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茨木童子

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茨木童子(いばらきどうじ)は、平安時代大江山を本拠に京都を荒らし回ったとされる「」の一人。茨城童子と書くこともある。酒呑童子(しゅてんどうじ)の最も重要な家来であった。

 

その出生地にはいろいろ諸説あるが、尼崎市であったという説もある。

 

茨木童子の出生地についても兵庫県尼崎市大阪府茨木市の説もあり、『摂津名所図会』・『摂陽研説』・『摂陽群談』などの資料ではこれらを採っている。1701年刊行の『摂陽群談』では、 摂津国の富松の里(現・兵庫県尼崎市)で生まれ、茨木の里(茨木市)に産着のまま捨てられていたところを酒呑童子に拾われ茨木の名をつけて養われたとある。

 

また『摂陽研説』では、茨木童子は川邊郡留松村(富松と同じく尼崎市の一部)の土民の子であったが、生まれながらに牙が生え、髪が長く、眼光があって成人以上に力があったので、一族はこの子を怖れて島下郡茨木村の辺りに捨て、酒呑童子に拾われたという。

(インク文字が混じる文章は、ウィキペディアから)

 

↑後ろ向きの子供が茨木童子

 

富松神社の新春(というよりこれからの1年)用の大絵馬

本殿の左側に飾られている。

富松神社は旧の東富松村の中心部分にある。

しかし茨木童子の出生地(尼崎説)は西富松村であったそうな。

茨木童子と西富松との関係

 

尼崎神社案内のうちの、西富松神社の案内

 

「茨木童子」という鬼が富松の里で生まれたと伝えられています。昔、富松の里の村人夫婦に子どもが生まれました。

 

ところがこの赤ん坊は生まれたばかりなのに毛は生え揃い、目は鋭く光り、口には牙までありました。両親はこの異様な姿を恐れて、考え悩んだ末、大阪の茨木で子どもを捨てることにしました。この子を拾い育てたのが京都で大暴れしていた鬼「酒吞童子」で、我が子のように育て、一番の子分にしました。ある時、茨木童子は故郷の両親が病気にふせっていることを知り、見舞いに富松の里へ戻りました。両親は驚きのあまり病気も治り「よく帰ってきてくれた」と童子を引き入れダンゴを食べさせてもてなしました。(1701年『摂陽群談』より)

 

茨木童子イラスト

 

西富松神社では9月1日に団子祭をやっているよう。(見学したことないが)

ところが西富松神社(素戔嗚神社)は神主不在神社で、富松神社の宮司が兼担している。

 

よって富松神社の絵馬にも茨木童子が登場することになったよう。

 

参道。両脇の燈籠は江戸期のものである。境内にも文化の年号を記す獅子像がある。

 

 

礎石には、願主 大坂住 何某 となっている。匿名であることを記したものは

これ以外見たことがない。

ここに文化十年建立が記されている。

 

神社の紅葉

鳥居の横と、手水鉢の周辺に4本ほど。

初天神学問の絵馬恋の絵馬 結城一雄
 
絵馬堂の絵馬の薄れし木下闇 上田 俊二
 
絵馬堂に絵馬のひしめく梅月夜 毛塚静枝
 
明神絵馬木の実に打たれつつ古りぬ 村上しゆら
 
浮世絵の女の絵馬や生姜市 加藤三七子
 
月しろのわたりし絵馬の月日かな 村上しゅら
 
客われをじつと見る猫秋の宵 八木絵馬
 
桜東風文字いとけなき恋の絵馬 有馬籌子
 
畑打に絵馬の女の顔白し 藤田湘子
 
絵馬によき手綱曳かせて春の寺 原裕 『出雲』
 
裏がへる絵馬一つあり東風の宮 阿部みどり女 『笹鳴』
 
絵馬兎金眼をきかす月の寺 大木あまり 山の夢
 
願かけの絵馬の古びて枇杷の花 下間ノリ
 
冬ぬくし重なり合ひて恋の絵馬 高橋悦男
 
奉納の手型の絵馬や七五三 佐野たけ子
 
裏がへる絵馬一つあり東風の宮 阿部みどり女
 
新しき絵馬重なりて日脚伸ぶ 生田経子
 
いきほひのある絵馬を買ふ初詣 住田歌子
 
正月や望みの高き絵馬あふれ 林 民子
 
強風に打ち合ふ絵馬や初天神 沖山政子
 
助六で絵馬を杵屋で餅を買ひ 土屋花峰
 
絵馬の白駒枯野へ跳り出る 宮坂秋湖
 
絵馬幾重いくへに青葉時雨かな 樋口桂紅
 
寛政の絵馬の嘶き夏木立 中村みよ子
 
誤字ひとつぶっきらぼうな受験絵馬 松本三千夫
 
紅紐の絵馬うちならぶ春の月 津森延世
 
どんどの火願文古りし絵馬を焼く 伊沢 健存
 
絵馬の風に鳴るなり寒椿 佐藤郁子
 
探梅の空まだ硬し絵馬の花 岡本ひろ子
 
掛け替ふる大絵馬打てり那智しぐれ 坂口 麗峰
 
音たてて絵馬の打ち合ふ花吹雪 林 久子
 
かさなりて絵馬三月の風の中 佐久間采一
 
牛若を懸け絵馬堂の雪しづく 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨
 
 
蝉涼し絵馬の天人身を横に 松本たかし
 
初午の土産の絵馬の二三枚 後藤夜半
 
大試験一礼ふかく絵馬納む 藤原三余
 
立春の鶏絵馬堂に歩み入る 佐野美智
 
絵馬を買ふ列のなかなる御慶かな 清之介
 
蝉涼し絵馬の天人身を横に たかし
 
 
絵馬の海青すぎて厄日前 能村研三
 
絵馬に四万六千日来る 松本たかし
 
雨乞ひの絵馬に降り来る桜蘂 町田しげき
 
冬木みな言葉を溜めて間引絵馬 町田しげき
 
間引絵馬見て裸木に眼を外らす 町田しげき
 
梅雨畳千住に守る手描き絵馬 町田しげき
 
囀や廻船絵馬は帆満風 宮津昭彦
 
神の留守絵馬堂裏で恋に逢ふ 北野民夫
 
枯蔦や絵馬は古りたる神の杉 寺田寅彦
 
絵馬堂の内に舞ひ込む落葉かな 寺田寅彦
 
するすると絵馬の蛇消え昭和消え 寺井谷子
 
誰が鳴子絵馬さかさまにかゝりたる 泉鏡花
 
一枚の絵馬あきかぜのゆくへかな 松村蒼石 雪
 
只ならぬめの字絵馬なり田水沸く 辻桃子
 
杉に雨降り絵馬を濡らして雨終る 林田紀音夫
 
囀や廻船絵馬は帆満風 宮津昭彦
 
絵馬を姓とする作家、絵馬を名とする作家のものをかなり削除した。

 

 

摂末社(せつまつしゃ)とは、神社本社とは別に、その神社の管理に属し、その境内または神社の附近の境外にある小規模な神社のことで、摂社(せっしゃ)と末社(まっしゃ)と併せた呼称である。枝宮(えだみや)・枝社(えだやしろ)ともいう。

 

現在は摂末社に関する規定は特にないが、一般には、摂社はその神社の祭神と縁故の深いを祀った神社、末社はそれ以外のものと区別され、格式本社>摂社>末社の順とされる。本社の境内にあるものを境内摂社(けいだいせっしゃ)または境内社、境外に独立の敷地を持つものを境外摂社(けいがいせっしゃ)または境外社という。

明治から戦前までの近代社格制度では、官国幣社の摂社は以下のいずれかを満たすものとされ、それ以外は末社とされた。

  • 本社の祭神の后神・御子神等、系譜的に連なる神を祀る神社
  • 本社の祭神の荒魂を祀る神社
  • 本社の地主神(祭神が現在地に遷座する前に当地に祀られていた神)を祀る神社
  • その他、特別の由諸がある神社

伊勢神宮については、『延喜式神名帳』に記載のあるもの(式内社)を摂社、『延暦儀式帳』に記載のあるものを末社、両書に未記載だが神宮との密接な関係により古くから祀られてきたものを所管社と称している。府県社以下の諸社(民社)については、境内神社・境外神社の呼称を使用した。

 

以上は、ウィキペディアの解説である。神社巡りをしているうちに、摂社、末社という言葉にすっかりなじんでしまったが、格付けとして、

 

本社>摂社>末社

 

であることは、そのように理解していたが、さて境内にあるもろもろの社のどれが摂社で、どれが末社であるかについては外見ではわからない。

 

富松神社もかなりの摂末社を設けている。

上の解説からすると、素戔嗚さんと系図上つながる神が祭ってあればそれは摂社ということになる。あるいは藤原氏が領有していた時代の名残として春日社が

あれば、これも摂社ということになる。

 

商売繁盛を願う人の寄進は無視できないので、たいていの神社が稲荷社を祀っている。

これは末社かどうか。

 

神社名が稲荷神社であれば、もちろん稲荷の神が主祭神であるから摂社、末社は別物になる。

 

ところで稲荷の神とは?

 

神道の稲荷神社では『古事記』、『日本書紀』などの日本神話に記載される宇迦之御魂神(うかのみたま、倉稲魂命とも書く)、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)などの穀物・食物の神を主な祭神とする[12]

 

総本宮である伏見稲荷大社では、主祭神である[13]宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社に据え、明応8年(1499年)に本殿に合祀された[14]左右の摂社、田中大神四大神とともに五柱の神を一宇相殿(一つの社殿に合祀する形)に祀り、これら五柱の祭神は稲荷大神の広大な神徳の神名化としている[15]。  とのこと。

 

富松神社の由緒案内:

 

富松神社は、約1250年前に僧の行基が人々を指導して、猪名野笹原を開拓し、稲作を進めるとともに、富松の里の守り神として神様と仏様をおまつりしたのが始まりと伝えられています。

 

 平安時代には藤原摂関家の荘園を守る鎮守の社でした。戦国時代には数度の兵火にかかり社殿や堂塔は焼失し、面影はとどめませんが、樹木などに微かに昔時が偲ばれます。江戸時代に至り、尼崎藩主松平遠江守公厄災除祈願所として特別の庇護を受け盛況を誇りました。大東亜戦争敗戦後は社会変化により神社の基盤は崩れましたが、人々のふるさと富松への信仰心は途切れることなく、里の人々に大切にされ、今日も神様への感謝のお祭りが続いています。 御本殿は1636年に再建されたもので、昭和43年に兵庫県重要文化財に指定されました。 境内の大きな楠は樹齢500年と言われています。

 

余り祭る神や摂社などには関心がない。あるいは触れる字数を与えられなかったか?

