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イナカッフェ
Mrs K宅には、田舎ッフェと裏カッフェ、2つの接待所がある。
ほぼ毎日営業している気配である。
15日に訪問。本年3回目。
10人くらいはゆうに収容可能。常住家族だけでも、6人から7人に増加。
Mrs Kの次男夫婦も、ジョギングの途中で寄れる程度の距離に居住していてここも人口が、私が帰った翌日に一人増加で5人。これで12人。団子3兄弟を含む5人が加わると17人。
市報みまさかの次号以降で紹介されるのが楽しみ。
花は造花ではなく生花。アレンジメントもプロ級の腕前。
新生児は、私が祖父とする人物を5世の祖とする。私の伯父を高祖父とし、私の従兄姉を曽祖父母とする。
飲物も食べ物もほぼ自家製。
周りに並ぶガラス製品もほぼ美作産。というよりご近所で作られたもの。
- 美作の空を横切る火事の雲 赤尾兜子
- 美作や田の面をのぼる冬の霧 大谷あさ子
- 実柘榴や因幡美作国境 和田しずえ
- 美作の茶屋の麦飯三鬼の忌 大岩節子
- 美作は法然の国かすみ立つ 今川凍光
- 花木槿美作に来て汗白し 森澄雄
「美作」で検索したら、但馬美作という人の句が10句くらい登場。
私の俳句の師匠は伊丹三樹彦
三木で生まれて伊丹で育ったからこの俳号を選んだ。
但馬美作もそういう事情で生まれた俳号かも。
権大僧正
岡山県西粟倉村は、そこに私からみて「はとこ」の子が住職をしている岩倉寺があるというだけでしばしば訪れるところである。
私の母方の曽祖父母が住職さんと同じという関係である。母方祖母と前の住職がいとこであったという関係である。
西粟倉村の清流。
吉野川の源流のひとつである。西粟倉村の鳥取県境若杉渓谷に源流がある上梅里川の流れが吉野川に名を変えたばかりの流れである。
どういうわけか「いかりスーパー」が智頭にもできたようで、
このあたりでもスーパーいかりは有名である。
水量が圧倒的というほどではないが、あちらこちらから谷水が暗渠を通じて迸るように合流してくる。
岩倉寺で前の住職さんのお墓を初めて見た。
たまたまなくなった日にお寺にお邪魔した。7年前のことであることを確認。
権大僧正となっている。近くでみる墓所等では、住職さんの墓は一般の墓よりかなり豪華になっている。僧の階級はたいてい権小僧正など「小」が一般的なのに大僧正なのに驚く。
前の住職は敗戦の年になくなっているから、60年以上この寺を守られたことになる。
↑奥の院
墓地は奥の院と講堂との間にあるが、かなりの高低差がある。よってワイフと一緒の場合は、講堂へは車で移動する。
その道がまた怖い。
西粟倉村観光ガイド:
南北朝時代、正平年間(1346年~1370年)に赤松氏と山名氏との争いによって焼失したと言われ、一度再建された。元亀年間(1570年~1573年)に再び焼失し、現在のものは、天正年間(1573年~1592年)に再建されたものと言われている。 2月の第2土曜日には岡山県でも今は珍しくなった裸祭があり、そんな以外の男たちが神木を奪い合う様子は圧巻で西粟倉の冬の名物となっています。
現在300有余年ぶりに、鋭意再建中である。あとは本堂のみとなった。「そんな以外」はもちろん「村内外」の誤植である。
一番下に本堂。建築中。
↑高野槙
庭園
(いつもながらの)にわか勉強で、安土桃山時代の庭園様式や、代表庭園を検索してみたが、
岡山県の東端にある蓮花寺を挙げるHP等には出会わなかった。
土居の宿場跡を出て、佐用インターに向かう途中で、蓮花寺の案内表示を見て、杉坂峠へ向かう道に乗り入れた。
本堂前は意外に狭隘である。
本堂横の回廊をくぐるようなかたちで庭が設営されている。
ガイドも予習もないので何処を見たらいいかわからない。
豪快な石組みが枯山水につながるのか?
