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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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十三重塔

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数日前に紹介した尼崎市内66社のうちの訪問先一覧である。
過去ブロを探って直近の訪問日を書きくわえている。


西本町貴布禰神社
尼崎戎神社 2015. 9. 7
難波熊野神社
大物主神社
櫻井神社 2015.9. 7

西川八幡神社  2014. 1.28
久久知須佐男神社 2015.6.30
伊居太神社 2015.9. 8

伊佐具神社2015.6.27
中食満稲荷神社 2015.7.14

田能春日神社 2014.9.26
東園田白井神社 2015.9.7
富松神社
時友神社
友行須佐之男神社
西富松須佐之男神社 2015. 8. 29
武庫庄須佐之男神社 2015.9. 5

生島神社 2015. 8. 6
上守部素盞鳴神社 2015. 9.12
水堂須佐男神社 2015.8.26

塚口神社 2015.8..23
尾浜八幡神社
琴浦神社 2015.8.4

以上23社。

今日訪ねたのは、上守部素盞鳴神社。

医者に自転車・オートバイ(オートバイには乗らない)の利用を禁止されたので愛用の電動自転車はほったらかしで錆びるままだったが、

数週前にバッテリーを充電。重たい自転車だが、バッテリーのせいかどうか、ともかく一度充電すると満タン状態がかなり長く持続する。
5段階メモリがいつもすべて点燈する。

タイヤに空気を入れるために、駅前の自転車屋へでかけたついでに、
帰りは家の前を通過して西の方へ走った。

地図やガイドブックを持参しなかったが、南武庫之荘(このあたりもかつては庄園だったのである)8丁目と記憶していた住所のみを頼りに、楠の大樹を探した。

郵便の配達員を呼び止めて、南武庫之荘8丁目21はどこだと聞いたら、8丁目22はあるが、8丁目21は存在しないとのこと。

21は私の記憶間違いだった。


どうやら8丁目21は守部公園のようである。


神社の住所は8丁目15であった。例の「尼崎の道標」の道標番号と混乱したようである。
しかしこの神社境内に保存されている道標のガイドブック上の番号は24と25。

神社外観

鳥居は真新しい

平成10年再建となっている。

1995年の地震で本殿以外すべて全壊したようである。



道標二本

↑「左 かふと山道  是より五十丁」 「右 大坂]

↑「左 門戸厄神 かふと山道」
↓「右尼崎 大阪 道」 「施主 大阪新町 折屋徳兵衛門」


↑ 大阪となっているが、江戸時代にもこの表記はあったそうである。


守部一三重塔

写しにくい場所にある。14世紀前半のものだが重文指定されてないので、守部にあれど、守りは頑丈ではない。



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「十三」で検索したら十三夜の句が500句以上。
「塔」で検索したら平畑静塔の句が多数。
「塔花」では0。




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花野

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野の水となりて花野を奔るなり 谷野予志

花野より花野へ抜けし葬り鉦 山崎羅春

見はるかす花野の果ての赤い屋根 鈴木文野

便追や雲の奥まで梅雨花野 黒木野雨

野仏となるぞ花野に長居せば 狩行

山臥の火を切こぼす花野かな 野坡

母連れて花野の果ての枯野まで 鳴戸奈菜

なにとなく君に待たるる心地して出でし花野の夕月夜かな
                      与謝野晶子


見ゆる限り野を傾けて花野あり 伊藤石楠子

山伏の火をきりこぼす花野かな 野坡

花野より花野へ湖を渡りけり 太田土男

山伏の火を切りこぼす花野かな 志太野坡 (1663-1740)

花野の川越えてまた茅花の野 辻田克巳

蝶々の身の上しらぬ花野かな花野 千代尼

蕎麦白き花野をゆけば花野かな 野澤凡兆

山伏の火を切りこぼす花野かな 志太野坡

花野よりどこ吹く風といふ漢 中原道夫

花野風より水の急ぎけり 黛 執

降り出して花野あかるむ疲れかな 鍵和田[ゆう]子

躬を沈め花野は柩よりつめたし 篠崎圭介

合掌して花野の僧となりゆけり 永作火童

放牛に日のおとろへし花野かな 青柳志解樹

倒れては起きて花野の子供達 村野鶴諒子

花野ゆく小舟のごとき乳母車 八染藍子

膝抱けば夕べのごとき花野かな 山田みづえ

塩の道末は花野にまぎれけり 野崎ゆり香

花野より白根を指せる雲の日矢 細見綾子

降り出でて花野明りや立石寺 角川源義

行くほどに湖の冷えある花野かな 原田青児

天渺々笑ひたくなりし花野かな 渡辺水巴

花野に薩摩おごじよは髪吹かる 八木林之助

一天のあり風のあり花野行く 稲田 眸子

花野ゆく過去となりゆく過去のこと 久保田 洋子

花野蒜今日も来たりし鳩の群 村井 葉月

夜は花野昼は押入れが好きだった 武田伸一

身をしばるものなかりけり夕花野 黒田杏子

花野ゆく小舟のごとき乳母車 八染藍子

棺打ちし石を花野へ戻しけり 小原啄葉

花野遠くに人の待つごとし 藺草慶子

花野や犬はやはらかくうづくまり 山田みづえ

金剛の杖受けし夢花野なか 原裕 『王城句帖』

こめかみに花野を通りきし湿り 長谷川双魚 『風形』

羽抜鳥花野に熱き卵置く(奥日光周辺) 殿村菟絲子 『樹下』

花野にて見えぬ獣を連れてゐる 田川飛旅子 『使徒の眼』

花野にて獣のごとく傷つく日 田川飛旅子 『植樹祭』

風なごみ花野かがやくばかりなり 柴田白葉女 『夕浪』

老僧の花野遊びは苦行とも 齋藤玄 『無畔』

花野あまり白くて鴉降りられず 加倉井秋を 『風祝』

花野まなこひかりに動く雲 上村占魚 『方眼』

再会の友よ花野に綱引かむ 仁平勝 東京物語

蛇に眼を奪はれもして花野かな 大木あまり 火球

凶の日の大股に行く花野かな 大木あまり 山の夢

風敏し花野の中の吾亦紅 草間時彦

撫子の花野浄土となりにけり 沢木欣一

二人乗りリフト花野の上を行く 宮田俊子

カウベルの遠ざかり行く大花野 斉藤志津子

忘られて花野の中の三輪車 浅見さよ

ひといきに日の沈みたる花野かな 鷲谷七菜子

川一つ跳んで花野の人となる 神蔵 器

風呂場より花野のみえて糠袋 中山純子

白妙に山羊飼ふ島の花野かな 野見山ひふみ

昼は日を夜は月をあげ大花野 鷹羽狩行

花野来て神の妬みの雨にあふ 檜 紀代

鳥銜へ去りぬ花野のわが言葉 平畑静塔

岐れてもまた岐れても花野みち 富安風生

花野にて子を負ふ男謳ひ出す 原コウ子

噴煙や花野に坐して花摘まず 及川 貞

満目の花野ゆき花すこし摘む 能村登四郎



花野夕日とどまるところなし 鬼島雄司

いつまでも花野に出口なくてよし 安田直子

花野亡き父と行く風と行く 関澄ちとせ

花野二十六聖人浮かぶ 廣瀬之扶子

召されなば花野このままさまよひて 原 柯城

一すじの光り花野の忘れ水 橋口ふみ

枝折戸や花野を自我として持てり 中村和弘

秋月の町を花野としたりけり 津森延世

シヨパン忌を花野に遊ぶ何も持たず 岡崎光魚

名ばかりの花野ありけり恐山 石野冬青

霧深き花野や声が命綱 黒坂紫陽子

小さき手の何か言ひたげ花野ゆく 中村ふみ

岐路あまた花野にありて愉しけれ 西野たけし

道問へばだんだん遠くなる花野 御崎敏江

両脇の子が跳ねてゐる花野道 小西久子

風の絵師花野を縫ふて帰らざる 石橋 哲

花野道やさしくなれるまでひとり 吉田三千子

銃口を花野ヘクレー射撃場 水田光雄

名も知らぬ花野に子等の遊びをり 平川まゆみ

猫も鳩も出さぬ花野のバスケット 山本紫黄

ほどでなけれど趣は花野かな 新井ひろし

花野ゆく白をもつとも美しく着て 森川 潔

放馬離々柵は花野の中を縫ひ 太田光子

地獄谷隣合せの大花野 菅野一狼

踏み入りて花野の深さ感じをり 平林孝子

花野より生れて真白きグライダー 窪田英治

一輌車に慣れて花野の二三日 前田正治

風に立ち汝も花野の花となる 大隅三虎

花野ときどき雲の影に入り 加藤瑠璃子

わがゆめのつづきの花野なりしかな 加藤三七子


俳句検索エンジンなるものをいつも利用させてもらっているが、
和歌、短歌、川柳も登場する。
それらは削除しているが、今回は与謝野晶子の歌を残しておいた。
ただし俳人は「花野の夕月夜」といった表現は避ける。
花野も月夜も秋の季語ゆえ。

たいていの人は、句会に出席し始めて、花野が秋の季語であることを知る。
私もそうだった。


↑の花野では、盗人萩とセイタカアワダチソウが大威張り。
イタドリの花が目立つ。

川原では、蓼、大犬蓼

普通の蓼はヤナギタデで、俳人の好きなのは犬蓼で「赤まんま」と詠われ、↑はオオイヌタデである(と思う)。


ツリガネニンジン

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朝鮮ダリアと呼んでいた花は最近とんと見なくなった。
他の外来種に駆逐されたのであろうか。
↓一重咲き朝鮮ダリアといった風情だが、キクイモ。
キクイモモドキというのもあるらしいが、それとの区別はできない。
神戸市北区淡河町神戸(かんべ)
昨日と今日で2往復。帰路、高速に乗る前に車のガス欠ランプ点灯。
途中のセルフ・スタンドへ。現金払いが一番高くて、ハイオク149円。
満タンでいつも利用する伊丹市のガソリンスタンドの前を通ると、ハイオク132円

