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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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蓬川

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ブログのデザインを変えたら濃い紫の地のため色文字にしないと
字が消えてしまう。デ、また変更。

最寄駅の駅前から市バスに乗車。やたら○○小学校前という停留所がある。
人口急増期に市の辺境地区に多くの学校が新設されたのであろう。

私の出身小学校は、伊丹南小学校。伊丹駅前に伊丹小学校があるが、
児童数は2000人を超えていたと思う。まさにマンモス小学校。
伊丹南小学校は1クラス60人で3クラスだったと思う。???

「琴浦神社前」で下車。


琴浦神社(ことうらじんじゃ)は、兵庫県尼崎市琴浦町にある神社。祭神は嵯峨源氏の祖である源融である。

琴浦の地名は、この神社のある付近だけ小高くなっており、海岸の景色がよそより優れているという意味の異浦とも呼ばれていた。境内には、一等水準点(点名:10699 標高:0.2276m)がある。

琴浦通り(尼崎市道第133号線;旧国道・中国街道)に面し、南に向いて本殿が建てられている。祭神の源融は光源氏のモデルともいわれ、寛平年間(889年 - 898年)に京都六条の河原院(現在の渉成園)という邸宅を造営し、陸奥国塩釜の風景を模して庭園をつくり、この地より、毎日20石の汐水を汲んで運び、塩を焼かせたという伝承に基づいている。

なお、同じ尼崎市内にある潮江の素戔嗚神社も同様の由来を持つ。

また、境内には、毒蛇を防ぐという伝承のある白砂があり、遠くからも戴きに参拝する人があるほどであるという。

ウィキペディアの解説も市の教育委員会の説明も、神社の創設時期についての言及がない。

20石の潮水を毎日尼崎から京都まで運ばせたのであろうか?平安の時代に。1升瓶2000本分、1斗樽200個分、3トン近いものを。荷車に載せて前一人、後2人の男が運ぶとして、一台に300キロ分積み込むとして毎日30人くらいの労働力がいる。途中は船に乗せて淀川を遡るとしても。

この神社いつ創建されたか?献灯台に享和3年の年号が見える。
1803年である。まさかこれが創建年ではないだろう。

神社さんの方の説明では、「『攝陽群談』(1701年)には、「琴浦社武庫郡東新田村にあり。土俗の伝に云、源融公、此塩浜に潮を引き、なづけて琴浦の古跡となると云へり。引くと云いて弾ずるの縁に因る故なり。貞観年中に祀祭之融公の社とし、村民琴浦明神と称す。」とある」 という説明がある。貞観とは9世紀後半(859~875)の年号である。

どうも宮司は不住のようである。

現在の社殿は、昭和47年に完成したようである。土地の売却金3000万円を基金として。ということは現在の3倍くらいの広さがあったのであろう。

尼崎観光交流サイト「あまらぶ」

では、毎月30石(5.4トン)の海水を運ばせて、邸宅の池で海の魚を放ったという説明をしている。

この欄の執筆者は、海水の比重を1として計算している。30×1.8キロは
5.4だから。この文を見つける前に、私は海水の比重を1.2程度で計算。
毎日30石を、他の記述により20石に変更した上で樽じたいの重さを加えてみた。

毎日20石と毎月30石も大きな差ではある。

ここまで来たからには、尼崎市内を流れる蓬川(よもがわ)を覗いてみようとおもった。
そこで街角で見つけた自販機。
80円!
ビールも買える!(もちろんビールは80円ではないが。チュウハイなら110円!)

こんもりした森が見えたので、そこらあたりから蓬川公園が展開していると思って接近。
その道は中国街道

柵にかかっているのは、尼崎市制100周年を祝う小学生作成のポスター↑

なんとここは小学校

森に見えた。尼崎で一番古い小学校は開明小学校と思っていた。
柵越しに「つどいの森」という標示が見える。

設立は明治と思ったが、1953年に大庄小学校(1876年創立)から分離した学校で、その3年後には、さらに若葉小学校というのが校区を分離して設立され、今や元の大庄小学校への統合が提起されているとか。

ここであわててわが母校、伊丹南小学校の設立年を調べた。1945年9月に(敗戦の年に)伊丹小学校から分かれた(当初は伊丹小学校の分校)とのこと。

そういえば、小学校の正門に「国民学校」という「表札」がまだ残っていた。

成徳小学校を通り過ごすと蓬川に遭遇。

蓬川についてもウィキペディアの解説はあるが、簡単。

蓬川(よもがわ)は、兵庫県南東部を流れる河川二級水系の本流である。

尼崎市内のみを流れる。同じく尼崎市を流れる藻川(もがわ)と字面及び読みが似ているが、藻川は猪名川の分流で、園田地区など市北東部を流れる。


地理

尼崎市中部に発し、大庄地区を南流して大阪湾尼崎港)に注ぐ。上流部が不明瞭で、かつては大庄地区の浜田付近で海に注いでいたと言われる。現在は難波樋門(西難波町2丁目)から尼崎港までを蓬川と規定しており、樋門より上流部は浜田排水路、または浜田川と呼ぶ。河口付近は阪神工業地帯の一角を成す臨海工業地域。

尼崎市内だけで完結する川である。
両岸に広い緑地帯や公園を有している。
我が家の近くの公園の桜は、いまだ尼崎市の広報誌等で紹介されたことはないが、ここの桜は画像だけでは、何度もお目にかかっている。

北へ向かうと国道2号線

入江橋は大正期に架橋されている。立派な欄干あり。

↓遊水地なのかどうか?

国道2号線を越えて行くと堰がある。

そこからは川の名が変わる

向きを東に変えて歩くと、税務署の案内標識が目についた。
市役所の西・南の地区を歩いていることを確認。

昨日の続きを書く余裕なし。

いのこづちをたくさん見た。

猪子槌は季語ではないのか?例句なし。

槌だけで検索

鍛冶の桶屋のも師走かな 井上井月

大黒の小の塵も師走かな 加藤耕子

やきのふにたがふ秋の雲 松根東洋城

箔打の音止めば暮春かな 本多静江

未生以前のの音する朝の杉 鶴岡梨江子

あした葉や流人を打ちしの疵 殿村菟絲子

向うとる女房や初鞴 吉武月二郎

年神に樽の口ぬく小かな 其角

ぎざぎざの石山に五月来る 綿利信子

牧開く音雲に響かせて 橋本榮治

牧開く音雲に響かせて 橋本榮治 麦生

金剛のや吹革を祭りけり 安斎桜[カイ]子

生家には諭吉が母の砧 峠

やはらぎし面輪砧のを置く 夜半

見えてゐて砧ののあがりけり 青畝

鯊釣にのひゞきは佃かな 零余子

鮭を打つなりといふ汚れたり 蟹平

昼砧出てをりし山家かな 阿波野青畝

ふたたびのあがりをる砧かな 阿波野青畝

見えてゐて砧ののあがりけり 阿波野青畝

沙魚釣にのひゞきは佃かな 長谷川零余子

手擦れせる木大事に鉾を組む 西村和子 かりそめならず

やはらぎし面輪砧のを置く 後藤夜半

てらてらとして手に重き砧 下村梅子

見えてゐて砧ののあがりけり 阿波野青畝

藁砧打つやはげしき夫婦 大島兎月

湖涼し打出の小お守りに 松田雄姿

時頼忌一打砕に胡桃割る 田中英子

むかし蠅追ひし剣我は蚊を撃つの 尾崎紅葉

一人のリルケも生まれぬこの国に住みなれて小さなを光らす 山崎方代 方代

白絣合を打ち聞いてゐず 中村苑子

山茶花や炭を搗くなるの音 永井龍男

餅の出るがほしさよ年の暮 一茶 ■文化二年乙丑(四十三歳)

葭簀あむにもなれし小てふ哉 一茶 ■文化元年甲子(四十二歳)

左手ののはじむる藁砧 後藤夜半

秋は絡まぬ石切の二挺の音 川口重美

ひらひらと菰越しやむめの花 史邦 芭蕉庵小文庫

黄八丈はわら屋の宮なんめり 云奴子 選集「板東太郎」

ひらひらと菰越やむめの花 中村史邦

木瓜の朱は匂ひ石棺の朱はせぬ 水原秋櫻子

見ぇてゐて砧ののあがりけり 阿波野青畝

年神に樽の口ぬく小かな 榎本其角

こののむかし椿か梅の木か 松尾芭蕉

針立や肩に打つから衣 松尾芭蕉

花のさく奥に何するの音 松岡青蘿

麦うたや野鍛冶がも交へうつ 高井几董

さわらびや横を売る女(め)の童 野澤凡兆


合流

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尼崎から京都まで、潮水を運んで、塩を焼いたという。これを潮汲み伝説というらしい。

ところで、ウィキペディアは「毎日20石」(京へ運んだ)と書き、尼崎教育委員会は、琴浦神社前に設置の案内板に「毎日30石」と記し、
尼崎の観光案内(あまらぶ)は「月に30石」と説明している。

源融 ウィキペディアの解説

源 融(みなもと の とおる、弘仁13年(822年) - 寛平7年8月25日895年9月21日))は、嵯峨天皇の十二男。侍従右衛門督大納言などを歴任。極位極官従一位左大臣に至り、また六条河原院を造営したことから、河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ばれた。死後正一位を追贈されている。

肖像]

嵯峨源氏融流初代。紫式部源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれる。陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営したといい、世阿弥作の』の元となった。また、別邸の栖霞観の故地は今日の嵯峨釈迦堂清凉寺である。

六条河原院の塩釜を模すための塩は、難波の海(大阪湾)の北(現在の尼崎市)の汐を汲んで運ばれたと伝えられる。そのため、源融が汐を汲んだ故地としての伝承がのこされており、尼崎の琴浦神社の祭神は源融である。

872年(貞観14年)に左大臣にまで昇ったが、876年(貞観18年)下位である右大臣藤原基経陽成天皇摂政任じられたため、上表を出して自宅に引籠もった(『三代実録』及び『中右記』)。光孝天皇即位後の884年(元慶8年)、政務に復帰。

