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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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藤生氏

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今日のショウちゃん

時々衣装替え。

藤生

読み方
藤生とうせい
藤生ふじい
藤生ふじいく
藤生ふじう
藤生ふじお
藤生ふじおい
藤生ふじおう
藤生ふじき
藤生ふじせ
藤生ふじせい
藤生ふじゅう


姓名としての「藤生」には各種の読みがあるようだ。
私の母は地名(明治22年以前の村名)としての「ふじゅう」の生まれである。
ここにはかつて藤生(ふじゅう)氏を名乗る豪族の本拠地であった。
藤生氏はその後姓を変えたが、
その姓を名乗る家が今も数軒ある。


バレンタインホテルから西の方向に車で下ってゆくと目の前は鯰という地区であるが、左折すると川の向こうが藤生である。

一度もバスが止まっているのをみたことがないバス停があり、そこは車を数台止めてもあまり迷惑をかけない場所なので、バス停の真ん前に(といってもさすがにポールのすぐ横は遠慮しているが)車を止めて、地の人間でない限り足を踏み入れない隘路の中へ入り込むと
そこが藤生村のメイン道路である。

バス停留所の前の家も旧の藤生氏の姓を表札に挙げている。
慎重に運転すれば普通車がなんとか通れる道に踏み込んで最初に見える家も同姓である。しかし門から玄関口までが遠いので表札は見えない。

そこに老夫人が一人で住んでおられるということであったが、
母屋の横に家が建ち、後継者が住み込み始めた気配がしてはいたが、最近の「市報みまさか」の死亡欄で、この藤生地区で、
かつての藤生氏の姓を名乗る方が亡くなったのを知った。102歳。

その家を横に見て奥へ進むと、左手に見える家も同姓である。
この人の家には幼いころなんどか入り込んだことがある。
ということは私と年齢の近い「ガキ」がいたのかもしれないが、
名前も顔も記憶にない。

私はガキ大将ではなかったので、大将や副将の後を付いて近所の家の中へ入り込んでいた。

この3軒以外に一族の家があるのかどうかは知らない。
3軒目の家は元はこの場所ではなかったらしいが、明治以降の大洪水のあと、この場所へ家を建てられたと聞いた記憶がある。どの家も藁ぶき屋根の家であった時にこの家は黒屋根瓦の家であった。

(その頃の)当主は学校の先生であったとかすかに記憶している。

その家と向かい合うようにして母の家があり、家と家の間に山へ登ってゆく細道があった。

母の家の外厠はこの道に沿ってあった。

この道を通って夕刻になると毎日、桶二つを天秤にぶら下げて女性が通る。下肥え用の桶ではなく新鮮な飲料水用の桶である。少し登ってまた降りて母の家の庭へ出て母の家の井戸水を釣瓶で汲み、桶を満たすとまたこの道を通って帰るのである。

山道に入らず、母の家の門らしき門もない庭を通れば平地で楽なはずがそうはしなかった。

この女性の家は「大前」という屋号であった。母の家は「表」という屋号で、同姓であった。

この方は今も健在でオートバイに乗っておられる。しかし御主人は昨年亡くなった。

母の家のご先祖は下剋上の世に城を失い、(城を奪ったのは浦上であるが、さらに下剋上がつづき宇喜多にとって代わられる)4歳の子が家臣4人ほどに守られてこの地に隠れ住みこんだようだ。

よって母の家はこの村の主ではなく後参入者である。

祖先を一にする7家か8家が今も講を同じくしているが、畑の中にあるホコラを、山道を少し登ったところに移した数年後に、もう誰もそこまで登ってゆけなくなり(Mrs K の一族と異なり、-ともに遠祖は赤松円心であるー若宮祀りを女人禁制としていた)今年からこの集いは開催されなくなった。

今日ワイフの母親の弟さんからお茶をいただいた。
宇治に住んでおられるので、毎年2回お茶を送ってくださる。

これで1.5キロ。×2で3kgがわが家の年間緑茶消費量である。
年間100日以上はこれ以外に麦茶や最近では枇杷茶を冷やしている。

コーヒの方は1か月2kg×12で24kg
通常時は一日2回、20グラムほど豆を使う。
13歳児の母がいると、一日3回になる。

紅茶の方はなんだかんだで外国旅行の土産と称して小さなパックを
よく貰うし、貰ったのだが我が家では飲まないので飲んでくれといった回りものもあるので、リプトンの箱入りのパックを1つか2つ買うくらいだと思う。(ワイフから訂正申し入れがあるかも)。



サンタ

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「サンタ」と打ちこんで、「サンタ」って何語か気になった。

多くはウィキさんの受け売り

イギリスではファザークリスマス[† 2]と言い、緑色の(近年は赤が主流)の服を着ている。

オランダではクリスマスが1シーズンに2回あり、プレゼントがもらえるのは12月6日の「聖ニコラスの日」の前日と、25日のクリスマスである。

イタリアではクリスマスが1月6日まで続き、5日に魔女が来て、良い子にお菓子を、悪い子に石炭をくれるという伝説がある。

ドイツでは、悪い子は「悪い子に罰する黒いサンタ(クネヒト・ループレヒト)」に攫われるという言い伝えがある。しかし現在では、ドイツの子供たちは「クリスマス男」と「クリストキント」(クリスマス子)とのどちらかを信じているといわれており、どちらが持ってくるかで学校では論争があるという。なおドイツでは、サンタクロースは商業主義だとしてカトリックによるサンタクロース排撃事件があり神父たちが襲われる事件もあった。

ロシアではマロースおじさんが孫娘のスニェグーラチカを連れて、プレゼントを配るという風習がある。

日本では親しみを込めて「サンタさん」とも呼ばれる。

南半球に位置するオーストラリアでは、夏のクリスマスにサンタクロースが来る。

外国でクリスマスシーズンに滞在したのは、ギリシアだけである。
イギリスに滞在して時には、毎日がめちゃ暗いので、ギリシャに10日逃げ出した。
よってイギリスの年末年始はまったく知らない。
しかし12月になると昼食(普通昼休みは13時~14時)摂って外へ出ると車はヘッドライトを点けて走っていた。

サンタクロースは北欧伝説に由来するはず。
サンタは、英語のサンフランシスコの「サン」(=聖(人)」に相当するはず。
聖マリアの「聖」である。ドイツ語ではザンクトである。
スウェーデンかノルウェイではそれが「サンタ」で、それが、日本へ入ってきたというのが事前予測(推察ないしあてずっぽう)である。



4世紀頃の東ローマ帝国小アジアミラ司教主教)、教父聖ニコラオス(ニコラウス)の伝説が起源である。「ニコラオス」の名はギリシア語表記。ラテン語ではニコラウスイタリア語スペイン語フランス語ではサン・ニコライタリア語ではニコラオとも。ロシア語ではニコライ

以下のような伝説のほか、右に挙げる絵画のように無実の罪に問われた死刑囚を救った聖伝も伝えられている。

「ある日ニコラウスは、貧しさのあまり、三人の娘を嫁がせることになる家の存在を知った。ニコラウスは真夜中にその家を訪れ、金貨を投げ入れる。このとき暖炉には靴下が下げられていたため、金貨は靴下の中に入っていたという。この金貨のおかげで娘の身売りを避けられた」という逸話が残されている。この逸話が由来となり、「夜中に家に入って、靴下の中にプレゼントを入れる」という[1]、今日におけるサンタクロースの伝承が生まれている。また、ニコラウスの遺骸はイタリア南部の都市であるバーリに移されたとも言われている。

煙突から入ることになったのは1822年にアメリカの学者クレメント・クラーク・ムーア英語版フィンランドの言い伝えを伝承した「聖ニクラウスの訪(おとな)い」(英語)という詩「キラ星のなか、屋根から降るのは/小さい蹄の立てる爪音/引っこめ振り向いて見ると/聖なるニコラウス煙突からどすん」を書いたからと考えられる[† 3]

また、ニコラオスは学問の守護聖人として崇められており、アリウス異端と戦った偉大な教父でもあった。教会では聖人として列聖されているため、「聖(セント)ニコラオス」という呼称が使われる。これをオランダ語にすると「シンタクラース」である。オランダでは14世紀頃から聖ニコラウスの命日の12月6日を「シンタクラース祭」として祝う慣習があった。その後、17世紀アメリカに植民したオランダ人が「サンタクロース」と伝え、サンタクロースの語源になったようだ。

正教会系の国では、サンタクロースは厳密に「奇蹟者」の称号をもつ聖人たる聖ニコラオス(聖ニコライ)であり、聖ニコラオスの祭日は12月6日である(聖名祝日の項目を参照)。子供たちがこの日に枕元に靴下を吊るしておくと、翌朝に入っているのはお菓子である。尚、クリスマスである12月25日聖体礼儀に行く日で、プレゼントはない。

ユリウス暦を採用している正教会(エルサレム総主教庁ロシア正教会など)の聖ニコラオスの祭日は12月19日であり、主の降誕祭(クリスマス)は、現行の暦に換算すると1月7日である(2008年現在、ユリウス暦とグレゴリオ暦の間には13日の差があるため)。ロシアでは1月7日にジェド・マロースДед мороз, マロース爺さん:マロースとはロシア語で「吹雪」「寒波」という意味)と孫のスネグーラチカСнегурочка, 雪娘)がプレゼントを運んでくる。

なおニコラオスは、商人の守護聖人でもある[2]


予測はまったく当たらない。シンタクラースというオランダ語読みが、アメリカに伝わって
サンタクロースになって、日本に登場したよう。
サンフランシスコのサンはスペイン語のよう。

サンタさんが煙突から入って、靴下にプレゼントを入れるという点のみ、北欧(スウェーデン・ノルウェイではなくフィンランド)伝説が入り込んでいるようである。

フラワーショップでは、シクラメンとポインセチア↑

百貨店はホワイトクリスマスムード

サンタというより妖精ないし小悪魔のよう

サンタ群れテロ犯群れてクリスマス
粛清のつづく國ありクリスマス
蝉蜻蛉鼠を食う民クリスマス

プレゼント配りもロケット利用か?大砲かも。




句会出席

↑日本銀行大阪支店

IMF(国際通貨基金)のSDR組み込み通貨に中国元の採用。
構成比率は日本の円を抜き10%強の報あり。
兼題が「落」だったので、


日本銀行大阪支店熟柿落つ

日はもう登らないかも・・・



コカ・コーラ社のコーポレートカラーはサンタクロースの衣装と同じ赤と白であり、現代の赤い服を着て白ひげを蓄えた笑顔のサンタクロースのイメージ全世界で共通化したのはコカ・コーラの広告に由来するといわれている[10]

米国コカ・コーラの広告にサンタクロースが初めて採用されたのは1931年。日本では1907年に「緋羅紗の服」(『朝日新聞』1907.12.17)、「身に赤衣を纏ひ」(『朝日新聞』1907.12.28)、「真っ赤な服をつけて白髪の赤い面を冠りサンタクロースに装ひ」(『読売新聞』1914.12.13)との記述がある。日本では今とそう変わりのないイメージだが、緑や茶の服を着ていると考えられる国や地域もあった中、バラバラだったサンタクロースのイメージを世界に統一したのはコカ・コーラのキャンペーン広告が役割を果たしたと言われている[11]


学連

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「学連」といえば、大抵は「学生連盟」の略。
しかし学生連盟を名乗る団体は無数にあるが、
誰が誰に向かって「学連」と言っているかを確かめれば
特定化できる。

住友クラブの表札が出ている、高層ビルの間の3階建てビルが会場。
学連の同窓会に出席。
この種の行事は初めてだったので、大学卒業以来会っていない人が
多く、最初は出席者名簿見ても全然当時の顔が思い出せない人が多かった。

肥後橋の住友クラブと聞いて、
(淀屋橋から肥後橋にかけて、土佐堀川の南側は住友のテリトリー
である。北側は朝日新聞系が半分、残りは日銀である)
私は久しぶりにネクタイ締めて正装して出かけたが、
ネクタイ締めていたのは数人、フォーマル・スーツ着ていたのは私一人であった。


ロイヤルホテルの隣の建物だったので、食事はホテルから運ばれていた。

少し早めに会場付近に到達。風景画像を撮る。このブログ用。

右側が土佐堀川。


外大出て大手商社に勤務しながら、勤務地が一度も変わらず(1か月のみ外国出張があったとか)、そのためもあって自宅住所が生まれてから今日までまったく同じという先輩がいた。

よって所属教会も一貫して夙川教会だとか。

夕紅葉 自己紹介は病歴から

コストコ

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国内2店舗しかなかったが、今や24店舗。
尼崎周辺でも、神戸、京都、和泉に店ができて近畿地区4店舗。
それでも駐車スペースを探すのが大変である。

屋内駐車場もあるが、どうせ一番上まで行かないと空きスペースがないので、
屋外の店の出入り口から一番遠い区画で空きスペースをさがすことになる。

卸売店を名乗っているだけに、飲食店を経営しているらしき人の大量の買い入れ用にワゴンもひときわ大きい。

よって通路もかなり広い。


夕食はコストコで買ったピザ。その上に、同じくコストコで買ったイタリアンサラミをスライスして載せてみた。もちろんピザは丸丸ではなく、3分の1だけを切り分けて利用。

ピザ運ぶ車追ひ抜くつばくらめ 下間ノリ

ピザ辛き日なり薬の日なりけり 後藤立夫





阪急電車梅田行きに乗って、すぐ窓を開けて撮影。ズットシティ  12月3日


4回シャッターを押せた。


茶屋町

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阪急電車塚口駅10:23発の電車に乗車。
大阪梅田着10:35 所要12分。
一番最後尾の車両に乗る。そこが一番空いているから。
茶屋町口から外へ出る場合のみ一番便利でもある。
ただしここにはエレベーターもエスカレーターもない。
だから空いているのかも。

