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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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オオイタビ

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フィカスプミラにオオイタビという和名があることを知ったのはごく最近である。
班入りの園芸種ではなく、おびただしく蔓延っているプミラは、


↑こんなかたちであった。病気治療中で休業していた寿司屋の店の前

房総半島以南から東南アジアにかけての幅広い地域に分布する常緑性の低木です。茎は立ち上がらずに這うように伸びていったり、茎の途中から出る気根を壁や他の木の幹ににくっつけて上によじ登っていきます。よじ登る力は強く、気根はコンクリートの壁や石垣などにもしっかり張り付きますので壁面緑化などにも利用されます。一般に栽培されているものは幼木で、年数を経た古株は葉が大きくなり幼木とは別の植物かと思わせる姿になります。プミラの名前はラテン語で「ちっちゃい」「低い」という意味です。

野生の品種は緑色の葉をしていますが、観葉植物として鉢植えなどで出回っているものは白や黄色の斑のはいる園芸品種が大半を占めます。性質は強健でさし木で簡単にふやすことができるのでハイドロカルチャーやミニ観葉植物として人気があります。


wキさんにはこの項目がない。
↑はヤサシイエンゲイからの引用。

画像は野生種である。今日園芸店で見たら、鉢植えの班入りのものには「プーミラ」という名札が挿してあった。

それと古株は同じ木とは思えないという解説も納得。
実を鈴なりにつけたものと、↑のものが同じものとは思えなかった。

家から100メートル駅に向かって歩くと、阪急電車の高架をくぐる道がある。高架を潜って阪急神戸線の南側に出るとオオイタビが目に入る。寿司屋の看板は残っているが、もう数年前にオーナーが逝去。
何年かは週に1,2度寄って呑んでいた。(肝臓の数値が上昇したので酒を控えるようになり、この店への出入りを止めた)。
隣の店の壁を覆うようになったので、一度かなり取り除かれたが今や再び店の前全体を覆っている。

日本も原産国なのだが、オオイタビという和名はあまり知られていないようである。
市の文芸誌に

市営バスの営業譲渡大伊太比

という句を、この店のプミラから発想を得て出句したら、
事務局から「何と読むのか」という問合せがあった。

事務局の判断ではなく、俳句部門からも編集者が出ている会議で、
問合せろということになったのであろう。

「俳諧歳時記」の索引にあたったが、「いたび」「おおいたび」「ぷみら」「フィカス・プミラ」
いずれでも見つけ出せなかった。

「フィカスプミラ」の画像検索結果

園芸店に出回っているプミラの画像を、楽天から借りてきた。↑




敬老の日

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なんかいろいろ。
ピンクのタオルは町会から


クーラーにピンクのリボン モンロー忌 沙羅冬笛

子の踵ピンクに染めて初稽古 上窪則子

コスモスのピンクが与党他は野党 林 直入

灯を寄せしカーネーシヨンのピンクかな 中村汀女

芥子坊主阿片のピンク液を秘む 粟津松彩子

錠剤の一つはピンク秋深む 矢村三生

灯を寄せしカーネーションのピンクかな 中村汀女

片想い今はピンクの椿が好き 大高翔

↓これも半分食べてからの撮影

暴風雨報道つづく敬老の日


敬老日の腰紐しかと結びけり 鈴木真砂女

理髪椅子神父をのせて敬老日 朝倉和江

敬老の日の菓子屋町抜けにけり 池田秀水

流木に敬老の日の父母憩ふ 関森勝夫

隣より祝電の来し敬老の日 佐藤 重子

敬老の日の焼津焼もやひ船 渡辺 照子

敬老の日の砂浜に足とらる 伊藤白潮

敬老の日やしづかなる酸性雨 鈴木伸一

よろこびに脆き母なり敬老日 古賀まり子

敬老日猫の土足を拭いてゐし 鳥居おさむ

おのが名に振り仮名つけて敬老日 長谷川双魚 『ひとつとや』

敬老といふ日の海を見にゆけり 長谷川双魚 『ひとつとや』

敬老の日の給食の鮪鮨 角川源義 『西行の日』

落雁の鶴亀並ぶ敬老日 種市清子

売れ残る敬老の日の祝菓子 七田千代子

すべり止め靴下を買ふ敬老日 乙武佳子

死線越えし話もありて敬老日 川村甚七

髭剃つて敬老の日の顔を緊む 名取思郷

和菓子屋の賑ひ続く敬老日 松尾千代子

耳遠き母への便り敬老日 鈴木幸子

敬老の日のコーヒーのアメリカン 村本畔秀

着膨れて敬老の日の俄寒 水原秋桜子

よろこびに脆き母なり敬老日 古賀まり子

敬老日長寿の象が愛でらるる 塩路五郎

健やかさ確め合ふも敬老日 波多野惇子

敬老の日のどの席に座らうか 吉田松籟

戦経て生きる達人敬老日 佐藤正一

どしやぶりの牧の真中や敬老日 折井眞琴

敬老日つねは忘れてゐし齢 長屋せい子

敬老の日や句敵はみな鬼籍 小路紫峡

敬老の日とはせんなき日なりけり 手塚深志城

敬老の日のこともなく暮れにけり 太田蔵之助

敬老の一と日ざはざはして居たり 広谷春彦

運動会敬老席に居眠れる 清水文江

神妙に敬老の日も過ごさばや 相生垣瓜人

敬老の日や青柿は熟れゆくのみ 瀧 春一

敬老の日にも動ぜずなりにけり 相生垣瓜人

敬老の日の眉長き師にまみゆ 福永耕二

患者より医者いたはられ敬老日 築城百々平

敬老日祝ぎ役にして祝がれ役 築城百々平

牛くさき腕のこの脈敬老日 三嶋隆英

同じこと言ふに耳かす敬老日 黒坂紫陽子

敬老日鯛の眼肉掬ひけり 黒田櫻の園

敬老日とは煮小豆をことことと 及川 貞

理髪椅子神父をのせて敬老日 朝倉和江

守りし子に守られ出づる敬老日 遠藤 はつ

新栗に甘味やゝ添ふ敬老日 遠藤 はつ

敬老日つねは忘れてゐし齢 長屋せい子

朱の椀にみづからを祝ぐ敬老日 松本 美簾

たどたどしき文字の文来る敬老日 堀田千鶴子

盲導犬共に祝がるる敬老日 小坂かしを

父に向く家族の膝や敬老日 中山良章

似顔絵の大き眼鏡や敬老日 上田春日

野の花をつば先に差し敬老日 岩波千代美

子は来ても多く語らず敬老日 田中蘇水

敬老の日といふまこと淋しき日 中村春逸

父の忌や敬老の日の母囲む 山田閏子

着膨れて敬老の日の俄寒 水原秋櫻子

敬老の日や老樫に暗む家 瀧春一

新蕎麦も敬老会も奥会津 山口青邨

敬老の日なり徽章を附けにけり 相生垣瓜人

敬老の日の母の灯を二階かな 宮津昭彦

ジヤズを聴く指はづみをり敬老日 杉本寛

敬老日とは煮小豆をことことと 及川貞

敬老の日なり徽章を附けにけり 相生垣瓜人

おろおろと敬老会へ運ばるる 行方克巳

敬老の日の近づくに耳掃除 村越化石

敬老の日の給食の鮪鮨 角川源義

敬老日水流れゆく大蛾あり 飯田龍太

敬老の日とて何祝ぐこともなし 石塚友二

敬老日とは煮小豆をことことと 及川貞

敬老の日といふまこと淋しき日 中村春逸

鯛だけだと400句以上。「祝鯛」で検索すると、0.
「祝 & 鯛」で検索。1句。

に蚕豆飯をひけり 広江八重桜


尾かしらつきの鯛は元旦以来の出会い。

敬老日制裁強化というけれど


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ただ、「川」だけなら例句いくつみつかるか?
1200と予想して検索。5000かも。
「3347」と出た。作者名の中の「川」も含むからもっとあってもいいかと思う。

富松川 家から100メートル。これが排水溝ではなく川であり、「とまつ川」という名を持ち、
しかも一級河川であることを知ったのは2年目である。私は、3年前に書いたエッセイで、この川を名もなき川と表現している。

今日の富松川

↑ほぼ直角に曲がって南下する。
そういえばここにも堰があった。この地点より東の地区に水を送るために。
しかしここから東の方角には田んぼはなっくなった。その後の颱風で、この地点で水が溢れて
洪水となったことがある。