かなり狭苦しい空間である。池泉あれど、回遊はできない。
車中待機。
美作土居
JR美作土居駅に関するウィキさんの解説:
美作土居駅(みまさかどいえき)は、岡山県美作市土居にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)姫新線の駅である。
当駅から津山方面は岡山支社の管轄となる(隣の上月駅より姫路方面は神戸支社姫路鉄道部が管轄しており、県境をまたぐ万ノ峠トンネルの姫路方出入口付近に境界標が立っている。しかし、津山方面から来る大半の列車は上月駅から一つ先の佐用駅まで運行される)。
一日の乗客は1999年で70人、2014年で30人。(乗降客数はこの2倍)15年間に6割減少した。
1936年営業開始とのこと。私の母は隣の駅美作江見駅から徒歩圏内で生まれ、12歳で大阪へ修行に出た。和服専門学校で7年修行し、通常より早く「免許皆伝」、三越の仕事をやっていた。
(縁は異なもの! 当時「専門学校」なる制度があったかどうかは別にして、私の就職先の、同一部署の一年先輩の同僚の母が、私の母と同級生であったことが分かった。)
ということは、母が里から大阪へ出た時に利用した交通機関はJR姫新線ではなかったらしい。
亡くなった父方従兄の話では、私の父方祖母は遠出の時は、近所の同姓の人を雇って、山陽本線の上郡駅まで人力車で行っていたとか、その時の支払いが50銭、帰りも迎えを頼み往復1円支払っていたとか。(どうやって迎えを頼むのであろう。行きの下輪時に、帰りは明日の何時何分着の汽車を利用すると言っておくのであろうか)
卒業証書だったか資格認定証書だったか、探してみたが見つからなかった。
代りに見つけた写真
↑日付は写真を写真に撮った日(今日)であって、この人々が集った日ではない。
私の従姉・従兄たちとその配偶者の子や孫が写っている。
撮影場所は紛れもない。背後の金木犀は今も健在。
土居宿は、佐用の平福や美作の大原宿ほど知られていない。よって観光客も来ない。
街道に面して山側と川側との間に人家が展開している。管理しやすい区域であったよう。
今は標識だけがある。
「出雲街道」の例句はないよう。
本陣跡の標識以外植田風
しいさんとやまぐちさん以外の顔をあまりみない兵庫8区の住民に、
ひらぬまさんはそこが岡山であることを教えてくれる。
アガパンサス
アガパンサスが咲き揃ってきた。
そういえば、台北近郊ではクロトンやサンセベリアが街路樹扱いを受けていたことも思い出す。
アガパンサスの背伸びの揃い川の風
アガパンサスと名が似ているが、アカンサスという花がある。ギリシャの国花である。
でかい株なので、我が家の庭では育成不可能。
↑Mrs K 's のURACAFEに何株も育っている。
衆愚制に勝るものなしアカンサス
とはいえ、Kは嫌い、しかしTはもっと嫌い。Tは好きではないが、Kも好きにはなれないという中での2者択一を迫られる国民や、
仲間外れも嫌だが、仲間でいるのもつらいなかで、リーブかリメインかの意思表示を明後日に示さなければならない国民は、つくづく衆愚制の維持に困惑しているであろう。
そんな場合は、どこかの情報管理社会の現況を思うべし。
アガパンサスの例句みつからず、
アカンサスでは、
アカンサス穂に出づ吾子よ職に慣れよ 藤浦道代
の一句。
近くの川のほとりに梅の木と桃の木が育って、川面に枝を伸ばしている。
ハタンキョウの感じになっている。うまそうだ。
でもここまで熟すと梅干しには出来ないかも。
七夕
ナンキンハゼ
奈良公園の紅葉は主にナンキンハゼである。
でも俳人は「櫨紅葉」として詠っているはず。
奈良公園のナンキンハゼ紅葉を詠った句を1句だけ見つけた。
御物展南京櫨のいろづけば 大島民郎
ナンキンハゼ(南京櫨・南京黄櫨、学名: Triadica sebifera)は、トウダイグサ科ナンキンハゼ属の落葉高木である。以前はシラキ属に分類され、Sapium sebiferum の学名で呼ばれていた。種小名の sebifera は「脂肪のある」の意[2]。別名、トウハゼ、カンテラギ。中国名烏桕〔木偏に臼〕、烏臼、烏臼木[3]。
ウィキペディアは花期を5~6月としている。公園のナンキンハゼは今が満開である。
他のHPを見ると、花期は6~7月となっていたので少し安心。
南京櫨の実は冬場の鵯の餌であるが、
花盛りを意識して見るのは初めてのような気がする。
初蝉を聞きに近隣公園へ出かけて撮影。
他の画像も紹介したいが、
カメラの設定を初期化したら、画像がすべて5MB以上のサイズとなり、
リサイズするのに時間がかかり、UP制限時間に間に合わない。
岡田邸
↑家からの徒歩圏内ではこのナンキンハゼが一番目立つ。場所も人目につくところにあり、
幹ぶり、枝ぶりも立派で秋冬の実成りも見事。
小雨の中を伊丹郷町の柿衛文庫の芭蕉展を鑑賞。
文庫の庭↓
文庫と、旧岡田邸はつながっている。というより岡田邸の中に文庫が作られたのであろう。
手前は石橋邸で、奥が岡田邸
岡田邸は国指定、石橋邸は県指定の文化財。
↑旅館もおおむねこんな感じである。
大奥にお泊りのお殿様がトイレだというと、
次々に襖をくって下々の布団の間を練っていったか、
あるいは障子を開けて廊下へ出られたのであろうか?
