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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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名月姫

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アブチロン=チロリアンランプ
もっとよく見かけるのは耐寒性のあるタイプで見事にランプ型をしている。



能勢に名月峠という名の峠があるそうである。


ウィキペディア:

名月峠(めいげつとうげ)は、大阪府豊能郡能勢町にある。標高約270m。


概要

暮坂峠・逢坂峠・坂井峠と共に、能勢町中部を南北に貫く山地にかかる峠の一つ。竜王山(標高462m)の北側を越える。トンネルは無く、大阪府道4号茨木能勢線が東西に切通しで抜ける。

伝説

昔、摂津国御園荘(現在の尼崎市)に住む領主・三松国春が子を授かろうと大日如来に願をかけたところ、仲秋の名月の夜に娘が生まれたため、名月姫と名付けた。美しく育った姫は能勢家包に嫁ぐこととなり、能勢大里の地へやって来た。

能勢氏の許で幸せに暮らしていた名月姫だが、姫の美貌を聞きつけた平清盛が横恋慕し、能勢氏から姫を引き離そうとした。名月姫は悲嘆に暮れつつも清盛の権勢には抗し難く、能勢を去り清盛の待つ福原へ向かったが、大里から程近いこの峠で能勢氏への操を守り自害した。

姫の亡骸を祀った墓所が今も峠近くに残る。婚礼の行列や「結婚」に関するクルマはこの峠を通らない不文律があるという。


尼崎市尾浜八幡神社に残る伝説とはやや(かなり?)内容が異なる。

民話というものは、書かれたものではなく、一つの完結した話にまとまるまでには、
何人かのその時代、その地方における伝承者が、記憶違いや、話の筋を一貫させるためにの挿入や削除を経て、かなり遅れて文章化されるものであろう。

ある(社会)制度が前提になってその話は成り立つのであるが、話しかける対象が、その制度に馴染んでいなければ、その人たちに理解しやすいように、新しい時代の制度の中へ適用させるために話の前提を置きかえる「工夫」も必要であろう。

歴史的事実であることを強調するためには、その当時のその地域を越えて有名なそういう行動があってもおかしくない人物の名を借りることもあろう。

行基菩薩や弘法大師にかかわる話の多くは、そういうかたちで、本来は他の人の業績にすべきものが、その人が信奉していた、あるいはその人の師であった行基や空海の名とともに加筆修正虚飾されて伝わっているのであろう。



御園荘とはなにか?何十町歩(何百町歩?)かのまとまった区画があり、そこに領主がいたような気配であるが、この辺も民話(伝承)が固まりつつあった時代の現地(能勢)では多田荘などが念頭にあったからであろう。

尾浜にも御園ないし橘御園はあったようであるが、現地では事情が分かっているので領主などという名ではなく、豪族として三松国春が登場する。

(立花村のたちばなもまたこの柑橘類を示す橘から連想して
六つの村の合併に際して、その六つの村に関係があったがどの村の名にも関係がなかった
たちばなを「立花」という新しい表記(画数が少なく書きやすい、覚えやすい)で、採用されたものと思う。)



宝篋印塔こつと打つたる椿の実 野澤節子

名月姫の墓とは言えない宝篋印塔の左横、廃材が積まれている上に「名月」だけの文字が見える。↑ ↓

この画像は以前にも紹介したことがあるが、これを「道標」として紹介するのは今回が初めて。
市内残存の30基の道標を画像紹介し、ガイドブックによりそこに記されている文字を示したが、
上のような状態という事情だけではなく、文字はよく読めない。

「名月姫遺蹟 従是西三丁
         在八幡宮境内」

と記されている由。(東3丁の産業道路沿いにたっていたのを1931年に境内へ移設、1945年焼夷弾により半折(「遺」と「蹟」の間で)したとのこと。

市内に残存道標が30基あるということを知ってから約2か月。これでそのすべての現況を示したことになる。

ただし私は、さらに平成25年になって、さらに3基の新しい「有馬道」を示す道標が久々知周辺に建てられたことを確認した。その数が3基であるかどうかは未確認。
設置者である小田会なるものと連絡が取れないので。




ミゾソバ

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↑ミゾソバ(溝蕎麦)である。
↓これもミゾソバだと思う。ママコノシリヌグイではないと思う。
継子の尻拭いという惨い名は、とげとげしているからそう呼ばれる。




ミゾソバ
(溝蕎麦、学名 Polygonum thunbergii または Persicaria thunbergii )は、タデ科タデ属 (Polygonum) またはイヌタデ属(Persicaria) に分類される一年生草本植物である。


分布

アジア日本朝鮮半島中国)に分布する。

日本では北海道本州四国九州の小川沿いや沼沢地、湖岸などに分布する。 特に稲作地帯などでコンクリート護岸化されていない用水路脇など、水が豊かで栄養価が高めの場所に群生していることが多い。

今でこそ護岸をコンクリートで固められてしまった場合が多いが、かつて日本各地で水田が見られた頃は、土盛りされていた用水路、小川などの縁に普通に生えており、その見た目が蕎麦に似ていることが和名の由来になっている。

特徴

水辺などで 30~100cm ほどに生長し、根元で枝分かれして勢力を拡げ群生する。匍匐茎に閉鎖花をつけ種子を稔らせる場合もあるとされる[1]。また茎には下向きに刺があり、他の植物等に絡みついて伸びることがある。

葉は互生し、形が牛の額にも見えることからウシノヒタイ(牛の額)と呼ばれることもある。

花期は晩夏から秋にかけてで、茎の先端で枝分かれした先に、直径 4~ 7mm ほどで、根元が白く先端が薄紅色の多数の花を咲かせる。 なお、他のタデ科植物と同様に花弁に見えるものはである。


・・・
例によってウィキさん。復習のつもりである。
花期が晩夏以降であることを確認。
庄下川沿いは今が満開。

わたし、オオアレチノギク(アレチノギクはあまり見られなくなっているらしい。私、小ぶりのオオアレチノギクを「アレチノギク」と認定していた)とヒメムカシヨモギの区別がまだ自信ない。

おなじく白い花を水辺で咲かせている草をなべてミゾソバだと思っていた。
どうして今年のミゾソバは白いのかと思っていたが、どうもそれはタカサブロウのようである。

よく見るとタカサブロウはミゾソバよりさらに水辺に近いところに
あるいは半身が水に浸かってしまうようなところに生えている。

↓は水辺に近いところに群生のミゾソバ

しかしよくよく見ると、紅色がほとんど目立たないミゾソバもあるように思う。↓

↓画像の上半分にはタカサブロウが、下の方にはミゾソバが写っている(はず)。
こういう混在も珍しくない。

タカサブロウの名を知ったときは、葉がもっと細くとがったアメリカタカサブロウだったので、
この夏12歳児や7歳児を連れて川渕を覗いた時も、白いミゾソバが実はミゾソバではなく、
他の種類の草(タカサブロウ)だとは思い当たらなかった。

蓼の花は今は少し色の衰えが目立つので、庄下川の花はミゾソバと盛りを過ぎたタカサブロウだけが目立つ。

賭事はやまひ溝蕎麦またぎゆく 中原道夫

溝蕎麦の花引き抜きて測量す 広瀬恵美

溝蕎麦は水の際より咲きそめし 高浜年尾

溝蕎麦の溝よりあふれ出て咲ける 江藤 都月

造成の地に溝蕎麦の居を構ふ 三輪田育夫

シンバルの音溝蕎麦にとどきけり 安藤綾子

溝蕎麦や遅れがちなる二人連 加藤知子


溝蕎麦や多摩の小流ここに又 高浜虚子

溝蕎麦や足摺へ向く遍路みち 中平泰作

溝蕎麦や峡田乏しき水をひき 平松草太

いえづとの溝蕎麦の花こぼるるよ 中村わさび

溝蕎麦にだんだん水音暗くなり 諸角せつ子

溝蕎麦に明朝体の雨降れり 幅田信一

溝蕎麦や土橋明るく田をつなぐ 三輪千代子

溝蕎麦の鳥の脚よりなほ繊き 永野孫柳

町中に溝蕎麦の堰く流あり 高浜年尾

高三郎の例句はなかった。

蓼の花御寺へあそびながらゆく 田中裕明 花間一壺

ざりがにに乗るざりがにや蓼の花 藤田湘子 去来の花

蓼の花揺れゐて海の夕明り 澤村昭代

減りもせず稗田百戸や蓼の花 水谷芳子

越の海照りかげりして蓼の花 舘岡沙緻

殉教の島に温泉が湧く蓼の花 大島民郎

蓼の花踏みしだき通る猫車 新谷ひろし

霧雫ふくらみにけり蓼の花 杉若 輝枝

触るゝ手にこぼるゝ蓼の花重し 山田 無吾

子に低く傘さしかくる蓼の花 林 翔

二三日なまけごころや蓼の花 鈴木真砂女

母見舞ふ心となりぬ蓼の花 藤田湘子

木天蓼の花散る岬汐仏 白石みや

貧しさの果もなかりし蓼の花 加藤楸邨

門前に舟繋ぎけり蓼の花 正岡子規

水跡の水なし川や蓼の花 小玉真佐子

老人に童心のふと蓼の花 飯田龍太

水が水と出合ふ愉しさ蓼の花 鈴木鷹夫

蓼の花静養と言ふ旅終る 山田和子

しづけさにたたかふ蟹や蓼の花 石田波郷

浅水に浅黄の茎や蓼の花 太 祗

山門の風吹きぬけし蓼の花 竹内節子

細径に外れゆく犬や蓼の花 榎田きよ子

川よごれその上蓼の花の錆 阿部堂



子に低く傘さしかくる蓼の花 林 翔

尻上げて這ひそめし子や蓼の花 渡辺 立男

和紙乾く音かすかなり蓼の花 松本 幹雄

蓼の花小屋一杯の舟作る 堤 京子

妻と子の身支度ながし蓼の花 神田 岩魚

なぐさめの過ぎて泣かすや蓼の花 岩永のぶえ

蓼の花踏みしだき行く川漁師 本谷 英基



沼風の仮借するなし蓼の花 石田波郷

さび鮎やいつを栄の蓼の花 寛満

蓼の花鮒の大きくなりにけり 岸本尚毅 舜

ゆきくれて径を乞ひけり蓼の花 八十島稔 柘榴

米磨げば水賑はしや蓼の花 岩木躑躅

蓼の花草末枯れて水白し 河東碧梧桐



姥石のあたりが濡れて蓼の花 諸角せつ子

父は外様大名蓼の花うるさし 塚本邦雄 甘露

うつむきて歩く心や蓼の花 石田波郷(1913-69)

しづけさにたたかふ蟹や蓼の花 石田波郷(1913-69)