の表示。レギュラーはさらに10円安い。ずいぶんと安くなった。


ヒッツキムシができる前の盗人萩。群生していると遠目には萩かと思う。

↑アキノタムラソウは「落花盛ん」で、
代わって↓ツリガネニンジンを数株目にした。

我が家のケイトウは、終末期(種取り期)であるが、
葉が虫にやられて悲惨な感じ。

釣鐘人参、8音(7音扱いは可能)だし、例句などないと思い、
「人参」で検索

短歌だが一首、ツリガネニンジンを詠っている。


人参の捻ぢ梅うれし京雑煮 高島筍雄

人参を抜き大山を仰ぎけり 庄司圭吾

人参あまく煮て独りにもなれず 坂間晴子

馬市や馬に人参やる別れ 平野 六角牛

人参の自生の花も勝手道 佐藤 豊子

上つ面なるか人参泥だらけ 伊東達夫

人参の明るい乱雑姉妹に母 伊藤淳子

人参を擂るおとうとの羽化のため 佐藤鬼房

鎌研ぎの錆降りかかる花人参 伊丹三樹彦

もり上る人参の花島裏に 松崎鉄之介

人参の花まつすぐに島の空 曽根新五郎

畑隅をかすませてをり花人参 嶋田麻紀

流人墓山人参の花咲かせ 星野麥丘人

人参の花の白などうるさけれ 齋藤玄 『雁道』

人参酒齢のほどの秋思なる 河野南畦 『元禄の夢』

涼しさは人参の髭馬の髭 大木あまり 火球

洗ひ人参積み上げ城の見ゆる川 高梨静枝

円き川音切る人参の色やすらか 飯田龍太

下校の子待つ人参のケーキ焼く 成田郁子

畑隅に人参の花子守立つ 大野林火

流人墓山人参の花咲かせ 星野麦丘人

洗ひ機に人参踊り春一番 小出秋光

春めく灯あすの人参けふ洗はれ 中村草田男

カリカリと人参ステックコツプ酒 千才治子

むつかしく金時人参選つてをる 吉井幸子

人参あまく煮て独りにもなれず 坂間春子

人参も青年も身を洗ひ立て 宮坂静生

人参の太さこんじきぐらしかな 松澤 昭

寒林に人参色の陽が沈む 村岡正明

夏痩や旅に持たさる人参酒 深沢儀政

人参の絵が濡れてゐる種袋 阿部菁女

人参を切つて華やぐ女かな 仙田洋子 橋のあなたに

露の玉蔓人参の蔓を下り 佐々木六戈 百韻反故 吾亦紅

籠の人参ごろごろ女靴安売 星野紗一

洗ひ人参積み上げ城の見ゆる川 高梨静枝

土砂降りへ人参真赤にぬきはなつ 秋山淡適

人参あまく煮て独りにもなれず 坂間晴子

円き川音切る人参の色やすらか 飯田龍太

流人墓山人参の花咲かせ 星野麦丘人

島貧しからず人参花ざかり 吉田愛子

白日に夢さらしけり花人参 上関ふみ子

人参のうつくしからず花ざかり 広瀬盆城

畑隅に人参の花子守立つ 大野林火

春蒔の人参の種子揉めば匂ふ 岩崎釣水子

俎板に人参の根の寒さ哉 沾圃

春めく灯あすの人参けふ洗はれ 草田男

人参の花よごれゐて土用波 細見綾子

人参を切つて華やぐ女かな 仙田洋子

人参を引きしばかりに蝶の寄る 依光陽子

流人墓山人参の花咲かせ 星野麥丘人

人参の掘り出してある夕日かな 大串章

大根が夜寒かこつや人参に 井本農一

人参のうつくしからず花ざかり 広瀬盆城

畑隅に人参の花子守立つ 大野林火

春立つ日人参を煮て芋を煮て 毛塚静枝

洗ひ人参積み上げ城の見ゆる川 毛塚静枝

人参を播き曇り空被せしなり 宮津昭彦

人参の花の終りを人のあと 下田稔

人参の村は地中も夕焼けし 大串章

笑ひ減る冬や人参輪切りにせよ 村越化石

ゆく秋の鎌倉山の岩かげに釣鐘人参花下げておる
                    山崎方代 こおろぎ

涅槃図の人参大根なべて哭く 岡田史乃

人参をあまた洗ひし川の水 斉藤夏風

人参の朱をおもいだす真人間 宇多喜代子

元日や芋牛蒡蓮人参を妻に謝す 橋本夢道 無類の妻

人参を播き曇り空被せしなり 宮津昭彦

人参の太さこんじきぐらしかな 松澤昭 宅居

人参も色こぎまぜて大根曳 黒柳召波 春泥句集

朝鮮の妹や摘むらん葉人参 其角 選集「板東太郎」

朝霜や人参つんで墓まいり 去来 俳諧撰集「有磯海」

人参ちぎれて無人寺院映し 赤尾兜子

春の夜の人参湯や吹いて飲む 芥川龍之介

春めく灯あすの人参けふ洗はれ 中村草田男

朝霜や人参つんで墓まいり 向井去来

道標

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美作行を計画するも、雨ばかりの予報なので取りやめ。
次の週は大連休なので、2週間ほど先延ばし予定。

午後の散歩で、道標を5基確認。

内2基は道標とは知らずに以前にカメラに収めているはずのもの。

市バスのバス停(「近松公園前」)の上下線(どちらが上りでどちらが下りか?多分、阪急塚口駅より、JR尼崎駅の方が格上だから{東京に近い}塚口駅発が上りで、塚口行きの便が下りであろう。)どちらで降りても、目の前の歩道に付近案内図がタイル張りされている。

交差点にあるモニュメント{明日への指標}

近松公園(近松記念館・廣済寺)へ向かうアプローチ(参道)↑↓

一方通行の交通標識のある道はカラー舗装されている。これが有馬道。今、郵便バイクが左折しようとしている。許されるのであろうか?

近松公園の前を左折すると、廣済寺へ右折する角に、有馬道の真新しい案内表示があるが、
その横に、道標が一本立っている。

『尼崎の道標』(2012)では、「近松門左衛門墓所道標」となっている。


近松門左衛門墓所 従是右廣済寺
近松門左衛門墓所 従是左廣済寺

と記されている。元はもう少し南側の街道筋に建っていたらしい。
道が2本に分けれているがどっち通ってもよろしいということである。

ガイドブックの指摘で気付いたが側面に「ほぞ穴」が開いている。
家の門柱であったものが転用されたものらしい。明治時代のものであろうと推測されている。

この道標が建っていたらしき所、と言っても街道は名神高速や山手幹線建設で大きく「改造」されているであろうが、その場所に真新しい、
ガイドブックには載っていない道標を「発見」

近松公園スナップ

木陰では囲碁将棋に興じる人、それを岡8目している人で、いつも賑わっている。

↑公園内の近松記念館

このあたりではマンホール蓋も特別仕様である。

↓標準仕様 ただしカラー版もある。

3つ目の道標 「廣済寺・近松翁墳墓道標」

ガイドブックの初版の編者は「もとは有馬街道間道と若王寺村に抜ける細い村道の交差点に立っていた」と解説しているらしいが、新版の編者は、道標の文言から廣済寺の西に建っていたはずと、明治42年の地図を掲げて、場所を推定している。

↑廣済寺正門
おおきな石碑の後ろに道標が移設されている。

「近松翁墳墓  是□東2丁久々知村廣齎寺□有り」

若王寺村(チリで日本大使館占拠事件が起こった時、若王寺さんが一躍有名になったが、
その人はわかおうじさん。この村はなこうじ村。
若王寺への道がどこで分岐していたにしても、
有馬街道と分岐するのは、寺の東側であって
道標のように東へ2丁行けば、廣済寺と反対側になるというのが、ガイドブック新版編者の言い分である。


この道標は4面すべたが読める。
背面は撮りにくいが。

實川延二郎建立

取次 馬淵万次郎 上坂べ区長

明治42歳11月上旬

廣済寺の門前を通り越して次の道の角へ行くとまた別の道標。これはもともとこの地点にあったものらしい。

廣済寺西の道標


自動車事故で下の部分が折れたらしい。
右 中山 有馬
左 尼崎 西宮


左大阪

右 服部  当村世話人 同源蔵  天保6年


時間までに最後の道標画像の説明に至らず。明日へ。

道標が朽ちて梅雨茸にも劣る 鷹羽狩行

無住小屋に道標あり山清水 大谷恵教

風向きに霧氷の育つ道標 加藤ひろみ

行く雁や既に日のなき道標 菊池三千雄

芭蕉忌や道標今も伊勢を指し 岡本郁三郎

枸杞の実や道標の字の読みにくし 古川芋蔓



字の何と陽炎立つや道標 松根東洋城

野を焼くや道標焦る官有地 夏目漱石 明治二十九年



道標をいくばくか過ぎ蚯蚓死す 中島斌雄



生産緑地

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廣済寺前のカラー舗装された旧の有馬街道を南下すると、すぐに大阪と神戸を結ぶ幹線道路
、それと並行している名神高速道路に出会う。

この部分の幹線道路(山手幹線 山幹)は片側3車線だからかなり広いさらに名神高速道路の高架下を潜るから横断距離は50メートルを超える。

その南の部分で、 西は南北に走っているJR福知山線までの部分は久々知3丁目。
中小の工場用地と田園と集合住宅がごちゃまぜになっている。

1町歩はあるのではないかと思う田圃には全体がネットで覆われている。
ネットをかぶせる作業も大変であろうと思う。


この農地と、画面に見える前方の工場との境の十字路の工場側に、道標がある。
ガイドブックでは「久々知一石5輪塔道標」となっている。

尼崎市内で、「生産緑地農地」の標識を見たのは初めてである。
この認定を受ければ、種々の制約を受ける代わりに、宅地並み課税の対象からは外されるはずである。

尼崎市のHPより

市街化区域内にある農地の緑地機能を活かし、計画的に保全することによって、公害や災害の防止に役立てるとともに、豊かな都市環境の形成を目的として、生産緑地法第3条の規定を受けて都市計画に定めるものです。

  • 指定に当たっては、既存の農地のうち、「農漁業の継続が可能」「500平方メートル以上の一団の区域であること」などの基準を満たし、かつ、所有者等の同意を得たものを定めます。
  • 生産緑地には、宅地の造成や建築行為等に対して制限がかかります。

尼崎市の決定状況【平成25年12月6日市告示第520号】
尼崎市では、平成4年12月の都市計画決定以降、指定の解除、追加による変動がありますが、現在、市域内の全農地約96.8haのうち、82.5%を生産緑地に指定しています。


相続税は0.固定資産税は宅地の100分の1とか。

道標は、この標識(たんぼの南東部の隅)とは反対側の南西端にあったが、そこへ標識部分から直進はできない。


右側面に「右尼崎道」 正面「大阪道」 左側「一誉是心菩薩」と彫られているらしい。
現在は地蔵尊として祀られているよう。

現在地にあったわけでなく、これも移設されたものである。
伊丹・尼崎道沿いで、東西への道との交差点に設置されていたのであろう。
製作年や設置年の考察はされていない。

この道標にすぐに出会えたわけではない。南側の工場街を一周して、
久等々知3丁目23はこの辺りのはずが、見つからなかったと田んぼの端へ戻りついたら
その角にあった。覆屋のついた地蔵尊というガイドブックに乗る画像をあらかじめ目にしていたのでみつけることができた。

麦扱といふ生産の埃かな 猪俣千代子

生産の灯の帯纏いた聖夜の湾 伊丹三樹彦 人中




三樹彦の句は昭和30年代のものあろう。
一度尼崎湾内の夜の観光をやってみたと思っている。

森の奥のわれの緑地が掘られている 金子兜太

火薬庫の緑地耐えいる鷺の首 杉本雷造

緑地(あをぢ)に釈迦の子午線がかげ打つてゐる 加藤郁乎


東の兜太、西の三樹彦と言われた時代がある。

小田会

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今は広済寺の門前に置かれている道標の寄贈者

實川延二郎。
この人物については、何も知らないし、調べなかった。
これまでも大坂屋某某など、ネットで当たってみたが、情報は全く得られなかったので、検索する気が起こらなかった。

ところでこの人物、寄贈した明治42年との関係では2代目實川延二郎。この名は実川延若を名乗るまえの歌舞伎役者の名である。

ネット上の美術辞典から

歌舞伎俳優。屋号河内屋。本名天皇庄左衛門。俳名正鷹。明治19年延二郎を名乗り初舞台、大正4年二世延若襲名。関西劇壇の大御所として活躍。当り芸「夏祭」「伊賀越道中双六」昭和25年芸術院会員。昭和26年(1951)歿、75才。


本名は何! 天皇庄?