例句を見ても分かる通り、障子だけで季語となる。
例句多し。
ホテル
阪急三田ホテルという名のホテルがあることは知ってたが、出かけたのは初めて。
我が家からは中国道神戸三田インター経由で行くのが一番早いよう。34キロ。
↓のアプローチは、梅田阪急ホテルとそっくり。あるいは千里阪急ホテルとも似ている。
今は、経営主体は阪急ではなく、オリックスのよう。
その分、野暮化が進んでいたというとお叱りを受けるかも。
目の前はイオンなどの郊外型大型店が並ぶが、背後からは緑豊かな田園都市が近望できる。
例によって料理が出ている間は食べるのに熱中。デザートに至り、慌てて一枚。
昨日、いつもよりやや遅れて薪能の案内が届いた。ワイフに。
句はワイフの作品。
カンナ
カンナが一般個人住宅の庭から消えた理由:
広い場所を取る。
切り花にならない。
色・形の変化に乏しい。
他に育てたい花がいっぱい増えた。
水やりの心配もなく虫もつかないから管理の腕を振るいようがない。
立葵や芙蓉なども同じ特性を持っているかも。
三橋鷹女がカンナの句を多く作っている。
私も黄のカンナを詠った記憶がある。休み窯の傍らのカンナを詠ったが思い出せない。
↑7月9日の近隣公園。
その前の日に覗いたら塵一つなく、箒目が残っていた。
蝉が煩くなるころは、散歩する人も減る。
公衆トイレの屋上がボランティア花壇になっている。世話する人もあまり近寄らないような気がする。
何気なく傍を通り過ぎていたが、立派な実である。
林檎に見える。
公園の北側に余り大きくない株が10ほど植えられている。
茗荷の子
昼食を一人で自宅で摂る機会が増えた。
今日はワイフが冷蔵庫に手作りのソーメン出汁を冷やしているという情報を残して外出したので、二束茹でた。
ソーメンを食べ終わってから、そろそろ茗荷が出来るころではないかと何気なく、窓の外を見たら、茗荷の子が花になってゆくのが目に入った。
ムヒ塗った。
1週間ほど前に茗荷林の中を覗いた時にはまだ芽を出していなかったのに、数日前が収穫適期であったよう。
ついでに茄子も収穫。6本。茄子はこのあたりで限界のよう。
16本収穫したが、苗札に描かれていたような立派な濃紺の中長茄子は一本も採れなかった。
子規庵で入手した鶏頭。昨年は種子の数がすくなかったので、
まさに14,5本しか育たなかったが、今年は
小袋に入れて周囲に配りまくってもまだかなりの量の種が残り、
おおきめのプランターに撒いたらこれまた大量の苗が芽吹き
1プランター4,5株植では処理しきれず、
いまだにビニールポットのままのものも多数残っている。
子規庵で育った鶏頭だから、明治鶏頭である。
鶏冠になっているものもあるが、おおむね槍状である。
「子規 鶏頭」で検索。
同じ句が何度も登場するが省略せずに紹介。
. 同郷の波郷鶏頭子規鶏頭 百合山羽公
ムギワラトンボ
市の郷土史研究会の会長さんから留守電あり。
また新しい調査資料が出来上がったよう。
こつこつと地道に成果を上げていかれるよう。敬服。
明日は電話して、こちらから贈呈分を頂戴に伺う予定。
幹を切ったキダチダチュラから新しい芽が出て大きな葉を増やしている。
こぼれ種のフウセンカズラが芽吹いて蔓を伸ばしている。
木の鉢に植えこんだ鶏頭がひょろひょろと伸びている。
そのまた横では、吉祥草の鉢からこんにゃくが伸びている。
その鶏頭の穂先
トンボが止まっている。幼いころに、シオカラトンボの雌と覚えた。
網で追っても、シオカラトンボの雄は動きが敏捷で、なかなか採ることが出来なかった。
トンボを見つけて、急いでカメラを持ちだし、焦点を合わせる。
その間、ムギワラトンボとも呼ばれるこちらの雌は待っていてくれる。