駅構内を抜けて外へ出れば

道路の向いに綱敷天神社御旅所が見える。
(背後の見えるガラス張りのビルは毎日放送(MBS)の本社ビルM館である。)

綱敷天神社(つなしきてんじんしゃ)は、大阪市北区神山町にある神社。北野(喜多野、喜多埜)天神とも通称され、概ね旧西成郡北野村キタの東半)を氏地としている。 茶屋町に当社の御旅社があり、角田町に境外社の歯神社(はじんじゃ)がある。

「御旅所」の正確な読みを知らなかったので、ウィキペディアを検索。
一度では目的を果たせず。インク文字クリックで、「御旅所」を検索


御旅所(おたびしょ)とは、神社祭礼神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩または宿泊する場所、或いは神幸の目的地をさす。巡幸の道中に複数箇所設けられることもある。御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。

御旅所には神社や祭神にまつわる場所や氏子地域にとって重要な場所が選ばれている。元宮、摂末社や配偶神を祀る神社などのような社殿があるもののほか、元の鎮座地などに臨時の祭殿を設けたり、氏子の代表(頭人)の家に迎える場合などがある。

茶屋町アプローズビルの手前の通り。左手奥に芸術劇場などがある。

道を横断して、来た方(阪急電車の高架)を見る。


高架下の店の前に長蛇の列ができている。(画像は暗くなってよく見えないが)

この時間帯(画像の端をみたら10:35になっている。10:35分着の電車を降りて、撮影時刻が10:35はおかしい。書くのを中断して、カメラの時刻を確認。5分ほどPC上の時刻とずれているので調整。PC画面上の時刻が厳密に正しいかどうかは未確認)

右手が茶屋町アプローズで新阪急ホテルインターナショナルであり、左手正面が阪急電車本社ビルである。
間にモミュメントがある。
その間の道を中津方面へ1分歩くと、
カトリック大阪大司教区のサクラファミリア(聖家族)教会がある。
私はここに新しい教会が建ち、上智大学のサテライトも付設されていることは知っていたが訪問したのは初めてである。
スマホの地図アプリをonにして歩くのも初めての経験。
(この手を知っていれば尼崎市内探訪でも迷うことはなかったのだ!)

聖堂の窓から阪急の本社ビルが見える。

ここで11時から追悼式があった。

告別式は先月24日に東京四谷の聖イグナチオ教会で行われているが、
死去したのはここ大阪であった。
結婚式の当日北海道(藤女子大学の現役の学長だった)からこの地へ司式者として来ていた神父が起きてこないので部屋を見に行くと急性心筋梗塞で亡くなっていたとのこと。

この神父は、私の同級生で、同じ学年からただひとりイエズス会へ入会し、上智大学で哲学・神学を学んで、長く上智大学で舎監長を務めていた。

ミサの後、追悼の宴があり、進行係は「乾杯」などと音頭を取っていた。
会を主催したのは、彼が舎監長であった時代に上智大で学んだ地方出身者たちであったらしい。

メール連絡を受けて会に出席した高校の同級生は私を入れて
4人だけだった。多くは東京での本葬に出たのであろう。
その時点では私は彼の逝去を知らなかった。

立食形式であったが、テーブルの上に大きなケーキが置かれた。
結婚式の披露パーティで配られるはずのものであったとか。

ということは作られて10日以上経っている。
そのためかどうか、誰も手をつけなかった。

例句は0かもしれないと思いつつ検索

レモン吸う難民家族聖家族 対馬康子 吾亦紅

加湿器を裾に油彩の聖家族 大島民郎

壁穴のいとども加へ聖家族 平畑静塔

ペーチカに鶏も遊べり聖家族 沢田経生

ポインセチア画中に暗き聖家族 上田日差子

風邪うつしうつされわれら聖家族 伊藤白潮

雪嶺を慈母とす開拓の聖家族 岡田日郎


夜(今しがた)でかいチーズケーキを食った。

厚さも半端でない。コストコで買ったもの。
全部で1.2kg。もちろん全部食ったわけではない。
ただし大きく切り分けすぎて食べきれなかった。


ヤマモミジ

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都市緑化植物園、上坂部西公園、市内に7つある地区公園の一つ
山紅葉10数本。




未読メール5千を越えし山紅葉

街紅葉村紅葉見て山紅葉 嶋田摩耶子

蒟蒻の刺身ひやひや山紅葉 井桁白陶

立ちまじる松真青なり山紅葉 水原秋櫻子

中学生二里の家路の山紅葉 相馬遷子

いづかたも音なき夜明山紅葉 日郎

人彳たせ人歩かせて山紅葉 嶋田一歩

山紅葉手を洗ふほど繚乱に 佐藤麻績

三味抱へわたり芸者や山紅葉 岡田日郎

朝明けの月の行き着く山紅葉 馬場移公子

山紅葉雀鴉は何処で死ぬ 津田清子

こつつんと全山紅葉磧 松澤昭 宅居

水のなき湖を囲へる山紅葉 深谷雄大

山紅葉赤子の重みずっしりと 小林野菊



山紅葉最後に一花咲かせるか

山紅葉チーズケーキを食べ過ぎた

彼もまた駆け足で去る山紅葉

絶対的第一粒子山紅葉

山紅葉左右対称美の基準

背後から水音絶えぬ山紅葉

吠えぬ犬ばかりとなりて山紅葉

マイナンバー通知書届く山紅葉

山紅葉メタセコイアに見下ろされ

山紅葉あっという間に暮れてゆく

山紅葉高梨沙羅には無縁かも

ど貧民ともいえぬ生活山紅葉

墓石に残る朱の文字山紅葉

その嘘の色は何色山紅葉


ニシキギ

シクラメン

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展示品は18日に市価の半値以下で販売される。
この催しを知った最初の2年は大量に買い込んだ。
3年目はやや控えめに。
今年は未定。


センダラビット



ビクトリア


ネオゴールドデンガール


プルマージュ

ファンフレーム

香り


リボン

冬桜

シクラメンの管理は結構難しい。
暖房のよく効いた場所はあまりよくない。
水やりも難しい。
一度花首やつぼみが傾き始めたら軌道修正は困難。
やや薄暗い所にほったらかしにしているのが一番長もちするように思う。

現代俳句協会のデータベースから

ひと言でいえばいいひとシクラメン石口りんご
ふたり棲む暗いところのシクラメン辻脇系一
ほんとのことは言いませんシクラメン白木暢子
シクラメンそれぞれの日をかたみとし川本洋栄
シクラメン似たような名に返事する渡邊禎子
シクラメン弱きひかりの華やげり藤井冨美子
シクラメン形のごとく偏頭痛徳永希代子
シクラメン水が喉元過ぎにけり清水逍径
シクラメン花の裳をかゝげ初む竹下しづの女
北国の生徒育てしシクラメン村谷龍四郎
妻病むやシクラメンの朱炎を揃え和知喜八
性格が八百屋お七でシクラメン京極杞陽
真実はいつも空白シクラメン川崎益太郎
金婚の父母のはにかみシクラメン幸田清子
馥郁とイエスは抱かれシクラメン北迫正男
 




温室の両端に5鉢ずつ並べて配置されている。
中央には寄せ植え的にまとめて配置されている。
全部で200鉢弱である。
販売日にはビニールポット植えのものも加えられる。
温室が狭いので、先着順に10名ずつ中に入る。
購入個数には制限はないので、
いいものは先着30名くらいであらかた買いあげられる。
去年は出かけるのが遅く、4番手だったこともあって
最高値がついているものと安値のものしか残っていなかった。


イランイランの花

メディニラアストロニオイデス



ポインセチア

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ヾ(@°▽°@)ノ



ポインセチアは、クリスマスシーズンの花として日本ではすっかり定着している。
「ポインセチア」という言葉(花名)の意味は?
日本への導入時期は?
いつごろ季語として定着したか?

以上3点、書き始めた時点ではいずれも「正解」を知らない。

まずはウィキペディア覗いて、「俳諧歳時記」捲ってなどと作業手順を考えて・・・。

かなり以前だが、台湾旅行中にバスに乗っていると郊外の野辺に
先端がやや赤い背の高い植物が生えていた。
ポインセチアだった。

原産はアジアなのか?

早く台湾などに入ってきて野生化したのであろうか?


ウィキペディア:

ポインセチア(英名poinsettia、学名 Euphorbia pulcherrima)はトウダイグサ科トウダイグサ属植物。常緑性低木。標準和名ショウジョウボクである。

葉は薄く、楕円形。花はいわゆる杯状花序である。その下に着く葉の形の苞葉が赤く染まるのが鑑賞の対象となる。その赤さはキリストの血の色に例えられる[1]

原産はメキシコ中央アメリカ。原産国とされるメキシコ合衆国では、「ノーチェ・ブエナ(聖夜)」と呼ばれる[2]。メキシコの伝説がアメリカ合衆国の初代メキシコ公使であったJ・R・ポインセットの知れるところになり、また真冬に花を咲かせることから、アメリカに伝わり、彼の名前がつけられた。

日本には明治時代に来た。和名はショウジョウボク猩々木)。大酒飲みの赤い顔が特徴の、伝説上の動物である猩々に似ていることから名付けられたという。

観葉植物として、クリスマスの時期にあわせて短日処理をして、紅葉させて緑色の葉色とのコントラストを楽しむ。ただし0℃を下回るような場所に放置すると葉が落ちてしまうので、クリスマスの時期の管理には注意が必要である。増やし方は、水を張った容器や、土に挿し木をすれば発根する(水に挿す場合は、水に挿す前に切り口から出る乳液状の樹液を拭き取っておく。時期により植物の活性が違うので活発な暖かい時期に行う)。園芸品種が近年多様化しており、従来の紅色に加えて、乳白色、淡い黄緑、ピンク、斑入りなどのバリエーションが楽しめる。強剪定にも耐える。

一般に鉢植えの植物というイメージが強いが、宮崎県宮崎市堀切峠の沿道には5万本以上植えられており、12月の開花時期には日南海岸の展望と合わせて名所となっている。小さな花が数個固まって咲いているため、1つの花のように見える。


メキシコ駐在公使ポインセットの名を読み、この文、すでに一度このブログでも引用しているような記憶が戻った。

原産国はアジアではなく、メキシコのようである。日南海岸で野生化しているなら台湾での野草化も不思議ではない。
ただし草ではなく、木である。


明治になって日本に入ってきたということである。『俳諧歳時記』への登載は微妙。

汀子歳時記には「ポインセチア」あり。
『俳諧歳時記」には「ポインセチア」「しゃうじやうぼく」は登載されていない。(しょうじょうぼくではもちろん索引に登場しない)

ポインセチアは日本への紹介・導入は明治期であっても、「俳諧歳時記」の編集段階(昭和8年)ではまだ一般的な花とはみなされていなかったのである。

商業用に短日処理が始まったのはいつだろう?

俳諧歳時記の植物の項の執筆担当は牧野富太郎であるが、
彼が命名した「ハキダメギク」も季語には採用されていない。
ハキダメギクの発見は昭和8年以降だったのであろうか?

ウィキペディアの「ポインセチア」の解説はそう長文ではない。
残りの部分も引用。


よく似たものにショウジョウソウがある。全体によく似ているが草であり、幹は木質化しない。また、包葉も全部は色づかないのが普通である。日本では時に帰化植物としても見られる。


全草にフォルボールという有毒成分が含まれ、皮膚炎水疱などを引き起こす。致死的な毒ではないが、1919年にハワイで子供がポインセチアを食べて死亡した例が報告されている。また、発がんプロモーション作用があることもわかっている。

あまり枕元などに置いて日夜可愛がり過ぎない方がいいみたい。

現代俳句協会データベースより
ポインセチア素っぴんの女医着任す髙橋悦子
忙しく人来て帰るポインセチア伊関葉子
鳥籠にポインセチアを飼っている大西昇月
(続)俳句検索