なお、陽成天皇譲位で皇位を巡る論争が起きた際、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」(自分も皇胤の一人なのだから、候補に入る)と主張したが、源氏に下った後即位した例はないと基経に退けられたという話が『大鏡』に伝わるが、当時、融は私籠中であり、史実であるかどうかは不明である。

また融の死後、河原院は息子のが相続、さらに宇多上皇に献上されており、上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説が『今昔物語』『江談抄』等に見える。

現在の平等院の地は、源融が営んだ別荘だったもの。

源融流嵯峨源氏

嵯峨源氏において子孫を長く伝えたのは源融の流れを汲み、地方に下り武家となった融流嵯峨源氏である。

その代表が摂津(大阪)の渡辺氏であり、祖の源綱は源融の孫の源仕の孫に当たり、母方の摂津国渡辺に住み、渡辺氏は大内守護(天皇警護)の滝口武者の一族に、また瀬戸内の水軍の棟梁氏族となる。

渡辺綱の子あるいは孫の渡辺久は肥前国松浦郡の宇野御厨荘官となり松浦久と名のり、松浦郡の地頭松浦氏は、肥前国の水軍松浦党の棟梁氏族となる。

筑後(福岡県柳川)の蒲池氏も源融の子孫であり、源融の孫の源是茂(源仕の弟)の孫の源貞清の孫の源満末肥前国神埼郡の鳥羽院領神埼庄の荘官として下り、次子(あるいは孫)の源久直が筑後国三潴郡の地頭として三潴郡蒲池に住み蒲池久直と名のる。なお、歌手の松田聖子は、蒲池氏の末裔であるため、その意味では源融の子孫であると言える。

蒲池氏の末裔でもある西国郡代窪田鎮勝(蒲池鎮克)の子で二千石の旗本窪田鎮章が、幕将として幕末鳥羽・伏見の戦いで討ち死にした際、大坂太融寺で葬儀が行われた。この太融寺もまた、源融ゆかりの寺である。

また尾張(愛知県西部)大介職にあった中島宣長も源融13代目の子孫とされており、承久の乱朝廷方として参加し、乱後の領地交渉の模様が吾妻鏡に記されている。なお宣長の孫の中島城中島蔵人の子滅宗によって妙興寺等数寺が創建された。



略歴からはどの程度の潮水を運んだかは分からない。


源融の歌。百人Ⅰ首より

  陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰(たれ)ゆゑに     乱れそめにし われならなくに 河原左大臣(14番) 『古今集』恋四・724 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆  和歌は貴族の文化として発展しましたので、その中心は都のあ る京都周辺。百人一首に取り上げられた歌の舞台も多くが近畿圏 です。そこで今回は、都から遠く離れた陸奥(今の東北地方の東 半分)を取り上げた歌を紹介します。■□■ 現代語訳 ■□■  陸奥で織られる「しのぶもじずり」の摺り衣の模様のように、 乱れる私の心。いったい誰のせいでしょう。私のせいではないの に(あなたのせいですよ)。■□■ ことば ■□■  【陸奥(みちのく)】  現在の東北地方の太平洋側にあたる東半分を指します。  【しのぶもぢずり】  「もぢずり」とは、現在の福島県信夫地方で作られていた、乱 れ模様の摺り衣(すりごろも)のこと。摺り衣は忍草(しのぶぐ さ)の汁を、模様のある石の上にかぶせた布に擦りつけて染める 方法で「しのぶずり」などとも言われます。この「しのぶ」は、 産地の信夫とも、忍草のことだとも言われます。  ここまでが序詞で、後の「乱れそめにし」にかかります。  【誰ゆゑに】  誰のせいでそうなったのか、という意味です。  【乱れそめにし】  乱れはじめてしまった、という意味。「そめ」は「初め」の意  味とともに、「染め」にも引っかけられています。   「乱れ」と「染め」は「もぢずり」の縁語です。  【われならなくに】  「私のせいではないのに」という意味で、暗に「あなたのせい  よ」という意を秘めています。  ■□■ 作者 ■□■  河原左大臣(かわらのさだいじん。822~895)。  嵯峨(さが)天皇の皇子、源融(みなもとのとおる)のことで  成長して後、臣籍(しんせき=家臣となること)に下って源氏  の姓を受け、左大臣従一位となりました。後に荒れさびて歌の  舞台となる京都・賀茂川の河原院を邸宅としていた人物です。■□■ 鑑賞 ■□■  心に秘めた片思い。「忍ぶ恋」を詠んだ歌で、この歌が作られ た平安時代の恋の歌の、流行のテーマでした。恋してもかなうは ずのない高貴な人や他人の妻への慕情に心を乱す男のことを歌っ た歌です。             ◆◇◆  この歌は「忍ぶ恋」をテーマにした中でも代表的な歌であった らしく、在原業平の作と言われる恋物語「伊勢物語」の最初の段 にも引用されています。元服直後の若い男が、奈良の春日で偶然 若く美しい姉妹と出会い、着ていたしのぶもぢずりの狩衣(かり ぎぬ)の裾を切って、  春日野の 若紫の 摺り衣     しのぶの乱れ 限り知られず  という歌を書いて贈ります。それが、この「陸奥の~」の歌を 元に作ったものだと語られます。  百人一首の選者、藤原定家もやはり  陸奥の 信夫もぢずり 乱れつつ   色にを恋ひむ思ひそめてき という歌を作っており、「しのぶもぢずり」が人気の題材だった ことが伺えます。             ◆◇◆  この「しのぶもぢずり」を作るのに使った「文知摺石」は、今 でも福島県信夫郡に残っています。江戸時代には、「奥の細道」 の旅行では、松尾芭蕉が信夫の里に寄り、この石を見ていったと いう記述があります。旅行で訪れるなら、JR福島駅から文知摺行 きのバスに乗り、下車後文知摺観音まで歩けば、信夫山の東の麓
 に、石の古跡を見ることができるでしょう。 
   
東富松川  幹線道路と交差  尼崎北小学校の西側を金網沿いに流れる。
この日は、小学校の校庭で夏祭が開催されることになっていて、模擬店の準備たけなわであった。浴衣を着たお客さんもちらほら。5時「開店」


↑この前ここへ来たときには、こんなにきれいではなかった。


↑↓富松新橋

↑この画像の左手の家は、中学・高校の同級生の家である。
最寄駅から通学していたのは、私を入れて3人だけであった。
それ以外に伊丹線を利用して神戸線に乗り換える友人が2人いた。
一人は以前に、名前を紹介した増田君。

増田君とは毎日同じ車両に乗って、読書中の文庫本の小説のさわりの文を見せあっていた。
といったって、今思い出すのは二葉亭四迷の作品の一部などで、今どき小学生にも無害なものであった。
当時私はバルザックのものなどを読んでいた。

2川合流。形の上では直角合流である。南北に流れる東富松川と東西に流れる富松川との。

西側から富松川がやや段差をもって東富松川へ流れ込む。
その流れを北から流れてきた東富松川の流れが、富松川の流れの東進を阻み、
90%以上の富松川の水は、東富松川の南向きの流れと合流する。

となれば、直角交差の富松川の東向き流れには水が供給されない。

そこで東富松川のながれの東半分の水が東進する富松川へ流れ込むように、
東富松川の川底が掘り下げられ、南進を阻むようになっている。

交差点へやってきた富松川の水の大部分は東富松川へ流れてゆき、
代わりに東富松川の北からの流れの半分弱が東進する富松川へ割り振られており、
以降の富松川の水は、東富松川のそれとなっている。

西から流れてきた富松川の水はほとんどまったく、それより東の富松川へは流れ込んでいない。

画像と文とが一致していない可能性があるが、とりあえずUP




生島庄園

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新生島橋から南を向いて。川が湾曲しているがその向こうに生島橋が架かっている。


尼崎埋蔵文化財

のHPから借用。中世の生島荘園の範囲が、私が地名や橋の名前から考えていたより
かなり南に位置付けられているように思う。
もっとも背後にある現代尼崎地図がよく分かっていない。

中世荘園推定地地図
しかし阪神電車尼崎駅の東側に本興寺寺内町や大物庄があったと読みうる(読み取る)と
生島庄はJR尼崎駅より西側あたりにあったことになる。
そして潮江はその生島より北の地区になる。

私にとっては都合が悪いのである。
庄下川は生島庄の南に発するからこう呼ばれたという地名(川名)発生説を支持できなくなる。
黒い枠線のはるか外(北側)にあってほしいのである。


しかしまた生島もまたかつては島であったという私の発想(これは受け売りではなく、
主観的は私の説。多分そういう解釈は他の人もしているとは思うが)からすれば
↑の地図の生島庄の位置の方が説得性が高くなる。

ここで中世とは8世紀以降をいうのか12世紀以降をいうのか?
平安時代の生島荘園と頼朝政権以降の生島庄園は位置がかなりずれているということならば
なんとか説明がつくが・・・。

生島神社の案内掲示

どうやら生島荘園の中心地が、時代とともに北へ移動したように読める。

ついでに生島神社境内

松田聖子さんが、源融さんの末裔であるとか。
なんかこういう関係が私のご先祖さまにもないかと思う。

「(続)俳句検索」を、「島」で検索したら1400句以上。

最初の100句(作者名にのみ島が含まれるものは削除)

