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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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新作

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締め切りを過ぎていた市の芸文協会の機関誌への寄稿。
本年が市制100周年にあたるための増大号なのか、
いつもは15句なのに、俳句は30句、エッセイはいつもの倍の800字。
エッセイの内容は自由だったが、今回は「私の尼崎」に関するもの)という条件が付いている。

俳句30句。もちろん大半は既発表のものだが、数句は新作。

大発会は利食い先行稲荷寿司

まほろばの片手袋へ俄雨

市営バスの運行譲渡大伊太比

薺粥男子厨房に入り浸り

繰り返す過ち真冬の水鉄砲

立ちはだかる葬祭会館梅の里

春暁の男を返す口実は

晩熟故に成し得たことも花筵

飛花落花あなたも会を辞めますか

やがて父を罷免するかも鯉幟

スーパーいかりの袋の闊歩五月晴

薔薇に刺ありうまい話に罠がある

吹っ飛びそうな斎主の合羽青葉谷

斉墩果の花百を灯して剣士像

衆愚制に勝るものなしアカンサス

増水後李下でシャッター押している

常盤櫨へ屈む年金受領月

蔦絡む自転車数多廃病院

二敗して昇進絶望雲間草

南部鉄瓶みたいな漢蛍狩

豊年海老の水換えている宿場町

ふと寄りて期日前投票梅雨晴間

三十年目の麦仙翁を囲いおり

木天蓼や眠るワイフを助手席に

一誌病み知らぬ茄子の花盛り

土用の日近大鯰の列に付く

高三郎やってりゃよかった公文式

草刈機去って箆大葉子が首伸ばす

鶺鴒の寄ってくるほど固い意志

検査項目すべて正常大寒波

例年 富松神社で開催される薪能の句や市長さんの句を紹介しているが、今年は雨予想のため薪能は午前中に中止が決まり、
富松一寸豆祭の時も神社へ出かけることが出来なかったので、
薪能の句も市長さんの句もなし。


武庫川風景

武庫川沿いを歩いていると、いつも甲山の位置が気になる。
猪名川沿いだと、飛行機の下降、上昇が目立つ。
  

「新作」で検索。0.
「俳句」で検索、400句以上。しかし多くは、作品収録の「俳句集」などの「俳句」。それらを捨て、ダブリを削ると、最初の100句で残ったのは以下。

極道の一つに俳句霜の声 高野ムツオ 蟲の王

霜柱俳句は切字響きけり 石田波郷

一生を棒に俳句や阿波おどり 橋本夢道

穴を出てわれは俳句の鬼たらむ 下村槐太

待遠し俳句は我や四季の国 三橋敏雄

俳句というしずかなしずかな舟遊び 橋田サカエ

目高泳げり俳句する人空気吸えよ 豊山千蔭

和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男 正岡子規

俳句思う以外は死者かわれすでに 折笠美秋

毛衣の悪女俳句を得手とせり 小松道子

手抜き料理骨抜き俳句年つまる 郡山とし子

野菊晴母の俳句はをさなくて 清崎敏郎

虚子捨て碧梧誤りし俳句子規忌かな 松根東洋城

絲爪忌やドイツに俳句育ちつつ 千原草之

俳磚は俳句曼陀羅花は葉に 滝青佳

俳句とはのつぺらぼうか僕の夢 筑紫磐井 花鳥諷詠

虚子が詠む変な俳句のバナナかな 筑紫磐井 花鳥諷詠

虚子捨て碧梧誤りし俳句子規忌かな 松根東洋城

俳句ちふ淵や在るらし星の秋 河原枇杷男

糸瓜忌や三度俳句に志す 筏井竹の門

俳句にありて落第す 高浜虚子

俳句にも修羅場がありし猫の恋 森田かずや

わが俳句足もて作るいぬふぐり 西本一都

小細工の小俳句できて秋の暮 加藤郁乎(1929-)

俳句思へば泪わき出づ朝の李花 赤尾兜子(1925-81)

秋風や眼中のもの皆俳句 高浜虚子(1874-1959)

三千の俳句を閲(けみ)し柿二つ 正岡子規(1867-1903)



カミヤツデ

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カミヤツデ(紙八手、学名:Tetrapanax papyriferus)とはウコギ科の常緑低木。別名、ツウソウ(通草)、 ツウダツボク(通脱木) 。カミヤツデ属唯一の現生種である。


3,4年前以来、時々紹介している、我が町のカミヤツデ。
葉は、日本の八手ほど裂け目が目立たないが、はるかに一枚の面積は大きい。
低木とは言えないほど背が高くなった。

排水路の石組みの上の狭い隙間に育っているが、水路の石垣の間からも次世代が芽を出している。

何故「紙八手」と呼ぶのか?

ウィキペディアの解説のつづき:

中国、台湾原産の常緑低木である。日本では植栽すると落葉することが多いが、暖地では常緑で生育し、野生化しているところもある。葉はヤツデと同様に大柄な掌状深裂の形だが、葉質は遙かに薄く、つやがない。

花期は11~12月頃で、普通のヤツデと同様に淡黄白色の丸い小花の塊があり、その塊の集団が円錐形になる(球状の散形花序を円錐状につける)。葉は70cmくらいと大型である。

