Quantcast
Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
Viewing all 2577 articles
Browse latest View live

グリコ

$
0
0

今日の散歩コースは、心斎橋→道頓堀→なんばと決めて
最寄り駅へ。
13歳児はsuica定期を持っているというので、まずは改札口を通ってもらう。
無事通過。
suicaはpitapa(主に関西圏私鉄地下鉄自動改札システム)に対応していることを確認。
7歳児用に、プリペイのラガールカードを購入。
一度切符をなくして難渋した経験があるらしく、改札口の出入りの度にカードを預かる。


大丸の地上階へ出てきて、右へいくべきか左かが分からない。
13歳児にスマホのマップ検索を頼む。
ワイフの方は人に尋ねにでかける。
問うべき人を探している最中に、(たぶん)中国人に(たぶん)大丸の位置を尋ねられたらしい。
目の前だったので、指で指し示したら、(たぶん)「謝謝」と礼を言われたとか。

さらに大胆に人を遠のけて

いたるところでこのかっこうをして自撮り棒が動いている。
外国語の観光案内で、ここではこの格好をして記念写真を撮るべしと記されているのであろう。
そんな観光客を見ようと、日本人もいっぱいやってくる。
われわれ一行もその一部である。

今年上野公園の桜の下で茣蓙を敷いている者の、8割が外国人だという話を聞いた。

それほどでもないが、確かにこの界隈、大阪へ来た外国人観光客が
かならず訪れる場所になっているよう。
駄菓子を売っている店で買い物をしたが、店内案内をしている店員はかなりあやしい日本語を使っていた。
ほぼすべての店が免税店だが、その全ての店で韓国人や中国人が働いているのであろう。


昼食は、二度漬け禁止店にするつもりと、ラインに公表したら、7歳児の母から
激しい抗議。
ならば金龍にするかホウライにするか、カニ道楽かずぼらやか

夫婦してラーメンすする労働祭 坂本登美子

ラーメンの縮れさみしき十二月 篠塚千恵美

ラーメンに星降る夜の高円寺 清水哲男(1938-)

膝の荷が卓押す梅雨のラーメン屋 岡本眸


東風吹いて屋台の金龍今はなし
花散って爆買客の減りしよう
ムスリムが素通りする店花の風

河豚の例句は多い。300句近く。

河豚宿に八犬傳の揃へあり(席題「犬」と「河豚」) 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨

河豚鰭を干して薄日の寸移り 行方克己 昆虫記

花びらのごとく河豚貼る伊万里皿 首藤勝二

水揚げの河豚に鳴く声ありにけり 児玉輝代

河豚を食べ過ぎたる人の顔となる 後藤比奈夫

女将の哀歌河豚の花びら灯に透いて 原子公平

河豚食つてをり大潮に逢ひてをり 広瀬直人

河豚食ひし顔を中洲の橋の上 有馬朗人

河豚の皿燈下に何も残らざる 橋本多佳子

月星の相触るる夜の河豚づくし 能村登四郎

闇汁に河豚を入れたること言はず 小田実希次

河豚宿の古き柱を背にしたる 三村純也

河豚宿の三階に聞く雨静か 辻本斐山

河豚鍋や平家亡びし汐を見て 筑紫太郎

河豚鍋や悪女ほど夜は美しき 生島五郎

河豚汁や風をさまりし波の音 山田春生

河豚指南鰭酒指南かたじけな 小澤 實

朝網の河豚三宝に先帝祭 大坪文子

先帝祭針千河豚もおちようちん 百合山羽公

これよりの玄海荒れて河豚の旬 是木 二楽

大輪の河豚の刺身の美しく 豊東 蘇人

河豚汁にあたたまりもし灘泊り 山田 月家

河豚宿の灯れば川も灯りし 塩月 能子

河豚ばかり釣れてぶつぶつ根釣かな 谷口 三居

放生のしばらく浮きし膨れ河豚 山内 一甫

河豚たべし夜はそよそよとマチ歩く 橋田サカエ

河豚を食べ過ぎたる人の顔となる 後藤比奈夫

鰭酒やひかれる河豚を水槽に 森山夕樹

寒波来る虎河豚は斑を誇りとし 鈴木真砂女

冷えきりし旅の顔もて河豚を見る 細川加賀 『生身魂』

河豚鍋や嘘美しく老いし膝 小林康治 『叢林』

河豚さしの甘さが酒を深うせり 上村占魚 『玄妙』

河豚さしの花の大輪はがし食ふ 上村占魚 『石の犬』

怒る前の河豚の顔とはこんなもの 大木あまり 火球

河豚喰ふや伊万里の皿の菊模様 水原秋桜子

大皿の模様の透けり河豚刺身 塙 きく

捨てられ河豚けもののごとく目つぶれり 山口草堂

朝の海捨てられて河豚滴れる 原 裕

河豚の血のしばし流水にまじらざる 橋本多佳子

河豚さしを絵皿の花鳥より剥がす 吉屋信子

河豚の鰭は東西南北に 森田 峠

海峡に髪逆立てて釣るは河豚 西東三鬼

釣りあげし河豚の仏相涅槃西風 井沢正江

ぽんぽんに脹らめる河豚初市に 柳澤和子

毒舌の鋭さ増せり河豚酒 福田貴志

糶り負けし河豚を跨いで去りにけり 吉田輝二

遠慮しながら河豚刺を平らげる 玉木克子

河豚煮るやひとり呟く愛憎言 石田波郷

河豚鍋でも何でもついて来る女 森田 峠

河豚鍋や愛憎の憎煮えたぎり 西東三鬼

初糶や跳ねては河豚の高値呼ぶ 木屋四風子

人情を卑しみひとり河豚を食ふ 瀧 春一

河豚食ふや伊万里の皿の菊模様 水原秋櫻子

河豚煮るやひとり呟く愛憎言 石田 波郷

河豚のはだらの黄色夢に来し 軽部烏頭子

河豚食つて仲見世の灯に紛れけり 望月たかし

捨魚籠に外道の河豚の啼きにけり 白岩 三郎

河豚食うていのちすこしく愛でにけり 根岸 善雄

河豚を煮て生涯愚妻たらむかな 石田あき子

河豚鍋や水面のネオン雨に痩せ 石川 桂郎

河豚裂きし腕さし出だす献血車 壺井 久子

百枚の河豚の鰭干す銀座裏 白井新一

河豚の白々として夜の生簀 小林葭竹

荒星と吹かるる河豚の一夜干 片田 千鶴

河豚の糶値低しと膨れけり 藤村素月

よく晴れて河豚の痺れはなかりけり 仙田洋子 雲は王冠

かくも長き二十世紀や河豚吊るす 仙田洋子 雲は王冠

まくらがりなる河豚宿の鼾かな 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨

河豚宿にめざめてみれば只の人 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨

河豚宿の小犬が噛んでゐる毛布 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨

河豚食べて粗悪な鏡の前通る 横山房子

河豚の血のしばし流水にまじらざる 橋本多佳子

河豚煮るやひとり呟く愛憎言 石田波郷

河豚の箱かたむけて泳ぎけり 細見しゆこう

捨てられ河豚けもののごとく目つぶれり 山口草堂

河豚に死にし噂の人に逢ひにけり 関谷嘶風

沖遠し青年が釣り河豚啼けり 西東三鬼

河豚食ふや伊万里の皿の菊模様 水原秋桜子

河豚のぐにやぐにやとして怒りきれず 加藤楸邨

河豚の面湧いて思ひ出かきみだれ 加藤楸邨

河豚食うてぐわらぐわら腹の鳴る夜かな 五百木飄亭

河豚汁や今宵は乳も濃くあらむ 赤松[ケイ]子

河豚汁や逢ふ瀬を稼ぐごとくなり 小林康治

河豚鍋や返しもならぬ人生事 安住敦

河豚鍋や愛憎の憎煮えたぎり 西東三鬼

河豚汁毀誉褒貶に生きながら 滝井孝作

手を打つて死神笑ふ河豚汁 矢田挿雲

冬凪に冥き沖あり河豚干さる 高本松栄

大皿にくくと鳴くあり河豚供養 赤松[ケイ]子

河豚供養浪にとどかぬ雪ふれり 村田黒潮

供養河豚跳ねて読経の席和む 山口富美

散華して南無河豚仏と供養する 水原秋桜子

巡業の力士迎へぬ河豚供養 名和三幹竹

河豚供養蜆を撒いて了りけり 宮下翠舟

河豚雑炊あつしあつしとめでて吹く 秋櫻子

河豚は毒捨てられ吾は毒のまま 潤子

河豚ばかり釣れてさびしき島の西 茂

息つめて西方を向く赤目河豚 広治




その都度参加者から異議あり。

結局、なんばまで歩いて、平凡に高島屋の8階

8階は屋上庭園になっていたのが、わたしにとっては救い。

夜 ハンバーグ







花筵

$
0
0

あっという間に花見客が集まり始めた

標準木の下に花筵。
標準木自体は一分咲き程度だが、3分、4分咲きの木も数本。
この公園のこの一角にはソメイヨシノだけが20数本。

公園へ行く前にコンビニによって、お結びを1000円分用意。
そのまた途中で、コンビニより安い自販機でペッとボトルを3本。
あとから一人参加者はペットボトル持参。
そのまたあとからアイスの差し入れ者もうひとり参加。
でも1シート5人は少ない方。



「花筵」の例句、平明で、花筵敷いたことがあり、座った経験ある人なら即理解出来る句が多い。
我が結社の吟行句会でも↓のような句は確実に高点句になる。
よって今では結社間の句の評価には大きな差はなくなっている。
しかし私にはトリビアルな感じがする。
少しの意外性が欲しい。

走り根に酒仙を分かつ花筵 中原道夫

花筵敷き捨てにせし人やいま 中原道夫

花筵端の暗さを重ねあふ 能村研三

凸凹の坐りごこちの花筵 岸田稚魚 『花盗人』

花筵まつさをにしてくちやくちやに 大木あまり 火球

どこからも出入りできて花筵 荒井英子

離乳食たべさせてゐる花筵 中村和子

引ずつて位置を正せる花筵 山崎ひさを

花筵ふいに淋しき風の中 林 青峰

座をつめてまた座をつめて花筵 石川天虫

太陽に湯気あげてゐる花筵 浜渦美好

一枚はお遍路さんの花筵 南冨美子

花筵ただしく敷けば墓に当る 大牧広

以下の3句などは私も愛用、常用するレトリックだが、平明であることに変わりはない。


花筵野党与党の村議ゐて 井村順子

ユダ一人ゐる筈なれど花筵 伊藤稔代

亡き人のひとり加はる花筵 ほんだゆき





今年も参加するつもりの先祖祭(若宮さん)などは
まさに同姓ばかりの集まりだから名を呼ぶか屋号を呼ぶしかない。


屋号にて呼ばれ座に付く花筵 犬束 孤憧



島の丘に瀬戸の海凪ぎ花筵 中川康子

反り合はぬ叔父貴がひとり花筵 橋本榮治 逆旅

水飯のこぼれてしろし花筵 田中冬二

萍草を吹きあつめてや花筵 蕪村
上の句などは「花筏」の方があっている。

押し出され踊らされをり花筵 清崎敏郎

盃を天に飛ばして花筵 上野泰

花筵引きずつてきし水邊かな 野村泊月

花筵往生際の話など 塚本忠

そくそくと夫あるごとし花筵 小坂順子


花筵この世の隅に拡げける 石飛如翠

水飯のこぼれてしろし花筵 田中冬二

科挙などの無き世を遊び花筵 鳥居おさむ

薄暮まで地の花筵女充つ 飯田龍太

立ち上がるとき窪ませて花筵 八木澤高原

花筵しくや落花の吹き過ぎし 高野素十

花筵よそにかゝはりなく和して 星野立子

白山の神降臨の花筵 近藤一鴻

風立つや坐り直して花筵 岸田稚魚

恋の唄水洟すすり花筵織る 小原菁々子

水飯のこぼれてしろし花筵 田中冬二 行人

花筵青洟垂るる子がひとり 辻桃子

片尻は岩にかけけり花筵 丈草 俳諧撰集「有磯海」

6組40人ほどがシートを敷いている。

午後2時に引き上げ。
夕刻私一人で夕桜撮りにきたら
昼間のシートはひとつまだ残っていた。↑の筵。

↓の画像にも写っている。

一日でかなり咲き進んだと思う。

7歳児は3時半頃ヴァイオリンのレッスン日で、一時退場。この日は家に戻って寝る予定であったが、ダダこねて、6時過ぎに我が家にまいもどり。
13歳児は、その間に、大ババの住む介護付きマンションへ土産物を届けに。
全員再集合後、いつもの台湾料理の店が、厨房器具故障のため臨時休業のなので、いかりスーパー階上の中華料理店「愛蓮」へ。

どういうわけかよく空いていた。どういうわけか今日も私が7歳児のメインをほとんど代食。



記念日

$
0
0

初産は時の記念日花あやめ 渡辺 照子

開戦記念日みなさんにはすっぽん料理 増山美島

パン食ふや時の記念日凡に過ぐ 清水基吉

終戦記念日ビルヘ出前のそばすゝる 島田不拘

戦終へて命目覚めし記念日なる 相馬遷子

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 俵万智

僕たちの終戦記念日下さい少年真夏日 中塚唯人

敗戦記念日の蝙蝠のどれがどれやら 池田澄子

人に秘す記念日ひと日薔薇五月 後藤綾子

終戦記念日ひるのお粥を赤ん坊と 原コウ子

俳句検索だが、しばしば短歌が紛れ込む。いつもは削除しているがサラダ記念日は一世を風靡したものゆえ残した。

結婚式を挙げたのは4月1日だった。桜は満開だった。

去年、

4月1日結婚記念日ゴミ出し日

という句を公表した。

今日もゴミ出し日だった。一般ごみの収集日は火曜と金曜。
うるう年のため同じ曜日になったのかどうか?

