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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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緞帳

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大阪中之島の中央公会堂の地階の句会場となる会議室の前の壁に緞帳が飾ってある。



宝塚ホテルにも、同じように大劇場の緞帳が飾ってあるが、その方はもっと豪華である。

いつも出入りするレストラン側の入り口ではなく、従業員用の出入り口から外へ出て建物を写してみた。

誰もゐぬ公会堂にやまのいも 原田喬


12時33分発の電車に乗車、梅田駅から地下鉄乗り場まで、エスカレータの左側を走って
降り、淀屋橋駅では、同じ左側を駆け上がり、大汗かいて句会開始時刻の13時の2分前に着席。よっていつものように中之島界隈をぶらぶらして撮影する暇がなかったので、
出句後の10分ほどを館内撮影。

集会室はたくさんあるが、どれも午後の部は1時開始ゆえに、廊下には人はいない。
案内板を見ると句会だけでも3,4か所で開催されている。


ここ3日は梅雨明け10日並に晴れた高温の日がつづく。
あすからは台風の影響で雨のようだ。


句会参加
兼題「急」  次回は「常」

巴里祭急転直下の希臘危機


六甲高山植物園
案内文は剣山のものを借用。

キレンゲショウマ

花期はもう少し先のようだ。



ヒダカミセバヤ

コケモモ

ケーブルカーからの眺め

解夏の僧ケーブルカーへいそぎけり 大島民郎


句会費

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大阪句会は月2回(第1、第3水曜日)大阪中央公民館(中之島公会堂)で開催される。

昨日の句会でのショウちゃんの選


号令のかかりて蟻の一列に
褥暑には力仕事の家事選ぶ
主婦と書くこの晩年の花南瓜
船譲渡する日を決める鰯雲
救急車みみずの目玉見たような
便箋に残る筆圧沖縄忌

蟻は一列行進はしないが、号令がかかったようという表現に魅かれた。

便箋の句は「名句」と思う。
大名句とも思えないが、反戦などを主張する内容の原爆忌や沖縄忌の句が多い中、「筆圧」を配したのがうまい。

「俳句検索」より

石垣に海光とどく沖縄忌 柳田芽衣

不発弾残れりといひ沖縄忌 多良間典男

沖縄忌胸へ海鳴りたたみ来る 北 さとり

水音と機織る音や沖縄忌 山崎祐子

潮騒に花なげ入れる沖縄忌 井上土筆

火の玉となりし沖縄忌の墓ぞ 中杉隆世


「続俳句検索」から

沖縄忌照雄忌雨がどしや降りに 奈良文夫

青甘蔗のうねりてなびき沖縄忌 鍵和田[ゆう]子

沖縄忌幼子に海しかと見せ 宮坂静生

アルバムの父と目が合う沖縄忌 玉城幸子

沖縄忌漂白される洞窟の闇 小橋川忠正

水槽に泡の生まれる沖縄忌 川節和哉

大画布に万の声わく沖縄忌 石津きん

沖縄忌大洗濯を終へにけり 別所絢子

甘蔗畑にサイレン響く沖縄忌 當間シズ

沖縄忌夜目にくつきり珊瑚礁 皆川盤水

薬莢も露店に並び沖縄忌 伊舎堂根自子

沖縄忌水かえてやる金魚玉 比嘉一高「礎」

老い母に落丁のごと沖縄忌 玉城一香「熱帯夜」

けふ生きて海を見てをり沖縄忌 海老原真琴「未来図合同句集」

海底に父の言霊沖縄忌 志摩知子「風の精」

沖縄忌夕空濡れてきたりけり 矢島渚男 延年

大阪句会の句会費は月2回分で500円である。
参加が1回でも500円。だから第1水曜日に参加して500円払った人は、第3水曜日参加の折には会費を払わない。
第1水曜日の例会欠席の場合は、2回目の折に500円払う。
2回とも欠席の場合は、その月の会費は払わない。

句会の指導者はいない。幹事がいて会場確保の庶務を担当、当日は司会進行を務める。出句は4句(1句は席題句。来月は「常」が兼題)

今月辺りは早くも来年の新年会の日取りを決めていた。2016年1月の第1水曜日が6日なので、この日は9時半から句会をやって昼ごはんを近くのチェーン店(がんこ寿司)でやるようである。

西宮の句会と尼崎の句会は会費300円である。

大阪句会は不在出句者が4,5名あるが、参加者はこのところ
10名以下の月がつづいている。

西宮の句会も会場自体が15名しか入れないので
自由参加ではなく、「会員登録」が15名に限定されているが、
最近は参加者は10名にならない。主任選者を決めているが、
披講の折に、最後に選句が紹介されるだけの待遇である。

神戸の句会は主任選者を決めている。会費は500円。参加者は10名ほど。高齢者が多く、最近は1桁の参加者である。出句3句。
最近、1句は兼題句となった。主任選者は会費支払い免除。

尼崎の句会(私にとってメインの句会)は自由参加(飛び入り歓迎句会)で25名程度は座れる会場を利用している。30年前には20名前後の参加があったが、次々に故人となる方がつづき、先月13名の参加があって驚くほどの「盛況」という感じであった。

コピー句会(出句全句を句番号付きで記載した句稿を作成し出席者数分コピーする)用の句稿用紙は私が用意するが、ワードの表作成機能を使って、10~11人分の出句を記載できる表を作成する(清記を複数人に依頼できるように、A4用紙に番号記載済みの表をプリント)
が、先月は用紙の余白部分に句を記入、不連続の句番をフルことになった。

主任選者は私だが、会費は支払っている。それが「青玄」時代からの伝統であった。会費は300円だから会場費やコピー代を差し引くと余り残余は残らない。参加者が多かった頃は病気お見舞いなども支出していたが今は不可能。夏と冬に中元、歳暮の名目で各5000円を貰っている。これも幹事の引き継ぎみたいなものであるが、会費を500円から300円に値下げしたので、近年は残金はほとんどないはずである。

西宮、神戸、尼崎は会計と監査を決めて、一応会計報告は毎年やっている。

月1回吟行会をやっている。参加者はおおむね20名である。
毎年1回は「地方」開催(京阪神以外)をやっているが今年はそれはないようである。

今日の散歩コース
まずは我が家の家の前
処分したはずのオーシャンブルー(買った折には地中海朝顔という名であった)が一輪

綿の花 今年は虫がつかない。育てている本数が少ないので、風通しがいいためか?
今朝はまた朝から強風であった。今(午後10時)も風は強いが雨はほとんど降っていない。

思わず立ち止まった。今どき鳳仙花はほとんどみないので。
幼いときには、田舎の家の庭にいっぱい咲いていた。実をつまむとはじけるのが面白かった。

道路の拡幅などの折に余った空き地を花壇にして、ボランティアに育成管理を任している場所が市内には至る所にある。新しく参入した個所には、団体名が記された板が立っている。
この場所はそれが失われている。

ほったらかし状態のビオウヤナギやキバナコスモスの前にできた空間に、サルビアや千日紅を植えている。

この花ダンの横から、阪急電車の高架をくぐる。

角のお家は付近ではもっと家庭園芸に熱心なお宅。
家の2方(西側と南側)で御夫婦二人でびっしり花を育てられてる。今はポーチュラカが見事。

理髪店。1時間をここで過ごす。時々、私のブログを覗いていただいているよう。もう30年くらいここでお世話になっている。
只今の料金は3600円。8%へ消費税が上がった折には、値上げを見送っている。理容スーパーとの対抗上値上げは不可能と判断されたよう。

そういえばこの店から徒歩1分もかからない地点で一軒スーパー料金で営業していた個人店があったが、最近店じまいなさったようである。
 あと数分歩くと駅前に達するが、駅の北側にも、南側にも客の途切れがない大きなスーパー店がある。
 その間にも美容店を兼務したような、流行を売りにするような高額料金の店が複数ある。

↑駅前のオートバイ専用駐輪場。いつもいっぱい。

そこから駅の南改札口の前を通って、駅の東側の踏切を越え、
さらに東に向かうと、(私が名付けた)「八重桜通り」

青葉の時期でも、何度も見ているので、冬桜はすぐ見分けがつく。道路が広い割には車の通行は少ない。
西行きが規制されていて、かつ大型車通行不可能だから。

私の野草観察地点、建築が始まっている。12月末に完成するようである。

建築計画表の最下部、いまでも他の、とっくに終わった遺跡調査の案内でふさがれている。ここに建築予定の高層ビルの名称や用途が書かれていたが、内容が変更になったようである。

図で見る限り中層というよりは低層のものになっている。
高齢者専用と謳ってもいいように思うが・・。

建築用地の東端は用水路であるが、埋め立てるかも。ここは塚口城の2重の濠のひとつである。
西端にもどり、旧の塚口御坊の内部へ通じる道路へ入り込む、ビル建築のために位置はかなりずれた。

ビルの西側は私有地で、駐車場になっている。その一角が家庭菜園みたいになっている。

いちじくはまだ熟していないが、それでもいい匂いがする。

用地の北側からみた。完成時の様相などまったく想像できない。
数歩北へあるくと旧町の東町の端っこに出る。
東町の山車蔵が見える。塚口城の東門跡が見える。
地区会館も見える。

左側には、旧家が建つ。

矢野さんの邸宅である。

門の前の道を渡ると
菰作りの工場である。
社長さんは確実に昼ごはんを家で食べることができる。

台風のための早帰りか、あるいはすでに授業短縮時期に入っているのか?
湯上り状態の小学生が歩いてゆく。
そういえば今日は6歳児の誕生日で、7歳になった。
通信簿も貰って帰ったようである。「できた」と「がんばりましょう」の2欄しかなく

ただしくよめる、とか、みんなのはなしをきく、かずのけいさんができる、おんがくをたのしむ
たのしくみずあそびができる、とか、たのしくからだをうごかすとか15項目しかない。
ほかにもがいこくごかつどうなどというのがあって、えいごのじゃんけんやかずのうたをたのしくうたったりすることができたことについて特別の欄がある。

カード係りにあたっていたようで、給食当番のカード変えなどは、クラスのお手本でしたという記述がある。

(今ラインで送られてきた画像を拡大して確認)

この旧家の西側から見た様子。

↓塚口御坊跡の寺の敷地。多くが駐車場として運用されている。
カイヅカイブキの木の向こうに見える建物が本堂である。

駅の北側にもどり、コンビニに入って1周。蒸し暑かったので涼むためと、どんなパンを扱っているかを確認のため。イオン製と山崎パン両方を扱っていた。
ローソンもダイエーも食パンは山崎製を扱っている。








台風

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昨夜ベゴニアノ鉢をひとつだけ玄関内へとりこんだ。

台風下取り込む鉢に限りあり 高澤良一 暮津

台風に先手打ち鉢取り込みぬ 高澤良一 暮津

ねずみのこまくら  というHPを公開しておられる。
例によって高澤良一で検索。1ページ目に「ショウちゃんのブログ」登場。
「満作」で検索したおり、この人の句ばかりを紹介する機会があったよう。
本人は記憶していなかった。

