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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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フラワー・ロード

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神戸市中央区にある通りの名前である。

フラワーロードは、兵庫県神戸市中央区にある、加納町1丁目から神戸税関(税関前交差点まで)を結ぶ三宮の主要道路。兵庫県道30号新神戸停車場線の愛称である[1]

六甲山山麓から、港湾地区(新港)に至る坂道で、標高が高くなるほど斜度も高くなる。

北端の加納町1丁目では、北に山麓バイパス(南行出口)が、東西に北野通りが接続する(北野通りの東端は加納町1丁目にあると誤解されがちであるが、実際の東端は、さらに約150m東の生田川橋梁であり、そこで原田線と接続する)。

三ノ宮駅以南の地下部分は、地下街(さんちか)と駐車場になっている。沿線には神戸市役所などがあり、毎年ここで神戸まつりのパレードが行われる。

生田区葺合区が中央区として統合される1980年(昭和55年)までは、フラワーロード以西が生田区、以東が葺合区であった。


ドドナエア フラワーロードの名に負けぬ

今は葉のきれいな時期である。
この木の名前は、先日、尼崎市の緑化植物園で学んだところである。

フラワー通りの花壇は、スポンサー花壇の形をとっている。その内実は不明だが、装飾品の設置や花の種類を選択できる代わりに、管理費用を負担するのであろう。


雪柳は今が「伸び盛り」

私が好きな花はエリカ。

神戸句会出席
4句 兼題「次」

春暁の男を帰す口実は
古池や釣り糸一本の重力波  (もとは「冬の池」だった)
分裂は人の世の常花ミモザ
次の隅はシロハラ好みの飛び地です


↑の「です」などはかつて靑玄調と呼ばれた。(青玄は私の所属結社であった)

ホテル

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吟行会参加

「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と呼ばれた甲子園ホテル。

現在は武庫川女子大学甲子園会館と呼ば
れ、
生活環境学部建築学科が使用している。

大楠若葉いま女子大に建築科

という句が最高点句であったが、私は取らなかった。

楠若葉でいいだろうし、なにより今は樟若葉の季節ではない。あと1か月もすれば樟落葉の季節でありそれからが樟若葉の季節である。

次点句は

アールデコの影の明暗春の昼

この句も私は取らなかった。ホテル、文化財となったホテルの装飾ということがこの句からは分からない。

春浅しテラコッタ壁の襞光る
 これは私の句。


花馬酔木学園池に水漬く舟

この句は私だけが選んだ。

紅あしび戦中ホテルの校舎かな

一人選者がいたが、私は取らなかった。

「戦中ホテル」が苦しい。
甲子園ホテルは1930年にライトの愛弟子遠藤新が設計建築指導。
14年間のみホテルとして経営。その間にベーブルースも来日時に宿泊したらしい。
戦時は海軍所有。戦後は米軍が使用。

3句出句の残り2句。わたしの句。

蕾膨らむライト式ホテルの裏庭に
芽吹き時ホテルの小槌の打ち出すもの


打ち出の小槌をモチーフにしたレリーフが多用されていた。

同列第3位の句は5句あったが、その中に入った。
でも吟行会に参加していなければ打ち出の小槌がなぜ登場するのか
分からない。


食堂床面のタイル。試作タイルの寄せ集めとか。

大学の職員がガイド役を勤めてくれたが、定年後の嘱託なのであろうか、仕事に誇りを持っていることが感じ取られた。
確か、武庫川女子大は、女子大としては受験生数が全国一のはず。












実桜

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満開になった翌日は気温が下がり、終日雨、その後低温が続いたので、庭の桜は満開状態を維持している。
この桜、落花以後は蕊が残り、桜若葉の頃はあまり見栄えがよくないが、今日あたりはまだその気配はない。

実桜やピアノの音は大粒に 中村草田男

実桜や豊頬夫婦道祖神 池上樵人


近所の(一部)10階建て48戸のマンションは3月末入居開始らしいが、まだ販売活動は継続中のようである。
道路沿いの植栽は終わった、


雪柳、山つつじ、馬酔木などが咲いている。↓は南面であるが、西面にはお多福(南天)も植えられてる。

鼻風邪や南面巨巌ありがたく 西東三鬼

南面に篁嶮し母校の夏 木村蕪城


西面






人工知能

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今日の朝刊のトップ

午後7時のNHKニュースでも大きく取り上げていた。
この日も対局があって、人間(韓国のプロ)が1勝を上げたよう。
5番勝負で人工知能の勝ち越しが決まっても、もう1局打つらしい。
井山裕太6冠王のコメントがあって、
人間(プロ)では発想できないような着手があり、
それがプロの打ち方を変えてゆくであろうと予想していた。

井山自身、他のプロが予想しなかった着手で、挑戦者を退け
7冠目に挑戦中である。

その井山でも想定外の悪手と思われた手が、実は先を見越した手であったらしい。



鵯の悪食正義の味方何処にいる

悪食の鵯来て実桜の枝撓む

さくらんぼの実るころには、スズメは種を枝先に残して果肉だけ食べてゆく。
鵯は種ごと次々に丸のみにしてゆく。


↑さくらんぼの木の下の諸葛菜。

沿線に嫌中派殖え諸葛菜

ウィキペディア:

オオアラセイトウ (大紫羅欄花、Orychophragmus violaceus) は、アブラナ科オオアラセイトウ属越年草。別名にショカツサイ(諸葛菜:諸葛孔明が広めたとの伝説から)、ムラサキハナナ(紫花菜)。このため Orychophragmus属はショカツサイ属ムラサキハナナ属とも呼ばれる。

ハナダイコン(花大根)(カブ)とも呼ばれることがあるが、この名前は花の外観が類似した同科ハナダイコン属の Hesperis matronalis にも与えられているため混乱が見られる(ダイコンが野生化したハマダイコンとも別種)。


原産地は中国で、東部に分布し、東北および華北地区では普通に見られる。ヨーロッパ南部に帰化しているほか、日本では江戸時代に輸入されて栽培されたものが野生化し、全土で見られる。

根生葉と茎下部のは羽状深裂し、基部は心形で、縁に鈍い鋸歯がある。上部の葉は長円形あるいは倒卵形で柄を持つ。基部は耳状で茎を抱き、縁には不揃いの鋸歯がある。は茎先につく総状花序で、薄紫色の花弁には細い紋様がある。花期の後期では徐々に花弁の色が薄くなり、最終的には白色に近くなる。稀に白花もある。花弁は4枚が十字状に付き、長さは各1-2cm程度、先端に3-mmの爪状の突起を持つ。雄蕊は6本で花糸は白色、葯は黄色である。萼(がく)は細長く、径3mmほどの筒状で花と同じく紫色。果実は先端に細長い突起を持つ長角果をつける。果実は4本の筋を持ち、内部に黒褐色の種子を多数つける。熟すと自然に裂けて開き種子を弾き出す。種子から芽生えたばかりの頃本葉は腎形をし、寒さに当たり花芽が分化するとやがて切れ込みが生じる。


2月頃から成長を始め、3月から5月にかけて開花する。最盛期には50cmくらいまで直立する茎を伸ばす。5月から6月頃に種子が熟し、自然に、散布される。一年草だが繁殖力は強く、花が咲いて種が散布されると、翌年からは定着しやすい。