 他の解説で確認したら天星 庄左衛門 (あまぼし しょうざえもん)




近松公園の外塀に取り付けられた案内表示

と「尼崎の道標」(ガイドブック)でも紹介されていない真新しい道標


ガイドブックは平成23年度の予算で作成されている(発行は24年3月31日)が、案内板や道標は平成25年に設置されているので、わずかの時間差で収録されなかった。


に記された寄贈者名「小田会(創設60周年記念)」が同じであることに気付いた。
そうえいば材質も同じである。

小田会、ネット検索すると尼崎市小田地区の各行事に、福祉協議会などとともに
かならず名前がでてくるが、HPを持っておられないらしく、会の目的や行事内容、役員名簿などがさっぱりわからない。

平成25年の5月17日に開催された60周年記念パーティには、市長も交際費5000円を持参して参加している。(市長はあいさつで、近々設置される有馬道案内にも触れている)。案内板の設置期日も5月17日になっているが、その時点ではまだ設置は完了していなかったのであろう。あるいはパーテイ当日実物のお披露目があったかも。

ついでに市長室の飾り花は毎週2000円の(交際費小項目「その他」の)支出で取り換えられている。

そもそも久々知は、園田村の縄張りではないか、なにゆえ小田村が出しゃばるのだと思った。

以下のウィキペディアの解説を読むと、JR尼崎駅の東寄りが中心地である(旧)小田村の北限が、名神高速道路を北に越えた(旧 旧の、明治22年以前の)久々知村(現の1丁目、2丁目)を含むのである。

小田会の所作は越境行為とは言えないのである。

小田村(おだむら)は兵庫県川辺郡に属していた。現在の尼崎市東部、JR尼崎駅を中心とする区域。概ね北が名神高速道路、西が福知山線、東が猪名川、南が阪神なんば線に囲われた区域に相当する。明治末期より阪神工業地帯の中枢として発展を続け、合併直前には尼崎市(初代)と匹敵する人口を擁していた。現在の尼崎市章が初代の市章に小田村の「小」の字を組み合わせたものとなっている。[1] 

歴史

  • 1889年明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、久々知村、下坂部村、潮江村、次屋村、浜村、西川村、善法寺村、額田村、高田村、神崎村、長洲村、杭瀬村、梶ヶ島村、常光寺村、西長洲村、金楽寺村、今福村、大物村が合併して川辺郡小田村が発足。
  • 1936年(昭和11年)4月1日 - 尼崎市と新設合併し、尼崎市(二代目)が発足。同日、小田村が消滅。


    次に気付いたのは上の近松門左衛門墓所を案内する標識。
    2つのの面に、これより右廣済寺、これより左廣済寺となっている案内についてのガイドブックの解説文「右へ行っても左へ行っても広済寺というわけですから、枝道か近道があったのでしょうか。」
    は明らかな「間違い」「見当違い」の文章である。

    この文は、墓所へ行こうとする人が、2面を同時に目にすると考えた上での解釈である。

    北の方から来た人は、右折すればすぐ広済寺であることを知り、
    南から来た人は左折すればいいことを知るように石碑は配置されていたはずである。指している道は、枝道、近道ではなく、同じ道である。




    久々知スサノオ神社

    もとは廣済寺の一部をなす妙見宮であったが神仏分離で切り離された。旧の妙見宮の「表札」は、廣済寺の庭の隅に「安置」されている。


↓目玉はこの石である。

尼子ファン用サービス

おぼろ夜の妙見社殿朱塗りにて 松本陽平

山の地図そへし妙見栗を買ふ 岩田余志


美作泊まり。

札場の辻

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尼崎藩内にはいくつもの札場の辻があったと思う。
伊丹市の昆陽宿の近くの「札場の辻」はバス停の名称として残っている。
旧の西国街道の西の終着点近く、西宮市にも札場の辻の地名が残っている。それ以外は知らない。

塚口村の隣、東富松村の札場の辻に残っていた道標がある。
尼崎郷土史研究会編の『歩いて訪ねてみちしるべ 尼崎の道標』(2012)には、

{津門中道に沿って}「富松札場の辻道標」の名称で紹介されている。

2012年の刊行年を記す同書の文

「いまは台座を残すのみ。2年前の深夜酔客によってへし折られてしまったので、近くの円受寺で保管されています。地蔵尊が彫られている面を正面に据え信仰されていました。」

「もとは50メートル東の十字路に立っていました。札場の辻と呼ばれ、当時富松村の中心に位置し、東西に津門中道、昆陽寺へ至る行基道(ぎょうぎみち)が交差していました。

 大阪からは道標⑯を経てここに到着します」

道標⑯とは、塚口御坊東門を入ったところにある自然石道標である。

私の家からは、この二つの道標は、ほぼ等距離にある。

どうやらわが家の北側道路は「津門中道」であったようだ。
近くの公園の西側の道路を北へ抜けてゆくと富松川を渡って富松村へ抜ける道が続いている。

周辺は、我が家を含めてすべて田圃であったであろう。

富松村の札場道標は、真新しい銘板とともに復活して、180度角度を変えて配置されている。そうすると道行く人は地蔵尊を見ることができる。

左 尼崎 神崎
   大坂     道

右 行基 中山
  小浜  有馬  道

下部の折れた部分は接合されていないようである。
よって「道」の部分はない。

↑道標が保存されていた円受寺 禅宗寺院みたいだが、真宗大谷派(東本願寺)

寺の横で直角に曲がって流れる川。すぐ近くに分水嶺があるのか
(標高5メートルの地であるが)水が東から西へ流れている。
どこか(かなり南で)で東富松川に合流するはずである。

道標が元あった札場の辻↓

↑この部分と高札設置場所と道標設置場所の関係は不明。
ここでは水は西から東へ向かって流れている。そして東富松川に流れ込む。

マンジュシャゲ

この花は?
クジュクアスター以外にも複数の応答あり。ホウキギではなさそう。
天文草? ホウキギではない。テンモングサも画像検索してみたが違うよう。
クジャクアスターのシロクジャクであろう。

マンジュシャゲ

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曼珠沙華の例句。俳句検索では、607句

西国の畦曼珠沙華曼珠沙華 森澄雄(1919-)

続俳句検索では、379句

胎盤へしんしんと咲く曼珠沙華 穴井太 土語

彼岸花の例句 続俳句検索32句

落日と対峙は 一本彼岸花 伊丹三樹彦

俳句検索38句

一夜にて 火の手のあがる 彼岸花 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 花仙人

狐花 俳句検索 3句

吹く風に細き裸の狐花 西東三鬼

続俳句検索 4句

このあたり同姓多し狐花 阿川燕城

死人花 続では2句
死人花万と咲かせて生きてをり 林 萩泉

俳句検索では1句

死人花にてひとつだにうつむかず 金谷信夫

私がすぐに思いつく曼珠沙華の異名がこれくらい。

ウィキペディアは、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあ 
を列挙している。


地獄花と幽霊花等には例句はないだろう。この2つのみ確認
ウィキペディアも指摘しているが、彼岸花の異名は1000を超える。

熊本国府高等学校の調査では、1023


そのうちア行のみ紹介

  • アオシ,アオシノハナ,アカカンジ,アカコバナ,アカゴバナ,アカシラゲ,アカノハナ,アカハナ,アカバナ,アキバナ,アタマイタ,アタマイタイ,アタマハシリ,アトサンバナ,アメップリバナ,アメフラシ,アメフラシグサ,アメフラシバナ,アメフリバナ,アワセ
  • イー,イエヤキバナ,イカリグサ,イカリバナ,イゲシバ,イシベロ,イシボロノハナ,イジンバナ,イセノチンカラリン,イチシノハナ,イチシバナ,イチジバナ,イチバナ,イチヤコロリ,イチヤニョロリ,イッシセン,イッショバナ,イットキゴロシ,イットキバナ,イツポカッポ,イッポラカッポラ,イッポンカッポン,イッポンバナ,イビラ,イビラボウズ,イモバナ,インノクソバナ
  • ウシオイ,ウシオビ,ウシニンニク,ウシノニンニク,ウシビロ,ウシモメラ,ウッドバイ,ウドンゲ,ウマグサ,ウマチャゴチャゴ,ウマチャゴチャゴチャ,ウマノシタマガリ,ウマノベロ,ウマユリ
  • エキビョウバナ,エグノハナ,エビラ,エベラ,エンコウバナ,エンコーバナ,エンコバナ,エンバナ
  • オイオ,オイモ,オイモチ,オイモナ,オイランソウ,オイランバナ,オウトボボ,オエモチ,オーイー,オオシ,オオスガナ,オオセ,オオバコ,オームシバナ,オオモメラ,オキシラズ,オケサバナ,オケンケンバナ,オコシ,オコリグサ,オゴリクサ,オコリバナ,オシーレン,オシカケバナ,オシノハナ,オシャカバナ,オショリバナ,オシロイクサ,オシロイグサ,オシロイバナ,オゼンバナ,オソビ,オタマハシリ,オチョウチンポンポコラ,オチョーチンボンボラコ,オデンバナ,オトウカバナ,オニオセ,オニバナ,オニババア,オニバンバ,オニモメラ,オニユリ,オハカバナ,オバケバナ,オヒガンバナ,オヒゲバナ,オヒチ,オヒモチ,オブレノハナ,オフレバナ,オヘグロ,オホイイ,オホスガナ,オボングサ,オボンバナ,オマジュバナ,オマンジュウバナ,オマンジュバナ,オミコシ,オミコシグサ,オミコシバナ,オミコッサン,オヤコロシ,オヤシネコシネ,オヤシラズ,オリカケバナ,オリコンバナ,オリバナ,オレハナ,オンコシバナ,オンサンバラ,オンデン,オンビラ
17~19日に見た彼岸花



以上17日 西粟倉村 標高が高いせいか、彼岸花はまだつぼみ状態が多かった。
以下18日 作東バレンタインホテル周辺

Mrs K’s きろろガーデン Ura Cafe 横 1枚↓

美作市久賀あたり



↑↓
那岐山山麓~奈義町



夕刻 湯郷温泉 吉野川河原。
 赤磐市(スサイあたり)に入り川は吉井川と名を変える。


19日朝






西粟倉村点描

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西粟倉村:
鳥取と兵庫と境界を接している。
岡山県内の隣接町村(大原町・東粟倉村)は美作市と合併したので、
県の北・東の片隅に1村だけ取り残されたようなかたちになっている。

美作市が編入を拒絶したわけではないと思う。市の北端の辺境として扱われるのを村の方が拒んだのであろう。

合併前に隣接地区の大原町の農協にごたごたがあり、(よく覚えていないが不正経理で巨額の赤字が露呈した?)その件に巻き込まれるのを避けたことも考えられる。

よって岡山県英田郡(かつては吉野郡)に属する唯一の行政体となった。

村域は、尼崎市より広く57㎢あるが大部分が山・森である。
人口は1500を割っているが、直近の月だけ見ると人口増加中である。

ウィキペディアの解説もおざなりである。岡山県内で、ただひとつ県道がない行政区などとわざわざ指摘されている。

県道5号線は、西粟倉へ直結していないようである。
グーグルの地図で見ると、JR江見駅の東から発する県道5号線は、
宮本武蔵生家や智頭鉄道の武蔵駅あたりで、国道429号線と合流するところまでで、5号線経由だと、そのあと、国道2号から分かれ、兵庫県内を北上する国道343号線へつながり、西粟倉のメインロードとなって智頭方面へ抜けてゆく。

県道は走っていないが、国道と西粟倉の中心地といっていいあわくらんど(道の駅)ー村の人口の倍くらいの人が途中下車で買い物をしているーまで30メートルという場所にICを持つ高速道路が通っているから、
「県道が通っていない」という情報からイメージする僻地とはいえなくなっている。智頭急行の駅だって村内に2つ(西粟倉駅とあわくら温泉駅)ある。あわくらんどは道の駅だが、無料の高速道路のICを出て30メートルだから、高速道路のSA並の機能を果たしつつある。

