アブチロン=チロリアンランプ
もっとよく見かけるのは耐寒性のあるタイプで見事にランプ型をしている。
能勢に名月峠という名の峠があるそうである。
ウィキペディア:
名月峠(めいげつとうげ)は、大阪府豊能郡能勢町にある峠。標高約270m。
概要
暮坂峠・逢坂峠・坂井峠と共に、能勢町中部を南北に貫く山地にかかる峠の一つ。竜王山(標高462m)の北側を越える。トンネルは無く、大阪府道4号茨木能勢線が東西に切通しで抜ける。
伝説
昔、摂津国御園荘(現在の尼崎市)に住む領主・三松国春が子を授かろうと大日如来に願をかけたところ、仲秋の名月の夜に娘が生まれたため、名月姫と名付けた。美しく育った姫は能勢家包に嫁ぐこととなり、能勢大里の地へやって来た。
能勢氏の許で幸せに暮らしていた名月姫だが、姫の美貌を聞きつけた平清盛が横恋慕し、能勢氏から姫を引き離そうとした。名月姫は悲嘆に暮れつつも清盛の権勢には抗し難く、能勢を去り清盛の待つ福原へ向かったが、大里から程近いこの峠で能勢氏への操を守り自害した。
姫の亡骸を祀った墓所が今も峠近くに残る。婚礼の行列や「結婚」に関するクルマはこの峠を通らない不文律があるという。
尼崎市尾浜八幡神社に残る伝説とはやや(かなり?)内容が異なる。
民話というものは、書かれたものではなく、一つの完結した話にまとまるまでには、
何人かのその時代、その地方における伝承者が、記憶違いや、話の筋を一貫させるためにの挿入や削除を経て、かなり遅れて文章化されるものであろう。
ある(社会)制度が前提になってその話は成り立つのであるが、話しかける対象が、その制度に馴染んでいなければ、その人たちに理解しやすいように、新しい時代の制度の中へ適用させるために話の前提を置きかえる「工夫」も必要であろう。
歴史的事実であることを強調するためには、その当時のその地域を越えて有名なそういう行動があってもおかしくない人物の名を借りることもあろう。
行基菩薩や弘法大師にかかわる話の多くは、そういうかたちで、本来は他の人の業績にすべきものが、その人が信奉していた、あるいはその人の師であった行基や空海の名とともに加筆修正虚飾されて伝わっているのであろう。
御園荘とはなにか?何十町歩(何百町歩?)かのまとまった区画があり、そこに領主がいたような気配であるが、この辺も民話(伝承)が固まりつつあった時代の現地(能勢)では多田荘などが念頭にあったからであろう。
尾浜にも御園ないし橘御園はあったようであるが、現地では事情が分かっているので領主などという名ではなく、豪族として三松国春が登場する。(立花村のたちばなもまたこの柑橘類を示す橘から連想して
六つの村の合併に際して、その六つの村に関係があったがどの村の名にも関係がなかった
たちばなを「立花」という新しい表記(画数が少なく書きやすい、覚えやすい)で、採用されたものと思う。)
宝篋印塔こつと打つたる椿の実 野澤節子
名月姫の墓とは言えない宝篋印塔の左横、廃材が積まれている上に「名月」だけの文字が見える。↑ ↓
この画像は以前にも紹介したことがあるが、これを「道標」として紹介するのは今回が初めて。
市内残存の30基の道標を画像紹介し、ガイドブックによりそこに記されている文字を示したが、
上のような状態という事情だけではなく、文字はよく読めない。
「名月姫遺蹟 従是西三丁
在八幡宮境内」
と記されている由。(東3丁の産業道路沿いにたっていたのを1931年に境内へ移設、1945年焼夷弾により半折(「遺」と「蹟」の間で)したとのこと。
市内に残存道標が30基あるということを知ってから約2か月。これでそのすべての現況を示したことになる。
ただし私は、さらに平成25年になって、さらに3基の新しい「有馬道」を示す道標が久々知周辺に建てられたことを確認した。その数が3基であるかどうかは未確認。
設置者である小田会なるものと連絡が取れないので。