また茎の髄から通草紙(つうそうし)という造花や書画で使う紙の一種をつくり、これが「紙八手」という名前の由来となっている。


実り田

水はまだ抜かれていないが、景観はすでに稔り田といっていい。
かつて東富松(ひがしとまつ)西富松と呼ばれた地区をあるいてみた。

わずかながらも田んぼが残っている。
手入れにのいい田もあればそうでない田もある。

ホテイアオイではないかも。

富松神社へ出かけ、ワイフに頼まれた用件を片づけた。

富松神社の北側の入り口。今日まで知らなかった。

いつも神社の裏へでる時は、北ではなく、西の方向へ向かっていた。

川があって、舗装されていない私有地のような平屋住宅の中を抜ける。

昭和が残っているような地区である。


ポケットに星屑ありし昭和かな 高野ムツオ 蟲の王

昭和など忘れて久し春時雨 高野ムツオ 蟲の王

冬薔薇の蕾のままに昭和果つ 五島久子

都鳥昭和の白のながれゆく 津根元潮

昭和逝くタンカーは鴎を曳いて 児玉悦子

車中の夕日昭和が溺死していたり 高野ムツオ

終らぬ昭和シベリアの匙むきだしに 小田 保

昭和衰へ馬の音する夕かな 三橋敏雄

昭和終るタイヤが咥えたる石と 鈴木六林男

昭和の銀座へ冬帽を取りにゆく 小原洋一

昭和すでに撫子はみな何処へ行きし 中村苑子

茶立虫昭和一日づつ遠し 木内彰志

干飯噛む錆びし昭和の金歯かな 五島エミ

昭和余年平成後年寒椿 大井恒行

最も永き昭和のばらの咲きはじむ 阿部みどり女 『石蕗』

父ははの昭和も過ぎぬ蕗のたう 大木あまり 火球

人日の野辺に昭和の終る雨 落合水尾

海ゆかば海に橋なし昭和果つ 沼尻巳津子

若菜野に雨降りやまず昭和逝く 垣迫俊子

読初の胸中熱し昭和篇 西田妙子

寒行の鈴に昭和の遠ざかる 岡林博茂

あかぎれが疼くよ昭和ひとけたよ 宇咲冬男

煮凝や還暦といふ昭和の子 宮岡計次

霜の土昭和無辜の死詰めて逝く 古沢太穂

父の老凍雲起伏来し昭和 森 白樹

四方山の紅葉疲れを昭和びと 三橋敏雄

たっぷりと昭和に生きて毛虫焼く 藤原美峰

水虫は父の勲章昭和果つ 飯田綾子

蚊帳吊りし昭和の釘の残りけり 成井 侃

白地着て顔の見えざる昭和の夜 鴨下 昭

短足の昭和一桁浜蒲公英 中村棹舟

しんがりに昭和一桁花筏 山崎 聰

ソメイヨシノ昭和の端を歩いてきた 岡崎淳子

昭和の世ひた惜しみ松納めけり 中本 柑風

七草粥吹いて昭和を送りけり 三嶋隆英

昭和の色大正の色錦鯉 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨

道をしへ跳ね跳ね昭和永きかな 平畑静塔


既に陳(ふ)る昭和の書あり曝すなり しづの女

昭和すでに撫子はみな何処へ行きし 苑子

昭和夢見し少年倶楽都鳥渡る 高橋康菴

後ろ手に襖を閉めて昭和亡し たむらちせい

おもかげに荒草まじる昭和かな 永末恵子

みどりの日昭和一桁老いにけり 稲畑廣太郎

冬山のいま終りたる昭和かな 中杉隆世

春眠の昭和のはじめまだくらし 小川双々子

角々に昭和の兵士結氷期 米花紺子

みどりの日昭和一桁老いにけり 稲畑廣太郎

春眠し昭和一桁ことに眠し 大牧広

昭和日暮の蚊帳吊草を吊る遊び 柿本多映

冬鳥の行衛の杳と昭和尽く たむらちせい

昭和より流謫の日々や霜柱 斎藤慎爾

雪に印す昭和を生きし靴の裏 佐々木春蔵

後ろ手に襖を閉めて昭和亡し たむらちせい

生き抜きし昭和がこころ紅葉酒 時野穂邨

睡蓮に辿りつきたる昭和かな 徳弘純

名残梅雨斂葬をもて昭和逝く 泉治人

大正・昭和・平成の人草を刈る 遠藤ひろし

なづな粥すする昭和の消え行く日 町田しげき

昭和逝く七日の夜の雨の音 関森勝夫

元禄も昭和も末世大雪解 西本一都

冬座敷かつて昭和の男女かな 宇多喜代子 象

鏡中に昭和果てたる床柱 桂信子

昭和逝く七日の夜を髪洗ふ 蓬田紀枝子

冴返り冴返りつつ逝く昭和 中嶋秀子

既に陳る昭和の書あり曝すなり 竹下しづの女

海ゆかば海に橋なし昭和果つ 沼尻巳津子

七種を摘む間に昭和終らむと 小泉八重子

するすると絵馬の蛇消え昭和消え 寺井谷子

昭和果つ七日の波頭すべて鎖 熊谷愛子

昭和日暮の蚊帳吊草を吊る遊び 柿本多映

青蚊帳を泳ぐ昭和の日暮かな 柿本多映

昭和日暮の蚊帳吊草を吊る遊び 柿本多映

西日さす昭和文学全集や 池田澄子

寒蜆昭和ひと桁またも死ぬ 辻田克巳

眼鏡の露より昭和はじまれり 攝津幸彦

四方山の紅葉疲れを昭和びと 三橋敏雄 *シャコ

昭和衰へ馬の音する夕かな 三橋敏雄 眞神


貸農園

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市内を歩いていると、大字と大字の境目辺りに10aか20a程度の貸農園に出会う。

今年は茄子とオクラを鉢で育てたので、

育て方に力が入っているのが良くわかる。

↑切り戻した株が生き生きとしている。
何処の農園でも同じというわけではない。

今日も先日と同じ病院へ出かけた。
行きは勝手知っているコースをナビ頼りに行くが、
帰りはナビに従っていると、違う道へ導かれ、
有馬温泉の太閤橋交差点へたどり着いた。
そこからナビには登録されていない道を行き、
前回はなんとか中国道へたどり着いたが、
今日は、高速道を通らないまま、
蓬莱峡の絶景を眺める羽目になった。
撮影の為、車を止めるわけにはいかない追い越し禁止道なので画像は無し。


蓬莱の例句意外に多い。

蓬莱をかけ曽根崎に住みにけり 下村梅子

蓬莱に氷るはじめの湖の音 佐野美智

蓬莱や海を見に行く佐田岬 草間時彦

蓬莱や法師と翁ここに来し 大串 章

蓬莱や沖にそのまた沖の海 斉藤美規

吉兆の箸蓬莱の竹とせむ 角川照子

学僧のふるさと遠し絵蓬莱 大島民郎

蓬莱や湖の空より鳶のこゑ 森 澄雄

蓬莱や海老かさ高に歯朶隠れ 河東碧梧桐

蓬莱や山よりの雪ちらちらと 岸田稚魚

蓬莱の芋銭の一書掛け句会 佐藤 欽子

蓬莱の小海老ながらも髭を刎ね 赤尾兜子

蓬莱に能登の荒磯の石を据う 細見綾子

蓬莱の国の真紅の賀状かな 小宮山政子

蓬莱や一口香に潮の味 織田恭子

蓬莱やはるか馬蹄のひびきたる 加藤三七子

蓬莱に積む搗栗(かちぐり)の一とにぎり 光信喜美子

蓬莱や嶺々の高さのおのがじし 神尾季羊

蓬莱や老舗めでたき御用墨 高橋淑子

蓬莱や鳥はつねに畦にゐて 飴山実

一人ゐて蓬莱に日があまりけり 大谷碧雲居

蓬莱のひかげかづらの末までも 阿波野青畝

蓬莱や竹つたひくる山の水 宇佐美魚目

蓬莱や湖の空より鳶のこゑ 森澄雄

蓬莱や祝ぎごとのみに老を撮る 林昌華

蓬莱や母の枕は箱枕 磯貝碧蹄館

蓬莱にをさなき宵寝ごころかな 富田木歩

蓬莱のかげ暖かき障子かな 西林青石

蓬莱や東にひらく伊豆の海 水原秋桜子

蓬莱の有りとばかりもたのもしき 横山蜃楼

蓬莱や雨戸あくれば夜のあける 水落露石

蓬莱の南は海へかたぶけり 野田別天楼

蓬莱に貧乏見ゆるあはれなり 正岡子規

雲ふかく蓬莱かざる山廬かな 飯田蛇笏

蓬莱や竹つたひくる山の水 魚目

蓬莱や京に古りける菓子箪笥 多賀子

蓬莱に能登で拾ひし貝と石 欣一

蓬莱を掛けて隠るる古柱 比奈夫

蓬莱や湖の空より鳶のこゑ 澄雄

蓬莱に能登の荒磯の石を据う 綾子

住吉の掛蓬莱の穂の揃ふ 夜半

蓬莱や静かに居れば遠汽笛 風生

蓬莱のひかげかづらの末までも 青畝

蓬莱にをさなき宵寝ごころかな 木歩

しだり尾の掛蓬莱を捌きけり 喜舟

蓬莱や東にひらく伊豆の海 秋櫻子

山人の蓬莱の間にある炉かな 癖三酔

蓬莱の南は海へかたぶけり 別天楼

広門ただ懸蓬莱のあるばかり 泊月

雪ふかく蓬莱かざる山廬かな 蛇笏

土器や蓬莱山の朝灯 碧童

家内して積む蓬莱の高さかな 八重桜

蓬莱に徐福と申す鼠かな 虚子

蓬莱を捧げて眉のかくれけり 鳴雪

蓬莱や海老嵩高に歯朶がくれ 碧梧桐

蓬莱や上野の山と相対す 子規

蓬莱に夜が明け込むぞ角田川 一茶

蓬莱の橙あかき小家かな 蒼[きう]

蓬莱の上にや居ます親二人 青蘿

蓬莱に児這ひかかる目出たさよ 山店

蓬莱や蚕のすがる常世物 桃隣

蓬莱にかけてかざるや老の袖 去来

蓬莱に聞かばや伊勢の初便 芭蕉

蓬莱夜は薄絹も着せつべし 言水

蓬莱や越の海づら吉野山 信徳

膝ふたつ蓬莱として朝湯かな 五島高資

養生をせよと蓬莱高野より 下田稔

山栗の五つ六つ乗る蓬莱盆 下田稔

蓬莱に氷るはじめの湖の音 佐野美智

蓬莱や山よりの雪ちらちらと 岸田稚魚

蓬莱で冬眠せむとにはあらず 徳永山冬子

蓬莱や日のさしかゝる枕もと 釣壺 古句を観る(柴田宵曲)

蓬莱や東にひらく伊豆の海 水原秋桜子(1892-1981)

蓬莱に聞ばや伊勢の初便 芭蕉

蓬莱に名刺きたなき三日かな 寺田寅彦

福鍋にきけや蓬莱の松の風 尾崎紅葉

思ふ蓬莱の路や満地の福寿草 尾崎紅葉

蓬莱に頭巾かくべき技もがな 会津八一

蓬莱の屏風の後ろ通りけり 会津八一

蓬莱や米もりこぼす膝の上 会津八一

蓬莱に夜の明けて居る座敷かな 会津八一

蓬莱や剪り散らしたる紅唐哉 会津八一

蓬莱やはるか馬蹄のひびきたる 加藤三七子

朱を研や蓬莱の野老人間に落 炭 太祇 太祇句選

蓬莱に見るや浮世の慾ぞろへ 横井也有 蘿葉集

蓬莱に南無~といふ童哉 一茶 ■文化八年辛未(四十九歳)

蓬莱に寝かされてをり年を待つ 森澄雄 空艪

蓬莱の垂穂こぼれてみせしかな 後藤比奈夫 花びら柚子

蓬莱を掛けて隠るる古柱 後藤比奈夫 祇園守

蓬莱も比良も雲中かきつばた 鷲谷七菜子 游影

一露の嶋組蓬莱の秋ぞ知る 立独 選集「板東太郎」

蓬莱や霞をながすしだの島 京-重栄 元禄百人一句

蓬莱の山まつりせん老の春 蕪村 五車反古

蓬莱や海老かさ高に歯朶隠れ 河東碧梧桐

蓬莱のうつる夜明けの障子かな 井上井月

蓬莱にすはる薄雲太夫かな 松瀬青々


ウィキペディア:
蓬萊(ほうらい)とは、古代中国で東の海上海中)にある仙人が住むといわれていた仙境の1つ。道教の流れを汲む神仙思想のなかで説かれるものである。

日本では浦島伝説の一つ『丹後国風土記』逸文では「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読み、文脈にも神仙などの用語が出てくること、田道間守の話や他の常世国伝承にも不老不死など神仙思想の影響が窺えることから理想郷の伝承として海神宮などと習合したとも思われる。