来年の4月1日は土曜日である。
結婚披露宴の席で、桂信子さんからは

エイプリールフールのこれこそまこと君の婚
と揮毫したと色紙を貰った。
関西学院大学の美術部に所属していた伊丹啓子さんからは
デザイン画(正しい表現法知らない)を貰った。
俳句の師匠である、伊丹三樹彦・公子夫婦からも色紙を貰ったはずだがこちらの方はまったく記憶していない。(スンマヘン)

例によって散歩の後、ディッパーダン、

そのあと、座っている窓辺から見える向いのビルの6階へ行った。
いろいろ動物がいる。
もともとは何軒もの店が軒を並べる飲食店街であったが、まったく人が寄り付かなくなり、
最後の2軒も撤退してあと、市役所の支所のそのまた支所がサービスセンターの名で入所、
残り半分のダイエーが権利を持っていた部分は百均店(ダイソー)となった。
どちらもよく繁盛している。
しかしその間の部分に大きな「空き地」が生じたので、保育所的な施設や市の関連事業が展開している。

今日見たらマイナンバー交付窓口なるものも新設されていた。
そのまた残りの部分、エレベーターコーナーに↓のような休憩施設がある。

この施設が出来たころの記念か

そこで見たモノクロ画像

↑のような時代の阪急電車塚口駅はさすがに記憶にない。

こんな展示も

ついでにダイソーも覗き、7歳児と13歳児に3品の自由選択権を与える。
そこで13歳児が自費で後3品買いたいと言い出す。
そういう後払い約束が実現した記憶はないが、許可。


その成果

夕刻贈呈式。
ショウちゃんの名もローマ字シールで記入されている。
ツーショットもライン上に流れた。

もっと驚いたのは、350円、おつりはいらないよという言葉と共に戻ってきたこと。

他方、7歳児の母からは、
我が子がたこ焼きで接待されているのを不憫に思ったか、
結婚記念日のお祝いか
はたまた短期お泊り保育料を兼ねるのか

贈物あり

よって今宵は

朝桜

雨模様故シート(花筵)予約はない。

あと二日で満開といった感じ。

庄下川

↑満開は3日以上先。天気が良ければ夙川まで足を延ばすつもりだったが。

夕桜


コウモリ

$
0
0

昼桜
4月2日
1日でないから開催は信じていい。
花は8分の見ごろ
土曜日でかつ日曜日は雨の予報

好条件が重なる。


う広くもない公園の花の下に、200人以上・
もう穴場とも言えない桜の名所になった感じ。

夕桜

まだ5組くらい残っている。と夜桜の場所取りも1,2.

 

13歳児とじ~じも仲が良いが、13歳児と7歳児はもっと仲がいい。
13歳児は実によく小1の面倒をみる。


一本は狼のため夕桜 高野ムツオ 蟲の王

夕桜麻疹のごとく山あたたむ 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』

東国のはにわは赭し夕桜 野澤節子 『駿河蘭』

散る力なく水探す夕桜 殿村菟絲子 『樹下』

骨還り深夜の如し夕桜(門前老いし八重桜盛りなり) 殿村菟絲子 『旅雁』

夕桜吾妻の癌も綺麗ならむ 齋藤玄 『玄』

松風の谺返しや夕桜 小林康治 『四季貧窮』

白絹につつむみどりご夕桜 加倉井秋を 『隠愛』

夕桜あの家この家に琴鳴りて 中村草田男

夕桜折らんと白きのど見する 横山白虹

眠る児に影やはらかき夕桜 石田 克子

からつぽになりたる家の夕桜 仙田洋子 雲は王冠

銃身やざわめいてゐる夕桜 仙田洋子 雲は王冠

抱きしめて幹また幹や夕桜 仙田洋子 雲は王冠

咲き満ちて人は遠景夕桜 仙田洋子 橋のあなたに

夕桜身を立て直すとき匂ふ 橋本榮治 麦生

夕桜折らんと白きのど見する 横山白虹

秋の田の刈りつめられし鶉哉 夕桜

夕桜ときに背鰭の如きもの 鳴戸奈菜

夕桜あの家この家に琴鳴りて 中村草田男

白絹につつむみどり児夕桜 加倉井秋を

心寄せれば離れゆく夕桜 湯川雅

夕桜夕とは空の色のこと 後藤立夫

水の上を水走りけり夕桜 岩垣子鹿

シャンパンの栓の飛びたる夕桜 後藤比奈夫

大学に一陣の風夕桜 岸本尚毅 選集「氷」

夕桜すこし煉瓦を積みかけて 岸本尚毅 鶏頭

初めての町なつかしき夕桜 西村和子 かりそめならず

抱きしめて幹また幹や夕桜 仙田洋子

産まずをれば血は濃くなりぬ夕桜 辻美奈子

一戸より一本道や夕桜 小川軽舟

銀紙の燃え残りけり夕桜 小川軽舟

本郷に家借りたしよ夕桜 小川軽舟

のこされし骨うつくしき夕桜 高浦銘子

夕桜あの家この家に琴鳴りて 中村草田男

夕桜折らんと白きのど見する 横山白虹

子を追いて馳け抜ける犬夕桜 西東三鬼

ボートに錠かけ夕桜とはなりぬ 澤村秀子

夕桜ふつくらと橋かかりけり 大嶽青児

初めての町なつかしき夕桜 西村和子

いろがみを貼りたる富士ぞ夕桜 山口青邨

浴槽に熱き波立つ夕桜 櫛原希伊子

夕桜一樹もて富士覆ひけり 吉野義子

旅籠屋と言ふべくありぬ夕桜 大串章

家郷の夕餉始まりをらむ夕桜 大串章

法螺習ふ学僧ふたり夕桜 岡田日郎

白絹につつむみどりご夕桜 加倉井秋を

婆といへど弾む吊橋夕桜 加倉井秋を

湧きかけし白湯の匂ひや夕桜 長谷川櫂(1954-)

いそがしきあとのさびしき夕桜 吉屋信子

東国のはにわは赭し夕桜 野澤節子

夕桜しばらくあまき城の空 鍵和田釉子

石棺は湯舟のふかさ夕桜 鍵和田釉子

詩より死へ転ずる話題夕桜 鍵和田釉子

夕桜に眉というもの無かりけり 鳴戸奈菜

大陸の飛沫さびしも夕桜 正木ゆう子

ほの白き額うつくしや夕桜 原コウ子

少年は絶望知りぬ夕桜 奥坂まや

白墨の手をはたきをり夕桜 永井龍男

お化屋敷は落書白き夕桜 永井龍男

一片の落花のあとの夕桜 深見けん二

駈けて来る子の顔暗し夕桜 深見けん二

早死にの父の船唄夕桜 佐藤鬼房 地楡

人声にほつとしたやら夕桜 一茶 ■文化十一年甲戊(五十二歳)

家根をはく人の立けり夕桜 一茶 ■文化八年辛未(四十九歳)

夕桜家ある人はとくかへる 一茶 ■享和三年癸亥(四十一歳)

家近くなるさびしさの夕桜 上田五千石 琥珀

生き生きとしてだんだんに夕桜 後藤比奈夫 初心

夕桜ひそかに鵯をゆるしけり 久保田万太郎 流寓抄

白絹につつむみどりご夕桜 加倉井秋を

夕桜仕事をもちて屋根にのぼる 加倉井秋を

囲み解き消ゆる連嶺夕桜 福田蓼汀

夕桜簷を重ねて塔は暮れ 福田蓼汀

夕桜折らんと白きのど見する 横山白虹

夕桜あの家この家に琴鳴りて 中村草田男

夕桜城の石崖裾濃なる 中村草田男

鬱々と人病む家の夕桜 高浜虚子

駈けて来る子の顔暗し夕桜 深見けん二

一片の落花のあとの夕桜 深見けん二

生娘やつひに軽みの夕桜 加藤郁乎

夕桜夕越いざやひとへやま 加舎白雄


夜桜

5組くらいが多くはペアで夜桜を楽しんでおられたが、そこへ向けてフラッシュ焚くのはさすがに気が引けたので。

午前は私、神戸市北区のいつもの所で、団体の、決算、監査、予算案作成に立ち合い。
決算は、ゆうちょ銀行の通帳に、27年度の利子記入がなされておらず、
利子収入の欄を埋めることが出来ず(80万近くの残高があるので、いくら低利子とはいえ
0円計上もできないので、月曜日以降に銀行に確認することにして、監査印だけ先に貰うことに。
その金額がでないと、予算書も細部が埋まらず、メールのやりとりで、来週の日曜日の総会資料を作成することにする。


よって私は朝の散歩に付き合えない。
その間を縫って、13歳児の母親が、宝塚歌劇(出し物は「蝙蝠」)をネット予約。
あらかじめ予定されていたことなので、ネットで得た入場券をプリントアウトして13歳児が持参していた。


みんなが計算機や領収書ととっくんでいるスキに
私だけ桜見物。

神戸市北区へ来るまでに
川沿いの桜並木など
シャッター切りたい場面いくつもあったが
運転中のため断念。
一度だけ赤信号で止まった折に

家の近くにもレンギョウ垣があるが、あまり綺麗ではない。

施設の桜は、菌害のためすべて伐採したので、あらたに植えたものはまだ若い・

↑の場所へどうやってバイクで来れるのか分からないが、いつも見かける釣り人のところまで
降りていって挨拶・雑談。獲物は鮒で、最近はヌートリアをみかけないことなど。


朝桜夕桜又良し夜桜

こういう場合は重季(語)とは言わない。

歌劇「こうもり」見てきた子と夜桜へ

練習

$
0
0

バイオリンがセ口を追ひ越す春の水 今瀬剛一

静夜にてかのバイオリン雪降らす 鈴木六林男 桜島


3月28日

この日は午後9時。

中1生も頑張って、この日は27ページやったと誇示。何をどうやったかは未確認。

3月29日

午後10時7なっているが、中1引き続き頑張っている。

3月30日


練習しているのはこの曲。午後10時半。中1の姿写っていない。
「協奏曲」についての事典の解説

単数または複数の独奏楽器オーケストラからなり,両者の対比と調和を構成原理としつつ,多かれ少なかれ独奏者の演奏技巧を発揮させるように作られた楽曲。かつては競奏曲とも書いた。原語のコンチェルトは動詞concertareに由来するが,この語はラテン語で〈競い合う〉,イタリア語で〈協調させる〉という意味をもち,楽曲形式としてのコンチェルトがどちらの意味から来ているかは明らかでない。むしろ,協奏曲は〈競合〉と〈協調〉という二重の契機によって成り立つと考えるべきであろう。

3月31日

中1は歯を磨いてから風呂に入る。小1は風呂から出てパジャマに着かえてからヴァイオリンを取り出し、練習が終わってから歯を磨く。


4月1日

4月2日

中1(4月になったので中2)は後ろでゲーム中。

まあ、毎晩毎晩練習を始めろと言ってもなかなか始めない。風呂に入らない。
がともかく母親の注文を受けて、6日間毎日練習は欠かさなかったことを画像付き報告。

11時過ぎ、雨がまだ降っていないので、昼食を公園で食べることにする。これで、3回目の野外食である。

今日はテントが張られているが、その傍しかゴザを敷くスペースがない
テントには34という番号がシールで張られているか塗り書きされている。

突然、声を掛けられる。毎年のように男ばかり数人でここでこの時期に
宴を張っている知人である。
テントの数字34の意味を知っていた。
彼自身が近くの高校、尼崎北高校の出身で、はるか後輩の34期生の同窓の集まりだとか。

ビール500ml缶の差し入れを受けるが貰うけれど、午後運転するのでと飲まないまま。

知人のシートでしゃべり込んでいる姿を見ながら13歳児は、
かわいそうにあの人達、じ~じの話、正座して聞いているじゃないの。
じ~じ、全然空気が分かってない、と言っていたそうである。

話していたのは、ゴザの周りの草の名前。
4年前にここで出会った。その時は、この公園が元は池であったこと。
鮒を吊る人のために近所に釣り道具や餌を売る店があったことなど。
そのことはお互いに覚えていた。
私もそのことをどこかに書いた記憶がある。2011年の11月にこのブログを開設したので、2012年の4月初めのブログで書いたのかも。

