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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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ツタバウンラン

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東富松川(現在では庄下川の源流とみなされているヨウ)は、伊丹市へ入ると金岡川と名を変える。伊丹市では金岡排水路の位置づけである。
主に川の西側から、かなりの水量を持つ川(排水路)の流れを受け入れている。

川の側壁をなす石垣の間からツタバウンランが芽を吹き、花を咲かせている。
これまた早春の風景である。


ウィキペディアの解説は、「書きかけ項目」で短い。

ツタバウンランオオバコ科(以前の体系ではゴマノハグサ科)の植物の一種。

学名 Cymbalaria muralis (シノニム Linaria cymbalaria)。別名ツタガラクサウンランカズラ

ヨーロッパ原産であるが、北海道から本州に帰化している。ほふく性で開花期は初夏から夏。花は唇形で、薄い青紫色をしており距(きょ)がある。






歩いているうちに伊丹市立南小学校が見えた。
いつも学校の西端は、車の中から見ているが、正門側は卒業以来見ていない。
西側からだと陸橋を渡らないと学舎側へ近づけない。
↓陸橋の上から

校舎の北側の道路を歩いていると、なんとなく見覚えのある通りの姿である。

代はかわっても、50年以上前からそこに居を構えている家族がお住いのように思った。
塀もない校舎裏だったので、のぞき見などをして、付近の住民に迷惑をかけたことも思い出した。

↑↓新興(高級)住宅街であった。

↑正門から見た風景 ↓生徒出入り口前

一乗谷小学校の雪合戦 佐藤淑子

焚火して小学校の屋根普請 栗田やすし

湯の町の小学校や冬休 高田風人子

富士見ゆる小学校や夏休 高田風人子

植田は鏡遠く声湧く小学校 殿村菟絲子

枕崎小学校の冬休み 原田 耕二

小学校の夜のコンクリート見ゆ酔いたり 金子兜太

号令が谺す夕日の小学校 斎藤康子

ガラスに押した鼻に風ある小学校 蕪島雪郎

青空に天気が映る小学校 家木松郎

鉄砲州小学校の飾売 奥野桐花

ひこばえに雨東吉野村小学校 大西健司

山の子に樗の花の小学校 細川加賀 『生身魂』

大原の小学校も冬休 池内たけし

紙漉くや小学校と谷距て 沢木欣一

木賊原小学校のありにけり 富安風生

うぐひすや標高千の小学校 岬 雪夫

初鶏に応ふ鶏ゐる小学校 松岡博水

正月や小学校の水溜り 梶原敏子

兎飼はれ小学校に立志の碑 坂口匡夫

コスモスや小学校の兎小屋 椎名康之

小学校横切つて来し茸狩 森井美知代

仲秋の闇あふれゐる小学校 川井 淵

咲き残るデイゴに島の小学校 田中良子

小学校集合場所に蛍狩 益永涼子

クレソンの盛りや忍野小学校 一町田愛子

水呑みに立ち寄る春の小学校 三品長生

門司小学校波音の運動会 野中亮介

花筏小学校を出てゆきぬ 佐々木六戈 百韻反故 吾亦紅

大原の小学校も冬休 池内たけし

縷紅草石垣に垂れ小学校 古川芋蔓

植田は鏡遠く声湧く小学校 殿村莵絲子

小学校むかしも暗く樫の花 西尾一

誰もうしろ姿のひぐらし小学校 山口睦子

花筏小学校を出てゆきぬ 佐々木六戈

龍膽が夜の小学校にあり 田中裕明 櫻姫譚

小学校ひきよせて子の凍渡 千保霞舟

秋の日はつるべ落としの小学校 一色あき

鰯雲小学校を一周す 三村凪彦

日章旗や鳳梨熟す小学校 雨城

一樹なき小学校に吾子入れぬ 石田波郷

一月の小学校の懸り凧 下田稔

柚子山にすがりて水尾小学校 猿橋統流子

落葉し盡くして深大寺小学校 八木林之介 青霞集

鯔の潮に真向きて島の小学校 八木林之介 青霞集

大原の小学校も冬休 池内たけし(1889-1974)

一樹なき小学校に吾子を入れぬ 石田波郷(1913-69)

菜の花や小学校の昼餉時 正岡子規(1867-1903)

海霧迫る小学校の万国旗 蓬田紀枝子

桜くろんだ小学校すでにひけてる 北原白秋

孕み猫がをりて韮山小学校 原田喬

初山へ小学校を通り抜け 山本洋子

七夕の声のぼりゆく小学校 山田みづえ 手甲

一樹無き小学校に吾子を入れぬ 石田波郷



いでだから事務室を覗く、
卒業50年かなにかの同窓会があって
出席した同校卒の人からショウちゃんの名前はあったが
住所は不明になっていたよ
と聞いていたので、
卒業生名簿の住所を届けたいと言うと、
小学校では卒業生名簿など把握していないという応答。

テロの報

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明日もまた届くテロ報立金花

孫の背のどんどん伸びる立金花


我が家の↑弁慶草 ↓椿 この品種は近所でもよく見る。




石敢當

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自宅の近くで珍しいものを見つけた。

石敢當(いしがんどう、いしがんとう、せっかんとう)は、石敢當などの文字が刻まれた魔よけの石碑や石標。石敢当泰山石敢當石敢東石散當石散堂石厳當と書かれたものもある。中国で発祥したもので、日本では主に沖縄県鹿児島県で見かける。

南京町などでも注意すればみつかるのかも。

2年前に薩摩藩武家屋敷街でよくみかけた。
この家は、中華料理ではなく、寿司割烹の店である。

直ぐ近くにイチジク畑が残っている。
新しい「古畳」を敷き詰めているので、まだ営業中(出荷)活動を続けている気配。

藁でなくてもいいみたい。マットや古毛布でも代用可能か?

女子大構内のヒマラヤユキノシタを楽しみにでかけたが、あまりいい状態ではなかった。

ツルニチニチソウが数輪咲いていた。

浅春の石敢當が笑いおり


ヤクシマソウ

屋久島に新種の植物=「ヤクシマソウ」と命名-神戸大など
新種認定を受けて、名前がついたばかりだから、どの園芸店にも出ていない。
勿論歳時記には当面採録されない。

浅春

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浅春の海面を剥がし~航く 行方克己 無言劇

蝉塚といふ浅春の石ひとつ 細川加賀

浅春の波あたらしき寺泊 野澤節子

浅春の日は夢のいろ虹のいろ 柴田白葉女 『夕浪』

浅春やどこかに空気清浄器 小松原みや子

浅春や小鳥こぼるる雑木山 渡辺立男

浅春の旅装はなべて色淡し 冬木瑞江

浅春や河骨沈み暗き水 田中冬二 麦ほこり

浅春の夕日の中に鶴なけり 田中冬二 行人

浅春の松は鋭し窓前に 石橋秀野

浅春の体操教師の歯がしろい 藤木清子

死ぬ順に浅春の鍵鳴らしけり 栗林千津

浅春の海面を剥がし剥がし航く 行方克巳

死ぬ順に浅春の鍵鳴らしけり 栗林千津


狭い門前で沢山の花をきれいに管理している家に出会った。
最近はこういう熱心な園芸好きの方を見かけなくなった。

↓品種名は知らないが、この赤花のエリカが早春の風景としては印象的。

早春の湖眩しくて人に逢ふ 横山房子

早春の森にあつまり泥の径 鈴木六林男

早春の風樹にひかり充ち充つごと 赤城さかえ

坑口に早春の日のとどまれる 加倉井秋を

早春の飛鳥陽石蒼古たり 金子兜太

早春の風吹いてくる湖の村 白崎 きよし

早春のやすらぎありぬ古墳群 溝口 博子

ももいろペリカン抱え早春の駅をすぐ 深町一夫

早春の漁夫からもらふ丸き石 米沢恵子

早春そんな語感で眩しい掌のひら 浜 芳女

早春の草根深深とあり睡たき 三橋敏雄

早春の飛鳥陽石蒼古たり 金子兜太

早春の雲ひかり合ふ若さかな 原裕 『投影』

早春何を提げても未婚の手 長谷川双魚 『風形』

玩具籠抱き早春の銀座より 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』

早春の水闘をあげ山を出づ 柴田白葉女 『月の笛』

早春のこころ燃やせる埴輪の眼(熱海、梅園ホテル) 河野南畦 『風の岬』

早春や老の血となるはうれん草 渡辺水巴

楽器函ほど早春の水車小屋 鷹羽狩行

早春の寺の境内庭師居る 土屋孝子

早春や道の左右に潮満ちて 石田波郷

早春の入日林中の笹を染む 水原秋桜子

早春何を提げても未婚の手 長谷川双魚

早春の山笹にある日の粗らさ 細見綾子

早春の火を焚いてゐる桑畑 永方裕子

早春の和船極彩色に塗る 沢木欣一

早春の庭をめぐりて門を出でず 高浜虚子

早春の雪バレリーナ箸使う 岩淵稲花

早春の硯に匂ふ水の色 白井恭郎

早春の出窓を開く少女見え 杉村昌信

落石の谺は渓の早春譜 平田青雲

早春や藁一本に水曲がり 田中純子

早春の喪より帰りて時あます 青柳志解樹

楽器函ほど早春の水車小屋 鷹羽狩行

早春の湾パスカルの青き眸よ 多田裕計

早春の山笹にある日の粗らさ 細見綾子

早春や道の左右に潮満ちて 石田波郷

早春の鶴の背にある光の輪 富沢赤黄男

楽器函ほど早春の水車小屋 鷹羽狩行

早春の園鶴涙を放ちけり 富安風生

早春や道の左右に潮満ちて 石田波郷

早春とは母に呼吸のありしこと 森田緑郎

早春の馬はしり過ぎ火の匂い 穴井太

早春の日ざし汝が肩わが肩に 田中冬二 麦ほこり

早春とは母に呼吸のありしこと 森田緑郎

早春の土踏めば土応へけり 藤松遊子

早春の城出て帰る石工達 飯田龍太

早春何を提げても未婚の手 長谷川双魚

さみしめば早春の月水の面に 伊藤京子

矢を放つ早春の幹並ぶ間 荒井正隆

早春の娘と過ごす日の一日減る 上野さち子

早春の門すこし濡れあさの雨 及川貞

早春の砂丘なゝめに駈け下る 大橋敦子

早春の鳶を放ちて宝寺 阿波野青畝(1899-1992)