平安時代に、僧侶の寛輔が、「蓬莱山」とは富士山を指すと述べた[5]

竹取物語』にも、「東の海に蓬莱という山あるなり」と記される[6]。ほか、「蓬萊の玉の枝」が登場するが富士山の縁起を語るところではやはり不老不死の語が出ており神仙思想との繋がりが窺える。

ホツマツタヱ』では蓬萊山(富士山)の蓬莱の意味は「はらみ」と呼ばれ、食べると千年寿命が延びるという、蓬莱山(はらみ山)に生えていたとされる、栄菜(はほな)、老菜(らはな)、身草(みくさ)の千代三草の頭文字のは・ら・みを意味していると言われ、また孝霊天皇の御代の500年前の蓬莱山(富士山)の火山噴火で千代三草は絶滅したとされている[7]。 また蓬莱山(富士山)の麓に蓬莱宮(はらみの宮)が存在していたとされてる。天孫降臨のニニギの時代にニニギが蓬莱宮と名付けて、宮をきらびやかに改築して宮を統治していたとされ、後にこれは酒折宮と呼ばれる様になった。孝霊天皇の御代の500年前の蓬萊山(富士山)噴火で、宮は大きな被害を受けた為、廃宮として、後に甲斐国に別の酒折宮が建てられたとされる。ヤマトタケルが東征の帰りに甲斐国の酒折宮に立ち寄った時、朽ち果てながらもニニギ時代の蓬莱宮の建物の面影を残す廃宮にも立ち寄り、尾張国にニニギの蓬莱宮と同じ宮を建て、結婚の約束をした尾張国造の娘宮簀媛と暮らして楽しみたいと願った。ヤマトタケルの望みを聞いた、尾張国造の乎止与命が蓬萊山(富士山)の麓の廃宮の蓬莱宮こと旧酒折宮に行き、新しい蓬莱宮を建てる為、宮を描き写した。ヤマトタケルの死後、ヤマトタケルの生前の願いを叶える為、熱田にニニギの蓬莱宮と同じ宮が建てられたとされている[8][9]


例句の中の蓬莱はどれを指すのか。実のところよく分からない。
「富士の山」とみなせば、多くは通じるが。




ヒペリカム

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我が隣家更地となって天高し

メダルラッシュの後もオクラの咲き継いで


失地奪還を狙うランナー更地化後

葦↑
高層をあきらめきれぬヒペリカム

800字のエッセイを依頼された。
昨年までは400字であった。
今年だけ特に予算がついて、字数倍増となったのか真相はしらない。

執筆要綱には、
今年は「私の尼崎」関連のエッセイをお願いするとなっているから、
市制百周年記念行事関連の予算が付いたのであろう。

そういう条件がない中で、私は過去2年、「私の尼崎」について書いている。


↑2015年は「塚口御坊」というタイトルで、
2014年は「庄下川」というタイトルで。↓

2年前に書いたものを見ると、間違いがある。
一つは家の近くの公園が椀田公園という珍しい名前がついている由縁の考察で、
そこに「椀田池」と
呼ばれる池があったからかもとしている。
それ自体は間違いではないが、2年の「経験」と「学習」の成果を付け加えると、
池があり、今は公園となっている。地区の小字名が椀田だったのである。

池の西側に「梅の木古墳跡」が標識だけ残っているが、
この地区の小字が「梅の木」だったからそう名付けられたのであろう。
そのまた近くにかかる橋の名が「梅の木橋」であるのも同じ理由からである。

もう一つは決定的に間違っている。
公園に添って、北から南へ、そして東へ流れを変える川を名もなき川とし、
そのれより西の梅の木橋がかかる川を富松川(とまつかわ)とみなしている。

名もなき川が富松川であり、梅の木橋がかかる川は東富松川である。
そして行政上、東富松川は、他の2川と合流して庄下川となるのではなく、
東富松川は庄下川の本流という扱いに変わっている。

そして東富松川と呼ばれた部分を含めて庄下川は1級河川である。
富松川も1級河川である。
西富松川は、3川合流地点では、水量が最も多いと思うが、行政上は排水路であり、2級河川でさえない扱い(だと思う)。
護岸工事等には県の補助も出ないと思う。

武庫川は最下流に於いて尼崎市と西宮市を隔てる境界であるが、
同一県内で完結しているために2級河川である。

庄下川はそれより「下級の」同一市内で完結していた川(富松川と東富松川は伊丹市内も流れる。富松川は同一名で東富松川は市境で名を変える)であるが、1級河川である。

法律ではなく、省令などで護岸工事などの、上位機関からの予算配分が決まっているのであろう。

プリンシパル

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我が家に配布される地域新聞は「つかぐち西コミュニティ」新聞。

8月31日号のトップ記事は、「祝 英ロイヤルバレエ団プリンシパル昇格」


新築の10階建てマンションの前にバレエ・スクールがある。

その家に娘さんが2人いて、長女の方とは何度もお話したことがある。
代議士夫人になられた後は、ご夫婦おそろいの席で、ご主人の方ともお話したことがある。

女房がお世話になったそうでなどという挨拶を受けたこともある。

周辺地域では才女の進学先とされる女学校に通っておられる頃に
勉強を手伝ったことがある(ラシイ)。


しかし次女で親の姓を継承なさったのは、次女の方で、
ロイヤルバレエ団のプリンシパルに昇格した平野亮一さんは、その方の息子さんであることをコミュティ新聞で初めて知った。

バレエ果て銀の風鳴る星月夜 吉原文音

春の月バレエ群舞の中にあり 対馬康子 吾亦紅

胸をもてバレエつま立つ寒稽古 赤松[ケイ]子


「ケイ」となっているのは、赤松さんの名前のケイコが恵子ではなく、惠子でもなくそれに似た常用外字であるから。

↑こちらは市報「あまがさき」の9月号表紙。

甲子園に出場した市立尼崎高校(市尼)のナインの寄せ書きである。

驚いたこと。

みんな字が上手である。少なくとも私よりうまい。


  


「ナイン」で検索

寫眞とらるるはナインと夏の落葉掃 八木林之介 青霞集

但しこの「ナイン」は9の意味ではなく、「nein」であろう。

ドイツでは8月には落葉が始まる。
落葉はいている人に写真撮っていいかと身振りで示したら
「ダメ」と言われたのであろう。



principal

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今日の更地

研究社 新英和中辞典での「principal」の意味

音節prin・ci・pal 発音記号/prínsəp(ə)l/音声を聞く 
形容詞限定用法の形容詞
(比較なし)
the principal rivers of the world 世界の主だった河川.

2

商業】 元金の.


3

【文法】 主要な.


名詞

1

可算名詞 [しばしば P[N16-A12A]]


2

[単数形で] 【商業】 元金基本財産.


principal and interest 元金利子元利.

4

可算名詞 【法律, 法学】


5

可算名詞 【建築】 主構主材.


【語源】



ネット辞書でprincipalを検索。
経済学部で学んだが、「元利合計」の元の英語がprincipalであることを今日まで知らなかった。
('◇')ゞ

楽器(ピアノやヴァイオリン)や声楽のコンクールで日本人が優秀者に選ばれると新聞やテレビで報道される。盲目のピアニストがテレビ画面に頻繁に登場したのは、去年だったか?
バレエもその一つで、日本人男女が同時にイギリスのロイアルバレエ団のプリンシパルに昇格したという記事も新聞で読んだ記憶があるが、ご近所出身のバレエダンサー
その一人だったと知ったのは昨日の事である。



スクールでは例句みつからず
雪合戦の総隊長は校長なり 千葉 仁

校長の石榴にふれて帰りけり 香川修広

校長の鯊釣りと言ふついて行く 原田 耕二

校長として遠足の列を行く 土永 竜仙子

校長を呼ぶ声がする真菰かな 門屋和子

猪喰ひに校長山へ戻りけり 勝井良雄

校長と初めて握手卒業す 赤澤新子

咳一つ校長訓示始まりぬ 城台洋子

校長に蒲公英絮をとばす日ぞ 加藤楸邨

校長のかはるうはさや桐の花 万太郎

校長の机の上の夏帽子 岩田由美

校長をいつもひとりにする桜 藤枝正子

校長のかはるうわさや桐の花 久保田万太郎(1889-1963)

水論に農学校長立ちも出づ 竹下しづの女

校長も教頭もゐず燕の子 辻田克巳


紫御殿と言う名前しか知らない。
昭和も前半期に導入されたための和名か?