午後の画像がない。
ひたすら家族間ラインで画像を送受信していたので。カメラはカバンに仕舞ったままであった。
新大阪駅で7歳児の父母と落合い、
横浜から指定された「のぞみ」の号車に確実に13歳児が乗車したこと。
その「のぞみ」が定時に新大阪駅を出発したことなどを伝えた後は、
13歳児が新横浜駅で乘り越すことがないよう、起床コールを送り続ける。
その後、「のぞみ」が新横浜駅に入り、下車口から13歳児が照れくさそうに降りて来る動画が送られてきて、6泊7日(予定が変更になった)のじ~じ役は終わり。

私は帰路JR塚口で下車して歩く。




満開

$
0
0

チューリップの赤も咲きだし、ささやかな我が家のチューリップ園も満開
↓数日前まで赤だけは蕾であった。

公園は雨上がりの月曜日ということもありあまり人は出ていない。

  

  
近くのポンプ場の裏側(線路側)

ポンプ場の南側(左手がポンプ場の正面) この道は市立高校の西門へつながっている。
背後が西門への道。右手に西富松川が流れている。

庄下川へ向かう時に、普段は通らない。やや遠回りになる。

桜の時、あるいは市立高校を抜けて武庫川方面にまで足を延ばす時には、年数回通る。


早くも花筏


西富松川の花筏供給量が最大で、庄下川へ流れ込む。



↑二夏くらいはもっぱらここで、水遊びを楽しみ、ふと見上げてそれが桜の木であるのに
気付き、一度は花の季節にここに来てみたいと思った。ということは5,6年前までは、
家から近いこの水辺が花の名所であることを知らなかった。
今では、夙川や芦屋川沿いよりもこの川辺の桜の方がはるかに花が見事であると〈思うようになっている。

途中から横浜へ戻り、今日は一人で家にいるはずの13歳児と(家族ラインとは別の)個別ラインへ画像を送付。スマホとカメラを出し入れして撮りまくる。
暇だったようで、我が家での待遇が良かったことを懐かしんでいる。



ここの桜は、根を通行人が踏見つけるようには植えつけられていない。

夙川の桜は万の人々が幹の下を歩き、木の根元に茣蓙やシートを敷く。樹勢の衰えが目立つ。公害の街の悪臭を放つ川のイメージがあって、ここには時の人しかやってこない。

両岸の道も生活道路であって、車の往来はすくなく、桜の為には狭いながらもグリーンベルトが設置されていて、根回り1m四方には人は入り込まないようになっている。
多くの桜は岸辺から遊歩道ないし川辺へ雪崩るように枝を伸ばし、
遊歩道を花のトンネルにしている。そういう箇所がいくつもある。


歩いているのは老夫婦が多いが、今日は妊婦さんが歩いているのに出会った。
右岸を歩いているときにすれ違ったが、幹線道路に出会うポンプ場のところでUターンして
左岸を歩き始めたら、その女性とまたであった。どこまで北上してUターンなさったのかは知らないがかなりの速歩である。私がだらだら歩き立ち止まり、タブレットっとカメラを持ち替えたりしている内に私より3倍くらいの距離を歩かれたような感じであった。

.     ふわふわと妊婦が歩く開戦日 荻野雅彦

殺めかけ薔薇否認する想像妊婦 仁平勝 花盗人

レモンすする妊婦に胎動始れり 山口恵子

受診待つ妊婦に流す雛の唄 大塚とめ子

ゆつくりと絵日傘たたむ妊婦かな 桑山撫子

山笑ふ土偶のやうに妊婦われ 仙田洋子

梅の花どかと豊腰妊婦かな 仙田洋子

表情を沈めて妊婦露を来る 石原舟月

七五三妊婦もつとも美しき 佐藤鬼房(1919-2002)

夫より守宮がこわし大妊婦 田川飛旅子

キャベツ買へり団地の妊婦三人来て 草間時彦




.

アウグスブルク

$
0
0

↑庄下川この部分。生嶋荘の名を残す生嶋橋から北側(山側)を見ると、手の届くところに桜がなだれ咲いている。

↓もう少し橋の中央部へ出て両岸の桜を見る。

両側の岸辺の遊歩道は桜のトンネルになっている。
桜のトンネルがもっと長い所は他にもあるが両岸から川面へ桜がなだれている場所はそう多くはない。


同じ場所で、川の中央に焦点を合わせてズームをかけてみる↓

車が通りすぎない間にもう一枚。さらにズーム↓

30倍ズーム

北摂の山がまじかに見える。

武庫川か猪名川沿いに行かなければ見えない風景である。


しかしこの部分では庄下川は北から南には流れていない。西から東へ向かっている。
だから見える山は宝塚の長尾山方面の山かも。

↑今夜の公園の夜桜。
貧弱なフラッシュでは、標準木の対面にある水銀灯の傍のこの木をこの程度にしか写せない。
この樹のもとで大宴会が行われていた。公設の水銀灯以外に持ち込みの撮影用照明を3か所に置いて10人以上の20,30代の人と「社長」のような「長老」のような男性が集っていた。

すずなすずしろよく笑ふ姉妹かな 森山夕樹

ミス水着準ミス水着姉妹 河崎 初夫

人参の明るい乱雑姉妹に母 伊藤淳子

鯛焼きや姉妹病みても笑いぐせ 安井昌子

姉妹夕餉のじやが芋煮ゆるとき 川崎展宏

柾の実空手に通う姉妹 白石みや

風の道くる素足の姉妹山桃と 澤 悦子

冬休姉妹同じもの編めり 栗原米作

年寄りし姉妹となりぬ菊枕 星野立子

四分割姉妹に石榴実を高盛り 中村草田男

蜜豆で別れる慣ひ老姉妹 石丸泰子

姉妹思ひ同じく春火鉢 中村汀女

誘ひあひ彼岸詣の老姉妹 星野立子

渓流に桃を浸して姉妹 風間良子

地蔵盆旅の姉妹の灯のうちに 平井孝子

日焼姉妹楽譜ひろげしまま秋へ 平井幸子

アネモネや姉妹ふたりの理髪店 大森理恵

福笑ひ四人姉妹のはなやげる 佐藤ちさと

兄の忌に姉妹欠けずよ柏餅 岡田 和子

雛の日を揃はずいよよ老姉妹 岡田 和子

年寄りし姉妹となりぬ菊枕 星野立子

洗ひ髪身ぐるみ匂ふ姉妹 大塚品子

姉妹白玉つくるほどになりぬ 渡辺水巴

姉妹思ひ同じく春火鉢 中村汀女

姉妹の怨寝もよし初鏡 山口青邨

やぶ入りの枕うれしき姉妹 召波

洗ひ髪ならべて月に姉妹 柴田白葉女

姉妹思ひ同じく春火鉢 中村汀女

菊たべて灰となるまで姉妹 大木あまり

籐椅子が四つ四人姉妹会ふ 橋本多佳子

日傘もつ姉妹ほどよき距離たもつ 岩月星火

富士渡し姉妹の尼に浅き春 飯田蛇笏

花李小さき姉妹に吾子育つ 上野さち子

爐明りにみめよしあしの姉妹 木村蕪城

姉妹の名の八重一重さくらもち 龍岡晋

朝顔や同じ工場へ姉妹 田村了咲

馬市や草を負ひ来し姉妹 田村了咲

姉妹いずれを愛でむ初螢 大庭紫逢(1947-)

秋の日や姉妹異なる髪の影 阿部みどり女(1886-1980)

写し絵の姉妹一つ団扇持つ 久米正雄 返り花

薮入や思いは同じ姉妹 正岡子規

仏壇の祖父にはにかむ 日焼姉妹 伊丹公子

七夕の雨きて姉妹翼とぐ 八木三日女

月の庭の端を歩みて姉妹 寺井谷子

夫婦箸姉妹が使ひ秋灯下 後藤綾子

姉妹と母と父なり初詣 永井龍男

まゝごとの姉妹の静か菊日和 石井とし夫

月山を見せて姉妹が倒れてゐる 攝津幸彦

すぐ逢へるところに姉妹桜餅 山田弘子

おとといの花火へ戻る姉妹 坪内稔典

夏の木のうしろで消える幼姉妹 宇多喜代子

姉妹よければ加藤苔めきすべる蘭 加藤郁乎

紅梅や姉妹の振る采の筒 夏目漱石 明治三十二年

遠花火この家を出し姉妹 阿波野青畝

姉妹椎の実たべて東京の雑誌よんでる 尾崎放哉

昼間に覗いたのはアウグスブルク広場

尼崎市とドイツのアウグスブルクは50年以上前に姉妹都市となった。
ドイツの都市と姉妹都市になった日本の市は尼崎市が最初であったらしい。
アウグスブルクという町と姉妹都市となったことは私も知っていた。

中学高校時代、ペンパルが流行っていて私はたまたまドイツ人と文通していた。
もちろんドイツ語ではなく英語で。

尼崎市の代表がドイツを訪問するとき、代表団の中に父親となじみの人がいた。
そこでその人に何かをことづけた。
ドイツ人は、たまたまアウグスブルク近郊に住んでいた。
そこでドイツ人には何月何日日本人がアウグスブルクの何々ホテルに泊まるので
その中の何某さんに面会してくれ
品物を預けているので受け取ってくれと書き送った。

その君はホテルに行ったが、警護の人間に阻まれて面会できなかったという手紙が届いた。

それ以来、この姉妹都市関係に対する関心を失っていた。

ところで今日初めて、尼崎市とアウグスブルクが姉妹都市となったいわれを知った。

市の文化ホール(アルカイックホール)の庄下川寄りの広場に
新しい掲示板が出ていたがそれによって。

アウグスブルクはディーゼルさんがエンジン製造工場を作った都市で、
尼崎は、山岡さんがそのディーゼルエンジンの小型化に成功してヤンマーを創業した都市であり、山岡さんはディーゼルさんを顕彰するために日本庭園をアウグスブルク市へ寄贈したのが友好関係の発端であったようである。

(↑の案内板はヤンマー㈱提供で昨年設置されたようだ)

文化ホールのあるところから北の、庄下川沿いの細い、長い緑地は庄下川公園というが、その南端に「アウグスブルク広場」が設けられたようだ。

↓マイルストーン(すべての道はローマに通ず)

アウグスブルクという町の名も皇帝アウグストの名にちなむのであろう。オーガスト(8月)さんである。ディセンバーは10の意味だが、
7月さんや8月さんが割り込んだため12月へ回された。

ガス灯

噴水

レリーフ

少し離れたアルカイックホールの東側の都ホテルアルカイックの道路側に

.庄下川公園の桜

↑庄下川の宮
そこが庄下川公園の(北の入り口)北限である。
庄下川の宮があるところから阪神尼崎駅の北側、国道2号線に至る
庄下川左岸一帯が「庄下川公園」であることをこの日初めて確認。



野外食

$
0
0

我が家を一歩外を出たら3、4本の桜を見ることが出来たが、今では1本だけ。ただしこの木はなかなか立派で、この木の下で、子供たちの入学卒業の折には記念写真を撮るのに利用させてもらった。
この木も道路へ大きくはみ出した枝などを切り落としたために見栄えはやや悪くなっているが、
それでも立派な木であること変わりない。

の家も今は空き家である。どう処分されるかは情報がない。

この木に関する限り厳密には9分咲きの印象。上部の枝先にはまだ開いていない蕾が多い。


今日の公園。満開を維持。

予想以上の人出である。ご近所の親睦グループ、保育園のお母さん仲間、春休み中の中学生のグル―プなど。

木のてっぺん部分にまだ開いていない蕾が見える。やはり9分咲きであろうか
下枝はおおむね枝の先まで咲ききって、一部は葉が出ている木もある。

↑昼前の観察であったので、これからゴザを敷こうとするグループも2,3.
家に戻って、ワイフに現況報告をすると、庄下川の川辺でお結び食べたいというので場所を案内。
上生嶋橋の下付近、女子大の温室や運動施設が見える辺りに設営。


同一ゴザ4度目の登場

またそとしょく(野外食)?とライン相手にあきれられる。

周りは女子大の学生のグループがいくつも

雪ふれば女子大もつくる雪達磨 山口青邨

廃学の女子大の裏さくら満つ 関森勝夫

飛花落花女子大生大いに笑う
付近には廃学になった大学があるが、この女子大はどうか。
一般的には女子大進学を嫌う女性が増えているということではあるが。大きな体育施設など増設しているから大丈夫かも。

同一ゼミのグループか?