↑直角に曲がる前の、西から東へ流れてくる富松川。平凡な町川である。

↓西から東への流れは短かく、直ぐに北から南へ流れる川になる。
湾曲がつづくということがこの平凡な川の危険な点である。

.北から南へ流れ、近隣公園の西の境界となっている。↑は公園へ入る橋の上から北を向いて撮影。

昨日写したもの↓と比べると、水量が増えているのがわかる。

暁は澄み町川去年の燈をとどむ 山本古瓢

新海苔や夜は町川を埋めて舟 皆吉爽雨

町川に鴨のふえたり障子貼る 石黒哲夫

新海苔や夜は町川を埋めて舟 皆吉爽雨

町川に朝日の腐る西東忌 平畑静塔

町川や真昼真顔の花見船 久保田和子

町川に玄能を磨ぐ冬名残 宮武寒々

木歩忌の町川を飛ぶあきつかな 阿部光

町川のめざめ翡翆われを呼ぶ 木村孝子

町川に町の燈しづむ梅雨入かな 木下夕爾

町川の鯉金に照り鴎外忌 皆吉爽雨

web版尼崎郷土史事典「apedia」で、富松川を検索したら、
庄下川の解説が登場。

  大物川が古くから東西方向に流れていたのに対し、庄下川は常に南北方向をとってきた。これは尼崎デルタを形成してきた武庫川の一分流であることを物語る。弥生時代の遺跡が、当時の河口と思われる庄下川中流地域にあり、古墳時代への移行も考えられる。また奈良時代の条里遺構も部分的に残っており、古代における武庫郡河辺郡の郡界も、部分的には庄下川の流路に沿っている。中世には生島荘が上流に位置しており、庄下川の名称も同荘の下流であったことに由来するという説がある。近世尼崎城と城下町は河口両岸に位置しており、城の外堀の役割も果たした。近代には、大正期の大阪板紙の悪水問題などを端緒に水質が極度に悪化した。このため、1988年(昭和63)には建設省による「ふるさとの川モデル河川」の指定を受け、整備工事を進めるなか水質の改善を見た。

  現在は富松川・東富松川・西富松排水路の合流する南塚口町8丁目から左門殿川に合流する松島ポンプ場まで5,954mを庄下川と呼び、2級河川であったが、1972年4月に1級河川となった。

執筆者渡辺久雄

  1995年4月には1級河川の指定を変更、東富松川を含んで伊丹市との市境まで上流端を移動し、7,296mとなった。

  2000年、建設省(現国土交通省)等による「近代水道制度100年記念行事」の一環として庄下川が「甦る水100選」の一つに選ばれた。

富松川そのものの説明はわずか。

「富松川」で他のHPを探ったが、私の過去ブロが出てくるほどで
いい情報はない。
武庫川が2級河川で、なんでこの川が一級河川なんだと文句言っているブログもあった。まったく同感だが、国務大臣が決めることであり、
第1級の河川とつながりがあること、県境を画し、整備に国費を投入する必要があるなどが判定基準になると思っている。


ついでに、川べりの、すでに買い手が決まったと思っていた家。

医院(件住居)跡。新聞の折り込み広告で知ったが、まだ売れていないよう。もう2年くらい経っている。

ものすごく部屋数がある。目下の価格は1億4千万。
このあたりバブルの頃は、坪300万を超えていた。この家は200坪近くある。

遅れて今日届いた。



クサネム

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クサネムという名前を知っていれば、

見た瞬間にこれがクサネムだとわかる姿をしている。

 

近くの廃医院(らしい)家の前の溝に群生していた。

他に、以前にもどこかで見たような気もするが、群生しているのを見るのは初めて。

 

水田にも生えるらしいが、水田の辺りでは見たことがない。

 

風雨去り溝のクサネム背伸びする

秋まきの種子用に、ホームセンターへ行って土を買った。

ついでに最近はやりの草花を見て廻った。

エリカに似ている

 

 

蓬川

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蓬川(よもがわ)は、兵庫県尼崎市を流れる河川二級水系の本流である。

尼崎市内のみを流れる。同じく尼崎市を流れる藻川(もがわ)と字面及び読みが似ているが、藻川は猪名川の分流で、園田地区など市北東部を流れる。

 

ウィキペデイアにも登場。

 

尼崎市中部に発し、大庄地区を南流して大阪湾尼崎港)に注ぐ。上流部が不明瞭で、かつては大庄地区の浜田付近で海に注いでいたと言われる。現在は難波樋門(西難波町2丁目)から尼崎港までを蓬川と規定しており、樋門より上流部は浜田排水路、または浜田川と呼ぶ。河口付近は阪神工業地帯の一角を成す臨海工業地域。

 

↓阪神電車出屋敷駅の西側の高架を潜って南へ向かう蓬川

これより南は工業地帯である。

樋門で見る限り、そこより北部の浜田川から多くの水を受け入れているが

この浜田川は、武庫川の水を灌漑用に分流させたものであるから、

2級河川武庫川水系ということになる。しかしそれを含めて尼崎市内で完結しているのは事実。

それを除く、樋門の場所へ東側から流れてくる水は、どれが本流なのか分からない流れの集まりであるのも事実。

蓬川と浜田川との関係は、庄下川と東富松川との関係に似ている。

 

しかし国道2号線をくぐるあたりからは堂々たる流れになる。

国道2号方面↓

その川沿いは緑地になっている。近隣公園なみの公園も併設されて球技場などもある。

 

 

apediaの解説

尼崎デルタを形成した武庫川の旧分流の一つ、現在の河口より浜田付近までは明確な流路が認められるが、それより上流は不鮮明である。恐らく古代の蓬川は浜田付近で海に注いでいたものであろう。古い陸地に最も近い、長洲難波・大島などの旧砂州列の間を南北に流れていたので、古代より武庫郡河辺郡の郡界となってきた。江戸時代になると河口で蜆漁が盛んであった。現在は西難波町2丁目の難波樋門から尼崎港まで3,124mを蓬川と呼んでおり、1965年(昭和40)9月に2級河川に指定された。樋門より上流は浜田排水路(浜田川)と呼称している。

 

緑地を歩いた時には、障がい者施設の大人が落葉掃除などをやっていた。

↓作業を終えて帰園するマイクロバス

障害の息子へさしだす双肩 須崎美穂子
 
障害に挑む白馬や青嵐 村田近子

 

 

源流

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ある川の源流を探る場合、二つ(あるいは3つ以上)の流れが合流する地点では、
流量を比較して多い方を本流とする。ナイルでもアマゾンでも、長江でもこの方法で、
源流を探して遡ってゆく。人跡未踏の地を行くのであるから、二つないし三っつの流れの年間流量を比較しているわけではないから、間違う可能性はある。何十年もたつと
環境の変化などもあって源流が変わる可能性は多いと思う。
 
私の住む地区のケーブテレビでも武庫川の源流を求める「旅」を繰り返し放映している。毎回見ているわけではないが、田田の傍を流れる小流れになると、兵庫県内で完結している2級河川でも「公認」の源流は分かっていないのではないかとおもう。
 
尼崎市内で完結している蓬川も、浜田川でない方の源流は分かっていないようだ。
 
四万十川源流つつつつと黄鶺鴒 篠崎圭介
 
月山を源流となし水澄めり 山崎雅葉
 
源流に歩を向け荻の声をきく 加古宗也
 
源流はもとより一縷木五倍子咲く 大岳水一路
 
源流の水音高し植樹祭 宮田富昭
 
源流に腰かけて居る翁かな 永田耕衣
 
源流の村木枯もうすみどり 石川雷児
 
源流に色なき風の生れけり 笹本カホル
 
源流のささやきに覚め水芭蕉 田中晄人
 
あめんぼになりたき両手源流に 山内 愛
 
幣立てて源流といふ岩清水 甘田正翠
 
源流の目覚めうながす初音とも 中野陽路
 
最上源流音なく白し枯木中 千手和子
 
石楠花や賀茂源流の岩梯子 原 柯城
 
四国三郎源流近し岩魚小屋 石原義輝
 
最上源流螢の夜を更けしめず 佐藤 国夫
 
源流へ一歩踏み出す夏帽子 中江はるみ
 
蕗のたう源流いまし呱々のこゑ 及川 澄
 
利根源流秘めたる雲やななかまど 武井耕天
 
源流にゐて夏シャツの筋目たつ 大石雄鬼
 
源流に雷鴫の羽音かな 福田甲子雄
 
返り梅雨源流といふしたたかさ 大西津根夫
 
源流は虎とぶように雪解水 宇多喜代子
 
雪渓を源流とせり青胡桃 冨田みのる
 
紀・有田源流わけて花の散る 杉本寛
 
源流に落す若水過疎部落 北野民夫
 
荒川の源流にしてトマト食ふ 八木林之介 青霞集
 
源流に腰かけて居る翁かな 永田耕衣(1900-97)
 