早春の庭をめぐりて門を出でず 高浜虚子(1874-1959)

早春の凍て雲にして山の端に 高濱年尾

早春の日ざし汝が肩わが肩に 田中冬二 麦ほこり

早春の見えぬもの降る雑木山 山田みづえ

早春の光の針縫う 榕樹の村 伊丹公子

タラップを降り早春の伊予の土 星野椿

早春の雲のあたりが二月堂 星野椿

早春の首都 唇より種を出す 松本恭子

何かある早春の水を覗きけり 高橋淡路女

早春なり少年の親友に猫 金子皆子

早春の門すこし濡れあさの雨 及川貞

早春や太刀反り立てる部屋の寒 横光利一

早春や一つづゝ樹の運ばるる 横光利一

早春に挽く樹のゆるき倒れかな 横光利一

早春や運ばるる樹みな横に 横光利一

黒砂糖舐め早春の伊賀にあり 原田喬

早春の水渉りゆく名馬ばかり 和田悟朗

早春の日が編棒に来て跳る 山田弘子

早春かいやさ早漏正露丸 坪内稔典

鵞毛の降る早春の夜や妻の裸身に触れんかな 橋本夢道 無礼なる妻

早春や遠故郷のすみれ色 村越化石

楽器函ほど早春の水車小屋 鷹羽狩行 遠岸

早春の城出て帰る石工達 飯田龍太 麓の人

早春の見えぬもの降る雑木山 山田みづえ 手甲

早春
の巻貝殻は砂丘の耳 有馬朗人 母国

早春何を提げても未婚の手 長谷川双魚

閑な市電尻ふり早春の運河沿いに 赤城さかえ

早春の陽に干してやる妻の傘も 赤城さかえ

水より淡き早春の空草城忌 楠本憲吉

早春や粗くともりて厨の灯 楠本憲吉

早春の空嵌(は)めて悲し切通し 楠本憲吉






サリー

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30年以上前に出会ったイギリス人(下宿主の息子)とはいまなお細々と文通している。クロケーの師である。6月、7月には、夜10時過ぎまで
付き合ってくれた。
ここ数年は、箱入りで送り届けられる証券会社からのカレンダーを封を切らないまま、宛先だけUKに書き替えて航空便で送っている。
(よって図柄はしらないまま。)

今年は、相手もカレンダーを送ってくれた。ロンドン南部の田園風景をテーマにしたものである。

ウィキペディア:
ハンプトン・コート宮殿Hampton Court Palace)は英国ロンドン南西部、リッチモンド・アポン・テムズ・ロンドン特別区にある旧王宮。[1] 宮殿はチャリング・クロスの南西11.7マイル(18.9km)、ロンドン中央部から見てテムズ川の上流に位置する。 宮殿は主要な観光名所として、一般公開されている。宮殿の庭園は、毎年開催される「ハンプトン・コート宮殿フラワー・ショー」の会場となる。↓

聖ヨハネ騎士団は、この地で1236年以来、荘園を開いていた。1505年、侍従長のサー・ジャイルズ・ドーベニー(Sir Giles Daubeney)は、資産を貸し出し、ヘンリー7世を楽しませるために使った。ヘンリー8世は、英国周辺にハンプトン・コートと同じスタイルの宮殿を49造ったが、すべて現存していない。

当時のヨーク大司教であり王の主任公使だったトマス・ウルジーは、1514年に賃貸を引き継ぎ、翌1515年から1521年の7年間にかけて、14世紀のマナ・ハウスを再建して、現在の宮殿の基礎を作り上げた。トマス・ウルジーはたいへんな浪費家で、ハンプトン・コートに英国一すばらしい宮殿を作ったが、ヘンリー王が嫉妬したため王に宮殿を「進呈」した。

ハンプトン・コートにはテューダー朝時代の建物がわずかに残っており、のちにヘンリー8世が手入れ・再建を行っているが、おそらくウルジーはアントニオ・フィラレーテレオナルド・ダ・ヴィンチのようなイタリアの建築スタイルで、左右対称の設計、古典的ディテールのピアノ・ノビーレに建てられた壮大な邸宅など、ルネサンス時代の枢機卿の宮殿を理想として計画したものと思われる。ジョナサン・フォイルによれば、ウルジーはパオロ・コルテスの“De Cardinalatu”に影響されたという。これは1510年に出版された枢機卿のための手引書で、広壮な建築に関するアドバイスも書かれている。長い間不明だったハンプトン・コートの建築計画は、ルネサンスの幾何学的様式に基づくように思われる。イタリアの影響は、有名なテラコッタ製のローマ皇帝の胸像には希薄である。これはジョヴァンニ・ダ・マイアーノによるもので、広大な中庭に現存している。




しかし

イギリスならどこでも見られる風景である。
3月4月の気温は低いので、
チューリップでも、桜でも八重桜でも1か月くらい咲いている。

↓2月半ばの尼崎の公園のチューリップ

句会参加

木瓜の花明日のテロ報何処から
無為徒食夕日に染まる木瓜の花  (席題「無」)
立ちはだかる葬祭ホール梅の里
杜松の鉢並ぶ仕舞屋二月尽
まだ残る父の役割ギョ柳梅  (ぎょ は、木偏に「聖」)


 ギョリュウバイ

ギョリュウバイは葉の形態から「ネズモドキ」という異名あり。
杜松はネズと読む。針葉樹の葉がネズミトリの役割を果たしたらしい。



道標

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尼崎市内にある石の道標32基を1ヵ月ほどで集中的に探索・撮影してから数ヵ月経ったが、
その後も他のものを探索しているうちに、それらの道しるべに再度あるいは3度も4度も再会する機会がある。
その度に、今一度とばかり、カメラに画像を納めている。

今年になってから2か月足らずの間に出会ったものを紹介。

一番印象的だったのは、JR塚口駅西口に立っていたもの。

その場所 2月16日

あれ!一瞬場所を間違ったかと思った。何もないし、大きな石を撤去したと思われる跡形もない。この前にも、道標紹介後も一度は画像に収めたのにとあたりを見回し間違いない、石は撤去されたよう。すぐ近くの店で店番をしていた高齢婦人に声をかける。

あ~あ~あの道標は元あったところに戻されたんですという返事。

元あったところがどこであるかは知っていたので、そうですかと応えて、JR線の北側へ歩いて
いった。


今はZutto Cityの建設に伴い、踏切道も拡張され、車が2台同時に交差できるほどになった
線路の東側に道標が「堂々と」立っているのをみつける。


「右」「左」ではなく、「東南」「西北」と方角が示されているので、明治以降の設置であることが分かる(ラシイ)。

1月9日 尼崎城の復元城壁の上に立つ尼崎市中央図書館、その図書館の東側の空き地内に移転保存され、夏草に覆われて金網越しに撮影した、中国街道の分岐点に立っていた道標。

相変わらず金網越しだが、草が刈られ、整地が進んでいたので、ずっと撮影しやすくなっていた。
10年後には、城そのものが復元されいるかもしれない。
篤志家の資金提供の申し出があったと新聞報道があった。
中央新幹線の名古屋ー大阪に乗車できる可能性は限りなく小さいが、10年先なら新尼崎城を眺めることが出来るかも。