種類が違う桜

山桜かどうか自信がない。やや葉が目立つ。








ムラサキケマン

$
0
0
ムラサキケマン(紫華鬘、学名:Corydalis incisa)はキケマン属越年草。 (以下インク文字を含む解説はウィキペディアから。)

今、川辺の湿地帯で満開である。非常に大きな群落を作っている。
ヒメオドリコソウよりはるかに一集落が大きく、かつ目立つ。

茎は真っ直ぐに立ち、高さは30-50cmほど。茎には複数の葉がつき、それぞれ斜め上に伸びて2-3回3出複葉、小葉は扇形に近く、先端は丸くて、丸い鋸歯がある。葉質は薄くて柔らかく、つやを欠く。

花期は4-6月で、赤紫色の長さ2cmでキケマン属に独特の筒状の花を咲かせる。

果実は豆の果実に似る。

日本全国に分布し、国外では中国から知られる。木陰などの直射日光の当たらない場所に生育する。
(上の文章には文法上の間違いがある。)

全草にプロトピンを含み有毒。誤食すれば嘔吐・呼吸麻痺・心臓麻痺などを引き起こす。 ウスバシロチョウの幼虫の食草であり、このためウスバシロチョウも有毒となる。また、植物体を傷つけたときに出る汁は悪臭がする。

紫華鬘では例句ないだろう。

「紫」で検索
1000句以上と表示。しかし最初の100句をコピーして、
ダブリと作者名の一部である紫を削除すると以下の句のみ

セーターの許せ禁城 品川鈴子

万紅ののぬきんでてかきつばた 草田男

鉄線花に衣の憑きにけり 後藤比奈夫 祇園守

の袷袖口濃 高野素十

ものゝ芽のこは真 星野立子

初神楽待つの幕絞り 清崎敏郎

幸木ほののかけ蕪 呼子無花果

緋袴と袴弓始 塩川雄三

火の神のゐまさぬ阿蘇は濃 久米三汀

の闇となりゆく牡丹焚く 市野沢弘子

古九谷のの濃き残暑かな 笠原古畦

は衣桁に昏し秋の寺 原 裕

蘭咲いていささかは岩もあはれなり 北原白秋

局塚その面影の蘭咲き 下村ひろし

旅かなしあやめ野に咲けば 富安風生

山水のひゞく白のあやめかな 日野草城

桑の実のこぼる石舞台 柴崎左田男

日盛りをはしる蜥蜴かな 宮部寸七翁

波止かなし殊にハンカチは 岡本 眸

草藤の阿蘇の秋近し 石 昌子

聖護院もの野もの茎立てり 百合山羽公

アネモネの挿せる日吉館 二宮英子

木蓮くらき生家に靴脱ぐも 角川源義

荊女もすなる頬かむり 猿橋統流子

荊帰化陶工の寄せ墓に 奥村喜代子

曲水の歌膝立てて衣の僧 小原菁々子

の被布をこのみて老にけり 池田 歌子

朝顔のまだ咲きつゞく濃 桐野 慎吾

霧じめりせしや藤袴 射場 秀太郎

己生えしてゐて蘇の濃 藤田 文子

蘭咲く雨上りたる石に觸れ 香下 寿外

枸杞の芽のうすの籬かな 安藤 雅子

の少しほぐれし桔梗の芽 梧桐 青吾

ヒヤシンス二列に咲きて濃 城戸崎 松代

西の京雨となりたる木蓮 大山 百花

荊ひしめき咲きて垣の内 吉村 寒雷

花真菰似合うジヤケツト薄 島川允子

他に、この季節に目立つ野草はオオキバナカタバミ

ツタバウンラン

石垣の間からのびているのを上から撮影

この春はじめてみたものに
マツバウンラン

一本一本は細いので目立たないが、大群生となるとけっこうかわいい

松葉海蘭では例句さが好きにならない。
海蘭でも例句0
海だけなら5921句、蘭では595

ジュウニヒトエ


阪急百貨店

$
0
0
9階の吹き抜けホールを含めて、阪急百貨店は外国人観光客の観光スポットになっているのであろうか。周りを歩く外国人が目立つ。

ショーウィンドーの3月バージョン

3月バージョンは、新大阪駅へ13歳児を迎えに行く時に、少し早めに家を出て寄り道見学

4月バージョン

どこかの階の何かの商品を売りつけようという魂胆はまったくないのがいい。
客寄せショーウィンドゥの新しい在り方を示している。

予算的には昨年のものが圧倒的に高くついているように思う。
展示終了間際であった。


ハロウィンのかぼちやが笑ふウィンドウ 吉原文音

ショー・ウィンドゥいつもせっかち春の雪


三椏

$
0
0

3年前のことかと思ったら実は5、6年前のことであったということが最近とみに増えた。
今日も20年前のことかと思って話していたら
つじつまがあわなくなり、実は40年も前のことであったことに気付き、慌てた。

だからこの数字も怪しいが、三椏の花が突然こんなにも麗しいものかと思ったのは10年くらい前かと思う。

好きになりだしてから間もなく友人M君と哲学の道をあるいていた。
まだ花の咲いていない木がM君の目に留まった。

何の木かわかるかと問われ、傍へ寄って見て、「三椏」と即答したのを昨日のことのように覚えている。半信半疑だったM君に、3股に分かれている枝を数えて講釈した。

三椏の花三三が九三三が九 稲畑汀子

桜が満開の折にもこの道を歩いたことはあるが、その時は、銀閣寺から遠ざかる方向へ歩いていたので花を観る機会を逸した。

その後、美作を大きな風台風が襲い、山の木々がなぎ倒された。
それから数年間、倒木はほとんどの山で放置されたままであったが、
やがて公的予算が付いたのであろう。徐々に山肌がきれいになっていった。
そんな様子を高速道沿いに、岡山県道沿いに眺めていたが、
ある年、突然に早春の山を三椏が覆う風景に出会った。

↑↓雨の中での撮影故くもっている。

↑白い花は辛夷↓

三椏の花に瀬音の遠からず 行方克己 知音

三椏や英国大使館鉄扉 佐藤鬼房

三椏のいろにはじまる雑木山 伊藤三十四

三椏咲く日向薬師の雨にあへり 松村武雄

三椏や泥土より立つ神の鹿 田川飛旅子

三椏の花咲く村に嫁ぐとや 谷口 君子

三椏の蕾のまゝの長かりし 平山 愛子

三椏の花に寒さのとどまりし 今井千鶴子

三椏の花やっぱり忘れられない 山中葛子

三椏の蕾の声よ鳩と歩く 平井久美子

曇天に三椏の花ふさぎ虫 高桑弘夫


辛夷山というより今や三椏山である。

↑あたかも整地して三椏を育てているように見える。

自分でそれを見つけたのか、Mrs Kから東粟倉の山々で三椏が全山を覆っていると教えてもらったのか、それさえよく分からなくなっている。というよりその原因となった台風は15年くらい前かも知れない。


それでまた思い出したことがある。最初に三椏が好きになったのは山に咲く三椏ではなく
上月辺りから上郡に至る川沿いに咲く小ぶりの三椏の花を見たからである。
特に白旗城城址周辺に咲く三椏が可愛かった。

日から9日まで美作領内を150キロくらい走った。

高速道を佐用から鳥取道へ。大原で降りて、大原神社前を通り東粟倉へ。

雨の中で車を止め川向こうの山の斜面の三椏を撮影。

愛の村パークで昼食バイキング。そこから西粟倉へ抜ける途中には三椏を切り取ることが出来る場所が何か所かある。

7日は午後からは土砂降りであったが8日は晴天。予報的中で残念ではあったが、もう一度三椏観察に出かけた。

三椏の花に光陰流れ出す 森 澄雄

文机や三椏明り降るほどに 小林康治 『存念』

三椏に春の雪降る雪の奥 小林康治 『華髪』

三椏の花見つむれば風のあり 小林ふく子

三椏や皆首垂れて花盛り 前田普羅

三椏の咲くや泉声沢を落つ 水原秋桜子

三椏の花雪片の飛べる中 山口青邨

三椏の花あと先に人気なし 伊藤和美

三椏や百姓の顔ねむく過ぎ 岸田稚魚

雨やさし三椏三つに咲くことも 安住 敦

三椏の花は小人のシャンデリア 加藤高秋

三椏の花のきいろや父母はなし 菖蒲あや

三椏の花のうす黄のなかも雪 大野林火


晴れの日に見た三椏↑↓

確かに花の見ごろは過ぎているが、それなりの魅力がある。


三椏俯くトリオの一人消え

神戸のショウちゃん、鎌倉のM、名古屋のT神父、会食すること70度、飲み干したワイン100本。
一番よく飲んだのは神父で、一番食ったのはM。


かたくり

$
0
0

潮騒や片栗の花うすれゆき 村上しゆら

片栗の花ある限り登るなり 八木沢高原

片栗の花に夕影ひろがりし 倉田 紘文

足のべて休む片栗の花あれば 細見綾子

片栗の一つの花の花盛り 高野素十

片栗の花の山より駅が見ゆ 今井真寿美

片栗の花裏山を淋しくす 村上しゆら

雪淡し片栗の花なほ淡し 古賀まり子

片栗の花とは知らず見つゝ来し 高橋秀亭

足のべて休む片栗の花あれば 細見綾子

片栗の花の終りは知らざりし 河野美奇

冷えさびといふ片栗の花あかり 手塚美佐

スタートを待つ片栗の花一列 野中亮介

片栗の花の素直に身を反らし 白井風人

片栗の花に離れて牛繋ぐ 太田土男

片栗の花に膝付く東人 太田土男

片栗の花の紫うすかりき 高濱虚子

冷えさびといふ片栗の花あかり 手塚美佐

片栗の花咲き満ちて伯父ら消え

従兄の家を訪ねると伯父か従兄のどちらかは片栗山の整備に出かけているということが何度もあった。
どの季節だったか?夏ではなかったかかと思う。
山の斜面の木を伐って片栗の根張りの余地を広げ、日照を確保する作業だったのかどうか。(その伯父も従兄も今はいない。8日に
久し振りに従兄の配偶者を訪ねたが会えなかった。その子の家も同じ敷地内にあるが、こちらは牛舎を経営しているので、たいてい家にはいない。)

そこは美作町の領域ではなく町境を越えた勝央町南部の地域である。

町を越えて地域の一体性があったのか。
何気なく聞いていた片栗公園は、今でも美作市の観光案内図には登場しない。

美作市内で「かたくり公園」の幟を見るが、それは他の地区を指し示している。
ここへ一人でやってきたのは1度くらい。後はワイフ同伴である。


私の友人で美作のかたくり公園の所在を尋ねる者はいなかったが、
ワイフの友人にはぜひ訪ねたいという人が何人もいるようで
その度に、美作インターを出て北へ行き、二つ目の信号を左手の坂道を登ってなどと案内しているようだがその先は「みちなりに」行けば幟が見えるくらいにしか説明できず
いつも付近まで行ったが途中で迷ってしまうケースが多く、
「行き着いた」「きれいだった」という報告は受けていないようである。

2,3年前に新道が開通、坂道へ入っていかず、北進を続け、もう一つの次の信号で左折すればたどり着けるが、地図を書いてくれと言われるといまだにまごつくようである。

↑が「かたくり初恋公園」への降り口である。
かつてはこの道を車で降りて、画像中に一台黒い車が見えるところに駐車していたが、
車が3台も溜まると、Uターンして戻るのが大変なので、車道の端に駐車する。
駐車違反をとがめられずに済む程度の空間があり、3台程度なら駐車可能。

画像の端に橋が見える。この橋が「初恋橋」。川の名は曽井川。

曾井川の初恋橋ほどの小さき橋渡れば少女のわれに逢へるや

美作在住の人の歌を、昨年の同時期のブログで紹介した。
この歌碑をバレンタインホテルの近くの遊歩道で見つけた時、
私は曽井川の初恋橋を知っていたので、嬉しくなって歌碑の画像を紹介したら

Mrs Kはこの作者と顔見知りであって、キロロガーデン、今やUraカフェの方が有名になっているが、の「建設者」として詠った歌を作ってっ貰ったとの報告を受けた。

ともかく美作は村中、知り合いみたいな感じではある。

美作の水道公園で八重桜「祭」を設営しているところに出くわし、
あるご婦人に声かけたら、ツーショットを頼まれ、2分後には「ショウちゃん」の画像がMrs Kの携帯に届いていたこともあった。

かなり傍に寄っていってもかたくりが咲いているかどうかは分からない。
だから帰り道にすれ違う人は、私に会うと咲いてますか?とたいてい尋ねる。
わたしも同じ。橋を渡って川沿いのあぜ道を歩いている時に、引き返してくる人と会うとかならず「どうですか?」と声をかける。

案内板の背後あたりが一番の見どころである。見どころであった。
しかしここ数年、かたくりはどんどんテリトリーを広げ、

「かたくり群生地」の看板よりはるか左手(たぶん南側)へ本拠地を移しつつある。

↑水仙様の葉は、キツネノカミソリらしいが、まだ花を見たことがない。

もとの群生地は、この時期になると

一輪草が目立つようになる。
この花に見とれていたご婦人に声かけると、これまた「美作の風」をご存じであった。
ご本人は三星山の麓にお住いのようで、そのタイトルの昨日のブログでは西宮から来た人として私のことが紹介されていた。