つなぐ船路や芙美子の忌 中たけ子

笹鳴のそっちへ行けばの端(はな)(仁右衛門) 高澤良一 石鏡

植田原学校の駅の 笠原ひろむ 『棕梠の花』

の友と魚時を雑魚寝かな 二神節子 『砥部』

藷太るのうしろの多海 谷野予志

の一そこに夏近し 松根東洋城

冬めくや離ればなれに 山本林雨

の教会の学校楝の実 山田みづえ

唄の流るるの敬老日 南風原瑳枝子

涼しさやからへ橋つたひ 涼し 正岡子規

やわら屋根かすんで春の雨 春の雨 正岡子規

佐保姫を思へば千蝦夷が 佐保姫 正岡子規

海桐咲きにはの暮しあり 吉川康子

夕虹やよりへ郵便船 藤本京子

地図にないに住まひてひじき刈る 神野

分葱萌ゆ白砂混じりのの畑 中真理

かさねて瀬戸の花曇 柳田芳子

や神の作りし余り 延平いくと

赤蜻蛉よりへ瀬戸の海 青柳園子

落椿雄と三里隔て 本多静江

捨てし人の唄年忘れ 深沢暁子

交互に除夜の鐘鳴らす 阪上史琅

藷太るのうしろの多海 谷野予志

を飴色にして昆布干す 金田一波「夫婦

鯛や鱧そして青し夕ぐれ 阿部完市 軽のやまめ

ご赦面花火の従へて 角川源義

渡船待つ仁右衛門の冬日向 高澤良一 石鏡

何鳥かの枯草こそつかせ 高澤良一 石鏡

笹子来ての竹藪こそつかす 高澤良一 石鏡

さざゑ漁仁右衛門の岩隠り 高澤良一 石鏡


眼が生きて佐の潤目鰯(うるめ)活魚店 高澤良一 石鏡

琵琶の端(はな)にて鯊のよく釣れる 高澤良一 石鏡

畳紙の窓に二十歳の春ありぬ 貫アキ子 銀化

ダチュラ咲く水底に似ての闇 黒田杏子

渡り来ての小鳥となりにけり 大石悦子

四海波 素麺は氷を抱き 豊口陽子

佐渡ヶほどに布団を離しけり 櫂未知子

地吹雪や蝦夷はからくれなゐの 櫂未知子

如月に生んでみたきはひとつ 鎌倉佐弓

よりも岬の端のおぼろなる 片山由美子

掃苔やあらんかぎりのの花 辻桃子

土匂ふ遠流のの伎楽面 佐野美智

冬暑きにレイ受け抱擁受け 橋本美代子

海猫が笑ふ朝より暑き 橋本美代子

遊船の波うけの子が泳ぐ 橋本美代子

禁教のの一寺の涅槃変 野見山ひふみ

紬織る落葉降る夜の火のに 野見山ひふみ

ばつた跳ねの端なること知らず 津田清子

卯波濃し水平線に一つ 星野 椿

水軍のと呼ばれて涅槃西風 星野 椿

カンナ野放図に咲きてもはさびし 鈴木 榮子

冬帝の威の及ばざるに旅 今井千鶴子

寄らで過ぐの暮しの秋灯 今井千鶴子

又の名は蓬莱や夏を訪ふ 坊城 中子

人も旅人もなく月に濡れ 山田 弘子

竹生帰りの船に草刈女 山本 洋子

流人去らんとすれば秋の声 山田 弘子

月しぐれの恋唄夜もすがら 山田 弘子

きりもなく日が降るの金盞花 三田きえ子

江田の深き入江ややんまとぶ 赤松[ケイ]子

後の月に隠るる一つ 溝口青於

*はまなすや出でし子に片便り 中村純子 『花守』

旅果ての浮きて西日の佐渡ヶ 波多野蟻杖 『風祭』

抜けの跡磯菊に日の薄し 磯崎兼久 『孤雲』

千の鵜立ち浮くごとし暁の空 詫摩まつ子 『卒寿』

青梅雨ので冬虫夏草得し 上原瑞子 『燈台草』

昆布干す国後を眼前に 上原瑞子 『燈台草』

逆巻く波蓬莱のごと神聳つ 矢田鹿苑子 『白雲悠々』

神渡る浄闇の虎落笛 矢田鹿苑子 『白雲悠々』

の人牛蒡掘りかけ親鸞忌 岩井三青 『草珊瑚』

仕事終へ夜釣を常のの人 佐久間俊子 『むさし野』

群がりて責めめきぬ昆布漁 小林雪雄 『海明け』

春風やはみ出して拡声器 田中菅子 『紅梅町』

子遍路に見え隠れしての雉子 田中菅子 『紅梅町』

昆布船歯舞にへばりつき 小林道子 『下萌』

鰹船太平洋の人乗す 三浦晴子 『晴』

波はしりしぐれくもりに七つ 猿橋統流子 『丹波太郎』

賑はへるの闘鶏僧もをり 野辺祥子 『遠野火』

父の日を師と昼寝せりの宿 菅沼義忠 『早苗饗』

白き傘借りて五月のを行く 水口楠子 『泉汲む』

を匂ひひとつに花蜜柑 水口楠子 『泉汲む』

へ一歩火照の顔に仏桑花 高橋六一

はまなすや満ち来る汐に分かれ 石田章子 『雪舞』

海猫の来て一こぶし咲くごとし 佐藤俊子 『雪の本丸』

もみづるや千桜は炎の色に 山田千代 『淡墨』

伊計ジングルベルに蛙鳴く 奥田恵美 『再度山』

イザイホウ待つの灯や甘蔗月夜 小熊一人 『珊瑚礁』

鬼餅の香りを恋へば遠し 小熊一人 『珊瑚礁』

の裾を焦がして昆布干す 村上喜代子 『雪降れ降れ』


同じく続俳句検索より

遺跡暑し石の小鳥は少年の手に 金子皆子

はつきりと草萌えてゐる遺跡かな 鷲谷七菜子

かはほりの飛んで遺跡に月ありし 今井千鶴子

露霜の浅倉遺跡田鳧翔つ 田中英子 『浪花津』

出土せる遺跡の闇を蟇ありく 中川博秋 『加賀野』

遺跡掘るやんまも作業仲間かな 中山砂光子 『納沙布』

地の果のやうに蓮枯れ遺跡谷 佐藤早苗

高床の遺跡の縁に冬の蝶 原 清

寒月光みなとみらいといふ遺跡 結木桃子

縄文遺跡野を飛びとびの曼珠沙華 佐藤四郎

芒より芒へたどる遺跡みち 今井千鶴子

蜥蜴這ふ遺跡の物見櫓かな 山本麓潮

車前草踏み遺跡ガイドのボランティア 高澤良一 寒暑

夏鴉遺跡の丘に何漁る 高澤良一 寒暑

燕の巣遺跡の土も混ざりをり 石飛明子

三内丸山遺跡石棺冬北斗 浅沼真規子

天平の湖底遺跡の冴え返る 日置ひな子

唐黍の花の咲きゐる遺跡かな 茂上かの女

遺跡掘る麦藁帽のふれ合うて 寺尾美代子

土くさき遺跡の炉辺の白蛾かな 堤高嶺「五嵐十雨」



遺跡てふ風立つ大地もの芽出づ 山崎千枝子

千屈菜はいつから黒燿石遺跡 矢島渚男 延年

懸り凧遺跡の刻はゆるやかに 鍵和田[ゆう]子 飛鳥

ぬけがらの春の昼月遺跡掘る 鍵和田[ゆう]子 浮標

木犀の銀疲れたり遺跡遺居 平井さち子 鷹日和

幻想遺跡 枯草色の家族住む 伊丹公子 パースの秋

発掘の遺跡の芒刈りはじむ 山田弘子 こぶし坂

竹秋の雨また近き遺跡かな 大峯あきら 宇宙塵

蓮枯れて示しのつかぬ遺跡掘り 相原左義長

遺跡にて燃え尽したり曼珠沙華 山口超心鬼

手焙りの火鉢のまはり遺跡なり 杉野一博

遺跡掘る音の中より秋の蛇 清水明子

古代遺跡火を焚きしあと常山虫 守屋直樹

橿鳥の首かしげゐる遺跡掘り 堀口星眠

逃水の先に遺跡の広がりぬ 島崎せつこ



自由研究

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虫取り網以外にも魚とり用の網やビクまで買って待ち構えていると、
昨日親から連絡あり。

12歳児の夏休み自由研究は植物観察に決めたので手配せよ、と。
多分これはじ~じを喜ばせるための共謀であろう。
植物観察のためには網も籠も必要ない。



雷鳴にライン錯綜水遣り後
鶏頭の項垂れている炎昼
6日9日15日項垂れる花

自由研究といえば、同じ中学一年の時の工場見学を思い出すが、
他にも思い出はある。私立中学に通っていたので、同じ駅から通学乗車の同級生は2人だけだった。一人は歯科医になった(亡き父親も歯科医であったらしく、
その医院を母親が人に貸して子供の成長を待っていたようだ)。

A君はその後京都で開業していた。
現役時代には朝、ないし夜、通勤・退勤の電車が偶然一致して
(乗車位置が多分同じ理由で同じであった)
満員電車の中で取り留めのない話をしていた。

もう一人のK君は私の家から徒歩数分のところに住まいがあった。
夏休みの終わりに近付くとなにやかや借りに来た。1か月分の天気予報の切り抜きなどコピーなどなかった時代にどうやって写したのであろうか。

K君は慶応義塾大へ進学したが、親がそこよりはるかに格上の大学を出ていたので父親コンプレックスがあったかも。大学時代は長期休暇になるといろいろ貴重なガールハントに関する体験談や手柄話を聞かされた。
 問題が生じると食品会社のオーナー社長の御曹司の同級生が登場する。御曹司のキップの良さで救われた同級生が何人かいるとのことであった。御曹司はその後父の後を継ぎ社長になった。O家具と同じかどうか、経営方針の対立からか兄の会長に職を追われた後の噂は耳にしない。

K君とはひょんなところで再会した。学校のPTAの会長の後任をある人にお願いしたら、その人の上司が私に面会を求めてきた。その上司が彼だった。
仕事が不規則で、土日も休めないので、部下を会長に推薦するのはやめてくれ
ということだった。

自由研究ではないが、T君という友人がいた。数学の時間、宿題の解答を黒板に
書き写す指名があると、さっと立ち上がり、黙って私のノートを取り上げて持って行き、それを写していた。T君はフィリッピン大使を最後に退職し、県の国際交流センターの所長に天下って来たが、目下出会う機会がない。
一度だけ東京出張の折外務省へ出かけ面会を請うたことがある。
幸い会議等がなかったので、
同僚たちのたまり場みたいなレストランでタンシチュを御馳走になった。

この君とは最近何かと話題になる日本一長距離の路線バスに乗って
新宮まで出て瀞下りを初めて経験した。高校2年の時であったか?
旅の途中で手元資金が枯渇した時、T君はズボンを脱いで、そんな時のために
親が用意してくれていた緊急用資金を、ズボンのどこかに縫い付けられたポケットから取り出してくれた。