続 俳句検索
で高澤さんの台風の句だけを紹介。



馴れ合ひの台風となり手を抜けり 高澤良一 暮津

台風の後の鶏頭つんのめる 高澤良一 暮津

のろまなる台風と聞きやきもきす 高澤良一 暮津

台風の風納まると見え夜半 高澤良一 暮津

台風の雲脚迅し箱根山 高澤良一 暮津

台風の雨の底抜け箱根町 高澤良一 暮津

台風の置きみやげなる蒸し暑さ 高澤良一 暮津

台風下取り込む鉢に限りあり 高澤良一 暮津

台風の箇条書きなる注意ごと 高澤良一 暮津

買置きの煙草とライター台風下 高澤良一 暮津

台風の眼のなかジメジメしてゐたり 高澤良一 暮津

台風下足のベタつく厠板 高澤良一 暮津

台風の只々だだっぴろき空 高澤良一 暮津

台風のあとの日差しに疲れけり 高澤良一 暮津

台風直下こんなものかと空見上げ 高澤良一 暮津

台風来植木に施す紐いろいろ 高澤良一 暮津

ワンワンと犬鳴き台風中休み 高澤良一 暮津

台風の中出て垣根手当せり 高澤良一 暮津

一灯の他は台風圏の闇 高澤良一 暮津

台風にこれから日本一騒動 高澤良一 暮津

うなばらの涯まで台風一掃す 高澤良一 暮津

朝餉の茶台風接近前にして 高澤良一 暮津

台風の前宣伝が効きにけり 高澤良一 暮津

忍び寄る巨大台風蜘蛛知るや 高澤良一 暮津

台風にこれから痛めつけらる樹々 高澤良一 暮津

台風のその牙チャンネル切り替えても 高澤良一 暮津

妙に明るきものよ台風眼のなか 高澤良一 暮津

台風に先手打ち鉢取り込みぬ 高澤良一 暮津

大写し見ての通りの台風禍 高澤良一 暮津

台風のその規模風鈴きりきり舞 高澤良一 暮津

煙草買ふ間ありて台風中だるみ 高澤良一 暮津


台風の素通りてふはなかりけり 高澤良一 素抱

台風のものおそろしく覚む夜半 高澤良一 素抱

金魚玉如何に台風荒れやうと 高澤良一 素抱

台風を生める地球と金魚玉 高澤良一 素抱

なまなまと台風の夜に入りにけり 高澤良一 素抱

台風にひらきなほりて真っ裸 高澤良一 素抱

台風の巻き添え喰って鳴く蝉か 高澤良一 素抱

台風の接近降ったり日が差したり 高澤良一 素抱

台風の来る日を蝉の知らん顔 高澤良一 素抱

台風の張り手出し投げ何でもあり 高澤良一 素抱

蔓といふ蔓を台風一掃せよ 高澤良一 素抱

台風の眼の中の蝉憶せずに 高澤良一 素抱

ゑのこ草首を振り振り台風裡 高澤良一 素抱

台風報報じ直して県全域 高澤良一 素抱

台風の近づいてゐる千草の葉 高澤良一 素抱

玉突きの玉めく台風天気図に 高澤良一 随笑



2003年の「俳句検索」では88句

台風の眼のぽつちりとくつきりと 行方克己 昆虫記

一樹にこもる雀台風去りし後 加藤憲曠

台風の落し子遊ぶ芋畠 清水基吉

台風来屋根石に死石はなし 平畑静塔

台風圏飛ばさぬ葉書飛ばさぬ帽 磯貝碧蹄館

台風のちかづく窯火混沌たり 坂巻純子

台風一過小鳥屋の檻彩とび交ふ 大串 章

放課後の暗さ台風来つつあり 森田 峠

台風のなきまっすぐな胡麻を刈る 足立 晩生

台風の前の静けさ梨を採る 檜田 慧星

台風の動きの遅々と夜に入りぬ 佐野 五水

台風の目の中天道虫を掌の平に 前田秀子

台風の後くるひなき杉の列 今瀬剛一

遠き台風洗ひても~コップ曇る 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』

台風過療者は胸に手を遣し 齋藤玄 『玄』

綾取りをして台風の行くを待つ 鈴木三和子

台風の報聞く帰国のエアポート 八巻絹子

台風の駅を出てゆく豚の貨車 林 民子

台風や四肢いきいきと雨合羽 草間時彦

ビヤ樽に台風前の雨ぎつしり 秋元不死男

台風に唸り返してポプラの樹 斉藤和夫

落ちし巣に蜂飛びかひて台風禍 堀井美奈子

蒙古塚かの日の如き台風来 大島きんや

台風過神も仏も手薄なり 新井智恵子

台風の前ぶれに涌く海つばめ 福永みち子

台風の大き夕日を残しけり 塚原静枝

台風禍女人高野に及びけり 田中年枝

台風の生るゝ眼下を渡る旅 池田太恒

台風の被害大木もてあそぶ 辻内代美子

井戸水を濁し台風去りにけり 藤本安騎生

台風の街に自販機点しけり 高橋桃衣

肉眼で見ることの無き台風眼 福田万紗子

台風や無口なる人動き出す 笹本カホル

台風に一喜一憂林檎園 荻原達昭

台風の来るたび鼠太りけり 真山 尹

台風の水禍ここまで壁の線 田中康雄

梅酒わくや台風速度増しにつつ 吉野義子

唐辛子台風すぎし天を指す 水谷晴光

やはらかき陽をまぶたにす台風禍 石川 桂郎

疼く歯や台風洋を来つつあり 相馬 遷子

ひとりの起居台風の燭かばひつつ 馬場移公子

台風過往診蹴りし悔のこる 下村ひろし

台風の前ぶれに涌く海つばめ 福永みち子

妻の手のやはらかすぎし台風過 橋本榮治 越在

台風はきぞに朝顔の種収む 臼田亜浪

台風に迷走といふ語ありけり 久永雁水荘

台風の報刻々と産気づく 大場思草花

台風の蜂の巣おもて蜂の満つ 新津香芽代

洋傘ひろげ台風の尖すでに感ず 近藤馬込子

台風が木犀の香を払拭す 相生垣瓜人

台風の去つて玄海灘の月 中村吉右衛門

台風の過ぎたる見れば荒川が太りていたる月を浴びつつ 沖ななも

圧力鍋音して台風圏に入る 辻美奈子

ひとりぶんの米研いでゐる台風裡 辻美奈子

台風来高原の闇うねり来る 柴田奈美

台風が尾骨に迫る星夜かな 五島高資

台風の目に入る自動販売機 五島高資

台風のあとの空気を食べにけり 五島高資

ゆつくりと台風の来る山容ち 藤田あけ烏 赤松

台風を迎え討つ気の豚舎なり 加藤あきと

台風圏水は輝くこと忘れ 中川いさを

台風に瓦浮きたり日吉館 志賀松声

台風と闘ひし傘携へて 木暮陶句郎

大落暉呑めり台風兆す海 米田双葉子

台風裡浅蜊に砂を吐かせをり 大串章

台風の生れたる地図日本小さし 右城暮石

土平らし居り台風の来るまでは 右城暮石

望以後の月かつうばひ台風来 亀井糸游

堀割に台風避くるマストふゆ 亀井糸游

人生の台風圏に今入りし 高浜虚子(1874-1959)

美食して戻る台風の目は遥か 鈴木真砂女

蓼ほそくのびて台風圏に入る 藤木清子

台風に寝てマンションは玻璃一重 品川鈴子

手が見えて台風前の火造場 原田喬

姨捨山上台風を見送りぬ 原田喬

台風を告ぐる港の拡声器 大島民郎

マネキン反り指ぬれる北上台風 和田悟朗

台風去り松に戻りし松林 辻田克巳

台風は過ぎ茄子の木に茄子の花 今瀬剛一

台風あと別な白さの萩咲ける 細見綾子 存問

フェニックス必死の翼台風裡 森田峠 避暑散歩

燦々と台風一過カレー煮よ 松澤昭 面白

台風のそとにでてゐるえとらんぜ 松澤昭 麓入

台風やひとり娘に灯が鮮た 飯田龍太



足裏のざらざらとして台風圏 原國郁子

人生の台風圏に今入りし 高浜虚子



河骨

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阪急電車の駅名は「西宮北口」。
田園の中にできた駅だと思う。
しかし西宮句会の会場が、やっと今日気づいたのだが、
(というのも結社誌上における句会案内が、大阪句会だと会場が「大阪市中央公会堂」、
尼崎の句会だと、「立花公民館」となっているのに対し、西宮の句会場は「プレラにしのみや」となっている)西宮市の中央公民館で開催されている。

中央公民館が、西宮の酒蔵などがあるかつての中心部分ではなく、北のはずれの阪急電車「西宮北口」の駅前にあることは、市の中心部分が移動していることを意味する。

神戸市の中心部分が神戸駅ではなく三宮駅に移り、そこに県庁も市庁舎位置しているような
変化が、西宮でも生じているのであろう。

マンホールは、今でも西宮を代表する甲子園球場や酒蔵などをイメージしているが。


プレラにしのみやの館内案内
集会室は6階にある。よって句会もこの階の一室で開催される。
同じ時間帯に小学生や中学生向けの教室も開催されているらしく、
いつもエレベーターは女子の小・中学生で満杯になる。

プレラの外観

台風一過、JRは午後もなおダイヤが乱れ、あるいは運行中止になっているが、
よく晴れた日となった。

6階のエレベーターホールの窓から、西・北の方をみている。
高層ビルは震災復興ビルである。ビルの手前が阪急西宮北口駅で、
右手は今津線である。今津線の西側に、阪急電車の駅から西宮ガーデンズという
阪急ブレーブスの球場跡地にできたSCへ通じる回廊がある。

阪急資本が手掛けたので、西宮北口駅は「西宮ガーデンズ前」という副名称がつくようになった。

↑県立の芸術文化ホール

プレラホールの裏側(今津より)に瀟洒なイタリアレストランがあったが
店じまいしたようである。
今津線の高架。この手前に店があった。


↓こんな店があちらこちらにできているとは聞いていたが
見るのは初めて。この店はカプセル サロンを名乗っている。

かわりに美容院ができていた。開店したばかりのよう。


河骨の骨が愛しと蟇

河骨を無季語としてあつかったつもり。

高山植物園で見た河骨

国体を決める法案花藜
クロトンの七色戻る暴風後




夜桜

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先日、割引券が手元にないという理由で、ピザの注文をやめ、自作したら結構評判がよかったので、また作ってみようと言っていたワイフのために、予告なくゴーダチーズを買って帰ったら、早速ピザ作成。

私はアンチョビ・ファンだが、そこはイワシで代用。

夜、セミの羽化を見に行くというので、羽化は明け方だろうとは思ったがお付き合い。

いつも4月に紹介している公園の夜桜。
ただし7月半ばは初めて。

夏の夜の桜の葉群艶なりと


昼間の公園
日曜日だが大雨の後のせいか人出はなかった。

姫女苑

ついでに庄下川沿いを少し

増水したはずだが、痕跡はあまり残っていない。が、漂う匂い、臭いと書くべきか、はきつい?

水位はほぼ正常に戻っている。

中の島公園



ボランティアグループの作品↑

なぜここを中の島公園というのか?

