石灯篭
桐箪笥
引用は、桐の文化史 から。
日本に伝わる風習からも、桐の優れた特性を知ることができます。
たとえば、昔の農村では女の子が生まれると桐の木を植える習わしがありました。これは、桐の生長が早く15~20年で成木となることから、その子がお嫁入りする際に伐って箪笥や長持に仕立て、嫁入り道具として持たせるため。江戸時代にはかなり広まっていた様子で、貝原益軒が著した『大和本草』にも「女子ノ初生ニ桐の子ヲウフレバ、嫁スル時其装具ノ櫃材トナル」とあります。家の庭に桐の若木があるのは、嫁入り前の娘がいることの目印でもありました。
桐箪笥が世に広まったのは江戸時代のことです。幕府が置かれた江戸の町は、武家屋敷が立ち並び、諸国から人々が流れ込んで、世界有数の大都市に発展。町民が暮らす下町には木造の商店や長屋が密集し、ひとたび火事が出れば、あっという間に燃え広がって大火となりました。消火能力に乏しい時代、火事が起こると人々は大切なものを持って逃げるしかありません。そのため、当時の箪笥は車輪のついた車箪笥が主流でした。
しかし、江戸最大の大火として知られる明暦の大火(1657年)が起こった際には、通りは車箪笥を持ち出した人々でふさがれ、立ち往生する車箪笥に火がついて被害を拡大させてしまったのです。これを重く見た幕府は、のちに車箪笥の使用を禁止しました。
そこで注目されたのが桐箪笥です。桐は軽くて燃えにくいため、火事が起きても担いで逃げることができるうえに、炎の中でもなかなか燃えません。たとえ火がついても、燃え広がらず、表面だけが焦げて中の着物は無事ということも。水をかければ材に水が染み込んでさらに燃えにくくなるため、「近所で火事が起こったら、濡らした布団を桐箪笥にかけてから逃げろ」などと、よく言われたそうです。こうして桐箪笥は大流行し、庶民の間で急速に普及していきました。
15年で大木になるそうだから、1昨日の私の考察は取り消し。
美作の父母の実家、どちらにも桐を育てた気配がなかったので、めったにないと考えた。
また家の庭に大木を植えたら、庭での農作業や菜園経営に支障がでるとも考えた。
・・・・・・
息子に誘われて、焼き肉店で昼食。息子は昨日の日曜日が出勤日だったので、本日は在宅だった。
折角のお誘いなのに、私が支払うなどと言っては失礼だろうと思い、
「ご馳走さん」と言って店の前で分かれ、
私は、一度覗きたかった貴布禰神社へ。
市内66か所の神社をすべて覗くという目標の一環であるが、
同時に、ケーブル・テレビのひとつのチャンネルが、年から年中、この神社の祭礼、喧嘩神輿ないし神輿争いを繰り返し放映しているからである。
最近画面が、今年8月開催のものに切り替わった。
国道43号線沿いの鳥居と門を潜った。こちらが正面のように思えるが、この付近は国道建設の影響を受けているかも。
昨日は手洗鉢などという表現を使ったが、「盥」などという文字が見える。
裏面には二つ、江戸時代の年号が記されていたが、画面で確認できるであろうと思い、メモしなかった。全然読めない。
京都の貴船神社と深いかかわりがある社である。
昭和20年6月の空襲でほとんどが焼失。戦後に復元再建された。
↑の石灯籠は享和元年(1801年)に寄進されている。この頃から外国船の往来が激しくなり、
伊能忠敬が沿岸測量を始めた年である。地図は1821年に完成する。
尼崎66社案内より:
貴布禰神社 だんじり祭(大祭:8月2日午後3時より 宵宮:8月1日)
1日は午前10時ころより、各町の太鼓・地車が神職のお祓いを受けた後、町内を中心に運行する。午後5時半より太鼓を先頭に地車8台が阪神尼崎駅南側を出発し、商店街や氏子地域を「パレード」する。午後7時半頃から「宮入」。特に先頭の辰巳太鼓の暴れ方に特徴があり、右へ左へ90度以上倒され、横倒しされる様は、参拝者から自然と拍手がおこるなど感動を与える。全ての宮入が終わると、太鼓・地車9台が境内で一夜を過ごし御神威を受ける。
2日は午前10時頃より、地車が神社を出発し、町内を中心に運行する。午後5時半頃に神社西側道路に集まり「山合わせ」が行われる。これは尼崎独特のもので、2台の地車が向かい合い、前の部分を上げながらぶつかるもの。そして上手く肩背棒といわれる棒を先方の地車にのせることができれば勝負ありという演技だ。日本全国の地車ファンから問い合わせがあるほどで、約3時間にわたって熱戦が繰り広げられる。2日間を通して、境内及び隣接する公園などに約150軒の露店が並び、また近隣の商店街などでも夜店が出され、町全体が祭りムードに包まれる。また、大祭の斎行日が8月1日、2日と決められているため、特に尼崎南部地域ではよく知られており、最近では全国の地車ファンも集うなど2日間で約10万人の参拝者で賑わう。
裏門の方が町の中心寄りである。
国道43号線の南は工業地帯である。
↑の鳥居は享保2年(1717年)のもの。
1995年の地震で倒れたかどうかは知らない。
鳥居さんの句がいっぱい出てくるが削除の時間なし。
寺町
7月に7歳になった孫と、現在はまだ12歳である孫、孫はこの二人だけである。
一人は神奈川県の私立中学校の1年生、もう一人は、大阪の市立小学校の1年生である。
小学生の方は今日が新学期、中学生の方も明日あたりが新学期だそうでる。
小中高の新学期(2学期)は9月1日で固定化と思っていた。もちろん雪国や農繁期休暇がある道県で例外もあることは知っていたが、大阪・兵庫・東京・神奈川などは7月21日から8月31日までが夏休みであるのは既成事実であると思っていた。
ところで、神奈川在住の孫が通っていた小学校はやたら休みが長かった。
7月20日以前に夏休みに入り、9月第1週も休みであった。
その上、地震や台風や降雪で臨時休業があってある年など平常週なのに
1日2日しか授業がない時もあった。
そのせいかどうか、私立小学校をこの3月に卒業した孫は、
併設の中学校進学前に、大量の宿題を課せられていた。
付属校から進学する子と、入試を受けて入学してくる生徒との学力差を埋める所作という説明を
親から聞いたが、宿題の量は今年はひときわ多かったのではないか?
ネットで調べると、
大阪市の公立学校は、中学だけ8月24日まで(何故?)他は8月31日まで
しかし吹田市は小学校も8月24日までとなっている。
東京は区によって異なるが、8月24日までとなっているところもある。
尼崎市の公立小学校一律の取り決めはないようだが、新学期の始業式は9月1日だが
それよりまえにプール(水泳)授業を実施したり、全学一斉登校日を設定している学校もある。
教職員には夏休みはないが、塚口小学校は、8月11日~17日は節電のため学校閉鎖となっている。
甲子園関係電力調達に苦労している関電への協力なのか、苦肉の策か?