あわくら温泉駅

西粟倉駅

↑あれ!「赤松円心」駅の駅名が変わっている。

wikiさん:河野原円心駅(こうのはらえんしんえき)は、兵庫県赤穂郡上郡町河野原にある、智頭急行智頭線[1]

駅名は駅の所在地河野原と白旗城を居城とした南北朝時代の武将赤松則村(円心)に由来している[1]

あれれ!初めからこの駅名だったのだ。わたしず~と「赤松円心」駅だと思っていた。




高速道路鳥取道開通以前に書かれたと思われる「県内唯一県道が通っていない・・・」という記述は、削除すべきであろう。

私が削除することも可能だが、(現に私はいくつかの項目で「編集」に参加、ウィキペディアの解説に手を入れている)本来は村の関係者が編集に参与すべきだと思う。そもそも西粟倉村の記述は短すぎる。

「アメーバピグ」を検索するとウィキペディアの解説に出会うが、これなどアメーバピグを運営する「企業」が全面的に関与している。極めて詳しくかつアメーバピグに好意的に書かれている。

村内風景

森の学校

国民宿舎あわくら荘

国民宿舎のすぐ前にある中島家(公開日は金・土・日)
茅葺屋敷3棟


そのまた向い側にある名家?ただし新築。

村で見た花・草
アカソ

イタドリ


↑にも少し見えるが、ルコウソウ

サクラタデ

 ゲンノショウコ

アザミだが、種類は不明。


イネ

シロミノコムラサキ

センダングサ


シュウメイギク

チカラシバ

キツネノマゴ

ムラサキカタバミ
今やありふれた野草だが、この季節に豪華に咲いている

酢漿草の種の手に飛び顔に飛び 佐藤 耶重

酢漿草にとどく子の文妻の文 新谷ひろし





美作

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美作は母の里であり、父の里である。
私にとっての祖父母の里である以上、それより数代はみな美作の生まれかというとそうでもない。
父方の祖父の父親は播州佐用から迎えられた入り婿である。

男を一人婿養子として送り出した家は、その後跡継ぎが途絶えて家自体が姿を消している。

後の世代でこれまた婿養子に出た人が一人いて、その人とは話す機会があったが、
美作の地へ出て行った人については、時折、家で話題になったのを幼い時に小耳に挟んだ程度にしか記憶がないとのことであった。


母の里は、合併前の作東町、そのまた前は江見村、そのまた前は藤生村である。

ウィキペディアの解説:

江見町(えみちょう)は、岡山県英田郡にあった

現在の美作市芦河内、岩辺、江見、江見吉田、大内谷、上福原、川北、瀬戸、田原、豊野、鯰、南海、原、日指、藤生、松脇、山城に当たる。


沿革



作東バレンタインホテルと付設の作東タワー

より正確には、作東タワーは、バレンタイン・パーク作東を構成する1施設である。

ホテルは「ふるさと創生事業」で作られた。美作市関係者によれば、
合併前の6ヵ町村の事業で唯一黒字経営らしい。



またまたウィキペディア:

バブル経済の中で行われた、1988年から1989年実施の政策事業で、竹下登首相(当時)が発案した公共事業。事業内容は地方交付税から交付団体の市町村一律に交付、その使い道について国は関与しないとした。地方自治体が自ら主導する地域づくりということで、創意工夫し地域の振興を図る動きが各地で試みられた。このうち「ふるさとづくり特別対策事業」は1978年度当初から企画されていたものであるが、自治大臣梶山静六が積極的な立場であり、「ふるさと」の名にちなんだ政策にできないか、と注文をつけていたと自治省財政局地方債課の野平匡邦は述べている。

なお、実際は地方交付税の形で支給されたため、不交付団体には支給されなかった。不交付団体は自由に使える財源がすでにあるので新たに交付する必要はないということである[1]。また、地方交付税は地方交付税法第3条により、その使い道について条件をつけるのは禁止されているのに「ふるさと創生」のために交付するのは問題なのではという指摘がある[2][3]。このため使い道は自由としていた。

 3000億円が3000町村へ一億円ずつ配分された。



ホテルの部屋のバルコニーからの風景
後山と那岐山が見える。

結婚式・披露宴・各種会合(多いのが役所関係と小・中・高校の同窓会)では黒字化かもしれないが、宿泊事業はどうか?強敵である湯郷温泉の旅館も廉価販売で生き残りを図っているので、1泊2食税抜き1万円では満室にできないようである。

今回は、風呂場の脱衣場から(使い捨ての)櫛が消えた。整髪用のトニックやクリームなどは創業以来置いてなかったように思う。


日曜日に、7歳児母子来訪。
土日はたいてい営業か何かで家にいないパパが、昨日、今日は仕事がないというので、宿泊せずに帰った。

午後、7歳児といつもの散歩。庄下川沿いを歩いて、駅前へ出てアイスクリームを舐めるコース。
所望により、カメラを7歳児に渡したままにすると、200枚くらい撮影。
かならずブログに載せるように言われたが、時間の関係で今日も掲載できず。


約束不履行を叱責される前に言い訳。






ナンバンキセル

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豊田村は、昭和20年代までは、全国各地に20以上存在した。
岡山県内でも3つ。しかしそのすべては「とよたそん」と呼んだ。

他の村は、[とよたむら]ないし[とよだむら]である。

ウィキペディア

豊田村(とよたそん)は、岡山県英田郡にあった

廃止直前の豊田村は、現在の美作市猪臥、大原、北原、友野、平田、海内、山口、山外野に当たる。


沿革

  • 1889年6月1日 - 町村制施行に伴い、英田郡猪臥村、大原村、柿ケ原村、北原村、国貞村、鈴家村、田渕村、友野村、平田村、万善村、海内村、山口村、山外野村が合併し、豊田村となる。大字大原に役場を置く。
  • 1890年6月17日 -英田郡豊田村の内、旧柿ケ原村、国貞村、鈴家村、田淵村、万善村の部分が分立し、英田郡福山村となる。
  • 1900年4月1日 - 英田郡が吉野郡と合併し、英田郡となる。
  • 1953年4月1日 -英田郡林野町楢原村、勝田郡湯郷町豊国村と合併して美作町となる。

私の祖父、父、伯父、伯母、そして従兄の多くが、さらにはその子らも豊田小学校を卒業している。

小学校は、父親の実家から徒歩数分の距離にあったが、小学校は分校となり、21世紀の初め(2003年)に廃校となったので、祖父の5世6世の孫たちは、多分スクールバスで遠くの(どこにあるのか知らない)学校へ通うのであろう。

と書いてからちょっと調べた。わが祖父の子孫たちは、今では美作北小学校に通うのである。
その校区たるや、尼崎市より広い。倍(100㎢)あるかも。
しかもあおぞら号なる市営循環バスの駅(多分「金屋」)まで10分くらいかかる上に、学校の中へバスが乗り込むのではなく、下車駅(変わった名前)から5,6分歩くことになる。全校生徒は350人ほど。先生は25人。


遠い親戚の方から学校の廃校にあたっての記念冊子を貰った。編集委員の中には、私と同姓の人もいたが、遠い縁戚なのかどうかは調べていない。

その冊子には、祖父をはじめとして私の父親も卒業生として名を連ねていた。


ウィキペディアは親切で、この種の情報の場合は、地名の読み方を一覧にしてくれている。

地名の読み方

  • 猪臥 (いぶし)
  • 大原 (おおばら)
  • 柿ケ原 (かきがはら)
  • 北原 (きたばら)
  • 国貞 (くにさだ)
  • 鈴家 (すずけ)
  • 田渕 (たぶち)
  • 友野 (ともの)
  • 平田 (ひらた)
  • 万善 (まんぜん)
  • 海内 (みうち)
  • 山口 (やまぐち)
  • 山外野 (やまとの)


万善は、美作の遠野である。ここを舞台にした昔話がたくさん残っている。
観桜会の世話人をしている人が、胸に「大原 某」という名札を付けていたので、ずいぶん遠くから来られているんですねと声をかけたら、
「おおばら」で「おおはら」じゃねえとかなんとか言われたことがある。


しかし市の中心からは、おおばらも結構遠い。

美作の懐かしい植物


しかし美作の家に植えられている柿の数はめっぽう減ったように思う。

クリ

なつめ

シオン

墓に供えるのに、いつも買う花とは別に、安かったので、この花を一束買った。

↑みたことのないきれいな花。なんだろう。帰宅してから調べようと思っていたが、Mrs K 宅の前に、収穫したゴマが干されていたのを見て、これは胡麻にちがいないと思った。

マンジュシャゲはすでに紹介済み
以下は7歳児撮影の庄下川のマンジュシャゲ。(20日)

↓私の撮影

今回からヴァイオリンの練習風景(見学・拝聴)には投銭入れが登場。

↑自分の曲に酔いしれている感じ。
同じ曲をピアノでも弾けるみたい。

散歩の最終コース


美作の植物 トリはこれ。ナンバンキセル Mrs K’s キロロ・ガーデン

(で、画像はまた18日へ)

Ina cafe 当日の風景は「美作の風」で数日前にUP済み。

ワイフはおしぼりの結び方(組み立て方)を習っていたが、習得できたかどうか?
朝食のバイキングを時間かけて食べていたこともあるが、私、今回、初めて一品残した。



ura cafe 風景は明日へ。

URA cafe

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バイオリンがセ口を追ひ越す春の水 今瀬剛一

静夜にてかのバイオリン雪降らす 鈴木六林男 桜島



鈴木六林男さんとは一度だけ宴席を同席したことがある。
俳人とは、世代を越えてすぐ旧知の仲のような会話がはずむ。

この句の場合は、「かの」がキーワードであるが、私には分からない。

それでも俳句として鑑賞可能。

美作で見た花

アンゲロニア(ノースビレッジで)

ベニバナサルビア (湯郷 吉野川の土手で)