ウィキペディア:
ムラサキゴテン(紫御殿、学名:Tradescantia pallida 'Purpurea')は、ツユクサ科の園芸植物。(シノニムSetcreasea pallida 'Purple Heart')。別名パープルハートセトクレアセア(園芸品種名で通用する)。

地上部全体が紫色をしており、葉は少し多肉。6~9月頃に紅紫色の花が咲く。乾燥した日当たりの良い環境を好む。メキシコ原産で、原種はほとんど栽培されることはない。耐寒性はそれほど強く無いが、日本では東京より西であれば戸外でも越冬可能。

私も誰かに貰って2,3年育てたことがあるが、管理法が悪かったか枯らしてしまった。
園芸店で売っているのを見たことがない。

秋祭

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画像がデデカク表示される理由が分からず、四苦八苦。
どうやら修正できたと思うので出来上がり確認のために早めに公開。
この文が無くなるまでは、製作途中なので、後刻、もう一度覗いてみてください。





俳句雑誌を読みながら、「スリッパに右左あり・・・」の句にケチを付けているワイフの声を聞きつつ、スリッパで検索。

スリッパのひつくり返り小米花 行方克己 無言劇

スリッパの父眠り籐椅子を出るヘリコプター 島津 亮

拝殿に赤いスリッパ神還る 相馬沙緻

休日の家族藺草のスリッパで 棚橋澄子

スリッパを越えかねてゐる仔猫かな 高浜虚子

スリッパの裏ましろなる秋の暮 小川軽舟

啓蟄やスリッパにまた次の客 加藤佳子

蹼のごときスリッパ河童の忌 小檜山繁子

スリッパの散らかる山の終戦日 岡田史乃

スリッパを新しくして夜長かな 岡田史乃

スリッパはしかとはくべし彌生盡 久保田万太郎 流寓抄以後

スリッパもあたたかさうに父の部屋 京極杞陽

スリッパにふかぶかと踏む枯芝よ 稲畑汀子

スリッパに右左があるちというのは前例ありとワイフが言うので、
2003年版だけでなく、2007年版も当たってみた。
「続俳句検索」から

スリッパの廊下に溜まる獺祭忌 潮田幸司 銀化

昼蛙箱にスリッパ盛り上がり 山尾玉藻

スリッパの数見事なり忘年会 右城暮石

スリッパを越えかねてゐる仔猫かな 高浜虚子

スリッパを出船に揃へ初句会 松倉ゆずる

スリッパの散らかる山の終戦日 岡田史乃

スリッパの向きととのへる神の留守 山口きみえ

スリッパで春の山脈見てゐたる 鈴木鷹夫 春の門

スリッパをどこでぬいでもいわし雲 布戸道江

スリッパに百足横たふ夜の厠 森中すみ子

春暑し悠然とスリッパ裏返る 根本 准

短夜やスリッパの字の鹿野山 波多野爽波

ごきぶりを打ちしスリッパ手に残る 高木瓔子(俳壇)

スリッパを幾度も揃へ夏館 下坂速穂(屋根)

思ひ出はいつもあたたかスリッパも 山田弘子 懐

霜降やスリッパ厚く厨事 井沢正江

今日の隣家:地鎮祭挙行。神主さんが富松神社からの派遣なら挨拶しょうと思い、覗くも違う人だった。

亡きご夫婦には一男一女の相続人がいるが、出席者は、ちらりと見た範囲では、一男の
ご夫人とそのお子さんだけのよう。
あるいは、ご主人の方はテントの奥に居られたかも。

車は神主さんのもの。

カメラ持ったまま、一筋西へ歩くと、北の方にある県立高校の方へ人出あり。
のこのこ高校の正門へ向かった。

このマスコットには見覚えはないが、100と読める画像には見覚えがある。というより目下町中に氾濫している。
公募作品かあるいは有名デザイナーになるものか、「尼崎市制100年祝賀」マークである。

↑最初の1と読める顔は、「あ」と発音しているように見える。
2番目の「0」は「ま」の発音、
3番目の「0」の口元はlove♡マーク。これは「好き」と読む絵文字になっている。

合わせて、「尼が好き」をイメージ  と私は解釈。多分間違っていないはず。

勝手に学舎内へ入れず、受付で名前を登録しなければならない。

卒業生、来賓、保護者と並んで、「近隣」のコーナーがあったので、
それに該当するが、服装を改めて出直すと断って退散。





ゼフィランサス

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ゼフィランサスは、ヒガンバナ科クロンキスト体系ではユリ科タマスダレ属[1]学名Zephyranthes)の植物の総称。温暖な地域で生育し、土中に鱗茎を形成する多年草。近縁のハブランサス属英語版クーペリア属英語版[2]とともに、多くの乾燥の後にが降って球根が潤うと花茎をのばし、開花する性質があるため、レインリリーと呼ばれる。

名はギリシャ語の Zephyros(西風、ゼピュロス)と anthos)が語源であるが、なぜそう名付けられたのかよくわかっていない。

↑ウィキペディア:
かっては、平屋住宅街の家の前にずらりと咲いていた。
住宅街の中も舗装されるようになったときは、アスファルトの下になってしまったが、何年かすると舗装の端っこからしぶとく復活していたのが印象に残っている。玉すだれよりも夏水仙と呼んでいたように思う。


紅梅や見ぬ戀つくる玉すだれ 芭蕉

掛香や扇は顔の玉すだれ 井上井月

ゼフィランサスの日本への導入は19世紀だが、さすがに芭蕉は知らない。


日本南京玉すだれ協会では、「発祥は富山県で、同県の民謡こきりこ節に用いられるささらが原型」としている。

「玉すだれ」は伊勢物語の短歌にもでてくる言葉ではあるが、一般的なすだれと同様に目かくしや日光遮断のために屋内で用いる家具のことであった。

玉すだれを使った「南京玉すだれ」という大道芸が現れたのは江戸期になってからである。名前から南京発祥だと勘違いされやすいが、日本発祥である。本来は「唐人阿蘭陀南京無双玉すだれ」と称されており、「唐人にも阿蘭陀にも二つとない小さな玉すだれ」という意味で付けられたといわれている。 大国の大都市であった南京の名をつけることで、すだれの希少性を強調し芸の価値を高める意図があったと思われる。

例句の玉すだれは↑の解説のものであろう。


数年前に緑化植物園の祭の日のオークションで球根類の入った袋をゲット。その中に玉すだれの小さな球根も入っていた。プランターにまとめて植えこんだが、数年は余り花が咲かなかった。そのまま放置していて、雨上がりにふと見るとまとまって花が咲いていた。
↑の画像の向うに見えるのは、キルタンサス。
こちらもオークションで得たものであるが、こちらは最初数年は良く咲いたが最近は見栄えのする景にはならない。よってこれも放置。

ゆみが来るキルタンサスが桃色に  旧作

そう詠ってから1,2年後、今年サミットG7が開催されたホテルの新館に泊まった。
例によってホテルの近くの海岸を歩いていると、
ほとんどすべての家の庭にキルタンサスが咲いていたのが記憶に残っている。

↓今朝の更地。昨夕テントは片づけられた。

息子の新居へ物を運び込んだついでに盗撮。

テレビはまだ映らない。

モニターがカラー化されているのを初めて知った。
それだけでなく、録画もされているよう。
留守中に誰が訪ねてきたか確認できるそうである。
そんな機能が一般化しているのを知らなかった。
↓私が内側から通話ボタンを押したので、門には人影なし。
川を塞ぐ夾竹桃が映っている。




イヌタデ

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イヌタデ(犬蓼、学名Persicaria longiseta)は、タデ科イヌタデ属一年草道端に普通に見られる雑草である。

和名ヤナギタデに対し、辛味がなくて役に立たないという意味で「イヌタデ」と名付けられた[2]。赤い小さな果実赤飯に見立て、別名アカノマンマともよばれる[3]