縄文時代には庄下川は存在しなかった。

川が始まる地点が海岸であった。

平安末期には尼崎城跡地位まで海岸線が南下していた。

阪神電車本線の「大物」駅のすぐ近くの神社内には、弁慶・義経が隠れ住んだという場所が残っている。そこから徒歩5分以内のところの、
大物川を埋め立てた跡地の公園内部に船着場跡も残っている。

その辺りで、義経と静御前は分かれたのであろう。

あたりは沼沢地で小さな島が点々としていたはずである。

1995年の地震の折には、その辺りで液状化が生じているのは沼を埋め島が陸地化していったためであろう。

よって奈良時代には庄下川は存在していた。

しかし長洲だの尾浜だのはまだ数キロ先だから、中の島あたりは、川と海と沼と島が混在していた時代があったはずである。生嶋荘園があったので、庄下川という名がついたというからには生嶋という地名じたいそこが島であった名残かもしれない。

庄下川のほとりにある噴水、これとほぼ同じような施設が、中の島公園の内部にもある。
公園はこの噴水の見える場所の背後にある。



生嶋荘

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尼崎市内の歴史散歩


というHPに、私が案内した尼崎の歴史関係画像のほとんどすべてとそれ以上のものが
紹介されている。

昨日、中の島という公園名に関連して「生嶋荘」を検索しているとやたら私のブログが
登場する。最近とみに、生嶋荘関連のことを書いているからである。

そんななかで上記のHPに行き当った。






大阪平野の環濠都市を扱った、大阪工業大学の3人連署の論文
の一部を紹介。

2 尼崎の環濠自治都市:尼崎の繁栄のピークは堺・平野より早く 13~14 世紀であり、魚商人が瀬戸内海から房総半島までを商圏とし、後述の河内木綿の台頭までは武庫川流域産の綿は全国で最も品質が優良とされていた。5)早い時期に繁栄したのは都に近かったため中央集権の手が及びやすく、かつ交通の要衝であったため漁民のなかから商人が派生的に誕生した。それ以前は漁業や運送業などに従い、事あらば水軍となる漁民が西国への渡航を請け負っていた。漁民が運送業であったと同時に水軍であり、場合によっては海賊でもあった。6)古くから培われた海に親しむ生活と商業の行動範囲の広がり、海民の伝統が近世尼崎の漁民や生魚商人を生み出すこととなった。7)自衛自治においては幾多の武庫川の氾濫で荒廃したところを明徳年間(1390~93)に再開発し、生嶋四ヶ村(旧立花村)(上ノ島・栗山・大西・三反田)が成立した。この四ヶ村に一村ずつ開発の頭として座敷衆という宮座をもうけ、自衛のために濠を掘り、自治を始めていった。8)そして座敷衆が自衛自治の中心として活躍した。9)これらが七松環濠・武庫環濠・次屋環濠・富松環濠と呼ばれている。10)11)尼崎市域の環濠集落は大和平野に見られるような幅の広い堀に囲まれた規模の大きなものはないが、他の環濠自治都市との共通点としては中世の発生ということが挙げられる。

数字)(例 10))は注番号である。


 3 平野の環濠自治都市:有力開発名主であった七名家





祇園祭

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今年は台風の関係で、祇園祭前祭には行かなかったが、
欠かしたことがないワイフの方は宵宵宵宵山へ出かけた。

スマホから送ってくれた画像

↑の3枚はどうやら当日のテレビ画像のよう。
受信トレイを繰ってそれより前のものを探し出す。

ゆうべ、4日遅れで7歳児の誕生祝い

連休明け夕刻6時過ぎの駅前風景

「駅前」の例句、「俳句検索」のものは以前に紹介したので、
新俳句検索のもの

逗子駅前ああやっぱりと燕見き 高澤良一 石鏡

駅前の木の五、六本聖樹とし 高澤良一 石鏡

駅前に街の未来図春を待つ 富田初代

駅前に草屋一軒竹の春 平瀬 元

駅前の屋台整ふ星祭 新津栄子

駅前に茄子苗売りのこぼせし土 田川飛旅子

芒生ふ駅前仮バスターミナル 高澤良一 素抱

駅前の自転車サドルに赤とんぼ 高澤良一 随笑

駅前の木のそこかしこ聖樹の灯 高澤良一 燕音

駅前の昼の懈怠に花散れり 太秦女良夫

駅前を承知のさくら咲きはじむ 五十嵐研三

駅前の蚯蚓鳴くこと市史にあり 高山れおな

駅前のいまも種屋の秋簾 廣瀬直人

余呉の駅前もうしろも大青田 浜崎民子(築港)

駅前で天地みている鶏と 阿部完市 鶏論

退職す駅前噴水にも別離 成瀬櫻桃子 風色

駅前をぶらぶら歩く夏休み カコタミミズク

駅前に茄子苗売りのこぼせし土 田川飛旅子





踏切も朝ほどには込み合っていない。


↑家からもっとも近い、阪急神戸線の高架をくぐって、陸橋上から北側を見ている。
右手に建築中の10階建てマンションが見える。そちら側が塚口町1丁目。
道路の左手が3丁目。この南北路が、阪急電車の路線境に、塚口町と南塚口町を分けている。
さらに北へ行くと、この道路が2丁目と4丁目の境界線となる。2丁目と4丁目の北は伊丹市である。



↓同じ陸橋から南を見ている。

左側の道路沿いの店は南塚口町1丁目で、
南塚口町はここを1丁目の西の端として、東に向かっって2丁目、3丁目とつづく。
駅はよって北改札口は塚口町1丁目にあり、南改札口は南塚口町2丁目にある。

3丁目まで東へ延びた南塚口町は、古くからある南北路を境界とし、それを渡ってJR塚口駅方面へ向かうと東塚口町となる。

南塚口町は3丁目の南側で4丁目となり、今度は西に向かって、5丁目、6丁目となり、
↑の道路を境に、7丁目となり、今度は北に向かって、ちょうど上の画像の右手が8丁目となる。
8丁目は、私がいつも歩いている庄下川の左岸までつづく。

とくとくと解説しているということは、以上の事実をこの地に長く住みながら、私が知らなかったことを意味する。

なにより知らなかったのは、南塚口町の大部分は旧の塚口村ではないということである。
地区としては園田地区なのである。園田村も沢山の村の集合体であるが、そのまた前の村の名前はまだ知らない。


市の芸術文化協会の機関誌への投稿。
毎年7月末に送っているので、7月26日の薪能の句を1句入れたり、当日挨拶をされる市長さんの挙措を詠ったりしているので、まだ中身が変わるかもしれないが、今仮稿ができたので
紹介。

ワードで作成したものは、そのままではブログ画面に利用できないので、
一度メール作成画面に貼り付けてテキスト化して再度コピー

増水後合わぬ帳尻莔麻の実

爆買いの客の早口心太

襁褓干した記憶幽かに暴れ梅雨

能弁な池上彰照紅葉

御三家の名札の配置夕もみじ

山眠る前に翁の大往生

純白のヨハネパウロ二世テロ圏外

よく売れる男物インナー花藜

青空へ伸びきるクレーン雛桔梗草

装甲車の方寸の窓凌霄花

片付かぬ懸案の数赤榕の実

お手玉取る祖母の指先国慶節

踏み込んで盗人萩に咎められ

梅雨小袖昔八丈希臘危機


400字エッセーも書かねばならないが、昨年のタイトルは「庄下川」
けっこう間違いがある。庄下川の上流の川の名を間違っている。
昨年からの1年で、私の庄下川探索距離も延びたし、知識も増えた。
「続 庄下川」とでも題するつもりだが、まだ1行も書いていない。

子規庵

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子規庵のHPより




子規庵
▲小園より見る子規庵/画・山田 漱


子規庵の建物は、旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれています。

明治27年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。 

 子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけましたが老朽化
と大正12年の関東大震災の影響により 昭和元年に解体、旧材による重修工事を行いました。

 昭和2年、母八重(83歳)没。同年7月子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵(子規文庫)建設に着工。 


昭和3年、子規門弟を中心とする子規庵維持保存会が財団法人子規庵保存会として認可され、初代理事長には正岡律が就任いたしました。 

 
 昭和16年妹律(71歳)没後、同20年4月14日の空襲により子規庵は焼失。

幸い土蔵は残り貴重な遺品が後世に残されました。現在の子規庵は昭和25年高弟、寒川鼠骨等の努力で再建され、同27年東京都文化史蹟に指定されて現在に至っております。


現在は朝顔を販売中であるが、
ワイフが訪ねた時には、鶏頭の種を売っていたよう。

辺りの風景に惚れたらしく、ワイフは2度以上出かけている。JR山手線鶯谷駅の近くらしい。

今日のワイフ

本年2度目の救急車。
家の近くのコンビニ前から乗車。

子規庵の蓑笠ゆれぬ雁渡し 長谷川かな女

子規庵の縁側ことに秋暑かな 上田日差子

子規庵に車座となり秋澄める 野田禎男

子規庵にしばし端座も九月かな 村上谿聲

子規庵のユスラの実お前達も貰うて来た 河東碧梧桐





二三子と子規庵に在り秋日和 深川正一郎


二三子って誰か?

ウィキペディアの解説からでは咲子という娘の名しか出てこない。

深川 正一郎(ふかがわ しょういちろう、1902年3月6日 - 1987年8月12日)は、愛媛県出身の俳人。上山村(現四国中央市)生。11歳で両親と死別し祖父母に育てられる。川之江二洲学舎卒。在学中より俳句・短歌をたしなむ。1924年、文芸春秋社に入社。1930年、日本コロムビア編集長に就任。翌年、俳句朗読の録音で高浜虚子と知り合い師事する。のち「ホトトギス」同人。1949年「冬扇」を創刊・主宰。1973年、妻の健康のため「冬扇」を終刊。1987年、「ホトトギス」同人会長となり、また日本伝統俳句協会設立に伴い初代副会長に就任。高浜虚子、高浜年尾稲畑汀子と三代にわたって師事し「ホトトギス」の重鎮として活躍。また「山会」の主要メンバーで写生文でも活躍した。1987年8月12日死去、85歳。句集に『正一郎句集』(1948年)『正一郎句集』(1982年)『深川正一郎句集』(1989年)。また『定本 川端茅舎句集』(1946年)『定本 虚子全集』(1948-49年)『定本 高浜虚子全集』(1973年-75年』等の編集に携わった。娘の川口咲子も俳人。




昭和

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昭和は遠くなりにけり に類する句は
結社句会でもよく現れる。