七草や源流近く日はのぼり 大峯あきら
 
源流やさざなみだてる二輪草 野沢節子 八朶集以後
 
源流を夢みてねむる蛍の夜 飯田龍太
 
美しく老い源流にさからわず 沢幡尺水 「オール川柳」平成九年十二月号
 
源流の梅きびきびと歩き出す 古舘曹人
 
源流に腰かけて居る翁かな 永田耕衣
 
↑富松川が南進して阪急電車の線路の下を潜り、さらにまた直角に近い屈折で、
西進してX橋での、他の2川との合流を果たし庄下川に至る、南進開始場所。
ここで東側への流れが始まっていた痕跡が残っている。
それがなくなったことによる空き地に、近所の人がコスモスを植えた(蒔いた)ようである。
その流れは埋められ、半分が植栽に、半分が歩道になっている。
 
公園のキバナコスモス
 
 
 

駅裏

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十三(十三)駅西口の火事跡が整備され、10月1日開業予定と新聞に報じられていた。

ただし記者はこの地区に詳しく内容で、掲載すべき画像を間違っていたように思う。

↓すでに整備が終わって営業している店が並ぶ通りの奥の店を写していた

撮影日は22日。祝日とて休業している店が多い。↑

西口改札口を出てすぐ横の、神戸線のホームに並行しているこの通りは、ず~と閉鎖されていてのぞき見もできなかった。↓

カラー歩道になっている。横幅2メートルしかなかった道が4メートルになった。

雨が激しくなってきたので、踏み込めなかった。

10月1日一斉開店は無理な感じ。

 

俳句作家は上品なのか、

「安酒」「呑み屋」では例句発見できず。

象を呑む蛇の話や冬籠 高野ムツオ 蟲の王
 
鳩が呑むみ手洗あふれ初観音 神尾嘉津子
 
飴湯呑む城主の館冬もみぢ 秋山花笠
 
白湯を呑む十月吉野杉匂い 中島斌雄
 
話す事逢へば少なく古茶を呑む 甲斐 とくえ
 
麦湯呑むガラスコップを頬に当て 戸田 利枝
 
ビール呑む男の持てる喉ぼとけ 佐藤 都
 
ストローの泡をそのまま猟夫呑む 大石雄鬼
 
きさらぎに片手動かぬ男と呑むよ 夏石番矢
 
呑むや廃墟夕焼剰すなし 小林康治 『玄霜』
 
ニユース館冷厦の間に人を呑む 河野南畦 『花と流氷』
 
暑気払ひ皆呑む家族楽しき時 高浜虚子
 
突き上げて仔鹿乳呑む緑の森 西東三鬼
 
遠蛙酒の器の水を呑む 石川桂郎
 
社会鍋人彼人を呑む銀座 指澤紀子
 
小春日やピエロ酒呑む鼻を取る 長村道子
 
野生馬に水呑む序列葛の花 早川利浩
 
人降ろし馬が水呑む花アカシア 横山房子
 
次の子に帽子あづけて泉呑む 江本英一
 
浜人ら豪胆に呑む花見酒 今 鴎昇
 
遠蛙酒の器の水を呑む 石川桂郎
 
唐辛子焼いて肴にちびちび呑む 滝春一
 
どびろくは片口を以て呑むべかり 纐纈寒郎
 
ひら~と猫が乳呑む厄日かな 秋元不死男
 
暑気払ひ皆呑む家族楽しき時 高浜虚子
 
遠蛙酒の器の水を呑む 石川桂郎
 
妻など知らず二の午の酒立ち呑むは 西谷義雄
 
賀状完配井戸から生きた水を呑む 碧蹄館
 
虫なくや我れと湯を呑む影法師 普羅
 
蟲鳴くや吾と湯を呑む影法師 前田普羅
 
冬三日月更に呑むため別れゆく 寺井谷子
 
ストローの泡をそのまま猟夫呑む 大石雄鬼
 
百日紅ごくごく水を呑むばかり 石田波郷
 
呑むといひ刃をくわへ花李 中田剛 珠樹以後
 
迷惑をかけまいと呑む風邪ぐすり 岡本眸
 
虫なくや我れと湯を呑む影法師 前田普羅
 
枇杷葉湯呑むや涼みの行すがり 秦洋
 
突き上げて仔鹿乳呑む緑の森 西東三鬼
 
河が呑む小石どぷんと蚊喰鳥 中村汀女
 
梅酒飲む波郷を思ひ更に呑む 相馬遷子
 
遠蛙酒の器の水を呑む 石川桂郎(1909-75)
 
出刃を呑むぞと鮟鱇は笑ひけり 阿波野青畝(1899-1992)
 
その男恋はあらじ甘酒を呑むこと七碗 尾崎紅葉
 
素魚呑むまたしても人疑いて 宇多喜代子 象
 
飛ぶ鳥に魂を呑む池ひとつ 沼尻巳津子
 
九月一日ごくと冷めたる渋茶呑む 中拓夫
 
紫陽花や水呑む固き喉ぼとけ 中拓夫
 
寒月を呑む鶴すこし亀もすこし 攝津幸彦
 
春ゆうべ蛇口が水呑むあおむいて 坪内稔典
 
椰子汁呑む 遠祖を海の民と定め 伊丹三樹彦 写俳集
 
明月や無筆なれども酒は呑む 夏目漱石 明治三十年
 
日の出でや鶉水呑む窓あかり 琶扣 俳諧撰集「藤の実」
 
貝で呑む人をあふぐや年忘 黒柳召波 春泥句集
 
突き上げて仔鹿乳呑む緑の森 西東三鬼
 
白湯を呑む十月吉野杉匂い 中島斌雄
 
呑む欅硫酸車ゆき過ぎて戻る 赤尾兜子
 
虫なくや我れと湯を呑む影法師 前田普羅
 
唐辛子焼いて肴にちびちび呑む 瀧春一
 
百日紅ごくごく水を呑むばかり 石田波郷
 
出刃を呑むぞと鮟鱇は笑ひけり 阿波野青畝
 
遠蛙酒の器の水を呑む 石川桂郎

 

 

 

 

 

彼岸花

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ブログテーマは判で押したように「俳句」としていたが、

過去に登録済の他のテーマを選択する方針に変更。

 

2泊三日、本年4回目の美作行の記録

 

例年より少し遅い気がするが、曼珠沙華の盛り、美作は。

手折る人の指美しき曼珠沙華

曼珠沙華供花持つ人と擦れ違う

目高田を守るあぜ道彼岸花

メダカの越冬地も確保されている。収穫された米で自家製の焼酎も作っているとか。

酒税法の規定にはしたがっておられるのであろう。

早やヒツジ田となる傍の畦の花↑

果てたるも蕾も数多曼珠沙華

曼珠沙華路傍駐車のままならず

 

昭和20年8月の思い出曼珠沙華

その日は祖父の葬儀の日だった。外に出されて遊んだ仲間は従兄だったかどうか

正確には思い出せない。

川の名が変わるあたりの彼岸花

いくつもの流れを統合してゆく吉野川は周匝(すさい)辺りで吉井川となり瀬戸内海へ南下してゆくが、湯郷温泉辺りの諸施設にはすでに吉井川の名称が使われている。

↑ゆ~らぎ橋(鷺湯橋の名称も橋には残っている)の下

土曜日に宿泊する場合は作東バレンタインと決めていたが、今回は、予約できず、

ポピースプリングス泊。やはり5割増し位の支払いであった。

自然減社会減熄まぬ曼珠沙華


イナカッフェ

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24日は、美作は、保育園・幼稚園、諸学校の運動会だったらしい。

25日のイナカッフェ

いつも訪問の数時間前~10分前に連絡をいれるのだが、

卓上は、自家生産、自家採取、自家加工品で溢れる。

この日の超目玉は、卓上花。

小判草と大判草とドライフラワー。大判草(の葉に)はデコパージュされている。

ピオーネは今年は、300房収穫したとか。

ウラカッフェ前の南蛮煙管。最盛期には間に合わなかったよう。

ボーダーの彼岸花↓

伊丹三樹彦 彼岸花で検索

地雷死のキヤパを偲べと 彼岸花 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 花仙人
 
蕋張れば 風の治まる 彼岸花 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 花仙人
 
お前さん どこへ行くんじや 彼岸花 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 花仙人
 
折る前に 折る音のして 彼岸花 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 花仙人
 
彼岸花 蝶あたふたと あたふたと 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 花仙人
 
花火師が村中を馳せ 彼岸花 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 花仙人
 
一夜にて 火の手のあがる 彼岸花 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 花仙人
 
水分けして 日本の背の 彼岸花 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 花仙人

 

風格ある岩。ただし石の知識0

 

三重塔

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旅行初日の昼食は大井が丘のレストランで、と思ったが大井が丘700までしかナビに登録できず、迷った挙句、店に電話すると用意した昼食は「売り切れ」、ケーキも「完売」で、飲み物しか用意できないということなので、K’s ガーデンで定食もの。K’s のKは、Mrs KのKではない。

 

午後真神の長福寺へ。市報みまさかで、だいぶ前に三重塔の修復がおわったという記事を読んでいたので。

 

以前一度千早の滝まで歩いたことがある。

三重塔。

日本で10番目に古い現存三重塔で、鎌倉時代後期(1285年)の創建である。

当初は山の頂上付近に建っていたものを、第2次大戦後に麓へ移築したもののようである。

一覧表 によると、建立年が古い順に12番目までのうち国宝でないのは、2つだけである。

長福寺のものが、重要文化財で、国宝でない理由は、創建ないし再建された場所でないところに移築されたためであろうか?