↑1月31日守部素戔嗚神社内の2つの道標。これもまた移転保存されたもの。

↓寺町如来院門前のもの。「左」と読めるものが道標。2月2日

2月9日広済寺前の道標

その近くの地蔵堂前の道標

久々知の道標

これはこの場所にそのまま残ったらしい。
近くの駐車場の植え込みの中に、何か文字に見えるものが浮き出ている石があった。

墓石ではないと思う。

道標が朽ちて梅雨茸にも劣る 鷹羽狩行

無住小屋に道標あり山清水 大谷恵教

風向きに霧氷の育つ道標 加藤ひろみ

行く雁や既に日のなき道標 菊池三千雄

芭蕉忌や道標今も伊勢を指し 岡本郁三郎

枸杞の実や道標の字の読みにくし 古川芋蔓

字の何と陽炎立つや道標 松根東洋城

野を焼くや道標焦る官有地 夏目漱石 明治二十九年

道標をいくばくか過ぎ蚯蚓死す 中島斌雄



↓これも道しるべ  2月21日

(続 俳句検索

船頭に浮巣も水の道標 江川虹村

啄木鳥や木の道標は湖畔指し 野口 明

菜の花や余呉へ小さき道標 小畠和男

赤石の道標露けき光の中 西村洗二

道標の指せる教会霜のこゑ 平井さち子 鷹日和

筑波嶺は天の道標鳥帰る 小川斉東語




今日のミモザ。 7分咲き。













カメリア・エリナ・カスケード

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カメリア・エリナ・カスケード


ガマズミ

リュウキュウアセビ

クロガネモチ

サンシュユ

山茶花の花屑を溜め組紐屋 飴山實 『次の花』

山茶花の落花並べは 神遊び 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 花仙人

山茶花の散るからに 咲くからに ああ 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 花仙人

山茶花のしぐるる花のみな平ら 皆吉爽雨

山茶花の一とたび凍てて咲きし花 細見綾子

山茶花は漱石の花一枝折る 時彦

山茶花の大樹花満つ鶴の村 朱鳥

山茶花に雨待つこころ小柴垣 鏡花

山茶花の花をつかみて雀蜂 岸本尚毅 鶏頭

山茶花の花のこぼれに掃きとどむ 高浜虚子

山茶花に太く泥めく線香立つ 久米正雄 返り花

嵯峨国民学校とあり山茶花に 久米正雄 返り花

山茶花に雨待つこゝろ小柴垣 泉鏡花

湯の村に菊屋山茶花冬薔薇 泉鏡花

山茶花に此の熱燗の恥かしき 泉鏡花

山茶花の花のこぼれに掃きとゞむ

山茶花のひとひら 落ちきるまでの 坐視 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 夢見沙羅

山茶花の花屑少し掃きにけり 篠原鳳作

きさらぎや山茶花寒きわすれ花 松岡青蘿

山茶花の花びらにして月に敷く 古舘曹人

仏滅や山茶花の紅寺に咲く 中山純子

山茶花の白より昏るる埴輪群 つじ加代子

庫裡の簷しぬぐ山茶花しぐれけり 加藤風信子

山茶花は魂のはな散りてなほ 原 コウ子

山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ 加藤楸邨

山茶花の庭に遺りし絵踏石 江口竹亭

高麗烏啼くゆへに散る山茶花か 玉出雁梓幸

山茶花が美しかりし都府楼趾 星野立子

山茶花の散ってをりたる仏かな 小林 たか子

山茶花に紙ヒコーキの飛んで来し 加藤 和子

山茶花にほつほつ花や苗木市 高橋 守

山茶花病みやすし中国より手紙 高田律子

山茶花の散る月光に畳職 黒田杏子

山茶花の散るをいたみし言葉かな 原裕 『青垣』

山茶花の白尋め行くや石鼎忌 原裕 『青垣』

山茶花の一片かとも朝の粥(母風邪に臥す) 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』

山茶花散る偏と旁とばらばらに 田川飛旅子 『薄荷』

山茶花の散つて集まる水の裏 齋藤玄 『狩眼』

山茶花の脆きところにひしと触る 齋藤玄 『狩眼』

山茶花の丸く刈られし屍室 大木あまり 雲の塔

山茶花の丈まだ低き新公園 古川充子

女家族は紙屑多し山茶花散る 中村草田男

山茶花に魚板もやさし女寺 石川桂郎

山茶花の窓を残して娘の嫁けり 福原紫朗

山茶花の長き盛りのはじまりぬ 富安風生

山茶花の暮れゆきすでに月夜なる 水原秋桜子

山茶花の垣めぐらして接骨医 浜野ゆかり

山茶花のここを書斎と定めたり 正岡子規

山茶花の蕾そろひぬ初時雨 山口青邨

福笑山茶花散らすごとくなり 中島月笠

噂話は三日華やか山茶花散る 大石壽美

山茶花を散らし天丼とどきけり 小菅高雪

日おもての山茶花散れり子に問はる 新谷ひろし

山茶花の紅つきまぜよ亥の子餅 杉田久女

山茶花の夕日ひとひら剥がれけり 林 翔

山茶花に残る日すでに光なし 千代田葛彦

山茶花の八重咲く白さ昃りても 小澤満佐子

山茶花の一樹あつむる野のひかり 松本 美簾

山茶花の散りたまりつつ夕月夜 中村 秋晴

山茶花のこぼれしのみの朝のちり 植山 露子

降り積もる歳月かなし山茶花も 仙田洋子 雲は王冠

山茶花の散り重なりて土濡れぬ 原田種茅

山茶花にたまさかさせる日なりけり 望月健

山茶花の咲く淋しさと気付きたる 栗原米作

山茶花の咲きためらへる朝かな 渡辺桂子

山茶花のくれなゐひとに訪はれずに 橋本多佳子

山茶花の日和に翳のあるごとく 西島麦南

山茶花の散るにまかせて晴れ渡り 永井龍男

山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ 加藤楸邨

山茶花の散りしく木の間くらきかな 久保田万太郎

無始無終山茶花たゞに開落す 寒川鼠骨

霜を掃き山茶花を掃く許りかな 高浜虚子

山茶花の紅つきまぜよ亥の子餅 杉田久女

山茶花を愛す褞袍にくつろいで 遠藤梧逸

福笑山茶花散らすごとくなり 中島月笠

山茶花はさびしき花や見れば散る 不二子

山茶花の咲きためらへる朝かな 桂子

山茶花の散るをいたみし言葉かな 裕

山茶花の日の消えぎはを母歩く 澄雄

山茶花のはなくづ月に踏みて訪ふ 占魚

山茶花の散り重なりて土濡れぬ 種茅

月夜にて山茶花が散る止めどなし 綾子

山茶花の散るや己の影の中 [しょう]人

山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ 楸邨

山茶花の日ねもすちりて盛りかな 舟月

山茶花の散るにまかせて晴れ渡り 龍男

山茶花の日和に翳のあるごとく 麦南

山茶花の長き盛りのはじまりぬ 風生

山茶花の貝の如くに散りにけり 青邨

山茶花の暮れゆきすでに月夜なる 秋櫻子

塀のそと山茶花ちりぬ冬の町 かな女

山茶花のみだれやうすき天の川 水巴

山茶花は白一色ぞ銀閣寺 碧童

山茶花にあるは霙の降る日かな 碧梧桐

山茶花を椿ときくも草枕 蒼[きう]

山茶花のこゝを書斎と定めたり 子規










難波宮

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NHK放送局の前に歴史博物館がある。

5階のテラスからは大阪城が目の前に見えるホテルでの会議に出席。

夜は湯葉コース

尼寺へ京の湯葉屋の寒見舞 内山芳子

湯葉のほのと甘しや雪起し 関 成美

湯葉供へあり節分の鬼子母神 細見綾子

湯葉の香の一椀賜ふ安居かな 草間時彦

湯気はらふ団扇の古りて湯葉づくり 大島民郎

舌よりも湯葉やはらかし蟇の夜 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』

蓬や湯葉六代の竃神 黒木野雨

春雪やほのかに甘き椀の湯葉 岩田つねゑ

湯葉小鯛錦小路の春たけなは 水原 春郎

空也忌の京に宿りぬ湯葉料理 高畠明皎々

臘八の飲食湯葉の黄をくらふ 永橋並木

蕎麦よりも湯葉の香のまづ秋の雨 久保田万太郎

蕎麦よりも湯葉の香のまづ秋の雨 万太郎

京よりの湯葉のかるさや冬麗 石嶌岳

梅の東風国引きのごと湯葉すくふ 小枝秀穂女

口中に湯葉をふふみて朧かな 冨田みのる

若葉光漉かれし紙の湯葉のごと 関森勝夫

花暮れて月待つ間を湯葉買ひに 吉野義子

湯葉の香の二階まできて近松忌 永井龍男

湯気はらふ団扇の古りて湯葉づくり 大島民郎

湯葉の帯椀になびける安居かな 井沢正江 湖の伝説




梅にインコ

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インコ(鸚哥、true parrots)はインコ科(鸚哥科、Psittacidae)に属する約330種類のの総称で、オウム目(Psittaciformes)を構成するふたつの科のうちの一つである。もうひとつの科であるオウム科(Cacatuidae)の鳥も英語ではparrotsとよばれるが、インコ true parrots には分類されない。インコはオウムよりも広く分布しており、アメリカアフリカアジアオーストラリアポリネシアに至る太平洋東方まで生息している種がある。

インコ科は、インコ亜科 (一般のインコとその仲間) とヒインコ亜科のふたつの亜科から構成される。しかしこれとは異なる分類法もあり、これらふたつのグループがインコ科(Psittacidae)とヒインコ科(Loriidae)と呼ばれ、正規の科として記述される場合もある。

ほとんどのオウム目の鳥がそうであるようにインコ科の鳥も基本的に種子食である。個々の種によって多少バリエーションがあり、果実、ナッツ、葉そして昆虫や、時には他の動物を捕食するものも種類によっては存在する。ヒインコは主に花のを食べているが、他のインコも同様に蜜を食べる。ほとんどのインコは木のウロに巣をかけ、一夫一婦でつがいを作る。

九官鳥と同様、教えることによって人語を操るようになる。記録では、100語以上喋れた個体もいる。

↑例の如くウィキペディアより。この鸚哥は鶯の声をまねることが出来る。

梅の蜜漁る気もなく鸚哥2羽


「俳句検索」では1句


大冬木野性の鸚哥とまらせて 福原千枝子

「続 俳句検索」で、3句

小春日やわが口笛を聴く鸚哥 竹之内和子

つながれて日永の鸚哥鎖噛む 加藤美智恵

注連飾留守居の鸚哥よくこたへ 福田甲子雄


紅梅より禿頭に依る鸚哥族

難波の梅

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尼崎にも難波(なにわ)という地名がある。

尼崎地域史事典(apedia)によると、

現在の庄下川蓬川に痕跡を残している旧武庫川の分流河口付近を指し、古代からの地名と思われる。

仁徳天皇にまつわる難波の梅の伝説が伝えられている。

(難波の梅の伝説とは:

伝説。難波の里(現東難波町・西難波町)の香り高いウメの木を、仁徳天皇がとくに好まれたので、村人が毎年ウメの花を献上してきた。あるとき、このウメの木を勅命で都に移した。都では難波に向いている枝には花をつけたが、ほかの枝には花を咲かせることがなかったので、もとの地に返したところ、また昔のように多くの香り高い花を咲かせるようになったという。