昨年の同じ時期のブログを「復習」していたら、「総会」などというタイトルのブログにも出会った。

今年の「総会」は今日であった。これがなければ、9日の先祖祭でも配られたアルコールを飲めたのに。

宮本武蔵

$
0
0

賀状来る祖の地武蔵の岡部より 岡部六弥太

初空や武蔵に秩父晴れ渡り 野村喜舟

瓜の馬立ち疲れ武蔵国分寺 平井さち子

名月や門の欅も武蔵ぶり 石田波郷

池多き/むかし/武蔵の/鮒や鯉 高柳重信

つまみ食ふ武蔵も奥の葉蓼かな 三橋敏雄

貝汁の武蔵仕立や昼の酒 飴山實 『次の花』

松籟の武蔵ぶりかな実朝忌 石田波郷

初空や武蔵に秩父晴れ渡り 野村喜舟

またたびの実のうきうきは奥武蔵 松田ひろむ

武蔵丘陵蝮寝ている夜明けかな 金子兜太

武蔵和紙木枯いろに漉き重ね 西村梛子

駅の名の武蔵つづきや春眠き 織田 耀子

狐火や武蔵の水のむらさきに 東早苗

夏蝶の武蔵ぶりなり大いなり 筑紫磐井 婆伽梵

蜉蝣のあそぶ武蔵にねびにけり 筑紫磐井 野干

蛇の出た穴大きくて武蔵ぶり 丸谷才一

馬頭尊武蔵の野路の秋ゆふべ 佐藤春夫 能火野人十七音詩抄

黒揚羽武蔵総社の相撲かな 斉藤夏風

武蔵国のほいほい講の札余寒 辻桃子

つまみ食ふ武蔵も奥の葉蓼かな 三橋敏雄 巡禮

擂粉木の素の香は冬の奥武蔵 三橋敏雄 眞神

武蔵より相模へ通ふ猫の恋 有馬朗人 耳順

武蔵下総山なき国の小春哉 夏目漱石 明治二十八年

無二の武蔵の無念無念の蝙蝠よ 高柳重信

雪の夜長き「武蔵」を終わりけり 徳川夢声

きじ啼や草の武蔵の八平氏 與謝蕪村



関東の武蔵をテーマとする句が多かった。

記憶していたわけではない。ネット検索で、NHK大河ドラマの「武蔵」は2003年の放映であることを確認。
それが一度目の我が家訪問の時であったかどうか、イギリスで下宿主として世話になったガイスン夫人の長男ピーターを連れて美作へ出かけたのは2003年であった。

播州から美作にかけて武蔵放映の幟がいたるところでたなびいていた。

日本好きではあったが、宮本武蔵などという剣豪については聞いたことがないイギリス人に、
実のところ吉川英治の作品を耽読したこともない日本人が、武蔵を講釈するのは厄介である。
かなりいい加減な説明で車を止めた場所と武蔵との関係を説明したことを思い出す。


その折にも宿舎はバレンタインホテル。

佐用の道の駅「平福」周辺の町並み、
最近は全く近寄らないが、西粟倉の運動体験公園(宿泊施設もある)、Mrs K宅(きろろガーデンはまだなかったかも。ともかくピーターは足腰に重大な障害を持っていたので坂道は避けた)、
私の母親の里
上月城跡など

田園を連れまわした。

武蔵生家などは私が美作詣でを始めた1995年から数年の間に何度か訪ねたが、今年久し振りに再訪。付近の様子が一変しているのに驚いた。

この前は南からこの地へやってきた。今回は北からこの地へ乗り込んだ。ここは初めてだと言い張るワイフも再訪であるのに気付くまでかなりの時間を要した。

↑五輪坊前

↑平尾家


ついでに智頭線の駅「大原」駅も覗いた。過去に一度寄ったようにも思うが意外に最適期に訪れた気分であった。

ちょうど特急列車が駅に入ってきた。
下りの特急が出た後、1両の上り(列)車到着。

大原駅の独断的特徴
1、有人駅である。
2.よって特急列車が止まる
3.この駅を始発(終着)駅とするバスの便がある。
4.改札口を入ると道路に出る。高架下のトンネルをくぐってホームに
 上るシステム。

残念ながら数人の下車客は、特急列車の到着時間に合わせていると
見られる、数時間に1本しか出ないバスに乗車する気配はなかった。

→バスは無人で始発駅を出ていった。







雛祭

$
0
0

↑の案内を7日に見て9日朝に階段雛が公開されることを知り、
8日はバレンタインホテル泊りであったが、9日の朝、主義に反して
(ホテル泊の場合はチェックアウト時間ぎりぎりまでホテル機能を楽しむべし)8時半にチェックアウト。また湯郷温泉へ引き返した。

湯郷温泉のひな祭りの様子をLineで送ったら、7歳児からなんで今頃
雛祭りなのかとお咎めが届いた。

多くの家(店)が門前に出しているのは↓

名湯のヌードポスター冬木の芽

旧作。句会で公表。多くの人は、若い女性が湯に浸かっている宣伝ポスターのことと思ったらしいが、実は湯郷温泉にある(あった)ヌードショー専門店のポスターが素材。

ポピースプリングスという名の様式ルームを備えたホテルの1泊料金が目が飛び出るほど高かったころは簡保旅館などを宿泊所にしていた。
ある年連泊した宿は、スポーツ選手の合宿所のようなところであった。

夕食が終わったころにミュージック・ホール向けのバスが仕立てられ、
部屋部屋にお誘いの声がかかるのである。夫婦で滞在していた我が部屋には声はかからなかったが、宿の中が一瞬ざわざわする。

かなり遠くまで出かけるのかと思ったが、
ポピースプリングスに泊まるようになって近所を散歩をしているとホテルのすぐ隣と言ってもいい場所にそのホールがあるのを発見。

大阪の「本場」からの出張公演のようであった。

まあ、今でもこんな店に出入りしたからと言ってオリンピック出場停止までにはならないであろうが、

市の方針か、温泉旅館組合の方針が変わったらしく、あるいはバブル崩壊以後会社の慰安旅行といった制度が無くなったせいか、この店は休業、今は廃業したらしい。その店の前にも雛飾りボックスは置かれていた。

確か、このボックス、6月には、蛍狩り用案内ボックスに替るはずである。

↑のどれかが当該店舗跡にあるものというわけではない。為念。

湯郷温泉観光ホテル前↓

常夜灯

ポピー前

2泊3日の小旅行から帰った翌日は日曜日。
また高速道に乗って、神戸市北区の施設へ。
そこから帰って近所の公園の桜の状況確認

花はまだまだ鑑賞可能。人出もなかなか。

晴天でかつ温かかった。夜は冷え込むので花が長持ち。

昨日の月曜日は肌寒い日。平日だし、学校始まっているし。

葉桜になってきた。2組ほどがゴザ(シート)敷いていた。

↑我が標準木↓

今晩も、夕食後、公園まで往復。
花はまだ残っている(とりわけ標準木。ということは標準木の資格がないかも)が、もうシート敷く人はいない。

・・・・・・・

加賀千代女も結構多くの句が残っていることを知った。
(悠さんのブログで)

加賀千代で検索



落鮎や日に日に水のおそろしき 加賀-千代尼 選集古今句集

川ばかり闇はながれて蛍かな 加賀千代


2句のみ登場

落鮎の句などは現代(ホトトギス)俳句としても通用する。

私も

落鮎の村に一女が誕生す

という句を作ったことがある。美作詣を始めたころの「実話」が素材である。1995年以後数年以内の作句である。
その頃、Mrs Kの集落では小学校に通う子が、0か一人になったか。
男子農業従事継承者が欲しい村に、女の子が誕生した。
「限界集落」という言葉はまだ誕生していなかった。
この新語は誕生後、一年もすると追放の憂き目にあった。
(この語を思いついた社会学者は栄光から落ち目へ真っ逆さまであったかどうか?)
一年以上経って俳句作家の耳に入り、
句会でもよく登場するようになった。
私は追放役の一人で、
今では句会にも登場しない。

千代女で検索

千代女が作品中に登場する句を含めて81句でてきた。もちろんダブリあり。

地に遊ぶ鳥は鳥なり初霞 千代女

着ぶくれて千代女の国を徒歩く 須永かず子

二日三日身の添ひかぬる袷かな 千 代 女

戸の開てあれど留守なり桃の花 千 代 女

影は瀧空は花なり糸桜 千代女

流れ合うてひとつぬるみや淵も瀬も 千 代 女

道くさも藪のうちなり若菜摘 千代女

若水や流るゝうちに去年今年 千代女

初空や鳥はよし野のかたへ行く 千代女

竹も起きて音吹きかはす初日かな 千代女

水仙の香やこぼれても雪の上 千代女

雪の夜やひとり釣瓶の落つる音 千代女
なかなかの句である。もちろん古風ではあるが
現在の結社誌に登場すれば秀句扱いを受ける。

水仙の香も押し合ふや年の市 千代女

茶の花や此の夕暮を咲きのばし 千代女

明ぼのも暮の姿やかへりばな 千代女

手の力そゆる根はなし蕪引 千代女

吹き別れ吹き別れても千鳥かな 千代女

ともかくも風にまかせてかれ尾花 千代女

万両は兎の眼もち赤きかな 千代女

枯野行人や小さう見ゆるまで 千代女

鳥影も葉に見て淋し冬の月 千代女

渋かろか知らねど柿の初ちぎり 千代女

犬吼て家に人なし蔦紅葉 千代女

川音の町へ出づるや後の月 千代女

十六夜や囁く人のうしろより 千代女

朝顔に釣瓶とられてもらひ水 千代女

桔梗の花咲時ぽんと言ひそうな 千代女

月の夜や石に出て啼くきり~す 千代女

落鮎や日に~水のおそろしき 千代女

鶏頭やならべてものゝ干て有 千代女

草の戸や手によごれたる花も咲 千代女

行く水におのが影追ふ蜻蛉かな 千代女

縫物に針のこぼるる鶉かな 千代女

蝶~の身の上しらぬ花野哉 千代女

木からもののこぼるる音や秋の風 千代女

水音に濡れては帰る夕すずみ 千代女

かけたらぬ女心や土用干 千代女

風さけて入り日涼しき菖蒲の日 千代女

川ばかり闇は流れて蛍かな 千代女

戻りては灯で見る庵のぼたんかな 千代女

卯の花は日をもちながら曇りけり 千代女

うきぐさや蝶の力の押へても 千代女

水音は水に戻りて水鶏かな 千代女

ものの音水に入る夜やほととぎす 千代女

取りつきて消ゆる雲あり雲の峰 千代女

とぼし灯の用意や雛の台所 千代女

流れ合うてひとつぬるみや淵も瀬も 千代女

つくづくしここらに寺の跡もあり 千代女

わが美作のあちこちに見られる「風景」。江見廃寺跡など。
ここに後醍醐天皇は流される途中宿泊したとか。


ものの葉のまだものめかぬ余寒かな 千代女

分け入れば水音ばかり春の草 千代女

淡ゆきや幾筋きえてもとの道 千代女

矢絣を千代女も好み萩の花 佐藤美恵子

髪を結ふ手の隙明(ひまあき)て炬燵かな 千代女

十六夜や囁く人のうしろより 千代女

月の夜や石に出て鳴くきりぎりす 千代女

落鮎や日に日に水のおそろしき 千代女

朝顔に釣瓶とられてもらひ水 千代女

秋の野や花となる草ならぬ艸 千代女

三日月にひしひしと物の静まりぬ 千代女

月も見て我はこの世をかしく哉 千代女

夕顔や女子の肌の見ゆる時 千代女

戻りては灯で見る庵のぼたんかな 千代女

うきぐさや蝶の力の押へても 千代女

水音は水に戻りて水鶏かな 千代女

風さけて入り日涼しき菖蒲の日 千代女

ものの音水に入る夜やほととぎす 千代女

風ごとに葉を咲き出すや今年竹 千代女

朝の間のあづかりものや夏の露 千代女

卯の花は日をもちながら曇りけり 千代女

蚊屋つりの草もさげてや花御堂 千代女

蝶々や何を夢見て羽づかひ 千代女

春雨やうつくしうなる物ばかり 千代女

春雨や土の笑ひも野に余り 千代女

月の夜や石に出て鳴くきりぎりす 千代女 (1703-1775)

朝顔に釣瓶とられてもらひ水 千代女 (1703-1775)

落鮎や日に日に水のおそろしき 千代女 (1703-1775)