侵入生物データベース *1によれば、日本には観賞用および油を採取するため、遅くとも19世紀末には導入され、20世紀中頃から各地に広がった。戦前から戦後にかけて紫金草(シキンソウ)と称して広める活動をした人がいるという。同属では他に帰化した種はないとされる。農地の拡大や都市化の進行によっていったん衰退したスジグロシロチョウが、20世紀後期になって都市部を中心に個体群を増大させたのは、このチョウの食草として好適なオオアラセイトウの分布拡大の影響が大きいといわれている。

↑青文字にした部分の関係で(この人は軍医として南京虐殺現場を訪ね、近郊の森でこの花を見つけ、種を持ち帰り、庭で栽培。種を泥饅頭に包み込み、鉄道の窓から土手などへ投げていったという)、平和集会のような会合の記念品として種を貰い、以来、我が家で毎年芽吹くようになった。ある年は、プランター4つくらいに植えて門前に出したことがある。

糊こぼし

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2016年 3ヶ月連続で更新中�N���b�J�[


なにかいいことあるのか、↑のようなマークが自動的に挿入された。


雨降って実桜の落花始まる。
落花始まる目白が慌てて飛んでくる。
上の2フレーズを書き込んでから俳句への加工。

落花始まるテロ報はトルコから
雨上がり目白が慌てて飛んでくる


先日ワイフが世話役を務めて、奈良ホテルに部屋を取り、お水取り行事見学に出かけた。
ワイフが奈良ホテルで優雅な夕食をお召し上がりの時間帯、私はいつものならいで一人のおでんの夕食だった。

その帰り、高いので、ワイフは買えなかった萬々堂通則の「糊こぼし」の3つ入りの箱が、参加者の一人からお世話のお礼にと翌日届けられた。留守番役への慰労の意味もあったようである。

さんざんワイフから蘊蓄を伺いありがたく一ついただいた。

今日になって、別の人から、6個入り箱が送られてきた。

送り主には申し訳ないが、3つが6つになると、急に有難味が減少する。


寒桜バッタン床几をまた倒し



河津桜

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昨年は3月19日付で同じタイトルを付けて書いている。
河津桜では例句が1句しかなかったことも。

三菱・三井・住友・日生・JR・電力会社などは、各地に広大な敷地の運動グランドなどを所有していたし、今もそうである。そのいくつかは、バブル崩壊や地価税の導入、あるいは莫大な修復費用のかかる事故などを契機に処分され、住宅団地等に姿を変えていった。

尼崎市と境界を接している伊丹笹原公園も、三井から譲渡されたものである。大半の土地は豪華マンション(群)に姿を変えた。

その公園より100mほど離れた公園車塚公園のミモザ
この公園は昔からあった。公園の前は大きなロータリーである。
都心部を離れるとイギリスの道路の4叉路はみなこの方式である。

↑の角度からは6本の河津桜が見える。

↑からは4本。木はまだ若い。しかしこの季節、多くの人を樹下に誘い込む。

わずかに葉桜になりかけているが充分に満開の気分は味わえる。



背後に見えるのは豪華マンション。
↓はマンション敷地内への私道であるが、撮影者が建っている市道よりよほど豪華でかつ広い。

↑遊具で遊ぶ子は、姉妹か双子か、母語なのであろう英語で呼び掛け合っていた。

(続)俳句検索を検索。3句

鳥らいそいそ河津桜の原木へ 高澤良一 ぱらりとせ

河津桜見し夜の夢の韓紅 林 節子

青空へ紅濃き河津桜かな 掘井より子

呆けたように桜に見入るのは私一人で、
公園で遊ぶ子にも、見守る母親たちにも
ありふれた風景になっているようだ。

いそいそと弁当開く花の下
花の上を行きかう交信次のテロ

同じ日の我が家のさくらんぼ桜

画像では目立たないが汚れ始めている。
隣家の木瓜↓

3層構造

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読売新聞の元旦号4面で宗教学者山折哲雄と読売の特別編集員橋本五郎が、「新春対談 2016」((上) 下は3日号に掲載)を行っている。
「「野生化」抑制する教育」とか「「多神教」日本の強み」とか「大震災 宗教者の限界」といった大活字に引かれたわけではなく、「文明の衝突」といった小見出しに魅かれて読んだ。


01年9月11日の米同時テロ(世界貿易センタービルの崩壊)以降、宗教と文明ぶつかりが激しくなっているが克服の道はあるのか、と五郎さんが15年11月のパリ同時テロの歴史的評価を問いかけて対話が始まる。

哲雄さんは、「狩猟社会に見られる部族対立が近代社会の真っただ中に登場してきたと言える」と応答。

どうやら、五郎さんは山折さんの持論をよく知っていて、それの引き出し役を演じているよう。

五郎「日本は神々の共存を認める「多神教」の国である。今こそ日本的なものが見直されるべきだ。」

哲雄「日本人の意識は、3層構造になっている。森林社会と適合する価値観の縄文的な世界観、農耕社会的な世界観、近代的な世界観と重層化されている。キリスト教圏やイスラム教圏の歴史をみると、古きものを根こそぎにし、・・・重層化の機能が働かない。
この意識構造の違いから「日本人は曖昧だ」とも批判されているが、戦争や災害などの危機には右の3層構造の価値観を随所に引き出して柔軟に対応してきた。」

かなり乱暴な理論(発想)だと思う。

まずは「日本は特殊だ」、「世界は日本から学ぶことが多多ある」という発想は、「日本はだめな国だ」、「日本は(極端な場合は日本語も捨てて)、世界なかんずく欧米あるいは、英米から学ぶことが無数にある」という発想がまかり通っていた時代のアンチテーゼとしては有効であったかもしれないが、21世紀前半では、その有効性の賞味期限は切れていると思う。

何冊もの著書で展開なさっている「哲学思想」のエッセンスを数行の対話文で評価するのは危険であるが、案外そういう対話の中で「本音」を知ることが出来るのも事実である。

しかし価値(意識)の3層構造という発想は、私も30歳のころから抱いているものである。3層は相互に断層を起こし、人々の日常生活に各種の葛藤を引き起こす。藤村の『破戒』や『新生』などが読者を集めたのは、発表当時の人々(読者)の生活の葛藤が投影されていたからであろう。

しかしその3層を縄文時代に形成されたもの、それ以降江戸時代半ばまでに形成されたもの、明治の文明開化以降に形成されたものと、時間枠で3分するのは、他の条件節なしでは説得力がない。

この歴史枠で価値意識を、森林文化(社会)、農耕文化(社会)、近代文化(社会)に分けた場合、第1の文化は1万年以上かかって形成され、第2(層)の文化(価値)は2000年弱の期間で醸成され、最表層の文化は500年(日本では150年)を経て形成途上であるということになる。各層の年限が対数表示を要求するほどに、100年単位、1000年単位、万年単位(人類の曙まで遡るとなるとさらに100万年単位)といった開きがある。

さらに近代(西洋)文明(文化)500年の歴史を見ても、
15世紀末から生じる「地理上の発見」に伴う商業流通革命(それに伴う食生活の革命、-イタリアのトマト・ソースを使ったパスタ料理、韓国のキムチなどは新世界の発見なしでは存在しない。)
16世紀なって顕著となる宗教(文化)革命、
地動説の提唱と共に始まる科学革命は、この3つの革命は、相互に巨大な葛藤を繰り返しながら、人々の価値観の転換を生み出し、18世紀末のフランス革命やアメリカの独立へつながってゆく。