資金不足の発生理由は、多分、旅行計画の中にはなかった瀞峡めぐりの船に乗ろうということになったからだと思う。現在の乗船料はフルコースで3440円である。

広報課長とかKEDO(この略号正しいかどうか自信ない)大使の頃には
ニュース画面にしばしば登場していた。

「自由」で検索すれば汀子さんのあの句かならず登場するはずと思って検索。
やはり登場。

自由ありけふは憲法記念の日 原山 英士

藤蔓の自由を奪ひ棚を結ふ 久木原 みよこ

山頭火よりも自由にゴミを出す 相原左義長

青年に自由楽しくおそろしく 峠谷清広

肌もあらわにただいま自由な暮らし 五十嵐研三

トマト食す哀しいほどに自由なり 鮫島康子

自由かな毛虫輪になり棒になり 石川青狼

蝶凍つる何も持たぬを自由とし 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』


初日記白き真は自由なり 加藤三七子

主婦にあるひとりの自由暖炉もゆ 成嶋いはほ

アメリカの自由を歩く木の芽どき 秋本敦子

手套脱げば自由の十指月掬ふ 佐野まもる

サングラスの中の自由や安息や 殿村莵絲子

潜きても鵜縄のうちの自由とは 稲岡長

朝顔の蔓の自由を籬とす 稲畑汀子


春燈に美しき夢もつは自由 高田風人子

薫風にたてがみ靡かせて自由 柴田奈美

海女の子の海の自由(まま)なる月の肌 対馬康子 吾亦紅

自由党総理来岐の杜鵑鳥 筑紫磐井 婆伽梵

ひた泳ぐ自由は少し塩辛い 櫂未知子 貴族

放屁だけは自由の権になつている 堺利彦 豊多摩と巣鴨

転がつて空見る自由ふきのたう 小林みさ

メーデーのこゑ無帽こそわが自由 榎本冬一郎

風呂敷の自由なかたち青き踏む 中村路子

自由市渋柿甘柿一と山に 杉本寛

ひた泳ぐ自由は少し塩辛い 櫂未知子(1960-)

空といふ自由鶴舞ひやまざるは 稲畑汀子(1931-)

或高さ以下を自由に黒揚羽 永田耕衣(1900-97)

スキー靴脱ぎて自由な足となる 千原草之



自由が丘の夕ベは氷る雪兎 山田みづえ

自由が丘の空を載せゆく夏帽子 山田みづえ

青い薔薇あげましょ絶望はご自由に 池田澄子

秋日燦天国自由切符欲し 沼尻巳津子

青い薔薇あげましよ絶望はご自由に 池田澄子

仮住の自由自由スイトピー 山田弘子



空といふ自由鶴舞ひやまざるは
             稲畑汀子 汀子第二句集


この句を記した句碑の除幕式があった日、妻は式典に参加。
私はそのあと無人になったがテントはまだ残っていた頃に句碑を撮影した。



奴隷の自由という語寒卵皿に澄み 金子兜太 少年/生長

通り抜け自由にさせぬ種物屋 森田峠 三角屋根

或る高さ以下を自由に黒揚羽 永田耕衣 驢鳴集

蛇呑んで原野"俳諧自由"なり 中島斌雄


門売も声自由也夏ざかな 向井去来



自由が丘の夕ベは氷る雪兎 山田みづえ

 私も

無いとすれば夕日が丘の夕陽など

という句を作っている。

「研究」では1句

白椿白痴ひうひう研究せり 攝津幸彦

今では「白痴」なる言葉は死語扱いである。
句の情景は分かるような気がするが、佳句・名句とは思わない。

・・・・・・・・
昨日の庄下川風景

↑パンを投げ入れてカメラを構えるまでの間にパンは姿を消してしまう。

夕べちかいので、昼顔はしぼんでいる

大甘菜を一輪見つけた↑

注意しないと溝蕎麦の花は目立たなくなっている。


新大阪駅

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R尼崎駅改札

13時30分にまだ5分ある。
出迎える列車は14時20分新大阪駅着ののぞみだから余裕。
いつもの土曜日の昼下がりより空いている感じ。



大阪駅大峰行者突つ走る 山口誓子

春塵に押され大阪駅を出づ 辻田克巳

新大阪駅構内

↑遊客指南中心



新大阪駅23番ホームは、新大阪止めの列車専用だから帰省ラッシュ初日といえど、
それほど混雑はしていない。

列車到着

ツーショット

この駅を何と心得おる?右へ寄れ!!

家について一息ついて早速野草観察。当人、暑さでまだげんなり。やる気なし。

門前のスベリヒユ。山形・沖縄だけでなく、ギリシアでも、戦時中なら日本人の半分くらいが
食用経験ありとか。我が家は幸いにして芋の蔓も食用経験なし。

数本切り取って、新聞紙に挟んだが、さてそのあとは?ネット頼り。


早い宴会

キャンティ1本、お子様用シャンパン(炭酸水)1本

夕食後散歩

いったい何人のお客さん?



有野川

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きれいな水


本格的な水遊び ちょうどいい水嵩

そんな川のほとりで宴会 和食コース これはだいぶ前に予定された行事だったので
私ひとりだけで参加。参加者総数21名。運転手が多いので、お茶で乾杯。

急いで家に戻って午後の散歩

↑バーバリ ブルー ラベル

すぐに夜の宴会会場へ移動 中華

家にもどってばば抜きやって、お風呂入って、バイオリンの練習

うってかわって真剣な表情

後ろに目があるのか、に~にが真面目に聴いていなかったと難詰。

聴衆約6人

10時過ぎに覗いたら二人ともぐっすり。

合間に教えた今日の植物 姫蔓蕎麦 ポリゴナム

ポリゴナムにしても姫蔓蕎麦にしても、俳句で扱うには、歳時記記載植物ではないこともあり、
語呂がよくないし、それほど見栄えもしないので、例句 0 のはず。

ミゾソバはあるはず。
「俳句検索」

賭事はやまひ溝蕎麦またぎゆく 中原道夫

溝蕎麦の花引き抜きて測量す 広瀬恵美

溝蕎麦は水の際より咲きそめし 高浜年尾

溝蕎麦の溝よりあふれ出て咲ける 江藤 都月

造成の地に溝蕎麦の居を構ふ 三輪田育夫

シンバルの音溝蕎麦にとどきけり 安藤綾子

溝蕎麦や遅れがちなる二人連 加藤知子



溝蕎麦や多摩の小流ここに又 高浜虚子

溝蕎麦や足摺へ向く遍路みち 中平泰作

溝蕎麦や峡田乏しき水をひき 平松草太

いえづとの溝蕎麦の花こぼるるよ 中村わさび

溝蕎麦にだんだん水音暗くなり 諸角せつ子

溝蕎麦に明朝体の雨降れり 幅田信一

溝蕎麦や土橋明るく田をつなぐ 三輪千代子

溝蕎麦の鳥の脚よりなほ繊き 永野孫柳

町中に溝蕎麦の堰く流あり 高浜年尾


句碑を見て溝蕎麦の径左へと

「続 俳句検索」


溝蕎麦に狭められたり飛鳥川 国枝洋子

はじめに飢ありき溝蕎麦赤のまま 橋爪幸行

溝蕎麦やたたらの村の水の音 宮本よしえ

溝蕎麦や板を打ちては鯉を呼ぶ 宮坂静生 青胡桃

溝蕎麦や小舟の底によべの雨 加瀬美代子


画像一枚追加 爆睡中

宝塚

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予定がいっぱい。
ゆえに8時半には散歩開始

パンを持っていって、岸辺近くに投げると、鯉はどんどん近寄ってくる。
しかし賢い。青い色の網を水中へ入れると、どんなにパンを投げてももう近寄っては来ない。

よってもって収穫0。

帰宅後小休止。こんどは宝塚へお出かけ。
S席は12000円とか。A席を4つ確保。

改札口までお見送り。
これで駅前まで2往復。
もう1往復して宝塚ホテルで待ち合わせ。

たまたま長女が学校で雑談していると、12歳児の同級生も次の日のS席を確保して前日の今日は宝塚ホテルで宿泊とか。偶然にその親子とロビーで遭遇。

翌日の入場券を持っていても前日下見名目で劇場内へ入れるとか、12歳児親子はそこでも出会ったらしい。S席券所有者の特権かどうかは知らない。



ちょっと迷って店へ

ちょうど6人が座れる個室。昨日の昼私は和、昨夜は6人で中華
本日はイタリアン。明日は我が家で焼きそば(予定)。

いっぱい食べて、演劇部に入って歌劇を始めて見てご機嫌な12歳児。


家に戻って花火して、疲れきって、バイオリン練習(披露)なしで、6歳児はおやすみ。

本日私の歩数は15,942歩 11キロ以上、消耗カロリー553.9Kcal。

しかし大食により、体重は危険水位突破。

危険な手仕事のそのはかなさの花火 林田紀音夫

オリオンの確かに歪む危険な夜 楠本憲吉



カロリー なし。イタリアンなし。イタリアでは、

西瓜種子とばして弾むイタリア語 桂樟蹊子

晩秋やイタリア青きゲーテの地図 有馬朗人 天為


たこ焼き

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昼はたこ焼き。
小麦粉450グラム

15個焼けるたこ焼き器で、5回分。5回目は少し粉不足で計70個
食べた人6人。

夜は焼きそば。食べた人6人。

その間に夕方の公園めぐり。

たこ公園


↑公園の横を流れる川は富松川

この川には橋が無数にかかっている。ほとんどすべてが私橋。個人住宅用の橋である。

道の反対側から見ると

富松中央橋の西には幼稚園

富松川の上流で分流となった流れが、ここで、東富松川へ流れ込む。
最近は堰で流れが止められている。
どこかの田圃へ水が供給されているのであろうが、
まだその構図が飲み込めない。


↑東富松川へ流れ込む水(これは富松川の水)
水がせき止められたことによって生じた流れ↓

旧村の地区会館の名残り

このあたりは「富松一寸豆」と称する花作り(ボランティア)グループの縄張りで、付近では一番良く管理されている。

東富松川右岸沿いに公園がある。

↑東富松公園
東富松川を境に東が塚口町、西が富松町

小学1年の世話係の中1は青息吐息


もう一つ公園訪問

辰巳台公園


12歳児はさるすべは知っている樹花。今日教えたのはランタナ。
母親は、12歳児がノート作成に取り掛かろうとしないのでやきもき。


ランタナの和名は七変化であるが、七変化はまた紫陽花の別名でもある。
俳句検索を「七変化」で検索

七曜の雨なきは憂し七変化 西川良子

野路の名の七変化とや若菜摘む 山田弘子

飽くほどの平和おそろし 七変化 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 花仙人


いずれも紫陽花を詠っている。
山田弘子さんの句は?紫陽花ではないかも。道の名である。くねくね曲がっている街道筋であろうか?