12歳の孫は、9月2,3日に実力テストがあるらしく、「猛勉強中」とか。
ウィキペディアの解説:
本興寺(ほんこうじ)は、兵庫県尼崎市開明町にある、法華宗本門流の大本山。塔頭が六院ある(本教院、一乗院、恵運院、養寿院、本成院、尭運院)。
概要
日隆が尼崎に布教した時、細川満元は夫人の懐妊に際し、男子誕生の祈願を依頼。無事に男子が誕生し、その礼として本興寺が建立された。本能寺が伝道の中心地であったのに対し、本興寺は教学の中心地であり、勧学院という教育機関が設置された(現・学校法人法華学園興隆学林専門学校)。
現住は134世小西日遶貫首。
歴史
- 1420年(応永27年)尼崎の辰巳(南東)の大物(現・尼崎市大物~東本町)に建立される。この最初の造営地は、近世の尼崎城本丸の故地である。
- 1454年(享徳3年)勧学院が創設。
- 1617年(元和3年)尼崎城築城に伴い、現在地に移転。
- 1822年(文政10年)本堂が類焼、5年後に再建。
- 1914年(大正3年)勧学院、光長寺檀林と合併して、本門法華宗学林と改称。
- 1941年(昭和16年)本門法華宗学林、法華宗興隆学林と改称。同年、学林教授ら6人が教義綱要の不敬罪で検挙(戦時宗教弾圧である)。
- 1984年(昭和59年)法華宗興隆学林、法華学園興隆学林専門学校と改称。
境内
- 本堂 - 1822年に焼失、1827年に再建された。
- 開山堂 - 1558年に建立され、大物から移築した。1469年製の木造日隆聖人坐像を祀る。
- 三光堂 - 三間社流造銅板葺で室町時代後期の建築。大物から移築した。拝殿は1597年に豊臣秀吉・加藤清正が再建。法華経信徒守護神を祀る。
- 三光堂向唐門 - 一間一戸向唐門で江戸時代前期の建築。
- 方丈 - 1617年に現在地で建立された。曾我紹興や大岡春卜、鵬運斎(伝不詳)作の障壁画が残る[1]。
- 祖師堂 - 1822年に焼失、1852年に再建された。日蓮聖人像を祀る。
- 鐘楼 - 1633年に建立。
- 御霊水井戸 - 1420年に日隆聖人により掘られ、以来水が枯れることがないという。
(↑井戸の横の冬桜。尼崎信用金庫資料館のコインコレクションを見た後ここに立ち寄ったことがあった。20年くらい前か?
この冬桜が満開であった。3月だったか?)
日隆聖人荼毘所塚 - 三重宝塔
- 塔頭 - 一乗院、恵運院、尭運院(鬼子母神を祀る)、本教院、本成院、養寿院
文化財
- 重要文化財(国指定)
- その他の文化財
ルエリア
↑この季節によく目にするが、花の名前を思い出せなかった。
「花図鑑」に投稿、39秒後にルエリアと教えてもらった。
ルエリアという花の名前は知らなかった。
だから思い出そうとしていたものとは違うので、ネット画像で確認。
ルエリアで間違いなさそう。
↑のルエリアは(前方後円)墳の上に咲いていた。
前方後円墳の後円部分にそのまま保存されている。
周りの壁に説明書がぐるりと貼られている。
新聞記事の内容などまったく記憶にない。
↑古墳分布図を見て、大井戸古墳までは歩いていけると目測。
古墳の横を流れる川は、浜田川であると見当をつける。
実は、地図で見る限り、蓬川(よもがわ)の水源は、JR立花駅あたりで姿を消す浜田川であろうと思い、水源を覗いてみようと思って出かけたら、水堂古墳に巡り合った。
さらに前方後円墳の前方部分に神社がある。水堂神社。
主祭神 須佐男命(すさのおのみこと)
例祭日 10月第3日曜日
鎮座地 水堂町1丁目25-7(TEL 06-6438-3078)
>>> 水堂須佐男神社ホームページ(外部リンク)
≪お社の説明・御由緒≫
JR立花駅下車、線路の北側にそって西へ徒歩で8分ほどのところ。阪急武庫之荘駅からまっすぐ南へ下っても行ける。
道路から一段高く築かれた境内は、全体が五世紀ごろの築造になる前方後円墳(水堂古墳)である。往古、海中の小さな島ででもあったのか。そこに墳墓が築かれ、お宮が祀られ、当地の住民の氏神として守られてきたものであろう。創祀は天正3年(16世紀)という。当社も尼崎に数多い「スサノオ社」のひとつ。末社に、天武天皇社、天満宮がある。御社殿としては、流麗な流れ造りの本殿・拝殿、および総檜造りの手水舎があります。これらの社殿は、平成七年の阪神大震災によって旧拝殿(本殿・拝殿は大正六年造営)が倒壊したため、平成十年に復興再建されたものです。拝殿正面の社名額は、深山龍洞筆(大正6年)。本殿裏手には、古墳保存館もあります。
古い年代の石造物としては、元禄六年(1693)の銘記がある手水鉢、「元禄十二夘之歳夘月十六日摂州河辺郡 橘 御園荘 水堂村」という刻文が今も鮮やかに読める旧鳥居支柱、室町時代(十五、六世紀)の制作と思われる純朴な風姿の狛犬、享和二年(1802)および文化五年(1808)の銘を刻む境内階段石、そして元禄から天保にいたる二百年間に奉献された江戸時代の燈籠九基などがあります。
近年の石造物では、境内石垣(大正四年)、社名石碑(昭和十九年)、三竿句碑(昭和六十二年)先代宮司 上村 秀男作 「ほととぎす 雨夜となり て人恋し」など。
水堂古墳の被葬者と、阪神大震災の犠牲者の霊に捧げる意を込めて、滋賀大津在住の日本画家 鈴木靖将が描いた当社拝殿の天井画「万葉の花」(平成十年作)は、東西8m 南北4mの格天井の杉板全面に165枚。銅鏡・刀剣など古墳副葬品をイメージした大作を中心に配し、その周囲に四季にわけて『万葉集』の歌に詠まれた野の草花、つばき・かきつばた・ききょう・おみなえし等々をデザイン化して描き、他に類を見ない意匠と色彩の傑作です。当社震災復興の美しくも貴重なシンボルでもあります。
手水鉢は眺めたが製作年を確認するのを怠った。予習不足であった。
幾百の未発掘古墳千日紅
昨夜雨が降ったので、朝の水やりをさぼったら、
軒下の千日紅
宝篋印塔
宝篋印塔こつと打つたる椿の実 野澤節子
宝篋印塔での例句は0だろうと思って検索。1句登場。
痛いほど団栗貰う羅漢像
の類であろうか? 飢饉時には団栗は重要な食料であった。
それさえ手にはいらなければ餓死が待っている。
{宝篋印塔}は書けないが読める。
今日はスイドウチョウを歩いてきたとワイフに報告して顰蹙を買った。
ウィキペディア:
宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。五輪塔とともに、石造の遺品が多い。
起源
中国の呉越王銭弘俶が延命を願って、諸国に立てた8万4千塔(金塗塔)が原型だとされている。
これは、インドのアショーカ王が釈迦の入滅後立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して、新たに銅で造った8万4千基の小塔に分納したものだといい、日本にも将来されて現在国内に10基ほどある。
石造宝篋印塔は銭弘俶塔を模して中国において初めて作られ、日本では鎌倉初期頃から制作されたと見られ、中期以後に造立が盛んになった。銭弘俶塔の要素を最も残すのが北村美術館(京都市)蔵の旧妙真寺宝篋印塔・一名「鶴ノ塔」である。ただしこの装飾性の強い塔は古塔の中では特異で孤立しており、いまなおその歴史的位置付けは明瞭でない。在銘最古の宝篋印塔は鎌倉市の某ヤグラから出土した宝治二年(1248年)銘の小型のものである。これは無紋の大きな隅飾りが垂直に立ち上がっており、京都市右京区の高山寺塔や為因寺塔(文永二年銘)に共通する特徴を持ち、これら装飾性の少ないものを特に「籾塔形式」と呼ぶ[1]。これら素朴な籾塔型から次第に装飾性を強めて現在よく知られる石造宝篋印塔のスタイルが確立したものと考えられる。
名称は、銭弘俶塔に宝篋印陀羅尼(宝篋印心咒経/ほうきょういんしんじゅきょう)を納めたことによる。ただし、石造宝篋印塔で実際に塔内から陀羅尼が発見された例はない。本来的には、基礎に宝篋印心咒経の文字を刻む。
1300年代に制作された宝篋印塔で、ほぼ全体が残っているのは、
尼崎市内には1か所しかないそうである。
昨日、ふと街角で、遠くを見ると、JR線が見える方角に、例の市の教育委員会製作の
案内板があるのが見えた。
ひょっとすると、水堂の宝篋印塔ではないかと思い、近寄ってみる。
このあたり1995年の大地震の影響は甚大であったようだ。
寺や神社の復興には浄財が幅広く集められている。
平成ともなると最高寄付金は1000万円である。
この寺の修復には、4人の方が1000万を献金なさっている。
宝篋印塔がこの寺の境内に移されたのは地震以後であろう。
宝篋印塔の断片は、塚口御坊にも保存さている。
(↑の説明書きの中に宝篋印塔という単語が出てくる。残欠は1520年ころのものと説明されている。)
わたしもそこで宝篋印塔なる言葉を知った。
数日前、水遣りをしていると背後で挨拶があった。
Tさんである。市の郷土史研究会の会長さんである。
Tさんの自転車を呼び止めて、宝篋印塔を話題した。
塚口御坊保存の断片は、南門跡にあったとか。
釣りざおのようなものを持っておられる。釣りに行くのではなく、
石像などの寸法を測るのだという。
目下尼崎の旧小田村地区の文化財調査中だとか。
大井戸公園
晩夏
浜田川(排水路)を遡ってゆくと、行く手に見える森が、大井戸公園である。
大井戸公園、緑化植物園、農業公園、この3つが尼崎北部地区、武庫、塚口、園田を代表する公園であろう。大井戸公園は薔薇公園、緑化植物園は山桜、農業公園は牡丹、八重桜、菖蒲が「目玉」である。
広さでは、多分武庫川河川敷公園が一番だと思う。
.もっとも目下尼崎では、国道43号線より南を森に戻す運動が展開中である。もともとは芦原であって森ではなかったと思うが・・。
紫陽花の葉がやけにでかい。
ノウゼンカズラは、オーシャブルー同様、家庭園芸では邪魔者扱いされ始めているように思う。みごとなブッシュを見る機会が減っている。
.