人々の価値意識は絶えず変化の過程にあるといってもいいだろう。
過去の意識との断絶などはありえない。
進歩主義は復古主義と絶えず同一人格の中で葛藤を繰り返している。

私の抱く価値意識は、人間の天と地(イデアとマテリアル、神と物)との関係、人と人の関係、人の時間(歴史)との関係の3層(面)から分類される。しかもその3つの関係から6つの立場(価値基準)が区分可能である。

精神(重視)主義と物質(重視)主義(イデアリズムとマテリアリズム:
物質主義の典型的なものは唯物論である。)
共同体主義と個人主義
進歩主義と保守主義

しかし主義(=価値観)を何と名付けようと、それを主張する人によってそれぞれは多様な(時に正反対の)理念・主張を内に含んでいる。
共同体主義と言っても、社会主義(これまた多様な立場がある)とコミュニタリズムとは大きく内容が異なる。

それだけではなく、それぞれの主張や理念、あるいは行動指針には
背後(ないし土台)に複数の源泉ないし基礎がある。
1.17や3.11といった経験、従軍経験、落第や合格経験、小中高校での体験や友人との出会い、肉親との死別、出会いや恋愛・失恋、犯罪の目撃や被害などなど・・・。

そこで、10年単位で変化しやすいものをソフト、100年もすればすっかり様相を変えるような要因をハード、100年を超えて持続する価値意識をベースの要因と呼んでみよう。

気候や地理的要因(島国など)や使用言語(母語)や民族性などはベースの要因であるが、数百年間はわずかな変動しかないであろうが、500年もたてば地球環境の循環的変化の中に巻き込まれるであろう。そうなれば収穫できる農産物、海産物にも変化が生じる。
平均気温の変動や国民の食生活の変化はかならずや国民性、民族性などにも影響を与える。さらに政治体制の変化はもっと短い間隔で変化するために、江戸時代の日本人の気質と、平成の時代の日本人のそれは決して同一ではない。

ベースと言っても、人間一人の寿命を基準にすれば不変固定的であっても、5世代を超えて不変というわけではない。
縄文時代の平均寿命が30年としても5,6世代経てば、居住地を変更したり、主要食糧の内容を変化させなければならなかっただろう。

人間の行動指針や善悪の判断基準は決して100年間不変というわけではない。それでもなお、100年の範囲ならベースとみなされる価値
意識を前提にして、その変容を迫るハード、ベースの価値との葛藤として社会や集団、あるいは個人の行動を解釈することは可能だと思う。

この稿は自宅で事前投稿として書いているが、公開時には山形県天童市内に宿泊している。

↑シラカシ ↓タブノキ

↓マテバシイ

樹に名札がぶら下がっていれば区別できない。




肖像画

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JR天童駅から徒歩10分位のところに、

天童市美術館がある。
入ったところに2枚の肖像画が展示されていた。
一枚は自画像


一枚はこの作者の父親の肖像画

↑左はモデルの写真である。


自画像の作者(=モデル)は、ワイフの祖父で、
肖像画のモデルはワイフの曽祖父である。
明治維新以前は亀岡藩士
維新以後は裁判官で関東の各地を巡っていたようである。


シュルル紀の死火山自画像新聞紙 渡辺誠一郎

自画像に入れてもらへる田螺鳴く 伊東達夫

ジェラシーめく自画像仰ぎ年あらた 上原勝子

うそ寒や自画像ばかり売れ残る 仁平勝 東京物語

自画像のその前にあり寒卵 加藤三七子

柿照るや自画像すこし酔ふてをり 野田勇泉

自画像の如き鰍を齧りけり 古幡かげふさ

自画像の皺ひとつ消し秋うらら 桑原白帆

晩夏光自画像の目に射られけり 渡辺立男

いびつなる自画像残し卒業す 河合澄子

自画像が我を見てゐる春隣 堀 政尋

自画像の問ひかけてくる夜長かな 藤井寿江子

自画像の子の首細し柿の花 橋本榮治 麦生

自画像の昏き時代の銀河かな 大石悦子

上を向く父の自画像紅葉冷え 皆吉司

司君の父も画家で、祖父は俳句結社の創設者・主宰であり、
その句会はワイフの幼き日には、自宅で開催されていた。
しかし画家である祖父は1945年8月に亡くなっていたので、
思い出はないかも。

追悼展冬帽のその自画像も 大橋敦子

目円に自画像成りぬ秋晴れて 久米正雄 返り花

泳ぐ寝ざまの自画像死また涼しきや 文挟夫佐恵

自画像のその前にあり寒卵 加藤三七子

自画像を飛びし黒点夜の蠅 深見けん二

自画像をまじへて永き日の個展 鷹羽狩行 七草

灯蛾狂ひ自画像の眼へとびうつる 川口重美

自画像の青きいびつの夜ぞ更けぬ 篠原鳳作

渋面の自画像の奥 枯木騒ぐ 楠本憲吉

自画像を飛びし黒点夜の蠅 深見けん二

自画像の口元きりり受難節 西池万葉

将棋の町天童は明日紹介。
今日は午後4時前に「つばさ」に乗車、3時間、東京からはジパング利用の「ひかり」に3時間以上乗車、新大阪駅着午後10時半。



天童

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天童と言えば、
さくらんぼ、芭蕉(奥の細道 最上川、立石寺・・)、蕎麦、・・・。
だが、私にとっては将棋(将棋駒、人間将棋・・)。

歩道や電柱、いたるところに詰将棋図が設定、張り付けてある。

持ち駒は金銀5枚遠雪嶺
JR天童駅の新しいビルには、将棋資料館と将棋交流室がある。

↑ホテル王将の標識
駅前に、義理の従兄夫婦が出迎えてくれて、天童公園にも案内してもらった。

↑人間将棋会場

木立の間から見える天童と山↓

昨日紹介した画家には男2人女1人の子供があって(男4人 。一人は養子に出て、一人は戦死。男は上から順に
一、二、三、四と名前の下に数字がついていたそうである。戦死したワイフの叔父の名は清四きよし)。
女の子の息子さんは、3年ほど前に我が家のすぐ近くに引っ越して来られた。義理のいとこの一人である。
男2人の兄の方の子がわがワイフで、弟の方の子が山形市内に住んでいる。
この従兄は大学教授で、教え子の一人が市内の新設の美術館の館長に就任したことが画家の絵が山形で展観される契機になったようである。
この美術館の常設展示品は天童出身の篤志家(ピアノ線の国産化に成功した鈴木さん)が寄贈した熊谷守一(1880~1977)の作品で、
ワイフの祖父である画家(1880~1945)は、熊谷や青木繁(1882~1911)と同級生であるという縁もある。
(熊谷美術館というのは、東京豊島区の旧居跡にあって次女榧さんが館長)

将棋駒干す街筋や竹の春 松浦貞子
↑天童風景なのかどうか?