ポインセチア獨唱の手の置きどころ 中原道夫 巴芹

言はでものこと言ひポインセチア赤 七田谷まりうす

星の座の定まりポインセチアかな 奥坂まや

まつ暗にされたるポインセチアかな 千葉皓史

ポインセチア日なたに出して開店す 津川絵理子

リヤ王読むポインセチアを足許に 高沢良一

ポインセチアどの窓からも港の灯 古賀まり子

ポインセチアその名を思ひ出せずゐる 辻田克巳

待つといふ静寂をポインセチアの灯 上田日差子

ポインセチア雑踏の踏む力かな 瞳 一如

ポインセチア司会の言葉歯切れよく 枇榔蓉子

魚市の真中のポインセチアかな 佛原明澄

皇孫の誕生に買ふポインセチア 吉村絹子

ポインセチアの赤がパン屋の一つの灯 浅香さとみ

交番のポインセチアに道を訊く 廣井良介

よそよそしポインセチアが燃えており 越川ミトミ

ポインセチア物思ふ午後のサンルーム 野萩儚城

あれこれ悩んで答出した日のポインセチア 伊藤みとゑ

整理整頓ポインセチアの鉢を買い 高井太郎

ポインセチアこんなに赤を贅沢に 橋本佐智

画廊出てポインセチアも電飾に 原田嶺子

欲しきものポインセチアのこの緋色 神原保治

ポインセチア声のはじけて学園駅 依田みどり

ポインセチア置いて毎日惹かれをり 鈴木鷹夫 春の門

ポインセチア十鉢並べて景気付 高澤良一 鳩信

ポインセチア飾り立てつつ「主は来ませり」 高澤良一 鳩信

早々とポインセチアの囲み記事 高澤良一 宿好

内祝ポインセチアを買うて来ぬ 高澤良一 燕音

ニナリッチコーナーのポインセチアかな 高澤良一 ぱらりとせ

並びゐるポインセチアと消火器と 高澤良一 さざなみやつこ

ギフトカードにポインセチアのカットかな 高澤良一 さざなみやつこ

リア王読むポインセチアを足許に 高澤良一 ねずみのこまくら

寝化粧の鏡にポインセチア燃ゆ 小路智壽子

休日をポインセチアの緋と暮るる 遠藤恵美子

ポインセチア抱いて真赤なハイヒール 西坂三穂子

星の座の定まりポインセチアかな 奥坂まや

ポインセチア画中に暗き聖家族 上田日差子

まつ暗にされたるポインセチアかな 干葉皓史

たれも愛さぬ人愛すポインセチア 鈴木 明

ポインセチアその名を思ひ出せずゐる 辻田克巳

人集ふところにポインセチアの夜 水田むつみ

ポインセチアの真つ赤をもつて祝福す 山崎ひさを

ポインセチア愛の一語の虚実かな 角川源義

ポインセチア教へ子の来て愛質され 星野麥丘人

ポインセチア独りになれ過ぎてはならず 鈴木榮子

ポインセチアどの窓からも港の灯 古賀まり子

待ち合わせの刻過ぎておりポインセチア 大森照子

並びいるポインセチアとぶるどっぐ 田中和子

ポインセチア小さな箱の光る石 栗原節子

ポインセチア港に夜景下りてくる 高山郁郎

その朝が来て麻酔裸のポインセチア 大石悦子 百花

ポインセチア囲みてチエルノブイリのこと 石寒太 翔

船の灯がポインセチアの窓を航く 山田弘子 懐

ドア開いてポインセチアの赤が客 山田弘子 こぶし坂以後

待ち侘びしポインセチアに染まるほど 山田弘子 こぶし坂

柔らかき財布でポインセチア買ふ 牧石剛明

ポインセチア愛の一語の虚実かな 角川源義

ポインセチアこころに人の棲まずなりぬ 草間時彦




並びゐるポインセチアと消火器と 高澤良一 さざなみやつこ

私も過去(昨年か1昨年かどうかは定かでないが)に同じような句を作った。共感は余りえなかったけれど、

両端に消火器置いてポインセチア

ポインセチアをあまり多数並べると発火の危険性があるというのが句意。私の句は、句意が鮮明に出ている。高澤さんぐらいにあっさり表記して読者の理解力に期待する方がベターだと思う。



柔らかき財布でポインセチア買ふ 牧石剛明

この句では「柔らかき」財布という表現がユニーク、斬新、愉快。
この句のポインセチアは「豪華なもの」という意味合いで使われている。
しかしシクラメンより、ポインセチアは栽培・管理が容易なのか超高値のものはない。



ポインセチア
ウィンターローズ↓

↑あまり人気がないのか、昨年はこれを数鉢買った。(売れ残っていた)。

プレミアムアイスクリスタル

アイスパンチ

ポーリーズピンク

プレミアムマーブル

プリンセチア

昨年の私の過去ブログを覗いたら、
12月21日に植物園を覗いて、2日前が売出日だったことを報告している。
売れ残ったものが事務棟に配置されていて、それを数株買っている。
まったく記憶していなかった。

そのまた一年前には、車で行かずに、自転車で行って2台の前かごに
運べる範囲で購入している。


ソテツ

「俳諧歳時記」には蘇鉄は収録されていない。
汀子歳時記には、「蘇鉄の花」が夏7月の季語となっている。
「蘇鉄の実」も季語の資格を持っていると思う。

蘇鉄蘇鉄安房の田打人 市川翠峯 『素木』

蘇鉄とは大らかな恵方寺 高澤良一 暮津

蘇鉄の実手にして戻る初詣 高澤良一 暮津

風落ちてどしりと座る花蘇鉄 菅田静歩 『大花野』

避寒宿夜は蘇鉄に風しきり 皆川盤水

蘇鉄とは分らぬまでに冬囲 児玉輝代

打水や蘇鉄の雫松の露 打ち水 正岡子規

巻わらのとれて蘇鉄のそよぎ哉 巻藁を解 正岡子規

風蘭の先や蘇鉄の八九本 曽 良

ハブの顔蘇鉄の花にかくれけり 田渕五百子

文字のなき墓は流人や花蘇鉄 井阪しよ子

大き蘇鉄に当る風音春暖炉 皆川盤水

蘇鉄黒船の世は嘸やさぞ 高澤良一 随笑

蘇鉄らのずんぐりむっくり無月かな 高澤良一 寒暑

恰幅よき蘇鉄に朝の一暖雨 高澤良一 ぱらりとせ

欣一忌書棚に辺戸の蘇鉄の実 国枝隆生

波音の蘇鉄にひびく甘茶寺 荻原芳堂

ガラシャ廟蘇鉄の花の金色に 山口玖磨加

水軍の寺にて拾ふ蘇鉄の実 内藤英子

とくゆるく雪虫まひて蘇鉄寺 飯田蛇笏

蘇鉄の実夏百日をせめぎあひ 岡本まち子

避寒宿夜は蘇鉄に風しきり 皆川盤水

蘇鉄取つ組み合ひて霜囲ひ 松本 梓

霜除のぽくぽくふくれ大蘇鉄 石崎晋象

赤壁の寺の玄関花蘇鉄 井上たか女

親子馬走る岬の蘇鉄咲く 野田武

初風や松も蘇鉄も秋の市 言水

冬隣蘇鉄は火種抱きそめ 古賀まり子

風蘭の先や蘇鉄の八九本 曾良「田植諷」

南洲の流謫の島の花蘇鉄 中瀬喜陽(かつらぎ)

蘇鉄咲き黒潮荒き雨降らす 神尾季羊「石室」

数へ日の蘇鉄へ雨のおびただし 松村多美

蘇鉄とは分らぬまでに冬囲 児玉輝代

船籍の旗鹹し花蘇鉄 正木ゆう子 静かな水

冬雲や幹に埋もるる蘇鉄の芽 長谷川櫂 天球

蘇鉄咲く開国の海見はるかし 川崎展宏

夕凪の三河の寺の大蘇鉄 大峯あきら 宇宙塵


例句はなべて「蘇鉄」も「蘇鉄の実」も季語扱いしていない。
蘇鉄の花、花蘇鉄は季語扱いになっているが。
そこで1句。

蘇鉄の実大売り出しの間近なり





絵馬

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富松神社の松の字が、木かんむりに公と記されている。
IMFパッドで探したらあった。 枩


富松神社の巨大絵馬が新年のものに変わったという新聞記事を見て
神社へでかけた。

絵馬は尼崎信用金庫の寄贈品のよう。毎年ではないと思う。
地元の郵便局の寄進品であった時もある。
なにか行事があると尼崎選挙区選出の公明党議員までが登壇する。
市長もこまめで、年に数回この神社へ式典参加のためにやってくる。


富松神社由緒

≪お社の説明・御由緒≫

富松神社は、約1250年前に僧の行基が人々を指導して、猪名野笹原を開拓し、稲作を進めるとともに、富松の里の守り神として神様と仏様をおまつりしたのが始まりと伝えられています。

 平安時代には藤原摂関家の荘園を守る鎮守の社でした。戦国時代には数度の兵火にかかり社殿や堂塔は焼失し、面影はとどめませんが、樹木などに微かに昔時が偲ばれます。江戸時代に至り、尼崎藩主松平遠江守公厄災除祈願所として特別の庇護を受け盛況を誇りました。大東亜戦争敗戦後は社会変化により神社の基盤は崩れましたが、人々のふるさと富松への信仰心は途切れることなく、里の人々に大切にされ、今日も神様への感謝のお祭りが続いています。 御本殿は1636年に再建されたもので、昭和43年に兵庫県重要文化財に指定されました。 境内の大きな楠は樹齢500年と言われています。

↑この種の由緒は尼崎市内どの神社でも見られるものではない。
明らかに執筆者の現代的な考察が付け加わっている。
惜しむらくは、掲示(執筆)年を明示すべきであった。
掲示文では「奈良時代(約1200年前)」となっているが、
上に紹介した神社案内(由緒)では「1250年前」になっている。

奈良時代とは西暦710年~793年を指すのであろう。
そのうち行基(668~749) (普通には「ぎょうき」。しかしここ伊丹・尼崎では「ぎょうぎ」)が活躍し
猪名野笹原を開墾したのは、730年より前であろう。もっと時期を限定すれば、717年に僧尼令違反で処分される
以前であろう。そうならば奈良時代の初期である。

「約」なしで時期を設定するために便宜的に715年頃とすれば、今から1300年前のことである。

行基は732年には、大阪で狭山池を造成し、以後は国家から尊称を与えられ、東大寺の造営に従事する。

富松神社は、710年代に行基が猪名野地方に造営した23ケ坊の一つだという。
この23ケ坊とは何か?
行基開院の寺院は40ヶ寺以上存在する。
アジサイ寺といわれる美作の大聖寺もその中の一つであり、
今もなお存在する昆陽寺(こんようじ こやでら)もまたその一つである。
そういった院(=坊)の一つが富松寺であったのか?
ではなぜ故にそこにスサノオが祀られるのか?
素盞之嗚ではなく、素盞嗚薬師(伝)とはなになのか?

昆陽寺は行基開院の49寺の一つとされる。
元は昆陽施院であった。本尊は行基自身が製作したとされる薬師如来である。
今ある山門は江戸時代に再建されたものであるが、第2門で、第一門は2キロ南の富松神社付近にあったということである。

富松神社は昆陽寺の外門跡であり、薬師如来を祀る本堂への参道の入り口跡ではなかったか。

昆陽寺は733年、聖武天皇の勅願寺になり、それ以降伽藍が整備され、平安時代になり、小屋庄として整備され始めた。その時、開墾用に利用されたのが、史上初の多目的ダムとも呼ばれる、これまた行基が開発造成の指揮をとった昆陽池であった。

織田信長と荒木村重の戦い(有岡城の戦)で、織田信長に焼き払われたため、
第1門跡は荒れ果てたであろうが、大阪地方から昆陽寺(行基さん)への参拝道の一部として
第1門から第2門へ至る道は江戸時代にも利用され、第1門跡に神社が、多分東富松村の氏神として整備されたのではなかろうか?

その過程のどこかで、この地域一帯で祀られている素盞嗚さんがごく自然に(真言宗は真言密教を通じて容易に神道の神を受け入れた)氏神の地位に祭り上げられたのではないかと思う。

あるいは、この地域が荘園化した後に、藤原氏の守護神春日大社の
分社が影響したかもしれない。

素盞嗚命と薬師如来が結合して素盞嗚薬師などという変てこな命(みこと=尊)とも仏ともいえぬ表現が文書の中に残ったかも。


↑の絵馬に登場する童子は、茨木童子であろう。

茨木童子(いばらきどうじ)は、平安時代大江山を本拠に京都を荒らし回ったとされる「」の一人。茨城童子と書くこともある。酒呑童子(しゅてんどうじ)の最も重要な家来であった。


酒呑童子の出生地にはほかにも伊吹山麓など有力な説があるが、茨木童子の出生地についても兵庫県尼崎市大阪府茨木市の説もあり、『摂津名所図会』・『摂陽研説』・『摂陽群談』などの資料ではこれらを採っている。1701年刊行の『摂陽群談』では、 摂津国の富松の里(現・兵庫県尼崎市)で生まれ、茨木の里(茨木市)に産着のまま捨てられていたところを酒呑童子に拾われ茨木の名をつけて養われたとある。

また『摂陽研説』では、茨木童子は川邊郡留松村(富松と同じく尼崎市の一部)の土民の子であったが、生まれながらに牙が生え、髪が長く、眼光があって成人以上に力があったので、一族はこの子を怖れて島下郡茨木村の辺りに捨て、酒呑童子に拾われたという。

この童子の記念祭?をやっているのは西富松神社である。

そこの案内より


「茨木童子」という鬼が富松の里で生まれたと伝えられています。昔、富松の里の村人夫婦に子どもが生まれました。

ところがこの赤ん坊は生まれたばかりなのに毛は生え揃い、目は鋭く光り、口には牙までありました。両親はこの異様な姿を恐れて、考え悩んだ末、大阪の茨木で子どもを捨てることにしました。この子を拾い育てたのが京都で大暴れしていた鬼「酒吞童子」で、我が子のように育て、一番の子分にしました。ある時、茨木童子は故郷の両親が病気にふせっていることを知り、見舞いに富松の里へ戻りました。両親は驚きのあまり病気も治り「よく帰ってきてくれた」と童子を引き入れダンゴを食べさせてもてなしました。(1701年『摂陽群談』より) 