作者についての知識はないが、面白い句が多い。
特に最後の句はなかなかのもの!
昭和
「降る雪や」で検索。
31句と出てくる。
しかし見ての通り、3分の1は草田男の句である。
ちょっと長いが、ウィキペディアから。(全文はもっともっと長い)
中村 草田男(なかむら くさたお、1901年(明治34年)7月24日 - 1983年(昭和58年)8月5日)は、愛媛県出身の俳人。本名清一郎(せいいちろう)。東京大学国文科卒。高浜虚子に師事、「ホトトギス」で客観写生を学びつつ、ニーチェなどの西洋思想から影響を受け、生活や人間性に根ざした句を模索。石田波郷、加藤楸邨らとともに人間探求派と呼ばれた。「萬緑」を創刊・主宰。戦後は第二芸術論争をはじめとして様々な俳句論争で主導的な役割をもった。
経歴
清国(現中国)福建省廈門にて清国領事中村修の長男として生まれる。母方の祖父は松山藩久松家の重臣[1]。1904年、母とともに中村家の本籍地・愛媛県伊予郡松前町に帰国。2年後松山市に転居。1908年、一家で東京に移り赤坂区青南尋常小学校(のち港区立青南小学校)に通学する。1912年、再び松山に戻り松山第四小学校に転入。1914年、松山中学に入学。先輩に伊丹万作がおり兄事する存在となる。1916年、伊丹らとともに回覧同人誌「楽天」を制作。1918年、極度の神経衰弱にかかり中学を1年休学。復学した頃にニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』に出会い生涯の愛読書となる[2]。
1922年、松山高等学校入学。直後に可愛がられていた祖母に死なれたことで不安と空虚に襲われ、その解決の鍵として哲学・宗教に至る道を漠然と思い描く[3]。1925年、一家で東京に移転、4月に東京帝国大学文学部独文科に入学。チェーホフやヘルダーリンを愛読するが、1927年にふたたび神経衰弱に罹り翌年休学。このころに斎藤茂吉の歌集『朝の蛍』を読んで詩歌に目を開き、「ホトトギス」を参考にしながら「平安な時間を持ち続けるための唯一の頼みの綱」となる句作を始め[4]、俳号「草田男」[5]を使い始める。1929年、母び叔母の紹介で高浜虚子に会い、復学したのち東大俳句会に入会。水原秋桜子の指導を受け、「ホトトギス」9月号にて4句入選する。
1931年、国文科に転じ、1933年卒業。卒論は「子規の俳句観」。卒業後成蹊学園に教師として奉職。1934年、「ホトトギス」同人。1936年、縁談を経て福田直子と結婚。1938年より下北沢に住む。1939年、学生俳句連盟機関誌「成層圏」を指導。また『俳句研究』座談会に出席したことをきっかけに、石田波郷、加藤楸邨らとともに「人間探求派」と呼ばれるようになる。1945年、学徒動員通年勤労隊として福島県安達郡下川崎村に向かい、同地にて終戦を迎える。
1946年、「成層圏」を母体として「萬緑(ばんりょく)」を創刊、終生まで主宰。1949年、成蹊大学政経学部教授に就任、国文学を担当する。1954年下高井戸に転居。1959年、朝日俳壇選者。1960年、現代俳句協会幹事長となるが、現代俳句協会賞選考を巡って協会内で意見対立が起こったため、1961年に協会を辞し新たに俳人協会を設立、初代会長に就任する。1965年、成蹊大学文学部教授。1967年に定年退職後、非常勤講師となったのち、69年に同名誉教授。1972年、紫綬褒章。1974年、勲三等瑞宝章。1978年、メルヘン集『風船の使者』により芸術選奨文部大臣賞受賞。
1983年8月5日、急性肺炎のため82歳で死去。死の前日洗礼を受けた。洗礼名「ヨハネ・マリア・ヴィアンネ・中村清一郎」。墓は東京都あきる野市の五日市霊園にある。没後の1984年、日本芸術院恩賜賞が贈られた[6]。
妻直子との間に四人の娘をもうけている。お茶の水女子大学教授(フランス哲学)の中村弓子は三女。
作品
代表的な句としては、
- 蟾蜍(ひきがえる)長子家去る由もなし(『長子』所収)
- 降る雪や明治は遠くなりにけり(1931年作。『長子』所収)
- 冬の水一枝の影も欺かず(『長子』所収)
- 玫瑰(はまなす)や今も沖には未来あり(同)
- 萬緑(ばんりょく)の中や吾子の歯生え初むる(1940年作。『火の鳥』所収)
- 勇気こそ地の塩なれや梅真白(1944年作。『来し方行方』所収)
- 葡萄食ふ一語一語の如くにて(1947年作。『銀河依然』所収)
などがある。自己流で「ホトトギス」の客観写生を学んだのち、季語の象徴性を生かし、西洋近代文学の思想性を日本的な情感に解かしこむ表現を模索[7][1]。
「金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴(きゃつ)を吊り」
など、時にその表現は難解な語句や大胆な字あまり・破調となり「難解派」と呼ばれる一因ともなった[8]。同じく難解派・人間探求派と呼ばれた加藤楸邨、石田波郷が「ホトトギス」を離反した「馬酔木」に拠ったのに対し、草田男は「ホトトギス」に残り続け、俳句の伝統性固有性の枠内に止まろうとしたが、「ホトトギス」のスローガンである「客観写生」「花鳥諷詠」を安易に運営すれば自己不在、人生逃避に陥りかねないという危惧も持っていた[9]。
戦時になると時局に便乗した年長の俳人からの圧力もあり、1943年より「ホトトギス」への投句を断念している[10][11]。
一方で日野草城のフィクション的な連作「ミヤコホテル」を強く批判したのを初め、新興俳句運動に対しては強い興味を示しつつも楸邨らとともに強力な批判者としての立場に身を置く[12]。
降る雪やの句の制作年を確認したかったが、1931年である。
明治は1912年7月末で終わっている。
草田男は当時、東大生であった。年齢は29歳!!!。明治を10年生きている。
出身校である松山の小学校を訪ねた折りの感慨である。