 

教育委員会としては、歴史的価値、文化的価値が評価対象となる。

 

兵庫県の神社案内では、富松神社は

創祀は古く、天平五年(733)に聖武天皇の勅願によって僧行基が、猪名野笹原を開耕した折り、二十三ヶ坊の堂塔を造営したが、その内の一坊が当社であった。素盞嗚尊と薬師仏をお祀りし、神仏混淆の形を持つ。

 

祭神 
須佐男命 配祀 應神天皇

摂社
愛宕社「火之加具土神」
熊野社「熊野権現」
皇大神宮社
白山社「白山権現」
金刀比羅社「大己貴命」
天神社「菅原朝臣道真公」
厳島社「弁財天さん」

となっている。すべて摂社で、末社はないよう。

 

本殿右横

愛宕社

愛宕信仰(あたごしんこう)とは、京都市愛宕山山頂に鎮座する愛宕神社から発祥した、火防の神に対する神道信仰である。

 

愛宕山の愛宕神社は、古くから修験道の道場となり、愛宕山に集まった修験者によって江戸時代中頃から愛宕信仰が日本全国に広められた。中世後期以降、愛宕の神は火伏せに霊験のある神として広く信仰されるようになった。日本全国で「愛宕」を社名につける神社は43都道府県に約1000社ある。特に東北地方に多く分布する。

 

愛宕の神とされるイザナミ神仏習合時代には勝軍地蔵を本地仏とし、軻遇突智(火産霊尊とも)も共に祀った。現在でも、愛宕の縁日は地蔵と同じ毎月24日である。また、現在でも火産霊命(かぐつち・ほのむすび)が祭神とされる。

 

勝軍地蔵を本地仏としたことから、火伏せの神としてだけでなく武神としての信仰もあった。民間では、各地に「愛宕講」と呼ばれるが組織された。「千日詣」と称し、8月1日に参拝すると千日参拝したのと同じ御利益があるとされる。

 

おなじような解説を以下の格社について、コピー・ペーストするつもりだったが、字数が増えすぎるので、

今回は割愛。

 

その横、3社が一棟型、長屋型で祀られている。

格子戸から覗いてみれば、

熊野三山社

皇大神宮社

白山社

金刀比羅社

 

お稲荷さん↑↓

厳島社 周りに池が設けられている。

 

奈良春日大社遥拝所

4面ガラス戸の能舞台

↓が花道でつながり楽屋裏となる

 

大絵馬の最終工程もここで行われていたのをみたことがある。

 

 


Re.同姓同名同市在

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ワイフと同姓同名(同市在)の方の投稿が新聞に掲載された。

何件かの電話がかかってきて、岡山版の切り抜きを送ってくれた人もある。

全文を読んだあと、ワイフは「Re.同姓同名」と題してネット上から掲載紙へ投稿。

 

今朝の紙面に掲載されることは事前に連絡があったので、朝一にワイフはコンビニへ。

店にあった全部数を買い上げ。

2部。

 

同じ毎日新聞の阪神版に

 

昨日紹介した大絵馬は、私が撮影する少し前に奉納式が行われたよう。

 

生嶋神社の絵馬はどうなっているか確認に行った。

絵馬が見える

白い布で覆われている。来年のものは、これに上書きするのであろうか?

兵庫県の神社案内より

祭神 
生國魂大神、咲國魂大神、天照大神、伊邪那岐命、伊邪那美命 合祀 素佐男神、八幡大神

摂社
生島弁財天社「市杵嶋姫命」
生島稲荷社「宇迦之御魂大神」
生島大師堂「弘法大師像、不動尊像」

 

由緒

 生島神、足島神は生国魂大神、咲国魂大神とも申し、伊邪那岐命、伊邪那美命の御子で、大八洲の御霊。大地と生命の営みを続けている一切を守護する大神。

 鎮座地の立花地区の上ノ島・栗山・大西・三反田の四町はその昔、生島と呼ばれ、天長七年(830)に朝廷によって開発されたところです。康治元年(1142)には、開発領主であった源実国の子孫が、この生島庄に当たる場所を時の関白・藤原忠通に寄進しました。同じ頃、僧澄海が大般若経を『生島大明神』に献じたと伝えられています。これが文献上の初見。

 寡聞ではありますが、摂津国東生郡の式内大社である難波坐生國咲國魂神社(二座)に関する説明などには当社を元社とする話は紹介されていないようだ。

創立は仁徳天皇の御代と伝えられ、社伝によれば人皇第十六代仁徳天皇当地方に行幸のみぎり、生島巫神を鎮め給ひ、其の後天皇都を高津(大阪)に遷されるや、当生島巫神を大阪の庄石山崎(現在の大阪城附近)に遷座せられ、爾後生島庄栗山村に生島巫神の別霊を祭祀、一祠を存続せられたと、今尚当地に於ては、大阪生国魂神社より、其の創祀古しと伝え、信じられている。この事柄は「三代実録、摂津志」に明記せられて居り、明治維新迄は、生島明神、生島弁財天の称を以って知られ、生島宮寺を廃し、生島神社と改め、明治六年八月郷社に列せらる。

 大正三年六月二十七日生島庄の内上ノ島村々社須佐男神社を合祀、同年七月一日同じく大西村々社熊野神社合祀、大正四年十二月九日同じく三反田村々社八幡神社を合祀して現在に至る。

 

生嶋神社の摂社

 

 

一番目立つのはお稲荷さん

↓弁財天も由緒ありそう

西暦889年鎮座とある。

鎮座1100年祭が1989年に祝われたよう。

 

弘法大師? 神仏人混合。まあしかし菅公さんが仏なら、神仏混合。

大師堂の左右

↓これは末社でしょう。

交通の事故の電話や肌寒し 田所 一滴
 
山眠る交通止めの札立てて 宮田俊子

 

声そろへ摂社末社の法師蝉 鷹羽狩行

 

 

 

 

 

 

花山院

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京都御苑:

京都市の中心部に位置し、東西南北を寺町通烏丸通丸太町通今出川通に区切られた区域。東西約700メートル・南北1300メートルの範囲で総面積は92ヘクタール。そのうち環境省が管理する国民公園である京都御苑は65ヘクタールにおよぶ[1]

現在は京都御所仙洞御所京都大宮御所築地内は宮内庁が、2005年4月に開館した京都迎賓館内閣府が、それ以外のは環境省が管理している。

多くの木々が生い茂る公園内には、京都御所、仙洞御所、京都大宮御所、宮内庁京都事務所皇宮警察本部京都護衛署などの宮内庁・皇宮警察関連の施設をはじめ、公家屋敷の遺構、公園の管理を行う環境省京都御苑管理事務所のほか、グラウンドテニスコートもあり、市民の憩いの場になっている。

 

宮内庁管轄区域も外国人観光団には、事前申請なしに公開しようとする方針のよう。

 

御所内へは入って見学したのは、2,3度しかない。

最近では、俳句の吟行会で見学。

清涼殿など崩壊寸前の様相。

明らかに、という七五三ではない人の和服撮影が目立つ。

3日、家に戻てってからそのことを話題にすると、「前撮り」という行為らしい。

いまなら成人の日に備えて、好天の日を選んで行うらしい。

↑1キロ先に建礼門が見える。

御苑内、セリが浮かぶ池。

うまく撮れた。

京都宗像神社:

宗像三女神多紀理比売命多岐都比売命市寸島比売命を主祭神に、倉稲魂神天岩戸開神の2柱を配祀する。

 

主祭神は『日本三代実録』に、筑前国の宗像神社(現宗像大社)と鎮座地を異にするが「同神」であると記されたり[1]、「同神別社」であると記されている[2]。配祀神の天岩戸開神も国史見在社(天石戸開神)を合祀したもので、『花山院家記』(『山城名勝志』所引)には合祀前の状況を「天石戸開神。大石也。霊有り」と伝えており、また倉稲魂神は藤原時平によって合祀されたと伝える。

 

現在、御苑内の西南(裏鬼門)にあたる位置に鎮座するため、方除けの信仰を集めている。

 

この地に花山院邸があった。

 

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。

 

花山天皇(かざんてんのう/かさんてんのう[1]安和元年10月26日968年11月29日) - 寛弘5年2月8日1008年3月17日)、在位:永観2年10月10日984年11月5日) - 寛和2年6月23日986年8月1日))は、日本平安時代中期)の第65代天皇。師貞(もろさだ)。花山院(かさんいん)や花山法皇とも呼ばれる。

冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子三条天皇の異母兄。花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。

 

花山院家(かざんいんけ/かざのいんけ/かさんのいんけ)は、清華家家格を有する公家藤原北家師実流嫡流に当たる。京極摂政藤原師実の次男家忠を家祖とする。家名は、家忠が舅から花山院第(東一条殿)を伝領したことによる。

 

藤原4家から、それぞれ10人を超える子供が生まれ、その子もまたで・・・

なにか基点がないと記憶不可能。目下、その基点を有さず。

 

花山院37代当主は花山院弘匡(1962年 - )氏。

今日の画像

近所の皇帝ダリアがやっと咲きだした。

しかし2,3輪で、まだまだ蕾多し

冬咲きひまわり?

花山椒などの「花山」は省いた。
花山椒の句多し。
「花」下5が終わり続いて、「山」で始まる作者の姓が
きても、「花山」検索で句が登場。それが意外に多い。それも削除
 
 
真つ向に椎の花山遠流のくに 政野すず子
 

100句中1句だけ残った。

 

すず子さんは、新しい結社の代表である。句誌の名も「すずかぜ」

最初は「颸」の字を使うつもりが、PCによっては利用できないので、

ひらがな表記に。

 

 

 

ルミナリエ

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光の祭典ならお祭りだが、

ルミナリエは21年前の地震の犠牲者に対する鎮魂の祈りでもある。

 

 

8日開戦記念日

 

午前:本葉4,5枚になったノースポールの植え付けのために

プランター5つの土入れ。移植は明日以降。

午後:句会

出句

菊人形のどこかに知的財産権

(知的財産権で句を作っていたことをブログ仲間に思い出させてもらったが、

その句を公表していないので、このさい印刷するために、急きょ作句。

好評だった)

何奴の荼毘の跡かと紅葉山  

(高点句だった)

無事終わる避難訓練照紅葉

1点

散紅葉科をつくりし巴塚、

0点

 

日米戦争開戦に関連しては、

 

開戦日精進料理のごまを煎る

十二月八日カーテンの光が交じりあう

開戦日新携帯からメール届く

ハーモニカの軍歌をせがむ十二月

などの句が出ていたが、私はいずれも採らなかった。

 

 

夕刻:新句誌 創刊号最終校正

夜:6時30分 ルミナリエ見学  ワイフと

昨年から点灯区間が短くなった。

今年は2日から11日まで開催期間が短縮された。

開催費用の工面がつかないよう。

 

今年は「靑」を強調

ウィキさん:

神戸ルミナリエ(こうべルミナリエ)は、神戸市旧居留地において、1995年から毎年12月に行われている祭典または電飾されている場所を指す[1]。通りや広場を独特の幾何学模様で構成されたイルミネーション(電飾)で飾り、昼間とは異なる風景を現出させてその景観を楽しむ。 基本的にはイタリア人のヴァレリオ・フェスティ(Valerio Festi)と神戸市在住の今岡寛和の共同作品であるが、2011年の第17回開催および2015年の第21回開催は、東京在住のイタリア人であるダニエル・モンテベルデがプロデューサーを務めている[2][3]

 

 

たしかに青い。

初めてダウンジャケット着用。ところが平年以上に暖かかった。

 