「俳句検索」で「昭和」を検索

460句



既に陳(ふ)る昭和の書あり曝すなり 竹下しづの女句文集 昭和十年

ポケットに星屑ありし昭和かな 高野ムツオ 蟲の王

昭和など忘れて久し春時雨 高野ムツオ 蟲の王

冬薔薇の蕾のままに昭和果つ 五島久子

都鳥昭和の白のながれゆく 津根元潮

昭和逝くタンカーは鴎を曳いて 児玉悦子

車中の夕日昭和が溺死していたり 高野ムツオ

終らぬ昭和シベリアの匙むきだしに 小田 保

昭和衰へ馬の音する夕かな 三橋敏雄

昭和終るタイヤが咥えたる石と 鈴木六林男

昭和の銀座へ冬帽を取りにゆく 小原洋一

昭和すでに撫子はみな何処へ行きし 中村苑子

茶立虫昭和一日づつ遠し 木内彰志

干飯噛む錆びし昭和の金歯かな 五島エミ

昭和余年平成後年寒椿 大井恒行



最も永き昭和のばらの咲きはじむ 阿部みどり女 『石蕗』

父ははの昭和も過ぎぬ蕗のたう 大木あまり 火球

人日の野辺に昭和の終る雨 落合水尾


若菜野に雨降りやまず昭和逝く 垣迫俊子

読初の胸中熱し昭和篇 西田妙子

寒行の鈴に昭和の遠ざかる 岡林博茂

あかぎれが疼くよ昭和ひとけたよ 宇咲冬男

煮凝や還暦といふ昭和の子 宮岡計次

霜の土昭和無辜の死詰めて逝く 古沢太穂

父の老凍雲起伏来し昭和 森 白樹

四方山の紅葉疲れを昭和びと 三橋敏雄

たっぷりと昭和に生きて毛虫焼く 藤原美峰

水虫は父の勲章昭和果つ 飯田綾子

蚊帳吊りし昭和の釘の残りけり 成井 侃

白地着て顔の見えざる昭和の夜 鴨下 昭

短足の昭和一桁浜蒲公英 中村棹舟

しんがりに昭和一桁花筏 山崎 聰



ソメイヨシノ昭和の端を歩いてきた 岡崎淳子

目下は西宮句会の指導役である。所属結社「暁」の事実上の編集長である。





昭和の世ひた惜しみ松納めけり 中本 柑風

七草粥吹いて昭和を送りけり 三嶋隆英

昭和の色大正の色錦鯉 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨

道をしへ跳ね跳ね昭和永きかな 平畑静塔



既に陳(ふ)る昭和の書あり曝すなり しづの女

昭和すでに撫子はみな何処へ行きし 苑子

昭和夢見し少年倶楽都鳥渡る 高橋康菴



おもかげに荒草まじる昭和かな 永末恵子



みどりの日昭和一桁老いにけり 稲畑廣太郎



母親は確かに昭和1桁世代。しかしまだ車を運転して句会巡りをなさっている。

稲畑汀子  ウィキペディアより。

神奈川県横浜市に、父高濱年尾、母喜美の次女として生まれる。幼時を鎌倉で過ごしたのち、1935年、兵庫県芦屋に転居。小林聖心女子学院高校卒業を経て、同英語専攻科在学中に病を得て中退。小学校のころから祖父高濱虚子と父年尾のもとで俳句を教わった。英語専攻科中退後、俳句修行に専念し、祖父と父に同行して全国を廻る。1956年、24歳で稲畑順三と結婚、のち二男一女の母となる。1965年ホトトギス」同人。1977年より「ホトトギス」雑詠選者。

1979年、父高浜年尾の死去により「ホトトギス」主宰を継承。翌1980年、夫順三死去。1982年より朝日俳壇選者。以後世界各地を吟行し諸外国との俳句親善に努める。1987年日本伝統俳句協会を設立し会長に就任。1994年NHK俳壇の講師・選者(1996年まで)。芦屋市教育委員長に就任。2000年虚子記念文学館を芦屋に開館、理事長に就任する。2013年10月、「ホトトギス」主宰を息子の稲畑廣太郎に譲り、同名誉主宰に就任。正岡子規国際俳句賞選考委員等も努める。

代表句に
「今日何もかもなにもかも春らしく」
「落椿とはとつぜんに華やげる」
「初蝶を追ふまなざしに加はりぬ」

「空といふ自由鶴舞ひやまざるは」など。


カトリック信仰に裏付けられた明るさと謙譲さが特色。父年尾は第一句集の序文で「星野立子の句を虚子は「景三情七」といったが、汀子の句は「景七情三」といえる」と書いている。「人間も自然の一部」という考えに立ち、自然保護のボランティア活動にも従事。また花鳥諷詠の解釈を、有季定型を通じて人事を含む一切の森羅万象を詠むこと、いのちを詠むこととして、日本情緒の自然詠に限らないとの認識を示す。国際俳句シンポジウムなど、俳句国際化のための活動も積極的に行っている。



冬山のいま終りたる昭和かな 中杉隆世


春眠の昭和のはじめまだくらし 小川双々子

角々に昭和の兵士結氷期 米花紺子




春眠し昭和一桁ことに眠し 大牧広

昭和日暮の蚊帳吊草を吊る遊び 柿本多映




冬鳥の行衛の杳と昭和尽く たむらちせい

昭和より流謫の日々や霜柱 斎藤慎爾

雪に印す昭和を生きし靴の裏 佐々木春蔵

後ろ手に襖を閉めて昭和亡し たむらちせい

生き抜きし昭和がこころ紅葉酒 時野穂邨

睡蓮に辿りつきたる昭和かな 徳弘純

名残梅雨斂葬をもて昭和逝く 泉治人

大正・昭和・平成の人草を刈る 遠藤ひろし



なづな粥すする昭和の消え行く日 町田しげき

昭和逝く七日の夜の雨の音 関森勝夫

元禄も昭和も末世大雪解 西本一都



ステテコや彼にも昭和立志伝 小沢昭一


冬座敷かつて昭和の男女かな 宇多喜代子 象

鏡中に昭和果てたる床柱 桂信子

昭和逝く七日の夜を髪洗ふ 蓬田紀枝子

冴返り冴返りつつ逝く昭和 中嶋秀子

既に陳る昭和の書あり曝すなり 竹下しづの女

海ゆかば海に橋なし昭和果つ 沼尻巳津子

七種を摘む間に昭和終らむと 小泉八重子

するすると絵馬の蛇消え昭和消え 寺井谷子

昭和果つ七日の波頭すべて鎖 熊谷愛子

昭和日暮の蚊帳吊草を吊る遊び 柿本多映

青蚊帳を泳ぐ昭和の日暮かな 柿本多映

昭和日暮の蚊帳吊草を吊る遊び 柿本多映

西日さす昭和文学全集や 池田澄子

寒蜆昭和ひと桁またも死ぬ 辻田克巳

眼鏡の露より昭和はじまれり 攝津幸彦

四方山の紅葉疲れを昭和びと 三橋敏雄 *シャコ

去りまして永き昭和の寒さかな 山田みづえ 草譜以後

昭和時代水銀燈の櫻の園 山口誓子 方位

鉢叩いまだ昭和の終らざる 原裕 出雲

昭和64年の1月7日辺りに詠われた句が多い。
103句から、ダブリや製作年代の「昭和」などを削除したのを上記。

あと300句以上は、すべて製作時期を示す昭和年号であった。

蚊帳の句が目立った。昭和も30年代はまだ蚊帳を吊っていた。

濃緑の麻蚊帳は重たかった。
白地に薄い青模様の蚊帳に変わったが、もう田舎の家家にも保存されていないであろう。


ご近所に残る昭和の家
ここ20年ほどは無人だが時々、補修や草刈りが行われていたが、いまはそれもない。
確か砥職のような店だった。

昭和の家を代表するのが雨戸であろう。
江戸初期にも雨戸はあったのだろうか?

雨戸は書院造り呼ばれる建築方式が安土桃山時代に採用され始めた頃からのものらしい。
400年間生き延びたようだ。
黒板については調べたことがある。19世紀前半のイギリスに登場。
これは150年ほどで歴史を閉じた。いまはグリーンボード、ホワイトボードであるが、
これまた変貌中である。

ついでに蚊帳の歴史博物館

からの丸写し情報

(一茶の句の紹介もあったので)

蚊帳と書いても、なかなか「かや」と読めないのですが、 わが国では「播磨国風土記」で応仁天皇が播磨の国を巡幸の際に 「賀野の里」(=かやのさと)という所で、殿を作って蚊帳を張ったという記録が 蚊帳のはじまりのようです。 稲作=水田=蚊の発生=蚊帳の誕生となりましょうが、 どうやら蚊帳が本格的に作られ始めたのは奈良時代のことで、 唐から手法が伝わり、蚊帳の材質は絹や木綿だったようです。


これが、「奈良蚊帳」と呼ばれていたそうですが、
室町時代に入って、この「奈良蚊帳」の売れ行きに目を付けた
近江国の八幡の商人がはじめて麻の糸を織らせて蚊帳の生産を始めたのが
「八幡蚊帳」と呼ばれた蚊帳だったようです。

なぜ、近江八幡地方だったかというと琵琶湖の湿気が蚊帳を織るのに適していたということ。
湿気が十分でないと蚊帳の縦糸が切れやすいと言うことで
この地に蚊帳生産が根付いたようでした。

また改めて麻素材が
、蚊帳を蚊帳としてより付加価値の高いものにしていったとも言えるでしょう。

1566年(織田信長が桶狭間の戦いに勝った6年後)に、あの知る人ぞ知る、有名な(私はその業界の人間でして・・・・)ふとんの西川創業の年とされています。すなわち、初代西川仁右衛門が19才で蚊帳・生活用品販売業を開業し、その後、1587年  近江八幡町に本店 山形屋を開業したのがはじまりです。このころの蚊帳は上流階級だけの贅沢品で、戦国武将のお姫様の輿入れ道具としても、また夏の貴重な贅沢品として「米にして2~3石」と言う高価なもので、庶民には暑苦しい紙の蚊帳(=紙帳)が使われていたようでした。件の西川さんはその後、工夫を凝らし、1620年代=寛永年間、に二代目西川甚五郎が麻生地を萌黄(もえぎ)色に染め、紅布の縁をつけたデザインの『近江蚊帳』を販売し、人気を博したようです。西川をはじめ八幡では、江戸時代に入ると17軒の蚊帳屋が講を形成していたそうで、それが現在の日本蚊帳商工組合の源のようで同じ近江の長浜でも「浜蚊帳」と呼ばれる蚊帳の生産が始まり両方を合わして「近江蚊帳」と呼ばれ非常に有名な産品になったそうです。一方、一般農村の人は「江戸では夜は青畳に寝て、夏は蚊帳をつる」とうらやましがっていたそうですが、実際にきちんと蚊帳を吊って寝ていた人はどの程度だったのか? 一茶は    「馬までも 萌黄の蚊帳に 寝たりけり」    「江戸の水 呑々馬も 蚊帳に寝る」    「夕風や 馬も蚊帳吊る 上屋敷」と詠っており、当時、馬にまで蚊帳を使っていた人があったようです。しかし、とうの一茶自身は    「留守中も 釣り放したる 紙帳かな」    「月さすや 紙の蚊帳でも おれが家」という状況だったようです。ここで、出てくる「紙帳」とは、紙製の蚊帳で和紙をもみほぐして、それを張り合わせて作るそうで、大きさは普通の蚊帳並みで、壁面に30センチ角位の窓があって、そこには蚊帳の切れ端が縫いつけてあるそうです。庶民とは少し離れたところの麻の蚊帳でしたが、合成繊維の蚊帳が出始める1960年頃までは近江を中心にかなり好況だったようです。合成繊維の蚊帳が出始めと同時に、この昭和40年ころから蚊帳の使用が減りました。これはちょうど、鉄筋コンクリート製の集合住宅が東京などで作られ始めた時期で、この建物には蚊帳をつる鉤を取り付ける場所がありませんでした。また、アルミサッシが普及したり・・・・クーラーが出てきたり・・・・強力な殺虫剤が登場し、あわせて下水道が完備され・・・・さまざまな要因が蚊帳を過去のものにしていきました。そのように、蚊帳が無用の長物になりそうで、でも、消滅しなかったのは何故か??このサイトでも数年間にわたり、なぜか蚊帳?なのに蚊帳!アンケートで実施してきていますが、夏はやっぱり蚊帳に限ると言う理由がたくさんあります。まず、「閉め切った部屋で冷房をきかせて寝るのは健康に良くない」「扇風機もクーラーも嫌い」「夜は風通しの良い本麻の蚊帳に入るのが一番いい」「幼い子供のためには殺虫剤を使いたくない」アトピーの専門医さんも殺虫剤をやめて蚊帳をお使いくださいと言っています。また、蚊帳は虫を殺さずに身を守る、蚊帳は日本の心であり、家族の絆を強めるとの評価も受けてます。そんなこんなで 現代における蚊帳の活用法がたくさんあります。蚊帳家屋形態が変わったと申しましたが、昭和40年ころの集合住宅には、部屋の四隅の背丈くらいの高さの所に、鉤が埋め込まれている建物があったそうで、これは蚊帳を吊るすためのものでした。それでも蚊帳は必要だと、それくらい蚊帳は生活必需品だったわけですね。 蚊帳の原型はテントタイプとでもいうのか、竹竿等で井桁を組んでそこに蚊帳をかけていたそうで、昼間は井桁を端にずらしておいて、夜になると広げるというスタイルだったそうで、これは現在でも熱帯地方では行われている所があるそうです。 天井から吊るし始めたのは江戸時代の初期だったようで、1609年にはこのタイプの記述が出てくるそうで、江戸時代中期には電車の吊革のような輪が出来て、この形が昭和まで続くのだそうです。