庄下川で今繁茂しているのは、イヌタデ

まだ色づきは悪い。


赤まんま空地に捨ててある枕 秋元不死男

子をもたず母を送りて赤まんま 関口桂史

赤まんま墓累々と焼けのこり 三橋鷹女

赤まんま留守番の子の指しやぶり 島 汀子

山の田は作らず売らず赤まんま 影島智子

水子らがゆすり搖れるよ赤まんま 坪内稔典

「赤まんま」の例句意外に少ない。
あらためて「赤のまま」で検索。

輿入の日やぐつたりと赤のまま 中原道夫

積み捨てし水禍の畳赤のまま 渡辺文雄

ローカルの切符は硬し赤のまま 白内慶太

夜べの雨未だ降り止まぬ赤のまま 青柳薫也

幸ひなるかなくるすが下の赤のまま 山本健吉

ゴム長を穿きてふるさと赤のまま 右城暮石

酒倉に親しきものや赤のまま 石 寒太

つれづれの旅にもありぬ赤のまま 森 澄雄

赤のまま錆びたるものにむらがれる 清崎敏郎

五右衛風呂の蓋はたつぷり赤のまま 大木あまり 火のいろに

われ黙り人はなしかく赤のまま 星野立子

郵便夫バイクを停める赤のまま 町田一雄

赤のまま摘めるうまごに随へり 臼田亜浪

赤のまま寝溜の旅も終りけり 鷹羽狩行

種牛は小屋で留守番赤のまま 石田勝彦

母にある幼な友達赤のまま 大橋敦子

長雨のふるだけ降るや赤のまま 中村汀女

此の辺の道はよく知り赤のまま 高浜虚子

赤のまま遊ぶ手の中暮れている 武田涓滴

あるがままただそのままに赤のまま 和田俊夫

赤のまま地玉子売りの来る日暮 松浦 釉

人なぜか生国を聞く赤のまま 大牧 広

影踏みの影の伸び来し赤のまま 大上 充子

犬連れの馴染みの顔や赤のまま 山本 保子

出土土器散らばり乾き赤のまま 水田三嬢

ここになほ昔のこれり赤のまま 桜木俊晃

赤のまま此処を墳墓の地とせむか 吉田週歩

山羊の貌朝日うけをり赤のまま 坪野文子

縄汽車のぶつかり歩く赤のまま 奥田可児

勝ち誇る子をみな逃げぬ赤のまま 中村草田男

日ねもすの埃のままの赤のまま 高浜虚子

赤のまま天平雲は天のもの 青畝

赤のまま摘めるうまごに随へり 亜浪

瀬にあれば酔のさめゆく赤のまま 田中裕明 櫻姫譚

赤のまま語らねば愛深くなる 大島六花

仔馬らの四肢太くなり赤のまま 椙山昭三

夭折の弟があり赤のまま 太田土男

赤のまま馬に触れたき少女をり 太田土男

針千本飲ます算段赤のまま 櫛原希伊子

板塀に継あててある赤のまま 遠藤梧逸

人なぜか生国を聞く赤のまま 大牧広(1931-)

赤のまま天平雲は天のもの 阿波野青畝(1899-1992)

此辺の道はよく知り赤のまま 高濱虚子

長雨の降るだけ降るや赤のまま 中村汀女

流水の風の筋目に赤のまま 伊藤敬子

つれづれの旅にもありぬ赤のまま 森澄雄 空艪

赤のまま摘めるうまごに随へり 臼田亞浪 定本亜浪句集

赤のまま双手ほうしろポケットに 横山白虹

わが心やさしくなりぬ赤のまま 山口青邨

赤のまま天平雲は天のもの 阿波野青畝


庄下川上流ではジュズタマも。


ゼフィランサスの群生地もある。

ピンク位色のものは見かけない。ピンクのものは、サフランモドキ、白はタマスダレ

その周囲にはミゾソバ、それを覆うようにヒルガオが繁茂しているが、花は見られない。




小字

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昨日、イヌタデの別名「赤のまま」「赤まんま」で例句を探した。
アカノマンマが「正式の」別名・通称だが、6音になるから例句はみつからないだろうと
おもったからである。

しかし中7に配置する手があった。

手にしたる赤のまんまを手向草 富安風生

検索したら、1句だけだが「赤のまんま」の例句を見つけた。

小字についてのウィキペディアの解説

小字(こあざ)とは市区町村内の区画である(あざ)のうち、大字を除くものにあたり、一筆耕地が集合したものを指す[1]。単に字(あざ、あざな)ともいう。これはヨーロッパにおける耕区ドイツ語Gewann)にあたる。近世からの村(藩政村)が明治市町村合併によって大字となり、これと旧来からの字を区別して「小字」と呼ぶようになった[1][2]

私が今住んでいる小字名は、野合であった。
文字通り何も人工物はなかったのだろうか?
小字はごく狭い地区を指したのであろう。
今、この地区名が野合であった痕跡は何も残っていない(と思う)。
家からすぐ北側の地は、椀田(わんだ)。田の形がお椀型だったのか?ならば律令制以来の由緒ある名となる。

椀田という小字名は↑↓公園の名として残っている。

古事記、日本書紀に登場する地名には、田の形状を示すものが多いらしい。
狭田(さなだ)、安田、平田、依田などは、日本に文字が導入される以前からの呼び名を
大化の改新以後文字化したものだとか。

尼崎市内の大字名では、富田、額田、高田、浜田
三反田の他、○○新田というのが10位が残っている。
小字名だと、他にも、大田、深田、角田、入江田など・・・

椀田公園の北に

高校がある。
その裏の地域は、松ガ本という小字であるが、
それも公園の名として残っている。

椀田公園の西側の地区は梅の木という小字である。
これはいい名前なので、町会名としても残っている。

地区には古墳もあったようだ。↑
↓橋の名としても残っている。


小字梅の木の南側に、現在の阪急電車神戸線にかけて
柳縁(やなぎべり)という小字があった。これも橋の名として残っている。

↑阪急電車の線路を背景にして、東富松川の上流を見ている。
北に見える橋が梅の木橋である。

ところで、椀田、梅の木、松が本、柳縁などの小字を含む大字(明治以前の旧村)は
東富松であって、塚口(村)ではない。野合が塚口村の西の端であったのは確かだが、
しかしそのまた西に池之尻という小字があった。多分椀田公園(椀田池)の南側の地区であろう。
津門の中道は、この塚口村と東富松村の境目を北上、西進して武庫川越えの船着き場へ向かったのだと思う。


桐の実や小字に残る足入れ婚 高橋悦男

どの角も親しき小字秋ざくら 梓沢あづさ

螢火や小字をむすぶ橋かゝり 甲賀 山村

遠くより屏風の大字躍る見ゆ

門額の大字に点す蝸牛かな

尼崎藩

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尼崎藩(あまがさきはん)は、摂津国川辺郡武庫郡菟原郡八部郡(現在の兵庫県尼崎市宝塚市西宮市芦屋市神戸市南部・伊丹市の一部・川西市猪名川町)を領した。藩庁は尼崎城


尼崎藩の存在はもちろん知っているが、その領域がかなり広範囲で、しかも虫食いだらけであったのを知ったのはそんなに古くはない。


神戸の湊川神社になぜかくも歴代藩主の献灯が多いのかと考えて、
そうか現在の神戸市には江戸時代の城郭はなく、尼崎藩領であったのだと思いいたったのは、即座ではなかった。


JRの神戸三ノ宮駅の南にある、中央区役所に隣接した会館(図書館や青少年会館などを兼ねて施設)で開催の神戸句会に参加。
主任選者はじめ、句会の幹事クラスの人が所属結社を脱退したので、所属結社名をはずして単に「神戸俳句会」と名乗り始めた。


鉄材の危ういバランス鰯雲

私の作品が(きわめて珍しく)最高点句になった。

他にも

夏果てのマグマを抜けて安倍マリオ

という句を行きの電車の中でまとめていたが、会場に着いた時には忘れていて投句できなかった。

盛り砂に残る切麻重陽や

↑テントを撤去後も鍬入れの儀式に用いた盛り砂が残り、
白いものも。塩かと思ったが、切幣のようである。

切麻散米の儀の場合は、切幣ではなく切麻と表記するのをネットで確認してこの用語を利用したが、やはり下5がいまいち。

根切り虫

この鶏頭は、実はアスファルトの隙間から伸びている。
プランターに植えたものは、根切り虫にやられて枯れたので、抜いてしまった。

ここも1プランターのものを、根切り虫被害のために抜いたので、隙間が目立ち始めた。

そろそろ全体を整理する時期になっている。
↓が最盛期のもの(8月半ば)  残念ながら画像が大きすぎて全体をUPできない。

オナモミ

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10時に阪神電車甲子園駅に到着。
10時20分には

に到着。最初に見たのが、今話題のアリゲーターガー

水槽の間尺に合わぬアリゲーターガー

海紅豆をみた。

集団を二つに分ける海紅豆


浮き雲を割って浜辺の赤蜻蛉

甲子園浜は埋め立てによってできた内湾である。
阪神高速湾岸線が走っている。

オナモミかどうか、株が小さいので同定できない。

サフランモドキにしては首が長いか?


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川鵜

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朝、町会の地区長さんから。3丁目から6丁目までが一つの町会になっている。よっていくつかの分会に分かれているのであろう。
仕組みと制度を全く知らない。

昨年は確か、1000円札が一枚だった。
町会費は値上になっていない。対象者は増加の一途。
夜になっても封を開いていないが、タオル一枚であることは確か。



昨日は吟行会
行先は西宮市甲子園浜。
甲子園球場が目の前の位置からタクシーに分乗。
タクシー代は会の会計から。

鳥の来訪シーズンではないので、かなり遠くでアジサシが数羽舞うのがみられる程度。

こんな日もあるよう。

伊丹の昆陽池を本拠地とする川鵜
(ということは庄下川で見られる鵜も伊丹から飛んできているのか)
この鵜とて貴重な見学対象。

夏果ての潟の流木礁の鵜
鯖雲や川鵜右向き左向き

などの句が出ていた。

句会場は↓

会場費が無料だったので、句会費も無料
句稿のコピー代と茶菓は吟行会会計から支出。

浜独特の植物探しをしたがみつからず。
強いてあげれば海紅豆

↑うまく写っていない。中央にちょっと赤いものが見える。
海紅豆である。(長く伸びた枝先に咲いている。花は萎んでいる)

で、

集団を二つに分ける海紅豆

という句を得た。ちょうど、この木と栴檀の木を境に、
当日吟行会参加者は二手に分かれていたからである。
特選にとってくれた人がいて、
沖縄の基地闘争を連想させるとえらく深読みしていただいた。