もちろん、点灯区間の三倍以上の距離をぐねぐねと歩かねばならないが、

人出はこれまでで一番少なかった。

リピーターが大幅に減っているのであろう。

今年は総数で来訪者は300万人を割るかも。

今日は木曜日であり、高校生は学期末試験中であるが、

週末には見学者が倍増するかも。

 

ルミナリエ 歳時記に季語として採録するものまだないのかも。

ホトトギス系では汀子歳時記に登載されないかぎり季語ではない。

 

よって例句少ない。

雪がちらつけばと思ふルミナリエ 後藤比奈夫

 

この句は「雪」を登場させて無季句にならないように配慮されている。

市役所前の花時計も照明されていた。

 

8時すぎから三宮駅前のコトブキ馳走ビルの6階で夕食

席に着いた時は空き席が目立ったが、店を出るころは若い人でごった返していた。

隣席の四人は、飲み放題を注文したせいもあるが、あっという間に、各自、

女性を含めて三杯くらい生ビールをお代わりしていた。

浄土宗

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↑尼崎の寺町に現存する11寺。

 

浄土宗の寺が、5つもあり、2寺は隣接している。

真宗の寺がない。

大本山を名乗る寺1つ、本山を名乗るもの1寺

 

浄土宗の寺:

甘露寺 1490年 円誉 創建 

法園寺 1561年 恵光 創建

徧照寺如来院 - 行基が建てた神崎釈迦堂が前身

専念寺 1157年 法然の弟子西仙房心寂を招き、平重盛が建立

常楽寺 1504年 心誉浄雲が大物に建立

 

阪神尼崎駅から寺町へ行く途中で見た草木

大きな山茶花の木

ピラカンサ

寺塀

この種の案内板が駅前を含み、5か所以上に出ている。

如来院と道を隔てた西側に専念寺があるので、この2寺もお隣さんである。

17世紀初頭に作られた街なので、檀家が近所にあるのはむしろ例外的であろう。

 

 

鐘楼は県の文化財

 

遊女塚あらはに萩の枯れてゐし 竹中弘明
 
近松忌重い遊女の木偶頭 浜垣和子
 
細雪遊女の墓のまへうしろ 福島せいぎ
 
欠け欠けて遊女の墓や夏蕨 柏 禎
 
蛞蝓の跡あきらかに遊女墓 相川やす志
 
遊女の墓おがみ来てより汗疹ふゆ 中村明子
 
蔦若葉がんじ搦めに遊女の墓 渡辺風来子
 
松過ぎの泊船へ漕ぐ遊女かな 矢津 羨魚
 
奥羽を遊女下りけり長い草の葉 安井浩司
 
山里の星にいるなりあの遊女 阿部完市
 
かぞえきれない遊女の影のなかにいる 児玉怡子
 
はまなすや星近付けて遊女塚 堺 信子
 
芍薬や雨の遊女を思いおり 遠藤秀子
 
大津絵の遊女と出合ふ手毬花 高橋克郎
 
春寒や吹き寄せられて遊女墓 増田 守
 
捨団扇遊女の顔のあはれなり 正岡子規
 
夏果ての瀬戸の岬や遊女の碑 木村速子
 
鏡見てゐるや遊女の秋近き 正岡子規
 
遊女の帯の細しも青き踏む 橋本多佳子
 
忌日なき遊女の墓や虎落笛 正岡照世
 
遊女その墓のよすがの稲の花 諸角せつ子
 
千両や日陰をつねの遊女塚 中村翠湖
 
皹や遊女の恋を琴に弾き 熊丸淑子
 
蓼咲くや墓石となりし遊女たち 大島民郎
 
太夫待つ遊女ばかりの一桟敷 久保晴
 
その街に遊女の墓も初閻魔 黒田杏子
 
名の高き遊女聞へず御代の春 栄阿
 
我袖の蔦や浮世のむら時雨 遊女薄雲
 
遊女屋のあな高座敷星まつり 汀女
 
一つ家に遊女も寝たり萩と月 芭蕉 (越後一振の関にて)
 
遊女屋の使はぬ部屋の秋の暮 たかし (品川土蔵相模にて)
 
五月雨や船路に近き遊女町 几董
 
遊女屋のあな高座敷星まつり 中村汀女
 
山里の星にいるなりあの遊女 阿部完市
 
愛宕火の燃えて遊女の閑な晩 後藤比奈夫
 
遊女屋(のすかい)の在りしはここら涼み舟 手塚美佐
 
暁の遊女か吐血ほとゝぎす 召波
 
遊女の墓馬の白息地を這へり 加倉井秋を
 
木がらしや廿四文の遊女小屋 小林一茶 (1763-1827)
 
恋ひ死なば我が塚で鳴け郭公(ほととぎす) 奥州 (未詳。元禄頃の遊女)
 
遊女屋の使はぬ部屋の秋の暮 松本たかし(1906-56)
 
陽炎にいらか並ぶや遊女町 寺田寅彦
 
春風や遊女屋並ぶ向ふ河岸 寺田寅彦
 
陽炎や遊女の嘘はたくみにて 尾崎紅葉
 
文殻の手鞠はづまぬ遊女哉 尾崎紅葉
 
しぐるゝや潮来は古き遊女町 幸田露伴 拾遺
 
水鳥や港に近き遊女町 会津八一
 
遊女屋の草履つめたし花菖蒲 田中冬二 行人
 
白玉や遊女屋の昼閉ざしつつ 田中冬二 行人
 
遊女屋の厠の灯暗し遠蛙 田中冬二 行人
 
遊女屋の渡り廊下の朧かな 田中冬二 行人
 
遊女の昼流るでもなきトマトの帯 八木三日女
 
葦火とろとろ西行も遊女も 後藤綾子
 
いなづまや僧と契りし遊女の碑 後藤綾子
 
ひらきゆく屏風に遊女現はるる 下村梅子
 
ゆく春の江口の遊女即菩薩 下村梅子
 
野の中の遊女屋ばかり櫻見し 横光利一
 
長き夜の更けて遊女の目井・乙前 辻桃子
 
初鴈や遊女にあぶらさゝせけり 炭 太祇 太祇句選後篇
 
幟たつ母なん遊女なりけらし 炭 太祇 太祇句選後篇
 
膳の時はづす遊女や納豆汁 炭 太祇 太祇句選
 
暁の遊女が吐血ほととぎす 召波 五車反古
 
遊女等もたむろしてをり月の浜 篠原鳳作
 
うちかけを着たる遊女や螢狩 篠原鳳作
 
遊女なりし母が勵ます夜學かな 松瀬青々
 
梅咲て帯買ふ室の遊女かな 蕪村 春之部 ■ 摺子木で重箱を洗ふがくせよとは、政の嚴刻なるをいましめ給ふ、賢き御代の春にあふて
 
若竹や橘本の遊女ありやなし 蕪村 夏之部 ■ 諸子此枝の僧房に會す、余はいたづきのために此行にもれぬ
 
住吉の雪にぬかづく遊女かな 蕪村遺稿 冬
 
大坂の遊女かしらずさくら狩 高井几董

 

遊女の墓、塚はあちらこちらにあるようだが、神崎の遊女塚を詠っている句も多そう。

↑右側のものは、道標である。

左側、法然の説教で神崎の遊女を廃業した5人が海に(河尻泊)に身を投げた。

大坂の商人が、中山寺や広済寺あるいは有馬温泉へ出かけることを口実に

神崎で宿泊した。

 

Wikipediaの「遊女塚」に関する解説:

 

墓碑が建てられた神崎は、785年延暦4年)に神崎川淀川が結ばれ、瀬戸内海方面から京都に至る船舶が停泊する交通の要衝地となった。次第に河口の港町として繁栄し「天下第一の楽地」と呼ばれるようになる。ここでは遊女たちが今様など諸芸を泊客に披露し、宴遊に興じる人々でにぎわっていた[1]

 

如来院の伝承『古縁起』では1207年建永2年)3月、法然讃岐への遠流の途中、神崎で行なった教化により5人の遊女が自らを懺悔念仏を授かり、神崎川入水した。住民はこれを憐んで遺骸を川岸に葬り遊女塚とし、法然は釈迦堂にて回向し讃岐へ旅立つ。同年12月、法然は勅免による京都への帰途、再び釈迦堂において遊女達の菩提を弔ったとされている[2][4]

 

その後1697年元禄10年)に刊行された『国花万葉記』には「上塚、一名傾城塚と云、神ざき村の渡り口より東」と外部の文献において最も早く記され、1796年-1798年寛政8-10年)に刊行された『摂津名所図会』には「遊女宮城墓、神崎の北一丁許、田圃の中にあり。村民傾城塚又女郎塚とも呼ぶ。……後世尼崎如来院よりこゝに墓碑を建て、表には六字の名号、裏には遊女五人の名を鐫(え)る」と記されている[2]

 

 

1869年明治2年)、現地の溝に架かる小橋として使用されていたのを村民が発見し修復[5]、神崎の北1余りの田圃の中にあったが、1916年大正5年)5月、大日本セルロイドが土地一帯を買収して工場を建設したため、神崎村の小字寺内村の道路脇に移転された。さらに太平洋戦争以後、道路事情の変化により、現在地に移転している[6]

 

5人の遊女の名:

  吾妻・宮城・刈藻・小倉・大仁

 

若院主のご趣味か?

 

 

摂社

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末枯れて摂社の幟はためかず

 

↑狭い。大鳥居たつところすでに神社の所有地ではなく、市の管理する公園である。

尼崎戎神社 尼のえべっさん

だから滑り台がある。

しかし十日戎の日には、この狭い公園に二重三重に屋台が並ぶ。

西宮戎とは雲泥の差。

それでも年間50万の参詣者があるそうな。多分来月の9,10、11日に集中。

摂社らしいのはここのみ。

 

↓伊居太神社

 