ランタナでさえ、歳時記には未登載なのか?

ランタナの七色の濃し夕茜
散歩途上でランタナの名を教え
溝蕎麦の覆う屈折札場辻

午後11時近いのに、二人ともまだ起きている

午後11時半 かたわれはまだ起きている





宿題

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「路傍の草木」位の題にして宿題の一端を援助すべく
画像撮り。
問題はその画像にどんな文章を添えるかであるが、
そこまでやったら学習にならないので、悩ましい。


そうはいいながらも散歩途上、なんでもかんでもとりあえず画像収集。

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スベリヒユを食べた思い出ポーチュラカ


以上は今日の散歩中の撮影分。

昼も夜もいっぱい食べて6歳児(実は誕生日済んでいたので7歳児)は、
夜9時に母親に連れられてお帰り。明日からは京都だとか。
ダイエットにはいいかも。







金岡川

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東富松川の全長は2キロメートルほどである。
富松川と合流する地点から北側は、少し行けば伊丹市の領地となる。
その2キロは行政上1級河川で、国家が管理することになるが、実際は兵庫県でもなく、尼崎市に管理委託されているのであろう。


↓「東富松橋」と読める。
2川合流地点の東富松川に架かる橋だが、誰も橋とは気付かないような道路の一部である。
伊丹市営バスが,この道を通って阪急塚口駅を降りた人を
伊丹市南西部の住宅へ運んでいる。
同時に三井グランドという広い空間の跡に建った多くのマンション居住者もバス利用者であり、
大きな共済組合の病院もある。兵庫県東部だけでなく、大阪府立の諸施設の職員も、定期健診にはこの病院へ「出張」してくる。

枯木星に星組合もありにけむ 山田みづえ

秋風や血に染められし組合旗 江口渙

江口さんは新俳句人連盟所属なのであろう。

改めて、「江口渙」で検索。上記の1句しか登場しなかった。



江口さんをウィキペディアで検索。
まったく知らなかった。

江口 渙(えぐち かん、1887年7月20日 - 1975年1月18日)は、日本の小説家である。東京生まれであるが、出身地は父の故郷である栃木県烏山町である。本名は同表記で「きよし」であるが、戦後は「かん」と改めた。父の江口襄は陸軍の軍医で、東大医学部で森鴎外と同期であった


来歴

三重四中から第四高等学校に進学するも父と進路をめぐって対立し、四高を退学、第五高等学校に入り直す。この時期には俳句に没頭し、河東碧梧桐に認められる。1912年東京帝国大学英文科に進学する。この年、雑誌『スバル』に短編『かかり船』(後に「赤い矢帆」と改題)を発表し、作家として認められる。このころから佐藤春夫広津和郎宇野浩二たちとの交友がはじまる。また、夏目漱石の知遇をうけ、漱石山房をしばしば訪れる。さらに芥川龍之介との交流も始まる(漱石の葬儀の際には、芥川と共に受付を務める)。1915年には北川千代と結婚(1922年に離婚)、1917年に大学を中退する。

1920年日本社会主義同盟の結成大会に出席し、中央執行委員に選ばれる。1927年には小川未明らと無産派文芸連盟を結成したが、1928年に解散[1]。同年の蔵原惟人の提唱による日本左翼文芸家総連合の結成に参加したころから、『戦旗』派に接近し、1930年には日本プロレタリア作家同盟の中央委員長に選出された。1933年小林多喜二の死に際しては葬儀委員長をつとめ、それを理由に検挙されたこともある。

戦争の激化とともに、1944年には郷里の烏山に疎開し、そこで終生過ごすことになった。1951年宮本百合子の死去のときにも葬儀委員長をつとめたように、民主主義文学の長老として、いわばお目付け役のような役割を果たしていた。また、1961年には中野重治とともに日本共産党の中央委員にも選出された。

1964年の新日本文学会第11回大会にあたって、当時の幹事会報告草案が、部分的核実験禁止条約への賛成をおしつけるような、当時の会の内部にあった意見の相違を無視する一方的なものであったことに反対し、霜多正次たちとともに、大会で意見の相違を保留して一致できる点で運動をすすめようとする〈対案〉を提出しようとしたが、大会の議長団によって拒否され、大会後にはそれを理由にして新日本文学会を除籍された。翌年の1965年には、日本民主主義文学同盟の創立大会で議長に選ばれ、死去までその職にあった。

作品解説

処女作の『かかり船』は耽美的な作品であったが、大学を中退した頃からは社会の矛盾に目を向け、社会主義無政府主義に近付いたため、社会の矛盾を告発するような作風へと変化している。この時期の作品としては『馬車屋と軍人』(1917年)『労働者誘拐』(1918年)がある。

1920年代に入ってからは、1923年大杉栄1924年には中浜鉄・古田大次郎など、親交のあった無政府主義者が次々と弾圧されるなかで、無政府主義から徐々に離れ、プロレタリア文学運動の方向に動いていく。この時期の作品としては『恋と牢獄』(1923年)、『彼と彼の内臓』(1927年)がある。プロレタリア文学運動の退潮期にも、『人生の入り口』(1935年)など地道に創作活動を続けていた。

戦後、小林多喜二の虐殺の真相をいち早く明らかにし、新日本文学会の発起人もつとめ、民主主義文学運動を推進するとともに、地元の後進たちの指導にもあたった。農村の戦後の改革を描いた『花嫁と馬一匹』(1948年)がこの時期の代表作である。1950年代に入ってからは、小説よりも回想記の執筆が主となり、『わが文学半生記』(1953年)は大正時代の日本文学の貴重な証言となっている。1970年、歌集『わけしいのちの歌』で、多喜二・百合子賞を受賞した。

著書

  • 赤い矢帆 新潮社 1919 (新進作家叢書)
  • 労働者誘拐 東京刊行社 1919 のち新日本文庫 
  • 新芸術と新人 聚英閣 1920
  • 性格破産者 新潮社 1920
  • 悪霊 春陽堂 1920
  • 或女の犯罪 金星堂 1922
  • 木の葉の小判 赤い鳥社 1922
  • 恋と牢獄 新潮社 1923
  • かみなりの子 第一出版協会 1925 (第一童話叢書)
  • 火山の下に 文化集団社 1934
  • 向日葵之書 楽浪書院 1935
  • 梟のお引越し 中央公論社 1940
  • はたらく子供 桜井書店 1941
  • 愛情 白揚社 1942 (現代生活群書)
  • 太平洋漂流記 二葉書店 1946 (二葉文庫)
  • 流と子供 桜井書店 1947
  • 虚無の花 十月書房 1947
  • たのしいどうぶつ 二葉書店 1948
  • 最後の夜 新興出版社 1948
  • 思想と生活 石狩書房 1948
  • 花嫁と馬一匹 白林社 1950
  • わが文学半生記 青木文庫 1953 のち角川文庫、講談社文芸文庫
  • わが文学論 青木新書 1955
  • 三つの死 新評論社 1955
  • 奇怪な七つの物語 三一新書 1956
  • 封建性 部落を支配しているもの 大日本雄弁会講談社 1958 (ミリオン・ブックス)
  • 続・わが文学半生記 春陽堂書店 1958 のち青木文庫
  • たたかいの作家同盟記 わが文学半生記・後編 新日本出版社 1966-68
  • わけしいのちの歌 歌集 鳩の森書房 1969 のち新日本文庫
  • 江口渙自選作品集 全3巻 新日本出版社 1972-73
  • 少年時代 光和堂 1975
  • 晩年の芥川竜之介 落合書店 1988

翻訳

  • 罪と罰 ドストイェーフスキー全集 第3巻 ドストイヱフスキー全集刊行会, 大正10

恥ずかしながら、ほとんどすべて「初耳」である。

小説作品のタイトル、どれ一つとして、目にし、耳にした記憶がない。


金岡川の風景

↑↓この辺りはまだ東富松川である。

↑途中川から離れざるを得ないが、ようやく再会できたあたりは伊丹市になっている。







金岡川で検索すると、この辺りの風景を紹介するブロッガーのものがいくつか登場。
どこかでカメラぶら下げて偶然の出会いを期待したい。


生田神社

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生田神社は、広田神社、長田神社とならび、創設はかなり古い。神話時代3世紀にまで遡る。
ひみこさんの時代である。

ウィキペディア曰く:

生田神社(いくたじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区下山手通一丁目にある神社である。式内社名神大)で、旧社格官幣中社。同じ兵庫県内の廣田神社長田神社とともに神功皇后以来の歴史を有する。

かつて、現在の神戸市中央区の一帯が社領であり、これが「神戸」という地名の語源となる。地元では「生田さん」として親しまれており、初詣時期にはもちろん、それ以外の時期にも参拝客が絶えない。

祭神は、稚日女尊(わかひるめのみこと)である。「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも妹とも和魂であるともいわれている。

201年神功皇后三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。(=私は“いくた”の“ながさの国”におりたいのです。“うなかみのいそさち”に命じて生田の土地に祀らせてほしい)。」との神託があったと日本書紀に記されている。

当初は、現在の新神戸駅の奥にある布引山(砂山(いさごやま))に祀られていた。799年延暦18年)4月9日の大洪水により砂山の麓が崩れ、山全体が崩壊するおそれがあったため、村人の刀祢七太夫が祠から御神体を持ち帰り、その8日後に現在地にある生田の森に移転したといわれている。

平城天皇806年大同元年)には「生田の神封四十四戸」と古書には記され、現在の神戸市中央区の一帯が社領であった所から、神地神戸(かんべ)の神戸(かんべ)がこの地の呼称となり中世には紺戸(こんべ)、近年に神戸(こうべ)と呼ばれるようになった。