岡釣のビク浸けてあり蓼の花 滝井孝作 浮寝鳥

汀に浸す漬物桶や蓼の花 寺田寅彦

味噌漉を洗ふ汀や蓼の花 寺田寅彦

鴫わなや鴫はさやらず蓼の花 寺田寅彦

蓼の花に雨ほろほろと獺祭忌 田中冬二 麦ほこり

行水や水引の花蓼の花 田中冬二 麦ほこり

蓼の花ちよつと死にたくなりにけり 鈴木真砂女

考へに足とられ居し蓼の花 竹下しづの女

独り住みにも掟はありぬ蓼の花 柴田白葉女

子供らの叱られてゐる蓼の花 辻田克巳

蓼の花鍋釜も日にあたたまる 大峯あきら

蓼の花昏くなりつつ濤高む 松村蒼石 雁

大溝の名残こゝにも蓼の花 久保田万太郎 草の丈

掃溜のにしきや蓼の花ざかり 横井也有 蘿葉集

考へに足とられ居し蓼の花 竹下しづの女句文集 昭和十年

暮れなんとしてほのかに蓼の花を踏む 夏目漱石 明治三十九年

暮れなんとしてほのかに蓼の花を踏む 夏目漱石 明治三十九年

蚯蚓なく明日は日和ぞ蓼の花 風斤 芭蕉庵小文庫

蓼の花のみゆる塀うら 執筆 芭蕉庵小文庫

蓼の花豊の落穂のかゝりたる 高野素十


下露の小はぎがもとや蓼の花 蕪村遺稿 秋

三徑の十歩に盡て蓼の花 蕪村 秋之部 ■ 題白川







マメアサガオ

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野生の朝顔もいろいろあるよう。

川の石垣にまさに懸崖になっているオーシャンブルー(地中海朝顔 石垣島朝顔いろいろの名で園芸店で売られていた)。
翌朝の日の出前まで咲いている。

↑コヒルガオ? 庄下川の川岸

↓豆朝顔

昆陽川の岸辺↓に群生していた。

これは上流を見ているので、右岸(画面左)はこの朝顔が群れ咲き。

行燈作りなどもやった経験があるが、ともかく強健だから3日世話を怠るとどこを摘芯していいか分からなくなる。

子規と高澤さんの句

朝顔や我に寫生の心あり 朝顔 正岡子規

朝顔ヤ繪ノ具ニジンデ繪ヲ成サズ 朝顔 正岡子規

朝顔ヤ繪ニカクウチニ萎レケリ 朝顔 正岡子規

朝顔ノシボマヌ秋トナリニケリ 朝顔 正岡子規

朝顔ヤ九月ノ花ニ耻多キ 朝顔 正岡子規

朝顔に傾城だちの鼾かな 朝顔 正岡子規

歸るかと朝顔咲きし留守の垣 朝顔 正岡子規

雨十日朝顔の花細りけり 朝顔 正岡子規

紅筆の朝顔風に咲きにけり 朝顔 正岡子規

朝顔やわれ未だ起きずと思ふらん 朝顔 正岡子規

朝顔や塵紙を漉く一つ家 朝顔 正岡子規

朝顔や野茶屋の垣根まばらなり 朝顔 正岡子規

朝顔や實勝になりて花細し 朝顔 正岡子規

朝顔や入谷あたりの只の家 朝顔 正岡子規

朝顔や明石のお城須磨の船 朝顔 正岡子規

朝顔の這ひいでて咲きぬ塀の蔦 朝顔 正岡子規

朝顔の引き捨てられし莟かな 朝顔 正岡子規

朝顔の石に這ひつく山家哉 朝顔 正岡子規

朝顔にまた明日迄の命哉 朝顔 正岡子規

妹の朝顔赤を咲きにけり 朝顔 正岡子規

稻妻に朝顔つぼむ夕かな 朝顔 正岡子規

朝顔や傾城町のうら通り 朝顔 正岡子規

朝顔のわつかに闇をはなれけり 朝顔 正岡子規

朝顔やあしたはいくつ開くやら 朝顔 正岡子規

朝顔は命の中のいのちかな 朝顔 正岡子規

朝顔と見えて夜明る庵かな 朝顔 正岡子規

朝顔の日うら勝にてあはれなり 朝顔 正岡子規

朝顔のつるさき秋に屆きけり 朝顔 正岡子規

朝顔となりおほせたる垣根哉 朝顔 正岡子規

朝顔や我筆先に花も咲け 朝顔 正岡子規

夕暮に朝顔の葉のならびけり 朝顔 正岡子規

ほのぼのに朝顔見るや?一重 朝顔<巾+厨> 正岡子規

朝顔や氣儘に咲いておもしろき 朝顔 正岡子規

朝顔や夢裡の美人は消えて行く 朝顔 正岡子規

朝顔やあてありさうにのびる蔓 朝顔 正岡子規

朝顔の莟數へてまはりけり 朝顔 正岡子規

朝顔にわれ恙なきあした哉 朝顔 正岡子規

朝顔やきのふハしらぬ花のいろ 朝顔 正岡子規

朝顔や日かけに殘る花一ツ 朝顔 正岡子規

朝顔や日うらに殘る花一ツ 朝顔 正岡子規

朝顔やよしある人のわひ住ひ 朝顔 正岡子規

朝顔の垣根に鷄の遊びけり 朝顔 正岡子規

朝顔やきのふなかりし花のいろ 朝顔 正岡子規

朝顔の苗に水やる真昼哉 朝顔の苗 正岡子規

朝顔蔓おいおいそこは物干竿 高澤良一 暮津

朝顔の蔓の一つも蟻の道 高澤良一 暮津

朝顔ご丹精とぞ褒められし 高澤良一 暮津

朝顔の勝手許さぬ鉢仕立 高澤良一 暮津

腹這ひの西洋朝顔蔓逞し 高澤良一 暮津

朝顔にあいにくの雨上がらざり 高澤良一 暮津

朝顔の蔓の朝から徘徊す 高澤良一 暮津

朝顔苗近所に配る甚平着 高澤良一 暮津

朝顔蔓選り取りみどり棚の網 高澤良一 暮津

一彩づゝ朝顔の苗求めけり 高澤良一 暮津

朝顔喪中の義父に仕立てけり 高澤良一 暮津

養子のごと貰はれてゆく朝顔苗 高澤良一 暮津

朝顔の掴まる処用意せり 高澤良一 暮津

朝顔の蔓先何を当てにして 高澤良一 暮津

朝顔の鉢上げ午前費やせり 高澤良一 暮津

これと決む朝顔苗のポリポット 高澤良一 暮津

双葉もて百の朝顔翔びさうな 高澤良一 暮津

朝顔の双葉本葉と喪の日過ぐ 高澤良一 暮津

朝顔種封筒に入れお裾分け 高澤良一 暮津

朝顔の蔓を邪慳に払ひけり 高澤良一 暮津

朝顔の種仕分けして甲乙丙 高澤良一 暮津

朝顔の種こじ開けて下調べ 高澤良一 暮津

投票日朝顔の早種子つけて 高澤良一 暮津

少子化の世に朝顔の種子つけて 高澤良一 暮津

朝顔に物干し竿を奪られけり 高澤良一 暮津

ここに来てペース落とせり軒朝顔 高澤良一 暮津

朝顔を垣に這はする駐車場 高澤良一 暮津

朝顔につく亀虫を払ひをり 高澤良一 暮津

月替はりても朝顔の三ツや四ツ 高澤良一 暮津

日課となる朝顔の世話水の世話 高澤良一 暮津

朝顔の蔓に誤算のあり漂ふ 高澤良一 暮津

棚咲きの朝顔に風縦横に 高澤良一 石鏡

朝顔に水やる朝の内がよし 高澤良一 石鏡

朝顔の残りの花期を尽してや 高澤良一 石鏡

朝顔のくたんと十時廻る日に 高澤良一 石鏡

煮立てゐる味噌汁の香が朝顔へ 高澤良一 石鏡

朝顔種子浸すに休眠するやつも 高澤良一 石鏡

朝顔蒔く穴ぽこに種子一つづゝ 高澤良一 石鏡

朝顔の蔓といふ蔓ご苦労さん 高澤良一 石鏡

朝顔の種の抜け殻まさぐれる 高澤良一 石鏡

日の温み背に朝顔の種を採る 高澤良一 石鏡


高澤さんは面白い作家だ。

十三夜

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ウィキペディア:

いつもは丸丸写しとって、削除調整しているが、今日は、部分コピーの積み重ね


月見(つきみ)とは、主に満月を眺めて楽しむこと。観月(かんげつ)とも称する。

月見は、主に旧暦8月15日から16日の夜(八月十五夜)と、日本では旧暦9月13日から14日の夜(九月十三夜)にも行われる。そのため、月見に関する話題で単に「十五夜(じゅうごや)」「十三夜(じゅうさんや)」という場合、これらの夜を意味する。

・・・・

で今晩が13夜。↓午後9時過ぎの月

今日撮った画像はこれ一枚。

・・・

月の日に月を鑑賞する風習の始まりは、唐代の頃からということしか分かっていない。宋代の『東京夢華録』には身分に関わらず街を挙げて夜通し騒ぐ様子が記録されている。この風習が貞観年間(859-877)の頃、日本の貴族社会に入ってきた。平安時代の月見は徐々に規模が大きくなり延喜19年(919)には宇多法皇が日本独自の十三夜の月見を催した。当時の日本での月見は詩歌管絃を楽しみつつ酒を酌む、といった雅味な催しで庶民とは縁のないものだった。この頃の月見は中国、日本ともに願掛け供え物といった宗教的な要素はなく、ただ月を眺めつつ楽しんでいた。

明代の中国では宴会に加えて、名月の日に供え物や月餅を贈り合う習慣が始まったと田汝成の『煕朝楽事』に記録がある。日本では室町時代に入ってからも名月の日は続いたが、遊宴としては簡素になっていき、室町後期の名月の日には月を拝み、お供えをする風習が生じていた。『御湯殿上日記』には後陽成天皇ナスに開けた穴から月を見て祈る「名月の祝」という祝儀の様子が記録されている。


八月十五夜(旧暦8月15日から16日の夜)の月に対して、九月十三夜(旧暦9月13日から14日の夜)の月は「後(のち)の月」と呼ばれる。十三夜は日本独自の風習と言われている[7]。ちょうど食べ頃の大豆枝豆)やなどを供えることから、このの月を豆名月(まめめいげつ)または栗名月(くりめいげつ)と呼ぶ。

江戸時代の遊里では、十五夜と十三夜の両方を祝い、どちらか片方の月見しかしない客は「片月見」または「片見月」で縁起が悪いと遊女らに嫌われた。二度目の通いを確実に行なうために、十五夜に有力な客を誘う(相手はどうしても十三夜にも来なければならないため)風習があった。

なお、旧暦の閏月で閏8月または閏9月が挿入される場合に1年で十五夜または十三夜が二度現れることがあり、二度目についてはそれぞれ「後の十五夜」、「後の十三夜」と呼ばれていた。「後の十三夜」は2014年11月5日に171年ぶりに出現している[8]