前方後円墳の中央部に立っているこの神社も摂社は稲荷神社のみ。

山のつぎに山花常山木 斉藤美規
 
らしき嵩に手向の木の実かな 鷲谷七菜子
 
月明の蝗飛び来るの口 羽田岳水
 
群日向の空の澄み極まる 瀧 春一
一目、「古墳群」の誤植に見える。
 
土砂降りのほたるぶくろやの上 古舘曹人
 
すでに闇に入りたる夕焼かな 鷲谷七菜子
 
山の巣鳥が落とす檜の実 民井とほる
 
青き踏み卑弥呼のと思ひけり 佐川広治
 
と思ひ春山とも思ふ 藤崎久を
 
の夏蚕の桑のたゞ中に 田島 魚十
 
の丘へつながる葱の畝 上野澄江
 
後円あらは冬木の桜かな 青柳志解樹
 
丘の秋蝶風となりにけり 大橋利雄
 
海に向く方円や合歓の花 若宮八恵
 
丘のやさしきくびれ鳥帰る 猪俣千代子
 
へつづく小道や麦鶉 海老原真琴
 
探梅のの道またゆきどまり 小澤満佐子
 
蒲公英の白ばかりなりのみち 大森三保子
 
春草のは香具山を北に負ふ 水原秋櫻子
 
草芳し皇子の守る熊野犬 村上光子
 
昔ありける男のもかぎろへり 山岸 治子
 
の中滅法赤き秋日さす 佐野まもる
 
ならむ夜桑摘みゐるこの丘も 冨山青沂
 
春草のは香具山を北に負ふ 秋櫻子
 
丘に舞ひ現世の秋の蝶 辻口静夫
 
七盛のやうつろに秋深し 高浜年尾
 
枯野ゆく土がくれにひとりづゝ 皆吉爽雨
 
山の天狼父にまぎれなし 角川春樹
 
望郷は山(さきやま)の山法師かな 藤田あけ烏 赤松
 
露草や飯くまでの門歩き 杉田久女
 
白式部風の過ぎゆく一つ 斎藤一骨
 
緑雨いまいのちの音か後円 松本旭
 
月にる新羅の王よ遠蛙 近藤一鴻
 
青葉木菟あばかれしその夜より 下田稔
 
幣一つ刺されてのしぐれけり 上野さち子
 
砂山に風紋を被ての春 桂樟蹊子
 
屈強の山蟻西行に見て 関戸靖子
 
西行の山の樹々芽吹きけり 佐川広治
 
山の樒艶ます西行忌 佐川広治
 
山の真上天狼またたけり 佐川広治
 
すでに闇に入りたる夕焼かな 鷲谷七菜子 天鼓
 
冷えて竹の真青におそはるる 鷲谷七菜子 天鼓
 
露の南無阿以外は地中の文字 加倉井秋を
 
七盛のやうつろに秋深し 高濱年尾
 
うらゝにて雲雀はしれるの前 水原秋櫻子
 
竹生島かかこんもり夏のゆめ 宇佐美魚目

それもかなり新しい。20年前の地震被害の結果であろう。

本殿前の狛犬は江戸末期の作品である。

 

↓久々知素戔嗚神社

神仏混淆時代には隣の寺と一体であった。

 

歴史は1000年。

しかし現在の摂社は↓のみ

掘っ建て小屋である。

↓伊佐具神社

式内社の格を持つと言えど、ここも小さい。

保護樹木の認定を受けているが、その時より痩せたのではないか?

摂社はやはり稲荷神社

しかしこの書体には見覚えがある。

尼崎藩の藩界石のものと同じだ。

兵庫県の文化財である。

伊居太神社、素戔嗚神社、伊佐具神社の3つの神社は余りにも近接すぎて

氏子中が少ないのではないかと心配。

 

 

 

冬薔薇

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今日も、まだまだ、紅葉葉を楽しめた。

阪神電車出屋敷駅前の和風レストランで、市の俳句協会の会合があったので、

早めに出て、1時間以上蓬川(よもがわ)沿いの緑地を歩いた。

昨日は近松公園付近を歩いたが、暖かったので、人出が多かったが、今日は少し寒かった。

人出も控えめ。

蓬川緑地の南の端、その南の公園付近の両岸に薔薇園があって

冬薔薇が鮮やか。

秋薔薇、冬薔薇はどこでもやや淋しい感じだが。

冬向きの品種が選ばれているのであろう。

 

あまりにも人出がないのが惜しいほど。

黄ばらも

対岸も

そちらにも歩を向ける

豪華な厚物はないが

定刻に会合開催場所へ

名の通り、すべての料理に蓮根が加えられていた。

 

枕木だけになりし道あり散紅葉

家事だけで終わりたくない冬薔薇

 

枇杷の花

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今日の紅葉

昨年までの数年は12月が本格的な紅葉シーズンだった。

今年は平年並みであったか。ために箕面の最盛期を見逃した。

 

とはいえ12月中旬の街中で、通りすがりにお庭の一本楓の紅葉をみる機会はまだまだ。

コストコで寿司を買って、今日が休みの息子の家へ出かけた。

昼食代わりにその寿司を食った後、付近を散歩。伊丹市の西南の端っこの地区だから、

ちょっと細い路地を抜けると伊丹から尼崎へ、尼崎から伊丹市へ入り込む。

 

家のすぐ北に国道171号線が走っていて、県道の尼宝線と立体交差している。

そのあたりは伊丹市であるが、171の陸橋の西端部分からは尼崎市内を走り、

西宮市へつながってゆく。

↑西側(尼崎市)から陸橋形式の171号線の西端を見ている。

歩行者用陸橋の東側(向う側)に伊丹市の標識が見える。

陸橋には「尼崎市西昆陽」の地名標識がかかっている。

自動車用陸橋を避けて左へ行けば昆陽寺である。

 

 

171号線は武庫川をわたり、西宮市内で国道2号と出会い、そこがこの171の終点である。

家の周辺は緑の多いところではないが、西側の地区は、自然科学系の短大であり、

そこには緑が多い。

 

 

短大周辺は、住宅密集地である。

この辺りも、「橘御園」の名残か、庭や空き地に柑橘類が目立つ。

金柑、柚子、レモン、温州ミカンあたりは識別可能だが、それ以外は、橙なのかどうか見分けがつかない

↑↓ なんだろう。

 

 

住宅地内では↑の貼り紙がやたら目立つ。

人の家の庭を覗いて歩いている私も通報されているかも。

と思っていて、ふと前を見ると、兵庫県警の名を記したバイクが止まっている。

じっとして動かないのは、私の行動を監視しているのかと一瞬思ったが、

どうやら、171号線の交通ルール違反者を狙っているらしい。

引っ越して3ヵ月。今日は、表札の設置のために業者を呼んでいる。

↑の時間ではまだ「未設置」。

今は山茶花の季節でもある。

南天とピラカンサの季節でもある

枇杷の花の季節でも

男合羽の女ゆく岬枇杷の花 武政 郁
 
水汲みに僧が出てきぬ枇杷の花 星野麥丘人
 
舟宿のうらに猿出づ枇杷の花 浜 明史
 
翔つ鳥の火山灰を飛ばせり枇杷の花 大岳麗子
 
客俳人主俳人枇杷の花 遠入たつみ
 
枇杷の花日輪薄目してゐたり 神蔵 器
 
他人ごとを空に放つて枇杷の花 天野素子
 
枇杷の花胸厚き教師病むという 岡本政雄
 
遠母の一消息や枇杷の花 細川加賀 『傷痕』
 
枇杷の花チヨッキを吊すドアの裏 田川飛旅子 『花文字』
 
病む妻に嘘いくつ言ふ枇杷の花 能村登四郎
 
願かけの絵馬の古びて枇杷の花 下間ノリ
 
父祖の地を終のすみかに枇杷の花 後藤澄子
 
故郷に墓のみ待てり枇杷の花 福田蓼汀
 
枇杷の花大やうにして淋しけれ 高浜虚子
 
旅に獲し言葉一つや枇杷の花 石田波郷
 
帰国子に買ふ日本地図枇杷の花 武田光子
 
枇杷の花五瓣揃ひしものを見し 米田ゆき子
 
淋しさもその淡さほど枇杷の花 斎藤道子
 
一人とはもう減らぬこと枇杷の花 阿部正調
 
里人は信長贔屓枇杷の花 藤本時枝
 
わが刻を今日はわが待つ枇杷の花 林 翔
 
枇杷の花同色の蜂を呼び集め 瀧 春一
 
枇杷の花ちる光陰の水明り ほんだゆき
 
何処までを幸とや言はむ枇杷の花 長屋せい子
 
淋しさもその淡さほど枇杷の花 斎藤 道子
 
崩え果てし夢また育つ枇杷の花 久保田晴朗
 
舟還る熔岩の入江や枇杷の花 野上 水穂
 
役者絵の花押にほふや枇杷の花 北川みよ子
 
枇杷の花少年肘をあげて泣く 島田まつ子
 
雪嶺より来る風に耐へ枇杷の花 福田甲子雄
 
枇杷の花散るや微熱が去るやうに 東浦六代
 
枇杷の花妻のみに母残りけり 本宮銑太郎
 
枇杷の花くりやの石に日がさして 古沢太穂
 
枇杷の花暮れて忘れし文を出す 塩谷はつ枝
 
枇杷の花枢送りしあとを掃く 庄田春子
 
病む窓に日の来ずなりぬ枇杷の花 大下紫水
 
故郷に墓のみ待てり枇杷の花 福田蓼汀
 
枇杷の花母に会ひしを妻に秘む 永野鼎衣
 
枇杷の花霰はげしく降る中に 野村喜舟
 
初日さすや古葉の中の枇杷の花 碧雲居
 
枇杷の花散るや微熱が去るやうに 東浦六代
 
修善寺物語あり枇杷の花 池内たけし
 
あたたかな夜風が顔に枇杷の花 岸本尚毅 鶏頭
 
枇杷の花母とこゑ和すことふえて 上田日差子
 
チエロ弾くに似合ふは三十路枇杷の花 和田耕三郎
 
枇杷の花までたちあがる焔あり 山西雅子
 
枇杷の花たつた一人の発明家 皆吉司
 
枇杷の花唇あつき独逸語教師 二村典子
 
枇杷の花らしからぬこの純白は 夏井いつき
 
故郷に墓のみ待てり枇杷の花 福田蓼汀
 
硝子戸に月のぬくもり枇杷の花 矢島渚男
 
むく犬はどこに眼ありや枇杷の花 中村草田男
 
わが刻を今日はわが持つ枇杷の花 林翔
 
棲みついてここがふるさと枇杷の花 笹本千賀子
 
弓かかへきてさきがけの枇杷の花 中田剛 珠樹
 
日に幾度郵便局へ枇杷の花 藤田あけ烏 赤松
 
硝子戸に月のぬくもり枇杷の花 矢島渚男
 
枇杷の花風の乾きにからびけり 広江八重桜
 
午後すでに海暗澹と枇杷の花 大村昌徳
 
善人と歩く日向の枇杷の花 寺井谷子
 
生花に事欠く頃や枇杷の花 賀瑞
 
帰化人の住居淋しき枇杷の花 撲天楼
 
枇杷の花母娘と住みてなまめしき 室生犀星 犀星発句集
 
笹鳴の渡りすぎけり枇杷の花 室生犀星 犀星発句集
 
枇杷の花ちぢれる家を越しにけり 室生犀星 犀星発句集
 
軒裏の蜂の古巣や枇杷の花 会津八一
 
日ざし来て仏偲べと枇杷の花 永井龍男
 
胸に飼ふこの日の無音枇杷の花 栗林千津
 
あらそひの古文書ばかり枇杷の花 大島民郎
 
日を経ては褒貶遠し枇杷の花 大島民郎
 
医師もどり喪章をはづす枇杷の花 大島民郎
 
少年の窓やはらかき枇杷の花 攝津幸彦
 
無住寺に人来る日あり枇杷の花 大峯あきら
 
咲き満ちてどこか不機嫌枇杷の花 小檜山繁子
 
贋作に歳月の艶枇杷の花 中戸川朝人
 
雪嶺より来る風に耐へ枇杷の花 福田甲子雄
 
枇杷の花老顔鏡の中にあり 瀧井孝作
 
腹背に貧乏神や枇杷の花 橋本夢道 無類の妻
 
枇杷の花犬も主も微恙あり 堀口星眠 青葉木菟
 
枇杷の花しくしく氷雨下りけり 臼田亞浪 定本亜浪句集
 
椽(たるき)には木練釣りけり枇杷の花 加州-ノ松 俳諧撰集「藤の実」
 
つまりたる背戸の日影や枇杷の花 野径 俳諧撰集「藤の実」
 
薫物のもれてやにほふ枇杷の花 中村史邦
 
枇杷の花ちぢれる家を越にけり 室生犀星
 
ふるさとに墓のみ待てり枇杷の花 福田蓼汀
 
誰か来さうな空が曇つてゐる枇杷の花 種田山頭火 草木塔
 
寒き日にきつとがましや枇杷の花 広瀬惟然
 
来る年の身もたのもしや枇杷の花 上島鬼貫
 
実を底に持ちてたのもし枇杷の花 上島鬼貫
 
皆人の匂ひはいはじ枇杷の花 上島鬼貫

 