鳩打ち

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第2刷 ↓
初刷後5日で第2刷が出ている。購入者は息子。
ワイフは1日で読了。


踏み込んで盗人萩に咎められ


という句は、本当は立小便としたかった。
それが実体験である。ちょっと中へ踏み込んで、小を「やってから」、ズボンの裾をみたら盗人ハギだらけになっていた。人目を避ける盗人に「軽犯罪」を咎められる所以はないはずが・・・が句意。

野で小をやるのを鳩打ちといい、大を雉打ちという。


だから

鳩打って盗人萩に咎められ

とすることも考えたが、通じないかもしれないと思っている。

鳩打ちと言えば、ドイツからイタリアまでのキャンピング生活を思い出す。

壊れかかったキャンピング用テントを屋根に乗せて、ドイツのアウトバーンを走っていたことがある。便意を催すと、パーキング・エリアに車を入れる。1970年代だった。

パーキング・エリアは駐車スペースがあるのみ。トイレや店はない。
そのかわりそのスペースから歩いて外へ出ることができる。
周りは小さな森である。森といっても1分も歩けば、森の外へでてしまう木立ち群である。村のはずれの森の中に道を作った名残である。


 森の中の空きスペースには、白い紙で覆われた小山がつづく。
私もトイレットペーパーの巻物を持って、白い紙がない場所を探すがなかなかみつからない。
とうとう森のはずれの村道へ出てしまう。

そこは麦畑。夏だったから焦茶色に染まっている。麦は意外に背が高かった。その向こうにはわずかの人家と、
村の教会の尖塔が見える。コンスタブルの絵のような世界である。




運転手は精神科医。ドイツで研修中であった。同乗者は、精神科医の家族、奥方と3人の子供であった。

ドイツの高速道路、まさに高速道路で、フォルクスワーゲンのバンで100キロで走っていると、
140キロ位のスピードで、ベンツがどんどん抜き去ってゆく。


いろんな国の車が走っている。車種はベンツでも、国籍はイタリアであったりする。
各車が国名を示す3文字の丸い標章を付けていた。日本JPNは一台も見なかったように思う。

印象に残っているのは、東欧諸国であった。
外交官などの特権階級であったかどうか?

ひとつ国がすぐには分からなかったのは、スイスであった。日本ではなじみのない略称であった。CHE であったかどうか覚えていない。4カ国語が公用語故、ラテン語の国名の略語であろう。

キャンプ場では韓国製のラーメンを茹でて晩飯にしていた。
ラーメンは牛乳とともに、西ベルリンで大量に調達されたもので、
私が住んでいた町では見かけないものであった。

他の車はテントの前にイルミネーションなども張って

もっと豪華な食事をしていたと思う。

他の車の多くは同一キャンプ場に数泊していたが、われわれはどこも
1泊であわただしく、毎日150キロ位移動していた。

8月半ば過ぎで夜は冬用のセーターを着こんでも寒かった。

オーストリアに入るとパーキングエリアには粗末なトイレが設置されていた。
イタリアに入るとパーキングエリアには店があって
トイレは有料であった。高速道路も有料であった。
われわれは鳩打ちを続けていたが、
奥方は、トイレが有料と分かると次のより大きなSAなどで
トイレもチップの受け皿だけが置いてあるようなところまで我慢すると言って利用しなかった。

.「鶏頭 子規」で「俳句検索」を検索
ダブリ等を放置すれば以下のかたちで結果が示される。


同郷の波郷鶏頭子規鶏頭 百合山羽公

鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規

鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡 子規

鶏頭のとうとう枯れてしまひけり 正岡子規

鶏頭を切るにものうし初時雨 正岡子規

鯊釣の日和になりぬ葉鶏頭 正岡子規

鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規

こけもせで二百十日の鶏頭かな 正岡子規

鶏頭を机辺に子規忌ごころかな 岩川みえ女

鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規

鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規

鶏頭の赤きこころを子規忌かな 吉田冬葉

鶏頭ノマダイトケナキ野分カナ 子規

鯊釣の日和になりぬ葉鶏頭 子規

鶏頭の十四五本の昃りぬ 素十 (子規を憶ふ)

鶏頭の十四五本もありぬべし 子規

鶏頭の赤きこころを子規忌かな 吉田冬葉

鶏頭の皆倒れたる野分かな 正岡子規

鶏頭の黒きにそゝぐ時雨かな 正岡子規

鶏頭ノマダイトケナキ野分カナ 正岡子規

鶏頭ノマダイトケナキ野分カナ 正岡子規

しぐるゝや鶏頭黒く菊白し 正岡子規

鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規

鶏頭の皆倒れたる野分かな 正岡子規

鶏頭ノマダイトケナキ野分カナ 正岡子規(1867-1903)

鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規(1867-1903)

鶏頭の黒きにそそぐ時雨かな 正岡子規(1867-1903)

鶏頭子規の行きたる方は知らず 原田喬

鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規

鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規

鶏頭ノマダイトケナキ野分カナ 正岡子規

鶏頭の黒きにそそぐ時雨かな 正岡子規

グーグルのトップに「鶏頭 子規」と書きこむと
最初にウィキペディアの「鶏頭の十四五本」の句の解説が現れる。



鶏頭の十四五本もありぬべし」(けいとうのじゅうしごほんもありぬべし)は、正岡子規俳句1900年9月に子規庵で行われた句会で出された句であり、新聞『日本』11月10日号に掲載、同年『俳句稿』に収録された[1]季語鶏頭(秋)。「鶏頭が十四、五本もあるに違いない」ほどの意味で[2]、一般に病に臥せていた子規が病床から庭先の鶏頭を詠んだ句だと考えられている。元来評価の分かれている句であり、昭和20年代にはこの句の評価をめぐって鶏頭論争と言われる論争が起こり[3]、以後も現代に至るまで俳人や歌人、文学者の間でしばしば論議の対象となっている。



「総論」の部分のみコピー↑

その句会では、この句は2点句だったようだ。(虚子を含む19人参加)


.朝のうちだけと思って木立ベゴニアを横に置いた

ユリカモメ

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子規の「14,5本」の句の初出事情

ウィキペディアに詳しい。
昨日、一挙「上映」(=コピー・ペースト)したかったが、
①4万字を超える(運営サイトから拒否される)
②ワイフから常々、1日1テーマでやって。 文字数が多すぎるなど注文が多い。

(引用文は、適宜改行している)

この句はまず1900年9月9日、子規庵で高濱虚子などを含む計19名で行われた句会に出された。

子規の病床で行われた例会は次回の10月14日を最後に行われておらず、以後も死去の年である1902年の2月上旬に一度行っただけなので、これが子規の生涯で最後から三番目の句会ということになる[4]

当日の句会では、まず第一回の運座にて一題一句で十題が出され、「娼妓廃業」「芋」「祝入学」「椎の実」「筆筒」「つくつく法師」などの題が出されたが、体調のためかあるいは興が乗らなかったのか、この運座では子規は「筆筒」の題に「筆筒に拙く彫りし石榴哉」一句を投じたきりであった[5]

つづく第二回の運座では一題十句で「鶏頭」の題が出された(子規の句会でははじめの運座のあと一題十句を行うのが慣例であった[6])。


子規庵の庭には中村不折から贈られたりした鶏頭が十数本実際に植えられており[7]、嘱目吟(実際に景を目にしながら作句すること)でもあったと考えられる[8]

子規はこのとき

「堀低き田舎の家や葉鶏頭」

「萩刈て鶏頭の庭となりにけり」

「鶏頭の十四五本もありぬべし」

「朝貌の枯れし垣根や葉鶏頭」

「鶏頭の花にとまりしばつたかな」

「鶏頭や二度の野分に恙なし」など計9句を提出している。


いずれも写実的な句であり、「十四五本も」の句のみ例外的に観念臭がある[9]。選では「十四五本も」の句は特に支持を集めておらず、参加者のうち稲青、鳴球の二人が点を入れたのみである[10]


高濱虚子は子規の句の中では「鶏頭や」の句を選んでおり、当日虚子が「天」(最上の句)としたのは三子の「葉鶏頭(かまつか)の根本を蟻のゆきゝ哉」であった[11]

この2ヵ月後、「十四五本も」の句は「庭前」の前書き付きで『日本』11月10日号に掲載された。特に必要ないと思われる前書きをつけたのは、難しくとらず写生句として読んで欲しいという作者の思いからだと思われる[9]

         この稿 to be continued


この句についての私の評価:

目下の評価:

「観念臭」??? まずは行動が自由でない作者が縁側の向こうの自分の家の庭を眺めている。小さな世界である。私も昔は、種を播くと、発芽した苗の数を飽くことなく数えていた。
種袋に記載されている発芽率からいって、今年は成功だったかどうかなどを思う。

この句の作者の場合はやや違うだろう。

花瓶に挿した藤の花房がわずかに畳に届かないことを気にする人だから
他にめぼしい花もない9月の庭で、とうとう鶏頭の数を数えはじめたのである。

作者名や作者の境遇がある程度自明なので、(上に紹介したような発表時の様子は全く知らなかったが)鶏頭の数を数えるという心境に「シンパシィ」を覚える。

解説を読んで驚いたのは、作句された時期が台風が2度通過した後の9月9日であること。

鶏頭は、他の句に詠われているように、かまっか(葉鶏頭)であったかも知れない。

我が家で今咲いている(咲き始めた)鶏頭は、ノゲイトウに近い伝統的鶏頭である。

これ9月半ば近くまで咲いているだろうか?(9月になれば分かることだが)

子規庵には鶏頭も咲いていたかもしれないし、我が家で咲いている鶏頭はその子孫であるかもしれないが、子規が作句時に見ていた鶏頭がこれとまったく同じではないかもしれないと思う。



同じような趣向の句が句会に出ていた場合、私がそれを選ぶかどうか?