ホバリング。
このあたりのやぶ蚊を大食してくれることを期待。
赤とんぼ、川蜻蛉、塩辛蜻蛉、糸蜻蛉は登場、麦わらトンボの例句なし。
ホバリング
朝、市の郷土史研究会の会長さん宅へ電話。
すぐに来られて、かつて頂いた「市内の道しるべ」に私が記した
誤記、脱字等の書入れメモを写して帰られた。
その時に、「新刊の」「市内」『小田地域の石造物』Ⅱ、Ⅲをいただいた。
主なものは、このブログでも紹介したが、
悉皆的であろうとするものである。
午後、
神戸句会参加
雨上がり麦藁蜻蛉のホバリング
他の3句は
若い母の痩身願望星祭
鉄瓶のような漢と蛍狩る
鶺鴒の寄ってくるほど固い意志
他にも
塩辛蜻蛉を舐めた奴が居るという
豊年海老の水を入れ替え宿場町
といった句を用意していたが出さなかった。
選句した句の中では
梅雨寒のとくに燐寸をする匂い
がいいと思ったが、帰宅後ワイフに見せると、よくある句材だと一蹴された。
同じ作者の
黒南風やペンキの匂いすれ違う
もいただいた。
句会場(勤労会館3階)からの風景
中央区役所のビルとツインになっている。
最寄り駅に戻ってから、帰路、また新しい建築計画板を「発見」
奇妙な計画である↓
地下11階(日本に他に存在するか?!)
巴里祭
毎日のように世界のどこかでテロが発生している。
昨日は、巴里祭当日のニースで。
速報を見て、BBCにテレビ画面を切り替えるとNiceという地名が出ていた。
ニースである。並んで、バスチューユ(綴りを再現できない)dayという文字も。
今日の日本語放送ではフランス革命記念日という字幕が出ていた。
昨日の夕刻、句会の後で最近は「巴里祭」という表現は使わなくなったということが話題になった。
トルコ政府から抗議があった「トルコ風呂」のような事例ではないようだ。
巴里祭で検索したら、昨日公表されたばかりの例句集http://www.haisi.com/saijiki/parisai.htmが登場した。
一覧の表がエクセル表示えあったためかどうか、4万字の制限をこえたためにUPできず、削除した。
ために以下の文との続きが悪いが、そのまま残した。
この例句集が、対象をどのように選んでいるかなどは知らないが、
ホトトギスから船団まで幅広い結社句会で、「巴里祭」は詠われ続けているようである。
放送倫理などには抵触しないのであろう。
ブログ倫理上、下段にあった送信欄でその旨断りを書いて「送信」を押したが機能しなかった。
汝が胸の谷間の汗や巴里祭
1960年代の句である。私が暗唱できるただ一つの巴里祭の句である。作者は楠本憲吉。
季語重なりという人がいるかも。
「巴里祭」が季語として定着する以前の句とみたいし、
私は、汗やハンカチや「花」などは、
他により強い季語がない場合のみ、季語となるものと思っている。
上の一覧に廣太郎の句があるが、
ホトトギスは巴里祭を季語としていないので、
廣太郎の句の季語は「鵜飼」である。
一覧を削除したので、廣太郎の句も消えてしまった。
句は、
巴里祭や鵜飼の余韻持ち寄りて
2011年7月号のホトトギスに掲載のもの。
いつも利用している「俳句検索」は2003年までに公表されたものしか
採録していない。
昨日の句会では、
首のないマネカン華やぐ巴里祭
という句が出ていた。
テロ続く茄子を二株切りもどし
17個目、18個目を収穫後、「茄子 切り戻し」で検索学習後
↑画像に撮った後、さらに切り込んだ。
↑門前へだそうかどうか迷っているオクラ。
玄関の戸口前へ侵出の鉢物。置く場所がない。
日があまり当たらないので、ベゴニアにはいいと思っている。
川床
昼間だったので、川床の席には着けなかったらしい。