 


道標

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12月11日 日曜日の忘年会

会場近くに立つ道標を見に行った。

道標より西よりに地蔵堂があるが、ここの像は立派である。

さっき誰かが火をつけたように線香が匂う。

そのあたりからも道しるべが見える。

尼崎郷土史研究会編『尼崎の道標』(2012)では、

西本町ハ丁目道標と記され、

貴布禰神社から北上する中国街道(大阪高麗橋を起点として、→神崎→西宮)は、ここで画像の手前、西側へ直角に曲がり、武庫川を目指す。もちろんながら、淀川も武庫川も渡し船で渡る。

立ち位置は170年前とほぼ同一地点らしい。

市内随一の、風格ある道しるべとも、

北上してくると、ここで左へ曲がれ、西ノ宮・兵庫へ通じると読める。

設立された1846年(弘化3年)時点では、「神戸」という名称はまだなかった。

 

帰路、この地点にさしかかると、神崎の港までもうそう遠くないと、旅人は感じたであろう。

金に余裕のある者は、もう一晩の神崎泊りを楽しみにしているかも。

この道標の特徴は、彫りが深く、(建立の)世話人の名前も明瞭に読み取れること。

上の画像でも「道善」の字が読みとれるが、仏壇店の屋号で、今も近くで営業中とか。

最近見た他の道標

12月10日

↑近松公園の入り口にかかる案内図。

この案内図の範囲に4つの道標がある。

 

公園の中に近松資料館があり、その横が近松門左衛門の墓地がある広済寺であり、

寺の前に道標がある。

「広済寺・近松翁墳墓道標」

今は門前に立っているが、「ここから東へ2丁行くと久々知村広済寺」と読める案内文があるので、今立つ場所より西2丁の道の分岐点に立っていたのであろう。

 

建て主の實川延二郎さん(1877~1951)さんは歌舞伎役者であったらしい。

1909年(明治42年)に建てられた。

 

この道標のある場所から西へ150メートルほどのところの道の分岐点に別の道標がある。

何度も「交通事故」に遭っている。「尼崎の道標」に登場する10年前に自動車にへし折られたらしいが、その後も多難のよう。

「広済寺西の道標」

 

 

有馬の「馬」、西ノ宮の「宮」の部分は別の場所に保存されているのか?

 

1835年(天保6年)に建立。

 

広済寺周辺の4つの道標は、何度も見る機会があり、何度も紹介している。

この地区では、複数の神社が近接しているし、近松公園は四季折々に訪ねている。

又の機会には、なんとか一つは新情報を盛り込みたい。

 

本日は、地元句会。

微恙得てしたりと枇杷の花盛り

テロ報へ聞き耳立てる枇杷の花

誰も来ぬ誰にも会わぬ枇杷の花

 

句会に先だって、小宴。女性が多い(男性は今日は私一人)ので、最近は、

昼間の忘年会ばかり。今日は、スペイン料理店。しかしメインはイカ墨パスタ。

 

11日、13日、次は22日。これも午後1時開始。会場は伊丹のホテル。

 

 

 

 

 

保護樹林

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尼崎市の保護樹林等の規定

 

保護樹木  1.5メートルの高さで幹周囲1メートル以上、樹高10メートル以上 など
保護樹林  保護樹木等の集団で面積が300平方メートル以上  など

 

地上1.5メートルのところで、幹が3本に分かれていれば、3本の幹の周囲の合計が幹周囲となることをどこかで学んだ記憶がある。

 

神社の境内に入って、ひときわの大木・高木があると「保護樹木」の標示柱を探すが、

それほどの大木がないところでも、同じような標示柱が立っている。

 

その場合は、保護樹木ではなく、保護樹林の表示である。

↑伊居太神社の表示  保護樹林

しかしかなり伐採されているし、300㎡の樹林を形成しているとは思わなかったので、

表示を見てちょっと驚いた。

樹林の面積は300㎡ぎりぎりかも。尼崎市のHPで確認する限り、

神社等を保護樹林に指定する場合は、植林地域だけでなく神社の敷地(建物部分を除外しているかどうかは未確認)全体の面積を指定対象にしているよう。

樹林を形成しているのかどうか、フユサンゴがきれい

尼崎市の保護樹木65本、保護樹林指定41か所。

保護樹林は神社・仏教寺院がほとんどだから保護樹林の大半には訪問済みかも。

 

伊佐具神社。みたところ高木・大木はない。

ところが

上のイチョウ。保護樹木指定を受けている。

高さも幹回りも不足しているように見える。

一方、近松公園は、かなりの樹林が広がっている。面積は300㎡をはるかに超え、指定基準の10倍以上はあると思う。

しかし保護樹林の標識はない(ようだ)。

大木はない。

公園は、それじたい市によって保護されているわけだから、改めて保護樹林認定・標識掲示は不要なのかも。

広済寺には、保護樹木はない。しかし保護樹林指定は受けている。

 

久々知素戔嗚神社は保護樹林指定を受けているが、

今はそうは見えない。

 

↑生嶋神社。本殿から正面の鳥居を眺めている。

幣を巻いた木はあるが、保護樹木資格はなさそう。

樹林も形成していない。

しかし保護樹林なのである。

指定された日付けが問題かも。阪神淡路大震災で、多くの木が倒木伐採されたのかも。

面積は3,630㎡とある。これは多分神社全体の敷地面積である。

富松神社↓は堂々たる森を有している。

単体で保護樹木の対象となる樹木(樹齢500年以上)もあるが、

森もある。しかしこの森、塀に囲われていて、立ち入り不可能。

一度覗いてみたいと思っている。

↓裏参道と裏鳥居。この背後に森がある。

画像左手の塀の中に木造の家屋が数軒ある。手入れはされていないが、保護樹林内部に立っている。

ちちははの魂の青 加倉井秋を 『武蔵野抄』
 
を過ぎを過ぎ鷺白さ増す 山口誓子
 
初鶏の言挙げぞする三輪の 原 柯城
 
左義長にの奥より童女来て 茨木和生
 
若菜野やある所社あり 大櫛静波
 
牛を摶てり薬師寺のかすむ道に 藤田湘子
 
事始榾積み上げし神の 並松 生代女
 
十五夜やの上野もここは池(上野不忍池笑福亭観月) 上村占魚 『橡の木』
 
七五三夜のとなり果てにけり 石塚友二
 
造成の残せしに蝉生まる 福川悠子
 
に入る一歩に椎の花匂ふ 山口誓子
 
鉄柵にの日は冷え巣立鳥 古舘曹人
 
笹鳴のにいろはにほへとの句 平 清
 
突き当るの暗さや烏瓜 斎藤道子
 
青葉ランプの火屋のうす濁る 永瀬千枝子
 
の蝉少年達を生捕りに 大石浩平
 
百禽の雪解のに来て睦む 中條富子
 
あかときのに闇ある淑気かな 伊沢 健存
 
寒林と言ふ響よきに入る 坂本山秀朗
 
波郷忌やの明るき冬泉 中田樵杖
 
むさし野の華やかに一の酉 杉山岳陽

 

 

 

 

コナイボゴケ

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家から徒歩2分の近隣公園でみつけた。

最初は、ゴミか、吐物のように見えた。

どうも生き物のよう

帰宅後、苔、藻、地衣類等いろいろと検索。

コナイボゴケにたどり着いた

 

正解かどうかは?

傍には、広葉樹や針葉樹の大樹はない。

川渕である。

 

この部分だけ植え込みも途絶えている。

富松川。3面張りで、かつ多くの場合、両側に白塗りの鉄柵。そして鉄柵のペンキがはがれて

錆が目立つが、ここは例外。

公園のそばなどでは、公園内部の側面は、ブッシュを植えこんで立ち入りにくくしてある。

ここだけは例外。

鉄柵の左手の細い道が津門(ツト)の中道(北の西国街道、南の中国街道の中央あたりで

東西をつなぐ小街道)であると私は思っている。

 

最近、似たような環境下で、幼児の転落事故でも発生したのであろうか。

この前(数日前)来た時にはなかった看板が。

しかも目についただけで、川沿いに6枚、

溺れるほどの水深はないが、

幼児が落ちれば危ないのは事実。

高低差は2メートル。水深は10センチ? 鴨がかろうじて水かきを掻ける程度。

桜主体の樹は冬枯れ状態

 

 

公園内のどこに立っても公園際に立っている住宅が視野から消えることのない程度の広さ

しかし春から夏にかけては、カメラの視野から住宅が消える場合もある。

公園の枇杷の花は盛をすぎている。

まだ散り切っていない楓

川べりの家のミモザの木。

すでに新芽が噴いている。

公園の横を流れていた川東へ向きを変え、さらにすぐ南へ直角に曲がる辺りの護岸工事で生まれた小空き地。10坪もない。↓

↑スペアミント、かたばみ

↑カラー、

ジュウニヒトエ、ランタナ

 

咲ききつて十二単の居丈高 行方克己 知音
 
十二単小さき塔なす院の奥 松本澄江
 
裳裾曳く十二単と言ふからに 柴崎博子
 
日を浴びて十二単衣の草の丈 岡本まち子
 
汝にやる十二単といふ草を 高浜虚子
 
略襲ねたまへる十二単かな 後藤夜半
 
しんかんと十二単衣の花ありき 井上雪
 
濡場猫十二単を乱したる 阿波野青畝

むらさきかたばみ、クンシラン、マメカミツレ、メリケントキンソウ、ポリゴナム

ハゲイトウ

先月まではコスモスが10株以上咲いていた。ご近所さんがいろいろ持ちこまれるよう。

その名残り

 

他には、ベゴニア。野草では、ホトケノザ。

 

 

句碑

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万緑を楯として暮れる神の谷

 

と記した句碑に雪が降り積もっている画像が今朝ワイフのスマホに送られてきた。

(添付ファイルで送られてきた画像を、このブログ画面に張り付けたいができない。)

 

この句碑披きの折、参加者のワイフの運転手役で、いっしょに武蔵の里、西粟倉村へ出かけた。

 

作者はこの句碑を、檀家寺であり、私の親戚が住職を務める同じ村の寺に建立したかったが、

その種のものを一杯並べる寺に反感を持っている住職に断られ、自分の生家の庭に建立した。(住職とはこの件につき話をしたが、住職の持論に反抗したり、宥めたりする発言はしなかった。私のいつもの姿勢である。)