何とも言えない。可能性としては選ばない。「ただごと」俳句は選ばないので。

しかい正面切ってただごとを堂々と句にされると、ついつい深読みしてしまって入選にする
こともあるので。


とぼとぼと歩き力のいる雪道 五十嵐研三

などは好きな句である。

受験生を乗せて高速エレベータ  ショウちゃん

句会では点が入らなかったが、私は気に入っている。

・・・

生島荘(園)を調べていて、この単語で検索するとトップに私のブログが出てくる。

ワイフ曰く。ならば「庄下川」で検索してもショウちゃんのブログが出てくるのでは?と。

その気になって「庄下川」で検索してみた。いまさっき。

10ページ(100件)繰っても、出てこない。

さらにひつこく、いま書くことを中断してページめくり再開

最後が27ぺージで、300件位あったが、ついに「ショウちゃん」のものは見つけることができず。

「庄下川の画像」を覗いたら、ここでは私の撮ったものが10枚以上収録されていた。

別に気分を損ねたわけでもないが、ついでだから

「ショウちゃん 庄下川」で検索。ここはトップページのトップから初まって続々。

さらに「ショウちゃん 庄下川の画像」では、事実上、私の庄下川画像集になっていているのを
見て、このブログ画面に立ち戻り。

そこで学んだこと二つ。(と書いたが二つ目に何を書こうと思ったか忘れた=認知症予備軍症候群)

3川合流地点(庄下川の「事実上の」起点)にかかる橋には正式名称はなく、
通称は、その形態からX橋と呼ばれていること。


他には、私が撮った対象と同じものが、他のブロッガーによってもたびたび紹介されているのを確認。


今日の庄下川

駅前の蝸牛通りからさらに東へ県立病院(跡)の南の通り、神東塗料という会社の長い(500メートル以上?)塀沿いに歩いて川へ。

山手幹線という幹線道路をくぐる前の庄下川左岸を遡って行った。
↓この辺りの4月の桜を紹介するブログも結構多数ある。

センダンの木

他の人のブログで知ったがユリカモメはこの季節、羽毛の量を減らしているとか。

カルガモまたしかり。

少し流れが速いところでは藻が育っている。

女子大の体育館 この4月からは利用されている。

芦原は台風の影響か痩せている。

ミゾソバの花は峠をこしたよう。

増水でなぎ倒されたためか見晴らしがよくなっている。

↓ X橋の傍のトベラの花


娼妓

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1900年9月9日の子規庵での句会で出た題の内、
「娼妓廃業」とは、先進的な席題である。
句会開催日直近に何か事件があったのであろうと「調査」。

1900年明治33年9月5日に

吉原の娼妓「綾衣」という者から、娼妓を廃業したいので助けてほしいとの投書が二六新報(当時の有名な反政府系新聞社)に寄せられた。

その関係記事が出た。

九月七日にもその件で警察が熱心にこの問題に取り組んでいない旨の報道があった。

明治33年9月7日 二六新報より ~ 廃業始末

 吉原では遊郭のために働く集団(百余人)が常に雇われていたらしく、楼主の利益のために乱暴狼藉を働くことがあったが、浅草警察署はこれらの取締りに熱心ではなく、暴力行為が未然に防がれたこともなく、数百人の暴行が行われても実際に逮捕されるのは数名に過ぎない。

 事件(綾衣廃業の)後、貸座敷、引き手茶屋ほかの関連業者達300人ほどが三業取締事務所へ押しかけ、大集会となった。大金を出して手に入れた娼妓を廃業させるなら借金を返させてからのことだ。完済させずに娼妓を連れ出すのは他人を財産を横奪するわけであるから、こちらも手加減することはない、といった議論が交わされた。
 そして、今後は娼妓を廃業に導きこうとする者を脅迫して追っ払うようにする、娼婦廃業に関する新聞は娼妓の手に入らないようするなどの手段が講じられた。また一連の行為が二六新報によるものでありながら、勘違いして救世軍に暴行を加えてしまったことを後悔する向きもあり、仕返しにくることを恐れて、街角に見張り番や無頼漢を置いて警戒した。
 一部の者は二六新報に押しかけて存分に仕返ししたうえ綾衣を奪い返そうなどと謀議したが、この様子が警察にもれたらしく、浅草警察署総出で遊郭内を偵察警戒したため、暴漢たちも手がでなかった。吉原の楼主等数名は警視庁に出頭し、二六社が綾衣を廃業させ浅草警察署が引取りを認許したことは違法であると述べたが、すでに内務省の方針であると説明されて引き返すしかなかった。 


引用は
「明治後期の風俗営業」  より。

「娼妓廃業」では例句なし。娼妓でもない。

「娼」で検索。

冬かもめ明石の家古りにけり 石原八束 『秋風琴』

若い時代にはチョクチョク顔を出していたということであろう。


初潮にものを棄てたる家かな 日野草城

草城の勤務地は福原の近くであった。

道中の家の鏡かがやける 平畑静塔

汽車の窓から部屋の鏡がみえたのであろうか?

蟻地獄家のごとく並びたる 西山誠

花烏賊を釣る灯陸には家の灯 堀井春一郎

白魚舟家の沖にかゝりけり 村上鬼城

くだら野や頼めて来ぬる灯は家 庄司瓦全

医者の往診?

ひまはりを植ゑて家の散在す 鈴木しづ子

窟に縄とびの縄ちらちらす 金子兜太 金子兜太句集

凩に詠唱さるる夜の家 松澤昭 神立


「妓」の例句、意外に多し

読みさして老抄あり夏の暁 行方克己 知音

宝恵駕を下りしにみちひらかるゝ 大橋櫻坡子

を拉す二重廻しや梅屋敷 夏目漱石

太鼓打つの眦も神無月 瀬戸内寂聴

山の温泉のとして老いぬほととぎす 岡安迷子

なべて背の高き鴨川をどりの 岡 明子

褄とって都踊の出番の 林 富佐子

春泥やのれんに染まるの名(鴨東宮川町) 『定本石橋秀野句文集』

うたはれし名老けたり二の替 阿部みどり女 『笹鳴』

湯がへりを東菊買うて行くかな 長谷川かな女

船を繋ぐ楼の裏や芦の角 寺田寅彦

うたはれし名老けたり二の替 阿部みどり女

弾初や老の褄の散り松葉 瀬戸内寂聴

春着の右の袂に左の手 高浜虚子

宝恵籠ののひざにゐる幼かな 森川暁水

ともいはるるはずよ懐炉負ひ 下田実花

が走る三社まつりの宵の雨 泉 春花

湯がへりの東菊買ふて行くかな 長谷川かな女

なべて背の高き鴨川をどりの 岡 明子

こまやかな老の化粧枯芙蓉 佐藤良子

ともいはるゝはずよ懐炉負ひ 下田実花

湯豆腐やみちのくのの泣き黒子 高橋飄々子

茜草女の便りを読みかへす 野沢純

枝豆や芸うすきの爪化粧 村上喜己

名月やむかし名のもの語り 堀内敬三

盆の月拝みて老座につきし 高野素十

句をつくるあり鴨川踊にも 開田華羽

湯がへりを東菊買うて行くかな 長谷川かな女

舞台の風花東踊のに髪に 楠本憲吉

一人も東踊のを知らず 池上浩山人

遅きは東をどりの出番とや 高浜虚子

火蛾はやもあしべ踊の笛のに 木田南子

都をどり笛を吹くの幼な顔 高林とよ子

鉄線花買ふは老や植木市 松本秩陵

ら降りて宝恵駕のみな小さくなる 後藤比奈夫

宝恵駕ののひざにゐる幼かな 森川暁水

髷に手を宝恵駕の起たむとす 阿波野青畝

の部屋の繭玉のこし飾取る 佐賀白梅

うたはれし名老けたり二の替 阿部みどり女

春著のはや酔うてゐる手をつかへ 高浜年尾

遊び火桶囲みて礼者受 後藤夜半

春著のはや酔うてゐる手をつかへ 年尾

灯明し春著の裾をの曳くに 虚子

遊び火桶囲みて礼者受 夜半

鰤の腹広し文箱の入れ所 来山 (婦に寄す)

気に入らぬ髪結直すあつさ哉 荷風 (の持ちし扇に)

船を繋ぐ楼の裏や芦の角 寅彦

ともいはるゝはずよ懐炉負ひ 下田実花

湯がへりを東菊買うて行くかな 長谷川かな女

すと立ちて帯が光りぬ春著の 高浜年尾

臍の位置少しずらせば美なりき 筑紫磐井 花鳥諷詠

墨水にと游ばむか芋名月 筑紫磐井 婆伽梵

ふたりともむかし名のひとへ帯 車谷弘 佗助

寄せ鍋や打ち込みしのうす情 日野草城

にも無言詣のことは秘し 中田余瓶

夏の月平陽のの水衣 召波

背丈よくそろひて都踊の 岩崎照子

老のの笛座ゆづらず大石忌 橋本多佳子

一子に背かれ唄ふ晩春譜 近藤一鴻

無花果やのものを夜干して 遠藤梧逸

夜食する箸白々と狎かな 久米正雄 返り花

年の宿踊達者のに会へる 滝井孝作 浮寝鳥

湯がへりを東菊買うて行くかな 長谷川かな女

弾初やはやめたれど変り無く 高浜虚子

地蔵会に座敷帰りの老かな 合田丁字路

遅きは東をどりの出番とや 高濱虚子

船を繋ぐ楼の裏や蘆の角 寺田寅彦

朧夜や侍侯の官誰れ~ぞ 寺田寅彦

章臺や柳に楼朧なり 寺田寅彦

鮓などに漬けまほしくも昼のの風情 尾崎紅葉

一揮してを去らしめて虫の聲 森鴎外

たちの好みあたらし初袷 星野立子

底紅や雛のころの名でよばれ 加藤三七子

籠枕老にありし月日かな 井上雪

うたはれし名老けたり二の替 阿部みどり女

節分やいまはた老いしたち 久保田万太郎 流寓抄以後

たちはや来てゐたる切子かな 久保田万太郎 草の丈

春著の右の袂に左の手

鬼灯や老ひても女の愚かしき 黒柳召波 春泥句集

夏の月平陽のの水衣 召波 五車反古

すと立ちて帯が光りぬ春著の 高濱年尾

裾さばき埃も立たず春著の 高濱年尾

すと立ちて帯が光りぬ春著の 高濱年尾

宝恵駕ののまなざしの来てゐたる 日野草城

初雪やに借りし絵入傘 日野草城

王寺へ六波羅の鐘や夜半の秋 高井几董

画像は昨日の散歩道

県立病院

自転車が数台止まっている。残務整理のために出勤している人のものか?