明治・大正・昭和の激変が背景にあるという解説が多い。
しかし同じく昭和が終わって27年。数年前から昭和が遠くなったという感慨を込めた句が、
句会で目立つ。最近では、またか、もう読みあきたといった感じもあるほど。
塚口御坊寺内町でこんな家を見つけた。
私が小学生のころ、母の里の家で、村中総出(ご近所と講仲間)の屋根普請があった。
夏の暑い日であった。
大人になってから「岡山の家」という本を読んだら、まさにそこに書かれているのと寸分違わない家であった。
家の表側(家号も「表おもて」であった)は、10枚くらいの雨戸にふさがるが、
その左手に小用のトイレがあり、その奥に風呂があった。
風呂の焚口の横が「玄関」で、
玄関の入口の横に牛小屋があった。
玄関を入るためにはそこを抜けねばならないが、いつも牛が首をだしていた。
牛は攻撃の構え(今から思えば歓迎の仕草であったかも)を見せるので、
私はいつも雨戸側、そこは二部屋の前に縁側があったが、そこから出入りしていた。
背が低かったので、縁側へよじ登るのも苦労したが、玄関経由よりは安全であった。
岡山の農家は、その二部屋の奥にもう二部屋がある4部屋が基準であった。
しかし玄関を入った土間は広く大きなかまどが2つか3つあった。
土間と2つの部屋の間に板の間があってそこは畳ではなく、蓆が敷いてあった。
町内で突然姿を現した「旧家」。
家と道路の間は塀で覆われていたのか、さらに別の家が建っていたのか思い出せないが、
ともかく家の道路側が突然空き地となって姿を現したので、その奥に建っていた家が見えるようになった。この家も解体される運命にあるようである。
昭和も1ケタ時代の農家のように見える。
↑この程度の古さならまだ何軒か町内に残っている。
↑私にとってはこれもまた昭和の風景である。
当時は、「夏水仙」と呼んでいた。舗装されていない長屋の玄関前にはほとんど管理されていない玉すだれが咲いていた。
↓平成を代表する路傍の花河べりにも群生している。いっぱい実をつけるからだろう。
ご近所、平成の風景
尼崎市内でこんな車を見るのも平成的かも
仙人草
母の里での屋根の葺き替え行事のことを思い出したが、それが結局、この家の最後の葺き替えとなった。
(昨日「締切時間までに」書ききれなかったので、以下は昨日の続編である。)
10年ほど前に、
茅葺屋根の葺き替えの思い出を書いている丹波あたりの人の文章に出会ったが、
それによると、毎年毎年、夏になると山へ出て茅を刈り、そのままその近くに寝かしておいて、
暮れになるとそれを束ねて家に持ち帰り、中2階の納屋に積み上げ、それを20年繰り返すと
葺き替え用の茅が揃い、それを利用して屋根の葺き替えをするとのことであった。
私の記憶では、美作の農家の屋根は茅ではなく藁であったように思う。その藁は、やはり1年分の米の収穫では足らなかったのであろうか。
牛小屋の上は納屋であったが、伯父はそこに、ひと冬分の牛1頭用の干し草を丸めて引き上げていた。だから夏の間、朝飯前であったか後であったかは分からないが、
荷車いっぱいの刈り草をあつめてきて10枚雨戸の前の庭に撒いていた。
夕方になるとかんばしい香りが辺り一面にしていた。
前庭の一角は畑であった。そこに綿が植えられていた記憶がある。
じゃがいもを植え付けていた記憶もある。
もっと頻繁には冬瓜(夕顔)が植えられていた記憶がある。
もっと幼いころの思い出であるが、4室ある畳部屋の一つで養蚕をやっていたようにも思う。
そのための部屋の天井の一部の造作が後々までも残っていたように思う。
その造作が何であったかは思いだせない。
従兄は高校になると、庭の一角にある物置き小屋(今、思うに物置小屋とはいえど
ガラスが入った瓦葺の2階建ての家であった)の2階の部屋を居住用に使っていたように思う。
「岡山の家」、この本はもう私の机の周辺から無くなっているが、の解説では、
養蚕に使っていた部屋は、もともとは板の間で、夫婦が向い合わせに座って、
真中に豆(多分大豆)の木を置いて棒で叩いて豆を取り出す作業場であったとか。
毎晩、夜業として、輪切りにした瓜を専用の刃物で剥きとってゆく仕事は祖父の仕事であった。
伯父は別のところで草鞋などを編んでいた。そういえば私のいなかでの履物はわらじであった。私用のものだけには、鼻緒の部分に古布が巻かれていた。
剥かれた冬瓜は翌朝、これまた前庭で、竿に吊るされる。毎日毎日大量の干瓢ができあがる。
すべてが自家消費用ではなかったはずである。
しかし勤労者の月給が1万円以下の時代だから、1晩の仕事の成果を売りに出しても100円にならなかったかも。
昭和40年頃には、この藁屋根を覆うように、トタン板が巻かれ、ついに瓦屋根に変わることなく
崩壊寸前の様相を示し始めた。その頃はほとんど美作へ帰ることはなかった。
伯父亡きあとは、大阪で働いていた従兄が高速道路を利用して毎月帰省、草刈りをしていた。
電話代や税の支払いはどうなっているのだと尋ねたら、銀行落としであるが、固定資産税は2万ほどであるとのことであった。都市近郊農業用地の宅地並み課税などが話題になっていた時期だったが、所有する田畑や宅地の平米数の単純比較だと、美作の農家は都市住民の10分の1どころか20分の1ほどの固定資産税負担もないようである。
かくいう私は、父が祖父から継承した農地と宅地、その大部分は国道拡幅時に収用されたが、50坪ほどだけが国道沿いに残った。
その土地をつい最近までは名義変更をすることもなく相続していたらしいが、その土地は免税(課税対象外)であった。
センニンソウ、今が花時である。
その近くに神社。西富松スサノオ神社。尼崎市内には、スサノオ神社(スサノオの漢字表記は須佐(之)男であったり素盞嗚だったりするが)は、15社以上ある。無人のようである。管理は富松神社がやっているのか?