この神社の管理は目下は富松神社が行っている。
よって富松神社の祭にもこの茨木童子が登場する。

絵馬の中で、茨木童子が2016年の干支の猿さんに渡そうとしているのは富松一寸豆であろう。

解説文の中にある樹齢500年の楠

織田信長の焼き討ちに生き残ったことになる。

本殿前の狛犬

大坂住 何某などという名を秘した願主を彫ったものは他にはない。
文化7年(1810年)庚午8月に寄進されている。

↑富松神社遠望
イチョウの木の横の大屋根は寺のもの。神社はその奥の杜のなかにある。
この角度から写すと田園の中にあるように見えるが
背後はマンション街である。

この道筋に立っている道標。180度回転して配置されているので、
右、すなわち左へ行けばすぐ富松神社の鳥居に出会う。
そして行基さんこと、昆陽寺へ行く。
しかしこの道標は、東へ100メートルほどのところに設置されていたものであるが、そこから左への道は津門中道とはいえ、現在では畦道よりも狭いほどのよそ者が通ろうとはしない道である。

しかしその道を行くと、現在の富松神社の参道の入口に出会う。

参道入り口の両端には享保年間に寄進された常夜燈が立っている。

参道の地所の寄贈者の名が記されている記念碑。
これほど立派な参道を構える神社は、尼崎市内には他にない。
(全66社中、47社を訪問した上での結論。)

私の説では、この常夜燈が立っている前の道が津門中道である。
1週間ほど前にこの神社に来た時、宮司さんの息子の禰宜さんが境内におられたので、話しかけてこのことを話題にしたが、
禰宜さんは「津門中道」をご存じなかった。

すぐ近くに果樹園がある。かつてはイチジクを育てていた。
柑橘類はなんであろうか?手を伸ばせば実に届くので、手で触って
、少し近くに引き寄せたら、実が取れてしまった。

八朔である。家に持ち帰って剥いて食べてみた。
二房目には手が伸びないほど酸っぱかった。

↑空き店舗の入口を覆ってしまうほどに繁茂している。フィカス・プミラ。

↓ハナカンザシ


境内が一日赤き達磨市 池谷 晃

境内のぬかるみ神の発ちしあと 八染藍子

朝顔や境内浅く鬼子母神 石川桂郎

山芋を掘る境内を恐れずに 橋本 對楠

境内も宮居も小さき生姜市 小林 たか子

境内を掃いて水無月祓ひ待つ 井上 たか女

境内の松の林の松の花 香下 純公

嚏して境内広き一の宮 上井みどり

埃立ちやすき境内わらび餅 後藤比奈夫

境内に俗家四五戸や柿紅葉 高浜虚子

境内に椎の実の降るひとところ 渋川 絢

早春の寺の境内庭師居る 土屋孝子

初風や雪の境内日のぬくく 徳永山冬子

弓神事待つ境内の大焚火 赤谷ちか子

境内は梅ばかりなり涅槃西風 加藤知世子

境内に山坂ありて梅早し 有働 亨

湯豆腐に境内の闇滞り 桂樟蹊子

境内か否かを知らずさねかづら 森田峠

境内に入りて風なし初詣 田中王城

初風や雪の境内日のぬくゝ 徳永山冬子

境内に大根懸けし楓あり 田中裕明 山信

境内の端より川床の端見ゆる 森田峠

境内をよこぎつてをり道をしへ 木下野生

初風や雪の境内日のぬくゝ 徳永山冬子

杉落葉して境内の広さかな 高濱虚子

境内に東京の土朝顔市 橋本美代子

境内に糞を落して囀れり 前田普羅

利用させてもらっている「俳句検索」に高浜虚子の句は何句収録されているか、高浜」虚子で検索。ダブりもあるだろうが、3098句と出てきた。高浜年尾、638句。稲畑汀子916句、稲畑広太郎 0、改めて
稲畑廣太郎で検索、249句。

2003年が最終更新なので、2003年、今から10数年前の時点での4世代の貢献度を示しているかも。

玉垣

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↑アカシア通り 初冬


私の参加する句会はなべて「コピー句稿」句会である。

かつての句会:
たとえば3句ずつ清書された清記用紙が句稿として出席者の間を右回しにまわってゆく
出席者はあらかじめ決められている選句数を念頭に置いて、
句稿番号ともども予選句を、別に配布された一枚の用紙に書き抜いてゆく。

俳句の学習が句会参加ではなく、俳句教室入門から始まると
句会の実習時に、
まわって来る句稿に記載の全句をノートに書き写すことが求められたのであろうか
教室の卒業生が通常の句会に参加し始めた昭和40年代の半ばから
句稿の回りが極端に悪くなった。

しかし青焼きコピーがようやく普及し始めた段階では、一枚のコピー用紙に
30句を記入して2枚分を参加者数分だけコピーするという発想は生じようがなかった。
B4用紙の乾式コピーが1枚20円位でできるようになった段階で
コピー句稿の利用の可能性が生まれた。

しかしその段階では、たとえば句会会場として利用している公民館がコピー機を導入していてもその機能を公民館の一般利用者に貸し出す余裕はなかった。

一人3句出句の場合は、15人参加句会であると、シャッフルした出句短冊を
一人が1枚ずつ3句列記の清記用紙を作成する句会を20年も30年も続けてきた
人にはコピー句会と言ってもなかなか理解できなかった。

わたしの場合も月例句会でコピー句会を提案するためには、
まずは会場付近でコピーが依頼可能な店を探すことから作業開始であった。
幸い会場の公民館のすぐ近くで日曜日も営業している不動産屋があり、
1枚20円でのコピー依頼が可能であった。
その当時はコピーも1枚10円で可能なコピー屋なども生まれていたが
わずかな業務外の仕事を依頼するので20円で交渉した。

それから数年すると町中のコンビニストアがコピー機を置くようになった。用紙のB規格がグローバルでないとの理由で廃れ、コンビニコピーでもA3用紙も10円になった。

その辺りを契機に私の所属する結社の句会はほとんどがコピー句稿句会になった。

現在でも尼崎句会はコンビニでのコピーであるが、開催日を平日に変更ることにした。
平日なら公民館の事務室が1枚10円でコピーを引き受けてくれる。

目下、毎月5,6回句会に参加しているが、
公民館祭などに参加する登録団体になれば会場費は無料になるところもある。
尼崎もそうだが、年1回の行事に参加するのが面倒なので
(他の手芸だの絵画や書道や彫刻や音楽などの団体にとっては年間の制作品を展示するいい機会だが俳句の場合だと、自分の句を短冊にして展示するぐらいで一般来場客をあまり期待できない)

任意団体として、毎回、反社会的団体ではないという誓約にチェックを入れて
1140円の会場使用料を払い、句会参加者からは300円の参加費を徴収している。

本日句会参加。

兼題「田」を失念していたので、
急きょ

バギー押す母の麗し刈田道

で出句。塚口駅12時24分発の電車に乗って、会場の神戸三宮の中央公民館には1時寸前に飛び込み、出句を済ませてから、外へ出てコンビニで500mlのお茶とお結びを買った。エレベーターに乗ったら、事務所でコピーを済ませた幹事役と一緒になった。

かつての田植えや稲刈りは夫婦が懸命に協働せねばならなかった。
子供はあぜ道に篭に入れて放置されていた。
そういう私の母の思い出を思い出して、
今は育児に専念できる手のきれいな母親を思い浮かべて作句。


選句の合間に、↓は何と呼ぶのかを尋ねた。

富松神社の氏地(そんな言葉があるのかどうか?)では、瀬口、笹部という名前が目立つ。西武庫の地域では、寺澤。

↓江戸時代のものだろうか?まったく判読できないほどに文字が薄れている。

宮相撲というものもしらなかった。

「玉垣」という言葉を教わった。単語は聞き覚えがあるが、↑のものの集合体を玉垣ということを知らなかった。

ウィキペディア


玉垣(たまがき)とは、神社神域の周囲にめぐらされるのことである。瑞垣(みずがき)ともいう。

神社神道が確立され、拝殿本殿が、建立され敷地(自然との境界)が明確になるにつれ、曖昧であった常世現世の境界でもある神域がはっきりと区別されるようになり、神籬と磐座・磐境が結びつき、石造の垣根などに代わり、現在の神社にみられる玉垣に変わっていった。

形態の変遷

樹木をめぐらせる柴垣が最も古い形式であると考えられる。

形状は、厚板を並べた板玉垣、皮がついたままの木を用いた黒木玉垣、広く間を開ける透垣などがある。

材質は木や石、近年ではコンクリートによるものもある。玉垣には寄進した者の名前が刻まれることがある。


現在の神社神道における玉垣の在り方と意味と名称

意味と同義語
瑞垣(みずがき)、斎垣(いみがき、いかき、いがき)、神垣(かみがき)は玉垣と同様にすべて同じ意味を持つ。垣の内側を「垣内(かきつ)」、垣の外側を「垣外(かいと)」という。
「玉」や「瑞」、「斎」という言葉はともに「神聖な」「美しい」という意味を持ち、囲いの意味である「垣」と組み合わさって「神聖なすばらしい神の為の囲い」という意味の言葉となっている。
重複の囲いの場合の意味と同義語
玉垣は複数めぐらすことがあり、その場合、名称で区別をつけるが、神社によっては内側の垣を瑞垣、外側の垣を板垣(いたがき)といったり、一番外側のものを荒垣(あらがき)または外垣といったり、その他、中垣(なかがき)、内垣など、様々な例がある。これらの名称が混用されている場合もあるが、概ね一番内側の垣を「瑞垣」とよぶことは一致している。伊勢神宮を例に挙げると、四重の垣がめぐらされ内側から順に、瑞垣、内玉垣(うちたまがき)、外玉垣(そとたまがき)、板垣と呼んでいる。

山茶花がきれいに咲き始めた。

落ち葉



フィカス・プミラ

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我が家からもっとも近い寿司屋だった。
30年前には週1,2度利用していた。
肝臓の数値が上がったので、晩酌をやめ外での飲酒を控えるようになったのを
潮にその後は利用しなくなったが、
主人とは時々街角で出会い挨拶は交わしていた。

先年、亡くなられ、以来空き店舗である。
となりの店は奥方が居酒屋を経営。
そちらは営業を続けている。
2階部分が住居らしく、空き店舗は売りには出ていない。

その店の前


店の入り口を覆うばかりに繁茂している。かずら系植物。
フィカス・プミラ。

一時は、となりの家の壁にまで広がっていたが、生前一度刈り取られたが、数年でまた
そちらの方へも伸びていっている。

奥方経営の店は反対側である。

フィカス・プミラは、今年の10月に、
↓の画像(の一枚)を示して「花図鑑」に投稿、名を尋ねて知った。



葉がまったく異なる。

だからまた投稿して、同じ回答を得た。

調べると成木と幼木とでは葉の形などがまったく異なるので、別の植物のように見えるという解説があった。

移入植物ではなく日本原産のものらしい。
園芸店では、斑いりの葉を楽しむ観葉植物として小さな仕立てで売られているようである。

クワ科植物で、いちじくなどと同じ属(いちじく属)に分類されている。
そういえば実はいちじく型である。

ウィキさんの解説:

オオイタビFicus pumila)はクワ科イチジク属常緑つる性木本。東アジア南部に分布し、日本では関東南部以西、特に海岸近くの暖地に自生し、栽培もされる。茎から出る気根で固着しながら木や岩に這い登る。オオイタビの名は、イタビカズラに似て大型であることによる。台湾に生育する変種のアイギョクシF. pumila var. awkeotsang)は果実を食用に用いる。

冬も元気なポリゴナム(姫蔓蕎麦)