 

運転手も式典・祝賀会への参加を認められ、記念句会にも参加した。

 

ホトトギス系の句会ゆえに、俄か勉強で、口語俳句を歴史的仮名遣いに翻訳、

翻訳に自信がないので、披講役を仰せつかっているワイフにご指導を願おうかと思ったが、

それでは私の句がワイフにバレてしまうので、「そうな」は「さうな」でよかろうと判断、

 

飛びさうな斎主の合羽青葉谷

エゴの花百を灯して剣士の像

 

など(3句出句だったが残り1句は失念)を出した。

 

驚いたのは、披講役のワイフが披講を始めるや否や、イの一番にこの句を読みあげた。

一瞬、20数人(ワイフ以外はすべて初顔)の参加者が皆、私を見つめているような気がした。

すぐに(2,3秒遅れで)伝統俳句系句会は「名乗り句会」であることを思い起こし、かすれた声で「ショウちゃん」と名乗りを上げた。

 

こういう名乗りは間髪をおかずなすべしと、分かったような顔をしてエッセイで書いた記憶が

蘇った。

 

2016年ないし2017年という年号を付した俳句年鑑がつぎつぎと発行されている。

参加した年鑑には、上記の句を発表している。

掲載句を決めたのは夏前後であるが、作者である私もけっこう気に入っている(よう)。

 

(夕刻には、来年4月発行の「年鑑」に1句載せろとお願い便を受け取った。

年鑑代金や月刊誌の年間予約振込票同封で。)

 

昨夜、岡山県北部は大雪だったよう。

 

その画像受信より早く、宅配便があり、

新俳誌創刊号が30部ほど送られてきた。

朝顔や絵日記最終頁の遺書 仁平勝 花盗人
 
秋晴の拍手最終ランナーに 高橋笛美
 
銭掴み胼の手最終レース終る 杉本寛

創刊、終刊では例句なし。

 

今年の最後のダチュラの花

昨夜、参加しているネット句会の投句締め切り間際、何をしているのかと

ワイフに聞かれ、苦吟中というと、

「私も参加したい」と言い出し、代理出句(というよりはワイフのPCを私が独占使用中)。

今朝句稿が公表されたが、それを告げるとあっという間に選句完了・送信。

 

私の方はプーチン並みである。

政治的配慮が働いているわけではない。

締め切り日に仕事を開始する悪弊・悪癖が残っている。

 

金柑

近所でも何株か金柑を見るが、この家のものが一番立派で、毎年紹介している。

この家のすごいのは、全個を収穫なさっていること。

何に加工するにしても消費できないと思うが・・。

ワイフは3,4年前に作った梅酒が未だに捌けないとご機嫌が悪い。

 

 

 

 

冬枯れ

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冬枯れの枯れひびき合ふ雑木山 山田和子
 
冬枯れて那須野は雲の溜るところ 渡辺水巴

メディアは特に告げていないが、関西平野部では、昨日、今日、12月にしてはかなりの冷え込みである。

平野部では車の運転に支障はないが、神戸市北区へ出かけるとなると、路面凍結が心配であった。

 

施設へ入り込む坂道で、道路へ流れ出した谷水が凍っていたが、路面全体ではなかったので、無事通過。

 

これが美作行となると、高速道路で標高300mほどの峠を一つ越えねばならず、

そのあたりでチェーンが要求されることがあるし、そこを通過しても美作北部(西粟倉村など)

では前の晩に降った雪がアイスバーンになっていることがある。

 

よって11月下旬から、最近では3月末までは、自分の運転では車での美作行はやめている。

下限は3月20日としていたが、ある時、ある朝目覚めると車が雪で真っ白になっていたことがあり、以来、下限をさらに1週間延長した。ためにそれ以前に一度セツブンソウの咲いてるのをみたきりで、5年以上はこの花をみたことがない。

 

米作放棄地が増えたために、草刈りがなされていなかった池沿いのあぜ道(土手道)が

除草されていたので、冬の刈田とその周辺へ踏み込むことが出来た。

 

ヒツジダの枯れた状態かどうかは判別不能。

↓この田を耕す家なのか

神戸市といえど、北区ならこんな風景が残っている。

冬の池

遠くに見えるのは、淡河PA(店の施設へは一般道路からも隣接する駐車場経由で利用できるので、地元の人も昼食をとりに出入りしているよう。まだ私は利用したことがない)

 

緑が残っているのはセイタカアワダチソウ

枯れすすき

今日はクリスマス・パーティ。

日曜日は神父が所属教会でのミサ等で「出張」できないので、

土曜日に開催。

 

 

舞台であるがステンドグラス等は、カトリック儀式会場としても使えるようになっている。

幕があって、いつもは、幕が引かれていて、舞台は物置になっているので、ステンドグラスは見えない。

幕の上の壁に何か付属品がぶら下がっていると思ったが、

パーティの最後に仕組みが分かった。

部屋の背後の壁面

、なんかみたことのある家構えだと思ったが、よくよく見ると、テレビ放映の「サザエさん」の

最後に登場する場面であると確認。

こんなメニューを含め、ランチョマットなどもすべて若い職員の手作りである。

 

この施設はブラザー(修道士)だけで構成される修道会で運営されている。

修道士は聖職者(司祭)ではないので、ミサを挙げる資格がない。

聖職者(ファーザー)だけでなく、修道士も成り手がなく、既婚者でもなりうる助祭で教会運営の多くの部分が担われている。

大阪教区(大司教区)だけでなく、日本全体で、今ある教会に一人ずつ神父を配置することが不可能となり、日曜日だけ近くの教会や修道会から神父が出張してくるケースが増えている。

 

かつて日本に多くの宣教師を派遣したヨーロッパ諸国も同じような状況である。

一部のプロテスタント教会同様、神父の妻帯を認める「改革」や、女性の神父(用語変更が必要)を認めようとする案もあり、現教皇はやや肯定的であるが、制度変更のためには

そのまえに神学を変更せねばならない。神学を変更するためには教皇不可謬権の解釈を、

かつての公会議決定事項の解釈を変更しなければならない。

 

冬桜

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冬桜

冬桜の季節

散りしくといふことのあり冬桜 行方克己 知音
 
冬桜咲きゐる吉備津詣かな 上田土筆坊
 
水音のそこだけ消えて冬桜 清水衣子
 
冬桜常陸風土記の空青し 原 和子
 
冬桜相模の湾を一望に 山本 幸代
 
冬桜皇女の墓の傍に咲く 小玉真佐子
 
冬桜見に来て地酒買ひにけり 下山宏子
 
一瓣を吐ける莟や冬桜 富安風生
 
風音のいつもどこかに冬桜 高橋千鶴子
 
咲きそめしかに咲ききれる冬桜 久保ともを
 
一片を散りもこぼさず冬桜 園 敦恵
 
舞うほどの花びら持たず冬桜 宇咲冬男
 
冬桜空の碧さとかかはらず 馬場移公子
 
冬桜目離さばその枝暮れむ 岡田貞峰
 
ひそみて淡し翁の魂の冬桜 有働 亨
 
冬桜干し重ねたる和紙の息 殿村莵絲子
 
冬桜空の碧さとかかはらず 馬場移公子
 
仰ぎゐておのれ忘るる冬桜 根岸善雄
 
うす紙のごとき日をのせ冬桜 行廣すみ女
 
冬桜一縷の径をのぼりつめ 岡本まち子
 
異細胞宿るもえにし冬桜 長谷川翠
 
かげりきてむしろ白湧く冬桜 中村 房子
 
冬桜波のひかりと光りあひ 正円青灯
 
うつし世のものとしもなし冬桜 鈴木花蓑
 
一弁を吐ける莟や冬桜 富安風生
 
忍ぶこと慣るるは悲し冬桜 湯川雅
 
冬桜風の研ぎたる空のあり 山田閏子
 
楚々となほ咲き継ぐ心冬桜 藤浦昭代
 
疎に咲きて日かげることも冬桜 浅井青陽子
 
邂逅の一と日なりけり冬桜 桑田青虎
 
冬桜一ひら解けし夕霧忌 清崎敏郎
 
つぶやきの息にくもれる冬桜 上田日差子
 
耳たぶのふくふく育つ冬桜 上田日差子
 
冬桜三十畳を拭きあげて 夏井いつき
 
古きよき厠のにほひ冬桜 小川軽舟
 
うつし世のものとしもなし冬桜 鈴木花蓑
 
石に寄るたましひあらむ冬桜 磯貝碧蹄館
 
日は未形色さめざめと冬桜 山田みづえ
 
散りしくといふことのあり冬桜 行方克巳
 
日は未形(みぎょう)色さめざめと冬桜 山田みづえ 草譜以後

イベリス

冬に咲く花も増えた。

 

南ヨーロッパ、北アフリカ、西アジアにおよそ20~30種が分布します。主に春に花を咲かせ、毎年開花する多年草と花後に枯れる一・二年草があります。花は径1cmほどと小さいですが、1カ所にまとまってついて、ボール状になります。草丈は30cm前後、横によく広がって花の盛りには株一面の花を見せてくれ、その姿は可愛らしいです。花色は白のものが多く、それ以外にはピンク、赤、紫などがあります。花は4枚の花びらをもち、外側2枚が大きく、内側2枚が小さくなっています。

英名はキャンディタフトで「お菓子の花」という意味です。こんもりと茂った株一面にふんわりと花を咲かせる姿に由来するとされています。イベリスの名前はイベリア(半島)から来ており、イベリスの多くの種が自生しているところに由来します。日本に入って来たのは1870年頃とされます。   ヤサイイエンゲイから引用。

 

冬の花ではないよう。

 

 

ひつじ田

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1昨日見た田

この場面は一枚しか撮っていないので、17日に紹介したものと同じ。

この時期の刈田跡としては何か違和感がある。

櫓田(ひつじだ)-木偏は、本当は禾偏ーとなった形跡がない。

櫓田を刈り取るのは飢饉のときだけと聞いたことがある。

土地の痩せるのを防ぐために刈り取るほどの労働力の余裕はないはずだし。

 

今日見た刈田

神戸市北区と尼崎市内ではかなりの高低差がある。しかしそれが原因とは思えない。

適当な理由を思いつかない。

田の隅にこの時期の高三郎を見つけた。

アメリカ高三郎か。

一杯実をつけている。除草剤には抵抗力があるよう。

 

今日初めて立ち寄った寺

私の家からは徒歩で20分くらいかかるが、寺のHPの案内では阪急「武庫之荘」駅の南側から徒歩3分となっている。住職さん(真宗ではこう呼ぶのかどうか知らない)はブログを開設なさっている。

 

寺の入り口に

保護樹林の標識。

個々の木は丁寧な剪定がなされているが、「樹林」とはとても言えない。

指定解除になっているのではないかと尼崎市のHP内の保護樹木、保護樹林一覧を覗きに行った。確かに今も保護樹林である。指定樹木数9となっている。1500㎡を越える地所内に

9本木があれば、保護樹林になるのなら、

美作のMrs K宅内、キロロガーデンは堂々たる保護樹林であり、幹回り1.4メートル以上が基準なら保護樹木もあることになる。

 

しかし一覧をつぶさにみると、敷地面積200㎡未満で樹木5本でも保護樹林になっているところもあった。

ならば、いくら人家密集地帯の尼崎市(50㎢-ざっといえば7㎞4方)といえど、敷地面積300㎡以上で、高木・古木を10本程度植えている家は100軒以上はあるとおもう。

 

参加しているネット句会の選句をしていて、

「小春日の父洗ふ」というフレーズに出会い、衝撃を受けた。

星月夜父の襁褓を母洗ふ 冨田みのる
 
水草生ふ在所にて母洗ひたし 栗林千津

「父洗」で検索、例句、予想通り0。

 

上5で失敗作になったように思うが、優れた感覚であると思う。

 

 

 

 

 

 

 


苔の花

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確かに成長している感じがする。コナイボゴケ?

