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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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サンユウカ

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田中さんから貰った
尼崎郷土史研究会『歩いて訪ねてみちしるべ  尼崎の道標』(2012)
は目下散歩時に(そうでないときも同じだが)持参するカバンの中の常備品である。

目標に近付くと、当該ページを中心に二つ折にして手に持っているので、
すでにぼろぼろ状態。

この冊子に振られている道標番号では⑨を見つけた
「下坂部道標」

狭い街道の姿を残す街角で発見。

そこに道標があると知っていなければ見過ごす石塊。

ほとんどまったく読めない。
その気になれば、正面の「左 尼崎」くらいは判読可能。

立っている位置は昔のままのようだが、方位は90度回転しないと合わないとか。

背面は覗きこむのも困難である。


↑この面には「施主 當村 釈教圓  
                 重兵衛 」

と記されているらしい。釈は真宗の戒名の最初の一字だから、故人を弔って息子が施主になったようである。

デジタル辞書

しゃく【釈】

 文章や語句の意味の解釈。
 講釈・講談のこと。また、その演者。講釈師。

㋐釈迦(しゃか)のこと。また、仏教に帰依したことを表すため僧が名の上につける姓。
㋑真宗で、法名の上につける語。
3のイ の用例である。

↑ 「右 中山 有馬
   左 尼崎      道」

右側側面、背面一人では撮影不可能

左 神崎 大坂 道

文久三年(1863年)発亥 八月


ところでこの道標に到達するまえに、真新しい別の道しるべを「発見」

例の「小田会」のものを思い出す。
しかし側面の字が読みづらい。

その後また別の道標に遭遇。
ガイドブック改定第三版には、以前紹介したものを含め新規に三基追加せねばならない。

やはり小田会の寄贈品である。
「右 久々口」で、その久々口の入口でみたものに続くのであろう。
過日見た道標↓

そして最後に「有馬道」の解説版につながってゆく。↓

しかし六〇周年記念行事で設置した石碑、石版は計4つかどうかは、会へ問い合わせねば分からない。

今日見たその石版と、近松門左衛門墓所を案内する門柱利用道標

春の夜に讀む近松の女かな 松瀬青々

その頃の恋は死ぬこと近松忌 前内木耳

近松忌重い遊女の木偶頭 浜垣和子

久々の下り役者や近松忌 中村吉右衛門

舟二つ見えて日暮るる近松忌 関戸靖子

身にしみる昔語りや近松忌 老川敏彦

小説の死が美しや近松忌 小室善弘

近松の戯作の川を舟遊び 後藤綾子

降りそめし浮世の雪や近松忌 茂野 六花

僧四人役者二人や近松忌 山田 静雄

夕月に湯屋開くなり近松忌 石田波郷

近松をまつりし小菊のこりけり 水原秋桜子

文楽の幕間華やぐ近松忌 酒井 武

旅にゐて装黒づくめ近松忌 森 澄雄

どの花を挿しても足らず近松忌 細見綾子

けふも亦心中ありて近松忌 高浜虚子

近松忌ネオンの花が水に咲く 桝井順子

倉一つ残れる木偶座近松忌 森岡花雷

妻と云ふ女とゐたる近松忌 鈴木五鈴

近松忌按摩のそこが悲鳴壺 丸山海道

近松の遊びし茶屋の春灯 山本圭子

祖母よりの鏡台みがく近松忌 鷲谷七菜子

近松忌寒きむかしも月夜にて 飯田龍太

阿波に生れ浪花に育ち近松忌 福田蓼汀

天晴れな再婚したり近松忌 滝沢伊代次

夕月に湯屋開くなり近松忌 石田波郷

なき母の絵双紙のこる近松忌 外尾倭文子

さかり場に鉄骨立てり近松忌 山口誓子

心中の花道くらし近松忌 水原秋桜子

近松をまつりし小菊のこりけり 水原秋桜子

けふも亦心中ありて近松忌 高浜虚子

烏賊のごと足袋つるされし近松忌 寺井谷子

方丈の炭火艶めく近松忌 藤村たけし

水のあるところ靄たち近松忌 鷲谷七菜子

大阪に来て夕月夜近松忌 大峯あきら

近松忌契結んでしまひけり 成瀬櫻桃子

旅にゐて装黒づくめ近松忌 森澄雄

いてふ葉の扇づくしや近松忌 木村頼二

内儀ぶりいつ身につきし近松忌 車谷弘 花野

近松忌北の新地で迷ひけり 近藤よしこ

なりはひの一人異り近松忌 星野立子

傀儡にも座設けしたり近松忌 水原秋桜子

近松忌乳の匂いの夜は満ち 高澤晶子

相似たる老の着物や近松忌 山本洋子

曽て世の男女の情や近松忌 山口誓子

烏賊のごと足袋つるされし近松忌 寺井谷子

夕月に湯屋開くなり近松忌 石田波郷

近松忌浪速に決めし旅の宿 冨田みのる

曾根崎のネオン見て過ぐ近松忌 冨田みのる

近松忌道行の坂落葉舞ふ 田中英子

鴈治郎亡き浪花津や近松忌 徳永山冬子

近松忌都心の河は澄むことなし 北野民夫

けふも亦心中ありて近松忌 高浜虚子

相似たる老の着物や近松忌 山本洋子

鏡台の塗りの剥落近松忌 鈴木真砂女

近松忌しのび泣きもす女とは 鈴木真砂女

烏賊のごと足袋つるされし近松忌 寺井谷子

近松の戯作の川を舟遊 後藤綾子

湯葉の香の二階まできて近松忌 永井龍男

舟二つ見えて日暮るる近松忌 関戸靖子

夜の雨ほのあたたかき近松忌 山本洋子

相似たる老の着物や近松忌 山本洋子

大阪に来て夕月夜近松忌 大峯あきら

門川にして激しさよ近松忌 大峯あきら

どの花を挿しても足らず近松忌 細見綾子 桃は八重

鳰どりも鴎もこゑの近松忌 森澄雄 空艪

近松忌かかるところに比翼塚 中村汀女


そこへ至る前に、まったく知らなかった案内板を見つけた。

みすぼらしいお地蔵さんの背後に豪邸がみえる。
寺の跡地が、この家のご先祖さんの所有になったのか?

しかしこの芝生ではまだクロケーは無理かも。
イギリスの都市郊外では、建物は赤茶煉瓦でいかめしいが
優雅なグリーンを誇る家が普通に並んで立っている。
ともかく尼崎市内でこれほど優美な家をみたのは初めて。
グリーンの反対側には大きな土蔵が残っている。
一部ベンツの車庫になっていた。

下坂部から久々口へ、さらに上坂部へ

↓上坂部を代表する家のひとつ

尼崎市都市美形成建築物

目下和風レストラン
庭をちょっと覗き見

その家の近くに道標。

ガイドブックの表記では、「上坂部・家紋入り道標」

優美な書体、くっきり彫りだされた家紋など文字通り白眉の名品だそうである。

「天保六年三月
 建主 大坂 浮田氏
世話人 當村 こばん石 與吉
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
家紋(地紙に分銅)  すぐあまが崎
              左 かん崎 大阪
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
右  小はま 中山 在馬  」

以上が、ガイドブックの三面の解読である。

大坂か大阪か、その部分が欠けているが、ガイドブックは「大阪」と読んだ。

毎月第四日曜日開催の句会、今月は都合で水曜日に変更。
そのせいで、私、昨日が月曜日で、今日が火曜日みたいな錯覚に陥った。

水曜日の句会での私の選


色なき風映しておりぬカーブミラー
白杖の確かな歩み十六夜に
ビーツ届くボルシチ赤くパン白く
頼られているを剥がして草虱
秋霖や土偶瞬き出来ぬまま
告白は全てあの世で松茸山


サンユウカ





サンタンカ

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サンタンカ


赤い色が本命のようだが。サンタンカ↑

夕日に向かって出かけた。

磐長姫神社


画像がすべて夕日に染まっている。


ガイドブック上のナンバー27
「北向き地蔵尊道標」



ちょっとめくってみたが、文字はかすれていた。

地蔵尊の下に

「すく  はつとり
 左  中山     道」

「すく」とは、「すぐ目の前が」の意味ではなく、「直く」の意味で
まっすぐ行けばやがて(いつかは)服部にたどりつく の意である。
ここから歩けば、まだ2時間以上かかるとおもう。

ここは尼崎の西の端(目の前に武庫川の堤防が見える)で、東の端まで行って藻川、猪名川を超えなければ服部には行けない。

この道標は、我が家から「すく」西進したところに位置している。

我が家の前が「津門中道」であった証になる。

ところでどうしてこの道が津門中道と呼ばれるのか。

江戸から長崎へ向かう場合、尼崎市内に3つのルートがあったらしい。

上、中、下街道と呼ばれたとか。
上は西国街道、下は、中国街道

そして中央の道が、津門(地名 西宮市)を経ていたからのようである。

詳しい説明はここをクリック。

一部引用。

最近、文政9年(1826)頃の古文書(地域研究史料館寄託収蔵・福田佐一郎氏文書のうちの一点)に、守部村の来迎寺住職が次のように記していることが発見されました。


尼崎地域には江戸と長崎を結ぶ街道が上・中・下の「三筋」通っており、守部村はその中の「中海道」沿いにあると言っているのです。この道は、今では阪急神戸線武庫川鉄橋の南側に架かる上武庫橋に通じる道路に変わっていますが、昔は一本南側の道から武庫川を渡って西宮市側の上瓦林村・津門村を抜け、西宮の町へ入っていました。


この道が「中海道」なら、江戸と長崎を結ぶ「上海道」は西国街道、「下海道」は中国街道ということになります。

・・・・

この「中海道」の守部から東のルートが富松・塚口を経由して神崎で「下海道」の中国街道に合流するのか、現時点ではこの点までをあきらかにすることはできません。しかしながら、「津門」を通る「中海道」と称されたこの道こそが「津門ノ中道」という道筋の名称に相応しいと考えられます。

津門ノ中道


綿虫や海道一重山幾重 百合山羽公

菖蒲葺き海道の町折れ曲る 百合山羽公

桃咲くや海道の星みなうるみ 百合山羽公

海道に赤き給油所鳥雲に 百合山羽公


海道に赤き給油所鳥雲に 羽公

海道のくらき昔の年の豆 百合山羽公


海道は緋牡丹明り義経忌 小枝秀穂女



抽んでて海道の松十三夜 川村紫陽

海道を好みて走るいなびかり 百合山羽公(1904-91)

ほととぎす水戸海道も夜船なり 山店 芭蕉庵小文庫

五輪塔

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現代尼崎の地図の上に、旧街道と道標の位置を示している。
ガイドブックに見開き2ページで掲載されている。

部分図  津門中道を中心に

昨日は、夕刻に、27を訪ねる。北向き地蔵道標。

今日は午前中に、23を「訪問」ついでに、守部の素盞鳴神社境内の2つの道標(24、25)も再撮影。周辺で見逃していたものを追加。

昼食後、↓④を撮影。
「出屋敷」行きのバスに乗って、1駅前に下車。東へ100メートル。
撮影終わったら、出屋敷駅まで歩いて、「阪急塚口」行きのバスに乗った。
ターミナル出発時点で、客は私1人。最後まで貸し切りかと思ったが、そうでもなく、
次の駅(往路の下車停留場)で一人追加、次々に乗客有り。半分以上の人が証明書見せて
お金払わないで乗ってくる。私は割引料金払っている。
帰りはいつも1つ手前の停留場で降りて歩く。

尼崎市内には、素盞鳴神社ないし須佐男神社は計22社ある。
市内の神社の数は66社だからちょうど3分の1がスサノオ神社。


「オラの村でも祭はじめようではないか」
「そうか、伝兵衛さんが裏の土地を分けてくれるなら、ワシが社殿建設費用を払ってやろう。
隣村の神主の次男坊主もそろそろ二十歳だんべえ。ならばあれを禰宜に迎えようではないか。
ついでに名前も素盞鳴神社とすべえか。漢字がむつかしいけん、「須佐男」の方がよかろう」
「では代表が手分けして、伝兵衛さんとこと、隣村の素盞鳴さんとこへいくべえか」
「山車や山車庫は、村中で配分して金子用意せねばなるまい。まあ3,4年豊作がつづいたし
村の(醤油・味噌・菰などなどのどれか)の売り上げも伸びてるからなんとかなるべえや」

人口が増えた新開地村で、つぎつぎにスサノオ神社が増える背景


泥付地蔵道標

お地蔵さん本体ではなく、
地蔵堂前に置かれた線香置き供物置きが道標になっている。

        か婦と山
 右        ミち
        にしの宮

となっているらしい。か婦と山は甲山のことである。
今は見えないが、家々の隙間から六甲の峰は見える。
武庫川の傍だから、昔ならすぐ目の前に甲山が(中腹に神呪寺かんのんじがある)。
武庫川を守部の渡しで渡れば(この地区は守部村である)西宮である。

しかし今道標の前に立つと、右へ行けば、守部素盞鳴神社への参道をあるくことになる。
ガイドブックはこの道標がかつてどこにあったかには触れていない。


この道標の石は五輪塔の最下部の地輪を転用したものらしい。
五輪塔は上から、空輪、風輪、火輪、水輪、地輪の5つの石からなっているらしい。




ウィキペディア

五輪塔(ごりんとう)は、主に供養塔墓塔として使われる仏塔の一種。五輪卒塔婆五輪解脱とも呼ばれる。

一説に五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利遺骨)を入れる容器として使われていたといわれるが、インドや中国、朝鮮に遺物は存在しない。日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く見られるようになる。このため現在では経典の記述に基づき日本で考案されたものとの考えが有力である。

教理の上では、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪からなり、仏教で言う地水火風空の五大を表すものとする。石造では平安後期以来日本石塔の主流として流行した。五輪塔の形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝殊型によって表される。密教系の塔で、各輪四方に四門の梵字を表したものが多い。しかし早くから宗派を超えて用いられた。

石造のものは石造美術の一分野として重要な位置を占める。


ウィキペディア:(結構長い。詳しくは左をクリック)

五輪旗の裏にもあるてふ迷彩色 飯田晴久

秋の川膝の高さの五輪塔 阿保恭子

いとけなき五輪塔より秋の声 青柳志解樹

つゆくさに一石五輪あつまりし 松本幸子

祈りにはあらず手套の五輪を組む 磐城菩提子

夏草に沈みて風の五輪塔 沼田一老

苔の上に椿落ちけり五輪塔 寺田寅彦

秋風や梵字を刻す五輪塔 夏目漱石 明治三十二年


五輪塔の残りも利用されている気配。

参道わきの水路極めて奇麗な水が流れている。武庫川から取り入れたばかりだからか?