姫キキョウ (吉野川 湯郷ゆーらぎ橋の下の河原で)
雛キキョウソウも今年知った植物である。クサキキョウソウというのもある。


青空へ伸びきるクレーン 雛桔梗

ニューギニア・インパチエンス 一時はおおはやりであった輸入物園芸種

ソバ 奈義町で これだけ広い畑は初めて



URA CAFE 古民具 一部現代アート作品も

↑の卓上の多肉鉢=缶 ↓

昭和30年代ではまだ使われていた。

なつかしき摺歌も摺も 森 かほる

きりしたん宗門改メ帳の 高野ムツオ 鳥柱

散つて神が還御の道の雪 林 翔

歳神に荒神すゝけ在しけり 山梓月

の香の枕にとほし源義の忌 伊藤三十四

干して天平よりの旧家かな 橋本多佳子

を干す豊かさ菊を垣と成す 岡本圭岳

殻火千曲の暮色にはかなり 皆川白陀

むしろ撫でふるさとの日を均す 大串 章

雲中に鳥海見えずを焼く 那須乙郎

字が一字書かれてありて筵 八木沢高原

焼のけぶりをかぶりたがる子よ 加藤楸邨

殻焼く耳成山はうすむらさき 見市六冬

検診の農夫胸よりこぼす 山口瑞穂

殻の山なすここが関の跡 藤田湘子

稲架の噛んで稲扱き始めけり 新見礼子



赤き撒く神の田に蝌蚪の陣 河野頼人

一路なる白毫寺村おろす 赤松子

蒔いて田に胸映る白い山 和知喜八

漆桶にを浸せり飛騨の里 橋爪英子

浸し終日昏らき自在鍵 鍋谷ひさの

家々に広き庭あり莚 宮本 静代

摺の音こだまして夜に入る 相良 九馬

すくひみしの温かかりしかな 佐藤 亜矢子

の俵の上の鏡餅 蒲原 ひろし



殻山の飛散寸前つけし火や 鈴木勁草

きりしたん宗門改メ帳の 高野ムツオ

を焼く煙のなかをプロペラ機 中村雅樹

新駅の前に殻けぶりゐる 能村研三

殻にいくたびか火をつけし跡 千葉皓史

焼の温みながるる白露かな ながさく清江

飯粒は米よりものどかなる 三橋敏雄

浸す底までピアノ音ひびき 神原栄二

殻の山より縄の出てをりぬ 波多野爽波 『鋪道の花』

老いし母怒濤を前に平す 西東三鬼

かゆし大和をとめは帯を解く 阿波野青畝

袋積み上げられて谷戸日和 下間ノリ

殻を焼くに雨ふる余呉の湖 能村登四郎

山に乗りて沈みて子は遊ぶ 山口誓子

日かげよりたたみはじめるむしろ 高浜虚子

沖よりの東風リンゴ揚荷のこぼれ 神尾久美子

目隠しが透いて見えたる福笑ひ 山梓月



干すや熱くゆつくりローラー車 田口彌生

筵百枚渡り往診医 小池つと夢

日かげよりたゝみはじめぬむしろ 高濱虚子

干すや語部のごとさゞ波は 山本 源

一回で済む隠し田の運び 野村仙水


種を下して畦に護符をさす 馬越冬芝

蒔いて田に胸映る白い山 和知喜八



摺機がうがうと噴き霜夜なり 佐藤 国夫

殻を焼く火の底へ沈みゆく 佐々木六戈 百韻反故 吾亦紅



朶を焚き蒟蒻掘りの山昼餉 斎藤花辰


柚子百顆の筵へ照りにけり 大野林火



すりのあかりさす藪通りけり 正田雨青

磨の埃に立たす二の鳥居 木村蕪城

摺埃母が丸き背最も溜め 石井よしを

摺つてやわらかき闇鶏沈め 小野里迷蝶

家々のすり歌や月更けぬ 数藤五城

陽当りに仔犬繋がれ乾く 大野愛子

すりの月になるまで音すなり 河東碧梧桐

殻火犬近寄りて見てゐたり 山口波津女

煙突立て殻山は内に燃ゆ 美濃真澄

山に月出て雀ういういし 新田祐久

干すや母はこまめに日に浸る 香取佳世子

蓆憑きくる雲をにくみけり 木下夕爾

干して家に入りてもひとりかな 及川貞

量る少女梢を陽が急ぐ 飯田龍太

老いし母怒濤を前に平す 西東三鬼

かゆし大和をとめは帯を解く 阿波野青畝



浸す底までピアノ音ひびき 神原栄二

白山の雪解水てふひたす 山たけし

を浸せりむかし産湯桶 青柳志解樹



奈義現代美術館通り


 広戸風で有名な地域である。この風のために、開墾が難しかったと聞いている。


道標

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22日 蓬川(よもがわ)の上流、浜田川沿いにある松原神社へ



門前に道しるべ。この道標は立つ位置が変わっていない感じ。

左 門戸厄神 かぶと山 道  と読める。

右尼ヶ嵜 道


背後は読みにくい。尼西M上 (Mではなく違い山形記号)と記されいる由。

神社境内に浜田川の取水跡が残っていて、水争いの犠牲者(牢死)の碑が立っている。

現在の浜田川は、神社の東側を流れている。

旧の浜田川の跡は森になっている。


献灯や常夜灯あるいは狛犬などの土台に、「氏子中」と書かれている。
この「うじこなか」の「なか」の意味は何か。氏子仲間、氏子達の意味だろうとは思っていたが調べてみた。

意味はあっていたが、読みは「うじこじゅう」と読むらしい。

広辞苑で「じゅう」を検索 「ヨーロッパ中からあつまる」、「夏休み中遊ぶ」、ともうひとつ、「此の中も」の用例と意味が記されていたが、
「氏子中」に相当する意味、用例は記載されていなかった。
ただし「氏子」の項目の中では「氏子中」の説明はある。

そういえば「講中」という表記も神社へ寄贈された石彫品に記されているように思う。

帰りに、初めて上ノ島遺跡を確認。このあたり縄文時代は海、弥生時代は海べりであった。

中学校の校庭の端の一角である。

出土品は市の文化財収蔵庫で一般公開(無料)されている。



9月23日 連休最終日
4つの神社(内1つは再訪)と道標4つを見た。

訪問済み神社一覧

西本町貴布禰神社
尼崎戎神社 2015. 9. 7
難波熊野神社
大物主神社
櫻井神社 2015.9. 7

西川八幡神社  2014. 1.28       2015.9.23
久久知須佐男神社 2015.6.30
伊居太神社 2015.9. 8
伊佐具神社2015.6.27
中食満稲荷神社 2015.7.14

田能春日神社 2014.9.26
東園田白井神社 2015.9.7
富松神社
時友神社
友行須佐之男神社

西富松須佐之男神社 2015. 8. 29
武庫庄須佐之男神社 2015.9. 5
生島神社 2015. 8. 6
水堂須佐男神社 2015.8.26
塚口神社 2015.8..23

尾浜八幡神社
琴浦神社 2015.8.4

以上は尼崎66社の一覧に掲載されている順番

昨日訪ねたのは、
松原神社    2015.9.23
伊邪那岐神社 2015.9.23
(西川八幡神社 上記一覧にすでにある。2度目の訪問)
神崎素盞鳴神社 2015.9.23 の4社
まだ66社の半分に達していない。

見た順番に

1伊邪那岐神社境内道標(「ガイドブック」の呼称)
JR尼崎駅の北側から東へ500メートルのところにある。

最寄駅の駅前から阪急バスに乗って(どのバスに乗るかは、出かけた時に
どのバスが止まっているかに依存)、乗ってから、JR尼崎駅の北側周辺に目標を
定めて「尾浜」停留所下車。

下車駅もおおよその見当で、降りてから伊邪那岐神社を目指す。
停留所名は「尾浜」でも、道路の反対側が尾浜の西端で、歩きだすと久々知地区の南端地区だと分かる。

延命地蔵の多い地区である。

他に、こんな地蔵さんも

↑神崎川一心地蔵
石碑の文字

足利 高氏 建武中興の恩賞に不平
反逆して鎌倉に走る
新田 義貞 後醍醐天皇より追討の命を受ける 
かえって高氏の反撃に遭い京都へ敗走する
京の都で再び激戦 今度は高氏軍が敗走する 
高氏軍 山陰丹波の地へ迂回 兵庫に陣を占める 
新田軍と打出の辺りで決戦の運びとなる
楠正成軍 遅ればせながら参加 
神崎の辺りから神出鬼没
一心のこめた戦法で圧勝 
高氏軍は遂に九州へと逃げ延びる 
世にこれを神崎一心の戦という

なおこの地蔵さんについては、いろんな人のブログが紹介している。

春寒し地蔵の見えぬ地蔵岳 大木あまり 山の夢


わらべ唄地蔵にひびき明けの春 堤 久子

草枯れて地蔵が示す道しるべ 福原十王



綿入れを被てゐる水子地蔵かな 谷口和子

田仕舞の地蔵に供華や年用意 角川源義



縛られ地蔵百の結び目きりぎりす 水口郁子

川波のあしもと洗ふ地蔵盆 斎藤梅子

子らが囃す夜空のまろさ地蔵盆 山田みづえ

柳川は水辺水辺の地蔵盆 江口竹亭

脛白き休日の父地蔵盆 岡本 眸

蕗の葉に蝋燭ともす地蔵盆 宮岡計次

北山へ遁げゆく雨や地蔵盆 成瀬櫻桃子

冬瓜にことに燭のいろ地蔵盆 森 澄雄

積みあげし竹瓮の中の地蔵盆 米沢吾亦紅

おわら流し地蔵の辻を踊場に 茂里正治

芋子汁振り向くたびに地蔵岳 草間時彦

もじずりの咲きて目洗地蔵道 西居 浩

孑孑の地蔵の水の他知らず 山尾玉藻

とかげ這ひ縁切地蔵燭ひとつ 有馬籌子

干飯が匂ふ水掛地蔵かな 橋本鶏二

潮引くと地蔵囁く五月闇 鈴木真砂女

燕や合掌を解く地蔵岩 田川飛旅子



塩掛地蔵塩に盲ひて春逝かす 安住 敦

遭難の身代わり地蔵千鳥啼く 近澤 杉車

引き菓子の落雁甘く地蔵盆 大野 すみ

ふるさとの地蔵盆会に会ふならひ 安藤 徳太郎

空を見る母は泣虫地蔵です 関田誓炎

地蔵盆海鳴路地の空にせり 茨木和生

地蔵盆木の根に赤子置かれある 黛 執

灯を低く飛鳥大仏地蔵盆 坂本宮尾

地蔵会の脚濡れてゐる竹牀几 岡本高明

地蔵盆たらちね肌の餅供へ 赤松子

捩り花地蔵無言の石並ぶ 河野南畦

義士祭や北向地蔵にも回向 森田 峠

艶ばなしさらりとありし地蔵盆 波多野爽波 『骰子』

町の音ややほとびたる地蔵盆 小林康治 『華髪』

捩り花地蔵無言の石並ぶ(津軽路) 河野南畦 『湖の森』

わが松は縛地蔵に燃ゆる頃 阿部みどり女 『月下美人』

薔薇のとげぬき地蔵前四人下車 仁平勝 花盗人

雀らの顔の険しき地蔵盆 大木あまり 火球

芋子汁振り向くたびに地蔵岳 草間時彦

海の日焼子山の日焼子地蔵盆 飯田龍太

地蔵会の犬舌鳴らす潦 岸田稚魚

子が慕ふ下宿学生地蔵盆 大串 章

地蔵会や線香燃ゆる草の中 高浜虚子

地蔵盆よりあたらしき子らの箸 能村登四郎

町の音ややほとびたる地蔵盆 小林康治

地蔵会や近道を行く祭り客 蕪 村

わが燭の遅れ加はる地蔵盆 橋本多佳子

首のなき地蔵の列果て花御堂 中村草田男

かげろふや禁酒地蔵の笠は猪口 鷹羽狩行

厨戸を一日あけおく土恋し 松原地蔵


地蔵盆旅の姉妹の灯のうちに 平井孝子

屋台の灯ばかり明るく地蔵盆 関根章子

地獄絵に諭さるる子や地蔵盆 芦澤元子

地蔵会に行き遇ふ水の匂ふ町 神戸周子

地蔵盆酒くらい尼に好かれもし 古沢太穂

鷺赤くとんで日暮れて野地蔵会 落合水尾

抱き地蔵軽き八月十五日 犬塚南川

稲埃まとひて独り石地蔵 小池龍渓子

川狩や地蔵の膝の小脇差 一 茶

顔のなき間引地蔵に天草干す 高島 茂



蚊柱や地蔵ばかりの山の裏 仙田洋子 橋のあなたに



雪嶺や地蔵のごとく吾を残す 渡辺七三郎

草焼きて道現はるる地蔵盆 山下実

六波羅はいま陋巷の地蔵盆 西尾砂穂

両の手の吾が子よその子地蔵盆 宮城きよなみ

幻燈はいま西遊記地蔵盆 大堀たかを

地蔵盆とみに露けくなりにけり 河原白朝

涎掛け取替え在す地蔵盆 松井蕪平

さまよへるちさき螢や地蔵盆 五十崎古郷

地蔵会や高くひびくは母の鉦 中村若沙

地蔵会や芒の中に灯のともる 長谷川零余子

地蔵会や線香燃ゆる草の中 高浜虚子

しもつけや鼻欠け地蔵笑み給ふ 本田一朋

首のなき地蔵の列果て花御堂 中村草田男



首のなき地蔵の列果て花御堂 草田男



地蔵盆山より闇の下りてきし 成瀬櫻桃子



地蔵会や漏斗を据ゑて賽銭箱 西山泊雲



地蔵会の犬舌鳴らす潦 岸田稚魚

乗ったバスは「阪神尼崎」駅前行だったので、JR尼崎駅へ近づき、通り越す必要がある。
中央卸売市場の前を通り越してメインの道を避け、裏通りを歩く。
小学校らしき建物が見えたので、近寄ってみる。