川ばかり闇はながれて蛍かな 加賀千代女

落鮎や日に日に水のおそろしき 千代女

朝顔に釣瓶とられてもらひ水 千代女

月の夜や石に出て鳴くきりぎりす 千代女


千代尼で検索 この検索結果は560句。最初の100句から。

福藁や塵さへけさは美しき 千代尼

萩は実になりけり雨の千代尼の忌 藤田あけ烏 赤松

似た事の三ツ四ツはなし小六月 千代尼

朝顔や星のわかれをあちら向 千代尼

秋立つやきのふの昔し有のまゝ 千代尼

秋立やきのふのむかし有のまま 千代尼 選集古今句集

落鮎や日に日に水のおそろしき 加賀-千代尼 選集古今句集

髪をゆふ手の隙明きて炬燵かな 千代尼 五車反古

朝顔や星のわかれをあちら向き かが 千代尼 五車反古

初時雨風もぬれずに通りけり 千代尼 五車反古

萍の身はまだおもしかきつばた 千代尼

蘭の香に遊ぶ日はなし菊の花 千代尼

木陰から出て日の暮るる紅葉かな 千代尼

蕣の花や木陰のおそろしき 千代尼

このうへは白きものとてしぐれけり 千代尼

なごりなごり散るまでは見ず梅の花梅の花 千代尼

約束を何々持つや種ふくベ 千代尼

あしあとは男なりけり初桜 千代尼

つめたさは目の外(そと)にありけさの雪 千代尼

しなはねばならぬ浮世や竹の雪 千代尼

夕顔の身は持ちにくしあきの風 千代尼

こぼれては常の水なり紅の露 千代尼

はつ雪やほむる詞もきのふけふ 千代尼

有る手からこぼれ初てや梅の花 千代尼

すぎしさや手は届かねど松の声 千代尼

柳から残らず動く氷かな 千代尼

ふか入りのした日の脚や山桜 千代尼

来て見れば森には森のあつさかな 千代尼

朧夜や見届けたもの梅ばかり 千代尼

ひとつ家も摘み出す雪の若菜かな 千代尼

けふ来ずば人のあとにか初桜 千代尼

あさの間は空にしられぬ暑さかな 千代尼

しののめやとめし蛍を置き忘れ 千代尼

涼風の這入りて見えぬ紅畑 千代尼

柳にも雫みじかしはつしぐれ 千代尼

どち見むと花に狂ふやよしの山 千代尼

淋しさは間人にこそかんこどり 千代尼

鶯やよし野の沙汰に気もつかず 千代尼

その中に唯の雲あり初時雨 千代尼

ともかくも風にまかせてかれ尾花枯尾花 千代尼

けふばかり男をつかふ田植かな 千代尼

夕顔も音るやくそくぞほしまつり 千代尼

明月や雲間につもる水の音 千代尼

としの尾や柳に青う結び行く年の暮 千代尼

鳴く雲雀呼び戻したるかはづかな 千代尼

どう見ても春散る種や草のはな 千代尼

夕ぐれを引きあつめてぞしかのこゑ 千代尼

あさがほや草臥(くたびれ)直る夜は持ず 千代尼

唯置て枕の塵や時鳥 千代尼

こがらしやすぐに落ち付く 千代尼

木からもののこぼるる音や秋の風 千代尼

唯かへる心で出たにはつざくら 千代尼

鶯はともあれここの初音かな 千代尼

はつかりや通り過して声ばかり 千代尼

せみの音やからはその根に有ながら 千代尼

とぼし灯の用意や雛の台所 千代尼

はつ雪や降おそろしう水の上 千代尼

それほどにかはかぬ道やもものはな 千代尼

鑓もちや雛のかほも恋しらず 千代尼

としのうちの春やたしかに水の音 千代尼

朧夜やうたはぬ歌に行き過し 千代尼

涼風の植所なき住ゐかな涼風 千代尼

落葉まで風の物とや持歩行 千代尼

はつゆきは松の雫に残りけり 千代尼

はつ雁や山へ配れば野に足らず 千代尼

踞(つく)ばふて雲を伺がふ蛙かな 千代尼

だまされて来て誠なり初ざくら 千代尼

明月や白きにも似ず水の音 千代尼

あいさつはうちとの風でしまひけり涼風 千代尼

葉桜や知らぬむかしのものに成 千代尼

あさがほや誠は花の人ぎらひ 千代尼

ながれてはまた根にかへる柳かな 千代尼

はつあきやまだ顕はれぬ庭の色 千代尼

涼しさや梢々の吹あまり 千代尼

涼しさや恥かしいほど行き戻り 千代尼

里の子の肌まだ白しももの花 千代尼

涼しさや氷室の雫々より 千代尼

葉も塵もひとつ台(うてな)や雪の花 千代尼

たち尽すものはかかしぞ后月 千代尼

萍を岸に繋ぐや蜘の糸 千代尼

ひめ百合や姿見をする子供から 千代尼

涼しさやあるほど出して鷺の首 千代尼

はつ雁や見捨てた花を草の時 千代尼

のちの月始めてせばきいろりかな 千代尼

囀りを世にや譲りて松の琴 千代尼

綿ぬきや蝶はもとより軽々(かろがろ)し 千代尼

たんぽぽや折々さます蝶の夢 千代尼

木々の闇植ても置かず杜字 千代尼

鶯や梅にも問はずよそ歩行(ありき) 千代尼

涼風や押され合たる草と草 千代尼

灌仏や蔦の若葉もあゆみそめ 千代尼

夕立や卒爾(そつじ)な雲の一とをり夕立 千代尼

総じて千代女は思いのほか新しい。

朝顔に釣瓶とられてもらひ水
 千代女

この句が(この句だけが)圧倒的に有名だが、
やや俗ぽいとして嫌う人も多い。俺は俳句を知っていると思ってる人
が嫌っている。

あさがほや草臥(くたびれ)直る夜は持ず 千代尼

この句の方がはるかに上等である。江戸期の農家の嫁には夏休みなどなかった。というように、作者自身の状況として理解すると重層性が生まれる。

そして

あさがほや誠は花の人ぎらひ 千代尼

は、はるかに現代的である。
確かに主観的で観念的かも知れないが、
主情なき句は古臭く思う。
重層的な発想なき句も平凡である。

先祖祭

$
0
0

先祖累代耶蘇を憎みて龍の玉 佐々木六戈 百韻反故 吾亦紅

新米の膳に居(すわ)るや先祖並み 一茶

先祖に会つたことなし業平忌 桑原三郎

先祖といふお荷物や墓洗ふ 清水基吉(1918-)

法體の先祖の像や土用干 会津八一

先祖代代おんな時おり鏡を拭く 池田澄子

朧夜のしいて思えば先祖あまた 池田澄子

もう芽が美しい先祖からある家木も伐り倒してしまう 橋本夢道 無礼なる妻

先祖代々と貧乏はだか哉 一茶 ■文政九年丙戌(六十四歳)

淋しさやおち葉が下の先祖達 一茶 ■文化十年癸酉(五十一歳)

仏檀に先祖こみあふ涼しさよ 長谷川双魚

父の実家がある集落(30戸ほど)で先祖代々行われてきた祭に参加(江戸時代からは確実。この地に祖先が居住し始めたのは1689年から。その当初からやっていたであろう。)

よって300年以上続いている。今の姓に変えたのは、もう300年遡る。1600年9月15日に開戦した関ケ原の戦いでは毛利藩士として出陣。戦傷を負い、翌日9月16日に死去。
この人物はそれより前、慶長の役では、朝鮮半島へ従軍している。
秀吉の妄想の影響である。海外派兵を免れた家康が軍事力、
経済力を温存、関が原での勝利の遠因となった。

その子等は、もともとの出身地であった播州の西,美作の山中に隠れ住んだようである。
そういう親族がかなりいたように思う。あるいは一族の多くが、それ以前に美作で帰農していたかもしれない。その人たちを頼っての美作行であったかも。

1600年から1689年までの祖先の消息ははっきりしない。1689年に近辺の明神という地域から今の場所に移り住んだ。
90年間、明神に居たのかどうかは分からない。ともかく家系譜に拠ればこの89年、ないし90年の間に7代を経ている。直系と考えると少々代数が多すぎる。多分、兄から弟へといった代替わりが複数回含まれているのであろう。

「大前」という屋号の家が現在の大本家である。
父の実家はこの家の分家である。
今では10家ないし11家が、Mrs Kのきろろガーデンの背後の山を15メートルほど登ったところに配置されている祠の前に集まる。

↑背後の山では山つつじが咲き始めている

↑祠の前にわずかな隙間にシートを広げる。大きな木は栗の木である。

↑のような木札が数枚おさまっているだけである。
若宮と呼ぶ以上、播州にある赤松氏ゆかりの神社でおさがりの印を受けたのであろう。

私はたぶん1996年ごろからこの若宮祀に参加しているから、もう20年になる。
今年の初参加者はMrsKの配偶者Mr Kの兄。
今の当主は私の従兄の次男である。(私の父の、20以上歳の離れた長兄の長男)
兄から弟へ家督が継承されたのではなく、
兄は都会での企業マン生活を欲して、家督継承を弟へ託した。
その兄も定年退職、機会あるごとに実家に戻り、家業(=農業)を手伝っているようである。

先祖祭の当日、私はバレンタインホテルを、朝、8時半に出て
湯郷温泉の階段雛を見てから、10時過ぎに会場下にあるMrs K宅の庭へ車を入れたが
朝7時過ぎに奈良唐招提寺付近にある自宅を出た兄なる人物はまだ未到着であった。

中国道は、宝塚ー西宮北、なかんずく宝塚西トンネルまでを何分で通過できるかで美作までの所要時間は30分以上差が出る。

↑いつもは、応接間(なにか呼称が在ったかもしれない。「きろろの間」ではなかった)に上がるのだが、Mrs K夫婦は、参加者の中の最若年ということで、会場整備の仕事の多くを請け負っているし、暖かい陽気だったので、お茶(しそジュース)は、Mrs Kの長男夫婦の住む離れ(今では別棟ないし隣家と呼ぶ方がいいように独立している)の前庭でいただく。

横に小さな池があるがTihiro君対策で柵が設けられた。

テーブルの前には鯉のぼりのポールが立っている。
ひのきの一本柱で、Mr Kの手作りだが、真直ぐ立てるのにはかなりの苦労がいるようである。


垣根の外は、現在は休耕田の扱いになっているが貴重な農作業場である。

ここで苗代造りをやっている。
この集落のみならず、美作市内でも自分の家で苗代を作っているのは、この家のみという噂である。


やがて父を罷面するかも鯉幟

という句はこの鯉幟を思い浮かべて作句。
2016年のある書店の俳句年鑑掲載用にこの句を送った。
11日にFAXが入り、

罷面となっているが「罷免」の間違いではないかという問合せ。
12日中に回答せよということで、昨日慌てて「すんまへん」と返信。


やがて父を罷免するかも鯉幟

もちろんモデルは、息子ではなく、大塚家具さんの娘さんである。


ところで今年の椿事は、「閉祭の儀」が加わり、最長老にやってもらうということになり、
年齢確認の結果、私が当日参加者の中で最長老であることが判明したこと。
大本家の当主は、別の業務が発生したということで不参加。私より年上の人は登坂困難とうことで近年不参加が増えた結果。

同じような先祖祭を、私の母親の里でもやっている。
ここでは昨年から登坂困難者が大半を占めるようになり、
開催中止になったままである。

こういう事情や、飢饉や戦争が村々の伝統を途絶えさせてゆくのであろう。

Mrs K宅を出て西へ行くとすぐに、美作南部へ通じる橋があり、その土手につつじが「群生」している。車を止めて鑑賞。
このつつじは誰が植えたというものではなく、川が増水波乱したときに、山から流れ出たものが
根付いたそうである。




つつじ

$
0
0

震度7の地震情報を開始と同時に見始めたため、ブログの執筆開始が遅れた。

句会参加


靴音のまだ濡れている春の宵

という句を真っ先に選句。結果は最高点句だった。

背の高い方が弟つくしんぼ

という句も最終的には5句選の中に加えた。小品で、類句もありそうだが、
すっきりまとまっている。
この句が第2位のくであった。
どちらも同じ作者の句であった。

母の闇重ねていたる雛納め
晩節やからからと行く仏生会

の2句もあまり迷わず頂いた。
この2句は共に、この句会の主任選者の句であった。
どちらも私の選を加えて2点句だった。

5句目に頂いた句は
春の雲高原ホテルの未来像

出句4句

堅香子や女もスカート覗きして
八重桜高速道とは名ばかりの  (「高」が兼題)
満タンにして飛花落花の村脱ける
三椏の花褪せ剣豪生家跡

9日の午後、岡山ファーマーズ・マーケット ノースビレッジを覗いた。
つつじの見ごろ
枝垂桜もまだ十分鑑賞可能だった。

入場ゲートを入ると、花時計がある。それを横に見ながら
直進するとすぐに原形を保つ林があってつつじが咲いている。

そこから道が3方へわかれる。山の方へ登ってゆく道と
はるか下のくぼ地にある池の方へ行く道と、
山道の中をつつじを見ながら下って行って、広い草地の丘陵へ行く道と。

しだれざくら






作東バレンタインホテル

$
0
0

2泊3日の美作行から戻った夜から美作花紀行、まだ画像がたくさん残っている。
いつもいつもだが、バレンタイン・ホテル

ここのつつじもきれい。まだ蕾も多い。

桜ともあう。

ただしこのバレンタイン公園の桜は、全部伐採して、土を消毒して、植え直す必要がありそう。

高台のてっぺんにあるホテルの前庭から見下ろすと、かつての作東町町役場がある。↑
職員全員が車通勤者であることを想定したような駐車場設備がある。
画像に写る駐車場には○H(丸エッチ)の記号が書かれていた。
すなわちヘリコプター着陸可能であった。
新郎新婦を乗せてここへ降りる演出は、だいぶ前に無くなった。
いろいろ理由があったようだが、
大量の粉塵がここ以外へ移動させた車にも各種の傷を与えるのも一因。
多分式費用もかなり高額になるからでもあろう。
雨の日に新郎新婦をここへ降ろすとチャペルまでの移動が大変である。
ここに駐車可能な車を他へ移すとなると、一般参加者の駐車場からホテルまでの移動も難儀である。