↑ジニア

木槿の向うに見えるのは帆船型滑り台。
残暑きびしく、学校も始まっているので人影なし

甲子園浜からは六甲山の山頂が見える。甲山は見えない。

一番よく見えるのは海を渡る高速道路

秋の潮下り混み合う高速道
湾岸道路背にあじさしの秋うらら

当日最高点句は

男運よくて水母の一人旅

私も特選にいただいた。

吟行会幹事で当日司会者は、川柳ぽいと否定的であった。

私は「一人旅」の語を生かすためには、
「男運よかった」は、男運が悪かったことの自虐的表現と読むべきだと
いう解釈を披露。






アキノタムラソウ

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アキノタムラソウと思っているが、よく見ると、
花の形がいろいろ。違う花が混じっているか。




ウィキペディア:
アキノタムラソウ (Salvia japonica) は、野原に普通な多年草。細長い穂を伸ばして、薄紫色の花を付ける。

草丈は20cmから80cmにもなる[1]。茎は角張って四角形、まっすぐに立ち上がる[2]。根元で分枝して、数本の束を作る事もある。葉は対生で、その形は単葉のものから複葉に分かれるもの、それも三出複葉から一-二回羽状複葉にまでなるが、とにかく変異が多い。葉の長さは葉柄を合わせて3-15cmと変異の幅が大きい。葉身はおおよそ卵形、深緑で表面はつやがなくて草質、まばらに毛がでることもあるが、無毛のこともある。縁には粗くて丸い鋸歯が出る。

花期は7月から11月にわたる。茎の先端が分枝し、長く伸びて穂状に花を着け、花序の長さは10-25cmにもなる。花は長さ10-13mm、青紫色で唇形、やや斜め上を向いて咲き、花冠の内側の基部近くに毛環がある。雄蘂ははじめ花冠の上唇に沿って上に伸びて前方に突き出すが、葯が開いてしまうと下向きに曲がる[3]

和名は秋の田村草だろうが、意味は不明とのこと[4]。なお、タムラソウの名は、キク科にそれを標準和名に持つ種 Serratula coronata ssp.insularisタムラソウ属)がある。こちらもその由来は不明[5]。漢名は紫参で、鼠尾草は誤りであると、牧野は記している[6]

焼きそば大会の合間に観察。

今日も暑い日だった。

焼きそばはいつ頃から国民食になったのか?
ウィキペディア:

焼きそば(やきそば)は、豚肉等の肉類、キャベツ人参玉ねぎもやし等の野菜イカ等の魚介類などと共に炒め(具を入れない場合もある)、調味して作る麺料理。ウスターソースを使用したソース焼きそばが、日本では普及している。

焼きそばは、日本では、一般的な軽食として良く知られ、縁日売店やスナックコーナーなど(デパートの屋上や競技場・催し物場のメニュー等)で売られている。鉄板を使ったバーベキューメニューとしても多く作られている。また、地域おこしのためのご当地グルメとして、独自の調理法や材料を使用した焼きそばをPRしている地域も多い(「#ご当地焼きそば」参照)。

1955年(昭和30年)頃は、駄菓子屋で焼きそばが提供されていた。その当時は子供おやつとして評判を呼んでいたが、時代を経るにつれ次第に家庭でも食べられるようになっていった[1]。『にっぽん洋食物語大全』には「ソース焼きそばを浅草焼きそばと呼ぶ人もいる」と書かれており、昭和10年代には浅草で焼きそばがメニューとなっていた事から、戦前には焼きそばが存在していた。1963年(昭和38年)にはインスタント麺が発売されてヒット商品となり、広く広がった。

主としてお好み焼き屋や屋台大衆食堂などで供される。調理が簡単である事から、学園祭の模擬店町おこしB級グルメとして各地で利用されている。


焼きそばの歴史については、
ウィキペディアの解説も利用している
荒川製麺のHPが詳しい。
全文引用しようかと思ったが長いので、↑をクリックできるようにリンクしておいた。

山裾の日陰で開いていた黄色い花。
名前を思い出せない。

キンミズヒキ

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水引草撥ね違ひたり揺れ違ひ 行方克己 知音

さかりとて寂かに照や水引草 渡辺水巴

姉の恋ならず水引草こぼる 峯 信恵

水引草二筋三筋風のまゝ 安藤 寿胡

子ひとりおねがいほんのり水引草 山中葛子

尼来るを百も承知の水引草 齋藤玄 『無畔』

水引草や矢倉音なき片明り 小林康治 『存念』

水引草一糸の軽ろさ風に在り(山形、慈恩寺付近) 河野南畦 『硝子の船』

水引草の炎めきひとすぢ胸にひく 石原八束 『仮幻』

水引草を口にくはへて牛を引く 石原八束 『高野谿』

水引草風ひやひやと藤に来る 阿部みどり女 『微風』

濡れしまま水引草を活けてあり 大木あまり 火球

水引草皇女の墓へ磴細し 松本澄江

近道の昔のままに水引草 小谷久子

かひなしや水引草の花ざかり 正岡子規

ふれあひて水引草も世も淡し 中嶋秀子

水引草ひとつがゆれるほどの風 藤村礼子

小暗きに一穂の艶水引草 赤井淳子

川の音金水引草に触れてをり 藤田美代子

さかりとて寂かに照るや水引草 渡辺水巴

零餘子飯水引草を添へられて 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨

鉦鳴つて水引草のあるあたり 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨

水引草空の蒼さの水掬ふ 石田あき子

今年また水引草の咲くところ 原田浜人

水引草目が合ひて猫立停る 石田波郷

水引草畳のつやにうつりけり 室生犀星

日の中の水引草は透けりけり 室生犀星

木もれ日は移りやすけれ水引草 渡辺水巴

日も月も淡き世なりし水引草 大館史子

水引草なりに燃ゆるといふこころ 山田弘子

木洩日のさすくさむらはひそかにて水引草の紅ながし 佐藤志満

戦しごき残る友どち水引草 香西照雄

水引草髪より痩せてゆく思ひ 伊藤美沙子

水引草空の蒼さの水掬ふ 石田あき子

水引草まなぢり切らるおもひかな 坂巻純子

ふれあひて水引草も世も淡し 中嶋秀子

信玄が六女の寺の水引草 藤田あけ烏 赤松

壷にさす水引草つかねあまりけり 飯田蛇笏

戦しごき残る友どち水引草 香西照雄

瀬音にも揺れて水引草の花 森田かずを

水引草に月光詰ぶ十三夜 遠藤梧逸

峠路や水引草は妻のもの 岸田稚魚

日の中の水引草は透(すけ)りけり 室生犀星(1889-1962)

日の中の水引草は透りけり 室生犀星 犀星発句集

水引草はびこり母をよろこばす 山田みづえ

水引草ほどの感情の猫と暮れる 北原志満子

ふれあひて水引草も世も淡し 中嶋秀子

水引草すつと引きたる母の糸 中嶋秀子

水引草撥ね違ひたり揺れ違ひ 行方克巳

みづうみのはたと日暮るる水引草 関戸靖子

死よりしづかに水引草が濡れてゐる 栗林千津

水引草還暦までも生かされて 朝倉和江

その家へ水引草を手折りつつ 山本洋子

盆の燈の青水引草にこぼれけり 斉藤夏風

水引草はびこり母をよろこばす 山田みづえ 手甲

水引草を口にくはへて牛をひく 石原八束 高野谿

秋海棠水引草の露けしや 臼田亞浪 定本亜浪句集

日の中の水引草は透りけり 室生犀星

つんと出て水引草や徑岐れ 星野麥丘人

日の中の水引草は透(すけ)りけり 室生犀星


「水引草」で検索。60個と表示。それを間引かず再現↑

水引草還暦までも生かされて 朝倉和江

という句がある。朝倉和江さんは多分江戸時代の人であろう。

昨日敬老の日のお祝いとしてタオルを貰ったことを紹介したが、
今日の朝刊には、各自治体で敬老の日の祝い金を廃止していることが報じられていた。

一方では卸売市場を移転するだけで5000億以上を「浪費」している自治体もある。


適当にネット上で心当たりを検索。キンミズヒキのようである。
そういえば、そう教えてもらった記憶があるようなないような。

ハゼランが群れている空溝があった。

実になっているもの、実も落ちて枯穂になっているものを日常的にみかけるが、ここでは花も残っている。

実が赤いと、線香花火が爆ぜているように見える。

この夏は、アカバナユウゲショウをあまり見なかったように思う。

近隣公園の一角がさびしいほどにすっきりしていた

2箇所に袋が積み上げられていた。

公園の、運動グランドや砂場を除く部分の5分の1を草刈り落葉集めしただけでかなりの量になる。

公園のグリーンの部分の草刈りは明日以降の仕事となるのであろう。

厳格に観察しているわけではないが、ここの主役はメヒシバである。
例年だとヘラオオバコが目立つが、今年は、春先からヘラオオバコは脇役であった。


オオアレチノギクもメヒシバに日照権ないし根張り地を奪われたか、ノボロギクともどもあまり多くの株数はみられない。




中国街道

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中国街道の出発地(起点)は大阪高麗橋


大阪方面へいけば、蓬川(よもがわ)
神戸方面へ行けば琴浦神社がすぐである。
この銘鈑の背後は小学校

緑うっそうとした小学校である。

明治の創設かと思ったが、昭和28年だった。
旧の大庄村の地区である。

秋祭があるよう

家康の世よりの庄屋菖蒲園 澤村 啓子

濃山吹籬回らす大庄屋 高橋利雄

一面の嫁菜庄屋の屋敷跡 五十嵐みい

頑に庄屋の筆や毛見の帳 長谷川零余子

染飯の庄屋弁当菖蒲園 田中英子

初午や神宜に化けたる庄屋殿 也有

唐黍や庄屋が蔵の白い壁 寺田寅彦

歳饉ゑて庄屋が門の菊悲し 寺田寅彦

煙立つ庄屋も薬屋も雑煮かな 尾崎紅葉

近けば庄屋殿なり霧のあさ 夏目漱石 明治三十四年

時ぞ早苗庄屋の息子泥をふむ 露言 選集「板東太郎」

琴浦神社

潮汲み伝説;

私の「計算」では不可能。
毎日数石の塩水を京へ運ぶなんて。


神社の境内の端に

水準点とは?