尾浜、潮江、浜・・  (JR線の南側は、「長洲」)、ここが近世でも海辺であったことを示す地名(町名)。

一筋南は、再開発されたJR尼崎駅の北側の地区であるが、
↑あたりは変に懐かしい昭和の庶民の街並みである。
目指す道標は、神社の境内の中にある。
その神社の鳥居が突然目の前に。

道標が一つここにある。ガイドブックを覗いて神社のどの部分にあるか確認。

道路の分岐点などに立てられていた道標は、道路の拡幅工事などによって、道標が指示する目標地点へ移設されるケースが多いようである。


↑道標

「是よりおく
大辦財天女 」までは読めるが、その下にさらに2文字あったようである。

ガイドブック掲載の画像では、「御」の字が判読可能なかたちで写っている。

他方、ガイドブックは「 是よりおく /  大辦財天御□」と記して「女」の字を書き洩らしている。

他の3面には、

安永8年巳亥九月九日
大坂住松本喜八郎
大願主大坂東御役所土屋 □□
御武運長久

と記されていると説明されているが、多分、初版作成時(50年前)の編者の「判読」を写しているのであろう。


そういえば、「大坂」と、松本の「本」の字は読めるが、他の面はほとんど読めない。

松本さんはその前年には、献灯もなさっている。

義人彌治右衛門の碑 がある。しかし昭和14年のものである。
ネットで調べればいいと思って全体像だけ写してきたが、ネットでは分からなかった。
色が抜けて読みづらい。


ガイドブックによれば1779年の年号を示しているので、設置年の分かる市内最古の道しるべだそうである。

このあたりに道標が多いのは、神崎川を渡って大坂方面からやってくる人が多かったかららしい。


以下は明日。

神崎

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23日。イザナギ神社の道標を見た後、ガイドブックを見て、東の方へ歩いて次の道標を目指した。

途中で西川八幡神社に遭遇。どうもその近くに来ていると思って
神社の杜らしき木立のある方へ歩いてみるとやはりそうだった。

「是より西は他領(地)」↑

そこを通り越して、次の道標に出会う前に、
神崎川の堤防に行きついてしまった。
大坂と尼崎を隔てる川である。

↓神崎橋

渡し船に乗らないと旅人は東から西へは渡れない。
川沿いには宿場町が展開していた。
遊女もいた。

↑神崎須佐男神社が地図に登場。
探している道標は神社内にはないはず。

↑しかし有馬街道沿いにあるはず。

神崎須佐男神社


「街道の起点 神崎の辻道標」(ガイドブックでは①の道しるべ)

ここが中国街道(短い。尼崎と西宮間の道。西宮で西国街道と合流する)と有馬街道の分岐点であったらしい。


神崎川を正面に見る方向で、
「右 伊丹 中山
 左 尼崎 西宮」 となっている。「道」という字が隠れているのかどうかは、ガイドブックに記載なし。


北側から来た人は、「左 大坂」を見ることになる。でも潮の匂いがしたから言われなくともわかったであろう。
その下に「施主 堺
      神南 □□ 」とあるよう。


南側の側面 「南無阿弥陀佛  隆光(花押)」

覆屋が建てられたのは20年前だとか。

石の背後は無地だったのかどうか?

ガイドブックは、ここまで来たら田中正三邸も見ろと指示している。
最近改修されたが、代表的な江戸時代の町家らしい。
ここに住んでいた先代が、道標案内の初版本を編集刊行なさったよう。

↑家は、道標がこんな風に見える位置に建っている。
祝日に日の丸掲げている家は、尼崎市内でも10軒ないであろう。


渡しの安全を祈って建てられた石灯籠。渡し口にあったそうである。
↓背後の塀はダイセルのもの。



「神崎」で「江戸俳諧」を検索したら

神崎のむかし模様や萩すゝき

1句登場。ただし作者名なし。


「渡し」で(「俳句検索」を)検索したら、数は多いがほとんどは「雁渡し」の句。でなければ「神渡し」の句。



渡し場なし北上川の草いきれ 駒走鷹志


北風や多摩の渡し場真暗がり 水原秋桜子


柴又へ通ふ渡しや蘆の花 正岡子規

十棹とはあらぬ渡しや水の秋 松本たかし


峠まで一本の道雁渡し 草間時彦


三伏や時刻表なき渡し舟 飯島正人

行々子島を行き来の渡し舟 村上辰良


両岸の梨花にラインの渡し舟 高浜虚子


時の日の客あれば出る渡し舟 宮岡計次

渡し銭島へ五厘や糸柳 岩本尚子


渡しの客を待つ間の三尺寝 梶原 宇良



1936年 虚子は渡欧 4月ベルリンで俳句について講演
5月にはロンドンへ、さらにフランスへ。

だから上掲の句は4月の句であろう。梨や杏の花の季節である。

日本で梨の花を初めて見た時は、艶やかな白に感動した。

尼崎市内では見た記憶がない。梨園の花もみたことはない。

ところで「ラインの渡し船」には感心しない。どう見ても、これはライン下りの観光船から見た「両岸」であろう。あれは渡し舟とは言えない。

パリで留学中の次男と会い、帰国後にやったことは
日野草城と久女のホトトギス除名であった。
草城の場合は、「ミヤコホテル10句」の公表だった。

私はその草城の孫弟子にあたる。
草城の俳句の師は虚子だから、私、虚子の曾孫弟子で
あり子規の玄孫弟子といえぬこともない。
絶対にそうとは言えない俳人を探すのは困難であろう。

言葉を変えて言えば、ホトトギスに投句経験のない人を
俳句の師の師の(そのまた師の師)としている人は現存していないはずである。

十棹とはあらぬ渡しや水の秋 松本たかし

城崎の玄武洞へ渡る舟は↑の感じ。


「有馬間道分岐 神崎道標」

この道標は明治11年(1878年)に建てられた。
今もそのT字路の隅に立っているが、道路の拡幅のために多少位置は
ずれたものの、方位通りに移設されたとか。

↑ 施主人  第拾壹區神崎村
         安田仁平  家内 定七
          妻 もと   同  わき
                  彌太郎
                  きぬ
                  とみ  

「右大坂
 西京」
ははっきり読める。

その下は施主人の名前が16人、3面に渡って書かれているらしい・。
この面には、 


            親類  すえ
          同   きぬ
              んめ
          八木  重蔵
               のぶ
               たに
 と記されている。その指摘があれば、同とか八木のぶ などは判読可能


↑ トベラの木が邪魔だが、
右側の面

「 右 伊丹 中山 池田 能勢
  左 昆陽 小濱 有馬 三田 」


裏面は撮りにくい。
「明治十一寅年 七月吉日   伊右衛門
                      こを
                     くま 」

ダイセルという大きな工場の正門のある塀沿いの西南の角に立っている。

そこから神崎川の石灯籠のあたりまで延々と塀がつづき、塀の外も(ダイセルの)私有地のようである。

最後に予期せぬところでもうひとつ、ローマの街角のオベリスクを連想させる道標があるが、また明日へ。

次屋

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次屋という地名の謂れを調べたがよく分からない。

次屋2丁目の広い交差点の西北の角の1メートル以上ある植え込みの中に
道標がある。もとはもう少し南の方に立っていたようである。

「右ハ久等々知村妙見町是より
         十二丁」

↑よくよく見ると村の中に町があるように読める。
妙見町とは、近松門左衛門ゆかりの廣済寺と神仏混合して祀られていた妙見宮を指す。
お宮さんを「町」と呼ぶ慣行があったのであろうか?


↑「左ハ次屋村大辦財天女 是より三丁南  願主」


「安永八年巳亥九月大吉祥日 建立」以外にも、「取次」の文字が読める。
「ガイドブック」はその文字には触れていない。


これまた松本喜八郎さんの寄贈かも。

芋の葉に玄翁の火や石碑彫る 西山泊雲

この名前は確か箕面の滝道にある句碑の作者である。


スーパームーン

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あさむつや月見の旅の明け離れ/あさむつを月見の旅の明け離れ 松尾芭蕉

枡買うて分別かほなる月見かな 升買うて分別替る月見哉 松尾芭蕉

月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月 夏山雑談・三

河岸にも灯連ねて宇治の月見舟 竹中碧水史

婆々が売るささげまぶせし月見餅 細見綾子

舟べりに頬杖ついて月見かな 山口青邨

松島の後の月見てはや別れ 野見山朱鳥

浮世の月見過しにけり末二年 西 鶴

水広き処にとめし月見舟 西山 昌子

宿の子の月見団子をねだりをり 本間 杏童

夏の月見ゆる公衆電話かな 赤木 範子

仲よしの女二人の月見かな 波多野爽波 『鋪道の花』

月見舟雲の流れに逆らひて 千原満恵

雨に漕ぐ月見舟ありただ下る 高浜虚子

正座して月見茶会の異人の子 五十嵐波津子

日見て来よ月見て来よと羽子をつく 相生垣瓜人

み明しはみほとけのみに月見寺 瀧 春一

往診のごとく月見のごとくなり 築城百々平

同じ月見てゐるはずの長電話 橋本榮治 越在

人込みに白き月見し十二月 臼田亜浪

月見舟潟のながれにまかせけり 中出雲彦

月見の灯障子の外にともりたる 高野素十

水番や落ち方の月見てねむる 武田八草路

日見て来よ月見て来よと羽子をつく 相生垣瓜人

日見て来よ月見て来よと羽子をつく 瓜人

から崎の鮒煮る霜の月見かな 北枝

辛崎の鮒煮る霜の月見かな 北枝

路地路地に十三夜月見てもどる 槐太

旅重ね稲城に後の月見るも 立子

浮世の月見過しにけり末二年 西鶴 (辞世)

高く上げ月見に罷る水馴棹 村松紅花

三人のふだんの友と月見かな 鈴木花蓑

月見して如来の月光三昧や 松瀬青々

断崖に定員一の月見台 上田日差子

月見せしわが体温の服を脱ぐ 大石雄鬼

月見して如来の月光三昧や 松瀬青々

ていねいに掃いてあるなり月見舟 藤田あけ烏 赤松

ことばさへなくて月見る寒さ哉 子曳

もろこしに不二あらば後の月見せよ 素堂

月見舟提灯ゆれて漕ぎ出でし 野村泊月

漕ぎ出でゝ月見の船や湖半 河東碧梧桐

畳這ふ山の蛾を掃き月見酒 小川斉東語

名どころの何處選まん月見酒 高橋睦郎

浮世の月見過しにけり末二年 西鶴

かざしたる太刀曇りなし月見能 小畑晴子

我影の皆になるまで月見哉 二貞

月見の座閉ぢて名残の絵蝋燭 大島民郎

能登人の四五人まじる月見かな 前田普羅

萩を圧して筵敷きたる月見かな 大釜菰堂

野天情もどりて後の月見哉 維駒

松風や池の月見るたかむしろ 篠崎霞山

西行忌秋は月見による柱 秋刀魚

牧場の月見の宴に招ばれけり 太田土男

月見能船の舞台にひとり舞ふ 八牧美喜子

漁舟俄に月見る舟に仕立てられ 猿橋統流子

月見能僧の押しもむ荒念珠 佐野美智

又言はむ身一つにして月見ると 徳永山冬子

抱き下す君が軽みや月見船 三宅蕭山 (しょうざん)(1718-1801)