氏子中の会長・副会長クラスの家並み

↑水屋である。まさか現役とは思わないが。
撤去は市から禁じられているかも。

というより市の墾請を受けいやいやながら残っている。?

茶碗などを洗うのであろうが、いったいどんな姿勢で洗っていたのだろう。一度水を汲み上げるのであろうか?

水屋(みずや)


ここで水屋とは2番目の前半の部分の意味である。
私は、美作用法の名残か(もっと一般的であったか)2番目の後半部分の意味で、使っていたが、今では私にとっても死語である。

ついでに守部素盞鳴神社「所蔵」の道標2本。再掲。

手水鉢

↑盃状穴 祈願のために穿った跡らしい。

またまたウィキペディア

石に対する信仰は日本でも古くから存在した。日本の盃状石は縄文時代から作られている。元々は磐座に彫られ、子孫繁栄や死者の蘇生を願ったものとされている。古墳時代には古墳の棺に彫られた。

鎌倉時代には村の入り口に魔よけの目的で作ったり、神社灯篭や手水石等に彫る事が多くなった。東大寺の転害門に彫られた盃状穴もこの頃に彫られた物である。江戸時代には従来の目的に加えて、昔作られたものを元にして新たに数多く作られた。盃状穴信仰は維新後も残り、昭和初期までは作られていたという説もある。

日本では明治時代坪井正五郎鳥居龍蔵によって考古学的な研究が行われたが、その後の考古学者の興味を引く事はなく、あまり研究は行われてこなかったようである。最近は民俗学の学者が研究している。

西本町8丁目道標

立派。これならかなり遠くからでも識別できる。
↓ 発起人 竹屋儀右衛門
  世話元  卯之助

左 西ノ宮 兵庫
右 大坂道


弘化三年 (1846年) 丙午歳 八月建立
世話人 難平 梶宗 東新田太蔵
     道善 綿源 大物豆九 玉伊 綿五

屋号のようだ。

午前は自転車利用
午後は往復バス故、徒歩は5619歩

10月2日は、11,507  3日は不携帯故、記録なし。

道標

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 尼崎郷土史研究会編の『歩いて訪ねてみちしるべ ―尼崎の道標』(2012)のおかげで、実によく歩いた。
 今日も15,1
23歩。直近の最高は、9月28日。18,913歩、13キロ、今日は10.5キロ。
駅前からバスに乗って「近松公園」の停留所の1つ手前で下車。
 右に左に、神社らしい杜(大抵は樟の大樹)を見つけると傍へ近づき、市内神社66社「征服」目録へ画像を継ぎ足しながら、道標を目指す。近松公園横の広済寺より南は、神崎・築地まで探訪を重ねたので、バスを降りると北を目指す。

 「食満(けま)西明寺道標」

(山陽)新幹線沿いに寺があるというので、まずは新幹線の高架を目指し「食満6丁目」へ。
歩いていると、ここは一度来たことがあると思う場所に何度も遭遇する。


寺の山門脇の標石が道標である。
有馬街道から下食満村へ入る辺りに立っていたらしい。今の場所から1町西の方角である。


方角が右、左ではなく「東」で示しているのが珍しいとのこと。
道が左右に振り分けになっていなかったからか。

この道標が立っていてもおかしくない場所に、今は、


参拝者用の面は、碑の背後で字は読めない。
しかしその面の記述がないと道標とは言えなくなる。


↑「南無阿弥陀佛     大坂
                万人  講
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 圓光   
        船中御自作二尊像  下食満村
 大師                   西明寺

「万人講」についてはウィキペディアの解説はなかったが、各種各様の説明があった。
年一回の寺の振舞い日のようであるが、全然違う内容(行事)を指すこともありそう。


寛保元年酉年六月  (1741年)
               その下に   「久々知氏
                       願主 河内屋嘉兵衛」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天下太平  川邊郡三十三ケ所廿一番札所
              観世音菩薩
國土安全  是より壱町東へ入



「杜若寺霊園内道標」



寛政五年(1793)  天霜月建立
・・・・・
南無阿弥陀仏
             右尼崎
             左大坂
・・・・・・・・・
願主     伊丹植松邑
        奥田浄光


まさに猪名の笹原の地である。

柳生街道笹原ふかくおとし角 中村翠湖

笹原に笹子の声のみちさだか 皆吉爽雨


秋立つやいなの笹原うつり来る 青蘿

笹原音絶えてより雪はげし 岡田日郎

銀塊の夕月熊笹原照らす 岡田日郎

花ぐもり笹原くだる山女釣 滝井孝作 浮寝鳥

しぐるゝや笹原もどる兎狩 寺田寅彦

妹許や露の笹原踏み分けて 寺田寅彦

笹原や何にすがりて藤の花 会津八一

笹原や笹の匂も日の盛(八年) 芥川龍之介 我鬼句抄

笹原に光陰流れ青あらし 伊藤敬子

笹原に硫黄匂へり夏鴬 横山白虹

東風に暮れて笹原を村に下りけり 臼田亞浪 定本亜浪句集

秋たつやいなの笹原うつり来る 松岡青蘿


辻地蔵

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「辻」で検索。
1162句と出たが、
辻桃子さんなど、「作者名」に「辻」を含む人の句が多いので、
ダブリも除けば、10分の1位になるかも。

最初の100句から、姓・名の辻を削除すると
以下。7割近くがカット対象。これは1162句の平均ではないはず。
後へ行くほど、ダブリが増加するゆえ。

刃ものとぎよりへ花むくげ 岩城のり子

斬のあと凍蝶の落ちてゐし 中原道夫

橇曳きてにつどへる注連貰 増澤正冬



六道のへ消えたる酢茎売 野田久美子


降り立ちし鍵屋のの初時雨 菖蒲あや



暗殺のの鬼灯与力町 森 武司

一つ曲れば聞こえ迎へ鐘 恩智景子

ごとに樽酒そなへ秋祭 野村多賀子

おわら流し地蔵のを踊場に 茂里正治


とめどなくりはじめしヨットかな 三村純也


黒南風のいづくにも魚匂ひ 能村登四郎


ごとに春の鹿佇つ二月堂 黒崎治夫


讐討の古きあり蕨餅 古舘曹人


茶屋ふたつ鍵屋ののうららかに 石川魚子



亡霊は四に立ち商談中 藤中節子

除夜詣見知らぬに出でにけり 有働 亨


京にきて京のなり鉢叩 星野麥丘人



に屯う異国の娘らに秋の星 榎本愛子

夜ののにほひてどこかプールあり 能村登四郎



海女たちに上総五十座の告知 加倉井秋を 『欸乃』


片足の皇軍ありし春の 仁平勝 東京物語



宵闇のにまだゐる女学生 白鳥順子

子を送る良夜のを曲るまで 飯田豊子


夜ののにほひてどこかプールあり 能村登四郎



御柱声神木とり落つ 高橋恭子

ふと迷ふ来馴れしもおぼろなり 水原秋桜子

何物かつまづくや厄落し 高浜虚子




人柄をまで広げ寒の菊 増田萌子



村の湖底に見えて寒旱 田中俊尾


小春日や当麻のの蹴速塚 甲斐礼子

秋草のより京へ五十二里 折野美恵子


古里のしるべのの桐は実に 佐野秋翠

六道のごぜんたちばなをなす 滝澤一久



星流る街には風の楽師 秋尾 敏



最初のページには「辻地蔵」の例句なし。
改めて「辻地蔵」で検索。・・・・ 「0」表示。


尼崎市内30道標、66神社。仏教寺院は真宗寺院を筆頭に、
歩いていて出会う感触から言えば、神社の3倍以上。200寺院とすれば、辻地蔵は、塚口御坊内だけでも10以上。神社の10倍とすれば
660。

さらに神道系新宗教、キリスト教らしき系譜の新興宗教関係の宗教施設(教会、布教所)、さらに創価学会や幸福の科学など名の知られた団体施設は、辻地蔵ほどではないにしても、寺院総数を超えると思う。

↑「聖殿」などいう用語もあるみたい。大阪に本部(本山)があるキリスト教系新宗派であろう。
ビルの1フロワーが宗教施設というのも今では珍しくはない。
↓金光教は、神道系と思うが、「教会」という名称を利用している。

ところで、私の自宅周囲には、神社も寺院もない。
ということは、明治・大正期にも集落は形成されていなかったことを意味する。

阪急電車神戸線の開通は、1920年である。ほとんど人の住んでいない地域を神戸・十三間を直線、短距離で結び、新しい駅周辺に人家が形成されていった。

津門中道を歩いた人は、塚口御坊を抜け、富松村に差し掛かるまでは田んぼの中の畦道を歩いていたのであろう。

 だから塚口御坊にさしかかった人は、どの道を進むべきか道標を必要とし、人家が再び増える富松村に入ると、再び、西宮へ抜けたい人、
小浜を通って有馬へ行きたい人を誘導する道標が必要であった。

 どの道を選ぼうと、自転車が2台すれ違うことも難しい細道であったと思う。
 そんな狭い道の角にある辻地蔵に旅人は手を合わせたのであろう。
各駅停車で辻地蔵に出会うたびに線香に火をつけたかも。
(しかしどうやって? 埋め火を利用して?先着者が灯した蝋燭の火が絶えることがなかった? 明らかに埋め火を埋めたような線香たてはみない。ロウソクはそれほど安価なものでもなかった。)

↑こうなると文化財の香りがする。

↑思わず、新道標発見か?と思えるようなものもある。
線香あげるために扉を開けた人にだけ道を教えてあげるとか。

どこを覗いても線香やマッチが用意されている。自販機では利用できない硬貨も。

昨日は

○付き番号17⇒18⇒15の道標を見た。時間の関係で15を紹介できなかった。
17は食満の西明寺を示す道標である。
それを見た後、新幹線の高架下からそれて藻川の土手に出て
猪名の笹原沿いの杜若寺の霊園内に保存されている18を目指した。
そのあと、周辺で未紹介なのは、JR塚口駅の西側出口横に保存されている道標だけになったので、それも見ておこうと思った。
JR猪名寺駅から1駅電車に乗った。
猪名寺駅は初めて利用した。新駅である。
プラットホームのベンチに腰かけてコンビニで買ったお結びをほおばった。
ふと見ると横に座っていた女学生も
明らかに自家製と思われるラップ包みのおにぎりを食べ始めた。
さらに見ると、向いのホームで電車を待っているご婦人もお結びを食べ始めた。
まさに「駅弁」。お結びを駅のホームで食べるのがナウいようである。

お結びのひとつはイクラてんこもりという商品であった。

天高くイラクで食えぬイクラ丼

「いくらてんこもりおにぎり」では字数が多すぎるので丼で代替。


↑の地図上16は、塚口御坊東門を入ったところにある市内唯一の
自然石利用の道しるべを指す。

そこに記載の「昆陽中」の「中」はどういう意味かを、
泌尿器科の待合室で出あった旧知の郷土史研究会会長さんに
尋ねた時から、私の市内30基の道標探訪が始まった。

「昆陽中」は、「昆陽」(こや)「中山」(寺)の中で、「山」が地に埋まってしまっていたのである。

17、18は昨日UP。
「JR塚口駅西口の道標」


 東
・・・・・・・・・・・・・・・・・
東南 尼ヶ崎 大坂
西北 塚口 伊丹 池田

・・・・・・・・・・・・・・・・・
西  昭和五年三月
    森熊蔵 建立   」

昭和になっって駅の北側にある踏切あたりに立っていたものが移設されたようである。
昭和だから、右左ではなく、東西南北で指示を与えている。
しかし大坂の文字が気になる。
「大阪」と記入されているように思えるが・・。