メキシコハナヤナギ

これも花期の長い花である。

フィカス・プミラもオオイタビもイタビカズラも「俳諧歳時記」に収録されていない。
その後の歳時記にも採録されないままであろう。

いちじくの句は多い

可塑性のある思ひ出と無花果と 中原道夫

頬赤い山無花果を童子仏 和知喜八

無花果を食ふ天刑の名をうけて 平畑静塔

無花果や四谷寺町谷なせる 三原清暁

無花果を手籠に旅の媼どち 飯田蛇笏

過ぎゆくや路の無花果匂ひ来る 三戸 良子

無花果のなかの不覚や薬指 渡辺誠一郎

汝が家に躯はこべば無花果あり 岡井省二

無花果の暗き深紅を煮つむべし 黒田杏子

無花果を*もがむと腕をねぢ入るる 波多野爽波 『骰子』

無花果や坐つてをりて樹上の子 殿村菟絲子 『菟絲』

無花果の熟るる花街の濯ぎもの 殿村菟絲子 『路傍』

無花果の熟るゝ日ざしは居り易し(苔寺) 殿村菟絲子 『路傍』

無花果を食べ荒海の上にあり 岸田稚魚 『萩供養』

婆の死や無花果の実のちよつぴりと 岸田稚魚 『萩供養』

無花果を食ふ百姓の短かき指 山口誓子

無花果食ふ月に供へしものの中 石田波郷

無花果の熟れるを待たず父逝けり 杉山十九子

無花果の腹の底より笑ひけり 蛭田大艸

無花果にゐて蛇の舌みえがたし 飯田蛇笏

無花果くらし子守唄なほ昏し 神戸周子

無花果の中はいくさの火種かな 瀧 春樹

無花果で始まる森の小道かな 郷 絹子

無花果やわらべ心に剥かぬまま 乗本真澄

音ひとつせぬ無花果の木を好む 百合山羽公

無花果の爛熟するを疎みをり 千代田葛彦

無花果もみだりに多くして卑し 百合山羽公

無花果の飴煮素朴に三時の花 遠藤 はつ

無花果を*もぎし手ねばる休診日 下村ひろし

しづかなる雨無花果に妻を得し 杉山 岳陽

無花果の香や死なずしていゆるなし 山田 文男

無花果をけさ朝刊のはしに置く 中村 秋晴

もがれゐて無花果の木の寂然と 水内 鬼灯

無花果の熟れし田舟の棹の先 小早川 恒

無花果や悪友いまも良き友よ 小川田鶴子

無花果を*もぐや日癖の雨走り 続木かよ子

無花果もみだりに多くして卑し 百合山羽公

日本海黒無花果に無言なり 黒田桜の園

音ひとつせぬ無花果の木を好む 百合山羽公

無花果食べ妻は母親ざかりなり 堀内薫

無花果にパンツ一つの明るさ立つ 平畑静塔

無花果の熟るゝ花街の濯ぎもの 殿村莵絲子

無花果や永久に貧しき使徒の裔 景山筍吉

無花果を食ふ百姓の短かき指 山口誓子

無花果や目の端に母老いたまふ 加藤楸邨

乳牛に無花果熟るゝ日南かな 飯田蛇笏

無花果の低き実をもぐ子規忌かな 江原草顆

かけ添へて昆布めでたし幸木 呼子無花果

そのひとに無花果ひとつことづてし 辻桃子

無花果や淵へ淵へと女の眼 齋藤愼爾

無花果の蘂を啜りて無頼作家 齋藤愼爾

客人は青無花果を見てをられ 岸本尚毅 鶏頭

客人は青無花果を見てをられ 岸本尚毅

無花果割る親指根元まで入れて 小澤實

青空に無花果奇声上げて割れ 和田耕三郎

無花果や虚子先生はやさをとこ 如月真菜

わが死後に無花果を食ふ男ゐて 下村槐太

無花果は熟れずに空のがらんどう 豊山千蔭

歳月や無花果の辺を過ぐるより 村沢夏風

無花果を食ふ百姓の短き指 山口誓子

無花果や目つむればある昼の闇 町野けい子

天地に無花果ほどの賑はひあり 永田耕衣

煮つめたる無花果昼を深くして 大場康子

エプロンに無花果の染み同棲す 堀井春一郎

法師蝉無花果の木のつめたさに 百合山羽公

無花果の葉の怖しき花火かな 藤田あけ烏 赤松

失恋の後無花果を買い戻る 寺井谷子

無花果をもぐ変身の手はじめに 中尾寿美子

無花果を喜ぶほどの貧しき膳 山口誓子

無花果の少し色ある二つ哉 星野麦人

無花果の実青き二百十日かな 高浜年尾

無花果にゐて蛇の舌見えがたし 飯田蛇笏

無花果爛熟冷凍鯨肉半ば溶け 吉野義子

無花果市井といふ語なつかしみ 宮津昭彦

無花果を食べ荒海の上にあり 岸田稚魚

婆の死や無花果の実のちよつぴりと 岸田稚魚

無花果の暗き水あり菖蒲園 遠藤梧逸

無花果や妓のものを夜干して 遠藤梧逸

無花果も夜目に瞭らか諾一語 千代田葛彦

皆生きてゆく無花果は実を育て 千代田葛彦

無花果の濡れてゐしことを思ひ出す 安東次男 裏山

客人は青無花果を見てをられ 岸本尚毅(1961-)

無花果や薬を刻む縁の先 寺田寅彦

無花果食ぶ死ぬ話など少しして 中村苑子

無花果を*もぐに一糸を纏はざる 三橋鷹女

これはいったいどういう光景か?


河童忌や無花果を葉に盛り上げて 長谷川かな女

無花果をもぐ変身の手はじめに 中尾寿美子

無花果にさして朝日も夕日なれ 中尾寿美子

無花果や人形の声あぐるまで 増田まさみ

金色の無花果籠に盛る老人 金子皆子

旅の酔いこそ青無花果の深き樹下 金子皆子

無花果を押し潰しみる薄疲れ 横光利一

無花果の葉ずれ歓ぶ赤ん坊 柿本多映

無花果や神も仏も見たことなし 池田澄子



いちじくは無花ではない。アコウの実と同じく、
実の中で咲く。それを狙う虫もいる。

片付かぬ懸案の数赤榕の実 旧作


ヒマラヤ桜

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ヒマラヤ桜と紅葉のコラボ

伊丹川と昆陽川が並行に流れている地域がある。
その伊丹川の方は、郡是の跡地のSC(グンゼ・」タウン・センター・ツカシン)を東西に2分する形で流れている。
麗々しく「1級河川伊丹川」という標識が立っている。


両岸は広場になっている。
左岸では若者の演奏がかなりの客を集めていた。
「カリオン広場」と名づけられている右岸の方は幼児向けの遊具が揃っている。

土曜日で幼稚園は休みだから遊具はどれも子供でいっぱい。
カメラ持ったパパも多い。

右岸の広場の隅には2本だけ十月桜が植えられている。まだ若木である。

1本は建物のすぐそばに植えられているので、生育が悪い。

左岸
右岸側から」写したのでライブがうまく写っていない。

↑の斜行エスカレーターは西武つかしん(百貨店)ができた当初は人気スポットで、
長い行列ができていた。よって一度も乗ったことがない。
今は運行されていないと思う。


2か月前に見たフィカス・プミラの実はどうなっているか、
郡是広場へ行く途中で見学

地面に落ちていたものを撮影。
たしかにいちじく色。手触りもいちじく的であった。

この家の近くに幼木の茂る家があった。

「葛 or  蔓」で検索 1796句と出た。
クズまたはツタあるいはツルと読む句が多い。
というより「カズラ」と読ませる句は「ヘクソカズラ」以外は1句もないようだ。

200句写して、名前の一部やダブリを除くと 100句残ったかどうか↓

からみてへくそ咲く 瀬戸 十字

草ののたたかふ大南風 長谷川 櫂

待つ刻があり薔薇の長く 津根元 潮

露の玉人参のを下り 佐々木六戈 百韻反故 吾亦紅

あなたなる夜雨ののあなたかな 不器男 (雨多し今年のの咲く頃もみどり女二十五日仙台につくみちはるかなる伊予の我が家をおもへば)

の花けはしき秋をほのめかす 

水のの落城してゐたり 大石雄鬼

の葉のであることいやいやで 田邊香代子

たぐり積み上げて終りけり 宮津昭彦

稲妻の夜毎に険しみだれ 千代田

たぐり積み上げて終りけり 宮津昭彦

後山に刈り入りしさわぐ 能村登四郎 幻山水

の葉のうらみ皃なる細雨哉 蕪村 秋之部 ■ の棚葉しげく軒端を覆ひければ、晝さへいとくらきに

駄目押しの放屁見よかし屎 中原道夫

潜むほど色濃きと聞くの花 中原道夫

山彦の通ひし跡かめくれ 中原道夫

いちめん真いちめん見える音楽 高野ムツオ 鳥柱

女体より出でて真原に立つ 高野ムツオ 雲雀の血

の葉を繰り出す夜の機械あり 高野ムツオ 鳥柱

原聴耳草紙の耳がある 高野ムツオ 鳥柱

眠る子は大きなしずくの谷 高野ムツオ 鳥柱

まじまじと見ての花むくつけき 行方克己 昆虫記

の引つぱり合うて縺れなし 行方克己 知音

日面テの色となりたるの花 行方克己 無言劇

国栖奏や巻き締む丸柱 野澤節子

吉野椀に透きゆく女正月 野見山ひふみ

百穴を訪ふ枯を足に引き 青野達江

をひき森音をさびしくす 山本佳絵

の石にはりつく高札場 中川文彦

の下をゆくとき後手に 田中裕明

にぴかぴかの日や天寧寺 大串 章

枯れ枯れて裾ひくよ浅間噴く 金尾梅の門

晒す白さ重ねて春を待つ 相良哀楽

短日やきしと音して吉野 坂間晴子

竜胆よろめき踏める旅愁かな 小松崎爽青

咲くや湯けむり競ふ渓二つ 手島靖一

の花トンネル口は風に満ち 鷹羽狩行

咲くや父に終りし馬小作 木附沢麦青

自在鉤まで花の風届く 上野さち子

兎追ひし山こそ思への花 所 山花

み熊野に船木伐り出すの花 田村愛子

山の子等花がくれ学校へ 佐藤漾人

燈台守怒濤にを刈り落す 米沢吾亦紅

咲きて飯場に似たる湯治宿 森田 峠

馬子唄の鈴鹿はのこるの花 鈴鹿野風呂

咲くや嬬恋村の字いくつ 石田波郷

の花雨截つて飛ぶ山鴉 皆川盤水

の花くぐりて響く流かな 石 昌子

索道の奈落へさそふあらし 能村登四郎

の葉や人ごゑ揺るる地獄谷 高瀬哲夫

野生馬の病めば真を刈り与ふ 瓜生和子

白河の夜雨のを見て過ぎぬ 細川加賀

道伸びて追分宿の真かな 星野麥丘人

山の雨の葉に音たてにけり 池上浩山人

ひたすら垂れて地を探す 沢木欣一

山風を怖るゝ鶏やの秋 原 石鼎

かけて黒部の端山そゝり立つ 前田普羅

あなたなる夜雨ののあなたかな 芝 不器男

の先牡蠣殻山へ及びけり 木村里風子

長薯の焚く煙千曲川 滝沢秀誉

今もつて島津はかたき茘枝 布施伊夜子

通草ひつぱつてみて仰ぎけり 深見けん二

通草熟れ消えんばかりに細し 橋本鶏二

大島通ひいま沖へ 飯田龍太

擬炸ずる匂ひを身のほとり 青木緑葉

しぐるるもまた好日のもどき 斉藤美規

象谷やここだもありしもどき 森 澄雄

紅葉洩る陽がとろとろと干場 八木三日女

阿蘇の盆の初花おびたゞし 有働木母寺

根掘る隠国に雲こもるかな 松崎鉄之介

金剛の昏みまとひて根掘 藤野智弘

刃こぼれの鍬かつぎゆく根掘り 高村俊子

掘るはたたかひに似て吉野人 加藤知世子

吹かれ秋篠川は秋の川 神尾久美子

踏んで一山の露動きけり 原 石鼎

吉野ひさぐ戸かたき初嵐 三嶋隆英

文月のがびつしり最上川 皆川盤水

草茂る舟小屋も延び 村上冬燕

京橋のビルの座敷やざくら 森 総彦

ひとりづつ来てばらばらに桜 古舘曹人

餅や小浜置き屋の箱はしご 平野紀美子

水に松風塵を落すなり 高浜虚子

水の冷たう澄みてすゞろ淋し 村上鬼城

杉山のあをき滴り吉野 佐川広治

ホップの梅雨満月を支へたり 青柳志解樹

吉野軒で買ひ足す花の雨 広瀬一朗

吉野溶くやほぐるる花疲 大網信行

木流しの腰に巻きたる藤の 山野辺歩考

桶に薄ら氷ゆらぐ宇陀にをり 能村登四郎

の一本垂れて吹かれゐし 伊谷 詢子

を引けばまだある力かな 三谷 よし

振りて隠元は手を欲しがりぬ 川井 梅峰

実を割りて梅擬華やぎぬ 日隈 翠香

黄の赤に弾けて梅擬かな 宿理 菊香

切れて一つ離れし烏瓜 杉山 マサヨ

引けば零余子の一つふところへ 宮野 寸青

引けば思はぬところ大南瓜 筒井 淳介

転がりての枯れたる冬瓜かな 高木 一水

滝径のはや散り急ぐの花 安倍 不味

いつまでも続く暑さやの花 上野 静作

木洩日や美男の葉がくれに 山下 渓水

の葉の裏も表も濡れてゐし 打出 たけを

大由布の果ての果なるに佇つ 井上 たか女

豌豆の絡み合ふ力かな 吉川 幸廣

のびきりし胡瓜のの空およぐ 小川 木橋

花咲くにへくその名の哀れ 都甲 康枝

夕風に遊びをりすひかづら 島崎 伸子

餅のガラス菓子器に異国めく 宗圓 あき

饅頭少し片より固まりし 上田 立一呂

青笹にのせて餅やはらかき 池上 秀子

踊の灯二つ灯りて川 浜岡 延子

炎天の空へ伸び立つ藤の 青山 冬至

の自由を奪ひ棚を結ふ 久木原 みよこ

豌豆ののほどけし涅槃西風 刈谷 桂子

たぐるこころざしがひっかかり 山崎愛子

の切尖に触れ水激す 桂 信子

の螺旋描けるところあり 上村占魚

といふ生き方のありにけり 後藤比奈夫

沸々の湯を得ては透きとほる 藤田湘子

手繰りよせるむかごのよ気心よ 柴田美代子

青年海を見て下山 蓮田双川

悔い多し美男の実を数え 小堤香珠

不退寺のさればやここに真 森 澄雄

重陽の雨が叩けり真原 有働 亨

甘藷を捨てゝ肥とす島の畑 森田 峠

青空のどこ涯とせむの花 三森鉄治

五十猛のの花噛む女かな 夏石番矢

騒然と山国くるるの花 小松崎爽青

現に一人鳥と過ぎたる真原 伊藤淳子

の花雀吹かれてをりにけり 中川禮子

風の盆わたるごと踊りゆく 鳥居おさむ

とらはるることなく南瓜伸ばす 本宮鼎三


寺通り字を美しくざくら 有馬朗人

吹かれては山女を散すのひげ 飴山 實

夏めくや天へ挙りて葡萄 今井竜蝦

吊橋は定員十五の花 細川加賀 『玉虫』

葉裏見せ月夜地獄のの原 原裕 『王城句帖』

眼球の傷つくほどや茂る 波多野爽波 『一筆』以後

にがんじがらめの丸太橋 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』

夢にのみひと隠れくるの花 野澤節子 『花季』

を抱きよろめくを免かれずや 殿村菟絲子 『路傍』

ひたすらにの裏ゆくことのある 齋藤玄 『無畔』

散るや天の渚のくづれつつ 齋藤玄 『狩眼』

百姓のに踏込む野分かな 齋藤玄 『玄』

心はやの露散るかなたかな 齋藤玄 『舎木』『飛雪』

露けしや真がもとの蝉塚は 小林康治 『玄霜』

の葉や沼尻の風ほとびをり 小林康治 『玄霜』

落石が網目出でんとの崖 河野南畦 『硝子の船』

のこんがらがりて春隣 岸田稚魚 『萩供養』

何といふ幸福甘藷車の上の妻は 加倉井秋を 『真名井』

に花来てより旦暮しのぎよき 上村占魚 『方眼』

水の上定家の種吹かれ 飴山實 『花浴び』以後

村の茂平次寄進露の磴(室生寺) 飴山實 『辛酉小雪』

引くは残りの暑さ引くごとし 大木あまり 火球

のぼりつめるとは枯るること 大木あまり 火球

青空の雨をこぼせりの花 大木あまり 火球

の葉のおもて見せけり今朝の霜 芭 蕉



















忘年句会

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忘年会について、ウィキペディアには以下のような歴史的考察があった。