 

前回訪問した時は、幕屋に覆われていたので、傍に近寄らなかったが

今回は塔の上まで歩いてみた。

撮影地点が少しずつ高くなっている。

三重塔の例句はみつからず、

五重塔では、

薺売五重塔に詣でんと(瑠璃光寺五重塔は大内義弘が菩提とや) 飴山實 『次の花』
 
五重塔ほとりこほりて草の青 中田剛 珠樹以後
 
水仙や五重塔またあらはるる 中田剛 珠樹以後
 
林檎むく五重塔に刃を向けて 野見山朱鳥(1917-70)

 

古い寺院建築の部位名など高校時代に熱中したこともあるが、

今ではまったく知識0状態である。

 

 

千早の滝の方へ歩いていて、力芝が繁茂している場所であることを思い出した。

本日は句会出席

席題は「ごめん」「ご免」

曼珠沙華天下御免の村はずれ

花梨の実破れかぶれで生き延びて

 

ショウちゃんの特選句

鬼の面取ればめごい子村芝居

いちじくのよろしさに負けごめんなさい

 

 

 

 

 

 

 

トトロの家

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智頭急行の西粟倉駅の横を登ってゆくと、

 

大きなトトロ像の目立つ工房のような建物。

入り口のシャッターは閉まっていたが、ひょんな拍子で持ち主と出会い、「館内」見学に誘われる。

よく見るとトトロ像の背後にはすでに、各種のディーゼル機関の展示。

 

家に戻ってからネット検索すると、遠くからも視察者、見学者ばかりか演奏家や好事家がじゃかすか訪れる「名所」であることを確認。その名もハチローさん。

中に入った建物には各種の収集品が陳列されている。

車庫を兼ねた収集品置き場。

アンテーク時計が目立ったが、収集品は各種。

探し求めていたものがそこにあるという好事家ではないので、その量に「ワオー」「ワオー」と驚くのみ。

車の背後のドア(ガラス戸)を開けると喫茶ルームに改造された茶の間があり、そのまた奥には2段ベッド付の寝室もあるが、ハチローさんはここで生活されているのではなく、趣味のための別棟のよう。

家に戻ってネットで知ったのだが、時計が差している時刻は、アトランダムではなく、

息子さんやお孫さんが生まれた時刻を指しているとか。

 

この部屋を抜けると葡萄棚があり、ピオーネがぶら下がっている。

その横は本格的なピザ窯付のテーブル。

ジャズがお好きで、ピサ窯の横のトトロはスピーカーになっていて、ステレオを楽しむことができる。いたるところにアンテークレコード装置が置かれ、すべて「生きている」。

↑のスピーカーの間を入ると、和風の離れへ通じる庭園になっている。

 

後で確認すると

見える限り、山のふもとまでがハチローさんの所有地のようである。

田んぼも3反、ご自分で耕し、焼酎も製造されている。(これもネットで後から知った)。

もちろん、有機栽培で、田んぼでメダカを飼っておられ、メダカの越冬地池も用意されている。

テラスに座り、はるかに西粟倉の村を見下ろすハチローさん。

↑田とメダカ池。

田んぼの上のこの空間。年に数回、有名バンドを招いての演奏会もなさるとか。

正面の建物のドアはスピーカーである。

130人くらいが集まるとか。その人々が全部座れる椅子とテーブルがあちfらこちらに配置されている。

蕎麦打ち小屋も石臼付きで用意されている。

参会者は手打ちそばとピッツアで歓迎されるよう。ワオー!!!

↑水車小屋もあり稼働中。

 

 

 

 

茅葺

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時間切れで書けなかったが、昨日紹介したハチローさんと私とは、遠い遠い10親等位の姻戚関係をたどった遠縁であることも判明。

話題が西粟倉村の岩倉寺に及んだとき、ハチローさんが住職とは親類だと言われたので、

いや実は私も親戚だと言って関係を解いていって判明。

10親等、12親等と辿ってゆけば、この地域で根を張っておられる人とはみな親戚なのかもしれない。

私とハチローさんとは私の母方曾祖母(皆木姓)の娘の一人が(木地師で有名な)小椋家へ嫁いだことでつながっている。ハチローさんの姓はフクシマである。

 

トトロの家から真向いの下に見える茅葺の家

トトロの家のシャッターが閉まっていたので、この家に近寄って行った。

戸口に暖簾がかかっているので昼食でも摂れるかと思った。

暖簾に「天徳寺」という文字が読める。

あれ、昔々西粟倉村の役場で手続きして、1万円払ってシーツ受け取って古民家に泊まったことがあるが、まさか。

 

そのまさかで、倉敷に住む若いご夫婦が、村から購入なさってレストランへ改造。

コーヒを注文してトロロの家のことを話題にすると、

都合を聞いてきましょうと若女将がカウンター席に戻り

そこに居た先客3人のうちの一人に声かけ

客の一人がトトロの家の持ち主だった。

石をもて固むる民家海は夏 阿波野青畝
 
秋風に巻き戻さるる糸車(民家園) 殿村菟絲子 『晩緑』
 
復元の民家につくる盆の棚 仲佐方二
 
残雪や合掌民家に蚕臭消ゆ 岡部六弥太
 
 
智頭急行の大原駅にも立ち寄った。
たいてい待合室は無人だから、トイレを借りるために、無人駅に立ち寄る。
(ただし大原駅は特急停車駅だから無人ではないと思う)。
土手に一杯ルコウソウが咲いている。
 
葉を見ると間違いなくマルバルコウソウ。花の色は真紅ではない。
 

現の証拠

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美作の野で現の証拠を見つけた。

近くを通りかかったおばあちゃんに確認を求めたら、

これがそうですか、しらなかったとのこと。

機会があれば、千振りの見分け方、見つけ方を誰かに教わりたいと思っている私としては

がっかり。最近の年寄りは干し柿の作り方もしらないのではないかと思う。

 

そういえば、今80歳のおばあちゃんはゲートボールなど年寄りのするものだと思って

近寄らないまま、20年を経たのかも。最近は美作でゲートボールやっている風景をまったくみない。

 

上の画像は24日撮影のもの。

今日は、神戸市北区で、紅花の現の証拠をみた。

花盛り。

ゲンノショウコ(現の証拠、学名Geranium thunbergii)は、フウロソウ科フウロソウ属多年草日本全土の山野や道端に普通に見られる[3]生薬のひとつであり、和名は「(胃腸に)実際に効く証拠」を意味する。玄草(げんそう)ともいう。種子を飛散させた後で果柄を立てた様が神輿のように見えることから、ミコシグサとも呼ばれる。

近い仲間にアメリカフウロ老鶴草中国語版)などがある。

 

 

胃弱首相へ現の証拠が首傾げ

 

かつて1年でダウンした現首相の、外遊の頻度には、頭がさがる。

高い支持率もむべなるかなと思う。

 

右寄りの姿勢を隠さないのも、今の国民意識に添っているように思う。

 

紅花を見つけた場所は、半日蔭の場所だが、季節の花が次々に咲く。

ミゾハギと思っていたものは、ヌスビトハギだった。

 

以下はゆ~らぎ橋周辺の風景

 

噴水が復活していた。

 

 

苔帽子

「美作」の例句は以前に紹介したので、「備前」で検索。

吉備の国は3つに分割。中央政府の吉備の弱体化政策の一環か?