建てた人、森熊蔵についての情報をガイドブックは求めている。
上坂部村の枝村に森村があったので、そこの出身かどうかが記述者は気になるらしい。

他の道標にもたくさんの名前が記されているが、それらについての考察はほとんどまったくなされていないので、奇異に感じた。


最後にひとつ未見の道標が残った。
ガイドブックでは道標に1から28まで数字が付され、
ごく近年(昭和20年以後)に建てられた二つは、番号なしである。
合わせて30基。

その30基目を今日見た。満願成就である。

熊野神社道標である。

↑昭和31年11月7日に熊野神社が立てたようである。
これも現位置ではなく、もう少し東にある銀行の支店横に立っていたらしいが移設された。しかし「国道三和本通り角 北へ5百米西入」とあり、50年後の今も三和本通り(国道2号線沿いのこの部分は昭和通りと称し、三和本通り商店街が健在)があるので、道標の役割を果たしている。市バスの「西難波」停留所の目の前である。あと数メートル西へ歩くと蓬川(よもがわ)の橋(入江橋)である。

入江橋を見た瞬間に、ああここも南から北へ浜田川と名を変えるところまで、さらには、大井戸公園という大きな公園を越えて武庫之荘駅まで歩いたことを思い出した。


ニット・インベーダー

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BridgeOfNakanoshima.png


所属結社の大阪句会が中之島公会堂の地下の一部屋を会場としているので
平常月は月2回、地下鉄御堂筋線の「淀屋橋」駅を降りて、淀屋橋を渡り、市役所南側のプロムナードを通って会場へ向かう。

河べりではいつも何か行事をやっているので、少し早めに家を出て辺りをうろうろ。

帰りは、栴檀木橋を渡って、仲間とお茶をして帰る。

冬のライトアップ時期には、仲間と別れた後、もう一度公会堂周辺へ引き返すこともある。

桜の季節、薔薇の季節河べりは特に豪華な雰囲気になる。

↓晴れた日には、淀屋橋から東向きに、生駒山の電波塔がよく見える。

木に何かが巻き付けられている。
催し物の幟などを固定するものかと思ったが、
これじたいが「ニット・インベーダー」と題するアート作品のようである。

句会参加

4句 兼題「通」


筆太に女人禁制鵙高音
天高くイラクで食えぬイクラ丼
溝蕎麦の覆う屈折札場辻
灸花調剤薬局裏通り



「通」を織り込んだ句には、意外にも「通草」(あけび)が多かった。
私もあけびを詠おうかと思ったが、通常、一字漢字が兼題・席題の場合はその字が利用される季語を使うのは避けるというマナーがあるので避けた。

この句会では、その制約を設けていなかったようである。

明日は神戸句会。

第1水曜日と第2木曜日が連続したためである。
そして第2金曜日である明後日が吟行会。
今月は連続3日句会に出席できそうである。

3日連続の、ノーベル賞の日本人受賞はならなかったようである。

↑午前0時のオーシャンブルー まだ萎んでいない。酔芙蓉みたいな風情。

↓コムラサキは盛りを過ぎたようだ。

ホソバヒイラギナンテンが咲き始めた。↓

トキワハゼ

ピラカンサも色づき始めた

カイヅカイブキ

ベビーサンローズ = アプテニア = ハナツルクサ(花蔓草)




稲荷

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神戸句会 参加
4句 兼題 「米」  ここの句会は、新米等の季語の中での「米」使いを禁じている・

犬稗も刈るコンバイン TPP
(当然 「稲」とすべきところだが 兼題句とするために
犬稗も米も刈り取る TPP として提出)
廃病院に残る自転車葛の花
書き換える「女人禁制」鵙高音
合意後もバター品薄寝待月

部分修正ないし二番煎じ句ばかり


訪問済み神社一覧(再掲と追加)
期日未記入はブログでの紹介日未調査

本町貴布禰神社
尼崎戎神社 2015. 9. 7
難波熊野神社 2015.10.6

枝垂れ梅で有名な神社である。2年前に一度梅まつりの時期に訪問したことがある。

大物主神社 2015. 9.28



櫻井神社 2015.9. 7

西川八幡神社  2014. 1.28       2015.9.23
久久知須佐男神社 2015.6.30
伊居太神社 2015.9. 8
伊佐具神社2015.6.27
中食満稲荷神社 2015.7.14

田能春日神社 2014.9.26
東園田白井神社 2015.9.7
富松神社
時友神社
友行須佐之男神社

西富松須佐之男神社 2015. 8. 29
武庫庄須佐之男神社 2015.9. 5
生島神社 2015. 8. 6
上守部素盞鳴神社 2015.10.4

水堂須佐男神社 2015.8.26
塚口神社 2015.8..23

尾浜八幡神社
琴浦神社 2015.8.4
松原神社    2015.9.23
伊邪那岐神社 2015.9.23
神崎素盞鳴神社 2015.9.23 

大門厳島神社  2015.9.28
長洲貴布禰神社 2015.9.28
天満神社     2015.9.28
初嶋大神宮   2015.9.28
潮江須佐男神社 2015.10.2

この前、この神社を覗く機会があったが、その折りは確か、全面工事中であった。だからヒノキの香りが漂っている。
巨額の基金の提供があって完成。

復興神社は、ごく最近落成したばかりのようである。

磐長姫神社   2015.10.3

御園素盞鳴神社    2015.10.5

この神社は2度目の訪問である。
前回は阪急電車の塚口駅からJR塚口駅を経て、御園古墳や三平井跡などを見ながら阪急園田駅まで歩いた途中で出会った。
この日は、近松線を北上している途中で、西側に杜があるので、近付いてみた。



下食満稲荷神社    2015.10.5

↑多くの神社で「保護樹木」の標識が残っているものの、樹そのものは姿を消している風景に出合ったが、ここの樟は元気だった。

上食満稲荷神社    2015.10.5

西明寺にたどり着く前に、下食満稲荷に出会い、その後上食満の稲荷さんに遭遇した。


「稲荷」の例句はそれほど多くはなかった。

初東風が鳴らす稲荷の幟竿 野見山ひふみ

大阿蘇の冬草青き起伏かな 稲荷島人

大鈴を下げて稲荷の茂りかな 猪股清吉

南天の花咲く笠間稲荷かな 大竹朝子

杜鵑花咲く稲荷の磴に海の風 安藤衛門

正一位稲荷大社の蛞蝓 山田ひろむ

三社祭露地の稲荷も灯りけり 岩井愁子


初午の朱の塗りたての稲荷駅 辻田克巳


稲荷狐と目が会う迂闊 ビル屋上 森 早恵子

餅を搗く灯りが稲荷にもおよぶ 原 裕

湯気立てて山に稲荷の鳥居かな 波多野爽波 『湯呑』

祀りある四谷稲荷や夏芝居 後藤夜半

毛皮被て稲荷詣での渦の中 鈴木フミ子


稲荷祭お山めぐりの鈴連ね 木田千女

末枯のお稲荷様の電話鳴る 岸本尚毅 鶏頭



稲荷よりもどりし父や冷し酒 石嶌岳


汐ふきや稲荷の裏の海灰色 長谷川かな女

船津屋の屋敷稲荷に初鰹 田中英子

稲荷留守なる瓶子真ッ白に 久米正雄 返り花

秋晴のお稲荷さんの角曲る 星野椿

秋の雨海苔巻に染む稲荷寿司 永井龍男

秋晴やなかを奇麗に稲荷堂 原田喬

春禽の散り翔つ王子稲荷かな 深見けん二

祀りある四谷稲荷や夏芝居 後藤夜半

青ざしや稲荷の庭火木綿(ゆふ)かつら 幽山 選集「板東太郎」

春禽の散り翔つ王子稲荷かな 深見けん二

大阪はしぐれてゐたり稲荷ずし 北野平八





ジャカランダ

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西宮鳴尾浜公園内の海釣り公園に面した広場。

不意にパラグライダー屹立秋の浜 


シャトルバス乗り場前のジャカランダ

ジャカランダの葉影明るい秋日和

ウィキペディアが紹介している満開時の様子



拡大できない。



津門

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洗礼名ヨゼフとジュアン水争 品川鈴子

流れ寄る水争はず春の川 虚白

我が家の家の前を東西に走っている道には、かつては市バスが走っていた。しかも道を隔てた西隣の家の前にバス停があった。停留場名は忘れたが多分尼崎北高校前であったかも。

 大学生のころこのバスに乗ってアルバイトに出かけたことがある。
バスは阪神電車の出屋敷駅前行きであった。

 このバスはその後、阪急電車の高架下を潜る道路ができたため、
我が家の前の道へ左折することができなくなり、かなり北側の道路を走るようになった。

先日、摂社 難波稲荷大社を有する、熊野神社への道を歩いていて、
家庭教師をしていた家の近くを通った。お米屋さんの息子が生徒であった。拳法部部員で、約束の時間にはなかなか帰宅できなかった。

 その合間をついて、女子大生だった姉の方が、サミュエルソンの『経済学』の原書を持ってきて、英文和訳を指導を請うた。
(サミュエルソンは確か、その後に創設されたノーベル経済学賞の2年目(第2回)の受賞者になった。

当時、この本にはまだ日本語訳が出ていなかった。日本語訳が出ると、この本は日本全国の大学経済学部の「聖典」となった。その中で教えられている内容は知っていた(学んでいた)が、原書は読んでいなかった。
 なかなか難儀な英語であった。

 尼崎市内を歩いていると、この場所にはよく来たことがあるということを思い出すことがある。町の変貌とか、町の歴史に関心を持つ機会がなかったし、神社にも道標石にもまったく関心がなかったから、自宅から目的地までの最短の線上を往復していただけだった。

 そういえば、小学校も、中高も、大学も、勤務地もまったく同じであった。(その周囲をほとんど知らない)。

 「塚口」という町に住んで長いので、塚と言えば、御願塚(ごがづか)
が有名だったので、御願塚古墳の入口(どこからやってきて?)くらいの地名であろうと思っていたが、家のすぐ近くにも「梅の木古墳」があったようだし、御園古墳や伊古太古墳など、lある意味、家の周囲は実は古墳だらけで、改めて「塚口」という地名がいつ発生したのか気になりだしたが、正解はまだ得ていない。塚口という地名を付すもっとも古い古文書が何なのかもいまだ知らない。

井組(ゆぐみ)についても関心が湧いてきたところである。

apedia (Web版尼崎郷土史事典)の解説:

灌漑技術、治水築堤工法の発達とともに、16世紀後期(永禄天正年間)、武庫川猪名川筋でも、堤に六樋をはじめとする多くの取樋口が設けられ、締め切られた河川敷内の流れを用水源として取水がなされるようになった。

これを機に河水の配分が問題となり、向かい合った用水や隣接する用水の間で、この時期に争論、乱闘、訴訟が継起した。

これを機に、たとえば富松井では野間・友行(まもなく時友も)村、大島井では旧大島荘4か村、大井では田中村以下8か村などの村々が、それぞれ争論、交渉の主体として、井組としてのまとまりを強くしていった。後に各用水の井親となるこれらの村々の結合は、第一次井組といってよかろう。このようにして河川を用水源とするようになって、用水にも余裕が生じると、やがて各用水の下流の村々は余水をもらう交渉を進め、16世紀末から17世紀初めにかけて、井子村々が加わった井親・井子からなる第二次井組が結成されていった。


この井組内での井親・井子の関係は、初めは井子は井親に井料を払い、井普請などを負担するなど、両者の間にかなりの差等が存するものであった。しかし近世に入って結成された新しい井組では、井親・井子間の差等は少なく、なかにはどの村が井親なのかもわからない井組も生じている。そしてさらにその後、井組内の争論を通じて、井親・井子間の差等が解消され、井掛り高に応じて平等配水する方向に向かったといえる。

執筆者八木哲浩


執筆者の名を残した。確か、私、この人の「日本史」の講義を大学の教養課程で聞いたように思う。

大臣名を付したこの種の記念碑を尼崎市内でなんども見ている。
農業公園の猪名川沿いにもあった。御園古墳の東の方では、「三平井」のものを見て、ブログでも紹介したはず。

 争論の犠牲者を弔う碑も、そういえばかなり見ている。

次屋(村)に関するapediaの解説:

小田地区の大字。市域東部に位置する。次屋に中世城郭遺構は発見されていないが、「細川両家記」天文5年(1536)3月20日条(『尼崎市史』第4巻)に登場する次屋の城が史料上の初見と考えられる。戦国時代にはしばしば戦乱の地となった。

  近世には1615年(元和元)池田重利の領地となり、1617年(元和3)尼崎藩領1643年(寛永20)尼崎藩より分知された旗本青山氏(幸通系)の知行所となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」「元禄郷帳」に615.45石、「天保郷帳」に639.845石とある。大井組に属した。氏神は伊邪那岐〔いざなぎ〕神社で浜村と立会。ほかに素盞嗚神社があったが19081909年(明治41~42)伊邪那岐神社に合祀された。

  1889年以降は小田村1936年(昭和11)以降は尼崎市の大字となった。19811988年の住居表示により次屋となったほか、一部が下坂部・浜・潮江・西川となった。