庭の砂には箒目が残っていたので、毎日誰かが清掃しているのであろう。
灯篭や狛犬には年号等が記載されているようにみえるが、年号や年数や干支に関する文字は一字も判読できなかった。
9月1日には「だんご祭」があるそうである。
団子祭の謂れ:(神社案内より)
「茨木童子」という鬼が富松の里で生まれたと伝えられています。昔、富松の里の村人夫婦に子どもが生まれました。
ところがこの赤ん坊は生まれたばかりなのに毛は生え揃い、目は鋭く光り、口には牙までありました。両親はこの異様な姿を恐れて、考え悩んだ末、大阪の茨木で子どもを捨てることにしました。この子を拾い育てたのが京都で大暴れしていた鬼「酒吞童子」で、我が子のように育て、一番の子分にしました。ある時、茨木童子は故郷の両親が病気にふせっていることを知り、見舞いに富松の里へ戻りました。両親は驚きのあまり病気も治り「よく帰ってきてくれた」と童子を引き入れダンゴを食べさせてもてなしました。(1701年『摂陽群談』より)
綿の花
門の前に出している鉢の綿の木。
奥に見えるのは、桃吹く状態に成る寸前の実。
鉢の土近くに見えるのは、まだ吹いていない綿の実。
同じ鉢に、同じ時期に直播きしたのに、成長にかなり差が出ている。
↓こちらの4株は実付きが十分ではないが、ほぼすべて桃吹く状態になっている。
今日も別の場所でセンニンソウを見た。
同じ場所(池の傍) キクイモ
夕刻の江坂駅前
大阪地下鉄御堂筋線の北端の駅
電車は千里中央駅ターミナルまで運転されるが、その区間は北大阪急行線
義理の従妹の通夜に参列。
享年58歳
ワイフの父の弟の娘さん。お兄さんがいるが山形住まい。久しぶりに会ったら、この二人の父親そっくりの容貌になっていた。62歳。
ワイフの父親とその弟の間に娘さんが一人いるが、3人ともすでに鬼籍に。
その娘さんの子供の一人が、私のご近所(ほとんで目の前)に住んでいるが、
帰りはこの方とご一緒だった。私の家から50歩ほどのところ。
遺跡
尼崎市の文化財・遺跡のうち、市の公式案内板が設置されているものの分布図である。
↑中央部分のものは、この3年ほどで一度は訪れているが、
武庫川東岸の北の部分は訪ねたことは過去にあっても案内板などを確認していない。
今日見た花
キンミズヒキ
接写はすべて失敗
ウド
ヤブカラシ↑の花も見える。
↓パンパスグラス
高速道路 宝塚から西宮北まですいすい。10分ちょっと。
ただし高速に乗るや否や、上り線が見える場所では大型トラックなどが数珠つなぎ、西宮北までびっしり。
道路状況表示では、西宮=宝塚 12キロ停滞、所要50分。
そこで帰りは、高速に入るまでに寄り道。ワイフは鋏を取り出し、野の百合採取。
と書いて百合の画像がないのに気付き、急いで一枚。
そこでまた寄り道 淡河百合で検索。画像を一枚借用。
「淡河(おうご)の百合」
の中のQ&A
しかし、淡河ユリ部会では「ちゃんと最後まで花が開くユリ」を目指して育種を重ねてきました。したがって、つぼみだけでなく、純白でスマートな花を十分に活かした豪華な花束やフラワーアレンジメント、会場花、ウェディングブーケなどの幅広い用途が期待できます。
萩の花も葛の花も、花の先だけ見ただけでは区別がむつかしい。
あちこちで時間をつぶしたけれど、高速へ戻ってみると8キロ30分の停滞。
本日は往路50分、帰路1時間半。
大型トラックが小型車の背後を潰していた。
現場検証がまだ終わっていなかった。
この用件があったので、従妹の本葬には参加できなかった。
フリン神父
ロバート・M・フリン(Robert M.Flynn、1920年3月12日 - 2009年2月7日)は、宗教家・教育者。プログレス・イン・イングリッシュなどを中心とした著作活動[1]や教育活動を行っていた。
1920年、ニューヨーク市生まれ。カトリック、イエズス会の私立高等学校(4年制)を卒業後、1937年8月14日イエズス会の修道会に入る、フォーダム大学(ニューヨーク市、2年間、文学専攻)、セントルイス大学(ミズーリ州、3年間、哲学専攻)で学ぶ[2]。卒業後、ニューヨークの高校で英語、ラテン語、ギリシャ語、宗教を3年間教え、ベルギーとドイツに留学して神学を勉強する[2]。1950年8月24日、Eegenhoven(ベルギー)にて司祭叙階[2]。
1952年10月29日、神父として来日。イエズス会のキリスト教主義学校(ミッション・スクール)である六甲学院中学校・高等学校(神戸)や泰星中学校・高等学校(福岡)で35年間英語を教え、その指導実践のなかから、オーラル・コグニティブ・アプローチに基づいた教科書『プログレス・イン・イングリッシュ』全6巻を著す[2]。高校生・中学生対象の英語によるスピーチのカリスマ指導者であり、その成果は関係者の間では有名。ネイティブによる発音とユニークな内容を盛り込んだスピーチで、全国レベルから地方レベルに及ぶ数々の英語弁論大会で、同高校生・中学生に多くの賞を受賞させた。1988年より津和野カトリック教会にて主任司祭を努めた後[2]、萩、山口の教会にて司牧。六甲学院高等学校のバスケットボール部のOB会は氏の名前を付け「フリン杯」と呼ばれている。晩年は東京都練馬区上石神井のイエズス会ロヨラハウスにて静養していた。
ウィキペディアからの引用。
私の恩師である。洗礼もこの神父から受けた。
中学1年から高校3年まで、英作文の授業を受けた。週3回だったか4回だったか、
英語の授業は週7時間あった。もう一人は日本人教師で中学3年までと高校3年まで2人で担当していた。
まさかフリン神父がウィキペディアに取り上げられているとは思わなかったので、
これまでこの解説を読んだことはなかった。
結婚してから一度家に招いたことがある。
六甲の修道院から私の自宅までオートバイでやってきた。
そのオートバイに何度か乗せてもらったことがある。まるでスピード狂のごとき運転であった。
かなりの長距離でもオートバイで移動していた。
この解説者は、多分、私と同じ学校の卒業生だと思うが、
私より二順位若い人であろう。定年年齢に達してから九州の学校の英語教育を立て直し、たちまちに英語の名門校にしたことは噂で聞いたことがある。
津和野教会の主任神父となって、津和野を一大巡礼地にしたてた。
摘発された隠れキリシタンの殉教の地を整備していた頃、一度津和野を訪問した。その折りのツーショットを私は今でも部屋に飾っている。
好感がもてる句が多い。
バスクはイエズス会創設者(ロヨラ)やザビエルの故郷である。
↑晩夏のアカシア通り。この地区で派出所のオートバイがよく止まっているのを見かけた。
最近、線路際の置物(鉢ものなど)が自宅前へ移された。
公道としての整備が求められていたのであろう。
駐車も禁止されたようである。
一〇階建てマンションは建築期間が半年延長されている。
遠景・近景を機会あるごとに撮っている。
ケイトウ
夕刊の話題:
日本人がもっとも多く食べる野菜は
だいこん、たまねぎ、キャベツだそうである。
レタスは案外順位が低く10位。
大豆は野菜かどうかしらないが、加工品を含めると大根より多いような気もする。
納豆、豆腐、薄揚げ・・・。
ハクサイ、にんじん、ホウレンソウ、トマト、キュウリ、カボチャが4位から9位に位置している。
厚生労働省の初めての調査らしく、2012年11月のある一日、32、000人を対象にしたものである。
何故11月を対象月にしたのか?