↑難波の梅(熊野神社内)
↓この地区の旧名は「梅の木」だったらしい。
梅の木公園の梅


地名 難波の解説の続き

史料上の初見は1304年(嘉元2)「浄土寺門跡寄進米上日記」(勝尾寺文書/『尼崎市史』第4巻)。橘御園の荘域に属した。これより早く「勘仲記」弘安2年(1279)3月17日条に登場する、尼崎浜付近の関白鷹司家別荘・難波江館はこの地にあったものと考えられる。1208年(承元2)関白近衛家実が橘御園に方違〔かたたが〕えに訪れたのも、この難波江館であろう。のち室町~戦国時代には、京都通玄寺(曇華院)領であった。

  応仁の乱から戦国時代にかけての記録には、いくたびか合戦の地として登場しており、城(砦)があったとも記されている。「細川両家記」永禄9年(1566)7月17日条には難波東西という記述があり、戦国時代に東難波西難波に分離していったと考えられる。

東難波村、西難波村は、明治半ばに立花村に統合されたが、
両村だけ、尼崎町と合併、尼崎市が誕生する。それが1916年のことであり、今年は市制100周年となる。

↑市制100周年記念ポスターコンクールなども開催されたのであろうか。多くの学校で、塀沿いにポスターを張り出している。

現在の大阪では、難波と書けば、「なんば」と読み、
なにわ と読む場合は「浪速」と書くよう。
例句はおおむね難波と表記して、「なにわ」と読ませているようだ。


貝寄風や難波の芦も葭も角 山口青邨

貝寄せや我もうれしき難波人 松瀬青々

難波津の貝の白妙聖霊会 中村子瓶

藪入や難波を出でて長柄川 蕪村

冬つばき難波の梅の時分哉 召波

難波津や橋めぐりして夜の雪 青蘿

山茶花や難波へ向てつかみざし 一雀(悼芭蕉翁)

難波女の駕に見て行くしぐれかな 几董

枯蘆や難波入江のさゞら波 鬼貫

難波津や蘆の葉に置く天の川 野坡

祭髪酒落のめしたり難波つ娘 西村和子 かりそめならず

枯芦や難波入江のささら波 鬼貫

川下に難波もあるか真菰売 光甫

難波女の懐寒し春の風 うめ

難波女や京を寒がる御忌詣 蕪村

難波橋春の夕日に染まりつつ 後藤夜半(1895-1976)

難波女や京を寒がる御忌詣 蕪村

牡蠣舟や旅の難波の冬こもり 尾崎紅葉

難波津の旅やあつまの冬籠 尾崎紅葉

この花ちつて難波さびしき木の頭 中勘助

顔みせの難波のよるは夢なれや 炭 太祇 太祇句選後篇

難波橋春の夕日に染りつつ 後藤夜半

冬つばき難波の梅の時分かな 黒柳召波 春泥句集

千刈の田をかへすなり難波人 一鷺 芭蕉庵小文庫

難波女や何からとはん事はじめ 園女 俳諧撰集玉藻集

菊の香やふるき難波の呑み手ども 千川 九 月 月別句集「韻塞」

難波女の懐寒し春の風 ゝ女 うめ 五車反古

庭竈民や難波の帝より 椎本才麿

水船も仕舞ふ難波やとしの暮 水田正秀

早稲酒や難波長者の笑ひ聲 井上井月

貝寄や我もうれしき難波人 松瀬青々

難波ぶり見更梅の都かな 井原西鶴

さくわけや難波について豊後梅 井原西鶴

念仏会来世は遠し難波寺 井原西鶴

明日は粽難波の枯葉夢なれや 松尾芭蕉

難波津や田螺の蓋も冬ごもり 松尾芭蕉

ゆく年やとても難波の橋の数 松岡青蘿

難波津や橋めぐりして夜の雪 松岡青蘿

難波女の駕に見て行しぐれ哉 高井几董

難波女に何からとはん事はじめ 斯波園女

枯芦や難波入江のささら波 上島鬼貫

難波津や田螺の蓋も冬ごもり 松尾芭蕉



二月尽

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二月手を垂れてゆくをとこ見ゆ 柴田白葉女 『冬泉』

雲の中鳴く鳥ありて二月 米沢吾亦紅

よべの雨に家々ぬれて二月 内田百間

カレンダーの巻癖とれて二月 種市清子

ちらちらと空を梅ちり二月 原 石鼎

男にもある更年期二月 森松 清

折鶴の紙にもどらぬ二月 友松照子

二月男女異なる時計見て 斉藤四四生

荒波をかすめ来し風二月 印南頼子

風邪の目に雪嶺ゆらぐ二月 相馬遷子

光りつつ鳥影よぎる二月 小沢 明美

雪原の靄に日が溶け二月 相馬遷子

くちびるにくちびる残り二月 谷口桂子

かごめかごめ振り向く鬼に二月 柴田奈美

束の間のかげろふ立てば二月 森澄雄

二月天城山葵に涙して 細見綾子

二月江差追分なら聞こう 池禎章

古傷を医師に問はれし二月 大室易子

ほどほどに手足を使ひ二月 長谷川双魚

二月臙脂は妻の好むいろ 友岡子郷

犬の耳臭くなりたり二月 龍岡晋

菜をひたす水のあかるさ二月 井上雪

石の鹿灯袋を駈け二月 伊藤敬子

嬰児の一髪なびき二月 和田悟朗

ますぐなる幹に雨沁む二月 福永耕二

瀬頭に息あはせをり二月 佐藤鬼房 潮海

厨芥車滴り長し二月 沢木欣一 雪白

橘や蒼きうるふの二月 三橋敏雄 *シャコ

二月風より殖ゆる鳥のかず 原裕 新治

ほどほどに手足を使ひ二月 長谷川双魚

いま割れしばかりの岩ぞ二月 飯田龍太

二月利休の心温ねけり 阿波野青畝



「二月尽」は、今ではれっきとした季語であるが、まず初めに九月尽が季語として登場、その後に二月尽も季語資格を得たということを聞いたか、読んだことがある。
「○月尽」は二月と九月のみ利用可のはすが今ではそれ以外でも用いられている。

白波が白波追へり九月尽 千田一路

うす霜のむぐらが門に九月尽 細谷源二

妻病みて目尻の乾く九月尽 穴井 太

昨日よりくらき白山九月尽 阿部完市

九月尽瓦漸く鋭き色に 宇佐美魚目

真昼野に焚く火透きけり九月尽 富田直治

まが雨の降りもつづきて九月尽 佐藤鬼房

九月尽胸あつくなる風邪ぐすり 古沢太穂

かんがふる一机の光九月尽 森 澄雄

命綱すぐ手のとどく九月尽 角川源義『西行の日』以後

ガラス器を磨きてしまふ九月尽 種市清子

真昼野に焚く火透きけり九月尽 富田直治

少年の商才かなし九月尽 楠本憲吉

大の字に寝て一畳の九月尽 土生重次

パソコンでつける家計簿九月尽 満田春日

会議室海の絵も寂び九月尽 村田 脩

雲表に山々ならび九月尽 福田蓼汀

まが雨の降りもつづきて九月尽 佐藤鬼房

真昼野に焚く火透きたり九月尽 富田直治

九月尽まぶしきものを一日見ず 和田祥子

かんがふる一机の光九月尽 森澄雄

雨降れば暮るる速さよ九月尽 杉田久女

九月尽日許六拝去来先生几下 高浜虚子

少年の商才かなし九月尽 楠本憲吉

井の端の風露の乾き九月尽 菅裸馬

九月尽机の端に手紙かな 高浜虚子

九月尽遥に能登の岬かな 暁台

かんがふる一机の光九月尽 森澄雄

雨降れば暮るる速さよ九月尽 杉田久女

雲表に山々ならび九月尽 福田蓼汀

古寺に狂言会や九月尽 雁宕

九月尽深き曇りに鳥飛ばず 相馬遷子

少年の商才かなし九月尽 楠本憲吉

傾城の小哥はかなし九月尽 宝井(榎本)其角 (1661-1707)

六尺の人のけむりや九月尽 攝津幸彦

九月尽深き曇りに鳥飛ばず 相馬遷子 山河

月影の不破にも洩らず九月尽 黒柳召波 春泥句集

褌に贈別の詩や九月尽 黒柳召波 春泥句集

古寺に狂言会や九月尽 雁宕 五車反古

命綱すぐ手のとどく九月尽 角川源義

頼政の月見所や九月尽 榎本其角

傾城の小哥はかなし九月尽 宝井(榎本)其角

二月尽では江戸俳人の例句は登場しないが、
九月尽では其角の句が登場する。
さらに言えば、芭蕉、蕪村、一茶の例句はない。



「三月尽」は極端に例句が少なくなる。

三月尽船ゆつくりと夕闇を 大井雅人

ポストまで通ふ日多し三月尽 馬場利春

街川に水輪増やして三月尽 下山宏子

あり暮らす三月尽の草戸哉 松瀬青々

三月尽校塔松と空ざまに 石田波郷

三月尽兄妹いつまで倶にあらむ 石田波郷

『俳諧歳時記』では「九月盡」のみが季語として扱われ、上掲の句を含む其角の句が4句紹介されている。『ホトトギス歳時記』にはその9月尽さえ採録されていない。というより、(紙数の関連で)「二月」「九月」の派生語として扱われているのかも。


試しに四月尽で検索。

意外や意外、かなりの例句登場。


翻訳劇の舞台が底に四月尽 高田律子

夢に浮く身風呂にしずむ身四月尽 江里昭彦

娶る子に渡す臍の緒四月尽 池田博子

夜具の下畳つめたき四月尽 橋本多佳子

四月尽兄妹門にあそびけり 安住 敦

あまき音のチエロが壁越し四月尽 秋元不死男

四月尽易きにながれゐたりしか 恩賀とみ子

詰襟のやうやく馴染み四月尽 兼安昭子

白雲へ杉まつすぐに四月尽 寺井治

あまき音のチェロが壁越し四月尽 秋元不死男

こけし買ふ数の恋しく四月尽 石田波郷

こんこんと眠る流木四月尽 秋澤猛

虎杖をむかし手折りぬ四月尽 石田波郷

草ひきし泥手のままの四月尽 細見綾子

喜捨もせしズックを脱げり四月尽 山口風樹

わが書屋わが掃き坐り四月尽 亀井糸游

夢に浮く身風呂にしずむ身四月尽 江里昭彦(1950-)