忘年会の起源ははっきりとは判っておらず、いくつかの由来の異なる会合が次第にひとつに融合して生まれた多元的起源を持つ行事であると考えられている[5]

「としわすれ」という言葉を用いた最古の例としては、室町時代の皇族、伏見宮貞成親王が認めた『看聞日記』で、1430年(永享2年)12月21日の記録として出てくる「先有一献。其後連歌初。会衆如例。夜百韻了一献。及酒盛有乱舞。其興不少歳忘也。」という文章である[6]。これは、年末に催された連歌会が大変に盛り上がり、その様子がまるで「としわすれ」のようだと述べたもので、この頃には既に民衆行事として「としわすれ」と呼ばれる、酒を飲んで乱舞する行事が存在していたことを示している[7][8]

江戸時代には、特権階級の人々の中で一年の憂さを晴らす行事になった [9]

近代の忘年会がお祭りムードに変化したのは明治時代からで、無礼講などのキャッチフレーズで広まった[9]


月まぶし忘年会を脱れ出て 相馬遷子

忘年会くづれの一人書肆に入る 下村ひろし

忘年会船一便をやりすごす 秋光泉児

遅参なき忘年会の始まれり 前田普羅

月まぶし忘年会を脱れ出て 遷子

遅参なき忘年会の始まれり 普羅

酔はさんと忘年会のはかりごと 鈴木洋々子

雀見て忘年会へ急ぐかな 岸本尚毅 鶏頭

遅参なき忘年会の始まれり 前田普羅

しんと静まり返り忘年会終る 右城暮石

一明眸またたきともる忘年会 辻田克巳

本日は、阪神尼崎駅前の総合文化センター(アルカイックホール)の8階の宴会場で開催のものに参加。2時間の間に協議あり、宴会あり、句会ありだから忙しい。

途中、↓の標示を見つけた。

今は大阪ガス尼崎事務所となっている。

玉江橋(川は庄下川)
大正15年の建造物である。

橋の向こうがアルカイックホール。
ホールとその東の都ホテルおよび阪神尼崎駅前広場は国道2号線を跨いで大きな陸橋と空中庭園でつながっている。

↑かつてこの川のこの部分は悪臭を放ち、泡立ち、公害都市尼崎を象徴するところであった。なにせ高低差がないために清流とは言い難いが、今では川中の浄化装置も作動していない。

川の東岸、アルカイックホールの西側は庄下川公園となっている。
街区公園のひとつである。

宴会参加者は20名弱

句会は、

たましいが不意に咳する冬の夜

が7点句で最高点句であった。

私も選んだ。

冬夕焼みんなやさしくなる時間

も選んだが、同じ作者の作品だった。

作者名を「俳句検索」にかけたら165句登場

熊野路の塵もとどめぬ夏薊 小泉八重子

ゆるやかに狂女を演じ秋扇 小泉八重子

あめつちの端へ端へと雛流す 小泉八重子

螢来て時間を廻す水車 小泉八重子

秋の潮仏眼も水あふれしむ 小泉八重子

木枯の過ぎしあとなる傷薬 小泉八重子

両岸は菜の花明り家出せむ 小泉八重子

わが町の弥生地帯に蒲団干す 小泉八重子

羅をたためばどこか刃の匂ひ 小泉八重子

去る人も枯野も響き易きかな 小泉八重子

ふるさとにふらここの揺り残し来し 小泉八重子

戯れの遺書は螢のことばかり 小泉八重子

いづこまで追ひゆく残花また幻花 小泉八重子

添乳していま燃え落ちる故郷の橋 小泉八重子

神仏のあはひで白桃熟れゆけり 小泉八重子

羅をたためばどこか刃の匂ひ 小泉八重子

あやめ咲く最晩年を待たせをり 小泉八重子

去る人も枯野も響き易きかな 小泉八重子

月見草どこまで行つても兄妹 小泉八重子

子供靴片方冬の海へ出る 小泉八重子

野遊びの続きにありぬ養老院 小泉八重子

陪塚へ殊に薄の寄り添ひし 小泉八重子

贋物の壷を愛して風邪籠 小泉八重子

山焼のはじめは雲を見てゐたり 小泉八重子

鯖街道外れしところに花の闇 小泉八重子

朧夜の出口を探す親子かな 小泉八重子

あめつちの端へ端へと雛流す 小泉八重子

いづこまで追ひゆく残花また幻花 小泉八重子

広島忌声あげてゐる影絵たち 小泉八重子

血の色を何処にしまひし大白鳥 小泉八重子

螢来て時間を廻す水車 小泉八重子

是非もなき丈比べなり葱坊主 小泉八重子

背を押すは人か女神か除夜詣 小泉八重子

麒麟の眼見んと冬陽に近づけり 小泉八重子

わが生に結び目いくつ石蕗の道 小泉八重子

昭和史の歪みの中をちちろ虫 小泉八重子

地の怒りまだ残る地に梅の花 小泉八重子

鳰くぐり潜りて地震の神に会ふ 小泉八重子

雪達磨家が灯れば歩き出す 小泉八重子

わが声に疲れ始める梅雨蛙 小泉八重子

流星や誰も乗らざる電車過ぐ 小泉八重子

生き過ぎし者で賑はふ茸山 小泉八重子

しばらくは助走のかたち冬の濤 小泉八重子

海を見に魂までも着ぶくれて 小泉八重子

戯れ言で別れてきしが風花す 小泉八重子

幾重にも刃を蔵ひゐて白牡丹 小泉八重子

芋虫の変身の間を数へけり 小泉八重子

婚も死も酒盛りとなる夜長かな 小泉八重子

死神の素通りしたり韮雑炊 小泉八重子

神の手の触れ空蝉のふと動く 小泉八重子

病苦とは腹見せてゐる青蛙 小泉八重子

枯薄まはりを見ては更に枯れ 小泉八重子

紫陽花やわが心身に部屋いくつ 小泉八重子

桜蘂降るそれだけの非常口 小泉八重子

声出さば他人の声なり雪の原 小泉八重子

現世をはみ出して行く鴨数羽 小泉八重子

夜遊びに出てゐるらしき瓜の馬 小泉八重子

春潮をへだてて飢ゑる民族よ 小泉八重子

霧の山売れて荒縄張られけり 小泉八重子

神と人その境目の虫の闇 小泉八重子

稲妻や柩の小窓閉ぢるとき 小泉八重子

煮くづれて鯛でなくなる花の昼 小泉八重子

人の顔よく見て止まる春の蠅 小泉八重子

罠あまた隠せる山も滴れり 小泉八重子

七種を摘む間に昭和終らむと 小泉八重子

浴身を拭うてをれば火取虫 小泉八重子

大花野遠望の塔揺れ止まず 小泉八重子

羅をたためばどこか刃の匂ひ 小泉八重子

葱坊主仮の別れを繰り返し 小泉八重子

晩秋の日本に駱駝老いにけり 小泉八重子

湯が水に戻る時間を揺るる萩 小泉八重子

ひとところ破れてゐたる花の空 小泉八重子

耕しのあと歳月が追ひかける 小泉八重子

冬空へ深入りしたる風船よ 小泉八重子

吊り皮の無表情なる日雷 小泉八重子

戦争が終つてみれば罌粟坊主 小泉八重子

天と地の接点に在る木守柿 小泉八重子

桜並木一番端がさびしがる 小泉八重子

崖滴るひそかに先を争ひつ 小泉八重子

無音といふ音溜めてゐる花の陰 小泉八重子

茅花野やすぐに火を焚く男たち 小泉八重子

霧の夜を古代へ誘ふ自在鈎 小泉八重子

皿一枚こはれ一気に冬ざるる 小泉八重子

わが声の谺と知らず女郎花 小泉八重子

ぽつねんと置かれ月夜の脱衣籠 小泉八重子

天狗茸人らは山を汚しに行く 小泉八重子

寒林のそばまで潤む鳥瞰図 小泉八重子

福助の頭は空つぽや十二月 小泉八重子

虹鱒を見てそれよりは旅の人 小泉八重子

梅雨晴間見知らぬ我に逢ひにゆく 小泉八重子

死ぬときも翼広げて檻の鷲 小泉八重子

柿の種よくよく見れば眼あり 小泉八重子

ゆるやかに狂女を演じ秋扇 小泉八重子

鏡中に違ふ我ゐる湯ざめかな 小泉八重子

毛虫落つそこに始まる物語 小泉八重子

謎解きの途中牛蒡をささがきに 小泉八重子

春の家はみ出してゐる燐寸棒 小泉八重子

考へる振りして蟷螂肢上げる 小泉八重子

ときどきは夢捨てにゆく枯野原 小泉八重子

一つづつ寒灯を持つ狐塚 小泉八重子


唐辛子の色冬空が盗みたり 小泉八重子

白菊や影法師のみ老いゆける 小泉八重子

笛吹いてすぐ終るわが秋祭 小泉八重子

鳥雲に天守にてなほ爪立ちぬ 小泉八重子

某日の海峡をゆく西瓜かな 小泉八重子

鬼やらふ面をめくれど同じ貌 小泉八重子

叡山の昼の暗がり小鳥くる 小泉八重子

芒野に空描き足せば荒びけり 小泉八重子

戯れの遺書は螢のことばかり 小泉八重子

死をひとつ映し終へたる大鏡 小泉八重子

残る虻人形を刺し続けゐる 小泉八重子

人の頸音なく剃るや昼花火 小泉八重子

噴井あり烟のやうに母の住む 小泉八重子

夢に出て我が全景の紅葉狩 小泉八重子

鰡切つて白露の水を荒使ふ 小泉八重子

生きものを終りし蝉を掌に 小泉八重子

牡丹まで一歩残せり大鴉 小泉八重子

京近し川も祭もさみだるる 小泉八重子

檻を出て外も檻なり春の暮 小泉八重子

戸が一枚倒れいちめん千草原 小泉八重子

鱗一枚魚を離れず女正月 小泉八重子

歌はねば歳月くもる虎耳草 小泉八重子

石仏に紛れてをれば木の実降る 小泉八重子

野韮抜き堪袋を埋めしも 小泉八重子

ひた走る馬は賭けられ菊の前 小泉八重子

干し傘のふと飛んでゆく芒種かな 小泉八重子

餅花の百花開けば百の鬱 小泉八重子

火焔菜またも少年手を隠す 小泉八重子

敷落葉三坪は人の墓地ならむ 小泉八重子

深秋やすぐ裏返る魔除札 小泉八重子

母の杖いま籐の木に戻りけり 小泉八重子

秋の潮仏眼も水あふれしむ 小泉八重子

紙一枚漉く間に老ゆる女かな 小泉八重子

猟銃音いつしか鬼を養ひぬ 小泉八重子

患ひて檻を出る猿夕あんず 小泉八重子

過ちて紅き酒飲む雨月かな 小泉八重子

白菊や血のにじむまで牡蠣を剥く 小泉八重子

銅鏡を抜けきし一人をみなへし 小泉八重子

仮橋の最後のひとり霧となる 小泉八重子

火の島や茫々秋刀魚よみがえれ 小泉八重子

播磨路のはやばやと冷ゆ枕あり 小泉八重子

牛に紛れて姑は分け入る茸山 小泉八重子

柘榴一個老人の巣に輝けり 小泉八重子

くらがりの逆さ水煙野に放つ 小泉八重子

父の匂いの盃伏せゆく峰々に 小泉八重子

襞深き水煙を恋う春の下車 小泉八重子

翔て水煙もつとも遠い人の許へ 小泉八重子

茜雲に触れこぼれ刃の水煙は 小泉八重子

流水去り産みの匂いの鯖館 小泉八重子

脆き家やつけ火に映える根なし草 小泉八重子

鯵一片蒸し焼き色の家出の母 小泉八重子

添え乳していま燃え落ちる故郷の橋 小泉八重子

地の果は落城いろと鷹舞えり 小泉八重子

ヘヤピン沈む桜の水を口うつしに 小泉八重子

鏡割るついに熟さぬ実のために 小泉八重子

すぐ昏れる背を持ち授乳の胸をもち 小泉八重子

ある傾斜息たえだえに蝶を生む 小泉八重子

楽隊はぐれ茂みの冷たい毬拾う 小泉八重子

指切りの野道も女身も地平線 小泉八重子

蝉の羽開かず柩車行方知れぬ 小泉八重子

死者の膳整え裏切りの指しなやか 小泉八重子

沼澄めばその底のみどり児息づく 小泉八重子

一夜緑に遠く氷雨の中の媒酌 小泉八重子

嘘の壷抱いてのろのろ蝸牛 小泉八重子

福助の頭は空つぽや十二月 小泉八重子




シャリンバイ

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シャリンバイは、関西地区では、ごく普通に見られる境界植栽植物である。
常緑樹だから冬も枯れない。
奄美大島で織られる大島紬は、この車輪梅の樹皮を煮出して染める。