浮世の月見過しにけり末二年 井原西鶴 (1642-1693)

此秋は月見の友も替りけり 許六

獨身の膝を抱て月見哉 寺田寅彦

芋食うて仁和寺の僧等月見哉 寺田寅彦

闇汁の岩戸明けたる月見かな 尾崎紅葉

幇間に歌読ませたる月見哉 尾崎紅葉

大鴨脚化けて出さうな月見哉 尾崎紅葉

大佛の白毫にまつ月見かな 幸田露伴

秋ふかし今宵月見ぬ衛士の家 日夏耿之介 婆羅門俳諧

焼跡に棲みつき月見団子かな 吉屋信子

月見やたれも遊ばぬ遊園地 澁谷道

月見や畳にこぼす花の水 高橋淡路女

月見るや病者の中の車椅子 朝倉和江

月見むと着替ふるものも病衣なり 朝倉和江

月見る月テイレシアスを打ちてしやまむ 加藤郁乎

黒鯛もつれて刺身の月見かな 瀧井孝作

降れても行や月見の泊客 炭 太祇 太祇句選後篇

狂はしやこゝに月見て亦かしこ 炭 太祇 太祇句選

雨に来て泊とりたる月見かな 炭 太祇 太祇句選

芋売は銭にしてから月見かな 横井也有 蘿葉集

犢鼻褌を干す物干の月見かな・・・愚庵十二勝のうち、嘯月壇

月見までまだ日数あり葭日覆

酒尽て真の座に付月見哉 一茶 ■文政二年己卯(五十七歳)

もろ~の愚者も月見る十夜哉 一茶 ■文化三年丙寅(四十四歳)

古郷に似たる山をかぞへて月見哉 一茶 ■寛政年間

ぬつぽりと月見顔なるかゞし哉 一茶 ■寛政年間

まどかなる鯛焼の眼よ月見ずや 堀口星眠 営巣期

人込みに白き月見し十二月 臼田亞浪 定本亜浪句集

また人の家に寝に行く月見かな 史邦 俳諧撰集「藤の実」

森下は木の根にあるる月見かな 蓑立 俳諧撰集「藤の実」

湖を月見の旅や友二人 黒柳召波 春泥句集

見るものにしてや月見の小百姓 黒柳召波 春泥句集

鴨川や月見の客に行き当り 去来 芭蕉庵小文庫

得た貝を吹いて田みのの月見かな 園女 俳諧撰集玉藻集

我が年に今宵十五夜の月見かな 池浦知仲妹-十五才 俳諧撰集玉藻集

月見れば父の砧に閙(いそが)はし 羽紅 俳諧撰集玉藻集

小草までともにそよめく月見かな 徐寅 八 月 月別句集「韻塞」

日でりにはあぶなげもなき月見かな 伊賀-買山 俳諧撰集「有磯海」

賑やな内を出て来る月見かな 利牛 俳諧撰集「有磯海」

目利してわるい宿とる月見かな 如行 俳諧撰集「有磯海」

仕舞せて勝手は寝せる月見かな 山蜂 俳諧撰集「有磯海」

飼猿も呼出す庭の月見かな 残香 俳諧撰集「有磯海」








菅公

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午前11時に散歩に出て、帰宅午後5時。
本年最長の散歩。
歩数計は19000を記録。



「菅公」をネット検索
デジタル大辞泉の解説は簡単そのもの:


菅原道真(すがわらのみちざね)の敬称。


で、この文字をクリック。

すがわら‐の‐みちざね〔すがはら‐〕【菅原道真】

[845~903]平安前期の公卿・学者・文人。是善(これよし)の子。宇多天皇の信任が厚く、寛平6年(894)遣唐使に任ぜられたが献言してこれを廃止。延喜元年(901)藤原時平の中傷により大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、配所で没した。学問・書・詩文にすぐれ、菅公と称され、後世、天満天神として祭られる。編著「三代実録」「類聚国史」「新撰万葉集」など。詩文集に「菅家文草」「菅家後集」がある。→天満宮
デジタル大辞泉 ひきまくり。

てんまん‐ぐう【天満宮】

菅原道真(すがわらのみちざね)の霊である天満天神を祭った神社。全国各地にあるが、特に大阪市北区の大阪天満宮、京都の北野天満宮太宰府(だざいふ)天満宮が有名。てんまぐう。→天神2

てん‐じん【天神】

 《「てんしん」とも》天の神。あまつかみ。⇔地祇(ちぎ)地神(ちじん)
 菅原道真(すがわらのみちざね)を祭った天満宮(てんまんぐう)のこと。また、その祭神である道真のこと。今日では多く学問の神として信仰されている。天神様。
 《揚げ代が25匁であったところから、北野天神(北野天満宮)の縁日の25日に関係づけていう》江戸時代、上方の遊女の等級の一。大夫(たゆう)の次位。また、その遊女。天職。
 「天神髷(まげ)」の略。
 梅干し。また、その種の中にある実(さね)のこと。
 能面の一。怒相の神霊用の面。菅原道真の霊を主人公とする「雷電」の前ジテのほか、「舎利」のツレなどに用いる。

尼崎66社一覧の中に見える天満宮の解説:


主祭神 菅原道真(すがわらのみちざね)

例祭日 10月体育の日の前日

鎮座地 長洲本通3丁目5-1




≪お社の説明・御由緒≫

祭神の菅公は古くより学問の神として尊崇され、公にまつわる幾つかの伝承が残る。その一つに大宰府左遷の折、長洲の浦に舟待ちされ、村人は公より「人知れず移る涙は津の国の長洲と見えて袖とぞ朽ちぬる」の歌と自画像を賜った。公の没後、その徳を称えて叢祠を建て画像を奉斎したが、後世領主が他に移封された折に画像を強いて持ち出したところ凶事多く、返却したという伝えがある。本殿は棟札によると慶長12年の創建で桃山時代の様式をよく伝え、市の文化財第一号に指定されている。また本殿の野板から出てきた絵馬が市により修復され、尼崎で最も古いものとして再現された。平成2年に社殿が改築されたが、阪神淡路大震災により被災、平成8年再建。その後平成11年火災に遭うも翌年氏子の尽力により修復され現在に至る。また毎年2月には宮座が催される。

秋祭が近いので、各神社が幟を挙げている。

道標ガイドブックに「尼崎・伊丹道分岐長州道標」の所在略図を見ると
その近くに、貴布禰神社と長洲天満宮があるので、それらを目当てに
歩きだした。天満宮の幟がいっぱいかかっている地区から、貴布禰神社の幟が見えはじめ、さらに厳島神社の幟が密集し始めた。

3つの神社の幟が収れんするあたりに道標があった。吉備彦神社の幟も目についた。

道標

4面とも文字が記され、撮影可能である。
↑この面が南面している。
江戸末期には神崎の渡しは廃れ、より南の佐門殿川の辰巳の渡しを
渡るのが西国街道への近道となっていたらしい。
右へ行ったら、大坂・京へ戻りますよ、左は、 伊丹・有馬へ行く北行き街道へつながってますよ、ということを示している。



これは中国街道を示している。

↑西から来た人が見る面。

文化5年戊辰3月吉日。

文化5年は明治元年(戊辰戦争)の60年前(1808年)であることが分かる。

神社の方は、その地点で一番幟の数が多いところから訪問。



街角の地蔵さんをちょっと広げた程度の、町角神社である。
家が密集している小さな路地の4つ角の一角なので、幟と提灯がなくなれば、地の人にしか所在は分からないであろう。

神社案内

主祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) 伊奘諾命(いざなぎのみこと)

例祭日 10月体育の日の前日

鎮座地 長洲中通2丁目4-48

≪お社の説明・御由緒≫

市バス工業高校で下車南へ3分、尼崎小田高校西門の西側にある。以前、当社より北に多可宮と称される宮があり、それと対をなす格好で低宮と呼ばれていた。『日本書紀』には、祭神の二柱の神は共に履仲天皇の祝に出現され、さのため天皇は車持君に悪解除・善解除を負わせて長渚崎で禊祓い(みそぎはらい)を命じられたと記されている。長洲浜の開発行基五泊の一つである大河尻の修造の際、当地に縁りの深い神々として奉斎されたものかと思われる。平成7年の震災後社殿を改築。境内に白龍大神を祀る。また毎年1月には伊勢講が催される。


↑の文中にある、「長渚崎」がこの神社のある辺りであったとか。
長洲は日本書紀にも登場する地名なのである。8世紀以前、私は、このあたりまだ海だと思っていた。もっとも海だったとしても、洲とか島は点在していたであろう。

次に向かったのが、長洲 貴布禰神社

主祭神 たかおかみのかみ

例祭日 10月体育の日の前日

鎮座地 長洲中通3丁目8-28

≪お社の説明・御由緒≫

市バス天満神社前下車、東へ約5分。創祀は不詳であるが、平安京遷都の折、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が任務の成就を己が護神に祈願したところ予定通りに事が運び、報謝の為に吉備真備に謀りこの地を定めて社を奉建したと伝えられる。当社は京都鴨社の社領である長洲御厨に位置し、長洲の集落の微高地に建てられ、近くの地層から平安、鎌倉時代の遺物が発見されたことから市の史跡に指定されている。祭神の高?神は古来雨を掌る神として知られている。また毎年1月には七日座八日座の宮座が催される。境内社には大国天、宇賀大神、妙見宮が祀られ、境内には二抱え余りの銀杏、社殿奥には楠がある。


高?神となっている部分は、PCが受け入れを拒否した漢字が使われているのであろう。

教育委員会の案内にその神さんの名前が登場しない。

高龗神である。

朝寒や寒水石の手水鉢 寺田寅彦

秋の水湛へて溢る手水鉢 吉屋信子

腹立て水呑蜂や手水鉢 炭 太祇 太祇句選

手水水涼しかりしを金火鉢 曲言 選集「板東太郎」

練行の手水手水と僧走り 阿波野青畝

臨済の手水孑孑おのづから 飴山實 『次の花』

花八つ手水張つてある四斗樽 池田順子

今朝冬の日当りそめし手水鉢 富安風生

手洗へば蚯蚓鳴きやむ手水鉢 正岡子規

孑孑や松葉の沈む手水鉢 正岡子規

花八つ手水を貰ひに研師来る 森藤千鶴

手水かきありと言つてみよ 平井照敏

手水鉢氷らぬ日なし実南天 草村

冬ざれや貴船の宮の手水鉢 洛山人

手洗へば蚯蚓鳴きやむ手水鉢 子規 (午前零時)

孑孑や須磨の宿屋の手水鉢 正岡子規

薄氷や山茶花散り込む手水鉢 寺田寅彦

其儘に萎びし菊や手水鉢 寺田寅彦

鶏頭や釘に掛けたる手水樽 尾崎紅葉

ゆふだちや洗つて酒を手水鉢 泉鏡花

涼しさや椽の際なる川手水 一茶 ■文政六年癸未(六十一歳)

仙蓼(千両)や蛙鳴き出す手水鉢 風斤 俳諧撰集「藤の実」

手水湯や流しそこなふ雪の上 膳所-弩鳥 俳諧撰集「有磯海」

蕣に今朝も手水をわすれたり 酔滴 選集古今句集


短夜や同心衆の川手水 蕪村 夏之部 ■ 雲裡房に橋立に別る

風寒き流れの音や手水鉢 広瀬惟然

短夜や同心衆の川手水 與謝蕪村


3つ目 天満宮

築地

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築地、海沿いの古い町にはどこにでもありそうな地名である。

かなり立派なHPに、貴重な発言があるので、引用。しかし文章とその内容は関東の人が書いたにしてもへんてこな部分があるが。


築地には、海や沼を埋め立てた土地という意味があり、東京の築地の「築地」もそれから来ているといわれています。しかし一方で築地の名前は尼崎からつけられたものと言っている人もいます。尼崎というと京都市が有名ですが、実際に築地という名前がこの尼崎から来ている築地なのかはいまいちよくわかっていません。また全国的に見て築地という名前の場所が50個以上存在します。これは単純に海を埋め立てた場所として、名前が付けられていることもあれば、どこからか由来が来ていると考えられているものもあります。東京の築地とまた京都の尼崎と大きく関係しているのかははっきりとはしていません。

「京都の尼崎」!? 電話の市外局番から、大阪の尼崎というのは、東京で耳にしたことはある。
しかしともかく最初に開いたHPで、築地という地名が
全国に「50個」あるらしいことを教わった。
より重要な情報は、「築地」という名称の本山が尼崎であるということ。しかし、本当かな?