その備前から美作が分離したのは1300年前。

越の国の再分割と時期は同じであるが、はっきりと政治的・経済的理由を指摘する文献にはお目にかかったことがない。

 

古墳まで麦藁干せり備前道 宮岡計次
 
出水後の備前の土のにほひける 矢島渚男
 
吹き降りのすかんぽの赤備前なる 宮岡計次
 
手のひらに古備前愛す切山椒 岸風三楼
 
火襷の備前を置けり冬籠 澄雄
 
初凪や児島湾なる備前富士 岸風三樓
 
藺田の風備前瓦に光りけり 大島民郎
 
備前大甕谷の卯木を投げ入れよ 野沢節子 八朶集以後
 
初凪や児島湾なる備前富士 岸風三樓

 

 

 

 

 

作東バレンタインホテル

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作東バレンタインホテル、今回は401号室。4階と5階がメゾネット形式になっている。

その部屋の北向きのベランダから見た風景。

吉野川が大きく湾曲して南行している。堰があって、右岸の田んぼ用と、かつては炊事用に村の中を流れていた。5,6人までなら屈んで食器を洗えるようになっている。

子供も集まってきて、夏なら母親が洗い物をしている間、上手でフルチンで水遊びが出来た。

水は掬って飲めるほど澄んでいた。

赤い色が目立つ橋は県道5号線。

宮本武蔵生誕地あたりを通り、大原で、国道373号線と合流、西粟倉村を経て、鳥取県智頭で国道53号線へ接続する。

(岡山)県道5号線の始点は、バレンタインホテルの南側下の川沿い。そこで国道179号線から分岐する。

大名たちの参勤交代用街道は、大原の宿を出ると、373号沿いに佐用平福宿場へ向かう。

大原の北は、智頭が次の宿場であった。

 

因幡街道宿場

  • 姫路(兵庫県姫路市)
  1. 飾西宿(兵庫県姫路市)
  2. 觜崎宿(兵庫県たつの市
  3. 千本宿(兵庫県たつの市)
  4. 三日月宿(兵庫県佐用郡佐用町
  5. 平福宿(兵庫県佐用郡佐用町)
  6. 大原宿岡山県美作市
  7. 坂根宿(岡山県美作市)
  8. 駒帰宿(鳥取県八頭郡智頭町
  9. 智頭宿(鳥取県八頭郡智頭町)
  10. 用瀬宿(鳥取県鳥取市)
  11. 河原宿(鳥取県鳥取市)
  • 鳥取(鳥取県鳥取市)

あれ!智頭までにもう一つ宿場がある。坂根。

 

土居、勝間田などは出雲街道の宿場。

↑遠くに那岐山が見える。いくつもの谷があり、その谷あいを縫って5号線は北上する。

右手奥には晴れれば後山が見える。

 

兵庫県境であるが、岡山県最高峰である。

ズームしないで、ベランダから右手(東)に見えるのは

階段に白い敷布が敷いてある。これは明日赤いカーペットが重ね敷きされ、そこを新郎新婦が歩む結婚式が挙行される前触れ。

↑その日の夜のホテルロビー。新婦さんはモデル並みの長身、スリム。翌朝、結構積極的に手配・準備に目配りをしていた。

 

 

↑最上階の左端の部屋しか残っていなかった。その上の屋根裏部屋のような窓があるのが5階部分でメゾネットになっている。

夜の作東タワー

朝のタワー 美作の霧(という言葉は聞いたことがない)。有名なのは「佐用の霧」

早朝のベランダからの風景 朝風呂のために起き出して。

よく見ると出勤の車が動いている。

家系譜作成のために美作詣を初めて20年、バレンタインホテルには少なく見積もっても

100泊以上している。

農地解放後、このホテルが立っている丘陵の開墾が始まったようである。

 

ひるがほの八方農地売られをり 田島 誠壽
 
駅煖炉そこより農地見え渡り 依田明倫

それ以前にここにあった(仏教)施設の名残か。毎回見ながらも「解明」できていない。

タワー横の結婚記念リーフの木

朝食後、ほぼ同じルートの散歩。

 

作東町(さくとうちょう)は岡山県北東部に位置し兵庫県と境を接していた。現在は合併により美作市となり、旧町役場は美作市役所作東総合支所となっている。

 

3都市と姉妹縁組を行い、「バレンタイン日本の里」として観光に注力している。

    ホテルの下に見えるのが作東総合支所

    旧作  里山は父祖の墓山茸山

       我が始祖は赤松村の踊子草

        ひそひそと諍う肉親桃さくら 

    ゲンノショウコが校章だった人のコメントを頂いた。

    豊橋東高校の校章はゲンノショウコの葉。

     

    郡衙

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    美作の国は713年に備前の国から6郡を割いて成立。

    2013年には、美作の国1300年祭が繰り広げられていた。

    分割は、吉備の国の弱体化政策の一環ではないかと述べたが、

    ウィキペディアの「美作(の国)」の項で同様のことが述べれられている。

    よって他の文献でも同趣旨のことが述べられていたのであろうが、

    問題意識がそこになかったので読み飛ばしていたのであろう。

    美作国6郡のうち私の主たる行動範囲は英多郡と吉野郡である。

    英多(英田)郡の郡衙(群家)は何処にあったか?

    英多(あいだ)郡家は豊国原盆地ないし江見盆地(旧作東町川北・藤生)が想定され、特に奈良平安時代の閻武廃寺跡が他の四廃寺へ通ずる交通上の中心地に位置していることや、"郡"の墨書のあるかわらけ出土品などから後者の可能性が高いとされる。美作市(旧・英田郡作東町)の高本遺跡である[18]

     

    この寺は後醍醐さんが隠岐へ流される旅路でも、宿泊地となったことは紹介したことがある。

    今は地表に礎石の一つ(とみなされているもの)しか残っていない。

    県道5号線から車をのりいれることもできるが、あぜ道だからこわい。

    町運営バスの「藤生」駅の前からはじまるあぜ道である。

     

    こんな風景の中に寺はあった。かつては、美作江見駅から藤生の母の里へゆくメインロード添いである。水車小屋があったが今はない。

    JR江見駅構内では姫新線全通80年記念写真展示をやっていた。

    ということは私の母が高等小学校を卒業して、大阪へ修行に出た時には利用できなかったのだ。

    ウィキペディア:

    • 1934年昭和9年)11月28日 - 姫津西線(当時)の東の終着駅として開業。
    • 1936年(昭和11年)
      • 4月8日 - 当駅から姫津東線佐用駅までの区間が開業(現在の姫新線にあたる路線が全通)。姫津西線は姫津線の一部となり、当駅もその所属となる。 同時に途中駅となる。
      • 10月10日 - 姫津線が姫新線の一部となり、当駅もその所属となる。
    • 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化西日本旅客鉄道の駅になる。
    • 日付不明 - 簡易委託駅に変更。
    • 2009年平成21年)
      • 8月10日 - 台風9号による被害で当駅から佐用方が不通となり、津山方面からの列車がこの駅で折り返すことになる。8月12日より佐用方面はバス代行開始。
      • 10月5日 - 台風9号により不通となっていた佐用方面への運転が再開された。これによりバス代行は終了。

    確かに全通80周年目は2016年である。

    下りのホームに降りると、列車が出るのを待って、線路を横切り改札口へ向かったのを覚えている。

     

    一日に上下それぞれ8本位1両列車が止まる、列車が走っているのを見かける時もないこもないがこの駅に列車が停車するのに出会ったことはない。

    その点、大原駅では1両の普通車、ちょっとかっこいい特急列車の停車とよく出会う。

    駅から歩いて、今の私なら徒歩10分で母の里へ辿りつけるような気がする。

    小学校入学前後、母の家から江見の町の入り口までカバヤのキャラメルを買いに行った

    ことを覚えている。往復1時間くらいかかっていたように思う。

    途中に谷水が湧く場所があり、茶碗が置かれていた。必ずそこで休憩をとった。

    その道は、高速道の開通によって利用されなくなり、人々はもしも大阪方面へ行くなら(津山方面でも)高速バスの停留所を目指すことになる。

    JR江見駅の一日平均乗客数は、2000年で100人、2014年で52人である。

     

    はまなすに一輛のみの江差線 岩崎照子
     
    一輛の電車浮き来る花菜中 松本 旭
     
    小国線たった一輛春田行く 佐藤 寥々子
     
    後の月機関車一両だけ走る 田中啓介
     
    釣瓶落し日に七便の一輛車 道川虹洋
     
    月見草客車一輛夜の駅に 桜井博道
     
    一輛の田舎電車の初電車 山口波津女
     
    銀河鉄道めくよ月夜の一輛車 飯沼しほ女
     
    一輛車走り過ぎたる雲の峰 吉村春風子
     
    温泉の国へ電車一輛さくら咲く 矢崎ちはる
     
    行商女雪払ひ乗る一輛車 小林千草
     
    はまなすや海の風切る一輛車 観山繁子
     
    一輛の電車過ぎたる土筆かな 根岸善雄
     
    離れ貨車いつも一輛梅雨埠頭 亀井糸游

    田舎の雰囲気を出すための一両電車(という用語)は、今では当たり前になったので

    句会でもあまり見かけなくなった。

     

     

    道は藤生のメインロードだが4メートルないので、最近は集落の入り口に車を留める。

    従兄夫婦が住んでいるが、もう農作業どころか園芸作業もできなくなっている。

     

    家の庭から山の畑や墓地へ行く道だが、草刈りがなされていない。去年までとは大きく異なる。

    一反ほどの土地で、従兄が最後まで野菜畑として耕していたが今は草原になっている。

    田んぼも、人に耕作を依頼しているらしいが、二人が一年に消費する米も賃料としてはもらえなくなっているらしい。

    廃寺の前の畑ではサフランを栽培して、ピンセットで雌蕊を抜き、バレンタインホテルへ納めていたこともあったらしいが、それを含む畑は今どうなっているのか?

