ・プジェ氏と、文学好きのシルヴァン・ブラン氏の幼なじみふたりによるチョコレート専門店!
このメゾンの特徴は、ふたりが自ら足を運んで世界中で見つけた新鮮な食材や、季節のフルーツを使用した斬新なスイーツ
実際に生産者に合って、気に入った商品だけを使用するというこだわりです
 
思わず立ち止まって魅入ってしまう大きな大きなコブタチョコ。気持ち良さそうなコブタの寝顔をリアルに表現した、つなぎ目の無い立体チョコです。その重さ1kg超えの迫力と愛くるしいその姿は、笑顔あふれるサプライズにぴったり!カカオ35%のイタリア産ミルクチョコレート「ラテ・レジーナ(カカオ35%)」を使い、ひとつひとつ手作りしています。
税抜き8000円
 
いろいろ並んでいる。7ブースすべてチョコ。
阪急百貨店バレンタイン・バージョン
 
 
全品違う会社の違う製品
十月の闇のかけらのチョコレート 高野ムツオ 鳥柱
 
いつの間にがらりと涼しチョコレート 星野立子
 
チョコレートとけて元日昏れてゐる 藤木清子
 
われに一つバレンタインのチョコレート 行方克巳
2年前の2月14日は、都合悪く第2木曜日であった。句会出席の男性は私のみ。
チョコを貰った。ゴディヴァのチョコだった。
5倍返ししますと言って、数日後、神戸元町の商店街の入り口にある
ゴディヴァの店を覗いて驚いた。
 
しかしドゥボーヴ・エ・ガレでなくてよかたっというべきか。
待ちあはすバレンタインのティールーム 安藤 雅子
 
指染めてバレンタインの夜を独り 中野 貴美子
 
バレンタイン誰彼なしに影加へ 松澤雅世
 
乳牛の黒き眼バレンタインの峡 大峯あきら
 
バレンタイン井戸という井戸猥褻な 夜基津吐虫
 
手話の娘の買ふバレンタインのチヨコレート 今井桂子
 
バレンタインの日なり灼かれて真赤な鉄 見学 玄
 
忘れ得ぬバレンタインの日の言葉 堂前悦子
 
思ひきり朱着てバレンタインの日 岩佐こん
 
校舎より海見えバレンタインの日 小野さとし
 
バレンタインの日は老人でありにけり 多田薙石
 
今だから話せるバレンタインの日 指澤紀子
 
バレンタイン彼女に適ふ奴はなく 伊規須富夫
 
声群るる鳥ゐるバレンタインの日 花田由子
 
ハムの紐ほどきてバレンタインの日 高見岳子
 
インタホーン時差ありバレンタインの日 三森 南
 
乳牛の黒き眼バレンタインの峡 大峯あきら
 
バレンタインのチヨコ携へて出講す 山田みづえ
 
バレンタインの日なり遠くで犬が吠え 大江まり江
 
薔薇抱いてバレンタインといふ日かな 友田美代
 
バレンタインの日なり山妻ピアノ弾く 景山筍吉
 
茶粥召すバレンタインの日の聖 橋本榮治 麦生
 
乳牛の黒き眼バレンタインの峡 大峯あきら
 
紅茶熱しバレンタインの日と思う 金堂淑子
 
いつも何か待ちゐし頃のバレンタイン 西村和子 窓
 
われに一つバレンタインのチョコレート 行方克巳
 
湾に舟浮かべバレンタインの日なりけり 佐川広治
 
母は母娘は娘のバレンタインの日 山田弘子
 

オキザリス

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今華やかなのは、このオキザリス。
桃の輝き という名らしい。
これから花数がさらに増えていく。これがカタバミだと知ったのは、多分、去年だと思う。
急速に、街中の家庭花壇に普及している。多分10年前には、導入されていなかったように思う。その種の情報を探したが見つからなかった。
 
 
女医さん手作りの厄除け面がいっぱいの待合室。久し振り。一年ぶり。
診察室から出てきた患者さんは、先週の火曜日に出会ったばかりのご近所在住の他結社の俳人。先週の火曜日には、私がお送りした俳誌創刊号の謝礼の為に句会場がある公民館へおいで下さった。
 
この方とは市の俳句協会の役員会でご一緒しているが、妙によくお会いする。
大阪城公園の梅林で出会ったことも。
 
「厄除」では1句のみ例句
 
寒風に赤旗立てて厄除寺 船津俶子
 
創刊した俳誌の第2号に載せるエッセイ作成のために、
「現代俳句協会」「俳人協会」「伝統俳句協会」{ほかにも「滑稽俳句協会など)をネット検索で
お勉強。
 
現代俳句協会は、2006年現在で会員数「約9000」
俳人協会は「会員15,000人(2013年12月現在)」
伝統俳句協会は、「2004年で会員数は6500」
 
以上いずれもウィキペディアが挙げているいる数字。伝統俳句協会のみ(公式HPによる)と注記されている。ー公式HPでは他の2協会の会員数や、その移動は確認できないのは確か。
 
追記:伝統俳句協会の正会員数は、毎年度の事業報告に記載されている。平成27年度報告では、正会員は3070で、前の年度から200近く減少している。
 
2つの協会に所属している人もいる。
 
2017年現在では、現代俳句協会と伝統俳句協会の会員数は減少していると思う。
大幅に増えていれば事務局が書き換え可能である。ウィキペディアは誰でも編集に参加できるので。
 
俳人協会、伝統俳句協会は公益社団法人格を得ているが、現代俳句協会は任意団体のよう。
 
 
 
 
 
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