8月なら我が家はほぼ毎日なすびを食っている。
わが家では、ネギも必需品である。
ソーメンだろうが、蕎麦だろうが、うどんだろうが麺類には刻みネギは必需である。
納豆にもねぎをたっぷり使う。蕎麦の場合にはおろしダイコンと長いも
スパゲティなら玉ねぎ、ピッツアならピーマン
香辛料になるかもしれないが、パスタ料理にはニンニクもよく使う。
今日の我が家の夕食はさんまとミンチ肉のレタス巻き、味噌汁、漬物
さんまにはおろしだいこんたっぷり。
我が家のケイトウ。
プランターごとに肥料などを変えている。
マグアンプKなどの化成肥料主体のものと、油粕などの有機肥料中心のもの、
兼用したものなど、
実験をするのはいいが、どのプランターがどの肥料を多めに配したかを記録していないので、実験成果を報告できない。
同じ種、同じプランターを利用して育てた苗ながら
プランターごとに花付きや「身長」などに目に見える差があるのは確か。
「葱」で検索 690句
最初の100句より
集中1句選
葱坊主埴輪の馬の出でて来よ 角川春樹
パセリ
玄関前の塀の上で、パセリを2株だけ育てている。
まあまあ役立ったようだ。9月になって新芽が次々に出てきた。
俳句を検索するまえに、漢字優先主義の俳句なので、漢字表記があるかどうか調べた。無いようである。
和蘭芹とはさすがに書かないだろうと思う。
パセリ(parsley、学名: Petroselinum crispum)は、セリ科の1種の二年草。野菜として食用にされる。和名はオランダゼリ(和蘭芹)。フランス語名はペルシ (persil)、漢名は香芹(こうきん、拼音: xiāngqín シアンチン)
品種改良によって葉が縮れているものがよく使われ、カーリーパセリ (curly parsley) 、またはモスカール種とも呼ばれる。イタリアンパセリ(学名:P. neapolitanum、プレーンリーブド種とも呼ぶ)は同属別種。中国パセリ(コリアンダー、学名:Coriandrum sativum)は同科別属。
パセリなら鷹羽狩行の句が有名。
検索したら何度も登場
昨日は通院日。
郷土史研究会会長のTさんとばったり出会った。
Tさんは通院4年目だとか。私は1年半。Tさんは主に午前の診察時間を利用なさっていたらしいが私は水曜日の夕刻と決めている。しかも目下は4週間に一度、処方箋を書いてもらうだけの
30秒ほどの診察(問診)だけである。
Tさんに出会うと話題にしたいことがいっぱいある。
今回はこの標石の文字を話題にした。
左 西之 となっている。セメントで隠されたもう一字は「宮」であると容易に想像がつく。
問題は右 「昆陽中」と読めるがあと1字ないし2字が隠れて読めない。
どんな標識でも話題にすれば、その所在をすぐに
指摘できるTさんだから、塚口御坊東門跡近くの道しるべといえば、
もちろんすぐ↑のことを指していること、左は宮の字が隠れていることはその通りであったが、
「中」の下の文字についての質問は初めてであったらしく、調べてみますということであった。
それとは別に、こういった標識の所在とその寸法を一覧にした資料があるらしく
次の機会に見せていただくことになった。
・
ピオーネ
その壱
道しるべの文字。
自転車に乗ったTさんが、冊子を一部届けて下さった。
左 西之 右 昆陽中 と読める案内の残る(埋没している)文字が何かの件。
↑道標は、中世(16世紀以前)塚口城(塚口御坊)東門(跡)を東から入った突き当りの右手に建っている。
ただしこの道標がいつ設置されたかは不明。
自然石であることから江戸以前と思いたい。
↑の画像の左手の白い鉄柵は2重濠の跡である。
もう一つ外側の堀跡↓
届けてもらった冊子
その裏表紙 まさに上に紹介した道標石そのものである。
平成23年に、郷土史研究会は創立50年になった。その記念刊行物である。
中を読むと、Tさんでは都合が悪い。現の郷土史研究会の会長さんと紹介してきたが
田中さんと呼ばないと後の話がしにくい。
その22ページ
石の表示は
昆陽中の次の一字は「山」であった。
この地点を通る旅人の多くは、昆陽寺か中山寺へ参拝する者か、あるいはそこを経由して有馬へ、あるいはさらにその先へ行く人であった。
ついでにJR中山寺駅のご案内(ウィキペディア)
中山寺駅(なかやまでらえき)は、兵庫県宝塚市中筋四丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線の駅である。
アーバンネットワークおよび「JR宝塚線」の愛称区間に含まれている。
概要
宝塚駅が管理し、ジェイアール西日本交通サービスが駅業務を行う業務委託駅。ICOCA(および相互利用対象のICカード)が利用可能。
駅名の通り、JRにおける中山寺への玄関口だが、当駅からは1km以上離れている(徒歩で約15分)。同様に最寄駅となる阪急宝塚本線の中山観音駅や山本駅への対抗や乗降客の増加により、2003年12月1日からは快速の停車駅に格上げされた。
かつての駅名は「中山」だったが、国有化後、総武線の「下総中山駅」や横浜線の「中山駅」と区別するため、現在の「中山寺」に改称された。
歴史
国鉄時代は早くから無人駅化されていた。この頃は跨線橋がなく、下り(福知山)方面の乗降客は線路を横断して駅舎に向かう必要があった。国道176号を挟み、駅北側の山手を走る阪急宝塚本線沿線に比べ、田畑が一面に広がり、駅前も寂しい状態だった。
1980年12月の複線化と1981年4月の電化に合わせ、駅舎は橋上化されたが、相変わらず駅は無人なままで、周囲も大きく変化しなかった。しかし、JR民営化後に行われた宝塚市の土地区画整理事業により、バスやタクシーが乗り入れる駅南側広場や地下自転車駐車場、商業施設が整備された。
その結果、住宅開発が急速に行われて乗降客が著しく増え、駅員配置化や快速が停車するまでになった。
- 1897年(明治30年)12月27日 - 阪鶴鉄道の池田駅(現・川西池田駅) - 宝塚駅間延伸により中山駅として開業。旅客・貨物取扱開始。
- 1907年(明治40年)8月1日 - 阪鶴鉄道国有化。国有鉄道の駅となる。
- 1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。阪鶴線所属駅となる。
- 1912年(明治45年)3月1日 - 線路名称改定。阪鶴線の福知山駅以南が福知山線に改称し、当駅もその所属となる。
- 1915年(大正4年)9月11日 - 中山寺駅に改称。
- 1971年(昭和56年)3月1日 - 貨物取扱廃止。
- 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
- 2003年(平成15年)
- 2005年(平成17年)
- 4月25日 - JR福知山線脱線事故の影響で列車の発着が無くなる(みどりの窓口のみ営業)。
- 6月19日 - 福知山線が復旧。55日ぶりに営業を再開。
- 2012年(平成24年)
- 8月1日 - 駅北側ロータリー整備に伴い、阪急バスの乗り入れが開始される。
現在の一日の乗客は9000人である。
道標は自然石(花崗岩)であるが、市内では唯一の自然石道標だそうである。
左 西宮 と記されているが、ここはやはり「西之宮」と記すべきであろう。
それよりも石の側面にも、北から神崎・大阪を目指す人のための案内文字があった。
まったく気付かなかった。
北側から見れば左手が、大阪(方面)である。
神戸の御影の方で、「大阪」と記した標石があるが、
その近くの案内に「大阪」と表示されているのでかなり新しいものではないかと書かれていた。
この道標は「大坂」と読める。↓ 「坂」の字は半分以上埋没しているが。
冊子を読んで、今日改めて撮影した。
冊子本文には、地元の人はこの地点を「花折れ」と呼んでいるとか。
「花」は「端」で、ワードでも「はな」の選択肢の中に入っている。
「はなからそんなことを言われても・・・」の「はな」は「初めから」の略式表現だと思っていたが
端からだったのだ。この場合の「端」は「最初」の意である。
花折れに道標ひとつ葛饅頭
国語辞典広辞苑をひいたら、「聞いたはなから忘れる」とか「寝入りばな」などの用例が出ていた。
この冊子は、書き下ろしではなく、1980年に出版された「尼崎のみちしるべ」の改訂版である。
1980年本は、24基を収録、新版は28基を収録している。内23基は再録である。
田中さんの姓を出したかったのは、旧版の巻頭論考の執筆者が田中大庄次郎さんで、