将棋弟子句弟子をふやし秋ざくら 角川源義 『西行の日』

馬肉屋を諳める軍隊将棋かな 仁平勝 東京物語

空耳や将棋倒しの影法師 仁平勝 東京物語

蜃気楼将棋倒しに消えにけり 三村純也

おともなく狐火将棋倒しかな 三宅清三郎

海鳴りに涼み将棋の影二つ 舜花

俳諧と孫と将棋と熱燗と 里見宜愁

長き夜をたたる将棋の一ト手哉 幸田露伴(1867-1947)

月よさの将棋さしけり涼み合 尾崎紅葉

銀やぐら崩れて白し天の川 縁台将棋 中勘助

長き夜をたゝる将棋の一ト手哉 幸田露伴 拾遺

木場の材が将棋倒しに稲光り 八木三日女

手を出して将棋指すなり秋の海 永末恵子

すでにつんでゐる将棋なり雲の峰 久保田万太郎 草の丈

17日の朝は朝食後、倉津川添いを散歩。将棋駒名の橋を全て画像収集。

蔵王遠望

↑実桜だと思うが特産のサクランボの木ではないと思う。

見事なケヤキ




市内の目抜き通りにかかる橋  玉将橋。↑
ここまで歩いて、Uターン。天童温泉街を通ってホテルに戻る。

着いた夜は、義理の従弟夫婦がイタリアン会席でもてなしてくれた

前菜とデザートしか撮っていない。ワイフのスマホからの画像を借りようと思ったが上手くいかなかった。


奥の細道

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廃寺跡に芽吹くもの多々墓の道


↑背後に立石寺が見える。







↑山寺芭蕉記念館の前の駐車場広場から後藤美術館を見ている

山寺芭蕉記念館の横に芭蕉堂がある。そこから谷の底を通るJR仙山線と紅葉川を隔てて立石寺の全貌を眺めることが出来る。

↓金堂

一番下に「念仏堂」が見える。芭蕉はここを経て、院坊のどこかで一泊したようである。

天神の細道むかごほろと落つ 井桁衣子

道をしへ奥の細道どこまでも 山本 忠壯

細道は犬がつけたる草の花 飴山實 『花浴び』

時雨忌や奥の細道男旅 竹石一夫

灯下親しおくの細道たどり読み 廣田節子

細道は狐狸の通ひ路あたたかし 渡邊千枝子

細道も恵方ときけば日影かな 長谷川春草

細道に篝こぼるる鵜舟かな 許六

奥の細道よりも奥へと月の旅 赤松[ケイ]子

雙六(すごろく)の賽振り奥の細道へ 水原秋桜子(1892-1981)

唐紙や敷居の細道蔦葛 露甘 選集「板東太郎」

奥の細道をはづれて虫を聞く 京極杞陽

細道になり行聲や寒念佛 蕪村 冬之部 ■ 感偶

萩枯れて奥の細道どこへやら 広瀬惟然



2日目の昼食はこことかなり早くから決めていた。


植え込み

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48戸のマンション、3月下旬が入居開始日だが、まだ空き部屋が残っているようで、マンションの案内板(広告板)をもった人が駅前に立っている(正しくは椅子を持参して腰かけている)。

東面は一般家屋に隣接しているがその他の面では植え込みが行われ、1か月以上たったので気温の上昇と共に成長を始めている。

「植え込み」や「植栽」では例句見つけ出せなかった。

大巌の襞裂けたるに山躑躅 水原秋桜子

雨雲に又燃え立ちぬ山躑躅 長谷川かな女

しんかんと火の島燃ゆる山躑躅 水原 春郎

湖を象り燃ゆる山躑躅 堀北久子

私の句(旧作)

つつじ山から疲れて戻る消防士

雪柳の例句は意外に多い。
私自身は雪柳の句を作った記憶なし。

ほんとうは暗緑の腸雪柳 高野ムツオ 鳥柱

雪柳古き運河に水通す 堤 妙子

雪柳吹かれもつれて花こぼす 岡田虚風

我孫子駅過ぎ人の荷の雪柳 和知喜八

さかしまな痴情と思ふ雪柳 荻原久美子

雪柳遠い半月みんな海馬 黒川憲三

等身の雪柳ちり一人暮らす 北原志満子

雪柳鋼震へに密咲けり 加倉井秋を 『真名井』

雪柳人居るごとく揺れ合へり 阿部みどり女 『雪嶺』

野良猫の揺らして通る雪柳 脇本幸代

雪柳記憶はいつもかの清瀬 古賀まり子

たえず風やり過しをり雪柳 高木晴子

月うるむ地にただようて雪柳 石原八束

雪柳花にも重さありにけり 落合水尾

朝より夕が白し雪柳 五十嵐播水

雪柳花みちて影やはらかき 沢木欣一

雪柳一ト朝露を綴りけり 松本たかし

いつのまに月光なりし雪柳 多田裕計

大揺れをまだ知らぬなり雪柳 高橋栄子

いつのまに月光なりし雪柳 多田裕計

花屋の荷花をこぼすは雪柳 大谷碧雲居

鉄橋のとどろきてやむ雪柳 山口誓子

雪柳老の二人に一と間足り 富安風生

雪柳ふぶくごとくに今や咲く 石田波郷

月うるむ地にただようて雪柳 石原八束

雪柳ふゞくごとくに今や咳く 石田 波郷

雪柳海龍王寺風もなし 百合山羽公

噴き出づる嘆きのさまに雪柳 手島 靖一

裏木戸を叩くは風の雪柳 横田清香

むらがりてのたうつさまを雪柳 佐々木六戈 百韻反故 吾亦紅

をさなくてただ濃き空よ雪柳 久保田博

潮のひかりたえず届きて雪柳 旗川万鶴子

朝より夕が白し雪柳 五十嵐播水

雪柳ふぶくごとくに今や咳く 石田波郷

いつの間に月光なりし雪柳 多田裕計

朝より夕が白し雪柳 五十嵐播水

雪柳怺へ性なく散り急ぐ 西村和子 夏帽子

月うるむ地にただようて雪柳 石原八束

雪柳ふぶくごとくに今や咳く 石田波郷

雪柳さらりと女盛り過ぐ 高橋淡路女

月光の注ぎて溢れ雪柳 吉岡桂六

行人に籠居見らるるや雪柳 村山古郷

雪柳著者近影の古りゐたり 新関幸至

鉄橋のとゞろきてやむ雪柳 山口誓子

メーデーの歌は聞えね雪柳 中村汀女

雪柳咲くや植ゑし子嫁きてより 杉本寛

御霊屋を雪柳咲く奥にせり 村越化石

雪柳童女のほとのけむるごと 岸田稚魚

甥姪もことば少なや雪柳 八木林之介 青霞集

雪柳いま満開の重さかな 田中一生

誰も俯きゆく雪柳は濃みどりに 北原志満子

等身の雪柳ちり一人暮す 北原志満子

雪柳清め塩ほど返り咲き 朝倉和江

阿修羅と逢う噴き溢れ散る雪柳 渋谷道



「正門」は北側

お多福南天雪知らぬ街で燃え



家の近くで、いつも新しい花を植えこんでいるお宅がある。

洋種クモマグサ  やさしい園芸より:

洋種クモマグサとは

クモマグサは日本に自生する高山植物のひとつです。しかし、園芸店やお花屋さんなどでクモマグサの名前で出回っているものはヨーロッパ原産の野生種からつくられた園芸品種(以下、洋種クモマグサで統一)で日本のクモマグサとは別種です。クモマグサの仲間ではありますが、厳密に言うとクモマグサそのものではありません。ここでは一般に鉢花で出回っている洋種クモマグサのほうを紹介します。

草丈は上には伸びず、茎がはうように伸びて細かく枝分かれしてこんもりと茂った草姿になります。春に花茎を伸ばして5枚の花びらを持った梅のような形の可愛らしい花を株いっぱいに咲かせます。花色は、白、ピンク、赤などがあります。