花の画像少々

サルビア

ハイビスカス

マリーゴールド
フレンチとアフリカンがあるが、どちらもメキシカンと呼ぶべきである。

↑2枚ともフレンチ・マリー・ゴールド

十三夜の例句は山のようにある

十三夜二夜訪はねば母恋し 沖元薫

夜も素き白樺や乗鞍十三夜 北野民夫

この冷えは魚のたましい十三夜 高野ムツオ 蟲の王

月よりも雲に光芒十三夜 井沢正江

宮島のよき裏町や十三夜 塩田育代

浜砂の濡れが冷え呼ぶ十三夜 原 文子

静かなる自在の揺れや十三夜 松本たかし

竹寺の竹のはづれの十三夜 岸田稚魚

嵯峨ははや時雨ぐせなる十三夜 鈴鹿野風呂

みちのくの如く寒しや十三夜 山口青邨

ひひらぎの花のさだかに十三夜 高木石子

旧道はくねる本筋十三夜 平畑静塔

十三夜月のまはりし権太坂 清水基吉

眠りたる背ナの子重し十三夜 新井 恵子

十三夜月をめがけてオートバイ 尾田秀三郎

天安門掃かれてありし十三夜 黒田杏子

十三夜下郎のごとく足を拭く 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』

遠き思ひにゐて椅子冷ゆる十三夜 柴田白葉女 『月の笛』

淋しさに更けまさりけり十三夜 小林康治 『虚實』

妻に剥ぐ一顆の栗に十三夜 河野南畦 『花と流氷』

引越の日の十三夜無月なり 角川源義『西行の日』以後

読まぬ書の砦づくりに十三夜 角川源義 『西行の日』

妙義嶺に近き湯町の十三夜(上州磯部温泉) 上村占魚 『方眼』

牛買と泊る島宿十三夜(佐渡島行二句) 上村占魚 『橡の木』

曾良の碑の雄島をあとに十三夜 『定本阿部みどり女句集』

拭いてゐる畳の数や十三夜 大木あまり 火球

春霖の来て十三夜といふ櫛屋 大木あまり 山の夢

十三夜潮は北ほど深うして 大峯あきら

山降りてすぐ山を恋ふ十三夜 福田蓼汀

水のむと片目つぶれば十三夜 加藤楸邨

坐り良き屋根石蒼し十三夜 田原口秋峰

母が煮る栗あまかりし十三夜 能村登四郎

胸さびしゆゑにあかるき十三夜 石原八束

静かなる自在の揺れや十三夜 松本たかし

塾の子の影をつらねて十三夜 栗山妙子

大皿に蟹のけむりぬ十三夜 村上鬼城

これは母の煮て来しものや十三夜 木内怜子

みちのくの如く寒しや十三夜 山口青邨

麻薬うてば十三夜月遁走す 石田波郷

麦蒔をしてきし一家十三夜 高野素十

空也忌の十三夜月端山より 飯田龍太

Aカップとて揺れていて十三夜 荒井まり子

川越えて見ても同じや十三夜 福島道子

軒並に老人が居て十三夜 荒井とし子

庭裾を洗ふ潮や十三夜 大木さつき

見納めが母の口癖十三夜 田邊えりな

このあたり木挽町かも十三夜 山岸治子

吊り革を握つて十三夜の嬰児 細井啓司

浅草は風の中なる十三夜 高 篤三

終航の汽笛尾を曳く十三夜 江口良子

面影の薄れ行くなり十三夜 藤野艶子

ほろ酔ひて旅の小径の十三夜 安次富順子

はいと言ひまたはいとのみ十三夜 小林しづ子

山よりも温泉宿の暗し十三夜 手塚金魚

縁先に酒とどきたる十三夜 池田義雄

岩は皆渦潮しろし十三夜 水原秋櫻子

漣だつは雑魚の祝祭十三夜 千代田葛彦

麻薬打てば十三夜月遁走す 石田波郷

胡麻殻を風呂に焚きそへ十三夜 瀧 春一

米を磨ぐ水あたたかき十三夜 和田 祥子

このあたり木挽町かも十三夜 山岸 治子

新宿に山の荷とあり十三夜 望月たかし

病室に子恋つのらす十三夜 福永耕二

登り窯攻めにかかれり十三夜 矢野 聖峰

屋根をとぶ猫の鈴澄む十三夜 増田 富子

網あげて小蝦きらめく十三夜 原 柯城

耳門より僧が抜け出す十三夜 柊 愁生

波止釣の影絵となりて十三夜 壺井久子

味噌倉に味噌つぶやけり十三夜 平賀 扶人

霧となり温泉けむり匂ふ十三夜 穐好樹菟男

釣人に橋の灯あはき十三夜 木下由美

瀬走りの鱒捕へたり十三夜 駒井でる太

銃先に猪出て暗し十三夜 内山亜川

少年のフルートを吹く十三夜 大高千代

萩挿して今宵雲無き十三夜 大久保道彦

江のさざなみ雲のさざなみ十三夜 吉田 速水

門川の障子にひびく十三夜 愛須真青

胸に抱く炎のすさりゐる十三夜 仙田洋子 雲は王冠

宙吊りの豚はももいろ十三夜 仙田洋子 雲は王冠

猫のゐし塀の高さや十三夜 仙田洋子 雲は王冠

うそぶいてゐるもひとりの十三夜 仙田洋子 橋のあなたに

十三夜柊の花香り出す 吉見春子

振りむけばみんなひよつとこ十三夜 山口澄子

犬の尾に冷たき土間の十三夜 横山万兆

そのなかに笛つかまつる十三夜 青木敏彦

胸さびしゆゑにあかるき十三夜 石原八束

波は手を虚空にあげて十三夜 石原八束

十三夜みごもらぬ妻したがへて 志摩芳次郎

十三夜胸の温みが指伝ふ 殿村莵絲子

りりとのみりりとのみ虫十三夜 皆吉爽雨

蓑虫の糸の長さや十三夜 谷野予志

麻薬うてば十三夜月遁走す 石田波郷

すさまじくなりきし芒十三夜 大橋桜坡子

大皿に蟹のけむりぬ十三夜 村上鬼城

茶の花に約(つづま)るひかり十三夜 槐太

炉框も窯の神も十三夜 春樹 (合掌造り白川郷)

帆柱のならべば暗し十三夜 峠

人去つて仔猫寄りくる十三夜 照子

鮭飯の鮭の精霊十三夜 鬼房

窓ごしに赤児うけとる十三夜 甲子雄


左門殿川

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第4日曜日 句会出席 一二人出句

出句5句


 衆愚制でいいではないか凌霄花
 常盤櫨に屈む年金受領月
十万を超えぬ医療費神無月
秋天下カメラ向ければ笑む子連れ
天高くバター三箱を買い占める

席題は「カメラ」

選句六句

特選 二句
秋風の何に立ち寄る金物屋
秋深し寄り来て猫の知らぬふり

 (二句とも同一作家の作品だった)

四人姉妹上から惚ける傘寿の秋
 傘寿の秋を、「豊の秋」へ変更することを推奨。
家系図の元は一つ家豊の秋
湖底の村の記録を映す照紅葉
別れ道何をためらう草紅葉

当日最高点句

密会の思わぬ露見カメラアイ

・・

猪名川と藻川に分かれた川は、5キロほどでまた合流するが、
合流して1キロほどで、神崎川と合流する。合流以後は、神崎川が府県境をなすが、さらに2キロで神崎川は二手に分かれ、西側を流れる川は左門殿川(さもんどがわ)と名を変える。本流である神崎川は、阪神高速神戸線や国道43号線と交差するあたりで、また枝分かれして
西側の流れは中島川となる。この中島川はすぐに左門殿川と合流して
府県境となって大阪湾へ流れ込む。

 合流する前に左門殿川は、松島排水機場を経て庄下川の水の半分を受け入れる。

左門殿川の短い全域(2キロ位か? 2250メートルだそうである)は大阪府と兵庫県の境界線である。左門殿橋、左門小橋、辰巳橋の3つの橋がある。
辰巳橋はユニチカ記念館のすぐ東だったので、画像紹介したことがある。

 左門小橋は、阪神電車杭瀬駅から近い。橋のある辺りの地名は梶ケ島である。

国道2号線↑

横道にそれると昭和の名残

梶ヶ島住吉神社

3世紀に生まれた地名だそうである。軍船の梶で神像を彫り奉納したとか。3世紀にはここは島だった。神功皇后ゆかりの地である。

阪神電車の尼崎市内の駅は、東から、杭瀬駅、大物駅、尼崎駅、出屋敷駅、尼崎センタープール前駅、武庫川駅の6つがある。
それぞれの駅間隔は1キロ前後である。

阪急塚口駅からは大物駅を除いてバスが通じている。
センタープール前へは、競技が開催される日だけ無料フアンバスが運行されているが、それ以外の日もこの駅を経由するバスが通っている。

塚口駅発阪神杭瀬行きのバスも最近はよく利用するが、終点まで乗車したのは今回が初めて。

寶暦と読める。

阪神電車の鉄橋下

左門殿川

対岸は佃島である。

家康が東京湾の小島に摂津佃村の漁民を招いたのは有名な話。
江戸湾の島に佃島があるのはそのためである。
漁民たちは鮮魚は幕府へ貢納し、自分たちは雑魚を煮詰めて食ったそうである。これが佃煮の始まりだとか。
やがて人口が増え、埋め立て地を造成、築地と名づける。
当時なら佃島の西は築地島であったかも。

現在の地図では、佃島(大阪の佃は今でも島である)から築地までは
一キロも離れていない。

apedia
左門殿川

出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  戸田氏鉄(戸田左門)の開削した水路として左門殿川の名がついているが、三国川神崎川)の場合と同様に既存水路の改修によってできたものであろう。かつては八十島と呼ばれる多くの島や洲の間を縫って流れていた一分流の利用であろう。三国川の場合は京と西海を結ぶ最短距離の水路を開くことに目的があったが、左門殿川の場合は尼崎城の防禦的(軍事的)役割を持っていた。大坂側からは左門川と呼ばれたようである。神崎川から分流点より佃島の西を通って中島川との合流点まで、2,250mにおよび、1965年(昭和40)3月に1級河川に指定された。


尼崎城を建設した戸田さんの名が左門だったので、左門殿川
大坂側からは左門川と呼ばれていた由。

しかし画像紹介したのが、17世紀初頭に切り開かれた左門川そのものかどうかは分からない。洪水その他で、このあたりの猪名川、神崎川の水路はかなり変わっているようだから。

筑紫次郎やがて銀河に合流す 北川英子

合流す木曽の三川夕千鳥 神谷美和

合流の白濁はるか合歓の花 西村和子 かりそめならず


合流をはたしての緩冬芒 上田五千石(1933-97)




県境

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26日の入り日と夕月

↑電柱と架線で中空も混み合っている。
東側を見ると、建設中のマンションの上

西へ向かう広い道は、かつての津門ノ中道ではない。津門の中道は
この地点で、右(北)へ湾曲してゆく(と私は思っている)。
ここまでは塚口御坊を抜けてほぼまっすぐ西へ向かっていた。

右へ曲がると富松川に沿ってゆくことになる。↑
耕作用のため池は今は公園になっている。かつては芦原であったかも。池の端を北上し、そこで左折(西)すれば東富松村へ入る。そこに道標があり、富松神社の参道を横に見て北上してゆく。そしてまた西へ曲がり守部を目指すことになる。そこにも道標があり、渡し船に乗って武庫川を超えることになるが、津門へ向かうか甲山へ向かうか、川を越えたあたり(目下は私の縄張りの外、西宮市)に道標があったのであろう。

塚口という地名はいつ生まれ、定着したのであろうか?

apedia: 「塚口」の項目

 立花地区の大字。市域中央北部、尼崎から伊丹へと通ずる街道沿いに位置する。付近には池田山古墳をはじめ塚口古墳群に属する古墳が点在しており、塚口という地名も池田山古墳もしくはこれら複数の古墳を背後にひかえていることに由来すると考えられる。

史料上の初見は「広島別院旧蔵蓮如上人遺文」(宝塚市史第4巻)で、1483年(文明15)の内容を記す個所に「つか口」とある。

中世には1409年(応永16)建立と伝えられる浄土真宗興正寺別院・塚口御坊を中心に、土居(土塁)と堀をめぐらせた寺内町を形成し、一向一揆の拠点の一つであった。

  

近世初期には幕府領1617年(元和3)尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に1,210.305石、「元禄郷帳」に1,277.827石、「天保郷帳」に1,362.368石とある。また、天和貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数192軒、人数1,342人、別に4軒、29人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には176軒、804人、別に8軒、36人とある。富松井組三平井組に属した。氏神は須佐男神社(近世には牛頭天王社)、寺院は浄土宗願生寺・浄土真宗興正寺派正玄寺

  1889年(明治22)以降は立花村1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となった。1919年(大正8)には塚口土地が設立され宅地開発がスタート、翌1920年阪急電鉄の神戸線・伊丹線開通と同時に塚口駅が、隣接する村内に開設され、1934年(昭和9)には阪急電鉄も住宅地分譲に乗り出すなど、早い時期から近郊住宅地化した。1962年の町名改正と1982年の住居表示により塚口町・塚口本町となったほか、一部が南塚口町となった。


特定の豪族用の墓苑への参詣者向け施設でもあったのか?
警護施設?宿泊施設?ならば15世紀よりはるか昔に地名化していたはずである。

・・・・

兵庫県の東南部に位置する尼崎市と大阪府(豊中市 大阪市)を画するのは、猪名川と神崎川と左門殿川と中島川である。
しかし地図をみると部分的にはややこしい。


農業公園のすぐ北側で猪名川は藻川と分流するが、分流地点は伊丹市である。ここに浄水場がある。猪名川の水はここで大量に取水されるのであろう。

分流地点の東側に大阪国際空港があるが、別名伊丹空港と呼ばれるように、猪名川を東に越えて1キロ以上は伊丹市すなわち兵庫県の領域である。

農業公園は分流した猪名川の右岸(藻川寄り)にあるが、その地点では尼崎市の市域が猪名川を越えて東側へ食い込んでいる、その部分に田能遺跡がある。そして田能遺跡の東側は200メートルの幅だけ伊丹市が割り込んで、大阪府豊中市と接している。よって伊丹空港の南半分は豊中市に位置する。

農業公園を出て猪名川の土手に出る。前を流れる猪名川はすべて尼崎市の市域に含まれるが、土手を少し南に歩いて「猪名川橋」を渡りはじめると橋の途中からは伊丹市になる。橋を渡り終えるとまた尼崎市に入る。田能遺跡と資料館を見学して元の道を歩いて戻るなら尼崎市内を移動、橋を渡る間だけ伊丹市を通過するが、資料館を出て反対側へ歩き出すとごみ処理場へ行くがそこは、伊丹市であり、」さらに東へ行くとまたごみ処理場があるがそこは大阪府豊中市である。
二つのごみ処理場は府県をまたいで、伊丹市と豊中市で共同運営されているようである。ゴミ処理場や下水処理場が並んでいてその東が伊丹空港の南端となる。

グーグルの地図で確認を。

ついでに分かれた二つの川が合流する地点の地図↓

↑尼崎市には「丘」「岡」のつく地名はないと書いたことがあるが、
地図には弥生ヶ丘町が登場。市営墓苑だけにつけられた名のようだ。
他にも菜切山町がある。(ここも小学校と地区会館しかないようなごく狭い一画である)。

さらについでに、昨日説明した佃村。
神崎川が分流し、また合流するところ。

佃を島とするなら、猪名川の分流と合流との間に挟まれた地域も島ということになる。確かに弥生時代には島であったようだ。

梶が島、初島、松島、向島、丸島、大島、生島、上ガ島・・、島のつく地名は尼崎南部を中心に多数ある。それ以上に、長洲、尾浜、大浜、元浜、浜、琴浦、難波、浜田、潮江、神崎、さらには
新しい埋立地用の地名だが、東海岸町などと海辺を意味する地名が目立つ。

今日の藻川。園田橋近傍

取水場あたりでは痩せていた藻川であるが、猪名川と再び合流するまえに、大河(中河?)の様相を呈している。
どうしてだろう。
分流後の猪名川には千里川の合流があるが、そのため取水は主に猪名川本流から行っているのか?
藻川は途中に排水機場と出会うが、これは藻川が増水した場合に、水を昆陽川へ排水するための施設であると思っている。