いやに新しい。新しい標識を作成掲示した時点では、「廃業」など想定外のことであったことの証。

正面玄関には、外来診察は6月26日で終了しましたとある。

自転車には蔦が絡まっている。いやに多数の放置自転車。
「閉院」のかなり以前から止められたままなのだ!
何故?
周辺の違法駐輪車の仮置き場だった?ちがうだろう。
自転車乗って病院へやってきて即入院になった?
その後、自転車乗っては退院できなくなった人がかくも多数?
多分、これも不正解。

病院の南側

1キロ位あるのではないかと思う塀。
見覚えのある柄。
塗料会社の工場。このあたり塗料会社が多い。そのひとつである。

工場の正門は、南側にある。そこを曲がれば、高速道路の入口に向かう道なので、また他の用件でもしばしば利用する。山手幹線という大阪ー神戸をつなぐ国道(2号線 43号線)のバイパスになっている。

分署という表示はない。尼崎北警察署はどこですかと聞かれて
この場所を案内する地の人はいないと思う。
私自身、この道、塗料会社の北側を東西に走る道を通るのは初めてである。


↑これは警察署の西端の角から、北側、県立病院の裏側を見ている。

ようやく工場の北側の西の端へたどり着き、南向き道路を写している。
道路を渡り、西へ向かうともうひとつ広い道路を横切れば庄下川である。


7月1日から市営バスの多くの路線が、新しくできた県立尼崎総合医療センター前という停留所を経由するようになった。

本日句会参加

出句5句。本日は第450回例会で、記念パーティに替えて、チーズケーキが振舞われた。

若気少し取り戻してる瀧しぶき
猪子槌頑ななまで定位置に 
  (席題 第500回まで頑張ろうという声があったので「頑」)
足病んで二日見ぬ間の芦の丈
支えねばならぬ人あり古希の夏


もう一句が句稿を見ても見つからない。
本日は小間使い役のワイフ欠席でいろいろ代役やっている内に、
出句しそこなったようだ。

5句出句でも5句揃えて出すのではなく、席題句などは後回しになる場合いが多いが、
私は席題句を捏造中に出句合計数を勘違いしたようだ。




鶏頭論争

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当日の句会では、まず第一回の運座にて一題一句で十題が出され、「娼妓廃業」「芋」「祝入学」「椎の実」「筆筒」「つくつく法師」などの題が出されたとある。

「娼妓廃業」については昨日考察。
「祝入学」はどうか?
天皇誕生日が移動季語であるように(現在は冬の季語。27年前までは春の季語であった)
入学や受験も移動季語である。

1900年の小学校、大学の新学期や入学行事の開催日時を調べてみた。
(今から調べる)

1900年(明治33年)小学校令が改正(施行)され、4月入学になったが、
大学、師範学校等は9月入学であった。

石川啄木(1886年生まれ)は小学校入学が5月2日であるが、以後は3月修了(卒業)、4月入学である。よって9月に開催された句会の「題」、「祝入学」は小学校以外の上級学校の入学式を対象としているのであろう。

1921年には上級学校(大学等)も4月入学となる。国家予算編成に合わせたと、一般には言われている。


 昨日の句会 席題の発表


運座に関する辞典の説明:
大辞林

うんざ【運座】

江戸時代後期の月並俳諧で,兼題のほかに席題によって句作し,宗匠の即点を受ける会。
明治時代以降,連衆一同が一定の題で句を作り,優れた句を互選する会。膝回しと袋回しの二方法がある。伊藤松宇・正岡子規らが新しく定式化した。

ここでは、「月並俳諧」という言葉と、「膝回し」「袋回し」についての解説が別途必要である。

さらには、伊藤松宇とは何者だ?

これは明日紹介。

子規庵鶏頭 ↓たしかにこの種の鶏頭は種苗店では購入不可能。
最近は(プランター園芸用に)矮性種、多花種がはやりである。

偶然ながら14,5本ある。


子規の句の評価について、「鶏頭論争」なるものがあった由。
ウィキペディアの解説。

論争前史

前述のように、句会ではこの句は子規を除く18人の参加者のうちわずか二名が点を入れたのみであり、子規の俳句仲間の間ではほとんど評価されなかった。子規の没後の1909年には高濱虚子、河東碧梧桐によって『子規句集』(俳書堂)が編まれたが、その中にもこの句は選ばれていない。最初にこの句に注目したのは歌人たちであり、まず長塚節斎藤茂吉に対して「この句がわかる俳人は今は居まい」と語ったという(斎藤茂吉「長塚節氏を思う」)[10][12]。その後斎藤はこの句を、子規の写生が万葉の時代の純真素朴にまで届いた「芭蕉も蕪村も追随を許さぬ」ほどの傑作として『童馬漫語』(1919年)『正岡子規』(1931年)などで喧伝し、この句が『子規句集』に選ばれなかったことに対して強い不満を示した[13]。しかしその後も虚子は1941年の『子規句集』(岩波文庫)においても「選むところのものは私の見て佳句とするものの外、子規の生活、行動、好尚、其頃の時相を知るに足るもの、併(ならび)に或事によって記念すべき句等」としているにも関わらずこの句を入集させず、「驚くべき頑迷な拒否」[14]を示した[15]

鶏頭論争

こうしたことを背景に、戦後いちはやくこの句を取り上げて否定したのが俳人の志摩芳次郎であった[3]。志摩は「子規俳句の非時代性」(「氷原帯」1949年11月)において、この句が単なる報告をしているに過ぎず、たとえば「花見客十四五人は居りぬべし」などのようにいくらでも同種の句が作れるし、それらとの間に優劣の差が見られないとした。また斎藤玄も「鶏頭」を「枯菊」などに、「十四五本」を「七八本」に置き換えうるのではないかという意見を出している。これらに対して山口誓子は、鶏頭を句のように捉えたときに子規は「自己の”生の深処”に触れたのである」(『俳句の復活』1949年)として句の価値を強調し、また西東三鬼も山口の論を踏まえつつ、病で弱っている作者と、鶏頭という「無骨で強健」な存在が十四五本も群立しているという力強いイメージとの対比に句の価値を見出して志摩への反論を行っている(「鶏頭の十四五本もありぬべし」「天狼」1950年1月)[16]。このように俳壇内で意見が割れた結果、『俳句研究』では俳人22名にこの句についてアンケートを取る「鶏頭問答」なる企画も行われた(同誌1950年8月)[3]

その後、評論家の山本健吉は「鶏頭論争終結」(1951年)において当時の論争を概括し、まずこの句が単純素朴な即興の詩であり、だからこそ「的確な鶏頭の把握がある」として評価[17]。そして誓子、三鬼の擁護意見が「病者の論理を前提に置きすぎている」としつつ、「十四五本」を「七八本」に変え得るとした斎藤の説に対して現実の鶏頭と作品の世界の鶏頭とを混同していると批判して、言葉の効果のうえで明らかに前者が優れていると指摘、その上でこの句が子規の「鮮やかな心象風景」を示していると改めて高く評価し論争を締めくくった[18]

論争以後

以後しばらく山本の論に匹敵するような論説は現れなかったが[19]、1976年になって歌人の大岡信が「鶏頭の十四五本も」(『子規・虚子』所収)において新説を提示した。大岡はまず子規がこの句を作る前年に加わった「根岸草蘆記事」という、子規庵を題にした写生文の競作に注目する。この中で子規は自邸の「燃えるような鶏頭」を熱心に称えており、そしてこの鶏頭が霜のためか一斉に枯れてしまったときには「恋人に死なれたら、こんな心地がするであらうか」と思うほど残念がったことを記している。また同じ「根岸草蘆記事」の碧梧桐の作は鶏頭を擬人化してその視点で語る文章であったが、そこに「今年の夏から自分らの眷属十四五本が一処に」云々という部分もあった。つまりこの句は一年前の「根岸草蘆記事」の思い出に当てて、眼前にはない去年の鶏頭を思い出して作られたものであり、当日の句会の中では唯一の「根岸草蘆記事」の参加者であった虚子を意識して出されたものだというのである[20]。大岡はまた句の中の「ぬべし」という、完了および強意の「ぬ」に推量の「べし」が結びついた語法が客観写生の語法とは言えず、「現在ただいまの景を詠む語法としては異様」として上の説の傍証としている[21]

また正岡子規の研究者でもある俳人の坪内稔典は鶏頭の「赤」に着目し、子規のそれまでのいくつもの随筆から「赤」の色に対する子規の愛着を指摘し、その「赤」が前述の誓子の言う「生の深処」に重なると論じた(「鶏頭の句」『正岡子規』所収、1976年)。しかし林桂は、大岡の説については「ぬべし」が「現在に対する語法としては異様」だという説に根拠がなく、辞書の用例等から考えてむしろ過去に向けて使うものとする考えのほうが異様であること、また坪内の論についてはそもそも子規邸の鶏頭が黄の種でもありえたこと等をそれぞれ指摘し反論を行っている(「鶏頭論」「未定」1979年-1980年)[22]

近年では前述の坪内が「鶏頭の句は駄作」(「船団」2009年3月)において、子規という作者の人生を読み込まなければ「語るに足らない駄作」であると明言し、もし句会にもういちど作者の名を消して出したとしても末期の存在感のようなものは感じ取れないだろうと書いている。これに対し高山れおなは「子規の人生とセットにすることでそこに感動が生まれるならセットにしておけばよいではありませんか」と評し、またそもそもこの句が投じられた句会ではほかにも子規は鶏頭の句を出しているのだから、この句だけが選ばれ議論されているのは何故なのかということこそ考えねばならないという趣旨の批判を行った[23]。またこのやりとりに関して山口優夢は、むしろ鶏頭というものに対して「十四五本」という、それまでにない言い表し方がぴったり合っていたということが、この句が残った理由であり句の核心ではないか、という見方も示している[24]


簡単に言えば、子規の鶏頭の一四・五本の句は、句会当日(句会という言葉は、1900年当時まだなかったのかも。運座なる言葉が利用されている)以来、側近の高浜虚子でさえ、まったく評価していなかったし、それ以後も子規の代表作の中に加えようとしなかった。他方、斎藤茂吉らの歌人は高い評価を与えようとした。

第2次大戦以降、高浜虚子以外の俳人もこの句を否定する人があったが、今度は山口誓子等の反虚子派の人が、この句を高く評価するようになった。


駄作と秀作の間を行き来している。

私の反応:この時点での。

藤の花房の歌がそうであるように、後の人が真似をすれば駄作になってもある種の新機軸を切り拓いた(こんな表現はないかもしれないが)功績があるのは事実である。

芭蕉の古池の句だって同じことが言えるのではないかと思う。


昨日紹介した塗料会社の塀。西北から南を見ている。その向こうが幹線道路。
今日はその幹線道路を南に越えてみた。
越えるとすぐに名神高速道路の高架をくぐることになる。
くぐると東へおおきく湾曲した庄下川にかかる橋を渡ることになる。

南側

北側  工場地帯へ入り込んでいる

この辺りは「名神町」という新しい町名がついている。

橋を渡ってゆくと大西町、三反田と昔ながらの町名(旧村名)の地域へつながっている。

100円自販機で水分補給。新発売らしい。


この百日紅は、栗山町の噴水地点のもの。

この風体、この年齢層ならパン屑を投げてくれると思っているらしい。やたら寄ってくる

間を掻きわけて前へ進んでも逃げようとしない。

伊藤松宇

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子規の鶏頭の14,5本の句について、昨日私の仮評価を紹介した。

山口優夢さんのブログを今「発見」。

長文の評価を発表なさっているが、行き着くところは、
私と同じである。

末尾のその部分のみ紹介。

「・・・・
鶏頭の句の唯一最大の価値は、僕には「早い者勝ち」というところにあるのだと思える。それまで「十四五本」などという表現で鶏頭を写生してみせた人はいなかった。そして、言われてみたら鶏頭にぴったりだった。だから残った。・・・・・」

ねんてんさんの

たんぽぽのぽぽの辺りが火事ですよ

の句も同じであろう。
これをまねた、私の

沈丁花の丁のあたりが別れどき

は残らないが。(このブログなるもの、百年先2百年先でも閲覧可能だろうか?
多分PCも飛躍的な変貌を遂げ、サーバー自体が機能的にも物理的にも技術的にも、変換ソフトを二重三重にも適用せねば、西暦2200年以前のものは有料申請せねば呼び出せなくなっている「予感」がする。)

その鶏頭の末裔と思われる鶏頭を目下、14,5本育成中であるが、
ご近所の門前プランターに植えられてる改良され、矮小化された「高級」鶏頭ではなく、
今や田園地帯の庭ででも見つけにくい背の高い(伝統的)鶏頭である。



句会なんかに参加したことがない読者向けに、
句会ってどんなふうにやるのか案内したいと思っていた。
ウィキペディアの「句会」解説はなかなか良くまとめられていると思う。
今回初めて覗いたが、全文紹介の価値がある。