用途・由来

属名のサクシフラガはギリシア語のサクム(sakum:岩)とフランゴ(frango:割る)からなり、胆石をとる(もしくは、尿道結石を溶かす)薬効があると考えられていたことにちなみます。また、岩上などに自生するものが多く、岩を割って生えている様に見えるところに由来する、と言う説もあります。

クモマグサは「雲間草」と書き、雲に届きそうな高山に自生することにちなみます。


猪名川公園

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猪名川公園は、もちろん街区公園や近隣公園ではない。その上のカテゴリーは地区公園であるが、尼崎市の後援一覧では地区公園にも入っていない。
運動施設もあるが、運動公園ではない。緑地でもない。

公園の中に、猪名川の水を引き込んだような大きな(たぶん灌漑用であった)池がある。
この池の中央部分に縦に(北から南に)市境(=兵庫県尼崎市と大阪府豊中市)即府県境線が走っている。

今日は猪名川の土手部分である猪名川緑地から公園の中へ入ったが、正面入り口を出ると府県境を示す標識が立っている。
入口部分の真ん中の延長上である。



公園を入ったところにある広場の中央で満開状態。多分小彼岸桜であろう。

牡丹桜らしきものも池の近くに1本あった。
公園の中、および公園の外にはソメイヨシノの並木がある。
この地区の桜が開花しているのをみたことはない。
猪名川公園も今回が初めての『訪問』。

樟の株元 「病名」があるのかどうか。

公園に入る前に見た柳。新芽(若葉)がきれいだった。


↑公園を出たところの住宅街の塀際。ハーデンベルギア。満開状態。














四ノ坪

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尼崎市営バスは2016年3月19日をもって運行終了
3月20日から阪神バスが事業を継承。
目下は、使用バス車体、表示、運賃、ダイヤは市営バスとまったく同じ。これで、兵庫県内の市営バスは、神戸市と伊丹市だけになったよう。
↓バス停の名称は「田能口」

食満地域を歩いていて、初めて見る標識に出会う。


公園内部には、これ以外に表示なし。

公園にいた40歳代の男性、30代後半の母親、たむろしていた小学生高学年の集団に話しかけたが、「4のつぼ」という単語自体目新しくらしく、必ず聞き返されたうえ、そんな遺跡の存在についてはまったくしらないという返事。

帰宅後、尼崎市の郷土史事典apedia検索


市域の北部、旧中食満四ノ坪(現田能1丁目)にある弥生時代から奈良時代にわたる複合遺跡である。猪名川から分流した藻川が南流する東岸の標高約5mの低地に立地する。北約700mに猪名川を挟んで田能遺跡がある。遺跡は、1966年(昭和41)10月に園和北小学校建設中に発見され、緊急調査が行なわれた。遺構としては、高床式住居あるいは倉庫と考えられる柱穴と柱痕が確認されている。遺物は完形品を含む弥生式後期土器を中心に、土師器〔はじき〕、須恵器〔すえき〕、奈良時代の瓦片が出土している。遺跡の周辺には、田能遺跡、東園田遺跡猪名寺廃寺跡などがあり古くから生活の場として開けていたと考えられる。1992年(平成4)11月に遺跡の北、道路を隔てて園田競馬場内の田能高田遺跡で弥生時代後期から古墳時代の集落跡が確認されており、当遺跡もかなりの広がりをもった遺跡と推定される。

学生時代に初めて覗いた競馬場。↑その後、句会の吟行会で仁川競馬場を覗いた。
そのまた後には、イギリスの競馬場へエクスカーションででかけ、1ポンド賭けた。
それが、競馬に賭けた総額である。
したがってスポーツ新聞の競馬欄をみても、まったくチンプンカンプンである。


.本日句会参加

出句

春は曙男を帰す口実は    この句は最高点句であった。
お多福南天雪知らぬ街で燃え
寒桜彼女の意志の堅固なり
八方を結ぶ陸橋冬木の芽
ずっと枯葦府県境の土堤長し




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小彼岸桜

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わずかに花が残っている。
3月23日

↑我が家の実桜(これも彼岸桜なのであろうが、彼岸の頃には花期は終わっている。実となる蕊が散らないので、満開の時期が過ぎると
やや汚い。
山形天童辺りで見たさくらんぼの木は、まだ芽が出ていなかったが、
これとも違う種なのであろう。
3月18日

3月21日

ただしくは西洋実桜と呼ぶらしい。山形で栽培されているものは圧倒的に佐藤錦。
我が家のものは高砂かも。

私が(勝手に)桜通りと呼んでいる通りでは今、コヒガンと有明が満開状態。
冬桜は今年は「見ごろ」がなかったように思う。

阪急塚口駅の東側の踏切を北側へ渡ったところは、道が二股に分かれていてその間にわずかばかりの「広場」になっている。
そこに2本エドヒガン桜が立つ。
↑北側のものはまだちらほら状態。南側(線路側)のものは2、3分咲き。エドヒガンはコヒガンより花期が遅いようだ。

その地点を西の端として、ソメイヨシノ以外の桜が一列に植えられている。最初のものはカンヒザクラ。この木は、もう葉桜になっている。
その向こうに見えるのがコヒガン。
コヒガンは全部で5本ほどある。
冬桜の4本は正確に数えたが、コヒガンの方は1,2,3と数えたことはない。

コヒガン (小彼岸 学名:Cerasus subhirtella (Miq.) S.Y. Sokolov, 1954)はバラ科サクラ属の植物。の品種の一つ。自生地が知られておらず、長野県伊那市高遠城址公園以外には群生が見られない(高遠から寄贈されたものを除く)ため、この地で交配が行われた園芸種とされていた。しかし、母種になったと考えられているエドヒガンとマメザクラの自生する伊豆半島には自生していると思しき個体が見つかっており、よくわかっていない。

花期が早く彼岸頃に咲き始めるためにこの名前がついたといわれている。別名に彼岸桜、千本彼岸。なお、エドヒガンの別名もヒガンザクラであり、更にカンヒザクラをヒカンザクラと呼ぶこともあるため注意が必要である。


メジロ

コヒガンはエドヒガンマメザクラの交雑種と考えられている。

花期が早く、春の彼岸ごろには花が咲き始める。花は五枚一重で薄い紅色の花を咲かす。ただし、色はソメイヨシノよりも濃い。春の早くに咲くため、葉よりも先に花をつける。萼は細長いが、根元が少し膨れている。また、毛が多い。これらの特徴は母種の特徴を継いでいると考えられる。なお、萼はエドヒガンよりも細長い。

樹木としてはあまり大きく育たず、5m程度である。枝を沢山張り巡らせる性質がある。葉にも多く毛が生える。また、花が終わると小さい黒い実をつける。秋になると葉は紅葉する。