7月半ば、晴れの午後1時過ぎの京都三条の川べりも川床にも人はいないはず。
しかし今日は川床も屋上ガーデンも満席。
先斗町にも外国人経営のイタリアンの店ができている。
歩いている人も白人やラテン系の若者が目立つ。
例句はそうなる前の先斗町を詠っている。
先斗町の中を、川床席を持っている店を順次覗くも、何処も満席。
何軒目かに川床のしかも賀茂川べりの一等席が空いている店をみつける。かなり予算オーバーのメニューだったが靴を脱ぐ。
川べりに屯してる外国人が結構増えている。
上階はべんがら壁 いい雰囲気である。
前菜はごま豆腐。残った、わさびとトビッコらしい調味料とだし汁も椀ごと飲み干していると次の膳が来て「ありがとうございます」と礼を言われる。
2の膳
だんだん暗くなっていって、隣の空いていた席に外国人夫婦と1歳未満の赤子が着席。
はいはいでワイフのところへやってきた子がワイフから離れなくなった・
まだ髪も生えそろっていないが、きれいな金髪である。
松江の方を回って今日で日本滞在6日目のスウェーデン人親子であった。
そのスエーデン人夫婦がこのブログに到達できる可能性は多分0.
宵山
「川床」の読みについて:
昨夜のブログタイトルは意識しないまま「ゆか」という音のつもりで
「川床」と書いている。
俳諧歳時記では、
「川床」に、「かはゆか」とルビが振られ、四条河原の涼み台という解説がついている。
関連季語として 「床」(ゆか)と「床涼み」が採録されている。
川床に憎き法師の立居かな 蕪村
などは明らかに「かわゆか」と読ませている。
「実作 注意」があり、「京にては必ず「ゆか」と称するなり」とある。
現在のホトトギス歳時記では、
「川床」に「ゆか」というルビが振られ、関連季語として、「床涼み」と「川床」((かわどこ)というルビ付き)が出ている。
広辞苑では「かわゆか」で「川床」が登場。「ゆか」では、京都の涼み台の意味での「川床」は登場しない。
現在の俳句界では、「川床料理」はゆかりょうり以外の読みは許されない(ハズ)
しかし以上のような記述を元に、俳句実作で「川床」を
かわどこと読め、かわゆかと読め、あるいは2音でゆかと読んでくれ
といってもどれもダメとはいえないよう。
今日が山鉾巡行前半の本番
画像は今朝のテレビ(京都テレビ)画面
ワイフは今年は、宵宵宵山と宵山に出かけたので、今年は
テレビ桟敷。蘊蓄を聞かせられる。
夕刻5時過ぎから、歩行者天国へ転換する6時過ぎまで
長刀鉾から月鉾のあたりまでの最も混雑地域を歩いていた。
↑長刀鉾
当然ながらワイフを何度も見失う。
その度にラインで所在確認。
暴走トラックとて、入り込む隙間はない。
最終便の市バスが四条通りを何とか6時までに抜けようと必死ののろのろ。
↑歩行者天国になる前の雑踏。15分前。
↓歩行者天国になった後。
京阪4条の方から大群衆が押し寄せる
小田会
尼崎市内にはいくつもの地下道がある。
阪急電車、JR,阪神電車の線路を潜るものだから、南北道が多いが、
直線でないものも多い。
地上に踏切道がない場合だと、毎日ここを朝夕潜らなければならない人も多いが、
昼間は余り人が通らない。
この地下道は、JR尼崎駅の東側500メートルほどのところに設置されている。
長洲線と言う幹線道路がJR線の下を潜って南へ通じているがこのあたりから南は工場地帯である。
かつては平面交差していたのかもしれない。
JR尼崎駅の東側は、1916年に尼崎市が誕生したときは、まだ隣村であった。
小田村。
1917年に制定された尼崎市の市章 と 小田村が尼崎市に編入された後の市章
右側の黒丸が小田村を示している。(左側は同時に編入された大庄村)