なにしろホテルの前庭、チャペルの麓のホテル専用駐車場は3台分のスペースしかない。

↑わが愛車は、広々とした障がい者専用スペースに止めている。
一般車用のスペースはすでに他の車に占領されていたので。
土曜日の朝の撮影。この日も1組の結婚式があるよう。
よって事前予約も多かったようで、
4階の部屋で5階にベッドルームがあるメゾネット形式の部屋が1室のみ空いていたのでそこを予約していたが、旅行出発前日に電話が入り
キャンセルが出てツインルームを使えることになった。

↑この角度が好きだった。一つには、この場所に立つと母が生まれた家が見えたからである。
今は植林された木が高くなって全く見えない。

↑東家があるこの道も好きであったが、草刈りがなされていない時が増えて敬遠。

私の中の号外バレンタインの日 石山正子 銀化

嫁ぎしとバレンタインの日に知りぬ 田畑美穂女

いつ渡そバレンタインのチヨコレート 田畑美穂女

ひとに会ふたのしさバレンタインの日 土田祈久男 『素心』

いつ渡そバレンタインのチョコレート 田畑美穂女

乳牛の黒き眼バレンタインの日 大峯あきら

金色の封蝋バレンタインの日 水田光雄

連名のバレンタインのチヨコレート 吉年虹二

傷光るバレンタインの日の崖も 坪内稔典

呼び交す烏もバレンタインの日 渡邊千枝子

連名のバレンタインのチヨコレート 吉年虹二

バレンタインのチヨコ携へて出講す 山田みづえ

いつ渡そバレンタインのチヨコレート 田畑美穂女

老人には和菓子バレンタインの日 高澤良一 素抱

ひとごとの最たる日なりバレンタイン 高澤良一 素抱

仏にもバレンタインのチヨコレート 釘宮のぶ

くるみの実こじあけてみるバレンタイン 平北雪子

バレンタイン女嫌いの老医にも 六城五十鈴

何事もなく暮れバレンタインの日 廣井良介

緑茶熱く飲みしがバレンタインの日 宇咲冬男

バレンタイン・チヨコのシックなラッピング 柿本久美

今生に居合せバレンタインの日 鈴木しどみ

仏壇にバレンタインのチヨコレート 山根きぬえ

待ちあはすバレンタインのティールーム 安藤雅子

指染めてバレンタインの夜を独り 中野貴美子

バレンタイン誰彼なしに影加へ 松澤雅世

通天閣に灯が入りバレンタインの街 友永佳津朗

少女ゐてバレンタインの日の木陰 櫛部天思

母は母娘は娘のバレンタインの日 山田弘子 こぶし坂以後

夫婦にもバレンタインの遊びごと 山田弘子 螢川

何事もおこらずバレンタインの日 原田清正

娘来てバレンタインの日となれり 小林 勲


こうやって例句探しをやっていてよく出会うのが高澤良一さん。すっかりなじみになったが、俳歴などは全く知らない。
「高澤良一」で検索。
驚き!!16,899句とでてきた。
最初の100句

高澤家長男にして墓洗ふ 高澤良一 素抱

家居とは無言なる行大ひでり 高澤良一 暮津

山車に蹤く子につき添ひて俄灼け 高澤良一 暮津

がさつかせ茂みの虫を捕る雀 高澤良一 暮津

骨折のそれでも使ふ莫迦団扇 高澤良一 暮津

追ひ回し遂にデメキンゲットの子 高澤良一 暮津

新春の蹴球(サッカー)魂激突す 高澤良一 暮津

ポケットの小銭ちゃらちゃら炎天へ 高澤良一 暮津

盂蘭盆の漢方薬を嚥み下す 高澤良一 暮津

選句稿大暑の脳天澄まし選る 高澤良一 暮津

猟犬のごとく切り込み初ゴール 高澤良一 暮津

祭子のぽけっとうたた寝せる素顔 高澤良一 暮津

帽子などなくてもへっちゃら炎天ゆく 高澤良一 暮津

裸仕事疾うに脂の切れし吾 高澤良一 暮津

翅休め昭和の遺物扇風機 高澤良一 暮津

金魚屋のまだ水張らぬ槽(ふね)二つ 高澤良一 暮津

凌霄花散るに興じてはめ外す 高澤良一 暮津

風鈴の黙ったまんま救はれず 高澤良一 暮津

快音と共に昇天手打ちの蚊 高澤良一 暮津

床擦れの我が身離れぬ旱かな 高澤良一 暮津

とびとびに埋まる社の夜店かな 高澤良一 暮津

肋に手やりて涼める門ほとり 高澤良一 暮津

瘡蓋の黒くかさばる大暑かな 高澤良一 暮津

生水のなまあたたかき朝曇 高澤良一 暮津

塗箸の貝の浮き顕つ大暑かな 高澤良一 暮津

大木の欅に隣る夜店かな 高澤良一 暮津

莫迦となる錠や西日の硝子窓 高澤良一 暮津

初浴衣姉と妹は対の柄 高澤良一 暮津

指の間に残る大暑の薬粒 高澤良一 暮津

雀らも群れをつくりて正月す 高澤良一 暮津

荒梅雨にぶっくさ云ひても始まらぬ 高澤良一 暮津

妖怪の親玉何故か女郎蜘蛛 高澤良一 暮津

遠雷は響かず雨が蓋をして 高澤良一 暮津

前立腺そこを痛めて明易し 高澤良一 暮津

薄暑来て始末の悪きチョコレート 高澤良一 暮津

湯殿の蚊裸の吾に対しけり 高澤良一 暮津

けふも又雨かやれやれさくらんぼ 高澤良一 暮津

さらしくじら祖父の象牙の箸使ひ 高澤良一 暮津

夏風邪に昇れる月のうすぼんやり 高澤良一 暮津

のどちんこ程の赤さのさくらんぼ 高澤良一 暮津

ぢゃんぢゃんと火焔樹の花咲き継げり 高澤良一 暮津

夕餉に腹足りて出づれば夏の月 高澤良一 暮津

さくらんぼつまみて食へば雨の味 高澤良一 暮津

氷水匙突き刺して小休止 高澤良一 暮津

芋の露面白ければ覆す 高澤良一 暮津

かなぶんのその実(じつ)よからぬ虫と聞く 高澤良一 暮津

曉斎の蜘蛛出づ月の怪しき夜(河鍋曉斎) 高澤良一 暮津

冷奴本心さらりと云ひ退けし 高澤良一 暮津

花ダチュラだらんとぴちょぴちょ雨の路地 高澤良一 暮津

苧殻火を跨ぐ仕種が身について 高澤良一 暮津

さくらんぼ片目つぶりてまだ酸しよ 高澤良一 暮津

留守居して残り福めくみかん剥く 高澤良一 暮津

指の蟻吹き飛ばさむとして三度 高澤良一 暮津

ポーチュラカ何處かとぼけしその響き 高澤良一 暮津

鰻喰ふ客を横目に鰻喰ふ 高澤良一 暮津

わらわらと風に噴水くずおれぬ 高澤良一 暮津

云ふに窮してそこまで云ふか冷奴 高澤良一 暮津

アメリカ芙蓉国家斉唱するごとし 高澤良一 暮津

月下の蜘蛛昔京都に天誅組 高澤良一 暮津

氷水真っ赤なやつに歯が浮いて 高澤良一 暮津

うるはしき風のかたちに青萩は 高澤良一 暮津

雨の日の玄関百合の匂ひ漬け 高澤良一 暮津

遠見はた座睡齢は百近く(義父) 高澤良一 暮津

金魚掬ひまだ諦めぬ姉の意地 高澤良一 暮津

黒煮豆芯まで冷えてゐたりけり 高澤良一 暮津

曉斎が呼ぶから来たぞ新春展 高澤良一 暮津

鉢植えの蕎麦屋の風船かづらかな 高澤良一 暮津

元朝の煙草を買ひにボテボテ着 高澤良一 暮津

抜け気味の夏風邪妻よ無理するな 高澤良一 暮津

風往(い)なすことにかけては宮城野萩 高澤良一 暮津

当地ではアサマキスゲと呼ばれもし(ユウスゲ軽井沢にて) 高澤良一 暮津

風鈴の舌とて臨時のボール紙 高澤良一 暮津

朝顔の蔓の一つも蟻の道 高澤良一 暮津

灸花頭隠して尻隠さず 高澤良一 暮津

水打てば庭木喜ぶことしきり 高澤良一 暮津

寝ね易く団扇要らずの夜もありき 高澤良一 暮津

蛞蝓の光を溜めて薄笑ひ 高澤良一 暮津

繍線菊の愛くるしさに接しけり 高澤良一 暮津

宇宙(コスモス)の誕生の謎蝸牛 高澤良一 暮津

部屋隅に凋む風船松過ぎぬ 高澤良一 暮津

松過ぎの洗濯物に差す薄日 高澤良一 暮津

しゃんとして蕣朝を迎えけり 高澤良一 暮津

勝手よりすげなき返事夜の秋 高澤良一 暮津

昼顔に尽きざるガードレールの白 高澤良一 暮津

蜘蛛料る羽根を一枚残せしのみ 高澤良一 暮津

蝸牛手にして宇宙膨張説 高澤良一 暮津

蟹の肉せせる腕をあやつりて 高澤良一 暮津

この家にはこの家の家風おかとらのお 高澤良一 暮津

この匂ひ鮃の煮付け夏の月 高澤良一 暮津

冷し酒お先走りもいいところ 高澤良一 暮津

豚と合ふ生姜ご飯の進みけり 高澤良一 暮津

いつも使ふハンカチおのづと定まりて 高澤良一 暮津

朝顔蔓おいおいそこは物干竿 高澤良一 暮津

初日影取り込むソーラーハウスかな 高澤良一 暮津

油虫厨をちょろちょろ醤油いろ 高澤良一 暮津

追憶を肴に老いの麦酒乾す 高澤良一 暮津

さて蝶はどの花序選ぶグラジオラス 高澤良一 暮津

覇を競ひ九州男児サッカーす 高澤良一 暮津

急ぐ蟻そこで道草喰へる蟻 高澤良一 暮津

松とれて心機一転鳶のそら 高澤良一 暮津

この方HPをお持ちである。

「自分のこと」のページから

1940年7月16日横浜本牧に生まれる。 
父母が多少俳句をやっていたお陰で高校時代から我流で句作を始める。 
本格的に俳句に接したのはNECに入社して大野林火先生の句会に出席してから のこと。 
林火先生亡きあとは松崎鉄之介先生に師事し現在に至る。 
俳句結社「濱」同人。「濱」賞受賞。俳人協会会員。 
/

前震

$
0
0

7~9日美作行
とっくに終わっていることを承知でセツブンソウ(節分草)を見に、廃神社を覗いた。

廃神社とは言えないかも。無住社というべきか。

花が終わっていると、私は葉では識別できない。

3月中旬までに美作へ来れば、花は残っている。
↑初めての人なら案内板の下に咲いている花を節分草と勘違いしそう。

↑イチリンソウである。
姫踊子草しか知らなかったワイフの為に踊子草を見つけた。
私も今年初めて遭遇

もっと大きくなったものしか知らなかったが、この程度だと可憐な感じ。

無住社あたりの景色

この日は昼過ぎに遠い親戚である真言宗の寺を訪問。母方祖母(旧姓皆木)と前の住職(旧姓 小椋 例の木地師の小椋である)が従姉弟という関係だから、現の住職と私との関係は7親等である。
金堂を再建、僧房と厨房を新築、目下は本堂再建中である。

京都から来ていた宮大工に出会った。
4月8日ということで庚申餠という名のおはぎを宮大工さんともども頂いた。この日に食べるとⅠ年間風邪をひかぬとか。
「庚申餠」という言葉そのものはネット上では解説を見つけることが出来なかった。

鐘楼もかなり傷んでいるが改築の予定はない。宝物殿を造りたいとか。奥の院が今では一番古い建物となった。釈迦堂も新しい。

除夜の鐘は111回撞くことを学んだ。
3つは予鈴である。
今日CNNを見ていたら、foreshockという表現を使っていた。
予震があって本震があって余震があるともいえるが
「前震」が目下の用語のようである。
この前震を英語でforeshockと訳したのであろう。
逆ではないと思う。

でもって今の揺れがどれであるかは1年くらいしないと分からないのが
目下の地震学であるようだ。

厨房を守っているは現住職の姉である。
「老いの口」で留守だと言われ、
ワイフは???であったが、私は何となく分かった。
現住職は独身である。
檀家の一人が寺の境内に句碑を建てたいと申し出たが断ったそうである。寺の在り方に反するというのが住職の持論で、
しかたなしにその檀家は自分の家の庭に句碑を建てることにしたそうである。この檀家が、たまたまワイフの俳句仲間故に、5月の句碑びらきにはワイフが招待され、ついでに運転手役の私も招かれるそうである。