遠城址には樹齢130年を超える立派なコヒガンザクラが見られる。樹木として大きく育たないために庭に植えられることも多い。

コヒガンの亜種に十月桜が知られている。この種は冬の穏やかな気候の間中咲くことから広く育てられている。

↓これは有明

倶会一処と彼岸桜の下の墓碑 堀 古蝶

風あればしきりに彼岸桜散る 杉山 マサヨ

仔山羊啼く彼岸桜に繋がれて 青柳志解樹

ありそめて彼岸桜の昏れにけり 古舘曹人

明るさの彼岸桜やひと恃まず 山口草堂

ひと息ひと息彼岸桜の開きゆく 中嶋秀子

尼寺や彼岸桜は散りやすき 夏目漱石

彼岸桜わが洟青き幾日かな 久米正雄 返り花

影落す巨石ある彼岸桜かな 久米正雄 返り花

首塚に日のある彼岸桜かな 久米正雄 返り花

彼岸桜活けてこぼるる畳かな 山本洋子

宇陀盆地むちむち彼岸桜咲く 山口草堂

一期かな彼岸桜に一会かな 京極杞陽


セネッティ:例によってサントリーが開発したサイネリアの園芸品種

やがて株一面が花に覆われる


我が(近隣公園の)標準木は明日が開花宣言(の予定)だが大阪、京都は今日開花宣言があった。

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開花宣言

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靖国神社ほど人が集まらない。
というより私一人の開花宣言。
家から2分の、近隣公園の桜。
咲いていたら、家に戻ってワイフに告げるくらい。


↓これは私が標準木と定めた木の隣りのもの。
気温が昨日と比すると6度くらいさがったため、開花宣言は持ち越し。

多くの木はまだ2,3輪しか咲いていない。

↓標準木
一日延びる開花宣言テロつづく
テロ多発開花宣言持ち越して

ご近所で咲いているのは、ゆすらうめ。

↑家から近隣公園へ向かうと1分で出会う、富松川添いのゆすらうめ。

公園で満開状態なのはユキヤナギ

ご近所で、というより、(1丁目から6丁目まである)町内で一番立派なミモザ。
下の画像2枚は2016年3月8日撮影のもの

今日覗くと、? 何か雰囲気がおかしい!

塀越しに庭をのぞき込む。怪しい姿勢で。

1昨年の強剪定どころではない。バッサリである。
根張り等が家自体の基盤を侵食したのであろうか。
3月の散歩の楽しみが一つなくなった感じ。


庄下川沿いには、川面に届くソメイヨシノが多いが、山桜も少し。

女子大が植えたものかも

女子大の温室。のぞき込む。守衛室よりも入口に近いところから。この温室がある傍の門は体育施設用かも

日日草は夏の風物だが、ツルニチシチソウは早春のものなのか。

↑桃の一種なのか。調べていない。

あちらこちらですみれは見かけるが、スミレと言えば、この家の傍が見事。

早春の街の風景

↑早咲き種なのか?
気のせいか?「関係者以外立ち入り禁止」札が、私の出回り先で増えているように思う。
「庭ののぞき見禁止」札にはまだであっていない。


子の賀状宣言癖のいまもあり 江川虹村

非核宣言都市へ襖をひらきたる 大石雄鬼

花はまだあちらこちらに禁止札


ミオソテイス

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忘れな草だと思って、近づくと、「ミオソテイス ミオマルク」という名札が差されていた。
forget-me-not という名しか知らなかったが、ミオソティスというのが学名のよう。
ドイツでもforgess-mich-nichtで通じた。
ミオマルクという園芸種のよう。


ウィキペディア:
ワスレナグサ(勿忘草、忘れな草)は、広義には、ムラサキ科ワスレナグサ属のの総称。狭義には、ワスレナグサ属の一種、シンワスレナグサ(学名:Myosotis scorpioides)の和名。ただし、園芸業界でワスレナグサとして流通しているのは、ノハラワスレナグサ (M. alpestris)、エゾムラサキ (M. sylvatica)、あるいはそれらの種間交配種である。一般には、広義の意味で称される。季語である。 5月14日の誕生花としても良く知られている。

ヨーロッパ原産で、北半球温帯から亜寒帯ユーラシア大陸アフリカ大陸オセアニア)に約50種が分布している。日本に渡来したのは、明治時代に園芸業者がノハラワスレナグサ (M. alpestris) を輸入したのが最初と言われている。しかしワスレナグサ属ということでは、日本には元来、エゾムラサキ (M. sylvatica) 一種が自生分布している。

野生化して各地に群生しており、日本全国(北海道本州四国)に分布している。一般に日当たりと水はけのよい湿性地を好み、耐寒性に優れているが、暑さには弱い。二年生もしくは多年生植物宿根草であるが、日本で栽培すると夏の暑さに当てられて枯れてしまうことから、園芸上は秋まき一年生植物として扱われる(北海道や長野県の高地など冷涼地では夏を越すことが可能である)。

花期は3 - 5月(冷涼地では4月 - 7月)。春から夏にかけて薄青(紫)色・鮮青(紫)色(園芸種はさらに白色・ピンク色など)をした6–9ミリ径の小さい5弁の花を咲かせ、花冠の喉に黄色・白色の目(小斑点)をもつ。花は多数でさそり型花序をなし、開花とともにサソリの尾のような巻きは解けて真っ直ぐになる。

高さは20–50センチになり、互生に付く。葉は細長く平らで、長楕円形(葉の中央付近が最も葉の幅が広い)、もしくは倒披針形(葉先近くが最も葉の幅が広い)である。葉から茎まで軟毛に覆われており、属名の Myosotis は、そうした葉の様子(細長く多毛で柔らかい)が、ネズミのに似ていることに由来している(ギリシャ語の「二十日鼠 (myos) +耳 (otis)」が語源)。


園芸初学生のころ何度か育てた。というより、園芸書になじみ始めたころは、一春秋に各10種類くらい蒔いて、空き缶鉢で育てていた。デージー、パンジー、ビオラ、ナデシコ、キンセンカ、ネモフィラ、マリーゴールド・・・。パンジーやベゴニアは難しかったが、その他のものは時に50株以上芽吹き、処理に困った記憶がある。
2回以上育てたものは名前も忘れない。園芸書に真面目に従い、管理を続けたから。
ゼラニュームやベゴニアは差し穂でいくらでも増やせるが、植え付ける場所がない。

早春の神戸市北区

神戸から戻って公園へ。
あれれ、低気温の為、開花宣言さらに持ち越し。


↑わが標準木↓

3,4輪いているが、5,6輪咲いたとは言えない。

↑↓我が家のチューリップ。今やチューリップは家庭園芸の主役ではない。
なぜなら球根を植えて5か月地上部には姿を見せず、その後葉をだしても成長過程は
植えこんだ人間以外にとっては観賞価値がない。
花が咲いたら1週間で散ってしまう。そのあとの球根は役に立たない。
11月に買ったパンジーやビオラなら植え付けた段階ですでに花を持っている。
気温が急速に上昇しない限り4月いっぱいは楽しめる。
F1種でないビオラなら秋にはこぼれだねで芽吹いてくれる。

そのパンジーでさえ、今や家庭園芸(通)では一般的でなくなっている。
つぎつぎに新しい魅力的な花が南米やオセアニアから導入されるから。


 「標準」「基準」では例句なし。

テロの予感甕累々と雪を被く 齋藤玄 『玄』

黒い夜や貧しき国に貧しきテロ 谷山花猿

テロの谷間俎上のキャベツきゅっきゅと泣く 八木三日女

剥製の鳥のテロの眼クリスマス 鷹羽狩行 六花

古仏より噴き出す千手 遠くでテロ 伊丹三樹彦 樹冠

今や3日もテロ報道がない週はない。


テロもなく過ぎて三日のバターの香  旧作

元旦、二日は雑煮やお節料理で過ごすが、
三日の昼あたりにはコーヒとバターの生活に戻る。
中性脂肪値を無視して。
お餅も醤油バターで賞味。

13歳児は今日が終業式だが、かなり前に正課授業は無くなっていて
午後からは三浦半島に出かけて温泉につかっているよう。
イースターは横浜で過ごすようだが、翌日には我が家にやってくる。