肩の骨外れたままに四月尽 宇多喜代子

四月尽朱の箸流れくることも 飯田龍太

ねばならぬもののみ増えて五月尽 加藤瑠璃子

子をよべば妻が来てをり五月尽 加藤楸邨

五月尽旅はせずとも髪汚る 中嶋秀子

五月尽ものぐさ癖のぬる朝湯 永井龍男

するに今では
何月でもいいのである。
「五月尽」という独立の季語があるとは言えないが、
「五月」は季語だからそれが尽きる日を指す言葉ももちろん季語ということになる。

「一二月尽」だってダメだとは言えない現況と判断。

今日のミモザ  このお宅のものは満開


あと1本、別のミモザ。7分か8分。

梅花

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人は人梅花梅花徳は徳 京極杞陽

やまざとはまんざい遅し梅花 芭蕉

雷神の深紅の破風や梅花御供 奥田可児

世に匂へ梅花一枝のみそさざい 芭蕉

梅花藻の水湛黙と日雷 渡邊三一子

宮普請少し残りて梅花御供 冨田みのる

驚喜して見し六瓣の梅花あり 相生垣瓜人

門礼や処々の梅花を拝し去る 尾崎紅葉

梅花飛び尽せば風を見ざりけり(先考悼亡) 芥川龍之介 我鬼窟句抄

梅花ころげ合ふ古里の皿囃子 三橋鷹女

春の雹解けて梅花を流しけり 永井龍男

梅花燦たり歌會始の儀 久保田万太郎 流寓抄以後

黒土や草履のうらも梅花 一茶 ■文化八年辛未(四十九歳)

一日も我家ほしさよ梅花 一茶 ■文化元年甲子(四十二歳)

夫子貧に梅花書屋の粥薄し 夏目漱石 明治三十二年

梅花とは何ぞ父母何寂しき 永田耕衣 陸沈考

或る日父母が居ないと思う梅花かな 永田耕衣 陸沈考

父白うして梅花たるべき時節かな 永田耕衣 陸沈考

泣かで泣く梅花挟みの涙かな 永田耕衣 陸沈考

死なざらむ虚空生たり梅花人 永田耕衣 陸沈考

梅花永らへて父母と同じき 永田耕衣 陸沈考

父母の忌や桃花変ハタ梅花変 永田耕衣 陸沈考

梅花飛び尽せば風を見ざりけり 芥川龍之介

世に匂へ梅花一枝のみそさざい 松尾芭蕉

足跡の梅花なつかし雪の朝 高井几董

喇(しわぶき)の軒端ににっと梅花 乙州

名と利との二つ三つ四つ早梅花 広瀬惟然


「梅花」と表記して「うめのはな」と読ませる句も多い。



梅七分坂と道標多き寺

2月25日宝塚 中山寺の梅



尼崎 西難波の熊野神社の梅 2月27日(土)

神社の背後にある梅の木公園

2月28日尼崎 農業公園の梅

2月に農業公園を訪れるのは初めてかも。意外に梅の木が多い。ただし品種は限られている。

2月29日庄下川沿いの梅

3月1日
大阪夕陽丘 四天王寺境内

茶屋町綱敷天神社


・・・
梅田新阪急ホテル前の花壇横



葉上照澄

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葉上 照澄(はがみ しょうちょう、1903年8月15日 - 1989年3月7日)は、天台宗僧侶、大阿闍梨延暦寺長﨟で初代印度山日本寺竺主および世界連邦日本宗教委員会会長である。また、ローマ教皇パウロ6世と接見し、平和のために働くことを誓い合う。ニューヨーク大聖堂において法話が実現し、宗教を超えた世界平和を訴え、後に世界宗教サミットを実現させた。南海ホークス時代の野村克也の後援会長を務めていた。

(インク文字を含む解説は、例によりウィキペディアより)

阿闍梨も大阿闍梨も今では(内外とも)かなり形骸化した呼称・資格となっている宗派もあるようだが、この人は本物。

経歴

  • 1903年(明治36年)8月15日、岡山県赤磐郡石生村原(現在の岡山県和気郡和気町原)の天台宗・元恩寺住職の葉上慈照の長男として生まれる。
  • 1910年(明治43年)4月、石生小学校に入学。
  • 1916年(大正5年)9月、岡山県立岡山中学校に入学。
  • 1920年(大正9年)第六高等学校 (旧制)に首席入学。
  • 1926年(大正15年)3月、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。
  • 1926年(大正15年)大正大学専任講師となる。
  • 1927年(昭和2年)大正大学教授となる。
  • 1940年(昭和15年)妻・春子他界する。
  • 1941年(昭和16年)岡山県に帰郷する。
  • 1942年(昭和17年)合同新聞(現山陽新聞社)に入社し、論説委員をつとめる。
  • 1946年(昭和21年)3月、比叡山無動寺にこもる。
  • 1947年(昭和22年)千日回峰行に入る。
  • 1953年(昭和28年)9月18日、大行満をする。歴代39人目。その後、十万枚大護摩供、3年間で1000日の運心回峰行、3年間の法華三昧行を達成する。
  • 1957年(昭和32年)9月21日、宮沢賢治の生き方に感銘し、25回忌に合わせ根本中堂前に歌碑を建立発願した。「根本中堂 ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまえ」の歌が刻まれている。
  • 1962年(昭和37年)東南寺住職としてインドへ訪問し、それがきっかけとなってブッダガヤ印度山日本寺が建立されることになり、後に初代竺主となる。
  • 1967年(昭和42年)世界連邦日本宗教委員会を結成し、会長に就任する。
  • 1975年(昭和50年)真言宗高山寺住職を兼任。カトリック・聖フランシスコ教会と兄弟教会になる。
  • 1977年(昭和52年)5月、イスラム教最高審議会の招聘により超宗派使節団長としてエジプトを訪問し、サダト大統領と会談し、同年11月サダト大統領のイスラエル訪問が実現する。
  • 1978年(昭和53年)7月、ローマ郊外のネミ湖畔で日本バチカン宗教代表者会議が開催され、日本側代表として徳川宗敬神社本庁統理、長沼基之立正佼成会理事長らと共に出席する。会議終了後、ローマ教皇・パウロ6世と接見し、共に平和のために働くことを誓いあう。その10日後にパウロ6世が急逝するが、パウロ6世の言葉を遺言と受けとめ宗教サミット開催実現に向けて全力を傾ける。
  • 1979年(昭和54年)エジプト・イスラエル平和条約が締結し、シナイ半島返還式典においてイスラム教、ユダヤ教キリスト教の三教の合同礼拝を実現させる。
  • 1982年(昭和57年)5月30日、ニューヨーク大聖堂において世界平和を実現するためには、宗教および宗派を超えた協力が必要であるとの法話をする。
  • 1984年(昭和59年)シナイ山においてアメリカ、イスラエル、エジプト、日本の各宗派参加の合同礼拝を実現させる。
  • 1987年(昭和62年)比叡山において世界宗教サミット開催を実現させる。
  • 1989年(平成元年)3月7日逝去。

    帝国大学を卒業、翌年には仏教系大学の教授になっている。

著書

  • 倫理学概説(1948年、同文社)
  • 雲海―歌集(1961年、初音書房)
  • 道心(1971年、春秋社
  • 道心 回峰行の体験(増補版)(1974年、春秋社)
  • 願心 わが人生を語る(1986年1月、法蔵館
  • 比叡山のこころ<カセット+テキスト>(1986年9月、朝日新聞社事業開発室)
  • 比叡山のこころ 一隅を照らす(1988年10月、朝日出版社ISBN 978-4255880631
  • 回峰行のこころ―わが道心(1997年12月、春秋社)ISBN 978-4393133224
  • 遊心―21世紀へのメッセージ(1987年7年、善本社)ISBN 978-4793902055



昨日と今日二日続けて、大阪地下鉄淀屋橋駅で下車。
昨日は、大阪倶楽部とその近くのイングリッシュ 喫茶やパブがある場所を覗いた。

ワイフの所属する結社の句会場である。私の出席する中之島公民館とはえらい違い。

大阪倶楽部(おおさかくらぶ)は大阪府大阪市中央区にある歴史的建造物。1924年(大正13年)の竣工以来、社交倶楽部である社団法人大阪倶楽部の会員制会館として利用され続けている。

1914年(大正3年)に創建された英国城館風の大阪倶楽部旧館は同倶楽部の主唱者であった住友家を代表して総理事鈴木馬左也がその評議員でもあったので、当時の住友本社営繕課建築係が設計を引き受け、野口孫市長谷部鋭吉がこれにあたった。1922年(大正11年)に失火のために焼失し、1924年(大正13年)に現在の建物が再建された。第二次世界大戦下の1945年(昭和20年)3月15日には帝国海軍がこれを徴用した。日本の敗戦にいたっては占領軍が接収をなし、1952年(昭和27年)4月10日に解かれるまで供された。現会館は東京の日本橋野村ビル大阪瓦斯ビルヂングを手がけた安井武雄設計による新館である。


近くの2次会場(私の場合は、場所だけは近くのセルフサービスのコーヒ店である)