ウィキペディアの「築地町」の解説:

築地町(ついじちょう、つきじちょう、つきじまち)は、地名

ついじちょう
つきじちょう
つきじまち

尼崎は登場しない。尼崎は築地町1丁目~・・ではなく、
築地1丁目、2丁目・・・だから。

この通りがかつての「中国街道」
1995年の地震時に液状化を起こし、壊滅的被害を受けた。
以前の築地はしらないが、最低限の雰囲気を残しながらも全面的に
新規復興計画がたてられたのであろう。
新聞報道など読んでいるはいたはずだが、全然覚えていない。

道を広げるためには高層化やむなしであったのだろう。

↓戎湯 源泉が噴き出している。築地1丁目 入湯料400円。

旧尼崎城と築地を遮断する堀の役割を担っているのは、庄下川である。

この橋の西側で、北から流れてきた庄下川は、東への流れと西への流れに分かれる。
東へ向かう川は,左門殿川への合流を目指す。しかしそこでもポンプなしでは合流できない。兵庫県松島排水機場で、「汲み上げられて」左門殿川へ放出される。だから厳密には合流とはいえない。

手前に尼崎東部第2浄化センターがある。


↓左門殿川、2キロ上流で神崎川から分かれる。
本流は中島川と名を変え、再び、この左門殿川と合流する。
合流後の中島川右岸は以前に歩いたことがある。
その途中で、分流して、旧左門殿川と名を変える西流した庄下川は蓬川とも出あってポンプ場経由で中島川と出あう。

二つに分かれた庄下川はどちらも中島川で再会し、尼崎湾から大阪湾へ出て太刀魚の餌を育てるという寸法である。その時には、武庫川の水も加わる。




左門殿川の真ん中あたりで大阪府になる。
↓辰巳橋の上から見た浄化センター

築地の周辺には、中継ポンプ場、浄化センター、排水機場といった大きな施設が取り巻いている。

空にそびえる広告塔
店長は目下閉店挨拶文作成中かも。

あいかわらず浄土真宗の寺が目立つ。
江戸へ行った漁民は大坂ではなく尼崎出身だったのであろうか。
ならば築地は故郷の地名ということになる。

↑松島排水機場を目指す庄下川にかかる御茶屋橋。
和風カフェがあったのか?


初島大神宮

「うわずみじゅう」と読むのであろう。京都鮮魚商組合の意であろう。

それにしても知事や歴代市長が揮毫した大石碑が目立つ神社である。



初島のまはり平らに海苔の粗朶 古賀 菊枝

初島に眼より突込む梅雨鴉 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』

初島へ向ふ水脈あり能始 田川飛旅子 『使徒の眼』

水仙や夜明の初島蒼く臥す 水原秋桜子

橙や初島をつなぐ潮の筋 新井英子

寒凪や歩いて行けさう初島は 和田 祥子

ひと日居て初島を見ざり花の雨 瀧 春一

水仙の初島なれば幾跼み 西本一都

初島へ大つごもりの水尾を引く 星野椿


単に初島と言えば、
ウィキペディア

初島(はつしま)は、静岡県熱海市に属する伊豆半島東方沖の相模灘に浮かび、静岡県の最東端でもある。古い文献などでは波島(はしま)、端島(はしま)、波津幾島(はつきしま)との表記もある。」


戎橋 北側に道標

「神社是より南5丁」昭和26年講和条約記念として立てられた。
新しいものである。

ガイドブック掲載の画像は、樹(楠)がまだそんなに石碑を覆っていないので字が読める。

道路の反対側から


そこには中在家中継ポンプ場

いったい尼崎市内には中継ポンプ場がいくつあるのだろう。

神戸市のような丘陵地帯ないし山の裾野に住宅街が展開している町ではこの種の施設は0なのであろうか?


市内の道しるべ、未見のもの、残るは7本。

木立ダチュラ

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この花、夕刻以後に開花する花だということを最近まで知らなかった。
年に何回か満開時期がある。
温度さえあれば年内もう一度くらいは満開になる。

句会参加。

出句

高三郎やってりゃよかった公文式

タカサブロウという名の田の草を知ったのは今年である。
9月17~19日美作の田園地帯を走ると、手入れの悪い田に繁茂していたのは
タカサブロウではなくイヌビエであった。
イヌビエも稲より背が高くなるからよく目立つ。

Mrs K 宅で仕入れた情報では、
イヌビエもコンバインでいっしょに刈り取るが、
種の粒が小さいので、籾の中に混じることはないそうである。

タカサブロウやイヌビエが田の中に繁茂しているということは
その分稲の方に回るはずの栄養分が盗まれているということだから
余りに多いと稲の品質にも影響がでてくるであろう。

除去作業に時間を割けない農家の主は、
農業を因果な「商売」と思っているかも。

他方で私は将棋ファンである。
中学生でプロの4段になって、
升田や加藤一二三(この二人も好きな棋士であるが)を
妙手一発撃破してゆく羽生善治(はにゅう ではなく、 はぶと読む)
少年のファンとなったので
羽生が登場した公文式教室のTVのCM動画は今でもよく覚えている。

羽生は公文式に通っていた。


羽生善治ともう一人の(放映時点での)人気棋士田中寅彦が対戦する。
勝者は羽生である。
そこで羽生のセリフ「やっててよかった公文式」
敗者田中のセリフ「やってりゃよかった公文式」
(この役での出演を引き受けた田中さんにも敬意を払いたい)


自分の田圃のタカサブロウの繁茂を見て、
農業に向いていなかったかもしれない自分の人生を振り返り
「やってりゃよかった・・・」と独りつぶやいたかも。

私自身、孫のピアノやバイオリンの演奏を見ていて
やってりゃよかったと思うことがいろいろとある。



他の出句

花野中ショパンの曲の漂えり
平日のパン焦がしおり常盤櫨
法案通過現証拠が首傾げ 
 (安部さん、よくも長時間耐えたものだ。薬の効き目に
ゲンノショウコが驚いている)
切りのないネットサーフィン小紫


 常盤櫨の元の句は

常盤櫨に屈む年金受領月  
 だった。当日席題が「平日」だったので改変


ユニチカ

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尼崎にユニチカ記念館というものがある。
尼崎紡績が元の会社名である。


apedia  Web版尼崎地域史事典の解説:(長いので一部割愛)

  1889年(明治22)6月、資本金50万円の有限責任会社として創立。所在地は旧尼崎町の辰巳町。尼崎の商人本咲利一郎梶源左衛門大塚茂十郎、中塚弥平らに旧尼崎藩士族が加わって、尼崎側28人、それに広岡信五郎(初代社長)・木原忠兵衛ら大阪の有力財界人17人が参加して発起した。


1891年2月、まず1万錘をもって操業を開始した。兵庫県下最初の1万錘紡績で、本格的大紡績工場の先駆であった。

  尼崎近辺は日本で最良質の阪上綿の産地であったので、その綿花を利用することが設立目的の一つであったが、実際には安価で比較的長繊維のインドや中国・安南産の綿花が用いられた。


労働者は、当初は近辺からの通勤工ばかりであったが、数年後には中国・四国・九州が労働力の主たる供給源となった。

1895年末の労働者数は2,544人。技術的に困難な細番手と中番手の生産に主力を注ぎ、これが尼紡発展の一つの要因となった。

精紡機は、1891年に2万7千錘であったのが、1901年には4万5千錘と倍増。その後、日露戦争を契機として飛躍的に発展した。

1906年には織布工場として東洋紡織を資本金200万円で設立し、1908年にそれを吸収合併。1914年(大正3)に東京紡績、1916年に日本紡績を合併し、33万錘、織機2,682台を数えた。

  1918年6月に、大日本紡績(株)と改称、日本最大の紡績会社となった。
1964年(昭和39)4月社名をニチボーに変更、さらに1969年10月日本レイヨンと合併して新社名をユニチカとした。

なお、1900年(明治33)に建築された赤れんが造りの尼崎紡績本社建物が、ユニチカ記念館として現在も故地にそのまま残っている。


ここには書かれていないが、この会社が電話を設置した時、尼崎にはまだ電話線が通じていなかったので、大阪側から電話線を引っ張ってきた。

それにより尼崎の市外局番が大阪市と同じ06になった。

「大阪の尼崎」(=尼崎は大阪府に属する)という「説」はこの事実が発生原因であろう。

過去に一度だけ中をのぞいたことがある。日本紡績史の資料よりも
大松監督率いるニチボー貝塚チームに関係する資料の方が多かったような記憶がある。

その後も何度か建物の近くには来たことがあるが、
いつも覗いている門が裏門であること、市の教育委員会の案内が掲示されているのは今回(9月28日)初めて知った。

正門は43号線沿いの南側だった。

怪しげな人物の影になって石碑の文字の下半分が読めない。

この記念館、週に1度(水曜日)しか開館していない。


紡績の溝に湯けぶる今朝の冬 内田百間

紡績の笛が鳴るなり冬の雨 夏目漱石 明治二十九年



紡績に妻老けるよ敷ぶとん 黒柳召波 春泥句集

 裏門

工場はこの本社ビルに隣接されていたはずだが、どこか分からない。
道を隔てて、浄化センターがあり、その間に利用されていないが柵で囲った場所があるので、その辺りにあったのかも。

工場周辺には社宅もあったであろう。今ある住宅地はその名残かも。


東洋の魔女をもじって、東綿の魔女軍団が、かつて私の属した結社にいた。
トーメンの社内句会が、講師に桂信子を招き、「青玄」に若い女性たちが大挙して、入会したからである。

桂信子が青玄を去り、今は宇多喜代子が代表を勤める草苑(→草樹)を創刊すると、当然の如く、女性軍団は青玄をやめて、そちらへ移っていった。

そのわずかの期間の間に、同じく同人だった楠本憲吉が、「文芸春秋」
に「東綿の魔女」を売り込んだ。それを執筆する前に、面白そうなネタを集めるため、伊丹三樹彦を中心に情報収集がなされ、私も「貴重な」貢献をしたはずである。

しかし今や糸へん産業はすっかり衰退。私だけでなく多くの日本人は
頭のてっぺんから足底までmade in Chinaで包まれている。

しかししかしこれは日本だけでなく全世界的でもあるかも。

しかししかししかし、それもまた昔話になる時代がそこまで来ているようである。




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