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十二単

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尾上マンテマ(カーペットかすみ草)
花期は5月


どうやら開花。

固まって咲いている部分はないが、全体では10輪程度咲いている。


富松川が大きく湾曲して東への流れを南向きに変えるところに、護岸工事の関係で10坪前後の空き地が生じた。
使い道がないので放置され、四季折々の野の草が芽吹き、成長し、花を開く。
私の最も手近な野草観察地である。
2000㎡を超える観察地はつぎつぎに高層マンション等になり、目下の主な野草観察地は庄下川の川辺だけになった。

富松川沿いの空き地でしか見られないものの一つが十二単。

まだこれから色づいてゆく株も多数ある。

「十二単」例句はないかもしれないお思い、「十二」で検索

十二時に十二時打ちぬ震災忌 遠藤梧逸

望の夜の僧侶十二十二管 後藤綾子

渋谷十二時わたしは顔のない水子 高野ムツオ 蟲の王

練炭の十二煉獄冬雲雀 高野ムツオ 雲雀の血

実南天十二神将眉あげて 野澤節子

十二神将怒り秋日を強めたり 細見綾子

十二神将背中合はせに黴び給ふ 松野自得

十二代甚兵衛も亦杉を植う 阿波野青畝

親しさの十二三人茗荷汁 澤 ゑい

呼ぶ子帰る子十二時の立葵 廣瀬直人

十二色全部重ねて虹いびつ 山崎 篤

奈良七重草餅十二神将に 田仲了司

秋草に礎石十二ありみなひかる 加藤楸邨

十二時を宵のごとくに旅の端居 山口誓子

濯ぎ場に紫陽花映り十二橋 水原秋桜子

煉炭の十二黒洞つらぬけり 西東三鬼

どの家も柚子を大きく十二橋 大久保明

九月一日十二時の花時計 大石きよ子

秋涼し十二神将みな点し 坂本杜紀郎

十二時の睡蓮女体ゆるうして 保尾胖子

しやくなげ太芽十二神将躍るかな 松田ひろむ

日時計のちようど十二時小米花 三苫時子

十二神将まなざし暗く昼の虫 千手和子

濯ぎ場に紫陽花うつり十二橋 水原秋櫻子

十二打のあと又うらら鳩時計 山岸 治子

十二神将春暁の燭ゆるるなき 原 幸子

十二経奇経八脈山眠る 佐々木六戈 百韻反故 初學

煉炭の十二孔炎ゆもの書けと 伊丹三樹彦

煉炭の十二黒洞つらぬけり 西東三鬼

万歳の子も万歳の十二歳 虚子

悉く十二町潟末枯るゝ 素十

長き夜の数を尽して十二鳴る 狩行

百舌鳥猛り十二神将呼応せず 松本圭二

丸ビルを七十二年見し夏木 稲畑廣太郎

缺席の詫チューリップ十二本 後藤比奈夫

掛物に十二ケ月や福寿草 阿波野青畝

秋風に建つ太柱十二本 夏井いつき

うそ寒にくさめ七十二回かな 稲畑廣太郎

美しき蒲団干したり十二欄 内藤鳴雪

十二橋或は落穂かゝあり 水原秋桜子

名月や一廓をなす坊十二 河東碧梧桐

十二浜番船出づるはやしかな 青木月兎

棚経の小僧十二三なるが来る 原紫川

花の雲十二神将踊るかな 赤嶋千秋

十二橋の一つの橋を獅子の笛 町田しげき

十三陵十二飛ばして夏木立 赤松[ケイ]子

享年十二歳みどりの柿の花 塚本邦雄 甘露

隙間風十二神将みな怒る 阿波野青畝(1899-1992)

内廓夕立つや四門十二橋 久米正雄 返り花

さかなせよ十二神将花の宴 中勘助

しぐれしぐる橋は十二の皆ほそき 幸田露伴 拾遺

十二貫山に日のある寒さかな 田中冬二 行人

さうめんを浸して居たり十二橋 佐藤春夫 能火野人十七音詩抄

時雨るゝや層々暗き十二階 芥川龍之介 蕩々帖〔その一〕

初夢に羅のつく十二神といる 渋谷道

十二時の藤盛りなる木樵径 大峯あきら

時計いま十二時うてり繭玉に 久保田万太郎 草の丈


庄下川沿いの草むら

リュウキンカは、今年の春の盛りを越えたよう。

ホトケノザも群生だと見応えがある。

ひときわでかい葉は、セイヨウカラシナ。
イギリスだと5月、まだうすら寒い丘一面が真黄色になる。
近寄って見ると、私の背丈より高い株がならぶ。カラシナ畑である。
日本の菜の花畑もアブラナよりはこのセイヨウカラシナが「主流」になっているように
思う。

↑繁縷(ハコベラ)、姫踊子草、八重葎(ヤエムグラ)とスイバの葉
庄下川の水辺ではスイバが大株に育つ。

↑ムラサキカタバミ

尼崎市バスは阪神バスへ変貌中



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イースター

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焔上げて肉皿の来るイースター 黒田和子

絵蝋燭百の揺れゐてイースター 松本澄江

北国の何も咲かざるイースター 奥田智久

木の匙に掬ふ一汁イースター 上田日差子

イースター大聖年を目前に 稲畑廣太郎

イースター主の御貌の百合匂ふ 小原菁々子

病院に聖堂ありてイースター 高濱年尾

高濱年尾のおとうちゃんは、ロシア正教信徒と結婚したが、改宗はしていない。
墓は鎌倉の仏教寺院にある。
年尾の娘は小林(おばやし)聖心女学院出身だから在学中にカトリックの洗礼を受けたか、
カトリックの一族稲畑家に嫁ぐ折に受洗したかは知らないが、カトリック教徒である。
よって年尾の孫である廣太郎は幼児洗礼(誕生月に受洗)のはず。
上掲の2人の句はそれほど上等とはいえない。