ワイフと一緒に昼食。雰囲気はイギリスだが、注文したランチセットは、牛蒡サンドイッチであった。

今日は、句会出席。
出句4句
成し遂げぬこと数多あり花ミモザ
砂利道で慌てる鶺鴒春浅し
春浅し常ならぬのが常のこと
古書店の奥のガス灯春浅し

「常」が兼題と思い、電車の中で3句目の句を作ったが、
「古」が兼題と知り、(兼題提出はわが結社では一般的でないので機関誌で
各句会の兼題といったかたちで公表されない)、4句目を出っちあげ。

次回句会の兼題は「左」だが、欠席予定。
東北旅行の予定。

七松

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何故かくも素戔嗚神社樟落葉

「スサノオ」には各種各様の表記がある。中にはは先人の表記を写し間違ったか簡略化したためでははないかと思うものもある。
戔などはその一例で、盞であったものが略されたのであろう。
嗚が鳴となっているのは誤記の結果であろう。

後は、日本書紀と古事記では表記がまったくことなるに由来する。

川西市に住む人のHPを読んでいて、
信長が近畿地区の寺社を焼き払ったが、素戔嗚神社(牛頭天王)ないし八幡神社は保護の対象になったので、多くの神社や寺が素戔嗚を併祭ないし主祭神にしたのではないかという説があるのを知った。


尼崎市役所の近くにある七松 八幡神社 についての
尼崎66神社一覧の中にある解説である。


主祭神 応神天皇(おうじんてんのう)

例祭日 10月19日

鎮座地 七松町3丁目10-7(TEL 06-6416-3623)

≪お社の説明・御由緒≫

JR立花駅下車、南東へ5分ほど歩いたところだ。尼崎市役所からも西へ約5分で行ける。旧村の面影をとどめた一帯のなかに建つ。創祀は、後一条天皇の代、寛仁3年、源頼信が当地を訪れた折に、ひとりの小童がこの地の農民の窮状を訴えたのに感じ、1本の松樹のもとにあった小祠を改装して、あわせて松の株を六本植えさせた古事によるという。(「七松」という地名の由来でもあろう)

社殿は昭和52年に鉄筋コンクリート造りに改装。末社に稲荷神社があり、境内には戦国時代に七松で亡くなられた武士及び家族六百二十餘人の慰霊碑がある。

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初めて訪れる神社。私が訪問した(66社中の)47番目の神社のはず。

荒木村重本人を除く一族が、信長の命で刑死した地である。執行者は秀吉であった。


どの神社にも樟の大樹がある。
ここにはそれ以外に松が植えられている。

碑が立っていたが、何の碑か?文字が全く読めない。
キーワードがつかめない。
 碑だけなら例句多し

の陰のに黐の花雪白に 加藤知世子

新句をそこな菩提子摶つたるよ(瑞光寺にわが句建つに) 岸田稚魚 『紅葉山』

と土筆大き静けさ海にあり(越前東尋坊に三好達治詩を建つ二句) 石原八束 『操守』

暖かや水戸に子規句虚子の句 星野椿

紅梅も絵空事なり平次の 行方克己 知音

みちのくの初しののめの芭蕉句 井桁汀風子

秋声のひそと冬萌ゆる 加藤耕子

の梶井万両になほ喀血し 能谷愛子

大悲閣の石の蔦も枯れにけり 西山泊雲

返り花蝶蜂を呼ぶ賢治の 津田清子

青畝忌の句守る尼と語りけり 清水早春

クリスマス隠れ耶蘇の灯をもらう 八木三日女

三囲の神も留守なる句めぐり 大橋越央子

雪合戦茂吉の歌がその楯に 長谷川耿子

竹馬や少年透谷在校 清水基吉

風垣の目に砂詰まる安吾の 山崎羅春

特攻手袋赤き子ら遊ぶ 田尻牧夫

狗尾草や翁が終ののほとり 三嶋隆英

馬のに荒地野菊の揺れやまず 松本たか子

除幕御饌の長芋素直かな 阿波野青畝

風生の赤富士のや枸杞熟るる 鈴木白祇

栴檀の万の実揺るる戦没 大立しづ

団栗と枯檜葉の降る雪舟 堀 古蝶

櫨の実を風鳴らし過ぐ殉教 藤崎美枝子

多喜二の丘に炎えけりななかまど 近藤喜久子

先生のその先生のに木の実 村越化石

一本の桜紅葉や魯迅の 佐治英子

掌中の桃はにほへり安吾の 黒田杏子

ぎんやんまぶつかり合つて板越ゆ 黒田杏子

殉教訪ふ一団の愛の羽根 中尾無涯

秋のこゑふかめ北上讃歌の 雨宮抱星

浪子の浪間に烏瓜の花 早瀬あい子

ガラシャへ吹かれて風の都草 三ツ谷松子

師の句に岩菲一輪誰が心 深見けん二

献花いま百合の季節や原爆 後藤比奈夫

*はまなすや石積み上げし遭難 山崎ひさを

もち咲いてつねにたそがれ木歩の 野澤節子

土用芽のくれなゐ赤彦歌の前 池上樵人

下闇のふかくつつみし悲恋の 渋沢渋亭

木苺のさびしさ浪子波の上 河野南畦

父のに蜘蛛の一点恭々し 山田みづえ

尺蠖の青嶺はかるや句の前 角川源義

太宰の濡らせしビール頒けて飲む 山口誓子

虎が雨いちにち濡れて軍馬の 峰尾北兎

ただ祈りあるのみ被爆のぞ灼くる 向野楠葉

蓴生ふ月にうるみて河童の 岡崎真也

翁の裏へまはれば芹の水 田中日沙子

ひな菊や潮風匂ふ普羅の句 大寺喜久子

黄水仙瞠きて咲く殉教 中山純子

低く結ふからたち籬や帰去来 藤本静子

に満つ土佐水木 久保田月鈴子

裏にまはれば生れし蝶のをり 能村研三

萩根分け波郷の弟子の小さき句 寺崎治郎

実朝の歌の裾にて芝火止む 神蔵 器

砂山もも美しく枯れにけり 難波 三椏

裏の枯山吹も一と囲 瀬戸 十字

冬の蝶吉井勇の歌にとぶ 茂上 かの女

海鼠突く有馬王子のの下に 香月 梅邨

虚子句の麓の畑の蕎麦を刈る 中川 みさえ

虚子句に遊ぶ子猿や椿の実 野田 武

御句に供ふ千振一と握り 岡松 あいこ

新しき句の建ちけり百千鳥 若土 白羊

寄りかゝる良寛のの暖かし 諸橋 草人

子規の句が霙童子となりにけり 江里昭彦

柴漬の句のほとりに舫ひ舟 松崎鉄之介

潮鳴りの芭蕉玉解く夢二の 小枝秀穂女

に山吹一枝走り出し 上野 泰

風光るひよどり越のなりけり 向山隆峰

逆修の板しんしん雪割草 望月精光

鎮魂古りまんさくの花の中 岡田日郎

彫り深き詩に影おき寒桜 浜 芳女

に記すこまごま明治の吹雪倒れ 岡田日郎

橇遊び開拓のの吹きさらし 太田土男

守の鷹とおぼしき翳一つ 原裕 『王城句帖』

黄落の句せつせつと母匂ふ 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』

もち咲いてつねにたそがれ木歩の 野澤節子 『花季』

十月の日と風が歌を親しくす 柴田白葉女 『朝の木』

青北風の岩手山容啄木歌 柴田白葉女 『朝の木』

島の子が跣で走る白秋 河野南畦 『元禄の夢』

師の檄か突とすぎたる日雷(吉田冬葉先生句建立式典途中に) 河野南畦 『風の岬』

曼珠沙華燃えて風化の流人の(佐渡二句) 河野南畦 『風の岬』

啓蟄や敵も味方も供養の(藤沢遊行寺) 角川源義 『神々の宴』

秋(さはぎり)の咒文日夏耿之介 石原八束 『断腸花』

は海に据わる春雷湧きおこり 石原八束 『操守』

面に雨幾筋か暖かし 阿部みどり女 『石蕗』

曾良のの雄島をあとに十三夜 『定本阿部みどり女句集』

龍田姫森に来給ふ句びらき 古賀まり子

冷まじや戦争のに鴉鳴く 中村真由美

かなかなや父の名もある原爆 西浦一滴

夏果ての瀬戸の岬や遊女の 木村速子

海紅豆花燃え芙美子文学 宮下翠舟

ユッカ咲き羅馬に向ける殉教 野見山朱鳥

朴の花遭難余白あるはかなし 福田蓼汀

桜桃の花満面に茂吉歌 皆川盤水

さいはての句に掛け置く春シヨール 角川照子

先づ師に届きし日矢の初日影 関野八千代

水仙や彫美しき歌の文字 坂本杜紀郎

落葉踏み句を残して帰りけり 勝又一透

吾が句に大き耳あり冬ざくら 星野明世





大樟

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JR立花駅前。この場所に立つのは初めて。
阪急電車「塚口駅」からここを経由して阪神尼崎駅などへ行くバスは
ここを通らないので。

↑大阪四天王寺境内の樟は多いが、巨木は少ない。

八幡神社(尼崎 七松)境内の奥の石碑と玉串の間の狭い場所で窮屈そう。

富松神社の神木。樹齢500年以上。

尼崎農業公園の樟。なにより立地がいい。良い風景を構成している。↑
「樟」だけなら100句を超えるだろうが、「大樟」だと

大樟に鴉きてゐる朝曇り 上野澄江

大樟の風にあふられ初鴉 小島 健

御降りの大樟に降るひびきかな 坂部尚子

大樟の走り根こがす追儺の火 下村ひろし



シロハラ

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緑化植物園の事務棟前に、近くに飛んでくる小鳥の一覧が掲示されている。
↓は農業公園に掲示されているものである。ハレーションを起こしている。