     

    そこから見たバレンタインホテル。↓

    タワーだけでなく、ホテルそのものも見えていたが、今は木が育って見えない。

    毎晩、ホテルの灯を数えて、今日は3組宿泊などと話していたという話を聞いたことも懐かしい。

    ホテルでは一度トルコ人親子と一緒になったことがある。日本で働いていて、このホテルを利用、日本の原風景があるというので、息子が父親を日本旅行に招いて宿泊していた。

     

     

     


    穴場

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    まだ金木犀が匂わない。

     

    いくつかの不動産関係機関が、同じような調査をやっている。

     

    関西では、住んでみたい町(駅)は、ほとんどすべて阪急電車の沿線である。

    なかんずく人気が高いのは、阪急神戸線沿線である。

    上の新聞記事を読んで、ネットで調査

     

    ↓はリクルートの調査結果

    ■「住みたい街(駅)」総合ランキング(関西全体)
    ※( )内は昨年の順位と得点
    1位(1) 西宮北口(阪急神戸線) 439(479)
    2位(2) 梅田(地下鉄御堂筋線) 373 (376)
    3位(4) 神戸三宮(阪急神戸線) 277(317)
    4位(5) 岡本(阪急神戸線) 265(263)
    5位(3) 千里中央(北大阪急行) 252(338)
    5位(6) 夙川(阪急神戸線) 252(251)
    7位(10) なんば(地下鉄御堂筋線) 248(200)
    8位(7) 宝塚(阪急宝塚線) 197(227)
    9位(8) 江坂(地下鉄御堂筋線) 187(203)
    10位(11) 天王寺(地下鉄御堂筋線) 183(179)

     

    確かに西宮北口周辺は、地震の後、10年ほどで見違えるようにきれいな街になった。

     

    ■「住みたい行政市区」ランキング(関西全体)
    ※( )内は昨年の順位と得点、 人口データは平成27年国勢調査の人口
    1位(1) 兵庫県西宮市 738(828)   48万8147人、5507人(1.1%)増加
    2位(2) 大阪府大阪市北区 534(480)   12万3679人、1万3287人(12.0%)増加
    3位(4) 兵庫県神戸市中央区 504(464)   13万5218人、8825人(7.0%)増加
    4位(7) 大阪府大阪市中央区 402(358)    9万3037人、1万4350人(18.2%)増加
    5位(5) 兵庫県神戸市東灘区 395(402)   21万3727人、3319人(1.6%)増加
    6位(9) 京都府京都市中京区 334(254)   10万9305人、3999人(3.8%)増加
    7位(6) 大阪府吹田市 327(376)   37万4526人、1万8728人(5.3%)増加
    8位(3) 兵庫県芦屋市 317(475)   9万5440人、2202人(2.4%)増加
    9位(8) 大阪府豊中市 299(356)   39万4495人、5154人(1.3%)増加
    10位(16) 大阪府大阪市天王寺区 264(209)   7万5662人、5887人(8.4%)増加
    10位(12) 兵庫県神戸市灘区 264(229)   13万6130人、2679人(2.0%)増加

     

    穴場調査もある。

     

    ■「穴場だと思う町(駅)ランキング」
    ※( )内は昨年の順位と得点 
    1位(2) 塚口(阪急神戸線) 55(68)
    2位(23) 大国町(地下鉄御堂筋線) 53(22)
    3位(1) 尼崎(JR東海道本線) 45(97)
    4位(19) 江坂(地下鉄御堂筋線) 41(25)
    5位(17) 東三国(地下鉄御堂筋線) 40(26)
    6位(5) 千里中央(北大阪急行)39(52)
    7位(17) 庄内(阪急宝塚線) 38(26)
    8位(9) 中津(阪急宝塚線) 36(36)
    8位(4) 十三(阪急神戸線) 36(57)
    10位(28) なんば(地下鉄御堂筋線) 34(19)
    (※出典:リクルート住まいカンパニー)

     

    塚口を穴場とする理由は、

    「交通や生活の利便性が高いのに、家賃や物件価格に割安感のある「穴場だと思う街(駅)」ランキングでは「塚口」がトップとなった。「塚口」は近隣地区で大型再開発が進行中。商業施設などが完成すれば生活利便性の向上が期待できる一方、「梅田」まで12分とアクセスも良好な街だ。」

     

    「穴場」の例句1句のみ

    綿虫の穴場といへばそこらへん 伊藤 格
     

    目下私が主任選者を務める句会は、結社内で穴場句会と呼ばれた。

    その理由は、主宰が出席しないので、

    好き放題の句評ができるから、だった。

     

    画像は伊丹市役所周辺

    伊丹線に乗り換えなければならないが、阪急伊丹駅、新伊丹駅、稲野駅周辺も住環境はいいと思う。多分塚口以上に。

    市役所周辺は、浄水場もあり、昆陽池公園も近く、私は好きな場所である。

    公園内の風景

    村役場は句になるが市役所は句にならないようである。

    大塔の村役場までみちおしへ 玉置 節子
     
    役場葭簀を立てゝ事務を執る 佐々木 美乎
     
    体育の日や荷役場の熱気球 秋田裕弘
     
    記念樹の遅桜咲く村役場 倉田静子
     
    桃咲くや畑の中なる村役場 湯川
     
    バトミントンして凶作の村役場 小沢昭一
     
    ふるさとの喜雨の山王村役場 高野素十(1893-1976)
     
    苗代の風が役場のなか通る 原田喬
     
    自転車ひとつ着き冬麗の村役場 鷲谷七菜子 花寂び
     
    馬が川に出会うところに役場あり 阿部完市

     

     

    庭燎

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    尼崎市は市政100年。

    しかし生嶋神社がある旧「立花村は100年前には、尼崎市には編入されていなかった。

    それがなにゆえ、尼崎の祖神なのか?

    主祭神 生国魂大神(いくくにたまのおおかみ)

    例祭日 10月14日

    鎮座地 栗山町2丁目24-33(TEL 06-6429-2830)

    >>> 生島神社ホームページ(外部リンク)

    ≪お社の説明・御由緒≫

    J市バス立花支所前で下車、東へすぐのところ。阪急武庫之荘駅またはJR立花駅から歩いても15分ほど。
    創祀は仁徳天皇の御代と伝えられ、『三代実録』、『摂津志』にその由来が記されている。明治維新以前は、生島明神、生島弁財天と呼ばれたが、明治六年生島神社と改められた。その後、上ノ島須佐男神社、大西熊野神社、三反田八幡神社を合祀して現在に至っている。末社に生島弁財天社、生島稲荷社、生島大師堂がある。 現在の社殿は昭和51年に新造されたもの。平成7年1月17日の阪神淡路大震災により鳥居・手水舎・他石造物倒壊、社務所半壊するも、平成9年12月に全て修復を終える。

     

    尼崎66社案内からだけでは、分からない。

     

    本殿両翼に「庭燎」

    これもまた分からなかった。

     

    ウィキペディア:

     

    庭燎(にわび)は、宮中神楽の1曲である。

     

    「楽家録」によれば、その作法は、まず人長が進んで軾の前に行って3拍子を踏んで右足で軾を蹴って本方に立つ。ついでの所作人が進んで軾に着き庭燎を奏して本方の座に着く。ついで人長が軾の前に行き神殿に向いて右足で軾を蹴って末方に着く。ついで篳篥が進んで軾に着き、庭燎を奏して末方の座に着く。ついで人長が本方に行く。ついで和琴が進んで弾じるが、これははじめ出納が和琴を取って所作人の前に置き、所作人が進んで軾に着き庭燎を奏して本方に着く。ついで人長が軾の前に行き、神殿に向かって立つ。ついで笛と篳篥が同音に奏する。ついで人長が本方に立つと、本歌方が進んで庭燎を奏し、本方に着く。ついで人長が末方に立つと、末の歌方が進んで庭燎を奏して末方に着く。

    つまりはじめ人長作法において笛、篳篥、和琴および本末の歌人に庭燎を奏させて試み、着席を許す。ついで以上の管弦が寄り合って試みに合奏し、歌人が庭燎を歌う。これをよりあいという。つまり人長作法、庭燎、よりあい、という順番で、これをいわば序曲として、阿知女作法を経て、採物に入る。

     

     

    古今和歌集神遊の歌の中の採物の歌である「みやまには霧ふるらし外山なる真柝の葛色づきにけり」を歌う。かつてはこの全歌を歌ったから、それを庭燎の「諸歌」(もろうた)と称えたが、近代は上句のみを歌い、下句は歌わない。また、採物のほうでは葛の歌は歌わない。

    歌の伴奏は和琴だけであり、すががきを弾く。

     

     

    神楽は夜間に行なわれるから庭燎を焚く必要があった。古くは儀式だけで歌は無かったであろうといい、あるいは楽人の試奏に音取が奏されるていどであったろうという。

    この歌は楽人の腕前を見るという意味があった。つまり火をたきつける所作について歌うだけでなく試奏の意味があった。

     

    ながながしい解説と、提灯の「庭燎」の文字の関係は?