神階859年貞観元年)に従一位に昇進した。延喜式神名帳では「摂津国八部郡 生田神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相甞・新甞の幣帛に預ると記されている。

近代社格制度のもとで1871年明治4年)に県社に列格し、その後1885年(明治18年)に明治天皇の西国巡幸の際、初めて官幣社に列し官幣小社に、1896年(明治29年)には官幣中社に昇格した。

社殿は、1938年(昭和13年)の神戸大水害・1945年(昭和20年)の神戸大空襲・1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災など何度も災害などの被害にあい、そのつど復興されてきたことから、「蘇る神」としての崇敬も受けるようになっている。










伊丹川

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Area:広大な敷地

本部の住所も尼崎市塚口本町4丁目となっているが、
私の感覚では、尼崎市の北端というより、伊丹市の南端の地区である。

正式名称は「つかしん」のようである。

昼前に、12歳児がつかしんへ行こうとの誘い。

に~にが花火を買いに行くのに便乗して、ぶらぶら買い物を楽しもうということらしい。

駅前からシャトル(マイクロ)バスに乗車。29名が定員のバス。
帰りは、最後の補助席まで客が乗ってから出発した。


塚口御坊を歩いていれば、時々、この地区へ紛れ込むが、SCそのものはあまり覗かない、
広場周辺の草木を見て歩くことが多いが、今日は12歳児の誘導に従っていろいろ衝動買い。
ここにはディパーダンではなくサーティワンが出店しているので、たまにはサーテイワンのアイスクリームもいいだろうと思っていた。


キーテナントであった西武百貨店は撤退したが、経営形態を変えて、けっこう繁盛している。

↓ステーキ定食1200円。おおむね安い。

パンが切れていることを思い出し、ドンクがある方へ向かったら、その手前に違うベーカリー
があって大賑わい。餡パンも揚げパンも食パンもみな100円!
ここで買って、ドンクで買ったことにしようと相談。
家へ持ち帰ると簡単に隣の100円コーナーで買ったことはバレタ。

食堂街の館内テーブルは空きなし。仕方がないので、ミストがある炎天に近い館外テーブルを確保。そこから見た風景。


↓ダイソーで衝動買い。

このつかしんの真ん中を北から南へ流れている川が伊丹川。


ほとんど水は流れていないが.、1級河川である。特段の水源はなさそう。沿岸の雨水を流し込む排水路に過ぎないが、1級河川藻川(これまた猪名川の分流である)の溢れ水を流す昆陽川につながっているための行政上の措置であろう。

伊丹川が、昆陽川へ合流した後、川はまた分流、昆陽川と上坂部川に分かれ、
南の地区で再び合流、数百メートルは久々知川となり、
庄下川へ合流するが、それより南の庄下川は
すでに海面すれすれの高さしかない故に、無理矢理低い堰を造り、流れを作り出している。しかし流量が少ないと、堰を超える水は少なく、期待した流れにならない。


 しかし10年に1度の猪名川の氾濫を防ぐためには、行政は土木工学の知識を応用して各種の工夫を凝らしているのである。そのいくつかは江戸時代あるいはそれ以前の流域住民の汗の結晶である。


帰宅後一休み(私は)。12歳児は宿題に2時間集中したよう。

夕刻、食べ残しのパンを大量に持って、野草学習を兼ねて庄下川へ

激しいパンの争奪戦↑

久しぶりのディッパーダン

実はつかしんのサーティワンを利用するはずが、日ごろディッパーダンを愛用しているために
その価格差に驚嘆して、12歳児が自主的に辞退。
7歳児と12歳児連れて、一度は、途中で急用が生じて店へ行けなかった。
一度は、店に入ったが、先客が多くて待ち時間が長くなり、次の行動予定の時間が切迫、
買わずじまいで店を出た。この夏は初めてのディッパーダン。

夕食は久しぶりの手作り

夕食後も12歳児はお勉強。ともかく宿題多すぎるように思う。

海の南風入れて夕餉の卓大き 岡本差知子

禅林に夏日まともの夕餉かな 久保田月鈴子

いつもより早き夕餉や冬の雨 宮本 静代

手づくりの胡瓜夕餉のサラダかな 麻生 良昭

蝿生る共働きの遅夕餉 新島 艶女

CDからこぼれ落ちた夕餉の笛吹童子 松岡月虹舎

一椀を拝む夕餉や散紅葉 大庭紫逢

姉妹夕餉のじやが芋煮ゆるとき 川崎展宏

這ひ交む蚕蛾夕餉のおそき農 丸山海道

寒念仏灯なき夕餉の露地となる 『定本石橋秀野句文集』

霜やけや母に夕餉の後影 『定本石橋秀野句文集』

一人居の夕餉とセット晦日そば 岡村喜代子

だまり食ふひとりの夕餉牡蛎をあまさず 加藤楸邨

旅果ての夕餉のすしの金目鯛 村上辰良

かなかなやどの家も父のゐる夕餉 鈴木栄子

子の為に朝餉夕餉のトマト汁 星野立子

汐あびの戻りて夕餉賑かに 杉田久女

夕餉して居どこにまよふ土用凪 石塚友二

兄弟の夕餉短し冷奴 加藤楸邨

花合歓の下のままごと夕餉まで 小松絢子

夕餉あと尚明るくて蚊食鳥 山口波津女

夕餉待つ眼悲しく蝿を打つ 角川源義

夏蕨遠山見ゆるころ夕餉 大野林火

野遊や夕餉は連れの友の家 鈴木花蓑

松過ぎてサラダ色めく夕餉膳 初川トミ子

艀の夕餉に倉庫を曲るまで見られ 金子兜太

艀の夕餉に倉庫を曲るまで見られ 金子兜太

空の深みに紙片港灣夫の夕餉 金子兜太

用心深い鳥影うごく 夕餉どき 伊丹公子

湖よりも凍みて根場の夕餉どき 依田由基人

終戦日夕餉の椀に貝の砂 今村妙子

山住みに馴れし夕餉の衣被 平岡保人

箱庭の水車が廻る夕餉かな 田中美沙

隣人も夕餉の早きキャンプかな 笹本カホル

兄弟の夕餉短し冷奴 加藤楸邨

夕餉まで山葵田めぐりせよと言ふ 川井玉枝

風呂吹や二人の夕餉静かなる 吉村容子

煮凝やなべて夕餉は母ごのみ 白岩 三郎

胡瓜もみ夕餉明るき中にすむ 相馬 黄枝

紫陽花や水辺の夕餉早きかな 水原秋櫻子

鱧皮や夕餉半ばに雷迫り 村上光子

ちぬ貰ふ夕餉すみたるところなり 伊丹 丈蘭

青葉木菟夕餉を終へし手を拭けば 水原秋櫻子

庭に敷く夕餉の筵こどもの日 坂本竜門

夕餉して居どこにまよふ土用凪 石塚 友二

解禁の日なり夕餉の安房若布 兼巻旦流子

蚕飼妻夕餉の肩を蚕這ふ 三宅句生

接木して落ちつかぬ日の夕餉なり 藤原たかを

だまり食ふひとりの夕餉牡蠣をあまさず 加藤楸邨

北風あと心呆けし夕餉かな 富田木歩

松茸の一本に夕餉豊かなり 瀬戸みさえ

人波に夕餉時あり生姜市 栗原米作

菊なます風邪の夕餉を床のうへ 及川貞

秋雨や夕餉の箸の手くらがり 永井荷風

夏蕨遠山見ゆるころ夕餉 大野林火

新藷に夕餉すゝみしうれしさよ 中尾白雨

夕餉待つ眼悲しく蝿を打つ 角川源義

兄弟の夕餉短し冷奴 加藤楸邨

夕餉後の明るさにあり萩根分 大江梅

酒そはぬ四日の夕餉すましけり 山田佐々子

獅子舞にひそと鎖しゐて夕餉かな 木歩

綿虫をつれて夕餉にかへりくる 羽公

大根煮や夕餉の病舎さざめきて 波郷

だまり食ふひとりの夕餉牡蠣をあまさず 楸邨

北風あと心呆けし夕餉かな 木歩

頬凍て子の帰り来る夕餉哉 子規

男あり晩き夕餉の秋刀魚焼く 寛彦

七夕竹人の夕餉の覗かるる 欣一

蜩や誰かに見られゐし夕餉 楸邨

秋雨や夕餉の箸の手くらがり 荷風

繭ごもる音のたのしき夕餉かな 史朗

牡丹を活けておくれし夕餉かな 久女

桜草灯下に置いて夕餉かな 木歩

わが庭の土筆添へある夕餉かな 渋亭

土筆添へて夕餉の箸のはじまりぬ 貞

法師蝉耳に離れし夕餉かな 阿波野青畝

夕餉後の明るさにあり萩根分 大江梅

秋雨や夕餉の箸の手くらがり 永井荷風

夕餉までの眠りの中の遠ひぐらし 和田耕三郎

花あふぎ夕餉のあとを岸にあり 中田剛 珠樹

帚木に男ばかりの夕餉して 中田剛 竟日

法師蝉耳に離れし夕餉かな 阿波野青畝

秋雨や夕餉の箸の手くらがり 永井荷風

何時止みし花火か夕餉済みにけり 野口南枝

筍流し沈める屋根を被て夕餉 長谷川かな女

新藷に夕餉すゝみしうれしさよ 中尾白雨

霜くすべ夕餉了へても明るかり 中原道夫

妻の呼ぶ夕餉早めや花鬼灯 冨田みのる

垣間見ゆ父母の涼しき夕餉の灯 冨田みのる

南部ことばいきいき杜氏らの夕餉 荒井正隆

わが病めば子らいさかはぬ夕餉寒し 吉野義子

家郷の夕餉始まりをらむ夕桜 大串章

土筆添へて夕餉の箸のはじまりぬ 及川貞

狐罠かけきし夕餉黙し食ふ 亀井糸游

妻子いま夕餉のころか初蛙 長谷川櫂(1954-)

漱石忌猫に食はしてのち夕餉 平井照敏(1931-)

牡丹を活けておくれし夕餉かな 杉田久女(1890-1946)

紫陽花や水辺の夕餉早きかな 水原秋桜子(1892-1981)