公園の、川沿いの、ごく一画である。

墓の道わづかのの花 相馬黄枝
 
の花の緑にうもれ咲く 雨海青人
 
妻の愛情の如寺のやわらかにビロードに 橋本夢道 無礼なる妻
 
艮に棲めば眼窩に光 高野ムツオ 雲雀の血
 
に万両溺れ寂光土 富安風生
 
庭石のを見に出る炬燵かな 室生犀星
 
椎の実の落ちて音なしの上 福田蓼汀
 
雪国のの青さに一葉落つ 大島民郎
 
黄落の奈良にはの道多し 小寺正三
 
や母の話を聞くばかり 今井千鶴子
 
やありし日のごとかしづける 阿部みどり女
 
身延線掃の火が山に見ゆ 宇佐美魚目
 
風の盆水の香のうぐひ酒 細見綾子
 
寺にふり溜りゐる秋の雨 京極杞陽
 
姨捨は更待月後ぼとけ 古沢太穂
 
秋寂びし踏ませじと門をとづ 水原秋櫻子
 
身に沁むや衣被て石仏 吉野義子
 
杖を持つものに親しきの花 鳥井信行
 
池泉めぐる老松の影の花 田口一穂
 
の花踏むみささぎの松鳴るに 高井北杜
 
仏ともただの石ともの花 森本林生
 
膝ついてよりの花つまびらか 田畑美穂女
 
鞘堂の鞘の日数にの花 深谷雄大
 
洛北の暮色をたたへの花 長谷川双魚
 
打水に浮き出て暮れぬの花 原 コウ子
 
菜の花や阿吽のもうすみどり 安東次男
 
清水落花一ひら又一ひら 内田園生
 
春光を片手掬ひに清水 高瀬哲夫
 
法師蝉聞き入るの佛たち 田所 一滴
 
神燈の笠の広さにの花 是永 李乃
 
の花尼踏み昇り踏み降り 木村 草女
 
乳色のの中から無垢なもの すずきりつこ
 
の国葬送音楽流れやすし 鈴木伸一
 
に寝て墓標のかたちの光りかな 水野真由美
 
音速を絶ち神々のひかり 佐藤鬼房
 
太古の洞を侵す電光目覚める 八木原祐計
 
暗くなるまで待てない少女は科 毛呂 篤
 
洞窟の流人の星なり光り 堺 信子
 
厚き敷く
谷間の
墓地の
仮睡の水車      高柳重信
 
に花いつか飛翔の空がある 山田涼子
 
水うまし青のごと父母ありて 平北ハジム
 
子の眠りもつとも深しの花 長谷川 櫂
 
石獣の口中の花ざかり 加藤憲曠
 
の花顔ばかり日を当て歩く 岸田稚魚
 
尼老いぬ日の澄みに花ひらき 長谷川双魚 『風形』
 
閑古鳥靄明るめるの階 柴田白葉女 『夕浪』
 
末枯の影おもしろしを踏む 『定本石橋秀野句文集』
 
香もそれも寂光院やの花 飴山實 『花浴び』以後
 
丈六のそびら音して清水 飴山實 『花浴び』以後
 
柿紅葉マリア燈籠寂びぬ 水原秋桜子
 
づける百日紅や秋どなり 芥川龍之介
 
夏の日や薄つける木々の枝 芥川龍之介
 
若竹の*ろうかんに立ちならぶ 水原秋桜子
 
御廟所の葵の紋にの花 和田郁子
 
屋根の花まで咲て落ちにけり 一茶
 
咲くや親にわかれて二十年 村上鬼城
 
の花顔ばかり日を当て歩く 岸田稚魚
 
水打てば沈むが如しの花 高浜虚子
 
此奥に聖おはしぬの花 暁 台
 
青し更に影置く若楓 水原秋桜子
 
に著くまでの大きな春の雪 阿波野青畝
 
万両の実は沈み居るの中 高浜虚子
 
愛する時獣皮のようなの埴輪 赤尾兜子
 
音もなく紅葉散りゐる筵 杉山青風
 
姨捨は更待月後ほとけ 古沢太穂
 
豪商の裔は住まはずの花 中村三千年
 
虚子眠る曼陀羅やぐらの花 鈴木英子
 
水かけて明るくしたりの花 乙二
 
仏ともただの石ともの花 森本林生
 
沙羅の花に降りつぐ夜ならむ 船越淑子
 
まはりより這ひ上り岩魚小屋 大木格次郎
 
が見え鮎が見え下田富士 谷川季誌子

苔で検索、海苔の句は削除 新海苔の句が多かった。

 

桜の木の下は

 

吐金草がびっしり。

クローバーなどが芽吹くと、草の下になって姿を消す。

今は触っても痛くない。

 

 

マメカミツレとの差が分からなくなった。花時でないので。

 

 

バースディ・キャンドル

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冬桜 まだまだこれから。

 

なにか昨年位から勢いがないように思う。

 

そういえば、細枝が垂れ下がるためか、かなり枝切りされている。

一番見事であった株は、おおきな建物が目の前に建った影響か

見栄えがしなくなった。

ヒマラヤザクラは盛を過ぎたかも。

葉と花が同時。冬場の緑が鮮やか。

木陰になったところに育っているので、地味な感じだが、

川沿いの開けた場所に育っているものは、緑がもっと鮮やかである。

どこでも、春夏秋、冬も元気なのは、↓

 

枯れ溝で冬も咲いているのはアメリカフウロ。

アメリカフウロ(亜米利加風露、Geranium carolinianum)は、フウロソウ科フウロソウ属雑草北アメリカ原産の帰化植物。現在は全国の道ばたなどによく見かける。

一年草で、茎はやや倒れながら伸びる。は大きく3~5裂し、それぞれの裂片はさらに分かれている。花は薄い紫で小さく、茎の先端に散房状につくが、小さくて目立たない。

現証拠(ゲンノショウコ)も同属らしい。

フウロソウ属(フウロソウぞく(風露草属)、学名 Geranium)は、フウロソウ科に分類される多年生草本植物の属の名称で、後述する種をはじめ 420以上が確認されている。

フウロソウ属の学名は Geranium だが、日本で園芸用に栽培される品種などで「ゼラニウム」と呼ばれる品種はテンジクアオイ属であることが多く、本属の種は多くが○○風露(フウロ)と呼ばれている。英名では本属とテンジクアオイ属をあわせて "Geranium" と呼ぶ場合が多い。

AsamaFuuro 06f2560.jpg

 

そういえば、花の姿がよく似ている。風露はそれなりに観賞価値があるが、

アメリカフウロは花は小さいし、色合いも目立たない。

「アメリカフウロ」で検索したら除去法などが案内対象になっている。

 

風露胸に飾りて恋せんか 小林康治 『虚實』
 
霧ふれば霧に影して風露咲く 石原八束 『風霜記』
 
千島風露咲いてオロロン鳥孵る 石原八束 『藍微塵』
 
列なして人押しあぐる風露草 望月たかし
 
風露草日陰は風のゆるやかに 渡邊千枝子
 
よべの海霧丘にのこれり風露草 澤田 緑生
 
風露草咲きつぐ涯の利尻富士 宮川 斗潮
 
湿原の雲自在なり風露草 岡田和子
 
この岨の富士細身なり風露草 手島 靖一
 
言かけて跼むや霧の風露草 佐藤いね子
 
井の端の風露の乾き九月尽 菅裸馬
 
岳の日は伊吹風露の花に澄む 早崎明
 
千島風露咲いてオロロン鳥孵(か)へる 石原八束 藍微塵

風露草を季語とみなさない結社が多いような例句状態。

ましてやアメリカフウロなど詠った句は0かも。

ならばぜひとも詠いたい。

 

この季節にはホトケノザは日当りのいいところでは咲き始めるが、こちらは春の季語として

定着か?

春の七草といえば、セリ,ナズナ,ゴギョウ,ハコベラ,ホトケノザ,スズナ,スズシロ

であるが、春の七草のひとつのホトケノザは、↑の画像のものではなくタビラコを指す。

タビラコもしかし冬でも咲いているのをみかける草である。

 

  野寺あれて跡にやはゆる仏の座貞徳 「崑山集」
水仙の堤たづねむ仏の座尚白 「孤松」
七草や何をちなみに仏の座路通 「元禄百人一句」
つむけふも我は蒲団を仏の座也有 「蟻つか」

を例句にあげる歳時記案内(ネット上の)は、仏の座を新年の季語としつつ

 

春の七草のひとつ。野原や田畑に自生する。葉が仏の蓮華座に似
ていることからこの名がついた。

 

と解説しているが、タビラコの葉が蓮華座に似ているとは思わない。

 

近くの神社、富松神社から(ワイフあてではなく)私宛に大型封筒に入ったものが届いた。

夏に修復募金に応じて1口寄進したからであろう。

お節用箸と屠蘇が入っていた。ワイフはそろそろ屠蘇を買おうと思っていた時なので、

喜んでいた。

さらに、 平成29年神社暦が入っていた。

母親は毎年この種のものを購入していたが、久し振りに出会う小冊子なので、

ざっと目を通した。

これについて明日。

 

タイトルにバースディ・キャンドルと記入した。

この木の品種名である。

バンクシャー・バースディ・キャンドル。

↓もオーストラリア原産

 

 

 

 

 

シティホテル

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ホテルとは、元々「旅人」を意味するラテン語の「hospes」が派生して、「手厚いもてなし」を意味する形容詞「hospitalis」となり、これが変化して行ったことがホテルの語源となったと言われています。

旅館業法施行令によると、日本ではホテルとは洋式の構造及び設備を主とする施設のことを指し、部屋数は10室以上と定められています。基本的に室料、サービス料のみで宿泊でき、食事は別料金となっていることが多いようです。

 

雨の中を出かけたのは、伊丹シティホテル。

 