真夜の地震ありたる雛調度かな 行方克己 昆虫記

地震のあと夜の靄ふかむ大根畑 宮津昭彦

地震瞬間の画面にも揺れ働く人 五十嵐研三

間引菜に朝来たりけり地震のあと 堀口みゆき

今死にし母をゆすりて春の地震 岸田稚魚 『雪涅槃』

夕顔や方丈記にも地震のこと 阿波野青畝

寒牡丹囲ひ地震の国なりし 西村葉子

生きて会ふ地震一年の臘梅に 五十嵐 櫻

風花の舞ふにつけても地震のこと 関 弥生

地震のあと葡萄の粒のひしめきぬ 宗像ひで

露けしや地震の創ある石灯籠 市川典子

地震つづく夜も泡懐く水中花 星 水彦

地震のあと水脈変りたる種井かな 成田黄二

繭玉に残りて久し夜半の地震 根岸善雄

地震過ぎて夜空に躍る冬の梅 水原秋櫻子

息白しはげしき地震に膝つきて 岡本まち子

地震のあと髭のいとどの二段跳 根岸 善雄

地震のことふと忘れをり花明り 石定まさ子

地震ありて田螺の歩み逡巡す 内山 亜川

春宵や地震にまろびし加賀手鞠 宮崎みさを

春暁のかなしき夢を地震が断つ 宮津 澪子

地震つづく栗駒山の虫の闇 仙田洋子 雲は王冠

地震過ぎて夜空に躍る冬の梅 水原秋桜子

地震はげし雪吊の縄切れ縮み 西本一都

地震しげく草の実はじけやまざりし 西本一都

ゆれてゐる地震が藤や菊人形 小林拓水

夕顔や方丈記にも地震のこと 阿波野青畝

父の日の明方の地震わたりをり 八木林之助

今朝もまた小さき地震金魚玉 吉井莫生

アネモネの花の崩るる昼の地震 塩谷はつ枝

地震過ぎて夜空に躍る冬の梅 秋櫻子

地震のあと秋晴を極めたり 裸馬

あかつきや地震の後の杜鵑 几董

春の地震大きな鱗こぼれをり 遠山陽子

茶の花を渡る真昼の地震かな 内田百間

地震なき地へ高々と鳥帰る 五十嵐哲也

地震の街空広くして星月夜 稲畑廣太郎

冬の蝶汝もこの地震を生き延びし 三村純也

地震あとは簡素に住みて額の花 千原叡子

地震去つて街の雪掻はじまりぬ 青葉三角草

地震やめば春雷雨を伴ひ来 吉良比呂武

地震後の春夜つんざき稲光 吉良比呂武

五月晴なりけり地震起りけり 鈴木洋々子

塊に蜂歩み居て地震かな 原月舟

涅槃図の生きとし生けるものに地震 西本一都

金魚玉まだ揺れてをり地震のあと 田中三代子

春眠や身ぬちをくぐる地震の音 浅田巌

人逝きて少し地震ある秋の夜半 岸本尚毅 舜

地震止みし地にふたたびの虫の声 西村和子 夏帽子

人逝きて少し地震ある秋の夜半 岸本尚毅

凍つる夜の地震しづまりし黒羊羹 和田耕三郎

地震予後土塀を砕く東風の牙 吉原文音

青芝の馴染みて地震に耐へし家 稲畑廣太郎

地震の禍を留め六甲末枯るる 稲畑廣太郎

夕顔や方丈記にも地震のこと 阿波野青畝

蜂死して地震過ぎゆく山の音 対馬康子 吾亦紅

地震来て冬眠の森ゆり覚ます 西東三鬼

地震のあとひそかに龍の玉こぼれ 高島茂

綿虫の泛く頃合に地震ひとつ 杉山十四男

地震偲ぶ鐘殷々と寒の暁 久保曲浦

今は昔地震を語る火鉢かな 佐藤紅緑

星飛ぶや地震列島闇深き 松本津木雄

閼伽桶に蟻のただよふ地震の国 友永佳津朗

春宵の地震ありしといふなしといふ 高浜年尾

春寒や舟形の月地震にゆれ 中戸川登美

筬欄間日盛の地震わたりけり 宮津昭彦

鮟鱇の海底の地震見たる貌 八牧美喜子

ゆく春の地震とも風の触れしとも 荒井正隆

今死にし母をゆすりて春の地震 岸田稚魚

疼きけり深雪に地震に疼きけり 西本一都

うら枯や田川もあぐる地震しぶき 西本一都

相孤なり地震踏みこらふ吾も月も 西本一都

涅槃図や生きとし生けるものに地震 西本一都

曉けしらむ障子に地震の息ながく 西本一都

夜の稲架しんしん匂ひ地震ふれる 西本一都

寒深し十万の地震ふりしかば 西本一都

穂芒や地震に裂けたる山の腹 寺田寅彦

天鳴れど地震ふれど牛のあゆみ哉 幸田露伴 江東集

夷講地震るといふ末座かな 会津八一

羅や地震かすかなるシャンデリア 鍵和田釉子

腰紐に身を委ねいる春の地震 津沢マサ子

永き夜の地震のときは見つめ合う 池田澄子

地震止みし地にふたたびの虫の声 西村和子

鳰くぐり潜りて地震の神に会ふ 小泉八重子

黄水仙一せいに咲き地震恐る 横山房子

地震すぎて歯軋りのごと浅蜊磨ぐ 横山房子

晩春の地震や志功版画展 栗林千津

永き夜の地震のときは見つめ合う 池田澄子

地震やみしあとのしじまや猫の恋 深見けん二

春の地震白き少年光りあふ 攝津幸彦

子供らに地震のありたる春田かな 大峯あきら

地震雲たりや大綿染めにけり 中戸川朝人

筬欄間日盛の地震わたりけり 宮津昭彦

茶の花を渡る真晝の地震かな 内田百間

山村に晝の地震や梨の花 内田百間

蝙蝠や途次の地震を云ふ女 内田百間

地震多き半島國や春寒き 内田百間

ひと揺れの地震に持ちたる蝿叩 藤田湘子 黒

語呂があわない「地震」は「ない」と読む。
昨日の私の作品
「飛花落花の村脱ける」を、披講係は「ぬげる」と読まれたが
「ぬける」と読ませている。
「東風」は俳句になじみがない人でも「こち」という読みをご存じである。
「南風」は2音読みを求めている時は、「はえ」、3音読みなら「みなみ」
「涅槃西風」で登場する「西風」は「にし」と読む。
そういう世界に永年住み込んだので、いまではなんの抵抗もないが文学少年が独学で、文庫本になっている句集など繙くとまず最初の1ページ目で躓きであろう。

そういう躓きをできるだけ避けて作句したいと思っている。

サトザクラ

$
0
0

サトザクラ里桜)は、サクラ園芸品種の総称だが、使われ方によりいくつかの異なる意味があり、狭義から広義に並べると、おおむね次のように分けられる。

  1. オオシマザクラを基にして開発されたと考えられる園芸品種。オオシマザクラヤマザクラエドヒガンカスミザクラマメザクラなどを掛け合わせたものとされる。
  2. 異なる「群」の間の雑種全て。
  3. 全ての人工の園芸品種
  4. 野生種の突然変異も含め、全ての園芸品種

サトザクラの歴史は、人々がサクラを庭に植え始めた平安時代からと言われる。このころから品種の育成が行われ、人為的な交配や突然変異、野生のものからの選抜育成などが続けられた結果、200種以上のサトザクラが誕生した。オオシマザクラの影響は大きいと言われる。

サトザクラは往々にして人間の観賞用に改良されてきたため、花びらの数の多いものや、見栄えのするものを選んで作られている。八重咲き、枝垂れ咲きの種類も多い。  ウィキペディアより

楊貴妃も関山(カンザン・セキヤマ)も松月も普賢象もサトザクラである。

八重桜全員集合無理みたい

松月 4月12日

場所はいつもの桜通り。冬桜や寒桜、寒緋桜、小彼岸、エドヒガンなどもあるが、ソメイヨシノが葉桜となるころから目立つのは八重桜。
背後は阪急電車神戸線の塚口駅より東側の高架。

4月12日段階では3分咲き

冬桜は4本と数えたが、松月などは指折り数えてはいないが、やはり4,5本か。

あでやかであるが、上品でもある。

4月17日(今日)の松月

満開である

葉もきれい

予報に反して意外に早く雨が上がり、空もきれい

せせらぎのたたきだしたる里桜 松澤昭 宅居

幹ずんと押し出しのよき里桜 ぱらりとせ



中在家

$
0
0

↑の新聞記事を読んで、2日後に出かけた。
最盛期は過ぎていた。
ここにこの時期にチューリップが植えられるのは知っていたが、
2万本という数字を知って確認に出かけた。

チューリップの「名所」なら50万株以上植えこむのだろうか?

目の前にたい焼き店がある。いつも行列ができている。

↑よりも行列が短かかったので、店の前へ出かけた。
特に空腹でもなかったが、いつもは並ぶことさえあきらめざるを得ない列の長さである。
最近はそうでもないが、人生の大半に於いて、荷物と行列が殊の外嫌いである。

京都にミロのビーナスがやってきたとき、出かけた。その時の経験が行列嫌いの原因ではないだろうかと思っている。

列は無きに等しかったが待ち時間は結構あった。
予約済みの人が列の外にいて、焼き上がりを待っていた。
一度に焼けるのは36個だから、10個だとか20個予約している人が2,3人いると、
新たな36個が焼きあがるまで待つ必要がある。

70円のものを1個買って、チューリップ園に戻って立ち食い。

アマの名物は、たい焼だけではない。↑↓こんな店もある。

この店のある所からガードを潜ると、中在家。

道角の祠。尼崎市内66の神社があり、その3倍くらい浄土宗・浄土真宗の寺があり、そのまた倍くらい、祠がある。

中在家の東端には庄下川が流れ、この時点で、流れを東西に分流。
東の流れは左門殿川、西への流れは旧左門殿川。
そこに中継ポンプ場がある。そこにまで到達した下水を汲み上げ
川へ流すのである。しかし東へ流れるものは大きな浄化センターで
受け入れているように見えるので、直接目の前の旧左門殿川へ流すのではないと思う。

左門殿川の橋を渡れば、築地である。

中在家
尼崎市地域史事典 apediaから引用。

近世以来の尼崎町の町名。

1618年(元和4)に開始された尼崎城の築城にともなって、宮町とともに城の西方に新たに建設された。

中在家町は宮町の南の浜につくられ、生魚問屋をはじめ漁業関係の商人や漁民が多く居住した。城地にいた漁民や魚商人を戸田氏が大垣に転封する1635年(寛永12)までに移転集住させたものであろう。

同町には当初東部の戎の浜に、1758年(宝暦8)の移転以降は西の大浜筋四丁目に魚市場があり、近海や西国各地から魚が入荷し、尼崎だけでなく大坂・京都にまで出荷するなど、生魚取引の中心地であった。魚市場から南の海へは、碇の水尾と呼ばれる水路を利用した。

「尼崎領尼崎町本地子」(金蓮寺〔こんれんじ〕旧蔵文書写)には戸田氏の時代の石高111.2石、地子米55.6石、「築地町式目帳」(『尼崎市史』第5巻)には1769年(明和6)の惣町間口1,418.5間、「城内・城下間数・家数書上げ」(年不詳、同前)には家数327軒とある。貴布禰神社の夏祭に際して、同町が繰り出すのは特徴的な舟檀尻〔ふなだんじり〕であった。氏神は事代主神社(近世には浜戎社)であり現在は祠が残っている。寺院は浄土真宗本願寺派浄善寺。同宗同派西性寺もあったが1945年(昭和20)戦災で焼失し神田南通に移転、1969年には栗山(現南塚口町)に再移転した。

  名田がない中世荘園等の課税単位が「在家」。
apediaによれば、尼崎の中在家は江戸時代初期、尼崎藩の誕生にともなって生まれた町名



ウィキペディアによっれば、

中世において成立した収取体制においては、雑役系の公事・夫役は名田を収取単位として租税の賦課が行われていたが、名田が十分に確立されていない地域や供御人神人など荘園・公領の支配体系に属しない人々(主に非農業民)から公事・夫役を収取するために在家を単位として賦課したのである。特に在地領主名主化して百姓名の成立が進まなかった東国九州で在家役が多く課されている。在家を下人所従と同様の従属民とする見方もあるが、在家の位置づけは地域によって異なっている上に、実際に領主の人格的支配が在家にまで及んでいたとする記録はない。検注によって在家が確定され、均等賦課を原則としていたが、検注帳に固定された在家を本在家、新たに在家したものを脇在家新在家と称した。

 「新在家」とか「今在家」という地名のいわれである。

中在家のポンプ場を巡るように緑地という名の遊歩道があり、街区公園程度の広場へ通じている。

↓ポンプ場側面

↑こういう施設の屋上は、多くの場合、テニスコートになっている。

両側にサトザクラが植えられている。
わたしの見立てでは、関山である。

法の世や在家のばせを花が咲く 小林一茶

風鈴や在家の尼の昼の酒 大木あまり 火球

御築地の雪もきえ行く新在家 史邦 芭蕉庵小文庫

燈籠や在家の夕暮寺の昼 山夕 選集「板東太郎」


広場
正式名称は中在家緑地



Viewing all 2577 articles
Browse latest View live