東側には梅田の高層ビルが遠望できる。

近くに立つ学舎。↓
山陽新幹線に乗るとこの方角では目立つ建物。

2015年4月に廃校となった大学の図書館塔である。
図書館関係施設は尼崎市が図書ともども買い取ったらしい。
グランドにはすでに建売住宅が建設済みとか。

舎月下の海と響きあう 大西健司

分校の廃校となる初時雨 河村昌子

廃校は村の避難所震災忌 名高栄美子

かなかなや廃校跡に朝礼台 高橋悦男

廃校に束ねし書冊緑立つ 木村蕪城

百千鳥廃校式は歌で終ふ 土橋いさむ

今日限り廃校となる卒業歌 佐藤信子

初凪や廃校いまも図画を貼り 山田紀代

廃校と決まりしよりの荻の風 蓮實淳夫

廃校の真昼の暗さ馬肥ゆる 飯塚久美子

廃校式次に控へて卒業す 藤田美智子

廃校に残す巣箱や柿若葉 富田くにを

廃校に灯せし千の小かまくら 橋本榮治 逆旅

夏灯しおく廃校にいるうさぎ 対馬康子 純情

蒟蒻の花廃校後十五年 茨木和生

廃校をコテージとなし鯉のぼり 山口博

廃校に集ふ同窓鳥渡る 杉本寛

廃校の母校の桜吹雪かな 山田みづえ(1926-)


スサノオ

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何故にかくも素盞嗚秋祭り


出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

 須佐男神社の解説。2通りの表記がある。素盞嗚、須佐(之)男


 市域では小田・大庄・立花・武庫・園田の各地区に鎮座する。

祭神は須佐男命・牛頭天王〔ごずてんのう〕など。

JR東海道線より北の東部と西部に特に集中して分布する須佐男(素盞嗚)神社は、明治初年の神社行政により、社名を牛頭天王社から呼びかえられた。

元来須佐男命は牛頭天王の別称で、1838年(天保9)「巡見使通行御用の留」(『尼崎市史』第6巻)記載の鎮守名には「牛頭天王」「牛頭天王社」と多く見える。

創始時期について、東武庫西武庫の須佐男社は、11世紀永保年間・1081~1084)に京都祇園社から牛頭天王の分霊を勧請〔かんじょう〕して建立したという。八坂神社の荘園(社領)との関係を主張するものがある一方、近世に牛頭天王信仰が一種の流行神として村落に普及し、稲荷などの農民の素朴な祭神が牛頭天王に替えられたといわれる。

しかし須佐男(素盞嗚)社には歴史的・宗教的に多くの特徴がみられる。市北部の南清水の素盞嗚社は南清水古墳の上に建っており、水堂の須佐男社は境内全体が前方後円墳(水堂古墳)である。これなどはおそらく豪族の始祖霊を古墳に祀ったもので、始祖霊の荒魂〔あらみたま〕があらたかな霊威をもつ牛頭天王として祀られた事例である。

また久々知須佐男社は、1323年(元享3)赤松則村が同じく摂津国の瀬川(現箕面市)で六波羅軍勢と対陣し、社傍に陣を構えて戦勝を祈願したという。


潮江の素盞嗚社も、16世紀前期(享禄年間・1528~1532)に三好長慶が足利氏に叛起し、池田に進軍するとき当社に戦勝祈願したと伝える。いずれも霊威ある牛頭天王が戦勝祈願に効験があるとされた例である。

神仏習合の遺風と考えられるには市北西部の西武庫と守部の須佐男社で、西武庫須佐男神社十三重塔(県指定文化財)と守部素盞嗚神社十三重塔残欠は、ともに14世紀前期の造立の紀年銘や意趣をもつ。

前者の銘文には、神主の「三宮藤□某」が両親の菩薩と衆生を供養するために、1320年(元応2)庚申8月19日に刻まれたことがみえる。

広済寺に隣接する既述の須佐男社は、近世には久々知妙見(北辰堂)と称され、能勢町内に鎮座する能勢妙見とともに、演劇関係者の信仰を集めていた。また、西昆陽の須佐男社には宮座があり、氏子が各戸で「おとう」(お頭、祭の祭主役)を行なっている。



紹介されている素盞嗚神社のほぼすべてを直近1,2か月の間に訪問すみなので、
書かれている内容に既知のものが多い。

塚口神社も、宮司さんの自社紹介文では、もとは「塚口素盞嗚神社」という名称だっただったそうである。
富松神社も主祭神は須佐男命である。

ウィキペディアは全国の主な素盞嗚神社として以下のものを紹介している。


主な素盞嗚神社



尼崎の2社も代表的な素盞嗚神社に加えられているが、
「須佐男神社」「須佐之男神社」と表記するものは各1社しかないような印象を受ける。
これは誤解を受けるように思う。
尼崎66社一覧を覗くと、
須佐男神社と表記するものは、神崎、久々口、水堂の神社があり、
須佐之男神社はさらに多く、友行、西富松、武庫庄、西武庫、東武庫、西昆陽、常吉の各神社と7社もある。よって上掲のような表記では、どのスサノオ神社を指しているのか分からない。

尼崎市内66社一覧で、
「南清水 素盞嗚神社」をクリックすると、
その神社案内のページへ移動するが、
そこでは、「南清水 須佐男神社」「主祭神 須佐男命」となっており
昨日画像紹介した地図上で確認すると「素盞嗚尊神社」と記入されている。神社一覧の表記もそれほど厳密ではないかもしれない。

普通には素盞嗚の3文字目は口偏に烏(カラス)であるが、鳥(トリ)と表記される神社、2文字目も盞ではなく戔となっている神社もあるそうである。まあこれなどは昔の宮司の書き間違いが誤って継承されたものであろう。明治期の戸籍なども当て字、替え字氾濫である。まして江戸期にはと思ってしまう。「金蔵」が「金造」になったり「金三」になったりしている。申請した人間の誤字をそのまま記載したか、役人の識字能力によるのかは分からないが。

昨日訪ねたのは小中島 素盞嗚神社
山陽新幹線の高架のすぐ横に鎮座。藻川沿いである。

社務所も、宮司家族用住居もあるが、無人のよう。

社務所が老人いこいの家になっている神社も多い。

伊佐具神社の案内文の中に次のような文章を「発見」

「チョキ チョキ ヨイト チョキ」「エーライヤッチャ アーカンヤッチャ」
伊佐具神社のお祭りで発せられる掛け声で、前者は御神輿の、後者は子供だんじりのものです。掛け声は地域によっていろいろなものがありますが、これは伊佐具神社だけのものではないでしょうか。

そうでもないようですよ。

でも塚口神社よりはるかに創社が早い神社の掛け声を、塚口神社が盗んだ(無断借用した)のかも。

えーらいやっちゃ、あ~かんやっちゃ。


熊野大神社 「大」は勝手につけてはならないのかも。でも誰の許可があれば「大」を使えるのか。

若王寺



「鳥居」で検索。鳥居さんの句は削除

二の鳥居三の鳥居や寒詣 野原 湖心

鳥居中遠くの鳥居初詣 深見けん二



初富士の鳥居ともなる夫婦岩 山口誓子

潮路のはじまる鳥居神の旅 後藤夜半

火伏祭の一の火つきし鳥居前 肥田埜勝美

青北風や石の鳥居の先は海 堀 葦男

田の中に赤き鳥居や秋うらら 邊見京子

引鶴や鳥居さびしき由比ケ浜 内藤鳴雪

頬白や一の鳥居を湖のなか 宮川貴子

汐干狩神の鳥居の裾にして 和気久良子

朱の鳥居千本くぐる朧かな 老川敏彦

春闌くるビジネス街に朱の鳥居 和田耕三郎


驛前に一の鳥居や牛祭 菅 直桑



村村の夏の鳥居を抱くなり 夏石番矢



湯気立てて山に稲荷の鳥居かな 波多野爽波 『湯呑』

一の鳥居の高さが好きで初雀 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』

夕野分鳥居いくたび立ち上る 齋藤玄 『狩眼』

神の留守鳥居はるかに藁の中 山口笙堂

一の鳥居くぐれば山気登高す 穂坂日出子

秋の田の只中石の鳥居暮る 山口誓子


相模伊豆鳥居こわれるほど晴れたり 佃悦夫

吉書揚げ鳥居を遥か越えにけり 小川玉泉

狼の眼の狛犬や山始 鳥居雨路子

枯蟷螂鳥居起点の里程標 新谷ひろし



冬の雨鳥居をくぐると道曲り 新谷ひろし

秋風の真只中の鳥居かな 桜木俊晃

御降の沖より晴れし丹の鳥居 大上 充子

月見草神の鳥居は草の中 水原秋櫻子

はろけくも鳥居たたせる桑の中 塚原 夜潮



子供居りしばらく行けば懸巣鳥居り 中村草田男


一の鳥居濤うちかぶり秋祭 中野鶴平

籾磨の埃に立たす二の鳥居 木村蕪城

秋の田の只中石の鳥居暮る 山口誓子


箱庭のとりわけ赤き鳥居かな 三宅応人

一の鳥居の高さが好きで初雀 長谷川秋子

初十日雪の鳥居をくぐりけり 香西鹿毛郎

鳥居出てにはかに暗し火縄振る 日野草城

一の鳥居の高さが好きで初雀 秋子

道はたに多賀の鳥居の寒さ哉 尚白

草蒸して蝉のとりつく鳥居かな 言水



短日の鳥居の下の韮を摘む 岸本尚毅 鶏頭

早乙女の低き鳥居をくぐりけり 岸本尚毅 鶏頭



両側に刈田のつづく鳥居かな 山西雅子

ちはやぶる鳥居に迫る黄砂かな 五島高資

二月盡鳥居のあたりあたたかし 田中裕明 櫻姫譚

鮎さげて鳥居の下の明るみに 田中裕明 花間一壺


霞突き鳥居が山をせりあがる 中田剛 珠樹以後

鳥居くぐりてよりの懸巣の森深き 島世衣子


100句から鳥居さん(複数人)の句を間引いたらかなり目減りした。

熊野神社

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備蓄バター1KG 秋うらら

200グラム入り2箱まで減って焦った。ダイエーはいつも品切れであったが、ここ数日、雪印とイオンバターが入手可能となった。イオンバターの方が50円安い。正確には6箱、1.2キロ備蓄中。

睡蓮や夕べの風を着こなせる

うまい句だ。『俳句』11月号掲載の競詠で巻頭になっていた句
作者はショウちゃんではなく、ショウちゃん’s wife。


・・・
昨日のつづき。一日で掲載したかったが、4万字の上限を超えたので
3日に分割。

もう1社 初訪問、杭瀬の熊野神社


阪神電車「杭瀬」駅前。神社の案内では、「杭瀬」という地名は、尼崎では「神崎」についで古いとか。


主祭神が、「素盞嗚命」ではなく、口偏に「鳥」(とり)となっている。掲示板の注文主か、業者が間違ったと思いたい。

apediaの解説:熊野神社

市域では西難波杭瀬若王寺に鎮座する神社。祭神は伊奘冊尊〔いざなみのみこと〕、素盞嗚尊〔すさのおのみこと〕、応神天皇、天児屋根尊〔あめのこやねのみこと〕、稲荷大神など。

  和歌山県東牟婁〔むろ〕郡に鎮座する熊野三山(本宮・新宮・那智)の信仰が戦国期ころに尼崎に伝播していたことは、1602年(慶長7)3月6日付の「旦那売券」(橋爪文書)に「一津之国尼カ崎并西之宮一円者、我等重代相伝之旦那ニ而候ヘ共」と見えている。

その後1692年(元禄5)の「寺社御改付込写帳」(岡本紀士生文書)には、若王寺の熊野大神社が「熊野権現」と記されている。

元禄年間の『摂陽群談』は、西難波の権現社が行基の開いた摂津国四十九院に勧請〔かんじょう〕された熊野社の一つであった伝承を記す。一説には紀伊・大和から摂津尼崎方面への航路が、往時の熊野詣の帰路に用いられ、海路の熊野の一王子として発祥したことが指摘される。

一王子とは?