黒田さんや上田さんの経歴は全く知らないが、句柄からすれば黒田さんは仏教徒で、上田さんはカトリック教徒のような気配。

「イースター」より「復活祭」の方が圧倒的に例句が多いのは、予想通り。

復活祭赤き卵は子規も喰ひき 草間時彦

鎧扉の海にひらかれ復活祭 朝倉和江

銃砲店かたく閉ざされ復活祭 南 典二

火の山の眉張り復活祭近し 吉田鴻司

復活祭木椅子に吾子の掴まり立ち 加畑吉男

子等の掌の卵の赤し復活祭 吉本 信子

百合鴎舞へる夜明けや復活祭 古賀まり子

マッチの頭くつついてゐる復活祭 大石雄鬼

復活祭部屋ごとに立て母子写真 上田日差子

復活祭四肢しなやかに立つ栗毛 片山由美子

ダイバースーツ烏賊干しにして復活祭 能村研三

復活祭神は見えざるものの最 田川飛旅子 『使徒の眼』

さらさらと葱に風くる復活祭 大木あまり 雲の塔

なにがなし善きこといはな復活祭 野沢節子

仰向き歩みつ髪結ふ乙女復活祭 中村草田男

百穴に百の顔ありて復活祭 西東三鬼

ももいろの羽を帽子に復活祭 山口青邨

塔下なる疾風の花や復活祭 水原秋桜子

復活祭山肌赫く海青し 大野林火

復活祭一番鶏は野に出でて 古野洋子

復活祭本寺の彌撒にめぐり逢ふ 三上 孝

復活祭表参道日の沈む 小泉瀬衣子

藪を透く桃のさかりよ復活祭 木下夕爾

素手のまづしさ復活祭の卵つかむ 平畑静塔

復活祭妻が湯浴みの音も更く 村沢夏風

三女また修女を希ひ復活祭 景山筍吉

百穴に百の顔ありて復活祭 西東三鬼

復活祭の卵見てゐる家鴨かな 仙田洋子 雲は王冠

受洗子の眼もみどりなる復活祭 松林露橋

粧ひて婢が休み乞ふ復活祭 下村ひろし

なにがなし善きこと言はな復活祭 野沢節子

復活祭手摺れ聖書に夫の文字 及川貞

かさなつて仔犬ねむれり復活祭 三島隆英

三女また修女を希ひ復活祭 景山筍吉

素手のまづしさ復活祭の卵つかむ 平畑静塔

継目なき神父のカラー復活祭 加藤かけい

百穴に百の顔ありて復活祭 西東三鬼

仰向き歩みつ髪結ふ乙女復活祭 中村草田男

虻をのがれず復活祭の花抱え 平畑静塔

藪を透く桃のさかりよ復活祭 木下夕爾

蝶に翅鳥には翼復活祭 高橋美智子

胸に享く復活祭の染卵 石田波郷

卵の影二重に復活祭の夜 有馬朗人

復活祭蜜蜂は蜜ささげ飛ぶ 石田あき子

月の暈大き楕円よ復活祭 松崎鉄之介

船上に星のふえゆく復活祭 長嶺千晶

マッチの頭くつついてゐる復活祭 大石雄鬼

車椅子の少女に耳環復活祭 冨田みのる

卵黄に血の一筋や復活祭 冨田みのる

一振りの鍬かがやかす復活祭 影島智子

魚の骨復活祭の皿に影と 宮津昭彦

牛舎まづ改築復活祭近く 宮津昭彦

片くりを庭に見出でぬ復活祭 及川貞

復活祭手擦れ聖書に夫の文字 及川貞

雪箆をしまひしよりの復活祭 田村了咲

復活祭芸する猿も西部風 北野民夫

カステラに沈むナイフや復活祭 片山由美子

復活祭海の鹹さで藻が繁る 津田清子

女の手を腰に巻き来て復活祭 寺井谷子

星型の星はいずこに復活祭 池田澄子

復活祭胸にただよふ蝶の数 朝倉和江

母と並んで坐る木の椅子復活祭 田川飛旅子

魚の骨復活祭の皿に影と 宮津昭彦

藪を透く桃のさかりよ復活祭 木下夕爾

山下る復活祭の蟇の列 堀口星眠 営巣期

復活祭雪嶺を青き天に置く 堀口星眠 火山灰の道

湖の村に灯が入る復活祭 有馬朗人 天為

復活祭近づく丘のはぐれ山羊 有馬朗人 天為

路地狭き理髪師に来る復活祭 有馬朗人 天為

復活祭神父の腰に鍵あまた 有馬朗人 天為

卵の影二重に復活祭の夜 有馬朗人 母国

ミルクこぼれ一面復活祭の夜 有馬朗人 母国

復活祭パイプオルガン全開に 井沢正江 湖の伝説以後

復活祭身辺まれにまことあり 井沢正江 湖の伝説

山鳩の二羽の歌垣復活祭 中村草田男

イースター・エッグについて一言

着色料問題が起きるまでは、イースターエッグは殻に直接着色されていた。
その後は、赤や青や黄色のセロファン用紙に包まれるようになった。
今日貰った卵は、ついに、包む作業も省略できるセロファン袋になっていた。
キリスト教徒は日本では極めて少数派だから、
この技術革新で大もうけした人はいないと思う。



最寄り駅の阪急電車「塚口」駅から伊丹線に乗車。「新伊丹」駅下車。
いつもは車で出かけるので、久し振りのルート


始発駅である塚口駅で車内から撮影。
圧倒的に医院の広告。
ずっと昔からこうであった。
大学生になって初めて東京の山手線に乗って驚いたことがある。
医院広告は少数派で、学校・大学の広告が多かったから。
関西に住んでいて、駅に広告を出すような学校・大学は二流三流校という「偏見」があったので。

新伊丹駅前風景

正面に見える家は、私が伊丹南小学校に通っていたころにすでにあった。

湯川秀樹さんの親戚の家ということであった。真偽はしらない。
同じ通りに湯川邸は他にもある。

「福住」、この店も昔からあった。塚口駅前にも支店を出されていたことがある。
湯川や福住は地元の姓かも。


このお宅は、小学校以来の親友の姓と同じ表札。彼の家もほぼ同じところにあった

この地点に教会がある。

(拡大)家族間ラインが賑やかである。
乗車列車の変更など。
「弁護士だが」と言って話しかけられても相手にするなと忠告。


オードリー

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↑22番線 新大阪となって止めののぞみが回送車となって出てゆく
入れ替わるように次の「のぞみ」が入線。

入線する列車を追いかけるように7歳児が駆けて来る。↑
いつものスタイルでヴァイオリンを背負っている。

12時53分着ののぞみゆえに
カメラの方の時計が狂っているのであろう。カメラは12;51を表示。
13歳児笑顔で下車。
航空運賃が無料の間は伊丹空港で迎えていたので、この10年、毎年数回この行事を繰り返している。
同伴者なしは今回が初めて。

↑紙袋にも包み紙にも、個包装(紙)にもオードリーとしか記されていない。横浜たかしまやのみに出店している洋菓子店のようである。

持参品でお茶を済ませたら、
13歳児は、宿題山積みだそうで勉強開始。
7歳児もかなりの量の公文式を横ではじめる。

よって散歩は16時から。

公園の桜はまだちらほらだが、
庄下川沿いでは、3分以上になっているところもある。

今日見た花

↑シバザクラ

↑チョイボケ ツタバウンラン

鉄仙でもクレマチスでも例句探しだせなかった。



出前弁当

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昨日鉄仙でもクレマチスでも例句がなかったと書いたが、
鉄線花では例句がいっぱい。

午前11時に、手ぶらでピクニックへ。
冬桜通り経由。冬桜はまだ咲いているが、主役はコヒガン、江戸彼岸、有明へ。
ウコン、楊貴妃、フケンゾウはまだ蕾も小さい。


踏切を越えたこの部分だけが小さな広場になっている。

江戸彼岸桜が対になって植えられている。桜通りで、江戸彼岸桜はこの2本だけ。

ぶらぶら寄り道をしながら

↑手前が寒桜で、小彼岸、有明とならび、有明が満開である。
↓冬桜

地区公園へ

生丘ゾーンで場所を確保してから、出前電話。
20分後。スマホ・ラインの成果。

30分後完璧に完食。

風待ちの船に出前の冷し麦 山 信夫

鮨屋へのカレーの出前油照 山口恵子

独り居に出前の届くすいっちょん 沢 ふみ江

終戦記念日ビルヘ出前のそばすゝる 島田不拘

小正月刻にはづれし出前そば 衛

鰻の日なりし見知らぬ出前持 後藤夜半(1895-1976)

釣堀に出前の蕎麦の届きけり 安住敦

帰路はまた例の通りのコースで

夜はご要望により

13歳児は25個。500グラム入りのたこ焼き粉1袋を使い切る。



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