今は実の季節である。

日本、韓国、台湾で自生しているが、多分今ではヨーロッパでも利用されていると思う。

↑コストコの店の前庭、駐車場との境に植えこまれていた。
どこかへ行かねば見られない植物ではなく、私の家の前あたりにも普通にみることができる。
花盛りにはそれなりに見ごたえがあるが、わざわざ家の庭に植える人もないだろうと思う。

道路の分離帯や公園の垣根などとして利用されている。

1週間前にコストコへ行き、補聴器を衝動買い。コストコ価格とは言え、持ち金では買えなかった。カードはアメックスだけが利用可。年会費が高いし、ヨーロッパでも超高級店でのみ利用可で、私が利用する店ならVISAの方がより一般的なので、30年以上前に数年利用したのみで、
退会。ATMが店内にあるというので、そこで現金をおろして購入。

今日が現品の受取日だった。

元阪神タイガースのバースが来店していた。
ビーフ・ジャーキーか何かを買うと、サインが貰えて、握手してツーショットが撮れる。


14時までが「サービス時間」で、その時間になりつつあるが、長蛇の列だった。
ジャーキーの原材料が、バース牧場産なのかどうかは未確認。

店内風景

「阪神」で検索

3句

三笠配られ阪神忌のうららかに ショウちゃん

阪神忌天幕の灯は野外ミサ 小路紫峡

水減りし阪神大震災忌の花瓶 森田智子

珍しく、ショウちゃんの句が出てきた。

「タイガース」、「バース」では例句なし。

「野球」は、子規の造語(訳語)として有名だが、
「野球」では5句


銀杏散る野球少女の帽子にも 仙田洋子 雲は王冠

緑蔭の野球の球が緑蔭ヘ 鈴木洋々子

黄金の蓮へ帰る野球かな 攝津幸彦

脚冷えて立ちて観ていし孤児の野球 鈴木六林男 谷間の旗

梅雨晴や野球知らねばラヂオ消す 及川 貞

シャッター街

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シャッターを閉ざし神輿の冬籠 太田常子

休日のシャッター灼ける問屋街 西村和江

朝晩を仕切るシャッター文化の日 折原あきの



日本一広い地下街はどこか?
大坂の南も地下街は広いし、名古屋駅から栄に至る地下街も広いが、
多分大坂梅田であろうと思って調べてみた。
さらに日本一広い地下街は、世界一広い地下街であろうとも思っている。

調査結果:

大阪の北の地下街は日本一ではないし、世界一でもない。

世界最大の地下街は、カナダ・オンタリオ州トロントの地下街「PATH」である。27kmに及ぶ通路は商業地として利用されており、環状に走る地下鉄駅6駅と直接接続されている。商業地域は37万1600m²に及び、商店数だけでも約1200店舗に上る。

大阪梅田界隈の地下街は全部集めて10万㎡位である。
全部とは、
ウィキペディアによれば、
大阪市北区梅田にある地下街は、北は茶屋町近辺から、南は堂島、東は堂山町、西は福島近くまでの東西約1.1km・南北約1.1kmの範囲に複雑に広がっている。構成する主な地下街はホワイティうめだディアモール大阪ドージマ地下センター(通称:ドーチカ)などであり、これに加えて、阪急三番街や、ハービスOSAKA大阪駅前ビル大阪富国生命ビル新阪急ビルなどのビルの地下階がほぼ一体化した形の地下街として構成されている[1]。それら全てを合わせた地下街の商店数は1200店舗を超える。

東西1キロ、南北1キロ=100万㎡とすれば、大阪北が世界一ということになるが、100万㎡すべてが地下街化しているわけではない。

単独の地下街としては大阪中央区の長堀の地下街が8万㎡で日本一のようである。

尼崎市で地下店舗街があるのは、阪急電車塚口駅南側のさんさんタウン3番館の地下だけのように思う。

そこは28店舗用のスペースと通路からなっている。
「味ののれん街」 開店当初数年は居酒屋やラーメン屋はよくはやっていた。
陰りが見えたのは、グンゼ跡地に西武百貨店が開業した時である。
その西武は撤退したが、のれん街になお営業している飲食店は2軒のみである。
チェーンの居酒屋は塚口駅の南北に集積しているがこの地下街への進出は0である。

今や典型的シャッター街である。



地上階で営業している店主の一人に、地下の不振の原因を尋ねたら、賃料が高すぎるということであった。

j阪急電車の開かずの踏切の下が地下道になっているが、地下道を使う人は稀で、たいていの人、特に自転車利用の人は、根気よくバーが上がるのを待っている。
雨の日でもそうである。
地下の商店街へやむを得ず足を踏み入れる人がいないのである。

地下街に十字路のあり社会鍋 藤陵紫泡

地下街の列柱五月来たりけり 奥坂まや

食べものの地下街子規忌過ぎゆくも 秋元不死男

閉店の地下街に止む造り滝 小松世史子

地下街の列柱五月来たりけり 奥坂まや

地下街に川の流れて虫売らる 杉本寛

地下街の香を抜けきたり秋の暮 八木林之介 青霞集

地下街に鮮魚鮮菜文化の日 鷹羽狩行(1930-)

地下街を出て炎天に翅音あり 奥坂まや

地下街やはしりの牡蠣の身をゆるめ 宮津昭彦

地下街の日暮混み合ふ青目刺 神崎 忠


地区公園

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街区公園、近隣公園、地区公園といった区別は、尼崎市独自のものかと思っていたが、
伊丹市も同じ区分原理を利用しているので、これは法律上の区分原理らしいと思うようになった。
しかし普通には、こういう概念は立法府が作成する法律には登場しないものである。

都市公園法はやたら関連法令の列挙(関連付け)が多くて退屈な法だがどこにもこの3つの公園を定義する規定がない。施行細則にもないようだ。別に定めるという別規定があるのだろう。省令などで。

温室があって、緑の相談所(これまた省令上の存在と思う)があって、同時に都市緑化植物園

(これもまた省令上の存在)でもある上坂部西公園は、JR塚口駅のすぐ脇に位置しているので、
(旧塚口村を含む)立花地区の地区公園(我が家から徒歩20分)だと思っていたが、そもそも塚口駅は旧の園田村(園田村のはずれ)に立地していたので、公園は園田地区公園である。

園田村は藻川・猪名川沿岸部だから大きな公園用地が他にも確保できる。

武庫川沿いの武庫地区(旧の武庫村)にも現に広い地区公園がある上に、
これまた省令上の存在である「交通公園」があり、県から市へ管理が移行となり、
大井戸公園という地区公園以外に、地区公園クラスの緑が豊富。

立花地区(旧の立花村)にも庄下川が流れているが、1級河川とはいえ、川の両岸には家が犇めいてあまり緑地や公園には恵まれない。本流となるのは南塚口町8丁目であるが、
ここは塚口村のテリトリーではなかった。

市のHPなどを見ると、どうも立花地区の地区公園としては塚口北公園が指定されているようだ。聞き覚えのない(見覚えのない、行ったことがない感じの)公園名である。

地図を頼りに訪問。たしかにこの公園に踏み込むのは初めての感じであった。

↓公園の前に建つ豪邸。菰作り家の姓と同じ。一族の本家ではないと思う。

↑ここが「正規の入口」らしい。上の家の前を通るのは初めてではないが、ここから先に地区公園があるとは気付かなかった。

川は伊丹川である。
川の向こうに街区公園なみの児童遊具施設のある広場があるが、どうやらこれがこの地区公園の本体のようである。

↓この公園を北へ抜ける道は、人一人がやっと通れる隘路であり、その向こうに公園があるとは地の人でないと気付かない。

たしかに初めて通る道であった。
北へ抜けると、目の前はグンゼ跡地のグンゼ・タウンの伊丹川両岸の広場である。

今日の塚口地区の近隣公園

家から公園まで徒歩2分未満。途中で富松川の橋を渡る。橋の縁にあった松の木が2本から1本に減っている。いつ伐採したのか知らなかった。

堀ばたや屋敷屋敷の煤佛 会津八一

数へ来ぬ屋敷屋敷の梅柳 松尾芭蕉

妓を拉す二重廻しや梅屋敷 夏目漱石

薩摩屋敷床下高し年木積む 大立しづ

煤払ふ忍者屋敷の忍者たち 八鳥泗静

藍の花長者屋敷の井戸暗し 大頭美代子

本阿弥のここら野屋敷秋海棠 水谷芳子

錦木や砂揺りて湧く水屋敷 廣瀬釣仙

義兄弟銀木犀の屋敷にて 飯島晴子

満月を上げ白壁の蝋屋敷 清水美和子

紅花を挿して染師の屋敷神 中村翠湖

武家屋敷暗しくらしと雨蛙 堀口星眠

武家屋敷氷菓を舐めて見てまはる 塩川雄三

巣雀や皆奥くらき武家屋敷 皆川白陀

十郎兵衛屋敷に植ゑて藍の苗 林俊子

柘榴の実蒼天に爆ぜ武家屋敷 水原春郎

早梅や御室の里の売屋敷 与謝蕪村

解体の屋敷見てゐる冬帽子 斉藤美知子

地虫鳴く屋敷神あるあたりより 大河原一石

青桐や塀めぐらせて武家屋敷 佐藤信子

雪解けの雫の音や蔵屋敷 原島悦子

ことさらに唐人屋敷初霞 蕪 村

細杷(こまざらい)するたびほそる屋敷神 津根元潮

能始観世屋敷に大鼓 長山順子

朴落葉無念の声す下屋敷 芳賀雅子

早梅や御室の里の売屋敷 蕪村

秋茄子や嫁二人住む屋敷うち 小川ハナ子

桐一葉麹の匂う蔵屋敷 下沢とも子

秋霖の裏にも出口屋敷森 松永浮堂

半夏生草真田屋敷に咲き馴染む 河又一爽

花桐の濃き影を置く蔵屋敷 赤井淳子

お化け屋敷呼び込み婆の簡単服(アッパッパ) 加藤晴美

天上天下お化け屋敷の出入口 宮崎二健

夏炉置く上時国家屋敷守る 松村小夜子

知覧茶の一番茶出て武家屋敷 掘越鈴子

十郎兵衛屋敷に植ゑて藍の苗 林 俊子

門松や板戸艶もつ武家屋敷 上部晴子

屏風絵の花鳥も古りぬ武家屋敷 松本 美簾

守宮鳴く隠し二階や武家屋敷 川勝 ミヨ

回想のほたるが灯る藍屋敷 石原義輝

荒れざまの竹の秋なり屋敷神 遠藤喜久女

紅蔵の屋敷つらぬく雪解川 粕谷 澄

秋うらら水かげろふの水屋敷 広瀬釣仙

切支丹屋敷のうらの夏木立 鳥井信行

床下に緋鯉を飼つて鯉屋敷 前田まさを

初鼓観世屋敷の庭ふかく 中火臣

水仙や藪の付きたる売屋敷 浪化

屋敷から梅もらふたり年忘 暁台

犬蓼の穂に出顔や荒屋敷 宝馬

鶯やはね橋かくる藪屋敷 成美

身をさらす屋敷蛇をり雨らしや 中村田人

露けしや男手絶えし屋敷畑 西村和子 かりそめならず

柘榴屋敷で馬丁を責めし未亡人 筑紫磐井 婆伽梵

釣堀へぬくるみちあり梅屋敷 大場白水郎

屋敷田に光りこぼして初雀 影島智子

船津屋の屋敷稲荷に初鰹 田中英子

身に沁むや忍者屋敷へ人流れ 関森勝夫

ぎしぎしや無用の用の屋敷裏 荒井正隆

毛虫焼く火を振り没落屋敷なり 佐野美智

水仙や薮の付いたる売屋敷 浪化 (1671-1703)

屋敷の塀のはづれの祭かな 道芝 久保田万太郎

武家屋敷めきて宿屋や百日紅 高濱虚子

更闌けて蝙蝠飛ぶや屋敷町 寺田寅彦

北側はとざせし屋敷枇杷の花 田中冬二 俳句拾遺

北側はとざせし屋敷枇杷の花 田中冬二 麦ほこり

牛飼ひて春の欅を屋敷内 山本洋子

鵙なくや大工飯食ふ下屋敷 泉鏡花

お化屋敷は落書白き夕桜 永井龍男

ゆれるゆれると春の祭の屋敷神 原田喬

麦踏や角を正しく屋敷林 辻桃子

火石榴や屋敷を浮かす夕明り 内田百間

屋敷でうつとおもほゆ砧かな 久保田万太郎 草の丈

屋敷の塀のはづれの祭かな 久保田万太郎 草の丈

連翹や黄母衣の衆の屋敷町 炭 太祇 太祇句選

物売を梅からよぶや下屋敷 一茶 ■文化八年辛未(四十九歳)