ウィキさんの解説挿入

{ 若一王子(にゃくいちおうじ)は、神仏習合である。若王子(にゃくおうじ)ともいう。

熊野三山に祀られる熊野十二所権現は三所権現・五所王子・四所明神に分けられ、若一王子は五所王子の第一位である。若一王子の本地仏は十一面観音で、天照大神あるいは瓊々杵尊と同一視された。熊野本宮大社熊野速玉大社では第4殿、熊野那智大社では第5殿に祀られる(いずれも、現在は「若宮」と称し、天照大神のこととしている)。

熊野信仰が日本各地に広まるにつれ、熊野権現が各地に勧請されたが、若一王子のみを勧請する場合も多かった。神仏分離に伴い、「若一王子」を天照大神や瓊々杵尊に変えた所も多いが、従前のまま「若一王子」として祀っている神社もある。

apedia解説 つづき

杭瀬の熊野社は1838年(天保9)「巡見使通行御用の留」(『尼崎市史』第6巻)に「熊野新権現」と記されている。社伝によれば、17世紀元和年間・1615~1624)に本殿が造営されたと伝えられ、境内には樹齢千年という楠木が繁る。境内の右手に「子安の池」があり、この池の水を飲めば安産になるという伝承が伝えられている。
↓子安の池

また現在4年に1度、例大祭日に氏子の稚児行列が盛大に行なわれる。

若王寺の熊野社は雨乞いに効験があり、かつては雨を求める農民が同社に群参したという。難波熊野神社の末社である摂津難波稲荷は、通称「願の稲荷、願掛け稲荷」として、当地の人びとに篤く信仰されている。



「三の坪」などという地名が残っているということは条里制が敷かれた場所を意味するので、確かに古い土地柄である。奈良時代には田園地帯になっていた証拠であろう。
3の坪とは、109メートル(=1町)四方(これも1町)の田が1坪で、
これを6×6並べて、おおむね西北から南へ321メートル下った地点を
西北の角として1町四方の土地区域を指す。これを「三の坪」というらしい。全国各地に「三の坪」という地名は、他の坪以上に、よく残っている。

条里制については目下勉強中。かつて歴史の教科書に書かれていた事実は、現在、大幅に書き換えられているようである。

市の南部の神社の秋祭りは、たいてい体育の日とその前日の日曜日である。



コスモス

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この前、髭の渡しに来た時  (10月13日)は、少し早すぎた感じだった。
キバナコスモスはほとんど咲いていなかった。
今日は、黄花コスモスは満開。
コスモスの方は少し盛りを越えていたような感じ。








増えて行く懸案事項コキア噴く

白鳥

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訪問先神社
2回以上訪問は、○  5回以上◎

本町貴布禰神社
尼崎 戎神社  ◎
難波 熊野神社 ○

大物主神社   ◎ 

櫻井神社     ◎

西川 八幡神社  ○
久久知 須佐男神社  ◎ 
伊居太神社        ◎
伊佐具神社      
中食満 稲荷神社 

田能 春日神社   ○
東園田 白井神社 
富松神社      ◎
時友神社
友行 須佐之男神社

西富松 須佐之男神社 
武庫庄 須佐之男神社   ○
生島神社           ○
上守部素盞嗚神社     ○
水堂須佐男神社

塚口神社     ◎
尾浜八幡神社  ◎
琴浦神社 
松原神社    
伊邪那岐神社 

神崎 素盞嗚神社 
大門 厳島神社 
長洲 貴布禰神社
天満神社    
初嶋大神宮  
 
潮江 素盞嗚神社  ○
磐長姫神社   
御園 素盞鳴神社  ○   
下食満 稲荷神社    
上食満 稲荷神社  


若王子 熊野大神社
小中島 素盞嗚神社
杭瀬  熊野神社
西昆陽 春日神社
西武庫 須佐男神社

東武庫 須佐男神社

常吉  須佐男神社
梶ヶ島  住吉神社  以上43社


9月初めから1か月かけて市内に残る30基の道標と最近(今年)設置された3基を画像確認。

道標の多くが、神社内に移設されていることもあって、市内66社の神社のうち43社を見たことになる。「参拝」「礼拝」「参詣」といえないのは、鳥居をくぐる時に礼をしない、本殿前で柏手を打たない、賽銭を投げない、鈴の緒には、本殿内の撮影に邪魔になる場合を除いて手を触れないからである。

66社すべてを訪問し終わるのは、可成り先であろうが、目標の一つではある。

増えてゆく懸案事項コキア噴く

一掃する必要もないが、ときどき思い立って、3件位を一気に片付けてはいる。
しかし数日すると、また1,2件増えているというのが日常である。

中秋の昆陽池周辺

浄水場



腐葉土とどんぐり  楢などの種類は分からない。




吾子あらば白鳥となり高翔けよ(倭健命の魂白鳥となりしに) 角川源義 『西行の日』

白鳥の背に白鳥の首の影 小澤實



「レダ」の白鳥出雲白鳥像かさね 橋本多佳子

白鳥はおほかた眠る白鳥湖 細見綾子 曼陀羅

霧に白鳥白鳥に霧というべきか 金子兜太 旅次抄録

白鳥の気管の炎思い寝る 高野ムツオ 蟲の王

零下だから青瞳白鳥と老人 高野ムツオ 陽炎の家

白鳥は億年前から来た電波 高野ムツオ 蟲の王

眠る少年たとえば感電死の白鳥 高野ムツオ 陽炎の家

凶暴性溺愛の声夜の白鳥 高野ムツオ 蟲の王

白鳥や空には空の深轍 高野ムツオ 雲雀の血

夜の白鳥金石文となっている 高野ムツオ 蟲の王

白鳥二羽骨打ち合えば炎なり 高野ムツオ 雲雀の血

白鳥の千羽となれば火気厳禁 高野ムツオ 雲雀の血

白鳥交信している日暮電柱は 高野ムツオ 鳥柱

シベリヤ見き眼にて白鳥我をみる 高野ムツオ 陽炎の家

二十四時間白鳥のこと忘れいる 高野ムツオ 鳥柱

子との間に騒然と白鳥が百羽 高野ムツオ 鳥柱

マツチ擦れば発火すはるかな白鳥も 高野ムツオ 陽炎の家

白鳥は来ず洗濯機洗濯す 高野ムツオ 鳥柱

ゴムの木瞑想白鳥は去り人は歩き 高野ムツオ 陽炎の家

冷蔵庫のうしろ白鳥二羽三羽 高野ムツオ 陽炎の家

白鳥の貌の男が霧の家 高野ムツオ 陽炎の家

電車ごうごう白鳥行方不明なり 高野ムツオ 陽炎の家

門松の立つ白鳥の餌付小屋 山崎羅春

白鳥よ日かげればすぐ雪降り出す 草間時彦

上野発白鳥ゆきのきつぷかな 鈴木鷹夫

白鳥へねんねこの子を傾ける 奈良文夫

白鳥つらら垂る胸反らしけり 鷲谷七菜子

迫り来る一白鳥とわれの距離 青柳志解樹

着水の白鳥ほつと白くなる 森山夕樹

一羽だけ来て白鳥の湖となる 越野雹子

白鳥の浮寝の嘴は深く挿す 石田勝彦

白鳥の声のなかなる入日かな 桂 信子

白鳥をあたたかく見る焚火して 平畑静塔

白鳥の吃水ふかき寒明忌 鈴木裕之

白鳥の村に手袋忘れたる 石田勝彦

除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり 森 澄雄



草笛や白鳥陵の水こだま 石田勝彦



クロッカス病む白鳥の視野に咲く 細井みち

枯園に白鳥ばかり胸を反り 飴山 實



白鳥撃たれ野に並び伏す極月や 林 壮俊

白鳥の来しみづうみの息づかひ 藤木倶子

白鳥の第一陣が玲瓏たり 小暮洗葦

白鳥に猛き山伏まじりゐる 佃 悦夫

翔ちぎはの白鳥の腋まぶしいです 堺 信子

白鳥へ空あけてあり今年米 遠藤秀子

初嵐白鳥のせた貨車のごとく 平北ハジム

白鳥の引きては湖を片寄せぬ 野澤節子 『八朶集』

白鳥の抜羽白妙女(め)なるべし 野澤節子 『八朶集』

水平ら巨き白鳥浮くかぎり 野澤節子 『鳳蝶』

はくはくと呼ばふ名残の白鳥を(土地の人の) 岸田稚魚 『筍流し』

鬱々と白鳥に引く空ありぬ(龍飛行平内) 岸田稚魚 『筍流し』

白鳥はこゑの凍れを楽しむや(風蓮湖二句) 岸田稚魚 『筍流し』

白鳥の音なく降りし水輪かな 上村占魚 『橡の木』

白鳥の水の面蹴り蹴り羽ぶりたつ(越後水原瓢湖二句) 上村占魚 『橡の木』

尻重き白鳥もゐて啼き合へり 石原八束 『白夜の旅人』

白鳥に流れ寄りくる薄氷 石原八束 『風信帖』

いくたびか月の白鳥覓(もと)め来し 石原八束 『断腸花』

亡き妻を呼び白鳥を月に呼ぶ 石原八束 『断腸花』

枯園に白鳥ばかり胸を反り 飴山實 『おりいぶ』

白鳥の入江しづかに交るかな 阿部みどり女 『光陰』

白鳥の帰りゆく胴くもりけり 大木あまり 火球

白鳥に対ひ諭されゐるごとし 大木あまり 火球

除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり 森 澄雄



白鳥の湖へ開け勝手口 榎本栄子

近づきて大白鳥にある汚れ 荒井英子

白鳥のゐてたそがれの深くあり 平井照敏

白鳥の胸で押し割るうす氷 林 民子

白鳥の眠りて星の数殖やす 小玉真佐子

白鳥のおどろきやすき首林立 今瀬剛一

渡り来てまだ恋しらぬ大白鳥 相馬沙緻

白鳥といふ一巨花を水に置く 中村草田男

白鳥に雪の天網静かなり 成田千空

水平ら巨き白鳥浮くかぎり 野沢節子


白鳥は芝生に眠り蘇鉄咲く 佐藤念腹

白鳥の翅もぐごとくキャベツ*もぐ 能村登四郎

白鳥の抱卵青き芦の中 守谷順子



白鳥の胸の翳りや夏来る 永方裕子

白鳥の顔を埋めて巣に籠る 高野素十



湖の藍染みし白鳥も帰る日ぞ 村山古郷

白鳥二羽湖光を曳いて帰りけり 石原八束



葉牡丹の白鳥陵は雨の中 角川春樹

しろがねのしぶき白鳥争へる 八木マキ子

首ふつて大白鳥の翔つ気配 倉田武夫

白鳥の愛は水面に立ちあがり 本宮哲郎

白鳥を数へてをれば目の乾く 小島和子


ナンキンハゼ






菊花展

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1か月前に7歳児と散歩に出掛けた折、カメラを貸せというので、渡したら、
手当たりしだいなんでも写しまくっていた。
最近のカメラは性能がいいせいか、あまりぶれもせず、
100枚くらい画像「倉庫」に収納している。
その中の一枚

(9月20日7歳児撮影)

庄下川の3川合流地点に架かるX橋の橋上に立つポールである。
ポールの存在はもちろん知っていたが、
風車の羽のような飾りに文字が記入されていることは、この画像を見るまで気付かなかった。
この地点へ集まる3つの川の名をはっきりと知るまでにはかなりの時間を要したが、
実は地図やNネット上の解説を調べるまでもなく、
橋上に記されていたのである。
まさに負うた子に教えられる経験である。

この画像は標識が4方向に向いているのが分かりにくい。
カメラアングルは北に向けられているので、
東側から流れてくる川が「富松川」で、西から流れてくる川が、「西富松排水路」であることだけが読み取れる。

後日、このポール標識を撮りにでかけた。

10月4日撮影

気付かなかった理由の一つは、文字が薄れて読みにくくなっているからである。
鮮明な画像を得にくい。
北へ向かっては「東富松川」、南に向かっては「庄下川」となっている。


東から(猪名川・藻川方面から)流れてくる川が富松川で、北側から(武庫川方面から)流れてくる川が東富松川である理由は、この二つの川が合流地点から直線で1キロほど上流で平面交差するからである。すなわち、富松川の水源は武庫川にあり、東富松川のそれは一部藻川にあるからである。

10月22日撮影↓

よく晴れた日だったが読みにくい状況は同じ。

10月28日

あれれ! 突然見やすくなっている。
22日と28日の間の何時かに新しいものと取り換えられたようだ。
それともうひとつ、南北の表示はいずれも「庄下川」になり、「東富松川」の表示が消えた。
行政上、東富松川は伊丹市境までに限って庄下川扱いになったことを川名でも示したということであろう。

東富松川上流の長期にわたる河川敷工事の完了と関係があるのかどうか?
多分(表示板の取り換えも)予算措置上は関係しているのであろう。

・・・・・

10月の初めはまだ半袖シャツ一枚だったが、1か月たって今日あたりは、セーターを着てさらにその上に薄いジャンパーはしょって外出。

市の菊花展  先週末から開催。あと2週間


審査会はまだ開かれていないので、各鉢の横に添えられる賞を記載した表示板はまだ出ていない。




市のHPによれば、昨年は、350鉢が展示され、15000人が来場したとか。
菊花展

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ファッションの世界は現実の季節のかなり先を行く。
正月明けのハワイの浜辺で水着の撮影をしたり・・。

阪急百貨店のショーウィンドゥ、7つのブースの11月は、冬、 雪 遊び


↑このブースを撮るといつも向いの「新生銀行」のネオンが映る。




10月30日、武庫川の水辺に咲いていた。
翌日、「花図鑑」に投稿するも、珍しく、丸一日以上「応答」なし。
その間に50件以上の他の投稿があり、それらには多いときには10人くらいが同じ花の名を告げている。
すでに9人が、同じ花を名を指摘しているのに、10人目にそれらを書き写したような回答を記入する気分は如何に?