(全体像を撮っていなかったので、代用)
その中に、


それを見た後、西門の外にある古墳後ではないかと思うような丘の麓で、

この鳥を見た。椋鳥ではなさそう。シロハラではないかと思ったが自信がなかったので、
↑の画像を持って、事務室内の緑の相談所へ持ち込んだ。
幸い、鳥の担当者がいたみたいで、呼んでくれて、一目、シロハラと判定。

鳥を見た場所に戻ると、まだシロハラがいた。


その場所へは、マンサクを写しに上っていくつもりであった。

温室前のマンサク↓

緋寒桜(寒緋櫻) 沖縄に自生しているとか。

↓こちらは寒桜。冬桜通りの冬桜はなべて冴えない。


小鳥のシロハラなど例句はないと思ったが、念のために「白腹」で検索。
独楽の辺の猫の白腹また睡し 中拓夫

裸灯に鰤の白腹百数ふ 細見綾子 雉子

山つつじも開き始めた。


シモクレンまで。


コブシ

キソケイ

ハーデンベルギア



一心寺

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一心寺(いっしんじ)は、大阪府大阪市天王寺区にある浄土宗であり、正式名称は坂松山高岳院一心寺(ばんしょうざん こうがくいん いっしんじ)。骨仏の寺としてよく知られている。天王寺公園に隣接した上町台地の崖線上に建ち、緑の多い広い境内を有している。法然上人二十五霊跡第七番札所。

  解説部分はウィキペディア

天王寺公園内の美術館

この方角からは右にハルカスが、背後に通天閣が見える。

夏いよよ通天閣の空滾り 西村和子 かりそめならず

寒風の通天閣もの落すなよ 右城暮石


茶臼山の方へ足を向けると、一心寺南門の前。へ。出る

大福や淡路も見さい茶臼山 上島鬼貫


1185年文治元年)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然が四天王寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、「荒陵の新別所」後に「源空庵」と称して住んだという。後白河法皇四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を修した。当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。1596年慶長元年)、三河の僧侶であった本誉存牟上人が法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、寺を再興した。彼の一心称名をもって寺ができたため、一心寺という名になったといわれる。

家康は、境内の坂の孤松ちゃうすのすがたを讃えて、「坂松山」の寺額を贈った。大坂冬の陣・大坂夏の陣では徳川家康の陣が茶臼山に隣接したこの寺に置かれている。


この寺には大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓所があるが、彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏の陣で奮戦したが討ち死にし、死の間際に「戒むべきは酒なり」と言い残したといわれることから「酒封じの神」とされるようになった。今でも墓所には禁酒を誓う人がよく詣でている。


小堀遠州好みの数奇屋「八窓の茶室」や、大坂城の三の丸玉造門を移設した「黒門」と呼ばれた大きな山門も有名であったが、大阪大空襲ですべて焼失した。戦後伽藍の再建と10年毎の骨仏作りが徐々に進んだが、特に建築家でもある現長老(高口恭行)の作った鉄とコンクリートの斬新な山門1997年平成9年)完成。彫刻家・神戸峰男による阿形像・吽形像や、日本画家・秋野不矩による天女像がある)や、庫裏・信徒会館である日想殿(1977年昭和52年)完成)など現代建築による施設も見所の一つである。

盆の間だけの施餓鬼法要が年中無休でできる寺として知られ、また宗旨に関係なく参詣や納骨を受け入れる寺でもあったため、全国から多くの納骨が集まった。1851年嘉永4年)に遺骨数万体を集めて最初の大きな骨仏(阿弥陀仏)を作り、1887年明治20年)以後10年ごとに集まった納骨で骨仏を作っている。

太平洋戦争期の大空襲で戦前の分は焼失したが、戦後1947年(昭和22年)から骨仏作りを再開(この際、空襲で焼失した戦前分の骨仏の残骸をかきあつめて第七期骨仏として完成)、現在も年中無休で年2万ほどの法要と納骨を受け入れ、10年分をあわせて骨仏が作られている。現在は第七期から第十三期(2007年(平成19年)開眼。1997年(平成9年)から2006年(平成18年)末まで)の骨仏が安置されている。

宇野浩二の小説にもしばしば骨仏が描かれている(『思ひ草』など参照)

葭を刈る一心の刃を身に向けて 藤井淑子

鰻裂くを一心に見ていぶかしむ 細見綾子

海越ゆる一心セルの街は知らず 加藤楸邨

一心に見つめてもただに寒の闇 米澤吾亦紅

吸入の一心生毛ぬらしつつ 川島彷徨子

迎鐘つくや非力の一心に 橋本月登

包丁を研ぐ一心を蝶よぎる 横山房子

一心にでで虫進む芭蕉かな 川端茅舎

一心に鮭上り来る寒さかな 辻桃子

鬼灯の一心の朱に立ち止まる 北原志満子

*たらの花炭切ることも一心に 殿村菟絲子

海に入る一心の海女ふと笑まふ 原コウ子

一心に虫は啼くのみ日が炎えて 臼田亞浪 定本亜浪句集

あら涼し鉦の音死ぬ一心院 上島鬼貫

鬼貫の句は一心寺のことであろう。

浅春のずらりと並ぶ串カツ屋

ずらり、串かつ屋が両側に並ぶ。

さくらんぼ

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我が家の実桜。

3月6日



3月7日 10時 開花宣言

3月7日 12時

3月7日 午後4時

3月7日・午後8時

夜桜夜桜までのくらさかな 渡辺乃梨子

夜桜の天蓋ゆるびなかりけり 行方克己 昆虫記

夜桜の一樹の化粧濃かりけり 行方克己 昆虫記

途切るるとなき夜桜の人通り 行方克己 知音

夜桜にわれは黒子となり通る 行方克己 知音

夜桜を駈け抜け行きし漢かな 行方克己 知音

夜桜や老いて妖しき夢をみる 清水基吉

愛憎の果ての夜桜見て歩く 小林康治 『潺湲集』

息ひとつひとつ餅切る父の夜 桜井博道

夜桜や波見えずして海動く 高橋悦男

夜桜の一枝長き水の上 高野素十

夜桜や真珠のピアスつけしまま 徳田千鶴子

夜桜や介護の人の少し酔ひ たかおさむ

夜桜や灯明ゆらり人ゆらり 広戸英二

夜桜や此の桶は此の馬のもの 星野紗一

夜桜やうらわかき月本郷に 石田波郷

夜桜や星あふるると誰か言ふ 岡田 和子

夜桜や真珠のピアスつけしまま 徳田千鶴子

夜桜と濡れてゐるなり恋ひつのり 仙田洋子 雲は王冠

夜桜や声かけられてゐるは憂し 仙田洋子 橋のあなたに

夜桜の真只中に吹かれをり 仙田洋子 橋のあなたに

夜桜の影うつりたる車椅子 仙田洋子 橋のあなたに

息ひとつひとつ餅切る父の夜 桜井博道

夜桜や梢は闇の東山 田中王城

夜桜やうらわかき月本郷に 石田波郷

夜桜や物の怪通るとき冷ゆる 春樹

夜桜やうらわかき月本郷に 波郷 (上野公園)

夜桜や大雪洞の空うつり 子規

夜桜の雨夜咲き満ちたわゝなり 秋櫻子

地の蝉冷たし//夜桜の国/麦の国 林 桂

既にして夜桜となる篝かな 日野草城

夜桜や四五人帰る小提灯 島村はじめ

吉原の夜桜なかを通ひけり 野村喜舟

夜桜を見て来し裾の汚れかな 茨木和生

夜桜のむらさき色に責めらるる 宇多喜代子

夜桜の深みに入りて行方知れず 齋藤愼爾

夜桜に歩きて誰も明日知らず 西村和子 夏帽子

夜桜と濡れてゐるなり恋ひつのり 仙田洋子

膝立てて眠る夜桜実となる夜 二村典子

夜桜の三分は淋し身のほとり 立川華子

夜桜や海の底にも峰聳え 三森鉄治

夜桜やうらわかき月本郷に 石田波郷

夜桜の出口を探している二人 対馬康子 吾亦紅

夜桜の全てが見えるプレパラート 対馬康子 純情

夜桜に帽子を深くしてゆけり 藤田あけ烏 赤松

夜桜のざわめきにとり囲まるる 大竹淑子

夜桜を見て今日のことけふ忘る 金田咲子

夜桜や此の桶は此の馬のもの 星野紗一

夜桜へ志功の菩薩うかれ出づ 柳下舟灯

夜桜や汽車の白煙ふんだんに 山口誓子

夜桜に池を隔てゝ篝かな 高浜年尾

夜桜の一枝長き水の上 高野素十

夜桜の白を極めて女人堂 影島智子

夜桜の宴へ運ぶよ鍋焜炉 北野民夫

夜桜やひとつ筵に恋敵 黛まどか(1965-)

灯を消して観る夜桜の息づかひ 堀口星眠(1923-)

夜桜やうらわかき月本郷に 石田波郷(1913-69)