子の為に朝餉夕餉のトマト汁 星野立子

児童画

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12歳児はめっぽう大きくなった。
小学生の間にじ~じの背丈を抜くという目標は実現しなかったが
自分の長女に話しかけているつもりが目の前に座っているのは
12歳児であることが何度かある。

今日の散歩は8500歩。6㎞。
緑化植物園の事務所内で児童画展をやっていた。
12歳~14歳の子の絵が多かった。驚くほど緻密な絵が多いので驚いた。


写した植物

ウィキペディアの解説:

ムラサキゴテン(紫御殿、学名:Tradescantia pallida 'Purpurea')は、ツユクサ科の園芸植物。(シノニムSetcreasea pallida 'Purple Heart')。別名パープルハートセトクレアセア(園芸品種名で通用する)。

特徴

地上部全体が紫色をしており、葉は少し多肉。6~9月頃に紅紫色の花が咲く。乾燥した日当たりの良い環境を好む。メキシコ原産で、原種はほとんど栽培されることはない。耐寒性はそれほど強く無いが、日本では東京より西であれば戸外でも越冬可能。

紫御殿では例句なし。


インパチエンス↓例句なし。


マリーゴールド、例句なし。万寿菊でも例句なし。

珊瑚樹の朱き実房や長崎忌 斎藤朗笛

珊瑚樹のいただきくらきまで熟す 古舘曹人

海青く珊瑚樹は実を滝なして 村沢夏風


珊瑚樹のうちに鳥ごゑさき彼岸 岸田稚魚

珊瑚樹は熱風の吹き入りしまま 岡田史乃

尼寺の珊瑚樹鵯に実をこぼす 大島民郎

珊瑚樹の梢はづれの露地の月 京極杞陽


バーベナ、例句なし。↑
↓クレオメは1句

酔蝶花(クレオメ)や老醜超えてすめらみこと 塚本邦雄 甘露

酔蝶花でも検索したが例句は、上の句のみ。

緑化植物園の西門を入ったところの下を流れるのは、上坂部川。
伊丹川の水も少しは含まれているはず。

↑上流
↓下流 園内を流れる小川の水が左手から流れ落ちている。

公園を3つ「巡回」





古池

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尼崎と松尾芭蕉とは関係(ゆかり)があるかどうか?

尼崎藩の江戸屋敷は本所深川にあった。
そこには芭蕉庵があった。
芭蕉が同じ地区にある尼崎藩江戸屋敷へ出かけることもあったかもしれない。

松平(桜井)亀文の俳号を持つ藩主松平忠告(1742~1805)は

古池の昔語となく蛙 (ふるいけのむかしがたりとなくかわず)

という句を作っているが、この古池は、藩邸内にあった古池を指す。
松尾芭蕉(1644~1694)が古池の句を作ったのは、実はこの古池を見て作ったと言われている。だから亀文の句も芭蕉とその古池の句を踏まえている。

芭蕉が深川に居を移したのは1680年。
古池の句が発表された句会は1686年。


今日も色々あったが、今夜が最後。
9泊10日のもあっという間で、次は冬休みに来れるかどうか?
7歳児用に買ったはずの粘土おもちゃ。どうも12歳児の作品のよう。


さようなら

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14,5本の鶏頭並ぶ孫去ぬ日

子規庵で貰った(絵葉書購入のおまけだったらしい)鶏頭、1メートルを超える株もある。

部分画像:


12歳児、生物自由研究は仕上がったが、読書感想文や通学途上風物研究などは、未完成。

それでも朝の散歩の同道はより重要な(楽な?)課題だと思っている。


庄下川へ向かうもっとも近い道筋は、線路沿いの道を西へ500メートルほど歩いて、
突き当りにある踏切を南へ越えて、また東へ100メートルほど引き返すルートである。

柵内に見えるのは、ヒメムカシヨモギだと思うが、いま一つ自信がない。
オオアレチノギクとの差異が微妙なので、敢えて生物自由研究の対象から外した。
「草の名前はじ~じから教わりました」と書いてあるので、「権威失墜」を避けた。

途中に1か所、「地主」さんが残したと思われる家庭菜園がある。

聞かれて困る作物は植えられていなかったが、栽培野菜の名前は今回省略。

庄下川に合流する直前の東富松川で鯰を見た。
8月半ばに、東富松川で鯰を見たのは初めて。
12歳児も7歳児も鯉との違いがわかったよう。

いつもパン投げをするX橋の下で鯉を釣る人がいた。

↑増水でなぎ倒されたジュズダマ。

12時前に出発。新大阪始発の自由席利用。ホームは列車の遅れもあって、大混雑。

列車は5分遅れて新大阪駅を出ていった。

その瞬間からラインが稼働。




御坊

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晩夏の路傍↑ スベリヒユとコニシキソウ

百日紅も晩夏の樹花


↑↓こうなるともう分からない。
花が咲いているからわかるという人のご教示を期待。
わたしにはヒメムカシヨモギに見えるが。

センダングサはこれから花期に入る。↑
シュウメイギク↓

塚口御坊 南町

囀りや杉の御坊は灯ともして 臼田亜浪

畠打や峯の御坊の鷄のこゑ 蕪村遺稿 春

きじ啼や御里御坊の苣畠 蕪村遺稿 春

牡丹芳御坊主蜂にさゝれたり 高井几董


正玄寺晩夏

apedia の解説 正玄寺:
 塚口字辰巳(現塚口本町1丁目)にある、浄土真宗興正寺派の寺院。山号は円融山。『立花志稿』は「興正寺塚口別院由緒」ほかを引いて、1409年(応永16)性曇上人開基とし、本山興正寺の別院と正玄寺が一体となっているが本来は別で、また正玄寺の名称は古来塚口にあった寺名を流用したものとしている。興正寺別院は中世には塚口御坊と呼ばれ、西摂一帯に末寺を有し一向一揆の中心であった。近世中期にもなお西摂53か寺が輪番で同寺を守護することが定められていた。

同じくweb版尼崎市史解説のapediaから「立花志稿」の解説

寺阪五夫編、1940年(昭和15)11月立花村発行。変形菊判、本文298頁。

  当時立花村助役であった寺阪五夫が、都市化の進む立花村の歴史を記録すべく、紀元2600年(1940年)を機に企画・執筆したもの。内容は、行政沿革および大字ごとの歴史・社寺・河川水利・名所旧跡・古文書の紹介など。全編にわたって史料に準拠した実証的な記述に努めているのが特徴的。また、豊富に引用されている古文書・古記録類の中には、今日では所在不明もしくは失われたものもあり、史料としても貴重である。

清水町・北町

↓岸本さんち。矢野さんっちと同じく、邸宅前に工場がある。菰作り。↑

ボタンクサキが茂っている場所なのだが、遅すぎたようである。


とある場所で、御坊を後にして、昭和の初めに阪急電車が開発した邸宅街へ

個人住宅にしては珍しく、モルタル壁にいっぱい蔦などを這わせている。
と思ったが、どうやら社長宅と会社が同居しているみたい。






PITAPA

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かかりつけの歯科医院はビルの5階にある。
目下は2か月に一度、定期健診のために通っている。


各階には1軒しか店舗がないので、エレベータを降りるとそこは医院の入口前のホールである。

そうではなく、エレベータを降りたらそこはすでに店内といった感じの階もある。

そのホールからの眺め。

阪急電車の塚口駅を中心に、西側と南側が見通せる。


↑西側は甲山が見えていたが、例の10階建てマンションの建築幕のために見えない。
その左右に六甲山の山並みが見える。

屋上に並ぶ室外機の向こう、阪急電車の線路より北側にわずかに緑が見える。
1600平米の火事跡である。

ズームすると↓

さらにズーム

カメラを少し右にずらすと、銀行や証券会社の看板が目立つ。

線路の南側

駅前の3つのビルのうちの2つが見える。2番館と3番館である。
駅前ターミナルに集まってくる車やバスは、
2番舘と3番舘の間の空間を抜けて「外界」と接続している。
2番舘と3番舘そして見えない1番舘は2階部分の回廊でつながっている。


↑阪急電車の塚口駅北改札口。
少し前に建て替えられたが、この部分は開業当時とあまり変わっていないはずである。
もちろん構内は大きく変わっている。

昨日は自動改札口横の入口からインフォメーションコーナーへ入った。初めての経験である。

その制度ができるやいなや、私は定期券の使用をやめ、
ポストペイ(後払い。口座引き落とし)のPITAPAカードに切り替えた。
今では句会出席の専業主婦の方でも(わがワイフも含めて)PITAPAを利用している。
阪急電車が主導して作り上げた制度だが、京阪神地区を越えて、和歌山や岡山でも利用可能なものになっている。

ところでJR各社のカード(JR西日本はICOCA)は後払いではなく、プリペイドシステムである。

私鉄や京阪神の地下鉄、多くの私鉄バスはPITAPAで乗車可能である。

阪神尼崎で電車に乗って近鉄奈良駅で下車してもじっさいにいくら支払ったのか
毎月送付される明細書を見ても合計額が記されているだけだから分からずじまいなのは、
運賃値上げに対する抵抗感を減らす意味では経営者側に有利なシステムである。

私もICOCAとPITAPAの2枚のカードを持っていた時があったが、すぐにPITAPAカードにプリペイすることによってICOCAカードとしても利用できるようになった。
PITAPAには有効期間があって5年間である。

この8月に、2020年まで有効の新規のPITAPAカードが送付されてきたので、
それを利用し始めた。17日に12歳児を見送るために、JR尼崎駅で、PITAPAカードを改札口へ差し込むと残金0表示が出た。

そこでやっと気づいた。旧カードに振り込んだJR用の先払い金は、そのままでは
新カードには振替えられていないことを。

新カード送付と同時に同封されている案内文書を丁寧に読めば説明されていたかもしれないが、面倒なので、直接駅のICで出かけたというわけである。

駅員の説明も一部不明瞭であったが、旧カードの残金2000円余は、2ヶ月後に
私の口座に振り込まれるか(その点が曖昧であったが)、新カードへ振り替えられるとのことであった。