投稿したのは↓のズームしたもの。

個人的には、これもタカサブロウではないかと思っている。

10月、美作で見た田の草は、タカサブロウではなく、圧倒的に犬稗であった。

67句ヒット。しかし「犬稗」の句はなかった。
イヌヒエは食用にならないそうだから、「ノビエ」として詠われているものが、あるいは「田から稗を抜く」と表現されているものが「犬稗」のことだと思う・


めしの中のつぶ冷めやすし 加藤知世子

にとぼしくもあらず草の庵/粟にまづしくもなし草の庵 松尾芭蕉

ぬきんでて稲よりも濃く熟れぬ 篠原 梵

確かにそんな気配であった。

笠ぬちの顔を略しぬ案山子 皆吉爽雨

抜き捨つるの根揃へては畦に 光永峽関

引くたび石舞台昏るるのみ 向山隆峰

乳房もて稲押し進む抜女 本間 一萍

一抱へをかゝへて笠が邪魔 渡辺 池汀

うどんげの咲いて轉がるの臼 坂口 かぶん

飯や鴉と棲家隣り合う 中村里子

畦にゐて抜くべきを確める 廣瀬直人

は穂にどこかに神の話し声 河原枇杷男

この旅に抜きをよく見かけけり 森田 峠

干して午後はくづるる山の雨 大津希水

雨がちに海女の遅れ田多し 石田波郷

草は飽かぬ草にてコップに挿す 山口誓子

笠ぬちの顔を略しぬ案山子 皆吉爽雨

蒔の嵐及べり洗ひ髪 日野草城

麦飯もよし飯も辞退せず 高浜虚子


秋の田に抜きためて手のあをし 木津 柳芽

の穂の吹かれ穂稲の波のよ 佐々木六戈 百韻反故 吾亦紅

飯や一生托すめくら縞 服部松風

の穂にすがりて雨の雀かな 石橋梅園

みのる谷へ射す陽のうつくしく 浅見波泉

地上では子が親になりを抜く 安川貞夫

雨がちに海女の遅れ田多し 石田波郷

日照雨来や峡田はを躍らしめ 石田波郷

ぬきんでて稲よりも濃く熟れぬ 篠原梵

山鳩ひそと啄んで交りたる 中村草田男

蒔や越してきてまだ馴染なく 龍岡晋

さみどりに濡るる蒔目に寧し 礫川市郎

蒔や十露盤朝の音冴えて 鈴木頑石

蒔や疲れたる眼にみどりなり 富安風生

蒔に近より覗く眼鏡かな 高浜虚子

麦飯もよし飯も辞退せず 高浜虚子

新田に殻煙るしぐれ哉 昌房

坐りだこ囲炉裏に痛しの飯 光太郎

秋の田に抜きためて手のあをし 柳芽

秋の田やはかり尽して二俵 尚白 (如是作)

を抜くぶつきらぼうな顔が来て 茨木和生

は穂にどこかに神の話し聲 河原枇杷男

蒔の離々として嗚呼鶴病めり 尾崎紅葉

麦飯もよし飯も辞退せず 高浜虚子

黒き穂の畑かなし山深く 山口青邨

田のを抜く年々の繰返し 太田土男

子育ての終りに抱ふの丈 影島智子

粟穂穂や朝から樵酒びたり 荒井正隆

蒔の鷺のふりむく昼寝かな 龍岡晋

麦飯もよし飯も辞退せず 高濱虚子

蒔の離々として嗚呼鶴病めり 尾崎紅葉

蒔に月さし入るや板廂 泉鏡花

鳥籠のぬれてゐる雪解かな 永井龍男



の葉の門より高きあつさ哉 一茶 ■年次不詳

の穂は垂り稲はツンツンと 竹下しづの女句文集 昭和十年



の穂や塀掛け渡す岨畑 ぜぜ-野径 俳諧撰集「藤の実」

の弓ため直ほす日和かな 水田正秀

仕事ともなく雲の田にひきに 松瀬青々

もげに世の中よかれ最がみ川 広瀬惟然


「尼崎神社案内」には10問一組のクイズが付されている。
今、最初の10問に挑戦。90点であった。
「神棚の正しい配置場所は」の3択問題が×だった。
この問題は3択だが、事実上は2択。「適当に、自由に」は正解でないことは自明だから。適当に自由になら、この問題は生じないはず。
美作の父親の実家の神棚を思い浮かべて方角を推定したが、まちがっていた。



入日

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猪名川と藻川の合流地点の手前を東西に山手幹線と呼ぶ道路が横切っている。
道路の南の部分は、二つの川を隔てる最後の隔壁であるが、そこは現在緑地になっている。

上空から撮影しないとその部分の位置付けは分かりにくいが、
平面で撮影。


↑合流寸前の猪名川を北向きに撮っている。
山は北摂の山
橋は山手幹線。左手が神戸方面。
川岸にバス停があり、右手は戸の内地区。数百メートル東、かつての猪名川水路が府県境になっている。

同じ地点からカメラを西へ向けると藻川との合流が見える。左手に突端部分から離れて小島がある。

西日が正面だが、やや南へ向くと、二つの川が合流して鉄橋の下を流れてゆくのが見える。
鉄橋は山陽新幹線のものである。鉄橋を超えた部分で、猪名川は神崎川と合流する。
神崎川には神崎橋という橋が架かっている。終電車が出た後、梅田の北新地あたりでタクシーを拾うと、かならずこの道を通る。国道41号線である。

その南で、東海道線のJR神戸線とJR東西線が並行して川を渡っているが、その地区は、神崎、西川地区で画像紹介したことがある。
そこは、JR尼崎駅からの徒歩圏内である。

↑の場所を、藻川側から眺めると
西日を背後にしているので画像はきれいに撮れる。

前面の川は藻川。半島になっている部分の向こうが猪名川。

突端の部分は自転車が通れるようになっている。

猪名川

岬の突端部分を上の緑地からながめている。↑

↑合流後の猪名川

山手幹線は二つの川を渡るが、その真ん中の陸地の部分にタイムカプセルが埋められている・

その部分の西が高田地区で猪名川に架かる橋を渡った部分は戸の内地区。この地域は、府県境は猪名川ではなく、やや東にある旧猪名川緑地

川挟み二つの神社秋没日



二つの川の両端(東西)に素盞嗚神社がある。

高田素盞嗚神社と戸の内素盞嗚神社。

高田素盞嗚神社

神社のすぐ南に関西ペイントの大きな工場がある。↑
ネットで調べたら、1917年創業の地で、今も登記上はここが本社事務所である。

この近くまでは車で年に4,5回は来ている。すぐ西にコストコ尼崎店があるので。

戸の内素盞嗚神社

阪急塚口駅駅前からも戸の内行きのバスが出ているので、戸の内という地名は知っていたが
ここへくるのは初めて。

今日もそのバスでここへ来る予定であったが、日曜祝日は戸の内行きのバスは運行されていないことがわかったので、電車で園田駅まで乗って、そこから戸の内まで歩いた。

ほぼ1万歩。


神社の鳥居の道を挟んだ家。神燈を掲げる装置があつらえられているのに感心。
よく見るとこの家は、社務所であった。




白井神社

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10月31日 50名近い参加者があった句会に出席。
会場は堂島の1931年竣工のビル。中央電気倶楽部。

第2次大戦で焼け残った数少ないビルの一つだから、戦後は米軍に接収されていたかも。

出句3句

天高く近大鮪の列に付く
 (グランフロントビル経由で会場へ着いたので)
薄れゆく女人禁制鵙高音

阪急電車の梅田駅からは、JRの大阪駅の西側改札口を経て
あるいは正面の入口からヒルトン・ホテル側へ渡って肥後橋の方を目指すので徒歩10分以上かかる。途中もう一つ古色蒼然に近いレンガビルが残っている。

一階はイタリアンの店になっているが、このビルのオーナーとは知りあいである。
2階で直営のイタリアンの店を営業していたが、3回ほど利用させてもらった。ワイン1本のサービスがあった。今はビルを手放したようである。

昨日は、2つの素盞嗚神社以外に、2つの白井神社を「訪問」。

善法寺白井神社と額田白井神社

善法寺白井神社


白井神社という名前の神社は全国でも珍しい。
この周辺に白井神社が4社ある。ひとつは、道標が移設されているというので訪ねたことがある。


一説では、この周辺には渡来系の人が定着していたということから
新羅神社が転訛したのではないかということであるが、由緒書では18世紀の事実しか述べていない。

献灯や狛犬は比較的新しい。
神社近くには、必ずと言っていいほど、氏子総代を代々になってきたと思わせるような家が数軒残っている。


額田白井神社


こじんまりした神社である。私にとっては47社目の訪問先。
(正確には、この後で、高田と戸の内の素盞嗚神社を訪れたので、
45社目で、47社目は戸の内の神社。

今日は大阪句会参加
4句 謙題「深」

虫癭へ近寄る幼児安保法
備蓄バター1KG菊日和
アドレスと住所の違い割石榴
紀伊國屋へ深入りせずに秋の野へ




合流

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わが家からみて北西の角に家。我が家とは対角線上。
10月30日、里桜が伐られた。

この通りには、北へ向かって100坪~150坪の家が並んでいた。
ほとんどが一族らしく、同姓の表札が並んでいたが
代替わりでどんどん姿を変えていっている。

ここもその一角であったが、2軒の家とパーキング場に変わった。

11月1日 同邸の石榴の木


11月2日


11月4日

この家は目下空き家である。
1週間以上造園業者が出入りして、毎日、小型のトラック満杯の伐採材を積み出していた。
西と南に面している我が家のベランダからは、込み入った家並みと複雑怪奇な電気・電話の架線しか見えないが、唯一、この方角、西北部分には緑と季節の樹花が見えた。
それも不可能になった。


4日の句会での私の選
5句

空席の微かな温み星月夜
ハロウィンここにふて寝の土手かぼちゃ
裏切りや種なし葡萄の種を噛む
恋文のように十一月の雨
ゆく秋をフル運転のシュレッダー


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合流

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空家もう一軒
20年以上空き家状態の家

これほどではないしにしても、家の周囲に空き家は増えている。
ある日更地になって数軒の家に変わることもよくある。
あるいはこんな狭い土地によくまあと思うような豪邸が建つこともある。
近所に150坪の土地に一杯部屋数がある中古の家がついて1億5千万で売りに出ているが、目下買い手はいないようである。

我が家から徒歩数分以内にも5軒以上空き家があるが全国平均では100軒につき13軒が空き家らしい。放置された空き家が20軒を越えると地域にいろいろ問題が発生するようである。


エビソウ
極めて花期が長い。11月になってにわかに勢いが付いた気配も。
色艶がよくなった。

道端の花 一輪だけ。
画像をこのブログ執筆前に投稿

ハブランサス・アンダーソニーとゼフィランサス(サフランモドキ)の二つの回答あり。

さてどちらか?