夜桜の鐘聞得たり寒山寺 尾崎紅葉

想像のつく夜桜を見に来たわ 池田澄子

夜桜に歩きて誰も明日知らず 西村和子

夜桜に背広の冷えて帰宅せり 正木ゆう子

夜桜に若く悩みて一歩一歩 森田智子

夜桜に月は七日か八日かな 高橋淡路女

夜桜を見て今日のことけふ忘る 金田咲子

夜桜に寄せオートバイまだ熱し 奥坂まや

夜桜を駆け抜け行きし漢かな 行方克巳

想像のつく夜桜を見に来たわ 池田澄子

髪湿るまで夜桜の下歩む 朝倉和江

夜桜やなだれうつかに師の遺稿 斉藤夏風

夜桜や祭見んとて老いにゆく 森澄雄 浮鴎

朝桜夜桜わが家への近道 桂信子 晩春

母婦会の帰路夜桜へ連れ立ちて 竹下しづの女句文集 昭和十年

夜桜や誰やら打し紙礫 井上井月

九分咲きの夜桜に灯をあびせたる 京極杞陽

夜桜に青侍が音頭かな 高井几董

3月7日午後11時半

明日も晴れるよう。明日には満開になる。


誕生日

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朝一番に同じ宅配便で到着 いずれも8日午前の指定便。

少し遅れて横浜からいつもの花束

よって夕べのパーテイは、カキがメイン。
ビタービールは私がコストコデで仕入れたたもの。
誕生日用とは意識せず。
備蓄分が無くなっていたので前の日に買った。


庭の実桜は満開へ

近隣公園でまたシロハラを見た。
周囲にムクドリが群れていたが、1羽だけ離れて動いていた。

ミモザはもう2,3日は見ごろがつづきそう。

俳句結社一つ崩壊花ミモザ


誕生日で検索。131句と出たので、全部コピー、ダブリ等を省いた。

秋草と斜面に吹かれ誕生日 上田五千石

青あらし柱に牛の誕生日 小原啄葉

冬の薔薇たくさん活けて誕生日 合原 泉

牡蛎好きの夫誕生日牡蛎の飯 内田 愛子

すぐ停まる汽車を乗り継ぎ誕生日 太田紫苑

誕生日愚かな者よ日を余し 多賀寿一

誕生日飯食い始む星座の前 金子兜太

誕生日靴の重たさだけがある 佐藤鬼房

誕生日八方の天昏れ早く 三橋鷹女

名を書くと硯洗ひし誕生日 八木三日女

誕生日雨に憑かれて雨がある 藍原弘和

天皇の誕生日なり土鍋して 黒田杏子

旭が木瓜に紅贈るごと誕生日 野澤節子 『雪しろ』

誕生日朝寝も一理電話鳴る 河野南畦 『広場』

誕生日この一日の薔薇を買ふ(五月二日) 河野南畦 『風の岬』

青五月叱々々の誕生日 河野南畦 『風の岬』

煙草消す露金剛の誕生日 角川源義 『西行の日』

薄氷や魚も焼かずに誕生日 『定本石橋秀野句文集』

雪が降る真中汽笛鳴る誕生日 飴山實 『おりいぶ』

麦の髭揺らす雀や誕生日 大木あまり 山の夢

湯婆に足そろへのせ誕生日 菖蒲あや

寒蕨他もうす味の誕生日 能村登四郎

誕生日鉄板の冷え踏み鳴らし 佐藤鬼房

独房に林檎と寝たる誕生日 秋元不死男

木犀の銀の十字や誕生日 角川源義

のこる蚊のひとこゑ過ぎし誕生日 秋元不死男

我鬼忌は又我誕生日菓子を食ふ 中村草田男

熟れ頃も冷え頃も誕生日のメロン 大橋敦子

未熟児に誕生日来て鯉幟 大塚とめ子

桜漬ふはりと開く誕生日 安斉君子

初蝶や歩みそむ子の誕生日 加藤みさ子

寒すみれ摘まれ来しこと誕生日 後藤夜半

稲架を解き海の広がる誕生日 松浦 釉

誕生日祝はれてゐてうそ寒し 片山依子

青芝に夜の雨光り誕生日 佐藤脩一

茄子苗はつきたるらしき誕生日 細見綾子

こでまりが風に弾んで誕生日 池田文子

初蝶に手を振つて児の誕生日 井上美樹

初音もう聞くころ誕生日の微醺 益田 清

柚子の実を豊かにしぼり誕生日 朝日出とも子

田螺鳴く父母亡きわれの誕生日 那須 乙郎

踏み鳴らす虹の音階誕生日 仙田洋子 雲は王冠

寒すみれ摘まれ来しこと誕生日 後藤夜半

姿よき寒鯛母の誕生日 柿沼常子

煮凝や死後にも母の誕生日 神蔵器

寝て思ひ出す誕生日夷講 加藤知世子

虫籠に酒吹きたかり誕生日 石川桂郎

零余子飯わが誕生日忘れられ 石田あき子

秋晴を夜までたまひて誕生日 山口波津女

熟れ頃も冷え頃も誕生日のメロン 大橋敦子

茄子苗はつきたるらしき誕生日 細見綾子

苺買ふ子の誕生日忘れねば 安住敦

誕生日午前十時の桐の花 平井照敏

ばら五月わが誕生日その中に 矢田部芙美

我鬼忌は又我誕生日菓子を食ふ 中村草田男

旭が木瓜に紅贈るごと誕生日 野沢節子

藤垂れてわが誕生日むらさきに 山口青邨

青饅や夫婦の夫の誕生日 石川桂郎

薄氷や魚も焼かずに誕生日 石橋秀野

毛糸ふと乳房のぬくみ誕生日 国弘賢治

踏み鳴らす虹の音階誕生日 仙田洋子

新樹切り倒してみたき誕生日 皆吉司

絆創膏のような皇后誕生日 五島高資

逆さまの椅子がずらりと誕生日 五島高資

どくだみの十字に目覚め誕生日 西東三鬼

銃声す枯野の中の誕生日 対馬康子 愛国

木蓮や大地で祝う誕生日 対馬康子 愛国

時雨るるを今日の贅とし誕生日 綾野道江

誕生日来る結氷に日の燃えて 早崎明

寒すみれ摘まれ来しこと誕生日 後藤夜半

稿債と咳まだ残る誕生日 窪田久美

我鬼忌は又我誕生日菓子を食ふ 中村草田男

ビアガーデンに夕日まだある誕生日 内田美紗

茄子曲り胡瓜歪める誕生日 相生垣瓜人

川千鳥翔つ辺光れり誕生日 伊藤京子

七夕過ぎ誕生日過ぎ何待つ日々 吉野義子

誕生日夜は浜木綿の白花火 吉野義子

誕生日の吾れと太しや炭俵 村越化石

野に遊びたるだけのこと誕生日 大橋敦子

熟れ頃も冷え頃も誕生日のメロン 大橋敦子

吾よりも蝉の逸れる誕生日 相生垣瓜人

軽雷やきのふ過ぎゐし誕生日 岸風三樓

忘れ雪忘れずに降り誕生日 西本一都

菠薐草薹立ち妻の誕生日 西本一都

古織部に鮎ひきつるる誕生日 塚本邦雄 甘露

燃ゆる頬花よりおこす誕生日 寺山修司(1935-83)

誕生日午前十時の桐の花 平井照敏(1931-)

富士爽やか妻と墓地買ふ誕生日 秋元不死男(1901-77)

蜥蜴の尾鋼鉄(まがね)光りや誕生日 中村草田男(1901-83)

天子様の御誕生日や鵙の聲 会津八一

誕生日すぎし水無月ただ真青 井沢正江

野に遊びたるだけのこと誕生日 大橋敦子

冬薔薇たつた二輪の誕生日 星野椿

豆飯をわれ炊きわれの誕生日 下村梅子

湖かくす城山秋の誕生日 松村蒼石 雪

雪となり父母天降りくる誕生日 品川鈴子

誕生日の生家に坐って見る桜 池田澄子

おすましに渣滓や亡父の誕生日 池田澄子

寒すみれ摘まれ来しこと誕生日 後藤夜半

雪は花と舞ふ恋雛の誕生日 石原八束 仮幻の花

誕生日暁けの月からまず蜂が 川口重美

梅雨茸を蹴りころがして誕生日 赤城さかえ

誕生日あかつきの雷顔の上に 西東三鬼

誕生日昏き銀河へ機銃音 中島斌雄

寒雀何煮る妻の誕生日 中島斌雄

誕生日と秋草病床へ通ひ妻 福田蓼汀

春の雪たわわに妻の誕生日 日野草城

ぱきぱきとキャベツはがして誕生日 鳥羽紀子

蜥蜴の尾鋼鉄(まがね)光りや誕生日 中村草田男


追加 : 午後11時半の夜桜
2階のベランダから我が狭庭の実桜を見る



春告草

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ネット検索していると、世界大百科事典がスノードロップを春告草として紹介しているようだが、
一般には、春告草といえば、梅の異名である。
しかし実際に句会などで「春告草」の名で梅を詠んだ句に出会ったことがない。
梅の一語で、春を告げることを含意できるのに、わざわざ春告げ草と6音で、季語の説明みたいな異名を用いる人はいない。
「春告」で検索。
金髪に染めてみやうか春告鳥 森川恭衣

春告草の例句なし。

第1、梅は「クサ」ではない。

梅の中でも、蝋梅は、1月末には咲き始める。蝋梅は春告げ花ではある。
現在(平成後期・・といっても間違いではないであろう。)ではギョリュウバイはいかがか。
檉柳梅あるいは御柳梅と表記されるオーストラリア原産の低木である。
しかしギョリュウバイも木であって草ではない。

園芸種ではノースボールも春早くから花を咲かせる。

一度育てると、野草のようにこぼれ種で芽吹く点では、カモミールなどと似ているが、早春自然に花開くほどではない。
その点、リュウキンカは日当たりと湿気があれば1月でも目立つ花を咲かせる。春告草の資格を有している。

川辺の立金花 ↑↓

しかしまた、ハコベだってホトケノザだって、姫踊子草だって、イヌフグリだって貴重な春告草である。単に春早くから咲き始めるという点のみならず、群生していると結構目立つ。
田圃一面に真っ白なナズナが咲いている風景を一度みたことがある。
美作のカタクリ園の傍らだったが、感動した記憶がある。
近くの庄下川の土溜りでもナズナの花を見かけるが群生しているのはみたことがない。

↑の画像に見えるのは、繁縷(はこべら)、いぬふぐり(牧野さんの命名)、ヤエムグラ、ヒメオドリコソウ。

繁縷の気安く踏まれデモ果てる  旧作

↑ホトケノザ。春の七草のホトケノザは、タビラコのこと。







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