水準点がその地域において行われる高さの測量の基準となるよう。
それは東京湾の水面の高さに合わせている。

この水準点がある境内の外の道路沿いにあるバス停には海抜-1.0メートルの表示あり。
水準点のある場所が、1m高いのか?そういえば境内をでる時、階段を数段降りたような気もする。


琴浦神社の東側

↑小学校とは思えない木立がみえる
↓その北側

尼崎市内だけで4か所位こんな天然温泉施設がある。
もっとあるかも。JR尼崎駅の南西にひとつ、東側大阪府との境に一つ、築地地区に公衆浴場施設として一つ。


南側には競艇場がある。


ボート小屋ボートとともに塗りかへぬ 加藤三七子

恋のボート父子のボート漕ぎかはし 富安風生

あひ触れしボートの舳先木下闇 行方克己 無言劇

秋めくや一つ出てゐる貸ボート 高橋悦男

ボート漕ぐをんなは艫の錘りとす 丸山海道

何に急く赤牛ボートより見えて 原 裕

ボート漕ぐ少年吾子の櫂かるし 清水基吉

凪ぐ風を起してボート潔し 栗田 直美

ボート今波新しくいでゆきし 長田 八重

死に体だぜ君らのボート秋潮に 夜基津吐虫

君ら漕ぐボートすべてが青の中 高桑弘夫

ボート・レース雲と谺と繋がりて 大島邦子

近景に私信の壜詰ボート・レース 森本青三呂

ボート・レース軍帽にみる五十年 五島エミ

直線の恋は水玉ボート・レース 杉浦はるか

何に急く赤牛ボートより見えて 原裕 『葦牙』

鴨泳ぐ家鴨ボートのあとさきを 高橋達子

秋晴の湖に漕ぎ出す貸ボート 川口 洋

夏果ての湖に一列空ボート 白鳥順子

ボート旗赤ければ空青く 竹下しづの女

ボートやうやくしげく出で初むる 中村汀女

ボートならぬに岩のかげに入る 山口波津女

ボート裏返す最後の一滴まで 山口誓子

岸草にボート鼻突き休みをり 高浜虚子

春水に浮べるボートおよそ百 宮下翠舟

葉桜や誰もゐぬ日の貸ボート 大森理恵

貸しボート草ひきずりて湖に出す 高道 章

ボートからボートヘ移るやうな恋 小林貴子

ボート漕ぐ恋のさ揺れをくり近し 飯田綾子

紺碧を切り裂いて行くボートかな 清水静子

繋留のボート逃げ出す春の星 清水緑子

ボート皆出払ひしみどりの日 富岡掬池路

ボートより手浸す青春永からむ 今村俊三

ボートにて細き靴脱ぎ愉しさ増す 蒲田陵塢

ボート漕ぐ男の顔に女の唄 谷野予志

灯のボート働き終へし恋ならむ 雨宮昌吉

ボート裏返す最後の一滴まで 山口誓子

ボートならぬに岩のかげに入る 山口波津女

ボートより菓子の袋を漂はす 横山白虹

ボートやうやくしげく出で初むる 中村汀女

ボート旗赤ければ空青く 竹下しづの女

ボート裏返す最後の一滴まで 山口誓子

ボート漕ぐ二人ふたりを疑はず 西村和子 かりそめならず

ボート漕ぎ出して非番のボーイらし 西村和子 夏帽子

死の灰や恋のボートの尻沈み 西東三鬼

ボート漕ぐ明き紅葉のもとが好き 高浜年尾

上汐や短き櫂の貸ボート 中村汀女

江上の燕は緩くボート迅し 高浜虚子

愛犬と文庫数冊ボートの荷 野路斉子

ボートに錠かけ夕桜とはなりぬ 澤村秀子

ゴールして流すボートや花の雨 河野真

ボート漕ぐ日本去る子へ母の日傘 羽部洞然

鐘鳴ればボート漕ぐ手をとめて祈る 田村了咲

夜の湖の静けさに漕ぐボートあり 藤松遊子

朝寒の疏水を下るボート哉 寺田寅彦

貸馬のひだるくゆくをボートより 辻桃子

ボート漕ぐ二人ふたりを疑はず 西村和子

陸にある秋のボートに乗つてみし 正木ゆう子

あひ触れしボートの舳先木下闇 行方克巳

木下闇離れて行きしボートかな 行方克巳

いつかうに足漕ぎボート進まざる 辻桃子

貸馬のひだるく行くをボートより 辻桃子

春しぐれまもなくやみしボート群れ 久保田万太郎 草の丈

避暑の娘に馬よボートよピンポンよ 稲畑汀子 汀子句集

ボートの腹真赤に塗るは愉快ならむ 西東三鬼

花合歓の下は漕がないでゐるボート 加倉井秋を

ボートより菓子の袋を漂はす 横山白虹


何句かは、ボートレースを詠っている。






オクラ

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1株だけ育てたオクラ。茄子が実を付けなくなっても着実に花を付け、
毎週1個実をつける


実を切り取った後が白く残るので、何本収穫したか数えることが出来る。
15個以上痕跡が残っている。

陸蓮根を今や蒔かなん母と子に

陸蓮根では例句なし。

オクラでも例句はないのではと思ったが、意外。

口中に粘るオクラは灯より受く 内野 修

オクラに糸すこし絡らまりまた口に 河野南畦

きりのない紛争またもオクラ噛む 柴田美代子

即身仏オクラの花の黄なるかな 小島千架子

厨楽しオクラきざめば青き星 大平芳江

口楽しオクラの種を噛むことも 中村文平

オクラ刻む音を弾ませみごもりし 根岸たけを

世を拗ねしごとくに曲るオクラかな 森野経子

オクラきざみゐてふりむけば億光年 熊谷愛子


建設

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9月5日

9月12日

関電の工事は、建設と無縁かも↑↓

9月13日

盛り砂に残る切麻赤のまま

さすがに幣の切れ端はもう残っていない。

白く見えるものが周囲にあるが、プラゴミである。

9月14日

あれ、また起工式かなんかやるのか?

記念写真撮る人はほかにも

どうやら建築主は、亡き夫婦の長男のお嫁さんらしい。

学年が同じであった今は亡き友人は、名古屋で聖堂を新築する時、毎日作業現場を撮影していたらしい。それからしばらくして柱穴などにタバコの吸い殻をなげこむだけでなく、空き缶なども捨てていたために生じた事故が報じられたが、同じようなことを目撃していた。
その話を聞いてもあまり気にしなかったが、事故の報道の後、毎日作業現場を見守ることのメリットを考えるようになった。


9月15日(今日)

毛氈のもとでセレモニーやったのかどうか不明。↑朝9時半。 打ち合わせやったのか?建設子会社と下請け業者とが。

かな~や緋の毛氈に茶をたまふ(九月廿日陽明文庫に折口信夫先生をむかへて) 『定本石橋秀野句文集』

毛氈の上に置かれて春火鉢 岩本栄子

山雀や舞台は敷きし緋毛氈 野村喜舟

氷水きて緋毛氈の端濡らす 石川桂郎

水仙や試筆のあとの緋毛氈 より入

毛氈に菜の花こぼししは誰 岡田史乃

水仙の国の海ゆく緋毛氈 兵頭幸久

涅槃会の僧を待ちゐる緋毛氈 吉野義子

毛氈の赤き座敷に種痘する 田中冬二 俳句拾遺

毛氈に菜の花こぼししは誰 岡田史乃

散り初めし花に毛氈濃かりけり 永井龍男

毛氈の褪せを親しく梅に居り 永井龍男

毛氈の緋のはなやぎや年忘 久保田万太郎 流寓抄


兵頭幸久さんとは、伊丹の句会で何回かお目にかかった。
やがて桂信子さんが独立、一誌を起こされ、編集者の仕事を引き受けていたと思うが、その後、その仕事を宇多喜代子さんが引き継がれたのであろうか、詳しいことは知らない。

幸久さんの句

来る妹もアレグロ稲の花盛り

は名句だと思う。

縄張り(というより紐張り)の確認、作業手順の確認か?