その田中さんは、15年間郷土史研究会の会長を務められたが、その方の屋敷が江戸時代の町屋の様相を(最近改修されたらしいが)残していることが、最初の道標(神崎の辻道標)案内とともにわざわざ記されているからである。現会長と元会長が同姓であることが気にかかる。
佐藤鈴木田中さんたち梅日和
これは私の旧作。田中姓はありふれているので偶然の一致かも。
その弐
ふるさと納税の礼品 ピオーネ到着
↑じ~じ農園産ではなく、宇野農園産(ここは野菜が中心か?)でもなく、
なかむらファーム産であった。馬形にあるよう。
よく利用する作州武蔵ホテルのすぐ前である。
母方の祖母の実家が大町であるので、この辺りは地名には若干詳しい。
次の機会に覗いてみたい。
↓HP掲載のファーム 後の山はどこだろう? 作州武蔵からは那岐山がよく見えるが・・。地理的には武蔵よりファームの方が那岐山に1キロほど近い。
40歳代の奥方が社長兼経理担当のようである。
その参
斜め向かいの家。同居していた息子さんの方が先に亡くなり、つい最近までは介護タクシーなどが止まっていたが、それもなくなり、今は空家である。
その家のブロック塀のブロックの一つが着脱可能になっているのを初めて知った。
それを外している検針員の姿をみた。たぶん水道メーターがそこにあるのだろう。
わが家の場合は、ガスメーターはブロック塀に覗き穴があって、そこから覗くシステム。
電気メーターは真弓の木の枝を分けて単眼鏡の様なもので数値を見ている。
水道メーターはこれまたブロック塀にへこみがあってそこを覗くことになる。
衛星放送用アンテナは、屋根の上ではなく裏庭の塀の上に取り付けたが1か月もしない間に嗅ぎつけられた。
今日もいろいろ花や草の名を教わった。
いやに手入れの悪い実田
知らない草だったので、花図鑑へ投稿。10分ほどでタカサブロウ(高三郎)という名を教えてもらった。しかし画像検索していると、アメリカタカサブロウのようだ。細い葉が特徴。
・
ルリヤナギ
こんな店で昼食
カフェテリア方式。大阪のビジネス街にも昼食用の店としてよくある雰囲気。
ごはんとみそ汁とあと一品という客が多かった。
すぐ道を隔てて
こんな店も。こちらはテイクアウト。
幹線の南北道の傍である。
そこを西へ向かうと、旧村地域。
しかしこの辺り、景観保存住宅が並ぶ。
保護樹木も
尼崎藩の家老クラスでもこの規模の門を構えていたかどうかあやしい。
「登録有形文化財」の標識(あまりよく写っていないが)。この標識を尼崎市内で見るのは初めてである。
この邸宅より大きな家の外回りにセンニンソウが咲いている。この前に来た時は、3分、5分の咲であったが、今日は。
他にもその付近で見た花
コウシュンカズラ
ルリヤナギ
2メートルほどに育つナス科の低木らしい。
粉末にして成鶏用飼料として販売されている(ラシイ)。
ルリヤナギは瑠璃柳と表記できるが、コンシュンカズラはウィキペディアの解説がなく、
漢字表記が分からない。私にはこの樹木、蔓には見えない。
市内の神社が66社、標石が28基 見尽くすまでには時間がかかりそう。
66社のうち、何社訪問済かまだ数えていないが、
今日も初訪問1社。参拝とか詣とはいえぬ所作ゆえ。
武庫庄須佐男神社
↑石灯篭には天保11年(1840年)と刻んであった。
この神社は旧の屋敷街からは少し離れている。
これより北へ行くと、お隣の家は伊丹市といったところが多い。
同じ路面に尼崎市と伊丹市の下水蓋が並んでいる地区である。
スワンと鴨の図柄は伊丹市 その向こうに見えるのは尼崎市のもの。
神社を一つ見つけたと思ったが、これも伊丹市領内であった。
瑠璃で検索。
もちろん瑠璃柳の例句があるとは思っていない。
開発
最寄駅の駅前風景
一人はJR駅前の大マンションのモデルルームを案内し、
もう一人右側の緑のシャツの人は10階建て48戸のマンションの案内ボードを持っている。
これは完成予想図
8.4ha 全体をzutto city と名づけ、現在入居募集中なのが、プラウドシティ塚口なのであろう。
駅から徒歩2分となっている。
↑駅の2階改札口を出て、回廊つたいにこの地点へ(雨にぬれることなく)来れるのであろう。
新しい駅前広場ができる。
今は撮影地点で、スロープか階段を伝って線路わきの道路へつながっている。
前方に建つ3棟のマンションも、そこにあった工場跡地に建ったものである。
3年くらい前か?
建設現場は森永製菓の一番最初の工場跡地。
森永は工場の一角に配送センターのような施設を残したようだ。
駐車場には、全国各地の県名を記した、森永マークの車が止まっていた。
ここから市の緑化植物園までは、JR路線を潜る地下道を通ればすぐである。
アコウの実
赤榕の木はここ以外では見たことがない
かなりの古木である。
地面にいっぱい落ちている。食べられるとのことであったが拾う気は起こらない。
いちじくとおなじく実の中で花が咲くラシイ。
シシウド
アワモリハッカ
ミツマタ
ゼフィランサス
芦原の影から一輪だけ
三椏と言えば
三椏の花三三が九三三が九 稲畑汀子
が有名。
他にも、
いま花壇に植えられているのはペンタス
ペンタスも10年前には一般的な花壇の花ではなかったように思う。
よって歳時記にも登載されていないと思う。
66社
コウシュンカズラは、恒春葛と表記できるようである。
熱帯性植物である。蔓を伸ばして10メートルにもなると書かれていた。
見たものは鉢植えで、寒さに弱いので、冬期は屋内へ取り込むのであろう。
尼崎66社のうち
訪問済みのもの
一覧表
に掲載されている順番に(数字はもっとも最近に訪ねた年月日)
西本町貴布禰神社
尼崎戎神社 2015. 9. 7
難波熊野神社
大物主神社
櫻井神社 2015.9. 7
西川八幡神社 2014. 1.28
久久知須佐男神社
伊居太神社
伊佐具神社
中食満稲荷神社
田能春日神社
富松神社
時友神社
友行須佐之男神社
西富松須佐之男神社 2015. 8. 29
武庫庄須佐之男神社 2015.9. 5
生島神社
塚口神社
尾浜八幡神社
琴浦神社
あらら!、たったの19社である。(今日新たに白井神社が加わり20社となった)この19社については、直近3年以内のこのブログで画像紹介している。とりわけ今年は多いはず。17社位は、取り上げていると思う。
白井神社は初めての訪問。
この神社境内に、道標石が2つあるというので、訪ねる気になった。
社殿に向かって右側に3基並んでいる。そのうちの2つが道標である。
中央のものの記載字
「右阿の村はがみ
すぐ伊丹中山 道」
右側は読みにくい。阿の村とは、穴太(あのうと読む)村、はがみとは「歯神」のこと。歯神とは歯(痛)の神様の意
いずれも『歩いて訪ねてみちしるべ -尼崎の道標』というパンフの26~7ぺージに詳しい。
今は東園田町4丁目になっているところが旧の穴太村である。
現在の東園田町5丁目は昔の法界寺村で、その境界あたりに建っていたものとパンフの執筆者は推測している。
この道標については、旧版には記載がないらしい。
境内に他の石といっしょに積み上げられていたが、もう一つのもの(↑の画像の右側のもの)が持ち込まれた(昭和62年)ときに、今の形に並べ建てたということである。
この石の側面には、寄贈者の名が記されている。
「以他力 大坂 むしろや 新助 建立」
背面
嘉永5壬子年(1852)11月吉日
もう一つの石
「右 は津と里池田
左 穴太伊丹中山 道」
は津と里 は私には読めない。服部(天神)である。
左 はがミさん 白井神社 となっている。これは古い道標が壊れたので、新しく建てられたものらしい。大正5年の建立である。鋼亜鉛製錬販売 岡本関三商店 が施主である。
パンフに掲載のものは3面が読めるが、今はアベリアが茂って読みにくい(撮りにくい)。
染色展
能宗京子さん染色展 詳細は左記をクリック。 確か、4人のお子さんを育てられた。一人息子さんは、これまた、確か 最近作 ベトナム 私が惹かれたのは、この絵↓の緑の濃淡と、若い方の修行僧の姿勢 ↑照明の関係でどちらから写してもややハレーション この会場へは年数回、この会場周辺には月数回やってくる。
豊中市在住の方が詳しく紹介なさっている。
この方はイタリア旅行の折に能宗さんご夫婦とご一緒なさったよう。
そういえば、今日見た35の作品の中に、イタリアのものはなかった
ような気がする。カタログ等を見ないで、思い出すままに
スペイン、ベトナム、タイ、トルコ、フランス
例句は2句しかなかったが、
2句ともその作意が理解不可能。
芹澤銈介と秋櫻子は友人であったのか?朝顔色を出そうとして必死になっている友人の横顔か?