    にわびと読む。要するに「照明」の意味なのであろう。

     

     三省堂大辞林(ネット)では、

     

    昔,宮中の庭で,夜中参内の諸臣のために焚いたかがり火。にわび。

     

    と説明されている。

     

    季語辞典(ネット)では、

     

    神楽のとき庭でたくかがり火

    で冬の季語だとか。

    ホトトギスの歳時記の索引には登場しない。

    「俳諧歳時記」には、冬の季語「神楽」の付随季語(関連季語)扱いになっていた。

    ただし例句はなべて「神楽」祭などを利用、庭燎を使うものはなかった。

     

    青ざしや稲荷の庭火木綿(ゆふ)かつら 幽山 選集「板東太郎」
     
    しんしんと梅散かゝる庭火哉 荷兮
     
    庭燎にちらつく雪や初神楽 上野巨水
     
    鞠始ありゃおうと継ぎ庭燎かな 松田曼莉

    巨水(知らない人)の句では、「ていりょう」

    曼莉の句では「にわび」と読ませているよう。

     

    同じように、塚口神社の正面入り口の石柱には、「宗源」と大書されている。

    これもかねがね調べてみようと思っていたので、ついでに検索。

     

    「万法の源の意」

     

    という説明をみつけたが、なぜ神社の正面に掲げられるのか、謂われは分からないまま刻限。

     

     

    赤松円心

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    赤松氏の系図は以下の系図の冒頭にも書かれているとおり、「諸伝個々異同あり」であるが、私は、一番頼りにしている系図に依拠して、以下の、系図中の、頼則の子供の中で、筆頭になっている為助をショウちゃん一族の「遠祖」と位置付けている。(「遠祖」という呼称は私の造語ではないが、私の位置づけである)。

     

    「始祖」という言葉が当てはまるのは、以下の系図では、「師房」である。

     

    始祖の前にも、源祖がいる。源祖はひょっとすると私の造語といってもいいかも。

    源祖はおおむね天皇ないし天皇を取り巻く有力氏族である。

     

    天皇の系譜をたどってゆけば、韓民族(朝鮮半島居住者)へたどりつく。韓半島の有力者はおおむね中国からの渡来者、亡命者である。秦氏はその代表。

     

    為助はその親と同じく宇野姓を名乗っている。

    よって我が祖先は、厳密には赤松氏とは言えない。

    赤松を名乗るのは、為助の弟、則景が赤松村へ拠点を移した後である。

    以下の系図では、則景の子、家範の名の下に「赤松」と傍書きされている。

    その家範の曽孫が赤松則村(円心)である。

    円心が勢力を持ち、家系図の傍系が一斉に「赤松一族」と呼ばれる(呼ぶ)ようになった(と思う)。

     

     

    【赤松氏略系図】 諸伝個々異同あり

    ○師房─顕房─雅兼─定房─┐
     ┌───────────┘
     └定忠─師季─季房─季則┐
     ┌───────────┘
     └頼則┬為助
        │
        ├頼景─頼重─範重→
        │
        ├則景───────┐
        │         │
        └将則┬為頼    │
           │ 宇野 小寺 │
           ├景俊 江見  │
           └範重 佐用  │
     ┌────────────┘
     ├家範┬久範┬茂則┬則村─┐
     │赤松│  │  │ 円心 │
     │  └長範└光則│   │
     │        └円光 │
     ├景盛 上月      │  │
     │         敦光 │
     ├景能 間島 大田   別所 
     │     中山     │
     └有景 櫛田        │
     ┌────────────┘
     │     ┌[満祐]
     │     │
     ├範資┬光範┴満弘─教弘→
     │  │
     │  ├師頼─頼康─範親→
     │  │
     │  └師範─範康─満範→
     │
     ├貞範┬顕則┌満則┬貞村→
     │  │  │  │
     │  └頼則┤  └貞祐→
     │     │
     │     └持貞─家貞
     │  ┌義房      
     │  │
     ├則祐┼義則┬満祐─教康
     │  │  │
     │  │  ├祐尚─則尚
     │  │  │
     └氏範│  ├義雅─性存
        │  │    │
        │  ├祐之 政則→
        │  │
        │  ├則繁─繁広→
        │  │    ↑ 
        │  └則之┌満直 
        │     │
        ├満範─満政┴祐則 
        │
        ├義祐─持家→有馬
        │
        └持範─持祐

     

    一巻の系図を置きて黴畳 串上 青蓑
     
    楪葉や玄孫まで抱く一系図 三好夜叉男
     
    系図には女とのみや吾亦紅 松田ひろむ
     
    いちはつや遠き系図に歌人の名 村上光子
     
    彼岸花武家の系図のここに果つ 山本 孟辰
     
    つつしみ繰る平家の系図冬の日に 杉本寛
     
    笹鳴きに系図正しくして貧し 藤木清子
     
    此墓に系図はじまるや拝みけり
     
    牡丹燃え系図戦国にさかのぼる 福田蓼汀

     

    画像はフィカスプミラ(オオイタビ)

    無数の実が生ている

     

     

     

    温泉

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    尼崎市内には人工温泉(スーパー銭湯)が3か所、源泉かけ流し温泉が2か所あるよう。

    尼崎センタープール(競艇場)の横にあるのはみずきの湯。

    でかい駐車場がある。

    入浴の用意はしていなかったので、正面入り口から中を覗いただけ。

    道を挟んで競艇場

    阪神電車の駅前広場、開催日には混雑するのであろう。

    阪急電車の最寄り駅からも無料送迎バスが出ている。

    かつては市バスであったが、今は阪神バス尼崎市内線のポストが立っている。

     

    雨が激しくなったので、阪神電車と阪神バスを利用して散歩中断。

     

    競艇のいよいよ曳かれ来たりけり 山口青邨

     

    競馬の句

    競馬聴く短波放送日帰り旅 山本弥生
     
    とおい小さい競馬の模様の朝のきもの 阿部完市
     
    一声の棚引きにけり加茂競馬 伊藤和義
     
    一文字に烏帽子の葵賀茂競馬 亀井糸游
     
    四囲の山あを~とある競馬かな 鈴木花蓑
     
    競馬果てゝ人散る左京右京かな 志田素琴
     
    撒水車の濡れが重なる競馬の負け 加藤かけい
     
    四囲の山あを~とある競馬かな 鈴木花蓑
     
    競馬見る終に懐手を解かず 西村和子 かりそめならず
     
    木がくれに見えそむ加茂の競馬かな 野村泊月
     
    神籬に禰宜ぞ手かざし賀茂競馬 岸風三樓
     
    競馬見る終に懐手を解かず 西村和子
     
    競馬見てもどりは陣の噺しかな 朱廸 五 月 月別句集「韻塞」
     
    神籬に禰宜ぞ手かざし賀茂競馬 岸風三樓
     
    曼珠沙華競馬の馬づまをあゆまする 水原秋櫻子
     
    競馬埓に入身のいさみ哉 榎本其角

     

    木がくれに見えそむ加茂の競馬かな 野村泊月
     
    神籬に禰宜ぞ手かざし賀茂競馬 岸風三樓

    上2句の加茂競馬は一度見たことがある。

    目の前で落馬して騎手の若者が救急車で運ばれていった。

    ものすごい音がした。

     

     

    何気なく蔓を引いたら一山の露を浴びることになったという句が、ある句会で主宰者の選者特選になったが、どこかで見たような気がする、飯田龍太の句ではなかったかというワイフの主張を裏付けるために、調査。
     