ハブランサスは横向きに咲くそうだから、こちらかな、と思ったら、
ゼフィランサスは日本の気候に順応して人里で野生化していると解説もあり、
画像は、家のまん前の道路の端でさいているので、ゼフィランサスと思ったり・・・。ゼフィランサスはもうちょっと大きめの花ではなかったかと思ったり・・・。




猪名川と藻川の合流地点ほど見晴らしはよくないが、
昆陽川と庄下川の合流地点。
より正確には、昆陽川と上坂部川が合流してごく短い距離のみ久々知川と名を変え庄下川に合流する地点。
なんどか画像紹介したが、合流する突端まで覗きに行ったのは今回が初めて。

↑川下から北側を見ている。
左手が庄下川、右手が久々知川。

この灯台を見に行った。

小さな公園になっている。


台の中央部分にラベルが見える。これはこの地点の海抜を示したもの。
その横ともう少し右上にも文字がみえる。
↓これは案内板

「海抜1.8メートル」は読める。

鰤起し海抜ゼロの町揺する 篠田悦子

夏薊海抜千メートルの駅 宮内容子

夜振火を焚く海抜の高き川 矢田部美幸

体臭に海抜一〇〇〇の藤ふるふ 品川鈴子

酷寒の海抜千五百サイ口立つ 大島民郎

餌を漁る白鷺海抜0メートル

灯台のある地盤が1.8なら川面は0メートルであろう。

きちきちや燈台に飛びすがるべく 行方克己 知音

燈台につゞく一枚大根畑 有働木母寺

燈台の螺旋階段掃納む 高橋紀代

聳え立つ燈台冬の雨寄せず 金子麒麟草

数へ日の菜を摘みに出て燈台守 下田 稔

燈台守怒濤に葛を刈り落す 米沢吾亦紅

燈台のコスモス海になだれおつ 石原八束

燈台の高さを飛んで秋燕 細見綾子

燈台の他は暗き灯釣忍 倉田俊三

燈台は美少女を容れ卯浪立つ 藤田湘子

燈台の一坪畠荳の花 西谷芳雄

木の芽風燈台白をはためかす 桂 信子

燈台を離れて来れば春の蝉 三好潤子

蜜蜂がくる燈台の茱萸の木に 高木良多

燈台の灯のまたたきて霙ふる 畔津 とみ

燈台の灯り一つよ無月かな 西野 ノブ

燈台の黒き石垣浜おもと 木村 都由子

燈台の裏窓一本の葱吊す 古舘曹人

燈台の旗は紺色夏燕 高木晴子

燈台に人来て寒燈すみずみに 加藤憲曠

燈台に輪飾のある怒濤かな 田川飛旅子 『邯鄲』

燈台の町に住みつき注連飾 柴田白葉女 『夕浪』

燈台の燈が雪原へ伸び切れず 河野南畦 『硝子の船』

燈台の点滅に浮く波の花 林 照江

無人燈台砂に千鳥の址とどむ 大野林火

燈台へ笹鳴の径折れつづく 砂田貴美子

燈台に灯すこころや秋隣り 飯田蛇笏

燈台を守る菜園の胡瓜咲く 山本満義

燈台がともる海亀縛られて 山口誓子

茄子の苗燈台守にとどきけり 大串 章

盤石をぬく燈台や夏近し 原 石鼎

葱坊主燈台に風鳴るところ 沢木欣一

燈台ははや木苺の花白し 山口青邨

燈台の子に木苺の花早し 高野素十

鞦韆や燈台守の垣のうち 高野素十

燈台の灯のとどくたび冬田見ゆ 倉持嘉博

燈台の影につまづく冬の蝶 近藤暁代

燈台の影の一本日脚伸ぶ 白井爽風

燈台守今は住むなしましら茸 澤田 緑生

残る虫無人燈台影長き 水原春郎

燈台を芯に島伏す雁渡し 服部鹿頭矢

燈台に懈怠ただよふ海桐の香 橋本 榮治

燈台の昼羽抜鶏かくれなし 秋元草日居

燈台に大き没日やすだれ巻く 山口 季玉

母の日の燈台母の灯なりけり 続木 一雄

一行詩白南風に立つ燈台は 福永耕二

晩涼の灯に燈台の灯もまじる 下村ひろし

燈台光めぐり来るたび花吹雪 水原 春郎

白波の浮燈台や春一番 岡本静子

依代のごとき燈台雷火立つ 橋本榮治 麦生

燈台もわれも孤と立つ南風の中 橋本榮治 麦生

ただ寒潮燈台チヨークほどに立つ 保坂春苺

燈台の遠き燈加へ冬銀河 坂本文子

蓼紅き燈台下まで出羽の国 佐野まもる

燈台のぐみの実に舌しびれたる 原田しずえ

無造作に燈台守は鱸提げ 景山筍吉

鰡飛んで燈台遠くともりけり 河原白朝

稲架の間に燈台ともる能登の果 水原秋桜子

燈台守に九月の空の澄み来にけり 鈴木鵬于

燈台を訪へば鯖舟出さかるよ 皆吉爽雨

葱坊主燈台に風鳴るところ 沢木欣一

燈台の仮仏壇も御忌支度 岡本無漏子

燈台の影が日時計汐干狩 藤井亘

燈台に輪飾のある怒濤かな 飛旅子

初凪に岬燈台白一指 誓子

年頭の燈台白しと報げやらむ 草田男

早梅や懸燈台の薄明り 史邦

燈台を思ひ出しをり蒲団干す 秋を

きり~す燈台消て鳴にけり 素秋

燈台に灯すこゝろや秋隣り 蛇笏

菜の花や燈台にある明り窓 草堂

白墨ほど桃の花間の燈台は 子郷

鞦韆や燈台守の垣のうち 素十

夕がすみ燈台ともること早し 年尾

燈台は白くかなしき牡蠣の宿 佐々木有風

燈台をコンパスとして海涼し 下村梅子

秋の人白し燈台なほ白し 坊城俊樹

いとど髭を燈台の灯のごと廻し 村松紅花

蓬萌えそめし燈台暮しかな 清崎敏郎

燈台は白くかなしき牡蠣の宿 佐々木有風

燈台の太胴荒肌颱風慣れ 茨木和生

サフランを誰かが買へり枯燈台 細見綾子

燈台を訪へば鯖舟出さかるよ 皆吉爽雨

燈台の曳くえぞにうの白裳裾 原柯城

磐石をぬく燈台や夏近し 原石鼎

夕がすみ燈台ともること早し 高浜年尾

燈台を迂回してゆく*さより船 新田祐久

非番なる燈台守と夜店に遇ふ 冨田みのる

燈台の花が蔽へる無電室 冨田みのる

燈台の厚壁のぼる黒揚羽 下田稔

泳ぎ子の見上ぐ燈台能登の涯 杉本寛

燈台真昼千鳥の啼くをきく 杉本寛

蝿失せぬ燈台までの赫き崖 杉本寛

燈台の初点の日付渡り鳥 大串章

田打つ果燈台と知る小さき白 宮津昭彦

燈台を思ひ出しをり蒲団干す 加倉井秋を

南風暮るる燈台事務所障子に灯 亀井糸游

磐石をぬく燈台や夏近し 原石鼎(1886-1951)

燈台や千鳥めぐつて鳴いて行く 寺田寅彦

燈台や霧吹きめぐる岩の角 寺田寅彦



薄紅葉

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奈良:
楓そのものは薄紅葉だが、ナンキンハゼは照紅葉段階。
俳句で「櫨紅葉」という場合は、ハゼ、ヌルデ、ウルシ、なかんずくハゼの紅葉を云うのであろうが、そのあたりは鷹揚なのが俳句の世界。
ナンキンハゼは高木になる。今ではナンキンハゼの実が木蝋に利用されているらしい。
ハゼの木も10メートルに育つらしいが、そんな大木の櫨はみたことがない。



猿沢の池のほとりの店に入ってざるそばを注文。
これは明らかにゆで上げてから冷蔵庫で冷やしたもので、まずかった。


↑14時現在
13時に入場したが、待ち時間は10秒といった感じ。先に入場する数人が入場券を渡す間のみ立ち止まった。14時には外へ出た。

東大寺南大門前、さすがにここだけは押すな押すな。
先日、鹿にせんべいをやろうとして襲われた外国人観光客の数が増えていることをNHKが放映していたが、
今日あたりは、10枚150円の煎餅を子供が鹿の鼻先へこわごわ
差し出しても鹿は見向きもしない。もうちょっとうまいものを食わせろといった感じである。

煎餅の爆買い客が朝のうちにたっぷりふるまったからであろうか?

バンビー保育所か?

奈良漬をならべて奈良の春祭 大野紫陽

菊に出でて奈良と難波は宵月夜  松尾芭蕉

奈良坂に百姓家あり土竜打 中村三山

鹿は奈良の若水の灯に啼くもよし 久米三汀

人日の灯の明るくて奈良漬屋 吉田成子

昼を灯して奈良古町のお元日 塘 柊風

冬桜庭下駄厚く奈良に在り 桂 信子



暦売る家あり奈良の町はづれ 五十嵐播水



年の瀬や奈良日吉館灯を洩らさず 藤田湘子

黄落の奈良には苔の道多し 小寺正三

旅人に奈良茶粥あり柿日和 清水杏芽



奈良なれば大仏殿や渡り鳥 尾崎迷堂

制服の少女あふれて鹿の奈良 加藤三七子

吊し柿して奈良墨の老舗たり 伊藤柏翠


行く秋の虹の半分奈良にあり 広瀬直人

街道にくだけし瓜や奈良格子 桂 信子

奈良坂にわが身漂ふえごの花 山上樹実雄

奈良坂の家うち暗きさるすべり 桂 信子

松蝉や奈良に食ひたる麦の飯 藤田湘子

青丹よし奈良の毛虫におののくよ 平畑静塔

浮巣より昏れて人絶ゆ奈良盆地 杉本雷造

古家や奈良の都の青簾 正岡子規


格子戸も奈良墨の香ぞ大西日 伊藤三十四

はじめての道も青水無月の奈良 皆吉爽雨



奈良はよし朝餉の卓に初桜 福田蓼汀

鳥雲に奈良はいづくの空も塔 井沢正江

角落ちて淋しき奈良の月夜哉 正岡子規

水取や奈良には古き夜の色 松根東洋城

奈良阪や鹿追ひのけて畠打つ 正岡子規

奈良山焼雨にひるみしまま終る 宮岡計次

辿り来し奈良風俗や御祭 磯野充伯

恋すてふ角切られけり奈良の鹿 小林一茶

奈良七重七堂伽藍八重ざくら 松尾芭蕉

奈良坂の割箸しろし蕨餅 田島和生

奈良七重草餅十二神将に 田仲了司



奈良の闇焼きたる山の闇加ふ 野澤節子 『駿河蘭』

山焼の一夜の紅蓮奈良に雪 野澤節子 『駿河蘭』

美しき奈良の菓子より春兆す 殿村菟絲子 『菟絲』

お降りやたひらに減りし奈良の墨 殿村菟絲子 『旅雁』

修二会の奈良に夜来る水のごと 角川源義 『冬の虹』



もの問ふと奈良の刈田へはひりゆく 飴山實 『少長集』

恋すてふ角切られけり奈良の鹿 一茶

菊の香や奈良には古き仏達 芭 蕉

白桃に奈良の闇より藪蚊来る 沢木欣一

奈良の旅籠の飯に太刀魚塩辛き 滝 春一

満月の暗闇多き奈良の町 加藤知世子

秋の燈やゆかしき奈良の道具市 蕪 村

馬酔木咲く奈良に戻るや花巡り 河東碧梧桐

奈良七重七堂伽藍八重ざくら 芭 蕉

鳥雲に奈良はいづくの空も塔 井沢正江

水取や奈良には古き夜の色 松根東洋城

風花の遊ぶや奈良の刃物店 沢木欣一

お降りやたひらに減りし奈良の墨 殿村菟絲子


萍の赤きに奈良の時雨かな 伊東慶子

角切や鹿と組み合ふ奈良法師 由 平



奈良坂にわが身漂ふえごの花 山上樹実雄

掛香やきのふは奈良の大雨に 柳澤和子


あをによし奈良には阿修羅麦の秋 高橋紀子

馬酔木咲くや奈良の古山かぐはしう 松根東洋城

奈良七重七堂伽藍八重桜 芭蕉

いにしへは奈良酒で見ん八重桜 重 頭


山焼きし匂ひがぬつと奈良の町 高畑浩平

青によし奈良の都の蕨餅 天谷 敦

青丹よし奈良は影絵のお山焼 貞吉直子

襟立てて遠くに奈良のお山焼 倉田 健一

名を書くや奈良墨にほふ雑煮箸 的場 敏子

お降りやたひらに減りし奈良の墨 殿村莵絲子


奈良坂に衣干したる秋桜 橋本榮治

邯鄲や一燈くらき山の駅 奈良千代子

奈良坂に夕刊遅し月の鴟尾 桂樟蹊子

蟇鳴いて木隠れ灯す奈良ホテル 松岡 英士


墨買うて仏に逢うて奈良遅日 浅沼 艸月

奈良坂に衣干したる秋桜 橋本榮治 逆旅

蕪村忌に磨る奈良墨の匂ひけり 福村青纓

柊を挿すや年経し奈良格子 水内菊代



鹿聞いて奈良を寒がる女かな 金森匏瓜



菊花展

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菊の季節には、何か所か菊花展巡りをしていた。京都の北山植物園はとてつもなく広い会場を用意できるので見飽きるほどの出品数であった。
枚方パークの菊人形展はたぶん一度しか覗いたことがない。
京阪電車にはあまり乗る機会がないので。

ここ数年は尼崎の菊花展を数回覗いている。

この前に覗いた時は、審査会開催以前だった。
今度覗いたら審査会は終わっていた。どのような手順で投票?審査が行われるのかはしらないが、尼崎の場合は、出品者数よりも賞品数の方がかなり多い。
よって大半の出品が賞を得ているとともに、一人の人が、いくつもの作品を出品しているので、
3つも4つも同一人物が受賞している。


3本仕立ての場合は、9鉢が1作品だから、受賞者の家の庭は菊1色であろう。

それとともに菊の愛好家は多くても、受賞作品の水準はどの程度のものか十分ご存じであろうから、俳句のようにビギナーズラックはまず期待できず、出品応募はしないのであろう。


