富松神社の松の字が、木かんむりに公と記されている。
IMFパッドで探したらあった。 枩
富松神社の巨大絵馬が新年のものに変わったという新聞記事を見て
神社へでかけた。
絵馬は尼崎信用金庫の寄贈品のよう。毎年ではないと思う。
地元の郵便局の寄進品であった時もある。
なにか行事があると尼崎選挙区選出の公明党議員までが登壇する。
市長もこまめで、年に数回この神社へ式典参加のためにやってくる。
富松神社由緒
≪お社の説明・御由緒≫
富松神社は、約1250年前に僧の行基が人々を指導して、猪名野笹原を開拓し、稲作を進めるとともに、富松の里の守り神として神様と仏様をおまつりしたのが始まりと伝えられています。
平安時代には藤原摂関家の荘園を守る鎮守の社でした。戦国時代には数度の兵火にかかり社殿や堂塔は焼失し、面影はとどめませんが、樹木などに微かに昔時が偲ばれます。江戸時代に至り、尼崎藩主松平遠江守公厄災除祈願所として特別の庇護を受け盛況を誇りました。大東亜戦争敗戦後は社会変化により神社の基盤は崩れましたが、人々のふるさと富松への信仰心は途切れることなく、里の人々に大切にされ、今日も神様への感謝のお祭りが続いています。 御本殿は1636年に再建されたもので、昭和43年に兵庫県重要文化財に指定されました。 境内の大きな楠は樹齢500年と言われています。
↑この種の由緒は尼崎市内どの神社でも見られるものではない。
明らかに執筆者の現代的な考察が付け加わっている。
惜しむらくは、掲示(執筆)年を明示すべきであった。
掲示文では「奈良時代(約1200年前)」となっているが、
上に紹介した神社案内(由緒)では「1250年前」になっている。
奈良時代とは西暦710年~793年を指すのであろう。
そのうち行基(668~749) (普通には「ぎょうき」。しかしここ伊丹・尼崎では「ぎょうぎ」)が活躍し
猪名野笹原を開墾したのは、730年より前であろう。もっと時期を限定すれば、717年に僧尼令違反で処分される
以前であろう。そうならば奈良時代の初期である。
「約」なしで時期を設定するために便宜的に715年頃とすれば、今から1300年前のことである。
行基は732年には、大阪で狭山池を造成し、以後は国家から尊称を与えられ、東大寺の造営に従事する。
富松神社は、710年代に行基が猪名野地方に造営した23ケ坊の一つだという。
この23ケ坊とは何か?
行基開院の寺院は40ヶ寺以上存在する。
アジサイ寺といわれる美作の大聖寺もその中の一つであり、
今もなお存在する昆陽寺(こんようじ こやでら)もまたその一つである。
そういった院(=坊)の一つが富松寺であったのか?
ではなぜ故にそこにスサノオが祀られるのか?
素盞之嗚ではなく、素盞嗚薬師(伝)とはなになのか?
昆陽寺は行基開院の49寺の一つとされる。
元は昆陽施院であった。本尊は行基自身が製作したとされる薬師如来である。
今ある山門は江戸時代に再建されたものであるが、第2門で、第一門は2キロ南の富松神社付近にあったということである。
富松神社は昆陽寺の外門跡であり、薬師如来を祀る本堂への参道の入り口跡ではなかったか。
昆陽寺は733年、聖武天皇の勅願寺になり、それ以降伽藍が整備され、平安時代になり、小屋庄として整備され始めた。その時、開墾用に利用されたのが、史上初の多目的ダムとも呼ばれる、これまた行基が開発造成の指揮をとった昆陽池であった。
織田信長と荒木村重の戦い(有岡城の戦)で、織田信長に焼き払われたため、
第1門跡は荒れ果てたであろうが、大阪地方から昆陽寺(行基さん)への参拝道の一部として
第1門から第2門へ至る道は江戸時代にも利用され、第1門跡に神社が、多分東富松村の氏神として整備されたのではなかろうか?