他殺のカード今日へ送られいつも空席 仲上隆夫

伏せられしカードそのまま去年今年 伊藤 梢

貸金庫カードにかはる文化の日 関野寿子

天高しカードで支払ふフランス料理 土橋いさむ

松虫草登山カードに年齢記し 伊藤いと子

連絡カード身より離さず震災忌 山口恵子

冷房やカード真白となる手品 松本美簾

母の日や文字まだ書けぬ子のカード 市ヶ谷洋子


生田神社

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生田神社は、広田神社、長田神社とならび、創設はかなり古い。神話時代3世紀にまで遡る。
ひみこさんの時代である。

ウィキペディア曰く:

生田神社(いくたじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区下山手通一丁目にある神社である。式内社名神大)で、旧社格官幣中社。同じ兵庫県内の廣田神社長田神社とともに神功皇后以来の歴史を有する。

かつて、現在の神戸市中央区の一帯が社領であり、これが「神戸」という地名の語源となる。地元では「生田さん」として親しまれており、初詣時期にはもちろん、それ以外の時期にも参拝客が絶えない。

祭神は、稚日女尊(わかひるめのみこと)である。「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも妹とも和魂であるともいわれている。

201年神功皇后三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。(=私は“いくた”の“ながさの国”におりたいのです。“うなかみのいそさち”に命じて生田の土地に祀らせてほしい)。」との神託があったと日本書紀に記されている。

当初は、現在の新神戸駅の奥にある布引山(砂山(いさごやま))に祀られていた。799年延暦18年)4月9日の大洪水により砂山の麓が崩れ、山全体が崩壊するおそれがあったため、村人の刀祢七太夫が祠から御神体を持ち帰り、その8日後に現在地にある生田の森に移転したといわれている。

平城天皇806年大同元年)には「生田の神封四十四戸」と古書には記され、現在の神戸市中央区の一帯が社領であった所から、神地神戸(かんべ)の神戸(かんべ)がこの地の呼称となり中世には紺戸(こんべ)、近年に神戸(こうべ)と呼ばれるようになった。

神階859年貞観元年)に従一位に昇進した。延喜式神名帳では「摂津国八部郡 生田神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相甞・新甞の幣帛に預ると記されている。

近代社格制度のもとで1871年明治4年)に県社に列格し、その後1885年(明治18年)に明治天皇の西国巡幸の際、初めて官幣社に列し官幣小社に、1896年(明治29年)には官幣中社に昇格した。

社殿は、1938年(昭和13年)の神戸大水害・1945年(昭和20年)の神戸大空襲・1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災など何度も災害などの被害にあい、そのつど復興されてきたことから、「蘇る神」としての崇敬も受けるようになっている。


木曜日の句会の前に、少し時間があったので、生田神社を覗いた。

「生田」で検索したら、「俳句検索」でも現代俳句データベースでも
千原さんの句しか出てこない。
以下は「千原叡子」で検索した結果。

ねんねこの子に吊革のよく揺れる 千原叡子

虚子坐像涼し闘志は秘めしまま 千原叡子

椿子に会ひたしと言ひ雛の客 千原叡子

すねてゐる子は忘れられ草の花 千原叡子

願ふより謝すこと多き初詣 千原叡子

宝船皺寄つてゐる目覚めかな 千原叡子

律院の縁の高さよ蟻地獄 千原叡子

神農の虎のじやけんに振られつつ 千原叡子



人の手にあれば欲しがり夷布 千原叡子

花衣ぬぐやみだるゝ恋に似て 千原叡子

飾られて初市に出る牛の瞳よ 千原叡子

還らじの人指折りて花朧 千原叡子

小面の秋思のひたと我に向く 千原叡子

帰天せし母にまどかな冬の月 千原叡子

狐嫁入るかと仰ぐ一の午 千原叡子

謦咳に接するに似て露の荘 千原叡子

塋域はまかせ給へと道をしへ 千原叡子

幽冥へ去りし論客年忘 千原叡子

地震あとは簡素に住みて額の花 千原叡子

一人とは端山ゆ風の薫るとも 千原叡子

隼を見失ひたる比叡の空 千原叡子

水中の脚覚めてをる浮寝鴨 千原叡子

破魔矢手に生田の森を出で来たる 千原叡子

細螺にもある器量よし拾はれて 千原叡子

月時雨なりし余呉湖の昨夜のこと 千原叡子

青が尾を曳きて草矢の虚空かな 千原叡子

白夜とは別の光に朝が来る 千原叡子

まほろばの天地往き交ふ雲雀どち 千原叡子

能を観て古都に泊つ夜の菖蒲酒 千原叡子

生悲しとも愛しとも走馬燈 千原叡子

願ふより謝すこと多き初詣 千原叡子

末黒とはなりたる奈良の野の名残 千原叡子

夜の新樹より装束の能役者 千原叡子

戀螢ゆたかなる孤の室生川 千原叡子

筋なして風の落ち込む芒原 千原叡子

輝いてゐる部分だけ春の雲 千原叡子

颯爽と歩いてみれば春近し 千原叡子

春愁や母に聞かせてならぬこと 千原叡子

苺つぶす青春に悔なしとせず 千原叡子

我より出し聲聲なさず蛇の前 千原叡子

ほゝづきの鳴る母の口児に不思議 千原叡子

二の蝶も黄なりし少し大きかり 千原叡子

水がめに重なり合ひて餅沈む 千原叡子

灯を消せば黴の匂ひの中なりし 千原叡子

大門は開け放ちある菊日和 千原叡子

影とんでまり飛んで来し冬日向 千原叡子

夜櫻にまじる裸木恐ろしく 千原叡子

汽車過ぎて煙の中の茶摘かな 千原叡子

ねんねこの中で歌ふを母のみ知る 千原叡子

生悲しとも愛しとも走馬燈 千原叡子

生悲しとも愛しとも走馬燈 千原叡子



花衣ぬぐやみだるゝ恋に似て 千原叡子

隼を見失なひたる比叡の空 千原叡子

ねんねこの中で歌ふを母のみ知る 千原叡子

まさに虚子の弟子である。

梶原の井

裏面

嘉永7年は11月に安政元年に改元。1854年。

桃割れ

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「桃割れ」で検索したら、

桃割れ(ももわれ)は、江戸時代後期から昭和にかけて町人の娘に流行した女髷。

銀杏返しの派生の一つで、前髪を高くふっくらと上げると同時に、鬢は「前出し」といって顔側に心持膨らませて結う。

つとは出さないで引きつめるが、髷は左右分けてふっくらとした輪を作って元結を根元に巻き∞のようにして仕上げ、∞の真ん中に丈長や鹿の子を結んで飾る。

左右の輪の上部のみくっついて下部が割れて手絡が見える様子がの実に似ることからこの名があり、当時唐人髷とともに十代前半~後半の少女に多く結われた。

時代劇などで町娘といえば大抵このかつらをかぶって出てくるため、少女の髷としては最も知名度が高い。

この髪型を示す解説しか出てこない。

昨日まで、なべて

↑この形であった綿の実が、今日一つ割れて綿が噴き出した。
これもまた「桃割れ」と呼ぶことをどこかで学び、
私は、桃割れといえば、綿の↓のような状態を連想してしまう。

今年は7本しか育てていない。7本で15個くらい実っている。
順次桃割れしてゆく。
 京都大原在住のイギリス人女性が綿繰機や糸車などを使って糸を紡いでいる姿がNHKの画面に出たことがあるが、まねようとは思わない。
機織り機はかなりでかそうなので、置く場所がない。
女の子が生まれたので、庭に桐を植えて、嫁入りの時に、その木で箪笥を作ったというのも、そんなことができる家もたまにはあった程度の話であろう。第一、そんな時代なら15歳で嫁入りだから、箪笥用の素材になるまでには育たないと思う。


少年の肘の青さや綿の実摘む 高橋正子

籠にあふれ綿の実なるや頭にのせて 浅野白山

綿の実を摘みゐてうたふこともなし 加藤楸邨(1905-93)


中国のある地方で、女の子が生まれると、その年に作った酒(紹興酒?)を
地中に埋め、その娘の披露宴の折に掘り出して飲んだという話なら、まあ信じてもいいが。


第24回 日本伝統俳句協会賞
「瓔 珞」 大谷 櫻

土器を湖へ一投年新た

日は亭午公魚釣に富士晴るる

灯ともせば瓔珞貴に古雛

雛飾り今宵は月も匂やかに

みづうみの波音暮るる雛灯す

雛の夜の灯とぼしき平家村

花かんざし賜はる仔馬摩耶詣

松籟に夕べの落花とめどなし

みづうみの雨しぶき来る杉植うる

藤の花奔湍の生む風にゆれ

奥琵琶の岬の遅き茶摘かな

峠路の風に長けたる夏蕨

花桐の梢は白き雲にふれ

新緑の遠野へ河童探す旅

おしら堂卯月曇の昼の燭


立葵蜑の一村人を見ず

隠れ里果つる岬や青胡桃

星一つ薄うすとあり蛍とぶ

杉山に蛍の闇の深さあり

川に舞ひ田へも舞ひゆく蛍かな

山荘の松籟つのる夏炉焚く

蓮見舟風吹くままに漂はせ

港の灯華やぐ波止の地蔵盆

無花果をもぐや湖の日こぼしつつ

帰り花運河しきりに鰡跳ばす

立冬の星のあかるき夜明けかな

音も無き星の高野の冬安居

織糸の彩り干せる庭小春

藁屋根の苔の青さよ朝しぐれ

年惜む蕪村の塚に古都望み




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

一年をかけて、全国を回っておられる。↑

8月10日、宝塚ホテルの近くで見た花。


プルメリアだそうである。露地でもこんな花を咲かせる。

近くの緑化植物園や、京都の北山植物園の温室で名札はみたことがあるが、
花を見るのは初めてでネットで問い合わせした。


桃吹く

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桃吹くやお面をつけて子供来る 佐々木六戈 百韻反故 初學

桃吹くや燦々と貧しかりし日 渋谷道


桃割れではなく「桃吹く」だった。


桃吹く/ももふく

桃吹く

仲秋

棉吹く/棉の桃/綿の実
棉の蒴果が裂けて、中の棉がふきだすことをいう。コットンボー
ルといわれる実が桃の形状に似ていることから、「桃吹く」とい
われる。











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