アレグロで検索
ピアノ曲雪はアレグロより速し 辻田克巳

1句のみ。幸久さんは句集を残されなかったか?

午後

午後にはテント等は片づけられていた。
なにしろ、玄関開けたら目の前が作業現場。
目が合うたびに挨拶される。
午後には公式挨拶もあった。

囲いの中で働く人のためのガイド・指針のよう。↑

ここでまた1週間ほど現場作業は無くなるよう。





ルコウソウ

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今が盛りなのか、ご近所の家の塀でルコウソウが花盛り。

ご近所と言えど、月に1,2度しか通らない道

近縁な種として、マルバルコウQuamoclit coccinea (L.) Moench)や、ルコウソウとマルバルコウの交配種に当たるハゴロモルコウソウQuamoclit x sloteri House.)などがある。ルコウソウと異なる点は花の色がオレンジ色に近いことと、葉の形状である。

また葉は、同属のマルバアサガオに似る。


上の解説(ウィキペディア)からすると、画像はマルバルコウかも。

「マルバルコウ」の画像を検索したら、




葉が本当に丸葉である。

ハゴロモルコウを検索

「ハゴロモルコウソウ」の画像検索結果
私が見た上3枚の画像は、ハゴロモルコウソウのようである。

刈草のそこだけ覚めし縷紅草 佐々木六戈 百韻反故 冬の皺

軽みとは哀しみのこと縷紅草 瀧 春一

かくれ蓑にものりうつり縷紅草 佐々 波二

紅涙をしぼりし恋や縷紅草 大井恒行

玉体の帰属観念縷紅草 田中信克

手に触れてくだける恋や縷紅草 牧 冬流

男言葉の少女らも良し縷紅草 水野真由美

縷紅草母訪えば我潤され 鈴木俊一

縷紅草和田芳恵亡き坂の家 石原八束 『藍微塵』

病人の汗は流れず縷紅草 石田波郷

数学の教師が咲かす縷紅草 町田敏子

羚羊のごとき少女や縷紅草 古賀まり子

子規墓に蒔かばやと思ふ縷紅草 高浜虚子

縷紅草垣にはづれて吹かれ居り 津田清子

縷紅草訪ひきし母の声の満つ 八木林之助

軽みとは哀しみのこと縷紅草 瀧 春一

縷紅草垣にはづれて吹かれ居り 津田清子

縷紅草訪ひきし母の声の満つ 八木林之助

縷紅草のくれなゐともる昼の闇 小金井欽二

縷紅草はられし糸にのぼりけり 中山従子

縷紅草のびては過去にこだはらず 中村秋一

明るさの静けさにある縷紅草 平柳青旦子

縷紅草垣にはづれて吹かれ居り 津田清子

相語る風雨のあとや縷紅草 久保ゐの吉

縷紅草石垣に垂れ小学校 古川芋蔓

縷紅草訪ひきし母の声の満つ 八木林之助

縷紅草垣にはづれて吹かれ居り 津田清子

死に神のかの指遺い縷紅草 増田まさみ

縷紅草和田芳恵亡き坂の家 石原八束 藍微塵

意外に多くの例句あり。

昨日

ワイフが月見団子を作った。

夜になってから公園へ行ったがススキが見つからなかったと

たしか1箇所にススキが育っていると思い、急いで、公園へ

しかし↑は萱で芒ではないという。
萱とススキは違うのか?
極めて基礎的なことが分かっていない。
ネット検索するも、上のような穂のものはススキと呼ばないのかどうか
よく分からない。確かに庄下川沿岸でも時々迷っているのは事実。



午後、伊丹へ、昆陽池

昆陽池の白鳥10態


紅葉

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紅葉のシーズンとはいえないが。

フーの木

昆陽池公園で↑
廊わたる尼袖あはせ若楓 飯田蛇笏

憂き顔の一休像や若楓 柊 愁生

弟子達の弓の稽古や若楓 中村吉右衛門

由良谷へ水はしり落つ若楓 羽田岳水

上に座す薬師如来や若楓 小田部 杏邨

若楓ひととき憩ふ寺の縁 林 瑠美

身のうちのストレス抜ける若楓 塙 きく

葉を重ね重ねて暮るる若楓 日野草城

若楓枝を平に打重ね 富安風生

苔青し更に影置く若楓 水原秋桜子

雨ふふむ葉の重みして若楓 原 石鼎

筝の前に人ゐずなりぬ若楓 高浜虚子

子を生みに子が来てゐるや若楓 安住 敦

若楓寺の普請の大足場 浅見まき子

四阿に日の影動く若楓 正岡子規

動くものみなやわらかし若楓 内藤雅子

膝の上京菓子となる若楓 中嶋秀子

差しのべし手に染むばかり若楓 小川濤美子

杉の間に一きはしるき若楓 臺 きくえ

叔母逝いてかるき悼みや若楓 飯田蛇笏

苔あをし更に影置く若楓 水原秋櫻子

若楓下枝夕づく蝶を垂る 木津柳芽

母の忌の雨うつくしき若楓 田中 美彦

木洩日を更にちらしぬ若楓 下村ひろし

若楓一茶の墓は背の高し 中山康子

若楓祖父と硯を並べけり 及川隆夫

多摩と甲斐分つ吊橋若楓 玉置石松子

子を産みに子が来てゐるや若楓 安住敦

生れてすぐ歩く鹿の子や若楓 吉田冬葉

若楓交み雀を滾しけり 石塚友二

若楓うつる岩越すまでの水 川本臥風

若楓枝を平らにうち重ね 富安風生

若楓影さす硯あらひけり 水原秋桜子

伯母逝いてかるき悼みや若楓 飯田蛇笏

腹に背に灸あと痒し若楓 悌二郎

葉を襲ね~て暮るゝ若楓 草城

若楓京に在ること二日かな 展宏

大原の昼くもりくる若楓 舟月

苔あをし更に影置く若楓 秋櫻子

雨ふゝむ葉の重みして若楓 石鼎

伯母逝いてかるき悼みや若楓 蛇笏

らんぎりのうてる間まつや若楓 万太郎

弟子達の弓の稽古や若楓 吉右衛門

筝の前に人ゐずなりぬ若楓 虚子

若楓石の凹みに水たまる 泗竹

四阿に日の影動く若楓 子規

若楓茶いろになるも一さかり 曲翠

弟子達の弓の稽古や若楓 中村吉右衛門

若楓囮の黐の雨ざらし 憂々

伯母逝いてかるき悼みや若楓 飯田蛇笏

公達の手習の間や若楓 涼菟

大原の昼くもりくる若楓 石原舟月

盤台に松魚生きたり若楓 正岡子規

若楓径をおほひて明るけれ 高浜年尾

箒目にあやまつ足や若楓 蕪村

御所車出してありけり若楓 野村泊月

若楓枝を平らにうち重ね 富安風生

尾長きていよゝたわゝの若楓 川端茅舎

若楓縁の障子を外しけり 佐藤紅緑

苔青し更に影置く若楓 水原秋桜子

まるき目の巣籠鳩や若楓 八木林之介 青霞集

松高し下に揺れ澄む若楓 久米正雄 返り花

神宜が子の鶏抱いて若楓 樗堂

日の力猶若楓かざすべし 尾崎紅葉

若楓水もしたたるあそびせむ 栗林千津

らんぎりのうてる間まつや若楓 久保田万太郎 草の丈

若楓昔の人はよき字書き 後藤比奈夫 初心

日蓮の歌にもみへず若楓 史邦 芭蕉庵小文庫

もの喰ひに茶莚借るや若楓 嵐竹 芭蕉庵小文庫

爪はづれ華奢に育つや若楓 遊女-好女 俳諧撰集玉藻集

馬にのる顔をりをりや若楓 卓袋 俳諧撰集「有磯海」

日蓮の哥にもみえず若楓 中村史邦

からびたる秋なりけるを若楓 服部嵐雪

伯母逝いてかるき悼みや若楓 飯田蛇笏

身を平ら梅雨とどめんと若楓 中村汀女

僧正の青きひとへや若楓 榎本其角

箒目にあやまつ足や若楓 蕪村遺稿 夏

三井寺や日は午にせまる若楓 蕪村 夏之部 ■ 圓位上人の所願にもそむきたる身のいとかなしきさま也

若楓煽られしどろもどろかな さざなみやつこ

からびたる秋なりけるを若楓 服部嵐雪

三井寺や日は午(ご)にせまる若楓 與謝蕪村

「靑楓」という語で検索したら、「楓」に変換されて多数の例句が登場。
「若楓」に変えて検索。


今日の新聞広告

数日前から各テレビニュースも取り上げていたが、今日がピーク


夕のテレビ画面 美作市海田とあったので、急いで撮影。
黒米レストランらしい

海田にこんなに人家があったかな?

昆陽池公園で


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