茨木童子(いばらきどうじ)は、平安時代に大江山を本拠に京都を荒らし回ったとされる「鬼」の一人。茨城童子と書くこともある。酒呑童子(しゅてんどうじ)の最も重要な家来であった。
その出生地にはいろいろ諸説あるが、尼崎市であったという説もある。
茨木童子の出生地についても兵庫県尼崎市や大阪府茨木市の説もあり、『摂津名所図会』・『摂陽研説』・『摂陽群談』などの資料ではこれらを採っている。1701年刊行の『摂陽群談』では、 摂津国の富松の里(現・兵庫県尼崎市)で生まれ、茨木の里(茨木市)に産着のまま捨てられていたところを酒呑童子に拾われ茨木の名をつけて養われたとある。
また『摂陽研説』では、茨木童子は川邊郡留松村(富松と同じく尼崎市の一部)の土民の子であったが、生まれながらに牙が生え、髪が長く、眼光があって成人以上に力があったので、一族はこの子を怖れて島下郡茨木村の辺りに捨て、酒呑童子に拾われたという。
(インク文字が混じる文章は、ウィキペディアから)
↑後ろ向きの子供が茨木童子
富松神社の新春(というよりこれからの1年)用の大絵馬
本殿の左側に飾られている。
富松神社は旧の東富松村の中心部分にある。
しかし茨木童子の出生地(尼崎説)は西富松村であったそうな。
茨木童子と西富松との関係
尼崎神社案内のうちの、西富松神社の案内
「茨木童子」という鬼が富松の里で生まれたと伝えられています。昔、富松の里の村人夫婦に子どもが生まれました。
ところがこの赤ん坊は生まれたばかりなのに毛は生え揃い、目は鋭く光り、口には牙までありました。両親はこの異様な姿を恐れて、考え悩んだ末、大阪の茨木で子どもを捨てることにしました。この子を拾い育てたのが京都で大暴れしていた鬼「酒吞童子」で、我が子のように育て、一番の子分にしました。ある時、茨木童子は故郷の両親が病気にふせっていることを知り、見舞いに富松の里へ戻りました。両親は驚きのあまり病気も治り「よく帰ってきてくれた」と童子を引き入れダンゴを食べさせてもてなしました。(1701年『摂陽群談』より)
西富松神社では9月1日に団子祭をやっているよう。(見学したことないが)
ところが西富松神社(素戔嗚神社)は神主不在神社で、富松神社の宮司が兼担している。
よって富松神社の絵馬にも茨木童子が登場することになったよう。
参道。両脇の燈籠は江戸期のものである。境内にも文化の年号を記す獅子像がある。
礎石には、願主 大坂住 何某 となっている。匿名であることを記したものは
これ以外見たことがない。
ここに文化十年建立が記されている。
神社の紅葉
鳥居の横と、手水鉢の周辺に4本ほど。
- 初天神学問の絵馬恋の絵馬 結城一雄
- 絵馬堂の絵馬の薄れし木下闇 上田 俊二
- 絵馬堂に絵馬のひしめく梅月夜 毛塚静枝
- 明神絵馬木の実に打たれつつ古りぬ 村上しゆら
- 浮世絵の女の絵馬や生姜市 加藤三七子
- 月しろのわたりし絵馬の月日かな 村上しゅら
- 客われをじつと見る猫秋の宵 八木絵馬
- 桜東風文字いとけなき恋の絵馬 有馬籌子
- 畑打に絵馬の女の顔白し 藤田湘子
- 絵馬によき手綱曳かせて春の寺 原裕 『出雲』
- 裏がへる絵馬一つあり東風の宮 阿部みどり女 『笹鳴』
- 絵馬兎金眼をきかす月の寺 大木あまり 山の夢
- 願かけの絵馬の古びて枇杷の花 下間ノリ
- 冬ぬくし重なり合ひて恋の絵馬 高橋悦男
- 奉納の手型の絵馬や七五三 佐野たけ子
- 裏がへる絵馬一つあり東風の宮 阿部みどり女
- 新しき絵馬重なりて日脚伸ぶ 生田経子
- いきほひのある絵馬を買ふ初詣 住田歌子
- 正月や望みの高き絵馬あふれ 林 民子
- 強風に打ち合ふ絵馬や初天神 沖山政子
- 助六で絵馬を杵屋で餅を買ひ 土屋花峰
- 大絵馬の白駒枯野へ跳り出る 宮坂秋湖
- 絵馬幾重いくへに青葉時雨かな 樋口桂紅