その過程のどこかで、この地域一帯で祀られている素盞嗚さんがごく自然に(真言宗は真言密教を通じて容易に神道の神を受け入れた)氏神の地位に祭り上げられたのではないかと思う。
あるいは、この地域が荘園化した後に、藤原氏の守護神春日大社の
分社が影響したかもしれない。
素盞嗚命と薬師如来が結合して素盞嗚薬師などという変てこな命(みこと=尊)とも仏ともいえぬ表現が文書の中に残ったかも。
↑の絵馬に登場する童子は、茨木童子であろう。
茨木童子(いばらきどうじ)は、平安時代に大江山を本拠に京都を荒らし回ったとされる「鬼」の一人。茨城童子と書くこともある。酒呑童子(しゅてんどうじ)の最も重要な家来であった。
酒呑童子の出生地にはほかにも伊吹山麓など有力な説があるが、茨木童子の出生地についても兵庫県尼崎市や大阪府茨木市の説もあり、『摂津名所図会』・『摂陽研説』・『摂陽群談』などの資料ではこれらを採っている。1701年刊行の『摂陽群談』では、 摂津国の富松の里(現・兵庫県尼崎市)で生まれ、茨木の里(茨木市)に産着のまま捨てられていたところを酒呑童子に拾われ茨木の名をつけて養われたとある。
また『摂陽研説』では、茨木童子は川邊郡留松村(富松と同じく尼崎市の一部)の土民の子であったが、生まれながらに牙が生え、髪が長く、眼光があって成人以上に力があったので、一族はこの子を怖れて島下郡茨木村の辺りに捨て、酒呑童子に拾われたという。
この童子の記念祭?をやっているのは西富松神社である。
そこの案内より
「茨木童子」という鬼が富松の里で生まれたと伝えられています。昔、富松の里の村人夫婦に子どもが生まれました。
ところがこの赤ん坊は生まれたばかりなのに毛は生え揃い、目は鋭く光り、口には牙までありました。両親はこの異様な姿を恐れて、考え悩んだ末、大阪の茨木で子どもを捨てることにしました。この子を拾い育てたのが京都で大暴れしていた鬼「酒吞童子」で、我が子のように育て、一番の子分にしました。ある時、茨木童子は故郷の両親が病気にふせっていることを知り、見舞いに富松の里へ戻りました。両親は驚きのあまり病気も治り「よく帰ってきてくれた」と童子を引き入れダンゴを食べさせてもてなしました。(1701年『摂陽群談』より)
この神社の管理は目下は富松神社が行っている。
よって富松神社の祭にもこの茨木童子が登場する。
絵馬の中で、茨木童子が2016年の干支の猿さんに渡そうとしているのは富松一寸豆であろう。
解説文の中にある樹齢500年の楠
織田信長の焼き討ちに生き残ったことになる。
本殿前の狛犬
大坂住 何某などという名を秘した願主を彫ったものは他にはない。
文化7年(1810年)庚午8月に寄進されている。
↑富松神社遠望
イチョウの木の横の大屋根は寺のもの。神社はその奥の杜のなかにある。
この角度から写すと田園の中にあるように見えるが
背後はマンション街である。
この道筋に立っている道標。180度回転して配置されているので、
右、すなわち左へ行けばすぐ富松神社の鳥居に出会う。
そして行基さんこと、昆陽寺へ行く。
しかしこの道標は、東へ100メートルほどのところに設置されていたものであるが、そこから左への道は津門中道とはいえ、現在では畦道よりも狭いほどのよそ者が通ろうとはしない道である。
しかしその道を行くと、現在の富松神社の参道の入口に出会う。
参道入り口の両端には享保年間に寄進された常夜燈が立っている。
参道の地所の寄贈者の名が記されている記念碑。
これほど立派な参道を構える神社は、尼崎市内には他にない。
(全66社中、47社を訪問した上での結論。)
私の説では、この常夜燈が立っている前の道が津門中道である。
1週間ほど前にこの神社に来た時、宮司さんの息子の禰宜さんが境内におられたので、話しかけてこのことを話題にしたが、
禰宜さんは「津門中道」をご存じなかった。
すぐ近くに果樹園がある。かつてはイチジクを育てていた。
柑橘類はなんであろうか?手を伸ばせば実に届くので、手で触って
、少し近くに引き寄せたら、実が取れてしまった。
八朔である。家に持ち帰って剥いて食べてみた。
二房目には手が伸びないほど酸っぱかった。
↑空き店舗の入口を覆ってしまうほどに繁茂している。フィカス・プミラ。
↓ハナカンザシ
境内が一日赤き達磨市 池谷 晃
境内のぬかるみ神の発ちしあと 八染藍子
朝顔や境内浅く鬼子母神 石川桂郎
山芋を掘る境内を恐れずに 橋本 對楠
境内も宮居も小さき生姜市 小林 たか子
境内を掃いて水無月祓ひ待つ 井上 たか女
境内の松の林の松の花 香下 純公
嚏して境内広き一の宮 上井みどり
埃立ちやすき境内わらび餅 後藤比奈夫
境内に俗家四五戸や柿紅葉 高浜虚子
境内に椎の実の降るひとところ 渋川 絢
早春の寺の境内庭師居る 土屋孝子
初風や雪の境内日のぬくく 徳永山冬子
弓神事待つ境内の大焚火 赤谷ちか子
境内は梅ばかりなり涅槃西風 加藤知世子
境内に山坂ありて梅早し 有働 亨
湯豆腐に境内の闇滞り 桂樟蹊子
境内か否かを知らずさねかづら 森田峠
境内に入りて風なし初詣 田中王城
初風や雪の境内日のぬくゝ 徳永山冬子
境内に大根懸けし楓あり 田中裕明 山信
境内の端より川床の端見ゆる 森田峠
境内をよこぎつてをり道をしへ 木下野生
初風や雪の境内日のぬくゝ 徳永山冬子
杉落葉して境内の広さかな 高濱虚子
境内に東京の土朝顔市 橋本美代子
境内に糞を落して囀れり 前田普羅
利用させてもらっている「俳句検索」に高浜虚子の句は何句収録されているか、高浜」虚子で検索。ダブりもあるだろうが、3098句と出てきた。高浜年尾、638句。稲畑汀子916句、稲畑広太郎 0、改めて
稲畑廣太郎で検索、249句。
2003年が最終更新なので、2003年、今から10数年前の時点での4世代の貢献度を示しているかも。