円遊の鼻ばかりなり梅屋敷 夏目漱石 明治三十二年

円遊の鼻ばかりなり梅屋敷 夏目漱石 明治三十二年

屋敷や野分に残る柿の蔕 野童 俳諧撰集「藤の実」

さぞ砧孫六やしき志津屋敷 其角 俳諧撰集「藤の実」

跡さきを木戸で締めたる組屋敷 山店 芭蕉庵小文庫

梅つばき是れにも吝(しは)し屋敷守 山店 芭蕉庵小文庫

渋柿はかみのかたさよ明屋敷 丈草 芭蕉庵小文庫

闕所屋敷夕守けりかんこ鳥 昌夏 選集「板東太郎」

かぞへ来ぬ屋敷々々の梅柳 翁 正 月 月別句集「韻塞」

若竹も塩硝くさし組屋敷 中村史邦

花罌粟や千葉梶原が屋敷やぶ 中村史邦

かなかなや欅屋敷と称へ古り 松本たかし

さぞ砧孫六やしき志津屋敷 榎本其角

町医師や屋敷方より駒迎へ 松尾芭蕉

早梅や御室の里の賣屋敷 蕪村 冬之部 ■ 泰里が東武に歸を送る

鴬に圃すこしある屋敷かな 加舎白雄

紅裏は屋敷女中歟遠雉子 高井几董

変化住む屋敷もらひて冬籠 與謝蕪村

早梅や御室の里の売屋敷 與謝蕪村

町医者や屋敷方より駒迎へ 松尾芭蕉

水仙や薮の付いたる売屋敷 浪化


対角線

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我が家から対角線上の家。敷地100坪。9月4日↑
この界隈ではもっとも緑の多い家だった。

↓3月30日
家から外へ出て20歩くらいでこの桜の下へたどり着けるので、
子供たちの入学式の日などにはこの桜を「借りて」なんども
記念写真を撮影した。


今日の画像。

さくらも大きく枝を道にはみ出していたが、枝にぶつかる人もあって、かなり前にはみ出た部分は切り落とされていた。

数日前までは、夜になると玄関灯が点いていたが、それもなくなった。


西隣の家。
表札は外されたが、一日中門灯が点いている。

門灯を消す立冬の暁の色 村山砂田男

秩父夜祭門灯うすき猪鍋屋 町 淑子

門灯の低く灯りぬ秋出水 日野草城

藤房の中に門灯点りけり 深見けん二

父恋ふや門灯とどく限り稲架 影島智子

門灯の早く点きたる冬木かな 永井龍男

梅白し門灯に通夜明けし家 中拓夫

門灯の寒く別れは瞳もて言ふ 原裕 投

売り出し

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シクラメン・ポインセチア売出日の公園
通勤時間帯が終わったころの朝の公園にはめったに来ない。

今の季節のこの公園のシンボルは↓のメタセコイア

メタセコイアは神経の束冬澄めり 小檜山繁子


今年は行列は20人ほどであったとか?
私が駆け付けた頃には、人影まばら。
歩いているのは、名札をぶら下げた公園のボランティアか職員のみ。
温室の中へ入ってみると数人の物色者がいたが、閑散としている。
シクラメンとポインセチアの中鉢のものだけがずらりと売れ残っている。

あまり多数の人が押しかけて来てはさばき切れない、
あるいは、
官業が民業を押しのけてはいけないという配慮からか、
日頃公園を利用していない人には、
余り知られていない行事である。

シクラメンを1鉢抱えて購入。
見覚えのある花柄であり、ブログでも姿を紹介したものだが、
品種名は忘れている。

30分以上前に購入活動をやめたワイフの購入分を合わせて車に乗せて帰宅。



買ったのは七鉢。

シクラメンの大鉢物は、今年は3500円で販売したらしいが、1つも残っていなかった。

シクラメンシクラメンのみかなしけれ 中村汀女

シクラメン父で終りし写真館 倉田弘子

シクラメン村の床屋は碁会所に 尾崎道草

生き死にの手術のあとやシクラメン 石田小坡

シクラメン置いて脱兎のごと去りぬ 鈴木栄子

燃ゆるてふ白のあるなりシクラメン 芳野年茂恵

シクラメン花のうれひを葉にわかち 久保田万太郎

花びらにチョークの粉やシクラメン 山下 渓水

看護婦となりて帰郷やシクラメン 工藤 芳久

奔放な花びら放ちシクラメン 澤木欣一

シクラメン虚飾のことば風に乗る 鷲谷七菜子

なんと透明な林シクラメン投げる 前田保子

旗捲きしごとく蕾やシクラメン 大橋敦子

お転婆な花片を持つシクラメン 田川飛旅子 『植樹祭』

恋文は短かきがよしシクラメン 成瀬桜桃子

シクラメン声の明かるき電話口 浅見咲香衣

シクラメン花のうれひを葉にわかち 久保田万太郎

シクラメン風吹き過ぎる街の角 飯田龍太

シクラメン日向ひなたと追ひて置く 田口登志

出荷きまる万の炎のシクラメン 西村和江

シクラメン虚飾のことば風に乗る 鷲谷七菜子

靴脱石に主客の靴とシクラメン 富安風生

心音のことに響く夜シクラメン 石山惠子

ひと言でいえばいいひとシクラメン 石口光子

磨硝子ごしの紅白シクラメン 山中弘通

シクラメン死は早朝に鳴り響く 夏石番矢

燃えつきし焔の形シクラメン 田川飛旅子

シクラメン炎立つくらさの中にあり 渡邊千枝子

シクラメン翻り咲き吾子歩む 岡田 貞峰

シクラメンをみなの恋の篝とも 小元 洋子

子の部屋に恋の予感のシクラメン 氏家さち子

足しげく訪ふ花温室やシクラメン 遠藤 はつ

シクラメン妻を映画に誘ひける 楡井 秀孝

告白に聞き耳立つるシクラメン 児玉 寛幸

シクラメン虚飾のことば風に乗る 鷲谷七菜子

恋文は短かきがよしシクラメン 成瀬桜桃子

抜けてゆく風邪に豪華なシクラメン 安藤恵子

靴脱に主客の靴とシクラメン 富安風生

咳入るや涙にくもるシクラメン 臼田亜浪

シクラメンたばこを消して立つ女 京極杞陽

シクラメン雪のまどべにしづかなり 久保田万太郎

赤置いて白華やげりシクラメン 今橋眞理子

片づけし部屋とりすましシクラメン 嶋田摩耶子

所詮人独りで病みてシクラメン 嶋田摩耶子

シクラメンかかへて未婚にはあらず 西村和子 夏帽子

食卓の下の日溜りシクラメン 西村和子 夏帽子

シクラメンうたふごとくに並びをり 西村和子 夏帽子

シクラメン人を許さば宥されむ 日野晏子

燃えつきし焔の形シクラメン 田川飛旅子

夜汽車待ちおり一鉢のシクラメン 対馬康子 純情

シクラメン石は武装のためにあり 対馬康子 純情

性格が八百屋お七でシクラメン 京極杞陽

シクラメンうたふごとくに並びをり 西村和子

紀伊国屋書店にて待つシクラメン 高澤晶子

うつくしきうなじ蕾のシクラメン 片山由美子

八方に聞耳立ててシクラメン 菊池麻風

シクラメンこの子この子と犬のこと 川村紫陽

シクラメン咲き病牀の眸澄める 石原舟月

性格が八百屋お七でシクラメン 京極杞陽(きよう)(1908-81)

部屋のことすべて鏡にシクラメン 中村汀女

シクラメンうたふごとくに並びをり 西村和子

シクラメン白馥郁と忌日過ぐ 古賀まり子

いとけなき蕾かくれてシクラメン 行方克巳

シクラメン鏡は姥たちの古巣 栗林千津

焔の形でやうやく古ぶシクラメン 田川飛旅子

シクラメン花のうれひを葉にわかち 久保田万太郎 草の丈

シクラメン雪のまどべにしづかなり 久保田万太郎 草の丈

シクラメンおぼろ哀しきしろさかな 久保田万太郎 流寓抄

咳入るや涙にくもるシクラメン 臼田亞浪 定本亜浪句集

シクラメン何支うべくこぞリ咲く 楠本憲吉

浴室に人の影さすシクラメン 横山白虹

シクラメンたばこを消して立つ女 京極杞陽

紅をたてによこにとシクラメン 京極杞陽

燃えつきし焔の形シクラメン 田川飛旅子

シクラメンたばこを消して立つ女 京極杞陽

読み覚えのある句が何句かある。
去年もシクラメンで検索紹介しているかも。

旧作(ただし一部改作)

次ぎつぎと蕾湧くシクラメン恋は

パーティ

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はじけたる無花果の実を食べておる顔いっぱいがキリスト様だ 山崎方代 迦葉
キリストの生きをりし世を思はしめ無花果の葉に蠅が群れゐる 佐藤佐太郎

「翌日、彼らがベタニヤから出かけて来た時、イエスは空腹を覚えられた。そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからご覧になって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当たらなかった。いちじくの季節でなかったからである。そこで、イエスはその木に向かって、『今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように』と言われた。弟子達はこれを聞いていた。・・・朝早く道を通っていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た」(マルコ11:12~20)。

イチジクの実は十字に割れる。
しかし上記の聖書の文の解説は難しい。

↑「すら懐かしい」という言葉を知らなかった。


パーティ会場の外




浦上のパウロの墓のすひかづら 内堀としを

麦の穂を壺に挿し読むマルコ伝 田川飛旅子 『外套』

地図にて辿るパウロの行路秋薊 宮脇白夜

冬草やパウロと記す父の墓 山下喜代子

ペトロを詠った句は見つからなかった。

キリストで検索。

秘宝キリスト拝み出づれば鶲鳴く 堀口星眠

からすはキリスト青の彼方に煙る 阪口涯子

山又山夙に赤きはキリストか 阿部鬼九男

キリストに肖る日曜日の猟夫 阿部娘子

蒼白のキリスト水餅に触りて 小川双々子

キリストのうしろ白菜真二つ 波多野爽波 『一筆』

キリストを着よと手編のジャケツ賜ぶ 田川飛旅子 『使徒の眼』

キリストを着よとの勧め薬の日 田川飛旅子 『山法師』

秋の田をくる黒傘のキリストは 田川飛旅子 『邯鄲』

キリストといふ語を吃り祈る秋 田川飛旅子 『植樹祭』

屠殺場の寒さキリスト教の鐘 加倉井秋を 『真名井』

鼻長きキリスト吾は水洟かむ 山口誓子

案山子担いでゆくはキリストめく男 火村卓造

ここに立つ受難キリスト葡萄摘 山口青邨

かげろひてキリストの髭邪魔になる 仙田洋子 橋のあなたに

共に雑炊喰するキリスト生れよかし 中村草田男

キリストに挿せし向日葵のみ新た 山口青邨

七月や銀のキリスト石の壁 大野林火

凧の絵にルオーのキリスト描かばや 山口青邨

秋の田をくる黒傘のキリストは 飛旅子

露と置く野のキリストの足の釘 有馬朗人

冬の虹キリストの骨釈迦の骨 和田耕三郎

釈迦は富みキリスト貧し柚子一顆 小川軽舟

キリストの鬚生やしたり毛蟹売り 寺田京子

麦秋やよごれて優し絵のキリスト 櫛原希伊子

キリストを借景と為す秋の暮 永田耕衣(1900-97)

初蝶とわたしとイエス・キリストと 津田清子

キリストが売られし日なり星朧 古賀まり子

寒い夜ののっぽキリストかもしれぬ 宇多喜代子

秋の田をくる黒傘のキリストは 田川飛旅子

キリストといふ語を吃り祈る秋 田川飛旅子

凍道にキリスト問ふ子恐れしか 山田みづえ 忘

露を置く野のキリストの足の釘 有馬朗人 知命

共に雑炊食するキリスト生れよかし 中村草田男

聖菓切るキリストのこと何も知らず 山口波津女

キリストを借景と為す秋の暮 永田耕衣



ボリジ

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近所の皇帝ダリア。
まだ咲いている、というより手前の数株は12月になってやっと咲き始めた。


その花の下

この花も今の時期には枯れているはずだが、まさ咲いている。
ボリジ(ルリジサ)

ウィキペディア:

ルリジサ(瑠璃苣、学名 Borago officinalis)とは、ムラサキ科の植物で、ハーブの一種。和名はルリヂサルリヂシャともする。チサ(苣)はレタスキク科)の意味。

英名はボリジ Borage(ポリジは誤り)。これは属名にもなったラテン語名ボラゴBorage に由来し、これはさらにアラブ語で「汗の父」(発汗作用を表す)を意味する語に由来する[1]。あるいは一説に、イタリア語フランス語で「綿毛」を意味する単語「burra」に由来する。

原産地は南ヨーロッパ。


18ポにすると、やっと「ボ」と「ポ」の判別が可能。

レタス噛む寝起き一枚のシャツ纏ひ 堀 風祭子

巻き固きレタスほぐして夕長し 岡本 眸

本能やレタスは音楽が好きで 中村ヨシオ

月光の蒼く滴るレタス畑 久松久子

レタス前線信濃ちらほら甲斐が旬 野宮猛夫

郭公や温室より移すレタス苗 久田 澄子

布白くレタスのみどり玻璃に透く 小柳佐武郎

レタス喰む全身青虫となって東北 岸本マチ子

レタス畑水色昼寝の農婦らに 羽部洞然

レタス沢山洗い遅日の手がきれい 池田澄子

自愛は呪語か レタスの翼はりはり噛み 伊丹三樹彦 樹冠




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