    草ものちからの花ひらく 飯田龍太
     
    限りなき果に澄む深空あり 飯田龍太
     
    かまつかにのいらかの雀どち 飯田龍太
     
    深み来て少年の匂ひ消ゆ 飯田龍太
     
    三伏の闇はるかよりのこゑ 飯田龍太
     
    の土踏んで脚透くおもひあり 飯田龍太
     
    草ものちからの花ひらく 飯田龍太
     
    の夜は山が隣家のごとくあり 飯田龍太
     
    の日の落ちてゆく信濃口 飯田龍太
     
    の村墓域とおもふばかりなり 飯田龍太
     
    三伏の闇はるかよりのこゑ 飯田龍太
     
    草ものちからの花ひらく 飯田龍太
     
    鶏鳴にのあつまる虚空かな 飯田龍太
     
    朧月国遠しと思ふとき 飯田龍太(1920-)
     
    鶏鳴にのあつまる虚空かな 飯田龍太 遅速
     
    深し不意にめでたき空のいろ 飯田龍太 遅速
     
    朧月国遠しと思ふとき 飯田龍太 山の影
     
    別々の道来て会へるの寺 飯田龍太 山の影
     
    ふかし山負うて家あることも 飯田龍太 山の影
     
    刈草のひとすぢかかるの墓 飯田龍太 山の木
     
    の山から朝日さす安部医院 飯田龍太 春の道
     
    の村墓域とおもふばかりなり 飯田龍太 百戸の谿
     
    の村恋うても友のすくなしや 飯田龍太 百戸の谿
     
    ふかし日の出る山も没る嶺も 飯田龍太
     
    鳴く鳥の姿見えざるの空 飯田龍太
     
    草の瑠璃や勲記は筒の中 飯田龍太
     
    の父碧空に齢いぶかしむ 飯田龍太
     
    深しこぼと月夜の真鯉浮き 飯田龍太
     
    の土踏んで脚透くおもひあり 飯田龍太
     
     

    飯田龍太の句に、ずばりのものはなかったが、

    ↓のような句を見つけた。

     

    蔓引いて我が意を得たり烏瓜 二橋満璃

     

    踏んで一山の動きけり 原 石鼎
     

     

    金岡川

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    東富松川という名称は、最近、行政上はなくなり、

     

    はっきりと「庄下川」と読める札には、昨年までは「東富松川」と記されていた。

    通称、ネット上でX橋と呼ばれている橋上の標識。

    「富松川」の標が東を向いてる。この地点での流量が一番多いのは西富松排水路である。

    3つの川が合流して庄下川となる流れの本流とみなされ、尼崎市と伊丹市の境界までが庄下川となった。

     

    ところでいくつかの流れが合流する地点で、どの流れを本流とするかは、

    一番流量の多い(水の供給量が多い)流れを選択するのが通常のようである。

     

    以前NHKの番組で、長江(揚子江)の源流をたどっていく様子を見た時に得た知識であって、

    日本の河川法などにその規定があるかどうかは知らない。

    (その後、アマゾン川でも同じような手法がとられていた番組があったような気がする)。

     

    途中にかかる橋の名などで消すことが出来ない

    (旧の)東富松川が伊丹市で名をどう変えるか

    思い出なかったので、昨日、昼食後すでに何度も歩いている境界を目指して歩いてみた。

    金岡川である。

    帰宅後、「金岡川」でネット検索。伊丹市の河川行政関係の記事が出て来るが、

    いつも頼りにしているウィキペディアのものは見つからなかった。

     

    トップに近いところに「金岡川」というタイトルのブログがあったが、それは私が昨年8月に書いたブログであった。

     

    仕方ないので、「金岡川」ではなく、「東富松川」で検索。

    トップに出てきたのは、ウィキさんの「庄下川」の解説である。

     

     

    庄下川(しょうげがわ)は、兵庫県尼崎市に流れる淀川水系の一級河川1972年二級河川から一級河川となった。

    ↑金岡川が東富松川(庄下川)に名を変えるあたりの上流を見ている)

     

    上流の東富松川の伊丹市境を起点とし、尼崎市南塚口町八丁目で2つの支流が合流する(以前はこの合流地点より下流を庄下川と称した)。川は南下し、大西町と名神町の境で五合橋線と交差(新庄下橋)、昆陽(こや)川と尾浜町で合流。南下してJR神戸線東海道本線)と交差し、工業地帯の間を通り、西長洲町で玉江橋線(長洲橋)をくぐり同道路の東側に出る。左岸に尼崎総合文化センターを見ながら国道2号(玉江橋)をくぐり、さらに阪神尼崎駅の東側で阪神本線阪神なんば線の線路をくぐる。国道43号阪神高速道路3号神戸線と交差して、この南側で東西へ向きを変え、西へ分かれた流れ(旧左門殿川)は工場地域の運河となり河口部で尼崎閘門に達し東浜排水機場(ポンプ)により尼崎港大阪湾)へ注ぐ。東へ分かれた流れは松島排水機場・庄下川水門によって大阪市との境目を流れる、神崎川分流である左門殿川(さもんどがわ)に合流する。同排水機場は大阪高潮対策事業の一環として建設、1971年に完成した。

    大正から昭和初期には尼崎閘門の完成で流れが淀み、また流域の工場排水などにより水質が悪化したが、昭和末期から平成にかけての整備工事によりが住めるほどには水質が改善。2000年には建設省の「甦る水100選」の一つに選ばれた。

     

    ポンプ井戸ひびく一つ家法師蝉 池沢葦於
     
    芽木長屋夜濯ぎに鳴るポンプいくつ 飴山實 『おりいぶ』
     
    誰か早やポンプ使ひし初明り 阿部みどり女 『笹鳴』
     
    ほとばしるポンプの水や蝶生る 金堂豊子
     
    初音聞く灯油のポンプ押しながら 山田節子
     
    出初式手押しポンプも参加して 河村昌子
     
    青田波ポンプ小屋へと寄せにけり 大野信子
     
    青葉木菟夜もポンプをこき使う 鷹羽狩行
     
    桜早しポンプ一突き水溢れ 中村汀女
     
    雪をすつぽり開拓の青ポンプ 辻田克巳
     
    ポンプ押しゆるゝふぐりや寒水汲む 川口重美
     
    時雨るるや水をゆたかに井戸ポンプ 中村汀女
     
    日蝕のすぎてもポンプ滴れり 横山白虹
     
    手押ポンプのすこすこと彼岸過ぎ 長谷川久々子

    これを読む限り、上流、中流、下流、河口付近の画像はここ2年ほどでたいてい、何度も紹介している。記述の上で残る疑問は、金岡川は、途中にある橋の名では排水路になっているが、それでも1級河川なのかどうか。

    この橋あたりが境目。ここでは、右岸は伊丹市、左岸は尼崎市

    茗荷の葉のようであり、カンナの葉に見えるものもある。名を知らない。

     

     ウィキさんの解説の続き。↓

     

    庄下川の支流に関する項:

     

    尾浜町の尼崎インターチェンジ南側で東から昆陽川が合流する。昆陽川をさかのぼると上流部ではさらに上坂部川伊丹川昆陽川捷水路に枝分かれする。昆陽川捷水路は、猪名川の分流である藻川から水を取り入れており、途中で伊丹川と交差している。

     

    南塚口町八丁目の合流地点から北に3つに分かれる。東側から富松(とまつ)、北からは東富松川、西からは西富松排水路(西富松川)の3川となっている。なお、東富松川は尼崎・伊丹市境までの区間を庄下川に含むこともある。富松川と東富松川は一級河川に含まれるが、西富松排水路は普通河川の扱いとなっている。

     

    東富松川を上流へたどると途中で富松川と交差し、南塚口町の3川合流地点から東側に分かれていた富松川が東富松川の西側に移る。東富松川はさらに上流をたどるといくつかの川が枝分かれするがそのうちの一つが伊丹市昆陽池に達する。

     

    西富松排水路は、尼崎市立尼崎高等学校の敷地を通り、武庫之荘五丁目で尼宝線と交差、西武庫団地の東側付近からは水路が複数に分かれる。最終的には市内最北端の宮ノ北団地の西側にある六樋に達する。


    この六樋は武庫川の水を農業用水にするため設けられた取水口であり、それまであった野間井、生島井、武庫井、水堂井、守部井、大島井の6つの取水口を1924年の武庫川改修に際し統合したものである。このため、庄下川には武庫川の水も流れていることになる。

    一つ南の橋。この場所まで来ると、左岸は塚口町6丁目、右岸は富松町4丁目

    ↓明和橋

    橋を西へ渡ると同名の幼稚園がある。

    コーンで囲われている場所には、庄下川用資材置き場とかなり以前から表示されていた。

    12月中に撤去となっているが、何年の12月か不明、数年前から同じ状態である。

     

     

     

     

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