↑地下道の南側にはヤンマーが見える。
尼崎のサッカーの聖地であるサッカー場を併設している。
ヤンマーの工場の横が、確かグリコの本社工場である。
北側はクボタ。
どちらも大工場である。
こちらは大学生の時に工場見学をした思い出がある。
オートメーションで製作された耕運機がベルト状をゆっくり前進してくる。
それが木枠に収まると、上から覆い蓋が降ろされる。
待ち構えていた作業員が、口に釘を含んで、ものすごいスピードで、
覆い蓋の4隅に釘を打ち付けてゆく。
今ではその様な作業もすべてロボットがやるのだろう。
松下の電池工場では、同じように2列縦隊で出てくる電池を中学を出たばかりと見える女の子が小さな手で6本ずつ12本を箱詰めにしていた。
その横の作業員が、箱に一枚説明書を入れて箱を封印してゆく。
まさにチャップリンの映画の世界だった。
地下道の両側の壁は、多くの場合付近の学校の生徒の作品が並ぶ。
作品を持ち込むのではなく、直接壁に描いてゆくのである。
小田地区石造品調査報告書に小田村役場(現小田支所)敷地内に設置のものが3点記載されている。
小田支所は、この地下道をくぐって、JR尼崎駅の南出口を目指せばそう遠くない。
まさにその通りである。彼しかそうは詠えない。
JR尼崎駅の北側、東側は遊歩道になっている。報告書には記載されていないが、
この緑地帯の中に小田会が寄贈した作品が設置されている。
・
蓮
ロベリア・スペキオサ
蓮は残花
萼は登録されていない漢字ゆえ、例句を探せなかった。
蓮だけなら例句多い。
蓮の実で検索
昨日紹介した地下道の表示
地下道の標示は分かるとして、その上の「尼崎ーM 兵庫県ー312」は何を意味するのか?
毎日のように利用する地下道
完全な地下道とはいえない。見ようと思えば空が見える。
ここは水没したことがあるので、水深を示す表が付け加わった。その後に、標識が統一されたよう。
アルストロメリア
アルストロメリア属 (Alstroemeria) は、単子葉植物の属の一つ。別名ユリズイセン属。
分類体系により所属する科は異なり、新エングラー体系ではヒガンバナ科、クロンキスト体系ではユリ科、APG分類体系ではユリズイセン科(アルストロメリア科)に分類される。
本属は南アメリカ原産で約50種が知られる。いずれもアンデス山脈の寒冷地に自生する。1753年、南米を旅行中だったカール・フォン・リンネ自らが種を採集した。リンネは親友のスウェーデンの男爵クラース・アルストレーマーの名にちなんで花に名を残した。
1926年(大正15年)に、日本に渡来した。
4-7月にかけて花が咲く。花持ちが長い。
分類体系の違いなどは、まだ勉強しようとも思っていない。
1920年代半ばに日本に到来したわりには、一般には知られていない(と思う)。
もちろん歳時記には載っていない。
俳諧歳時記編集時には未だ日本に導入されていない。
しかしここ数年、家庭花壇でもみかけるようになった。
今日見たアルストロメリア
富松神社へ薪能の案内パンフを貰いに行った。
ついでに本堂修復基金(社殿造営50周年記念事業)に1口参加。
神社仏閣への寄進はしない方針だが、文化財保護へ協力したつもり。
↑の道が津門中道(北の西国街道、南の中国街道の間で、京、大坂方面から西宮・神戸へつながる街道)だと私は思っている。
燈籠は安政年間の建立である。
そこから西へ富松神社の参道が伸びている。
この辺りまで昆陽寺の領地であったらしい。
後では、この句、蕪村の句として登場!
蕪村の時代にはすでに「初恋」という言葉があった!
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