新宅さんや高田さん、矢幡さんの名前は、3年も同じ菊花展に通っていると覚えてしまう。


↓大会大賞


阪急電車の梅田駅構内で、毎年、まさに名の通りの千本仕立てが2鉢、飾られていたことがあった。まさに丹精込めた作品であるが、いったいそれをどうやって運んできたのか、運搬費用だけでも10万では不可能なように思った。

そういう千本仕立てにはこの10年以上お目にかかったことがない。
「千本仕立て」で検索して画像集を覗いてみたが、かつて阪急電車の駅構内でみたような巨大なものは見当たらなかった。




どなたかのブログ掲載のものである。↑

新宿御苑の菊花展(2008年)に展示されたものだそうである。

そういえば、尼崎だけではなく、多くの菊花展でも、(巨)大懸崖も見なくなった。

スポンサー、あるいは有能な助手なくしてはできないのかも。

見つめゐる影まで掃かれ菊花展 能村研三

もたれあふことなき菊や菊花展 大木あまり 火球

特選に友の名のあり菊花展 福島武蔵

懸崖の滝のひびきて菊花展 村上辰良

亡き人の鉢も加はる菊花展 小林千穂子

閲兵のごと歩を移し菊花展 轡田 進

菊花展大賞は元学校長 堀 政尋

比宮の神みそなはす菊花展 松本美簾

菊花展めぐりし髪の重さかな 丹羽 啓子

蓑虫庵出で来て眩し菊花展 斎藤節子

急逝の友の特選菊花展 熊田鹿石

本丸の人流れ来る菊花展 藤谷紫映

受付も菊に埋もるる菊花展 川村ひろし

子育てもかくやと並ぶ菊花展 石井達郎

国賓の雨を厭はぬ菊花展 中山允晴

媼らの日向選りゆく菊花展 高野喜八郎

菊花展より戻りたるばかりの鉢 西村和子 かりそめならず

菊花展背後は弱き風の幕 山下幸子

城壁に矢弾の痕や菊花展 小路智壽子

猪垣をして菊花展してをりぬ 上野さち子

風が来て蓆を飛ばす菊花展 遠藤梧逸

菊花展見てきて紐をもてあそぶ 鳴戸奈菜

飾り了へ掃き了りたる菊花展 深見けん二

うしろよりさし込む夕日菊花展 深見けん二

菊花展と天守を結ぶ飛行雲 田川飛旅子

うしろよりさし込む夕日菊花展 深見けん二

飾り了へ掃き了リたる菊花展 深見けん二

五郎丸

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今年の9月11日、吟行会で西宮の門戸厄神へでかけた。厄神道をぶらぶら歩いていると妙な名前の表札に出会った。

「五郎丸」。

珍妙な姓と思い、画像に収めた。
それから2か月、全国民がこの名前を知っている。

私などは、CK や FKあるいは、MFが何の略かようやく解説なしに読めるようになり、画面を見ていてあれはオフサイドだなどと言えるようになったところなので、ラグビー用の略号はまだ「復元」できないし、役割や所作も理解できていない。五郎丸さんのポジションはFBということ、
それがフルバックの略称であることは今日知ったが、FBの役割はまだ学んでいない。

五郎丸は福岡県に多い名前のようである。
日本人100人が集まれば、そのうち2人は確実に佐藤さんである。
韓国人100人が集まればそのうち40人は金さんである。
韓国の人口5000万人のうち2000万人近くが金さんだそうである。
小学校などではクラスの半分が金姓であるどころか、学校全体では同姓同名の子が2組以上いるのではないだろうか。
(それで思い出した。小学校5年の折、同学年に同姓かつ同名の子がいた。姓名の下に、1,2という記号が振られていた。二人は同族でかつ家はともに薔薇の園芸農家であったように記憶している。)

五郎丸さんは日本に900人ほどおられるとか。珍しい名前であることは確か。

今の時点では五郎丸以外の「有名選手」の名を一人も記憶していない。

・・・

↑綿
↓ナンキンハゼ

御物展南京櫨のいろづけば 大島民郎

明らかに奈良の正倉院展へ毎年通っておられる人の句である。

南京櫨で検索、この1句しか出てこなかった。

南京櫨はそれじたい、桜のように季語ではないと思う。
他方、歳時記に載っているかどうかは関係なく、今や「正倉院展」は季語であろう。

この句の場合は、南京櫨紅葉ないし櫨紅葉が季語の役割を果たしている。だから季語の資格がありそうな「正倉院展」という言葉を5音を越えることもあって使用を避け、「御物展」としたと解したい。

↓皇帝ダリアも咲きだした。

↑緑化植物園の南京櫨



櫨で検索

上の「南京櫨」の句も当然登場すべきだが、出てこない。


採唄なぜ採りの子となりしと 橋本多佳子

と名札掛けられ枯木なる 磯野充伯

は実を黒々垂らし冬に入る 山口青邨

の実を風鳴らし過ぐ殉教碑 藤崎美枝子

の実の 黄なるひかりが 冬をよぶ 吉岡禅寺洞

紅葉越しに原爆ドーム見る 稲畑汀子

水もまた燃ゆる彩とし紅葉 桑田青虎

紅葉一艇ダムに揚げしまま 堀 葦男

紅葉築山に日の移りたる 山口 重

水勢を火急と見たり紅葉 上田五千石

紅葉熔岩原わづかなれど暮色 加倉井秋を

紅葉屋号残せる蝋の蔵 上原白水

むさしののの紅葉に袖触れゆく 大野林火

青空を鈎に引寄せちぎり 廣瀬釣仙

採りの真顔すなはち口とがる 布施伊夜子

をもぐ 銀灰の空の ちぢまりに 吉岡禅寺洞

ちぎる襤褸のごとくに枝にすがり 向野楠葉

の木の火の病葉を舟の上 石田勝彦

清姫の恋に燃えつき紅葉 林 博子

一荘の一老幹の紅葉 猪頭 星荘

裸木のの実少し残りけり 坪井 さちお

村人に馴染まぬ女榠の実 南 冨美子

紅葉口あきて鯉ずんどうなり(白沙村莊) 殿村菟絲子 『旅雁』

鳰鳥の息のながさよ紅葉 山口誓子

さりげなく嫁をほめをり紅葉 広津幾代

紅葉稲刈る人日々赤し 高浜虚子

紅葉おのが情をもてあまし 檜 紀代

熟れて鳥放生に任せたり 石塚友二

の実のしずかに枯れてをりにけり 日野草城

刈草の子つぶらに露しめり 飯田蛇笏

の実を風鳴らし過ぐ殉教碑 藤崎美枝子

熟れて鳥放生に任せたり 石塚友二

なほざりの鉢とて急ぐ紅葉 外山智恵子

紅葉足るを知りたる彩ならむ 林 享子

林泉の起伏の奥の紅葉 中野陽路

紅葉農夫に没日とゞまれる 赤尾兜子

薄紅葉が入日に枝をのぶ 水原秋櫻子

採りの真顔すなはち口とがる 布施伊夜子

満月や黄の葉紅くて眠られぬ 小川久美子

紅葉人嫌ふ日も恋ふる日も 田中ひろし

取の頭が出たる梢かな 三浦十八公

ちぎりつくしのふるき路にみる 小田南畝

の実やむかし陣屋の門構へ 古木新三

竹林へ一幹かしぐもみぢ 能村登四郎

近よりて白き息吐く紅葉 栗生純夫

の実のしづかに枯れてをりにけり 日野草城

紅葉死後こそ永し山の窪 殿村莵絲子

燃えしあと散るほかはなきならむ 稲垣きくの

高原の色のはじめの紅葉 滝佳杖

山風やしづかにおごる紅葉 五味洒蝶

万葉の防人が野に炎ゆる 田中鬼骨

紅葉ただうとうととねむりたし 加藤楸邨

紅葉牧のあめ牛みごもれる 内藤吐天

鳰鳥の息のながさよ紅葉 山口誓子

茶立虫啼きをり家を追はれをり 山本

取に真白き雲のひかりとぶ 毛利明流星

猿のごとの実採りてゐたりけり 三由淡紅

命綱解いて煙草やちぎり 高崎雨城

取の頭が出たる梢かな 三浦十八公

ちぎりつくしのふるき路にみる 小田南畝

取りを蹴て牧馬のかけそれし 高田蝶衣

ちぎる梯子の下に落ちゆく日 属朔夏

名月にあからみそめよ楓 文鳥

堆の霜はもみぢを尽しけり 麦南

鳰鳥の息のながさよ紅葉 誓子

どの山も簪差して紅葉 務中昌己



紅葉死後こそ永し山の窪 殿村莵絲子

鬼神とも無我ともなれず紅葉 赤尾恵以

(はぜ)の実を買ひに近江の木蝋師 藤田あけ烏 赤松

不知火や臍のきしむ父の海 中村石秋

取りを蹴て牧馬のかけそれし 高田蝶衣

紅葉尾花の中に枝わかれ 鈴木花蓑

むさしののの紅葉に袖触れゆく 大野林火

紅葉牧のあめ牛みごもれる 内藤吐天

鳰鳥の息のながさよ紅葉 山口誓子

の実の干の房々会へぬ母 宮崎文恵

入日雲負ひて攀ぢゆくちぎり 能勢真砂子

ちぎる梯子の下に落ちゆく日 属朔夏

薄紅葉が入日に技をのぶ 水原秋桜子

の花溺るゝ才も無く寧し 佐藤いさむ

紅葉鬼女洞窟を荘厳す 町田しげき

鳰鳥の息のながさよ紅葉 山口誓子(1901-94)

雉立つて水辺ののひた紅く 久米正雄 返り花

紅葉にも燃ゆる色沈む色 稲畑汀子

黍殻布いて牛のねて居るの蔭 寺田寅彦

小松小笹所々の紅葉 寺田寅彦

十里堤上悉く紅葉す 寺田寅彦

紅葉刈田の中に小き沼 寺田寅彦

鬼となり言の葉を吐く紅葉 高澤晶子

山の音明るくなりぬ紅葉 古賀まり子

新入生と母とが戻る畔の子(しどみ)だ 北原白秋

子小笹は春を寂びにけり 松村蒼石 露

紅葉よと指されつつ窯の脇 永井龍男


落葉舞うアカシア並木五郎丸

樹は巨木ではないが古木である。
根がアスファルトを割り、ごろごろではないものの、凸凹である。
五郎丸の名の謂れは、ごろごろした荒地の意味らしい。


チロンリアンランプ

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歳児と今日13歳になった子に、↑アプチオンと教えた。
画面では見にくいが、「アプチロン」と教えた。
どういうわけか、二人とも、アベリアとアブチロンだけはすぐ覚えた。
先日、↓の花の名を「花図鑑」の投稿欄で尋ねたらアブチロンという回答があった。

アプチロン 以外に アブチロンという花があるのかと一瞬思ったが、そうではなかった。

アブチロンが正しい名前であった。
今では、↑の花を、アブチロンと呼び、私がアプチロンと呼んで、二人の孫に教えた花は、アブチロン属(イチビ属)ではあるが、アブチロンとは呼ばず、ウキツリボクないしチロリアンランプと呼ぶようである。

この夏はついにイチビを野で見る機会はなかった。イチビもアブチロンもチロンリアンランプも同属らしい。

桜紅葉

楓紅葉は、最近では12月初旬が盛りである。


桜紅葉鱗剥がれていくごとし 高野ムツオ 蟲の王

一本の桜紅葉や魯迅の碑 佐治英子

風師山の桜紅葉の道長し 龍 康夫

室生口桜紅葉の下にバス 星野恒彦

桜紅葉蹤きゆくことの寧からず 永方裕子

淡墨の桜紅葉の雨雫 茨木和生

なほ残る桜紅葉は血のいろに 原 裕

上り行く桜紅葉の並木道 中村 志ま

神苑の桜紅葉を拾ひ来し 並松 玉哉

下枝はみくじの占めて桜紅葉 田中芙美

母病みて桜紅葉の遠き嶺 原 裕

桜紅葉しばらく照りて海暮れぬ 角川源義

八月の桜紅葉を掃けるかな 富安風生

桜紅葉車寄せなる金モール 立川京子

なほ残る桜紅葉は血のいろに 原 裕

あたらしき桜紅葉で涙拭く 仙田洋子 雲は王冠

眼鏡ふかく日の射し桜紅葉かな 河合照子

桜紅葉しばらく照りて海暮れぬ 角川源義

あたらしき桜紅葉で涙拭く 仙田洋子

好きな道桜紅葉の頃なれば 稲畑汀子

牧場の桜紅葉に沿うて径 高浜年尾

人の世の桜紅葉を僧の掃く 櫛原希伊子

宿おの~橋あり桜紅葉かな 久米正雄 返り花

雨に濡れし桜紅葉を詠みしひと 田中冬二 俳句拾遺

死はかねて桜紅葉のうしろより 手塚美佐






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