この解説中に出てくる「大井組」があった場所にある記念碑が上掲の画像である。おおいぐみ ではなく、 おおゆくみ と読むのであろう。

そして我が家の家の前の道が「津門(ノ)中道」
先日(水曜日)に句会へ行く途中に句会仲間に会い、その人が西宮在住なので、
「つもん」を話題にしたら、「つと」と訂正を受けた。
そういえば「つとがわ」などという地名(川名)を聞いたことがあるが、その日まで
それが「津門川」と表記し、「津門中道」は、「つもんなかみち」ではなく「つとなかみち」
だから「つとのなかみち」と「の」を添える意味もわかった。


そんな関係でネット・サーフィンをしていると、西宮でも、伊丹でも、海道歩きや寺社巡りのブログが多数発信されているのに気づいた。

「津門」などを検索していると、私が数日前に投稿したブログなども集録されているのに気づく。




秋祭り

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塚口神社の秋祭りは来週のようである。
子供みこしが移動しているのを駅周辺でたまたま目にしたことは何度かあるが、
「巡行」時間を確認して後をついて回ったことは一度もない。
今年はカメラ持って追っかけやるつもり。ただし17日は句会出席予定のため
夕刻以降でないと神社周辺へ行けないが。

尼崎市内の神社の秋期例大祭は、10月10日、11日が多い。
周辺4神社が同じ日に太鼓競技を開催する地区もある。


昼過ぎまで他の用件で市外にいたので、
午後に富松神社へ出かけた。


他の神社だと同じ図柄の神社名を染め上げた幟を神社からかなり離れた地点でも
ずらずら林立させているが、富松神社の形式は少し違う。


↑神社参道

↑市内66社の内、35社を見て来たが、これほど長い参道を残している神社はなかった。

色鮮やかな幟はなく、御神燈提灯が、地の旧家の家の前に、(後で知ったが神社を取り巻くお寺の前にも)吊られているのみ。

わが句会の大先輩守田椰子夫の代表作

提灯の守田氏伸ばす祭くる



「提灯」でこの句がでてくるかどうか、検索。


出てこなかった。

代わりに、正岡子規の句がやたら出てきたので、それを紹介。



提灯や初荷の山の山かつら 初荷 正岡子規

冬枯や提灯走る一の谷 冬枯 正岡子規

野の道や十夜戻りの小提灯 十夜 正岡子規

提灯の一つ家に入る枯野哉 枯野 正岡子規

提灯の星にまじりて枯野哉 枯野 正岡子規

葬禮の提灯多し冬の月 冬の月 正岡子規

提灯の見えつかくれつしぐれけり 時雨 正岡子規

凩に大提灯の靜かさよ 凩 正岡子規

花山車や薄に似たる小提灯 薄 正岡子規

鶉鳴いて提灯草に隱れ行く 鶉 正岡子規

庄屋殿の提灯遠し雁の聲 雁が音 正岡子規

燈籠の岐阜提灯と竝ひけり 燈籠 正岡子規

稻妻や提灯多き野邊送 稲妻 正岡子規

月暗し河岸は闇路の小提灯 月 正岡子規

墓原の提灯白し秋の風 秋風 正岡子規

長き夜や提灯わたる大井河 夜長 正岡子規

叡山へ提灯通ふ夜長哉 夜長 正岡子規

提灯の小路へ曲る夜寒かな 夜寒 正岡子規

提灯の小道へ這入る夜寒哉 夜寒 正岡子規

釣橋に提灯わたる夜寒かな 夜寒 正岡子規

提灯の紅はげる若葉哉 若葉 正岡子規

提灯をふつて蚤とるかごや哉 蚤 正岡子規

提灯を返せ返せと時鳥 時鳥 正岡子規

提灯で大仏見るや時鳥 時鳥 正岡子規

提灯の空にせんなし郭公 時鳥 正岡子規

松の木に提灯さげて夕涼み 納涼 正岡子規

提灯の火影にさきぬ辻が花 辻が花 正岡子規

夏の月提灯多きちまた哉 夏の月 正岡子規

短夜や砂土手いそぐ小提灯 短夜 正岡子規

藤棚に提灯つりし茶店哉 藤 正岡子規

藤棚に赤提灯をつるしけり 藤 正岡子規

提灯の短冊赤し山桜 山桜 正岡子規

山をこす提灯もあり帰る雁 帰雁 正岡子規

朧夜や島原さして小提灯 朧夜 正岡子規

屋根舟の提灯ゆかし朧月 朧月 正岡子規

家根舟の提灯多し朧月 朧月 正岡子規

茶屋を出る箱提灯や朧人 朧 正岡子規

鳩鳴くや大提灯の春の風 春風 正岡子規


春の夜や料理屋を出る小提灯 春の夜 正岡子規

春の夜や無紋あやしき小提灯 春の夜 正岡子規

春の夜や傾城買ひに小提灯 春の夜 正岡子規

春の夜や廓へはいる小提灯 春の夜 正岡子規

春の夜やくらがり走る小提灯 春の夜 正岡子規

これらの句を見ていると、明治時代、提灯は極めて日常的なものだったことが分かる。
わが家には、提灯と国旗は存在しない。旧家でない証であろう。
火鉢は最近まで1つ残っていたが、植木鉢入れに利用していて壊れてしまった。

旧東富松村の提灯は「御神燈」と大書され、提供者ないし所有者の名は小さいが、塚口御坊内のそれは家の名を大書する形式なのであろうか? 来週確認したい。


文政期(1818~30)に寄進されたものが多い。

正面の鳥居前に出て驚いた。結構派手な幟が林立。


参道周辺人影がなかったので、祭は終わったのかと思ったが境内は結構な人出。でもなんか全体は静かな雰囲気。ジンタがないせいか?

脇社・摂社も結構多いことを改めて確認。
これまでは神社ってこんなもんだと思っていた。


3社とは


弁財天

本殿拝殿

浅井 瀬口 笹部 などは周辺の表札でよくみかける。筆頭名家はどこか知らない。
山村も。善見は珍しい姓であるが、この神社の宮司・禰宜一家の姓である。

献上物が日本酒として、これはいかなるかたちで処分されるのであろうか?
年間を通じて献上者が呑みに来るのであろうか?
御神酒に利用するにはしては大量すぎる。



金木犀

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今年は、金木犀の花が匂いはじめるのが少し遅かった。
金木犀の花が咲いたら、関西地区は夏が終わり、秋が始まる。

↓公園の小さな金木犀の株

高澤良一作品


またちょっと行って金木犀の家 高澤良一 石鏡

金木犀腐(くた)してふ雨なかりけり 高澤良一 石鏡

金木犀掃く身にもなって下さいと(家人の云へる) 高澤良一 石鏡

こんなに長け上からにほふ金木犀 高澤良一 石鏡

飛石の間埋め金木犀花屑 高澤良一 石鏡

金木犀零れ土塀の瓦に跳ね 高澤良一 石鏡

唐突と云へば米屋の金木犀 高澤良一 石鏡

日々通る靴音日々散る金木犀 高澤良一 石鏡


私も何句かはキンモクの句を作っていると思うが、
覚えているのは(気に入っているのは)以下の句のみ。



金木犀の在り処分からぬまま投函  


武庫川左岸 下に西武庫公園の薔薇園が見える

河原の方を見ると

川を越せば、甲山は目の前である
同じ場所からズーム





コスモス

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髭の渡し跡周辺は広大なコスモス園になっている。
往路は阪急電車の武庫之荘(この駅名は小林一三が命名者らしい。よって駅ができた当時、武庫之荘という地名はなかった。武庫村の元になった武庫庄という地名を「改変」したようである。六麓荘の成功からヒントを得たか?)からバスを利用。「西昆陽」で下車。一つ手前のバス停が「髭茶屋」。

コスモス園を目指す。



同じ場所を撮っているような感じになっているが、
1ブロックが500平米位に区切られ四方に遊歩道が巡っている。
縄張りが最小限なのがいい。

髭の渡し跡にたどりついた。


  1. 法会の一種。経典を講じる法会。講会(こうえ)。
  2. 転じて、民俗宗教における宗教行事を行なう結社のこと。またその行事・会合のこと。講社(こうしゃ)。
  3. さらに転じて、相互扶助的な団体や会合のこと。


石碑に現れる、山本講や吉野講は上記の2の意味である。

この地点で一度土手道へ上がり、常松春日神社へ

 オキザリス


のぼたん

流れている川は、すぐ北の取水口(六樋)から取り入れた用水路のものゆえ、きれい。

ハヤが泳いでいる

春日神社



狛犬は安政期のものだった。

記念碑が二つに中折れしている。大正天皇が東宮であった時代に、この位置で休まれたとか。この辺りで陸軍の演習があったようである。

コスモス園に舞い戻って、さらに南へ(新幹線の高架ちかくまで)

キバナコスモス

終わったのか?これからなのか?

流転はじまる車窓のコスモスとは別に 高野ムツオ 陽炎の家

潮騒なり午前一時のコスモスは 高野ムツオ 陽炎の家

コスモスに冷たき雨の日なりけり 行方克己 知音

吹かれづめなるコスモスに色見ゆる 行方克己 知音

コスモスや赤児生まれし駐在所 柳田清子

ゆれかはしゐてコスモスの影もなし 大橋宵火

コスモスの裏口出れば日本海 長谷川エミ

コスモスの戸口明りや遠野郷 平綿涼風

燈台のコスモス海になだれおつ 石原八束

コスモスや結城大事にしんし張 野村喜舟



コスモスや無人駅にもある別れ 溝口麗子

コスモスの小径いそぎぬ逢ひたくて 飯泉 たつ子

コスモスが揺れ蝶が揺れ空が揺れ 前山 百年

日の温みあるコスモスの種を採る 栗原 義人堂

ある朝は少年であり野のコスモス 大西健司

長い航海どこもかしこもコスモスだらけ 鴻巣又四郎

コスモスを仆し続ける父の耳鳴り 武政 郁

コスモス畑で野菜のようなkiss 橋田サカエ

コスモスがじやんけんしながら咲いてくる 遠藤寛子

愛に安心なしコスモスの揺れどほし 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』

風船をつれコスモスの中帰る 石原八束 『空の渚』

コスモスのそよぐに何を話すべく 大木あまり 火球

コスモスの色をこぼして風過ぎぬ 大多和永子

コスモスに風ある日かな咲き殖ゆる 杉田久女

コスモスより目を離す空揺れてをり 今瀬剛一

コスモスを離れし蝶に谿深し 水原秋桜子

コスモスに遠嶺を入れて娘を写す 横山房子

コスモスや初恋の日の風と会ふ 中村真由美

コスモスの花ゆるがせて鼓笛隊 大河原一石

コスモスや風も日差もしなやかに 土生重次

コスモスの花見えて駅現はれし 右城暮石

コスモスのよく動きゐる花の数 高浜虚子

晴天やコスモスの影撒きちらし 鈴木花蓑

コスモスや一打百円鳴り止まず 小高沙羅

コスモスを見てゐて風になりにけり 福本五都美

コスモスに来なばローランサンの少女 西岡正保

コスモスの高さの風の見ゆるなり 細木芒角星

コスモスや乳首まさぐる児も仏 野口とほね

コスモスも地に縛られて白河市 鈴木俊策

コスモスや魚箱天辺よりくづれ 奥田恵以子

コスモスの揺るぎ始めはゆるやかに 永川絢子

コスモスのふんだんに風つかひをり 築城百々平

コスモスや馬車に吊りたる油差 井上鶏平

コスモスのピンクが与党他は野党 林 直入

コスモスや友に明るき母ありて 進藤明子

コスモスの気ままや予後の束ね髪 松浦 釉

コスモスや小学校の兎小屋 椎名康之

ありなしの風にコスモス応へけり 小川悠子

コスモスの花遊びをる虚空かな 高濱虚子

コスモスを離れし蝶に谿深し 水原秋櫻子

焼跡のコスモスに子等育つなり 三嶋 隆英

コスモスの凡そ百輪色同じ 水原秋櫻子

↑これはつまらない句だ

コスモスの籬に病めば子等のぞく 中尾 白雨

コスモスに溺れゆくなり風の中 手島 靖一

コスモスや泣きても泛ぶ子のゑくぼ 堤 京子

コスモスの花の上行く肩車 大高時子

コスモスや髪漆黒に狂女達 池田定良

コスモスに寿貞の声のきこえけり 平井照敏

コスモスの一輪昼の月にふれ 生駒俊太郎

コスモスのむこう向けるは泣けるなり 秋沢猛

コスモスの押し寄せてゐる厨口 清崎敏郎

コスモスが空地に咲きて愛されず 土屋鶴子

コスモスの揺れやむひまもなかりけり 久永雁水荘

コスモスの揺るる影さへしあはせに 内田啓

風船をつれコスモスの中帰る 石原八束

コスモスや遠嶺は暮るゝむらさきに 五十崎古郷

コスモスの向ふむきよりしぐれきぬ 加藤楸邨

コスモスに雨ありけらし朝日影 水原秋桜子



コスモスの裏側こそは寂しけれ 新森英二

コスモスを剪り青空を連れて来し 蔦三郎

コスモスの色の分れ目通れさう 稲畑汀子

コスモスや我より問ひてきく話 星野立子

コスモスの花揺れて来て唇に 星野立子

つき放す貨車コスモスのあたりまで 深川正一郎



コスモスに山脈影の世のごとし 齋藤愼爾

月明りにもコスモスの揺れやまぬ 西村和子 夏帽子

コスモスは臥し鶏頭は憤り 西村和子 夏帽子

コスモスは乾けり菊は乾かざる 山西雅子

コスモスににらみをきかす赤ん坊 夏井いつき

黄昏てコスモスは彩失へり 柴田奈美

瀧みちのくらさコスモス剪つてきて 田中裕明 櫻姫譚

コスモスの花粉を吹けり黒表紙 田中裕明 山信


コスモスのむこう向けるは泣けるなり 秋澤猛

コスモスに溺れ晩年はじまるか 西村逸朗

コスモスの押しよせてゐる厨口 清崎敏郎

コスモスを離れし蝶に谿深し 水原秋櫻子

コスモスなどやさしく咲けど死ねないよ 鈴木しづ子

コスモスのように眠りて寝台車 対馬康子 吾亦紅

コスモスを挿して産婦となりし朝 対馬康子 吾亦紅

コスモスに出会う化石の部屋を出て 対馬康子 愛国

コスモスやいまも誰かが地雷踏む 守屋春陽

月の兎皆コスモスに飛ばせたし 長谷川かな女

コスモスの百万本に日照り雨 山田圓子



コスモスの海へ漕ぎ出す乙女たち 桑原道子


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スサノオ

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昨日、尼崎市内66社に数えれていないのではないか思う稲荷神社に遭遇。
「コスモス畑」の→と反対側の方角に、杜あり。近づいてみると、
街角辻地蔵よりは広い敷地に地蔵堂とともに、赤い小さな鳥居が5本ほど。