- 寛政の絵馬の嘶き夏木立 中村みよ子
- 誤字ひとつぶっきらぼうな受験絵馬 松本三千夫
- 紅紐の絵馬うちならぶ春の月 津森延世
- どんどの火願文古りし絵馬を焼く 伊沢 健存
- 掛絵馬の風に鳴るなり寒椿 佐藤郁子
- 探梅の空まだ硬し絵馬の花 岡本ひろ子
- 掛け替ふる大絵馬打てり那智しぐれ 坂口 麗峰
- 音たてて絵馬の打ち合ふ花吹雪 林 久子
- かさなりて絵馬三月の風の中 佐久間采一
- 牛若を懸け絵馬堂の雪しづく 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨
- 蝉涼し絵馬の天人身を横に 松本たかし
- 初午の土産の絵馬の二三枚 後藤夜半
- 大試験一礼ふかく絵馬納む 藤原三余
- 立春の鶏絵馬堂に歩み入る 佐野美智
- 絵馬を買ふ列のなかなる御慶かな 清之介
- 蝉涼し絵馬の天人身を横に たかし
- 船絵馬の海青すぎて厄日前 能村研三
- 古絵馬に四万六千日来る 松本たかし
- 雨乞ひの絵馬に降り来る桜蘂 町田しげき
- 冬木みな言葉を溜めて間引絵馬 町田しげき
- 間引絵馬見て裸木に眼を外らす 町田しげき
- 梅雨畳千住に守る手描き絵馬 町田しげき
- 囀や廻船絵馬は帆満風 宮津昭彦
- 神の留守絵馬堂裏で恋に逢ふ 北野民夫
- 枯蔦や絵馬は古りたる神の杉 寺田寅彦
- 絵馬堂の内に舞ひ込む落葉かな 寺田寅彦
- するすると絵馬の蛇消え昭和消え 寺井谷子
- 誰が鳴子絵馬さかさまにかゝりたる 泉鏡花
- 一枚の絵馬あきかぜのゆくへかな 松村蒼石 雪
- 只ならぬめの字絵馬なり田水沸く 辻桃子
- 杉に雨降り絵馬を濡らして雨終る 林田紀音夫
- 囀や廻船絵馬は帆満風 宮津昭彦
- 絵馬を姓とする作家、絵馬を名とする作家のものをかなり削除した。
摂末社(せつまつしゃ)とは、神社本社とは別に、その神社の管理に属し、その境内または神社の附近の境外にある小規模な神社のことで、摂社(せっしゃ)と末社(まっしゃ)と併せた呼称である。枝宮(えだみや)・枝社(えだやしろ)ともいう。
現在は摂末社に関する規定は特にないが、一般には、摂社はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社、末社はそれ以外のものと区別され、格式は本社>摂社>末社の順とされる。本社の境内にあるものを境内摂社(けいだいせっしゃ)または境内社、境外に独立の敷地を持つものを境外摂社(けいがいせっしゃ)または境外社という。
明治から戦前までの近代社格制度では、官国幣社の摂社は以下のいずれかを満たすものとされ、それ以外は末社とされた。
伊勢神宮については、『延喜式神名帳』に記載のあるもの(式内社)を摂社、『延暦儀式帳』に記載のあるものを末社、両書に未記載だが神宮との密接な関係により古くから祀られてきたものを所管社と称している。府県社以下の諸社(民社)については、境内神社・境外神社の呼称を使用した。
以上は、ウィキペディアの解説である。神社巡りをしているうちに、摂社、末社という言葉にすっかりなじんでしまったが、格付けとして、
本社>摂社>末社
であることは、そのように理解していたが、さて境内にあるもろもろの社のどれが摂社で、どれが末社であるかについては外見ではわからない。
富松神社もかなりの摂末社を設けている。
上の解説からすると、素戔嗚さんと系図上つながる神が祭ってあればそれは摂社ということになる。あるいは藤原氏が領有していた時代の名残として春日社が
あれば、これも摂社ということになる。
商売繁盛を願う人の寄進は無視できないので、たいていの神社が稲荷社を祀っている。
これは末社かどうか。
神社名が稲荷神社であれば、もちろん稲荷の神が主祭神であるから摂社、末社は別物になる。
ところで稲荷の神とは?