シティホテルは普通名詞である。

ホテルの分類概念の一つである。

シティホテルは、ビジネスホテルより格上の概念である。

ビジネスホテルは出張社員・商人の宿泊専用施設だが、

シティホテルは、会議や各種の式典、懇親会やパーテイ用の部屋とサービスを

兼ね備えた宿泊施設であり、老舗のレストランや理髪・美容店、宝飾店などを組み込んでいる。

初めて利用したわけではないが、伊丹第1ホテルから、伊丹シティホテルに名が変わってからは初めてロビーに入り込んだ。

俳誌の創刊号祝賀、次号以降の編集方針などを話し合った。参会者12名。

雨が激しくなったが、会の終了後、ホテルの横にある寺にある上島鬼貫の墓を5人で見に行った。

碑がある

上島鬼貫は1661年(寛文元年)4月摂津国伊丹の酒造家の三男に生まれた。本名宗邇(むねちか)、通称は与惣兵衛、別号は仏兄(さとえ)・馬楽童(ばらくどう)・槿花翁(きんかおう)など。晩年平泉姓に改める。 
 13歳で松江重頼に師事、のち談林風に転じた。一時は伊丹風と呼ばれる異体の俳諧に遊んだが、やがて松尾芭蕉より早く『まことの外に俳諧なし』と悟り、率直で平易な俳風を示した。著書に『犬居士』『仏兄七久留万(さとえななくるま)』『独りごと』などがある。


 鬼貫は1738年(元文3年)8月、大坂・鰻谷で没し、墓は大阪市天王寺区鳳林寺と北区鶴満寺のほか、伊丹市墨染寺ある。享年78歳。


 通説では、鳳林寺に葬られたといわれているが、鶴満寺の過去帳には「仙林則翁居士 元文戊午年八月二日圓寂七十八才 俗名上島與惣兵衛」と記されてあるとのことで、鬼貫が葬られたのは鶴満寺の可能性もある。句碑は四ツ橋、豊中・服部天神などにある。
 

 

 

秋ハ物の月夜烏はいつも鳴

 

「月夜 烏」で検索

瓜咲いて月夜の精あそぶ 加藤燕雨
 
松高し月夜も放生会 加舎白雄
 
秋はものの月夜はいつも鳴く 上島鬼貫

月夜烏

=月の明るい晩に浮かれ鳴き出す烏。また,夜遊びする人のたとえ。

 

アメリカキカシグサ

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先日、緑化植物園へ出かけた折、事務所に寄り、相談コーナーで

カメラ画像を提示、同定をお願いした。

提示した画像は、このブログで紹介し、アメリカタカサブロウ?と書いたものである。

相談員さんも即決しかねたらしく、(アメリカタカサブロウではないと思うとは断定)

画像を預かって後日メールでお答えするということになった。

 

今日回答があった。

アメリカキカシグサ。

ネットで検索すると関西でも近年急速に「侵略」が目立つとあった。

それを確認後、画像を得た田んぼへでかけた。

この一画のたんぼでだけ繁茂している。

春、夏の姿を知らないので、完全学習とは言えないが、田の草をまた一つ覚えた気になった。

 

富松神社境内で、保護樹林標示は何処に立っているのか思い出せないので確認に出かけた。

今月は5回以上ここへきている。

年に20回以上この神社を覗いているのに、保護樹林表示に気付かなかった。

享保6年建立の燈籠の横にあった。

尼崎のHPでは、富松神社6026㎡の、20本が保護樹林指定されているが、

一目20本以上の樹林にみえる。

とりわけ神木になっている本殿正面右のクスノキは立派である。

少し近づくとカメラの枠内に収まらない。

根回りも立派

神社の案内には、樹齢500年以上となっている。

尼崎藩成立時には、すでに100年樹であったように思う。

 

 

現代俳句協会のデータベースより波郷の句

 

 

 

あえかなる薔薇撰りをれば春の雷
いつも来る綿虫のころ深大寺
うつむきて歩く心や蓼の花
くらがりの合歓を知りゐる端居かな
ことごとく枯れし涯なり船の中
さくらの芽のはげしさ仰ぎ蹌ける
しづけさにたたかふ蟹や蓼の花
たばしるや鵙叫喚す胸形変
とまり木に隠れ心や西行忌
はこべらや焦土のいろの雀ども
ひとつ咲く酒中花はわが恋椿
ほしいまま旅したまひき西行忌
ほととぎすすでに遺児めく二人子よ
ゆるぎなく妻は肥りぬ桃の下
わが死後へわが飲む梅酒遺したし
ニコライの鐘の愉しき落葉かな
バスを待ち大路の春をうたがはず
プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ
一樹なき小学校に吾子を入れぬ
一茶忌や父を限りの小百姓
一高へ径の傾く芋嵐
七夕竹借命の文字隠れなし
人はみな旅せむ心鳥渡る
今生は病む生なりき烏頭
優曇華や昨日の如き熱の中
元日の日があたりをり土不踏
六月の女すわれる荒筵
冬日宙少女鼓隊に母となる日
冷奴隣に灯先んじて
初蝶やわが三十の袖袂
力なく降る雪なればなぐさまず
力竭して山越えし夢露か霜か
名月や門の欅も武蔵ぶり
君たちの恋句ばかりの夜の萩
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ
唇甜めて英霊に礼す冬旱
坂の上たそがれ長き五月憂し
夕づく蛾柏大樹をめぐりけり
夜桜やうらわかき月本郷に
天地に妻が薪割る春の暮
女来と帯纒き出づる百日紅
寒むや吾がかなしき妻を子にかへす
寒卵薔薇色させる朝ありぬ
寒椿つひに一日のふところ手
寒菊や母のやうなる見舞妻
弥撒の庭蚯蚓が砂にまみれ這ふ
息安く仰臥してをりクリスマス
悉く芝区の英霊木枯れたり
悉く遠し一油蟬鳴きやめば
手花火を命継ぐ如燃やすなり
理解出来ない句、読みが分からない句もいくつかあるが、
これだけの句数を並べて、共感できる作者は他にない。私には。

ことごとく枯れし涯なり船の中

 

波郷の生涯・経歴を熟知しているわけではないので、

この句のような場合、「船の中」が分からない。

まだ黄葉も始まっていない日本の港を出て、

北部中国の港か、朝鮮半島北部の港を遠望(近望)すればこんな感慨もうまれるかも。

しかしその場合、「船中から見れば」の意味で、「船の中」とは詠まないであろう。

 

街中から2等船室へ(初めて)乗り込み、船室の殺風景さを詠った句と解するのも無理がある。

 

とにもかくにも当時最先進の句と、現代俳句の流行形の差がなさすぎる感がする。

「ホトトギス」俳句はまだここまでは進化していない。

 

 

 

 

かりん

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花梨の実破れかぶれで生き延びて

という句を作った。作ってから気になりだした。

花梨は下記のものを指しているつもりが、

そうでない可能性もあるので。

 

 

 

 

カリン(花梨/かりん)

Wikipedia:

カリン(榠樝、学名: Pseudocydonia sinensis)は、バラ科の1種の落葉高木である。その果実はカリン酒などの原料になる。

かつてボケ属 Chaenomeles とする説もあったが、C. K. Schneider が1属1種のカリン属 Pseudocydonia を提唱し[2]分子系統で確認された[1][3]。 カリン(属)に最も近縁なのはマルメロ属 (Cydonia) とカナメモチ属 (Photinia) であり[1][3]、それに次ぐのがナシ亜連の他の属で、かつて属していたボケ属のほか、リンゴ属ナシ属などがある。

マメ科のカリン(花梨)とは全くの別種である(近縁でもない)。近縁なマルメロの果実も「かりん」と称されることがあるが、正しくない。

 

これを読む限り、やはり榠樝と表記すべきであったか?

最終校正の折、花梨でいいかと廻りにいる人に尋ねたらyesということだったので

放置した。

 

 

 

榠樝のように環境依存文字で検索する場合は、

「*かりん」として検索しろというので、そうしてみた。

 

本陣の玄関先や*かりん照る 田島竹四
 
*かりん酒の一壺を勤労感謝の日 児玉悦子
 
文机にかりん置かれて木にはなし 森田 峠
 
*かりん老樹に赤児抱きつく家郷かな 金子兜太
 
引ぱれる日をふりきつて*かりん落つ 上村占魚 『かのえさる』
 
自家製のかりん酒琥珀に巴里祭 池田博子
 
のかりん仏頂面をころがしぬ 野村光子
 
木の*かりん一弾さむくまた一弾 山崎 聰
 
目を遣るたび答えをくれる*かりん一箇 窪田久美
 
火事跡に*かりんを置いてきたりけり 仙田洋子 雲は王冠
 
青*かりん大きな滝に供へけり 岸本尚毅 鶏頭
 
太陽が白し*かりんを輪切りにす 山西雅子
 
かりん垂れ片蔭沿ひに婆の杖 細川加賀
 
蒼溟の*かりん林や額あらわ 対馬康子 愛国
 
鋭角に舌を削つてゆく*かりん 櫂未知子 貴族
 
かりん落つあたため合はむ夜のことば 千代田葛彦
 
かりん約束ありて日々はづむ 田中英子
 
焼酎に柘榴を沈め*かりんを漬け 絞りとるべきわれの魂胆 齊藤史 風翩翻
 
*かりん一顆置けば傾ぎて個室なり 沼尻巳津子
 
*かりんシュパリ カリ わたしの敵はわたし 松本恭子
 
先生と庭の*かりんを数へけり 原田喬
 
何仰ぐ亀かと見れば*かりん熟れ 大島民郎
 
仏像の残像 *かりん供えたく 和田悟朗
 
のかりん青の沸騰点に在り 小檜山繁子
 
触れざれば月下の*かりん油膜もつ 小檜山繁子
 
枝先に実梅と*かりん混りをり 中戸川朝人
 
秋風のかりん二三顆寝て見ゆる 臼田亞浪 定本亜浪句集
 
かのかりん落ちなばわれを殺すべし 山口青邨
 
 
これらの句は、なべて榠樝と表記されているよう。
しかし「花梨」という表記も俳句で用いられていることを確認。
 
 
 
花梨の実高きにあれば高き風 池上樵人
 
花梨の夜を濃くしたる弥勒かな 福島 勲
 
花梨の無限の白に入りてまどふ 加藤知世子
 
永遠は掌に乗るでしようか 花梨の庭 伊丹公子
 
北風まとふ花梨の下のおびしや宿 町田しげき
 
花梨老樹に赤児抱きつく家郷かな 金子兜太 皆之
 
クリスマスイヴでも菊は残っている。
暖かいからであろう。
↑は我が家から500mの範囲で(多分)唯一菊づくりに勤しんでおられる家のもの。
これをモデルに
 
裏口へお回りください菊日和
 
という句を作ったことがある。こういう光景の描写とは理解されなかったが評判は悪くなかった。
 
お年を召され、栽培鉢数はかなり減っているが、上の句を作った頃は、実は、
裏口にもびっしり並んでいた。
 
 
家と家の隙間地帯。ここで常盤露草の名を知った。
12月末だが
トキワツユクサの葉に交じって、ポリゴナム(姫蔓蕎麦)が咲いている。
昼過ぎに息子夫婦がやってきたので、急きょ、クリスマス・ケーキを「ねつ造」して
コーヒパーティ。夕刻は二人だけのパーティを自宅で用意しているらしく、
我が家は暖かいご飯と納豆でひそやかにと思っていると、
 
14歳児家と8歳児宅から、豪華なパーティの様子がライン送付されてくるので
これまた、急きょ、飯は炊きあがっていたが予定変更
 
 
 
 
 
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