その境内の入口に憩っていた人が、ここも行基さんが創建なさったと聞いていると。


Ⅰ昨日 須佐男神社を3社訪問。
1社は前に一度来たことがあるが、既に訪問した神社一覧からは書き洩らしているかも。武庫庄須佐男神社

祭の準備なのか、後片付けなのか分からなかった。ほとんどまったく
「一般客」=氏子の姿なし。

最初にここへ来た時、「武庫庄」という地名を見て、
通りかかる人に「武庫庄遺跡」について尋ねたがどなたも御存じなかった。中には、ここは武庫庄ではないと言われる方も。
「武庫庄須佐男神社」という掲示を指さして、ここは武庫庄ではないんですかと問うた。

地図を見ると周囲には武庫庄公園とか武庫庄小学校があるけれど
現在住所表記は、武庫之荘本町になっている。阪急電車の武庫之荘駅の北側は「武庫之荘」、南側は「南武庫之荘」。
武庫之荘駅北側の西は、武庫之荘西、東は武庫之荘東という町名になっている。

昨日、髭の渡しから武庫之荘駅まであるいた。(15000歩越え)
途中で武庫庄公園を通った。
公園の端で、標識発見

その前に西武庫須佐男神社と東武庫須佐男神社を訪問。

西武庫須佐男神社の「売り」は十三重塔。

西武庫須佐男神社境内に西面して建つ。鎌倉後期の花崗岩製の層塔である。相輪は後補で、この相輪を除くと410センチである。伊派の名石大工、行恒の作品と推定されていて、阪神地区における十三重塔の代表的な遺品のひとつである。
台石の東面には、
右造立供養之 意趣者為二親
菩薩法界衆生 平等利益也
元応二年八月十九 神主三室藤丸
              敬白
と39字の銘文が印刻され、鎌倉時代に神主三室藤丸を願主として両親の供養の為に建てられたことがわかる。 他の3面にはそれぞれ線刻した蓮華座上に舟形輪郭を彫り込み、南面には阿弥陀、北面には地蔵、西面には釈迦の仏座像を配している。阪神淡路大震災により倒壊、その後塔身が盗難に遭っている。

 

ただしこの神社、4面すべて閉鎖されていて、中へ入れない。

盗難除けのためか?武庫庄神社は富松神社が管理、西武庫神社は
生嶋神社が管理しているようである。

この辺りの神社はなべて阪神淡路地震で本殿などが崩壊。その後修復・復興されたものである。江戸時代、あるいはそれ以前の災害や火災で流出・崩壊した神社があったと思う。

東武庫須佐男神社



富松神社もまた、富松須佐男神社と呼べないこともない。


天高く素盞鳴神社の例大祭


ところで、例大祭の「例」はどんな意味があるのか?
「礼大祭」と記した幟もあるが、礼と例は同じ意味合いの言葉なのか?


主祭神 須佐男命(すさのおのみこと)・応神天皇(おうじんてんのう)

例祭日 10月10日(神賑行事は10月体育の日前日)

鎮座地 富松町2丁目23-1(TEL 06-6421-5830)

>>> 富松神社ホームページ(外部リンク)

≪お社の説明・御由緒≫

富松神社は、約1250年前に僧の行基が人々を指導して、猪名野笹原を開拓し、稲作を進めるとともに、富松の里の守り神として神様と仏様をおまつりしたのが始まりと伝えられています。

 平安時代には藤原摂関家の荘園を守る鎮守の社でした。

戦国時代には数度の兵火にかかり社殿や堂塔は焼失し、面影はとどめませんが、樹木などに微かに昔時が偲ばれます。江戸時代に至り、尼崎藩主松平遠江守公厄災除祈願所として特別の庇護を受け盛況を誇りました。大東亜戦争敗戦後は社会変化により神社の基盤は崩れましたが、人々のふるさと富松への信仰心は途切れることなく、里の人々に大切にされ、今日も神様への感謝のお祭りが続いています。 御本殿は1636年に再建されたもので、昭和43年に兵庫県重要文化財に指定されました。 境内の大きな楠は樹齢500年と言われています。




ウィキペディアさまさま:

例祭(れいさい)または「例大祭(れいたいさい)」とは、神社で毎年行われる祭祀のうち、最も重要とされるもののことである。

例祭は年一回、多くは祭神や神社に特別の由緒のある日に行われる。例えば人物神を祀る神社ではその人物の誕生日や命日に例祭を行うことが多い。特に由緒のある日のない場合は、春祭り秋祭りをもって例祭としている。例祭が行われる日は毎年一定で、みだりに変えることはできないものとされる。第二次世界大戦以降も、神社本庁被包括の神社については、例祭日を変更する場合は神社本庁の承認を受ける必要がある。

歴史

「例祭」という名称が使われ出したのは近世のことで、それ以前には「大祭(おおまつり)」「御祭(おんまつり)」などと呼んだり、社名に祭をつけて「春日祭」「石清水祭」などと呼んだりしていた。近世には、各地の名所図会などに「○○神社例祭○月○日」と記載されているのが見られ、その神社を代表する重要な祭を「例祭」と呼ぶことが定着していたことがわかる。

明治の神社制度においては、例祭は祈年祭新嘗祭などとともに「大祭(たいさい)」に定められ、官国幣社・府県社・郷社および一部の村社(神饌幣帛料供進指定神社)には勅使あるいは幣帛供進使が参向して国・皇室から神饌幣帛料が供進された。

第二次世界大戦以降は、国からの幣帛供進制度は廃止されたが、勅祭社については例祭に際し勅使が参向する。それ以外の神社では、公的な幣帛供進制度に代わって神社本庁から「本庁幣」として献幣が行われている(ただし神社本庁被包括の神社に限る)。

名称

例祭は祭祀の分類の中で「大祭(たいさい)」に分類されることから、例祭のことを例大祭(れいたいさい)と呼ぶことがある。ただし、これは俗称であり、正式なものではない(例祭の名称として「○○神社例大祭」としていることはある)。 正式には、大祭式例祭(たいさいしきれいさい)とする。

本来の「例祭」以外の祭祀についても、祭の名称に「例祭」を含んでいる場合(例えば「春季例祭」)があるが、一つの神社について例祭は一つだけである。



相変わらず、「例」の意味は分からない。

国語辞典:

「例」
  1. [名]
  1.  以前からのやり方。しきたり。ならわし。慣習。「長年の―にならう」
  1.  過去または現在の事実で、典拠・標準とするに足る事柄。「古今に―を見ない」
  1.  他を説明するために、同類の中から引いて示す事柄。「―を挙げて説明する」「その―に漏れない」
  1.  いつものとおりであること。「―によって話が大きい」
  1. [副]いつも。つねづね。
    • 「―ある所にはなくて」〈・二八〉



みだりに日を変えてはならないというなら、名詞の1の意味合いか?
しかし例祭はその場合、例を形容詞として用いているように思うが。

恒例なら「例」は名詞扱い。







初笑ゆぜん神社の高みより 上田五千石

どぶろくといふ名の神社はつもみぢ 渋沢渋亭

花韮や歩いて行けば猫神社 星野麥丘人

蟻の塔砂山に古る水神社 角川源義

乙子神社へおりゆく雨の鷽伴れて 山田みづえ

美保神社講じ水口祭りけり 山口青邨

雀より鳩たのし春日神社前 鴻巣又四郎


冬凪ぎにまゐる一人や山神社 飯田蛇笏

粥占に由緒の神社笹子鳴く 小山今朝泉

武運長久忘れし神社七五三 辰巳比呂史

鎮もりて小さき神社や七五三 林 やすお



江津神社とはおん小さく法師蝉 汀女

二月野に神社建つるにあづかりし 原月舟

大神神社の蟇に項のありにけり 西田美智子

梢より目白の囀り宇佐神社 滝沢伊代次

空稲架を玉垣なせる佐太神社 宮津昭彦

圓座ただ並べて波切神社かな 八木林之介 青霞集

右左口神社は小さい石の祠にて馬の手綱をかけし石なり 山崎方代 迦葉

青嵐神社があったので拝む 池田澄子

青嵐神社があつたので拝む 池田澄子

落葉焚松陰神社低からず 斉藤夏風

性器より湯島神社へ碧揚羽 攝津幸彦

空稲架を玉垣なせる佐太神社 宮津昭彦

長閑さに無沙汰の神社回りけり 炭 太祇 太祇句選

鯊釣れば雨の神社に犬跳ねて 永田耕衣 悪霊

夕焼けて護国神社の裏しづか 飯田龍太




いったいスサノオとはどういう人物(神)なのか?
(ウィキペディの解説の一部)

スサノヲの性格は多面的である[1]。母の国へ行きたいと言って泣き叫ぶ子供のような一面があるかと思えば、高天原では凶暴な一面を見せる[1]。出雲へ降りると一転して貴種流離譚英雄的な性格となる[1]。八岐大蛇退治の英雄譚は優秀な産鉄民を平定した象徴と見る説も根強く、草薙剣の取得はその象徴であるとの解釈も多い[2]。また、天下の王となる大国主之神あるいはその後の天皇の神器の出所がスサノオであるためキングメーカーの象徴とも解釈される[要出典]

しかし、日本初の和歌を詠んだり、木の用途を定めたりなど文化英雄的な側面もある[1]。これは、多数の神が習合してスサノヲという神格が創造されたためとする説もあるが、彼が成長するにつれて見せる側面であるとする説もある[3]

神名の「スサ」は、荒れすさぶの意として嵐の神、暴風雨の神とする説や(高天原でのスサノヲの行いは暴風雨の被害を示すとする)、「進む」と同根で勢いのままに事を行うの意とする説[4]、出雲の須佐郷(現在の島根県出雲市佐田町須佐)に因むとする説(スサノヲは須佐郷の族長を神格化したものとする)、州砂(=砂鉄)の王という説から、たたら製鉄の盛んであった意宇郡(おうのこおり)の首長とする説などがある[5]

『記紀』神話においては出雲の神の祖神として書かれているスサノヲであるが、『出雲国風土記』では彼はあまり登場せず、意宇郡安来郷や飯石郡(いいしのこおり)須佐郷などの地名制定や御子神たちの説話が書かれており、八岐大蛇退治の説話は記載されていない[注釈 1]。そのため元々は別の地方の神ではないかとする説もあり、その地として、以下のような説がある。

  • 『日本書紀』の一書で八岐大蛇退治が行われたとする備中とする説
  • 大国主がスサノヲのいる根の国へ行く前に「木の国」へ行っていること、子の五十猛が祀られているとしていることなどから紀伊国熊野)とする説
  • 『日本書紀』一書第4のまず新羅の曽尸茂梨に天降ってから出雲の鳥上峯に来たとの記述から、新羅の神とする説


プレクトランサス

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なかなか記憶しにくい名前。

プレクトランサス・ピンククリッカ

ダルマギク


↑2つとも道を隔てた北側の家の玄関先で



「会社」についての語源説明:

 会も社も、文字の本義は、一字にて衆人集団の意義なるべけれども、今日にては、それを二字重ねて法律的にも動かすべからざる新語となれり。

されば、最初は種々の意義に用ひ、役所、仲間、組合、協会、または会の義に混用せるが、以下少しくその用例をあげん。


 西洋の商事会社組織を、まづわが国に紹介したるは、慶応二年版『事情』あり、いはく(実は社債なるべし)、「西洋の風俗にて、大商売を為すに、一商人の力に及ばざれば、五人或は十人仲間を結て其事を共にす。之を商人会社と名つく。アクシヨンと云へる手形を売て金を集む。(利益の配当世間相対にて手形の売買、手形の価の高下等を略説せり)百万両入用なれば、手形百万枚を作り、一枚の価を一両と定め、自国他国の人に拘らず、此手形を買ふ者には、商社より年々四五分の利息を払ふ」といへり。


  次いで明治二年、政府通商司の下に、通商会社、為替会社の二社成れり。前者は内外の商業を経営するを目的とし、後者は通商会社の経営のために、金融の援助を与へ、その他一般に金融の疏通を謀らしめんとせしものなりき。されども、後年の株式または合資の会社とは同じからず。  嘉永頃刊『万国輿地図説補』に、「勧農会社あり、専ら耕作の事を勉励す」とありて、会社にヤクシヨのふり仮名あり。また弱小国の合縦会盟の項に、「永遠相連合して力を戮すべし、此会社之をドイツフルボンドと名つく、此会社の|夥伴《なかま》は……」とあり、聯盟の意 に用ひたり。  慶応四年四月刊行の『内外新報』の発行所を「海軍会社」といひ、同五月刊行の『東西新聞』第一号記事に「会社」の二字は、ことごとくなかまのふり仮名あり。


  また明治二年刊行『開智』第六に、「仏国の気灯は、富商等〈社中〉を結び、……又和蘭国気灯は、何れも商人の〈会社〉にて取建云々」、また同書五に、「英国々制、諸学校・病院・幼院及び養老院共、政府の建築せし者は更になく、皆商人等、会社を設けて取建てたる処にて云々」。  また同年刊栗本鋤雲の『暁窗追録』に、博覧会を博覧会社といふの類、実にまちまちなり。しかし、明治二年、政府の保護の下に設立せし「通商会社」「為替会社」等は、今日同様、商事会社の意味なり。  明治二年公議所『議案』第六号および明治六年七月発布『訴答文例』の第十四条に、商社とあるは、今日の会社をいへるなり。その方が、むしろ適当の名なりしが、いつか会社になりてしまへり。


この説明は今日初めてネット上でたどり着いたものである。

石井研堂『明治事物起原』橋南堂、1908年  より。

福沢諭吉などは英学故に、カンパニと呼んでいたようである。

会社の「会」は、「会所」から、「社」は「社中」から転用したという説明もどこかで読んだ記憶がある。

デジタル大辞泉の解説
しゃ‐ちゅう【社中】

 会社の建物のなか。また、会社の内部。社内。
 組合・結社などの仲間。
 邦楽などで、同門の仲間。


2の意味で社中を使って、「shachu」と発音するのに
なぜ「氏子中」の場合は、「ujikoju」と読むのか?

坂本竜馬の時代になって、「ちゅう」と読むのが流行りだしたのか?

私が「うじこなか」と読んでいたことは紹介したが、
ワイフは「なかこし」(中子さん)と読んでいたらしい。

私がワイフより二学年年上故、横書き文字はかつては右から読むことを知っていたということであろう。しかしワイフは書道の師範資格を持っているのに、これだけでは理由説明にならない。・・・・・

塚口神社を覗いて新発見

次の2枚に注目↓

「氏子会」となっている。氏子中ではない!!!
そういえば、残っている柵柱や献灯常夜灯などに「氏子中」という文字が見当たらない。

↑塚口神社の「氏子中」は、昭和の終わりになって、「氏子会」として初めて結成されたのであろうか?
いまさら「氏子中」でもあるまいと、「氏子会」という名称を提起した人にはそれなりの見識があったように思う。

寛政2年(1790年)

↑天保7年(1836年)

塚口神社には「氏子中」が存在しなかったのである。
塚口御坊にあって真宗集団として結束していた時代、
この村には神社が存在しなかった可能性がある。
16世紀以前、この地は荒れ野で、古代の墳墓(古墳)用地として
人が集住する場所とはみなされていなかった可能性がある。

なにせこの地は、庄下川の水を利用できない。
はるか武庫川か、藻川から水分を引いてこなければならない。
井組への参加は、一番遅れたのではないかと思う。
多分JR宝塚線の東は、三平井から、西は武庫川の水を、富松井から分けてもらったのであろう。

↑「宗源」も意味が不明

「殖産」は分かるが。

東武庫神社のもの

なら、萬民悦楽も分かるが。たぶん「悦楽」は仏教用語なのであろう。法悦という言葉から連想して。
神社がなぜ、仏教用語を利用する?という別の疑問も出てくるが。

宗源はネット上では、仏教用語としての解説はなし。神社用語として
宗源については未調査で時間切れ。

悦楽か怡楽か桃の花ざかり 森澄雄 四遠

今日もまた別の恥をかいた。

創業百年の自転車屋さんの3代目の主人(和風レストラン兼営)に話しかけた。
「塚口村の中にひがしまち、きたまちなどという町があったんですかねえ?」
「 ああ、ひがしちょう ね」
私、園芸では、草を「ソウ」と読みがちであるが「クサ」と読むのがただしい場合が多い。チョウと読むと、御坊内の地域呼称となるらしい。

「きれいな菰ですね。矢野さん製ですか」
「いや、岸本さん製です」

「1斗樽に菰巻いて、中にお菓子を詰めて山車押した子供たちに
割らせるんです」


フィカス・プミラ

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気になるお家なので、以前にも画像紹介したことがあるが、
久しぶりに通りかかると実をいっぱいつけた蔓に気付いた。
↓こんな花が咲くらしいが、私が見たのは実。


フィカス・プミラ



フィカス・プミラは班入りのものが小鉢植えで出回っているようである。
観葉植物であるが、花も実も豪華である。クワ科植物。


この家(社長宅兼本社事務所のよう)に初めて遭遇したとき、

そういえば、駅前を歩いていて、なんどかこの会社への道順を尋ねられたことがあるが、まったく知らない会社名だったので、答えられなかったことを思い出した。

もう一つは私自身が園芸をやっていて、ジャスミン、オーシャンブルー、モッコウバラいずれも成長して道行く人に称賛されるようになると、処分せねばならないと感じ始めるが、その理由は家の壁に枝や葉が沿いはじめるときであるからである。


このお家は、もちろんモルタル壁ではないだろうが、大丈夫なのだろうかと心配。窓も一部その機能に障害が出始めているように思える。
しかし通行人として眺めるには素敵な風景である。



昨日は、久しぶりに芦屋川駅に下車。


下車後徒歩5分の市の文化ホールが目的地であったので、その間の芦屋川沿いの風景。



大阪と神戸をつなぐ(国道2号線 国道43号線、阪神高速湾岸線より山側を通る)第4の道路である、山手幹線は、計画してから全線開通するまでかなりの期間を要した(尼崎市内は早くから幹線道路として利用されていた)が、
この部分、芦屋川の下をくぐるトンネル工事も延引理由のひとつであった。


目的地↓

この前、隣接のルナホールに来たのは、同じく俳句仲間に誘われた、「7人の大統領に仕えた執事」の試写会の折。いい映画であった。ケーブルテレビで何度も再演されている。


「コミスク」とは、コミュニティ・スクールの略だそうな。↑

↑俳句仲間の作品 50年のお付き合いである。90歳を超え、御主人はひとりで先に介護施設入りをなさった。

20年前、住んでいた家が全壊。その時点で70歳を超えていたため、借家探しに苦労したという話を聞いている。
その後娘さん夫婦が近くに住む芦屋の山手のマンションでの生活を再開。
この日も娘さんが受付などの業務を手伝っておられた。
その娘さんの息子さんの句が、「お~いお茶」に採用されて、
我々もペットボトル1本の寄贈を受けた。
そんな機会が他にも2,3度ある。
(一度は作者の年齢が10歳若く記載されていたので、騒ぎになった)。
ワイフの句が採用された時には、私たちも賞品で貰える掲載ボトル1ケース以外に数ケース買い足した経験がある。

芦屋川駅には大学生の時代に、週2回下車していた。
私の通った中高の後輩の家庭教師として。
上↑に見える芦屋カトリック教会の傍の地下道をくぐって浜芦屋町のテニスコートあたりまで歩いて通った。
大学へ入学するや否や、高校の同級生で、所属クラブ(テニス部)も一緒であった友人に、その年中学に入学したばかりの弟の世話を頼まれた。
この年、同級生150人余の半分くらいが浪人生となった。
現役進学者も多くが東京の大学へ進学したために芦屋の近くで、家庭教師を頼める者が私しかいなかったからかも。

近来稀な不出来な学年という「定評」が学内にあって、国立1期校への進学者が極端に少なく、東大合格者は0だった。

↑芦屋川沿いに「林立」していたこのような和風建築はほとんどすべて姿を消した。
↓のようなものに姿を変えている。この店は一度利用したことがある。

芦屋駅前 ホトトギス3代句碑。4代目のものを彫り加えるかどうか?

この句碑は芦屋市のHPの観光案内も掲載されている。
以下は山村裕という人のHPから


芦屋川ぞいの小さな月若公園付近は、かって近くに俳人・高浜年尾 (高浜虚子の長男)の家もあり、俳人高浜虚子主宰の「ホトトギス」ゆかりの地でもある。 月若公園に芦屋川の春を読んだホトトギスの親子三代句碑がある。
 咲きみちてこぼれる花も無かりけり 虚子
 六甲の端山(はやま)に遊び春隣 年尾
 日に慣れし花の明るさつづきをり 汀子
因みに、年尾の娘稲畑汀子も芦屋市の自宅隣に「虚子記念文学館」を開設している。

大阪の忠岡町(日本一小さな町がCF)のHPによれば、3代句碑はここ芦屋以外に、忠岡町、九州の筑紫野市にもあるらしい。

UP後、上掲の3句目、「日」は「目」が正しいと読者から訂正が入った。



ふとん太鼓

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ウィキペディアの解説:

ふとん太鼓(ふとんだいこ)とは大阪府河内泉州地方や、兵庫県播磨淡路その周辺で担がれる大型の太鼓台のことである。祭りの飾り山車の一種であり、形状的な最大の特徴は、正方形の巨大な布団を屋根にあたる部分に逆ピラミッド型に積む点にある。布団だんじり、布団神輿、布団屋台などとも呼ばれる。

重さは1.0t~2.0tあり、約50~70人ほどで毎年各神社の祭礼で派手な演出と共にいきおいよく担がれている。現在では少なくなったが戦前は一カ所の神社で約10台以上、宮入されていた所(開口神社、菅原神社)もある。

説明はまだまだあって、各地のふとん太鼓が紹介されている。
伊丹市宮の前のふとん太鼓にはHPもあるが、
尼崎市塚口の秋祭りの説明はまったくない。


5つの町(ちょう)(ひがしちょう きたちょう みなみちょう しみずちょう
みやのちょう)から7台の山車、神輿がでる。神輿はみやのちょう。
ふとん太鼓はひがしちょうともうひとつ。こどもみこしも1台。

西宮市の中央公民館での句会終了後、「塚口」駅に戻り、
その足で、塚口神社を覗いてみた。

句会出句3句

増えてゆく懸案事項コキア噴く
天高しきつねうどんは箸で食う
刈り紡ぎ洗い煮て今コスモス園

参道を通らず、直接神社の境内へ。閑散。
1件、訂正。「氏子中」を「発見」。大正の年号が入っている。
戦争前後に途絶えて、「氏子会」の名で再出発したということであろう。

大鳥居の横にある、みやのちょう の山車 神輿2台が鎮座。
張り出してある「運行」表によれば
つかしん チャーチスクエアでの式典に参加後帰着したばかりのよう。

みやのちょうのふとん太鼓

宮の前というのが、この地区の名であると思っていたが、
きたちょう、みなみちょう、ひがしちょう、しみずちょうの旧塚口御坊の
ちょう名に合わせて「宮のちょう」と称しているのかどうか。
みやのちょうは、私の見立てでは、御坊の堀の外にある。

しかし塚口神社は宮の前地区にあるので、この地区をはずしては
祭は成り立たない。現に、一番豪荘で、夜9時過ぎに、神社に勢ぞろいして気炎をあげた山車・神輿のなかでは、みやのちょうのものに一番の拍手が集まった。

カメラ画像がなべて2枚撮りになっている。
修正方法が分からないので、
カメラを初期設定に戻した。
撮影日時時刻表示が消えた。
画素数がM1設定になったため、すべて5MB以上。
よって撮りこむ画像をすべて2MB以下に修整しなければならない
ブログを書き始めてこのことに気付いた。

明るいうちに町内を撮影。夕食後にもう一度山車の曳行を見に舞い戻った。予想以上の風景であったが、今日付のブログへの収録困難。

清水町(しみずちょう)の山車、家の軒先と、電柱、街灯をさけるため
山車の庇は折りたたむことができる。

あ~かんやっちゃ

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17日夕刻の塚口御坊 ひがしちょう界隈



ああしんど~ 本番まだかいな~

ふとん太鼓は小型なので、巡行試運転はなくてもいいのか?
もっぱら太鼓のお稽古
夜山車が神社に集結して曳き役が休憩に入っても太鼓を打ち続けていた。
午後10時まで。