神道の稲荷神社では『古事記』、『日本書紀』などの日本神話に記載される宇迦之御魂神(うかのみたま、倉稲魂命とも書く)、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)などの穀物・食物の神を主な祭神とする[12]。
総本宮である伏見稲荷大社では、主祭神である[13]宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社に据え、明応8年(1499年)に本殿に合祀された[14]左右の摂社、田中大神・四大神とともに五柱の神を一宇相殿(一つの社殿に合祀する形)に祀り、これら五柱の祭神は稲荷大神の広大な神徳の神名化としている[15]。 とのこと。
富松神社の由緒案内:
富松神社は、約1250年前に僧の行基が人々を指導して、猪名野笹原を開拓し、稲作を進めるとともに、富松の里の守り神として神様と仏様をおまつりしたのが始まりと伝えられています。
平安時代には藤原摂関家の荘園を守る鎮守の社でした。戦国時代には数度の兵火にかかり社殿や堂塔は焼失し、面影はとどめませんが、樹木などに微かに昔時が偲ばれます。江戸時代に至り、尼崎藩主松平遠江守公厄災除祈願所として特別の庇護を受け盛況を誇りました。大東亜戦争敗戦後は社会変化により神社の基盤は崩れましたが、人々のふるさと富松への信仰心は途切れることなく、里の人々に大切にされ、今日も神様への感謝のお祭りが続いています。 御本殿は1636年に再建されたもので、昭和43年に兵庫県重要文化財に指定されました。 境内の大きな楠は樹齢500年と言われています。
余り祭る神や摂社などには関心がない。あるいは触れる字数を与えられなかったか?
教育委員会としては、歴史的価値、文化的価値が評価対象となる。
兵庫県の神社案内では、富松神社は
創祀は古く、天平五年(733)に聖武天皇の勅願によって僧行基が、猪名野笹原を開耕した折り、二十三ヶ坊の堂塔を造営したが、その内の一坊が当社であった。素盞嗚尊と薬師仏をお祀りし、神仏混淆の形を持つ。
祭神
須佐男命 配祀 應神天皇
摂社
愛宕社「火之加具土神」
熊野社「熊野権現」
皇大神宮社
白山社「白山権現」
金刀比羅社「大己貴命」
天神社「菅原朝臣道真公」
厳島社「弁財天さん」
となっている。すべて摂社で、末社はないよう。
本殿右横
愛宕社
愛宕信仰(あたごしんこう)とは、京都市の愛宕山山頂に鎮座する愛宕神社から発祥した、火防の神に対する神道の信仰である。
愛宕山の愛宕神社は、古くから修験道の道場となり、愛宕山に集まった修験者によって江戸時代中頃から愛宕信仰が日本全国に広められた。中世後期以降、愛宕の神は火伏せに霊験のある神として広く信仰されるようになった。日本全国で「愛宕」を社名につける神社は43都道府県に約1000社ある。特に東北地方に多く分布する。
愛宕の神とされるイザナミは神仏習合時代には勝軍地蔵を本地仏とし、軻遇突智(火産霊尊とも)も共に祀った。現在でも、愛宕の縁日は地蔵と同じ毎月24日である。また、現在でも火産霊命(かぐつち・ほのむすび)が祭神とされる。
勝軍地蔵を本地仏としたことから、火伏せの神としてだけでなく武神としての信仰もあった。民間では、各地に「愛宕講」と呼ばれる講が組織された。「千日詣」と称し、8月1日に参拝すると千日参拝したのと同じ御利益があるとされる。
おなじような解説を以下の格社について、コピー・ペーストするつもりだったが、字数が増えすぎるので、
今回は割愛。
その横、3社が一棟型、長屋型で祀られている。
格子戸から覗いてみれば、
熊野三山社
皇大神宮社
白山社
金刀比羅社
お稲荷さん↑↓
厳島社 周りに池が設けられている。
奈良春日大社遥拝所
4面ガラス戸の能舞台
↓が花道でつながり楽屋裏となる
大絵馬の最終工程もここで行われていたのをみたことがある。