私の中高(校)の後輩のはず。
画像いくつか。多数紹介のつもりが、上記の豊中さんのブログを覗いてしまったので。
芹沢さんが青に強かったとすれば、能宗さんは(赤)茶色。
お嬢さんが「店」番
初雪草
9月8日 寺町に隣接している尼信(尼崎信用金庫)会館で染色展を見た後、バスに乗って「近松公園」駅下車、ワイフの所用に付き合った。
この地区は園田地区である。
伊古太神社のすぐ近くに、園田公民館小園分館があり、そこへ部屋の予約に出かけるというので、私は伊古太神社境内を散策。
傘をさしてカメラを扱っていると、人が出てきて(宮司さんかも分からないが下着姿だったのでわからない)「伊古太神社御由緒略記」なるものを渡してくださった。
尼崎市教育委員会の案内掲示は、見ればすべて写すことにしている。
鳥居は安永7年戊戌の正月の建立である。この神社も阪神淡路地震で大きな被害を受けたようである。
あつては森であったよう。
公民館の植え込みで見た花
背後の赤い花はポーチュラカ。
白い花は、ユーフォルビア・マルギナタ(初雪草)
数日来、自信のないものは、「みんなの花図鑑」に投稿して名前を確認している。
その前の日も園田地区を歩いた。
9月7日は阪急電車「園田」駅で下車、まっすぐに(塚口駅同様南へ向いてと思っていた)
藻川の土手へ登る。藻川が右から左手へ流れている。右手に山並みが見える。左手はるかに大阪梅田駅前のグラン フロンドビルが見える。
この地点では、藻川は北から南、ないし南東に流れ猪名川との合流を目指しているはず。
園田駅の手前あたりから向きを西向きに変えるのであるが、園田駅はまだかなり北向きに設置されている。
河べりで見た草・花・樹・魚
昼顔
露草 これまた犬フグリ同様 準絶滅危惧イエローカードかも
(ではなさそうである)。
ウィキペディアの解説(書きかけで編集協力が求められている)
ツユクサ(露草、学名: Commelina communis)は、ツユクサ科ツユクサ属の一年生植物。畑の隅や道端で見かけることの多い雑草である。
朝咲いた花が昼しぼむことが朝露を連想させることから「露草」と名付けられたという説がある。英名の Dayflower も「その日のうちにしぼむ花」という意味を持つ。また「鴨跖草(つゆくさ、おうせきそう)」の字があてられることもある。ツユクサは古くは「つきくさ」と呼ばれており、上述した説以外に、この「つきくさ」が転じてツユクサになったという説もある。「つきくさ」は月草とも着草とも表され、元々は花弁の青い色が「着」きやすいことから「着き草」と呼ばれていたものと言われているが、『万葉集』などの和歌集では「月草」の表記が多い。この他、その特徴的な花の形から、蛍草(ほたるぐさ)や帽子花(ぼうしばな)、花の鮮やかな青色から青花(あおばな)などの別名がある。
形態・生態
高さは15~50cmで直立することはなく、茎は地面を這う。
6 - 9月にかけて1.5 - 2cmほどの青い花をつける。花弁は3枚あり、上部の2枚は特徴的で青く大きいが、下部の1枚は白くて小さく目立たない[3]。雌しべが1本、雄しべが6本で成り立っている。アサガオなどと同様、早朝に咲いた花は午後にはしぼんでしまう。
また、俳句においては、露草、月草、蛍草などの名で、秋の季語とされる。
例句も多い
月草
芙蓉
背景はオオアレチノギク
なまず
大雨時に迷い出たのであろう。
鯰がかくも身近な存在であるのを知ったのは、最近のことである。
河岸の道を歩いていたら、土手道へもどる階段がなかなかみつからず、なだらなか石塀をよじ登ることになった。
住宅地へたどり着いたら東園田町8丁目。
そこを抜けると目の前に猪名川の土手。
また土手に登って今度は階段が設置されているところを見つけ、
8丁目、7丁目、6丁目、5丁目、4丁目と人に道を聞きながら園田駅前へたどり着いた。
ガザニア
花ミズキ
人口動態
2015年6月7月8月の尼崎市の所帯数 と総人口の推移表を覗いた。
(エクセル表をコピー貼り付けしたらこの画面では制御記号がいっぱい現れたので削除)
所帯数は微増しているのに人口は減少している。
一軒の家の住人が一人になったので、家を出ていた息子(娘)夫婦が親の家へ戻り家計を統合すれば所帯数は減少する。それよりは、老人が家を出て介護付き住宅のようなところへ「移住」し、所帯数が増えるケースの方が多いということであろうか?
散歩途上の観察では、80坪~100坪の敷地に建っていた(昭和様式の)家を壊し、2軒続きの(平成20年代様式の)家を新築して老夫婦と息子(娘)夫婦が所帯を分けるケースが目立つ。
今年8月現在、所帯数は前の月より22所帯増えたが、人口はちょうど100人減少、44万6千人である。市域は50.2㎢
人口密度は㎢あたり、8873。先月より2減っている。100÷50=2
ちなみに(以下の数字は2015年5月時点の数字)
津山市の面積は尼崎の10倍以上、506㎢ 人口は、102,758
人口密度203
美作市のそれは、429㎢、28,266人 人口密度65.8
(2015年8月1日現在では人口28,137)
津山市と美作市合計では、面積は尼崎のほぼ9倍、人口は3分の1以下の13万5千
尼崎市と美作市との比較では、美作市の市域は尼崎の8.5倍、人口は15分の1
美作市の北で孤立する西粟倉村と合わせると市域はちょうど尼崎市の10倍になり、面積ではわずかに津山市をこえる。(しかもこの村は人口増加中である。)
(津山と美作の数字はウィキペディア、尼崎の数字は市のHP添付のエクセル表から)。
ちなみに姫路市は人口533,165
面積534,33平方キロメートル 人口密度998
倉敷市は人口478,864 面積355.63 人口密度1,350
倉敷市は中国地方第3の大都市だそうである。
昨年のブログを覗いたら美作へは9月10日前後に出かけている。
曼珠沙華がまだ十分には咲いていなかった。
家系譜作成開始直後は頻繁に美作詣でを繰り返していた。1995年以後の数年である。
やがて隔月行になり、今では年3~4回である。
来週あたり出かけたいと思っている。
そこで美作市についての学習と復習を開始。
句会参加 (神戸三宮勤労会館)
桃吹くや足袋を繕う祖母の皺
出席者の誰も「桃吹く」を知らなかった。
兼題「谷」(次回は「米」)
谷川の水掬う前に灸花
火事跡に折られ伐られて桐育つ
市内の神社66社探訪に道標28基探索が「目標」に加わり、散歩の範囲が、電車バス利用となり大幅に広がった。新しい花、未知の花は「花図鑑」投稿で一発解決。しかし苦労して「割り出した」名前と違って忘れる速度も早い。
ルエリアという名前を知ったが、2種教わったものの、ルエリア・○○の部分はすぐ忘れる。
ルエリア・ツベローサ どちらも今ではよく見かける。あるところでは野草化していた。
最近見た道標。ひとつは何度も見ていたが道標とは気付かなかった。
寺町 如来院の門前
「左り 第4番如来院 」
国道43号線の拡幅工事時にここへ移設された。
左も右もない、まん前の門前へ移設された。
もうひとつ
↑この新しい石碑は何度か紹介しているが、
その横に、道標があるというので探した、
カンナが邪魔して案内板が見えなかった
金網の中へは入れないので、カメラを持ち上げていいかげんに撮影
3面に
「左 尼崎 大坂 道」
「右 西宮 兵庫 道」
「天保7年申年正月 世話人 神楽音五兵衛」
と記されいる由。
他にも廣済寺を案内する道標
JR塚口駅西口階段下の植え込みの中に移設された道標
尾浜の八幡宮の中の名月姫遺跡などは
このブログで複数回紹介している。
最新画像をを得た折にもう一度紹介予定。