↑自然石道標のある御坊の東門跡あたりは、ひときわ難所。3メートル幅の道路から、あまり遊びのない4メートル道路への曲がり角。
家の門が防御塀で囲われている。


.↑↓きたちょうの山車は豪華

ちょっと広い道路へ
1時間ほど御坊内をうろうろしていったん帰宅。夕食。

夜8時前、再び神社へ

↑北町本部 ↓宮の町本部前


神社へ山車が集結する前の神社

境内は人気少ない。次に9時前にここへ来るとびっしり。摂社、末社前には近づけない。




稲荷社↑ ↓本殿

太鼓の音がする方へ

清水町


↑↓ 東町のふとん太鼓山車は、ギャル奴付き

曳き綱を引く子供たちの掛け声
「え~らいやっちゃ~」
対する応答が
「あ~かんやっちゃ~」

神社へたどりついた山車  後続を待っている。


みやのちょうのふとん太鼓山車は神輿になって奮闘


5台目が境内へ入ったところで引き揚げ。
午後10時になっていた。翌日は山車に乗っている幼児の数が減っていた。

山車をこきりこきりと曳き廻す 行方克己 昆虫記

中仙道秋の祭の山車一つ 大澤ひろし

近江びと老いてうららに山車自慢 大島民郎

山車囃甘甘棒は飛騨の菓子 上村占魚

極月の夜祭山車の競ひあふ 菱田トクヱ

秩父夜祭山車待つ燗を熱うして 田原口秋峰

山車かつぐ乙女のありて里神楽 中村きみ子

雨をよぶ山車を出しけり夏祭 長谷川かな女

山車囃甘甘棒は飛騨の菓子 上村占魚

秋風を捩ぢまげて山車曲がりけり 安孫子十字

山車囃甘甘棒は飛騨の菓子 上村占魚

山車蔵の扉にたてかけて橇干せり 加藤 岳雄

山車倉に昔の闇や虎落笛 中村風信子

山車通るゑのころ草も刈られけり 吉武紀代子

山坂に山車がつまづく秋祭 百合山羽公

豊年や神の逢瀬へ山車揃ひ 深澤厚子

山車倉をはさむ町並水の秋 釜谷石籟

山車の灯に暈生まれつつ祭過ぐ 松本 幹雄

菫咲く雨の山車蔵半開き 大野徳樹

山車曳きて田畑を覚ます春祭 馬場移公子

風光る山車からくりの糸見えて 衣川 砂生

行く春や湖北ひと夜の山車歌舞伎 清水 節子

山車ひとつ出づ大工町鍛冶屋町 橋本榮治 麦生

春空へ割り込む山車を仰ぎけり 青木綾子

日がわたる高山祭の山車の上 三和千秋

山車囃甘甘棒は飛騨の菓子 上村占魚

山車曲る砂浜の砂ゑぐりつつ 波津女

山車揺れて子ら振り落とすことなかれ 辻口静夫

辻廻す山車の奈落を人知らず 出島かず江

過ぎてゆく山車より秋思始まれり 片山茂子

父在らば秋晴の坂山車越えむ 小澤克己

山車水尾の如くに人連れて 清水明子

山車の灯の坩堝を映す水の秋 田口一穂

風光る山車からくりの糸見えて 衣川砂生

山車を曳く秩父男の冬の汗 相津以千子

早鉦に石採の山車遅々として 里川水章

爽けしや山車曲るとき乱拍子 田中水桜

山車の灯も入りしころとか見に行かん 高浜年尾

山車曲る金をはじきて山の雨 鳥羽とほる

山車にのる河童張子に夜霧ふる 八牧美喜子

冬月も柞越えたり山車曳き出よ 荒井正隆

どの山車の岩にも牡丹むかしより 田村了咲

山車倉の庇間に見え巴波川 八木林之介 青霞集

山車曳いて田畑を覚ます春祭 馬場移公子

山車蔵の観音びらきさくら咲き 伊藤敬子

山車曳くや汗地獄なる男の肌 伊藤敬子

干柿や山車ゆくときの砂埃 斉藤夏風

山車二台かへりておぼろ一之町 藤田湘子 黒

山車統べて鎧皇后立ち給ふ 山口誓子 一隅

帰る気になかなかならず山車に従き 稲畑汀子 汀子第二句集

はつはつと山車倉の上に鵙鳴ける ももすずめ

よれよれとなりて夕日の山車を曳く ももすずめ


商店街へ繰り出した山車、ご祝儀があると高く掲げて、山車を止め、お礼囃子を入れる。

土曜日の夜は、住宅街の中の巡行であったから、場所が清水町なら清水町の山車への祝儀しかなかったが、伊丹線を踏切を渡って、南町を出た山車に対しては、多くの店はすべての山車へ祝儀を渡す。だから後の山車もみな同じ店の前にとまる。
指1本の合い図は、1万?
知り合いの時計店主は、日曜休業にもかかわらず、祝儀を渡すために店を開けていた。


村中の納め松曳く修羅神輿 荏原京子

神輿太鼓雨に跳ね打つ鍋祭 三木蒼生

色町にしばらくやすむ神輿かな 小路智壽子

明日をこそ荒れむ神輿の夜を鎮座 藤陵紫泡

子の神輿大人が揉んで天高し 細川加賀 『玉虫』以後

道濡れて次の神輿を通しけり 野澤節子 『駿河蘭』

深川めし声の神輿の通りけり 大木あまり 火球

シャッターを閉ざし神輿の冬籠 太田常子

秋祭り声で押し上ぐ樽神輿 桝田国市

豊年や湖へ神輿の金すすむ 西東三鬼

掛声も乗せリヤカーの神輿来る 斉藤葉子

旧道は子供神輿の通る道 林 夾山

放送は子供神輿の来る知らせ 斉藤友栄

永代橋落ちんばかりの神輿かな 中田みなみ

持て余す子供神輿の大団扇 佐藤信子

太鼓より神輿小さし秋祭 遠藤はつ

利根川の舸子もまじれる神輿かな 軽部烏頭子

対岸を神輿のとほる日照雨かな 根岸 善雄

神輿追ひ銀座新富明石町 愛澤豊嗣

押鮓や一番神輿門を過ぐ 本多ちづ子

神輿荒れし夜は早熟のこほろぎよ 野沢節子

豊年や湖へ神輿の金すすむ 西東三鬼

街折れて闇にきらめく神輿かな 富田木歩

そのなかの暗き船こそ神輿ませ 素逝

たたら踏む神輿となりし切通 槐太

街折れて闇にきらめく神輿かな 木歩

神輿髪洗橋渡り行く 龍雨


たましひの渦曳く秋の神輿かな 佐怒賀正美

ひと揺すりして発つ春の帆手神輿 玉澤幹郎

神輿揉む地に触れしより火の匂ひ 道口守子

みな尻をもちて神輿のあと歩く 大石雄鬼

神輿よりはじきだされし人と歩く 大石雄鬼

利根川の舸子もまじれる神輿かな 軽部烏頭子

稔り田に二つの神輿光り合ふ 冨田みのる

爽涼や神輿作りの切火して 町田しげき

高波に神輿つぎつぎ逆立つよ 町田しげき

汐踏の十八神輿砂丘より 町田しげき

灼け神輿揉むぞ気抜けば潰さるる 荒井正隆

神輿もむつるやなだ万相対し 大橋敦子

変若水呑みまた霊加へ荒れ神輿 加倉井秋を

古書肆出て爾後は神輿の後に蹤く 北野民夫

神輿いま危き橋を渡るなり 久米正雄 返り花

稲の花神輿の修復出来にけり 会津八一

神輿舁ぐ水飲むごとく酒飲みて 橋本美代子

柄杓水呷りて喧嘩神輿舁く 品川鈴子

喧嘩神輿担ぎ血管みみずばれ 品川鈴子

腕組んで神輿につづく街の衆 深見けん二

ちちははも神田の生れ神輿舁く 深見けん二

湖へ神輿さし出てほとゝぎす 炭 太祇 太祇句選後篇

神輿渡御待つどぜう汁すゝりけり 久保田万太郎 流寓抄

栗の花こぼれて居るや神輿部屋 河東碧梧桐

神輿の渡るを見るや爪立ちて 芥川龍之介

ちちははも神田の生れ神輿舁く 深見けん二

腕組んで神輿につづく街の衆 深見けん二


駅前巡行

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4番の札をつけた山車(北町 きたちょう)が、一番乗りで、塚口御坊の西門跡(阪急電車伊丹線の線路)へ差し掛かかっているのに間に合った。黄色の襷を掛けているのは、阪急電車の運行係職員、
この職員と兵庫県警と各町の世話人との息がまったくあっていない。

 てんで違う指示を出し、それが仲間内でも徹底しない。
こと踏切横断に関しては阪急の職員が神経質である。
この踏切部分は単線で、構内に停車中の電車が出ていかない限り
対向車は入ってこれない。
しかも目の前が駅であるから電車は緩やかにしか動きだせない。
それでも山車が線路上で動かなくなれば事故は起こりうる。
電車は10分間隔で運転されている。
ここ以外の踏切では、10分間に2本の電車が通過する。


御祝儀をくれた店が画面の左奥にあるので、そこへ向かってお礼の掛け声をかけている。

その間に遮断機が下りた。


線路を越えてから曳き手を務める子供たちが、踏切をこえたところで待機中。
みなみちょうの法被。

ここから20メートルほどには両側に店がならび、道幅も狭い。
そこを抜ければ駅前だが、再開発計画がとん挫して車は一方通行である。
なんとか歩道は用意されているが、いつもは違法駐輪でごったがえしている。


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駅前通りの巡行は20メートルくらい。すぐに横丁に曲がり、また伊丹線の踏み切りを渡る。
ここは複線区間。そこを渡って次の角が分岐点で、そこで記念写真を撮影。
山車はそれぞれの地区本部(山車蔵のある方向へ散ってゆく。

えらいやっちゃ~ あ~かんやっちゃ~

みなみちょうの山車が去っていったので、近回りして(混雑を避けて)また踏切へもどってみる。

みやのちょう の山車↑↓

しみずちょう の山車

↑ひがしちょうの子供山車↓

↑撮影場所へしみずちょう 到着

きたちょうは踏切で足止め。

きたちょう 踏切通過

↑次はひがしちょう ふとん太鼓

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踏切通過


ひがしちょう は帰る方向での記念撮影

日の障子太鼓の如し福寿草 松本たかし

年神の素戔嗚尊に似て荒太鼓 我妻草豊

飛ぶ雪やえんぶり太鼓のけぞり打つ 草間時彦

まだだれも叩かぬ太鼓初稽古 赤塚五行

太鼓の鬼が泣かせし春著の子 小林影三

太鼓聞こえ万燈まだ見えず 後藤図子

神送りお諏訪太鼓の黒光り 野田豊子

帯解や雨の中打つ宮太鼓 石橋秀野

煤払でんでん太鼓捨てきれず 半崎墨縄子

高千穂は霜の降る夜の遠太鼓 斎藤梅子

太鼓打つ妓の眦も神無月 瀬戸内寂聴

荒行太鼓ひびく椎茸榾黒し 加賀美子麓

紅葉照る女人高野の太鼓橋 北川 修

六斎の手だれに代はる四つ太鼓 西村和子

川へ火の出たがる施餓鬼太鼓かな 関戸靖子

百竿の炎練り出す本太鼓 結柴蕗山

父祖の血を騒がしねぶた太鼓打つ 新谷ひろし

御陣乗太鼓沖の鯖雲縞粗く 奈良文夫

神輿太鼓雨に跳ね打つ鍋祭 三木蒼生

夏の夜や鬼剣舞の早太鼓 木村春江

炮烙を割るにも壬生の笛・太鼓 橋本美代子

義士祭の太鼓玩具として打たる 岸 風三楼

白山の雪解うながす夜の太鼓 藤田湘子

川風に夏場所近きふれ太鼓 羽生 大雪

三面鏡お太鼓帯は母が締め 東 和歌子

息合ひて六斎太鼓躍り打ち つじ加代子

遠景の六斎太鼓響くかな 大井恒行

父祖の血を騒がしねぷた太鼓打つ 新谷ひろし

布袋草火焔太鼓を花ごとに 堀 葦男

競渡舟卸す打込み太鼓かな 林 かつみ

飛ぶ雪やえんぶり太鼓のけぞり打つ 草間時彦

月夜なり酔うて太鼓を打つことも 細川加賀 『生身魂』

足袋はくやはじめを強く喪の太鼓 長谷川双魚 『ひとつとや』

太鼓ひそかに打つは夜の雪 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』

一打ちは盆墓に撥ね鬼太鼓 岸田稚魚 『雪涅槃』

太鼓の来る日は沖に稲びかり(外海府にて) 岸田稚魚 『雪涅槃』

正月の海原太鼓の響きもつ 上村占魚 『玄妙』

酢のものの貝のちぢまる盆太鼓 大木あまり 火球

波の花舞ひて曽々木の陣太鼓 村本畔秀

時雨来る習ひ太鼓を打つ子らに 新井太四郎

お会式の太鼓に雨の飛沫とぶ 小林勇二

会式太鼓聞こえず野川流れたり 臼田亜浪

秋天を仰ぎ打ち出す獅子太鼓 宮田富昭

雨乞太鼓昂る終りの一打まで 加倉井秋を

山開き太鼓で雲の封を切る 本宮鼎三

蜘蛛掃けば太鼓落して悲しけれ 高浜虚子

土産買ふ祭太鼓に誘はれて 角田サチ

祭すみ太鼓ころがしゆきにけり 細見綾子

春場所や水の浪速に触れ太鼓 酒井 武

春場所や櫓太鼓に揺るる天 町田一雄

春場所を明日に高鳴るふれ太鼓 佐藤信子

節分や太鼓に明ける神の森 菅沢泰子

鷽替に親子で渡る太鼓橋 白木サダ子

日の障子太鼓の如し福寿草 松本たかし

太鼓橋われらが占拠初写真 山口青邨

すきとおるそこは太鼓をたたいてとおる 阿部完市

初天神太鼓橋より通りやんせ 百瀬ひろし

太鼓橋われらが占拠初写真 山口青邨

空也忌の鉦も太鼓も寂寂と 和田游眠

空也忌のやれ瓢打つ太鼓打つ 前田比呂志

鵙日和太鼓打つごと書をかきて 柳澤和子

太鼓家庭教師はさみしきよ 宮坂静生

新藁の上にでんでん太鼓かな 延広禎一

一合の米磨ぐ祭太鼓かな 片山依子

時満ちて義経太鼓祭笛 大西岩夫

富嶽太鼓雨に打ち出す山開 平賀扶人

火明かりに汗のをとこの舞太鼓 高田衣子

太鼓打ち襷外して夏終る 中村英史

菜の花は古来しなう身笛太鼓 板垣好樹

大凧を引き揚ぐ一の太鼓鳴る 浅井仁水

山焼や火焔太鼓の響きせり 武井与始子

村あげて太鼓合図のどんどかな 三宅 桧沢

舞ふ鈿女神楽太鼓を狂はせて 羽田 岳水

夜神楽を触れて太鼓の昼間より 竹森登美恵

神還りたまへと海人の太鼓打つ 山岸 治子

太鼓より神輿小さし秋祭 遠藤はつ

宮相撲触れつつ太鼓畦を来ぬ 山野邊としを

島どこも太鼓の稽古月の秋 岡本静子

太鼓ひびき納めし夏木立 高嶋富子

降神の太鼓一打や夏祓 白井新一

太鼓大山祗の田を植うる 小林客水

帰省子の声の加はる太鼓打 岡部名保子

富嶽太鼓雨に打ち出す山開 平賀扶人

雲海にとどろく太鼓禰宜が打つ 望月たかし

初午や太鼓にまじるをさな笛 橋本冬樹

由布岳へ打つ九面太鼓や苗代田 平子 公一

加賀太鼓乱れ打つなり鰤起し 溝口青於

ねぶた太鼓打つ峯雲にとどくまで 椎名書子

六斎は太鼓を抛りあげにけり 田中告天子

息合ひて六斎太鼓乱れ打ち つじ加代子

六斎や身を逆しまに打つ太鼓 高崎雨城

六斎の念仏太鼓打ちてやむ 中田余瓶

欅老樹に瘤わだかまる蜘蛛太鼓 角川源義

蚊柱に救世軍の太鼓かな 巌谷小波

夏場所のはねし太鼓や川向ふ 松本たかし

夏場所のはねの太鼓に端居かな 富安風生

雨乞太鼓昂る終りの一打まで 加倉井秋を

山王祭太鼓に湖は白みゆく 大矢東篁

春場所の太鼓に運河光るなり 渡辺亀齢

日の障子太鼓の如し福寿草 松本たかし




シロヨメナ

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「嫁菜」、例句あるかどうか?


長篠の雨に嫁菜の花ひそと 立半青紹

嫁菜咲く磯に遊びし今津の子 吉岡三枝子

懐石の萌黄色なる嫁菜和 高垣菊枝

濡れて出る朝の口笛嫁菜飯 蛭名節昌

嫁菜飯家伝の秘法を伝授さる 山本佳子

嫁菜見に明かるい雨が過ぎてより 梶川礼子

諍いは小さく刻む嫁菜汁 野村青司

みちのくの摘んでつめたき嫁菜かな 細川加賀 『生身魂』


父の座に父戻りけり嫁菜飯 田中良次


一面の嫁菜庄屋の屋敷跡 五十嵐みい


懐石の萌黄色なる嫁菜和 高垣菊枝

犬見せて五六の乳房嫁菜萌ゆ 秋元不死男

七種に更に嫁菜を加へけり 高浜虚子

市振やはらはら雨の嫁菜菊 福島小蕾

紫を俤にして嫁菜かな 松根東洋城



摘草の嫁菜にまじり似たるもの 若沙

摘み競ひ企玖の嫁菜は籠にみてり 杉田久女

木曽人の義仲贔屓嫁菜萌ゆ 小澤實

炊き上げてうすき緑や嫁菜飯 杉田久女

道端の砂利のほとりの嫁菜哉 滝井孝作 浮寝鳥

隠家や嫁菜の中に残る菊 嵐雪

妹は嫁菜われは汀の芹を摘む 寺田寅彦

嫁菜つみ夕づく馬車を待たせつゝ 杉田久女

摘み競ふ企玖の嫁菜は籠にみてり 杉田久女


蘆垣に嫁菜花さく洲崎かな 泉鏡花

この旅は酒色うとめる嫁菜飯 上田五千石 風景


意外に多かった。ヨメナとシロヨメナはまったく違う草かどうか?
シロヨメナは木のように思えるが。
シロヨメナと教えてもらった植物が、シロヨメナでないのかも。

ウィキペディア

ヨメナ(嫁菜、学名Aster yomena)はキク科多年草。道端で見かける野菊の一種。


分布

本州中部以西、四国、九州に分布する。中国には一部で帰化しているらしい。

道端にごく普通の植物であるが、山間でも見かける。やや湿ったところを好む。

特徴

道端で見かける雑草に類する植物で、秋に薄紫か白い菊の花をつける。ただし、よく似た姿のキク類は他にもいくつかあり、一般にはそれらをまとめてヨメナと呼んでいることが多い。いわゆる野菊に類するものである。

地下茎があり、小さな群落を作る。茎は高さ50-100cm位になり、上の方で枝分かれして、小さな茂みを作る。葉は卵状楕円形で、粗く低い鋸歯がある。色は深緑で、つやがあまりない。周辺には浅くて大きな鋸歯がある。

秋に茎の先端から花茎を伸ばし、その先端に花をつける。花茎は基部で少し枝分かれする。花はいわゆる野菊の花である。外側にはサジ型の白い舌状花が並び、内側には黄色い管状花が密生する。

花が落ちるとあとには種子(実際は果実)が並んでいるのが見える。種子にはタンポポのような冠毛は全くなく、タイルが並んでいるような外見となる。

ヨメナの染色体数は2n=63で、これは中国から九州に入ったオオユウガギク(2n=72)と南から侵入したコヨメナ (2n=54) の交配で生まれたと考えられている。

利用

若芽を摘んで食べる。古くは万葉集の時代から使われていたようで、オハギ、あるいはウハギと呼ばれている。ヨメナご飯なども有名。名前の由来は嫁菜とも夜目菜とも言われ、はっきりしない。一説には、美しく優しげな花を咲かせるため「嫁」の名がつくといわれている[1]。なお、のぎくをヨメナの別名とする記述が国語辞典関連ではよく見られる[2]が、植物図鑑ではヨメナの別名としてノギクを挙げた例はない。

雑草に類するものであり、見れば美しいと思うかもしれないが、積極的に育てられるものではない。駆除しようとすると地下茎があるから厄介者である。

近縁種

この属は東アジアに約十種、日本には六種が知られる。日本のヨメナ属のものはオオバヨメナを除いて、どれもよく似ている。

オオユウガギク K. incisa (Fish.) DC.
ヨメナより一回り大きく、葉はやや深く切れ込む。湿地などに生え、四国と九州、それに本州西部にある。国外では中国東北部からシベリアに産する。
カントウヨメナ K. pseudoyomena Kitam.
ヨメナに似るが、より小型。葉もやや切れ込みが深い。関東以北の本州に分布。
ユウガギク K. pinnatifida (Maxim.) Kitam.
ヨメナに似るが、より小型。葉は薄く、大きく裂けることがある。近畿地方以北の本州に分布。
コヨメナ K. indica (L.)
ヨメナに似るが全体に小型で、背丈はせいぜい50cm。四国、九州南部から琉球列島、小笠原に分布。国外では朝鮮南部、中国からインドシナ、インドまで。
オオバヨメナ K. miqueliana (Hara) Kitam.
山林に生育する種で、花はやや小さい。葉がハート形をしている。四国、九州に分布する。

類似のもの  下の画像はノコンギク

草の姿、葉の形等非常によく似ている。区別点の一つは花序の形で、ヨメナが花序の基部で分枝し、個々の花の柄は長いのに対して、ノコンギクの花序は途中から上の方で分枝するので、個々の花の柄は短い。記憶用にはこれを称して「ヨメナはハナの下が長い」という。また、ヨメナの葉がほとんど無毛なのに対して、ノコンギクは細かい毛がある。




これがシロヨメナであると紹介しているHPでの画像

花期が8~11月で、薄暗い所を好むとあるので、私の見たのはシロヨメナであろう。
嫁菜の花に似て、色が白いから、シロヨメナ

その近くで見た草花

赤花のゲンノショウコ


アキノタムラソウ


駅前で見た花

クロサンドラ
花ダン植えとプランタ植え


濃い艶のある緑の葉が特徴である。


先日紹介したダルマギク

あっと間に満開状態


神戸市北区淡河町神戸
休耕田というよりは耕作放棄地のある風景

コブナグサ

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↑コブナグサ
八丈島では黄八丈の染料として利用するそうである。


小鮒草で例句はないだろうと思い、
「小鮒」で検索。小鮒草が句に利用されていれば、その中に登場するはず。
例句なし。

新緑の槐の陰に小鮒売 小林螢二

山吹や小鮒入れたる桶に散る 正岡子規

*いさざ小鮒けふ売初の賤ケ嶽 斎藤夏風

さみだれに小鮒をにぎる小供哉 野坡

手を拍つて小鮒追ひこむ春の暮 大串 章

しばし見む柳がもとの小鮒市 高井几董


小林さんは江戸俳人ではないはず。

風垣の竹の荷おろす佐渡汽船 小林螢二

新緑の槐の陰に小鮒売 小林螢二

人名で句を検索。2句登場。佐度島に汽船が通じているなら明治以降であろう。
小林さんの生没年が分からないが、明治時代には、小鮒だけを売る商売があったよう。

1885年汽船が通じ、1932年に「佐渡汽船」の名になったとウィキさん情報。

高井 几董(たかい きとう、 寛保元年(1741年) - 寛政元年10月23日(1789年12月9日))は江戸時代中期の俳諧師夜半亭三世。別号に晋明、高子舎、春夜楼、塩山亭。


経歴

京都の俳諧師・高井几圭の次男として生まれる。幼名は小八郎。父に師事し俳諧を学び、初号を雷夫と称した。宝井其角には特に厚く私淑していた。明和7年(1770年)30歳の時、与謝蕪村に入門した。入門当初より頭角を現し蕪村を補佐して一門を束ねるまでに至った。安永7年(1779年)には蕪村と二人で大坂摂津播磨瀬戸内方面に吟行の旅に出た。温厚な性格で蕪村の門人全てと分け隔て無く親交を持った。門人以外では松岡青蘿大島蓼太久村暁台らと親交を持った。天明3年(1784年)に蕪村が没すると直ちに蕪村句集を編むなど俳句の中興に尽力した。京都を活動の中心に据えていたが、天明5年(1785年)蕪村が師である早野巴人の「一夜松」に倣い「続一夜松」を比野聖廟に奉納しようとしたが叶わなかったので、その遺志を継いで関東に赴いた。この際に出家し僧号を詐善居士と名乗った。天明6年(1786年)に夜半亭を継承。この年に「続一夜松」を刊行した。寛政元年(1789年)歿、享年49。


高井 几董さんは蕪村の高弟である。その時代には小鮒市などもあったのだ。

黒い穂に見えたが、赤紫のようである。
ミニススキのようで観賞価値があるとか。


耳鼻科待合室

なべてが院長さんの手作りだとか。
異常を感じない限り来院の要なしと宣告された。
でもまだ鼓膜にチューブが差し込まれているので
それが自然に押し出されて取れるまでは「治療中」だと思っている。


通院の後、昨日に続いて神戸市北区までの片道31キロを往復。

新しい草花は見つけることができなかった。↑ヌスビトハギ

街角でみた鉢植えの木。葉はどこかで見たような気がするが、「花図鑑」に投稿。
即ではなかったが、「マルバユーカリ」という回答が一件。
そういえばユーカリの葉の色である。


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