句会(くかい)は、複数の人間が自作の俳句を出し合い、評価・批評し合うために行われる集まり。現在では互選句会を指すことが多いが、特定の指導者が選や講評を行う場合もある。

互選句会の流れ

江戸時代には複数の人が集まって連句(俳諧連歌)が作られていたが、のちに発句(連句の最初に置かれる五・七・五の句)のみを独立して出し合いその出来を競う句合(くあわせ)ないし発句合(ほっくあわせ)も行われるようになった。これは座が左右に分かれてそれぞれ順番に一句ずつ句を出し合い、一句対一句の優劣を判者がつけていくもので、特に与謝蕪村の頃に盛んになったものである[1]

↑俳句甲子園などはこの形式を踏襲している。

また数人が集まって句を読み合い、宗匠に選を乞う運座(うんざ)も行われるようになり、
1834年以降は月次句合(つきなみくあわせ、毎月句を募って宗匠が優秀句を選出するもの)での恒例行事として定着した[1]

その後
明治になって、1891年に椎の友社の伊藤松宇らが互選(膝回しと言った)による句会を始め、翌年、これに参加した正岡子規日本派の句会に取り入れたことによって、この形式が定着し現在一般に行われる互選形式の句会へと引き継がれていった[2]

「膝回し」とは、円座を組んで筆で筆記するために(机が前にないので)膝に
用紙を乗せたからであろう。実はこの言葉,
「膝回し」という言葉は、
つい昨日知ったばかりである。「袋回し」はかなり頻繁にやった思い出がある。故楠本憲吉を交えて東京の灘万の一室でやった袋回しは今でも懐かしく思い出すことがある。

 美人の新妻同伴であった出席者の

胎芽は胎児へ薔薇散ればまた蕾買う

という句に感動したこともある。座を盛り上げていたのは吉本という人だった。この人あたりが憲吉の「独立」を支えていたが、最大の理由は、私にあった。


結社や流派によってさまざまな差異があるが、ここでは『やさしい句会入門』(阿部誠文)、『句会入門』(長谷川櫂)等を参考に一般的な互選句会の流れを解説する。

0. 準備
句会の場所と日時、出句数、選句数、題がある場合はその題を決める。幹事や披講担当者などを決める。小短冊、清記用紙、選句用紙を用意する。会場ではテーブルを円形や四角形にするなど、参加者が周りを囲んで座れるように整える。

1. 出句
あらかじめ決められた数の句を小短冊に一句ずつ書き、句会当日に提出。作者名は書かない。参加人数にもよるが一人三句~五句が一般的である。特に題が決められていなければ普通そのときの季節の季語を読み込んだ句(当季雑詠)が出される。

「出句」の例句
厨より妻も
出句や初句会 宮下翠舟

2. 清記
集められた短冊を裏返したまま混ぜ合わせた上で配りなおし、配られた句を各自で自分の清記用紙に写し直す。筆跡から作者がわからないようにするためである。句に明らかな誤字がある場合でも直したりはせず、そのまま写して脇に小さく「ママ」(「原文のまま」の意)と記しておく。写し間違いに対する責任を持つ意味で清記用紙には清記者の名前を記す。指導者がいる場合は指導者を一番として、左周りに番号を送り、その番号をページ番号として清記用紙に記入する。

清記の例句なし。

3. 選句
ページ番号を記入したらそのまま選句を始める。まず自分の清記用紙から自分の良いと思った句を清記用紙のページ数とともに書き抜いておく。選び終わったら清記用紙を右隣に渡し、次に左から送られてきた清記用紙からまた良いと思った句をページ数とともに書きぬく。この段階は予選であり、すべての清記用紙に目を通したら書き写した句の中から規定の選句数まで絞り、選句用紙に記入する(自分の句を選んではならない)。選句数は出句数と同じとする場合が多い。特に優れたものを「特選」、特選に継ぐものを「秀逸」に選んだり、また良い順に「天」「地」「人」として選句の間に差をつけたりする場合もある。

選句せり餅黴けづる妻の辺に 石田波郷

煤逃げの選句電車にしてゐたり 茨木和生

選句地獄のただなかに懐手 鷹羽狩行(1930-)


誰彼来ない句会で黙祷めく選句 楠本憲吉

憲吉の句の選句は、句会における選句。他は、主宰誌に月例投句してきた数百、千数百人×5~7句からの選句。あるいはなんとか俳句大会の選者としての選句。
誰彼の中に、「胎芽は胎児へ」の作者も入っていたことであろう。

4. 被講
選句用紙が集まったら、被講者が順番に選句者の名前とともに選句を発表する。はじめは選句者自身の選句を発表し、「○○選」と言って名前を言ってから、その句が記載されている清記用紙の番号を「○ページ」ないし「○枚」と言ったうえで句を読み上げる。

↑の文には誤記がある。「はじめは選句者自身の選句を発表し、」
とあるが、これは明らかに、「披講者自身」の間違いである。



読み上げられた句の作者は間を置かず名乗りをあげる。

特選を選ぶ場合には特選の句は最後に読み上げる。また指導者がいる句会では、参加者の互選のあとに指導者がコメント加えるなどしながら選の発表を行う。

少人数の句会などでは被講を各自で行ったうえで、名乗りをしないまま相互批評を行い、成績発表のときに作者名を発表することもある。


作品ごとに点数の集計(点盛り)をする場合には、参加者が各自で清記用紙を持ち、読み上げられるとともに作品の作者名、選者名などを記入してゆく。

作品別ではなく作者別で点盛りをする場合には、点盛りの係のものが披講と同時に集計してゆく。特選などを選ぶ場合には、特選を3点、秀逸を2点、並選を1点としたり、指導者がいる場合には指導者の選に高い点数を設定したりする。

山の気に声ややさぶる初披講 栗生純夫

献詠の披講こだます獺祭忌 坂泰子

朗々と虚子忌披講の尚つづく 深見けん二


5. 成績発表
点盛りをする場合には、被講後に得点順に成績発表が行われる。同点の場合には特選の数や指導者の選によって差をつける。参加者が多い場合は下位の句は省略する。

6. 講評
指導者がいる場合には、最後に指導者が句会全体の傾向や秀句、選が入らなかった佳句についてコメントしたり、句の添削や選に漏れた句の問題点の指摘などの講評を行う。


各種の句会

題詠句会
上では特に題が決められていない句会を解説したが、あらかじめ句の題が決められている題詠の句会もある。題は季語(季題)であることが多いが、特に季節とは関係のない題にすることもある。

また題詠と当季雑詠を両方出句させるものもある。

句会当日以前に決められ参加者に通知される題を兼題(けんだい)と言い、句会当日まで伏せられていて句会の席上ではじめて発表されるものを席題(せきだい)と言う。席題は限られた時間内に即興でつくることを目的とするものである。

吟行句会
句を作るために戸外に出かける吟行(ぎんこう)と句会を組み合わせたもの。締め切り時間まで各自で散策して嘱目吟(しょくもくぎん、実際に景を見ながら作った句)を作り、持ち寄って句会を行う。

袋回し
題詠の一種で、一つの題で一句ずつ即吟を行い、題を書いた封筒などの袋を順にまわして句を書いた短冊を入れて行き、最後に清記して一般の句会のように選句をする。題は季語のほか一般の語句や漢字一字などでもよい。これは句会後や二次会での座興などで行われることが多く、「膝回し」とともに句会の出席人数が少なかった頃に考案されたものである[3]


以上の説明で足らないものがあるとすれば、
私が「コピー句会」と称してるものの説明がないことである。
さらに私の出席するメインの句会では、「披講」を行わない。
句会全体を3時間以内に終えたいと思う一方、相互批評、合評にできるだけ多くの時間を割きたいと思うからである。
披講がなければ、各作品の点数が集計できないではないかと思う人があれば、その人は句会参加経験のある方である。
点数計算のためには他の手法を採用している。

この形式のいい点は、合評会が始まるまで、句会進行担当者以外は、
どの句に何点入ったかが分からないことである。

逆に上に書かれているような形式で披講をやると、披講者の読解能力に
異議申し立てをする人、誤読指摘を趣味とする人が披講者のやる気を削ぐ場合がある。もっと厄介なのは、聴力減退者や認知症予備軍症候者による
選者が誰であったかの確認発言が相次ぐことである。

である時、披講者は選句を読み上げる前に、「次、○○さん選」と言って
披講をはじめ、さらにその披講が終わった段階で「以上、○○さん選でした」と再度選者名を紹介してもらうことにしたが、それでも途中で「え~と選者は誰ですか?」という発言が繰り返されたからである。


今日の熱中症対策品

↑これも「初体験」
植物園も地植えの花は端境期の様相

伊藤松宇(いとう しょうう、安政6年10月18日1859年11月12日) - 昭和18年(1943年3月25日)は俳人、古書収集家である。別号は雪操居。

来歴

信濃国小県郡上丸子村(現長野県上田市)に生まれた。本名は半次郎。父も俳句をたしなみ俳号は洗耳であった。10代頃から俳句を作り宗匠に添削を求めていたが、1882年に上京した。家業の取引を通じて知り合った渋沢栄一に認められて、第一国立銀行横浜支店の調査職についた。旧来の宗匠の指導をうける句会の形にあきたらず、1891年、一高学寮舎監の片山桃雨、郵便局員の森猿男らと「椎の友社」を結成した。それまでの俳諧運座を改めて、互選方式の句会を行った。正岡子規が「日本」に「獺祭書屋俳話」を連載すると、1892年子規宛に、手紙を送り、富士百句の批評を求めたことにより、親交が始まり、子規や内藤鳴雪も、松宇らとの句会に参加するようになった。1893年に子規と雑誌「俳諧」を創刊するが2号で廃刊となった。連句に興味を持つ松宇と否定的な子規との考えの違いがあったともいわれる。1895年、尾崎紅葉巌谷小波らが「秋声会」を結成し、1896年、松宇もこれに参加し、紅葉、小波、大野洒竹角田竹冷と「明治俳壇の先覚五人衆」と呼ばれたが、俳句革新に対して先鋭的ではなかった。1897年、静岡に転勤した。1911年、俳誌「にひはり」を発刊し、主幹となった。王子製紙、渋沢倉庫に勤務するかたわら、古俳書収集と研究を行い、晩年は小石川関口町の芭蕉庵に居住し、収集した古書3000冊を松宇文庫として残した[1]

句集『松宇家集』、編書に『俳諧中興五傑集』『蕉影余韻』『俳諧雑事』などがある。

代表句

[2]

同し事して元日の新らしみ
紅梅や奈良の小家の烏帽子折
現代の詩を痛罵して黄びら哉
夏引の糸のもつれや妹か恋
雄大な句を想ふ夜の野分哉
鵬斎の画賛かけたり抱一忌

堺市

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私には、いとこ(従兄姉弟妹)が何人いるのか、未だに分かっていない。
いとこの配偶者もいとこなので、成人して結婚した伯父伯母(私には叔父叔母はいない。
父も母も末っ子であったので)の数を数えねばならない。

単純に計算すれば、伯父伯母の子供の総数×2がいとこの数となる。
しかしさらに私の配偶者にとってのいとこも(義理の)いとこである。
これは配偶者の父母が何人きょうだいであったかによる。




家系譜など作成していると、父方の伯父の一人と母方の伯父の配偶者との間に
不倫関係が生じ、
その間にできた子供もいるなどの情報も耳にする。
私の方からは話題にすることはないので、親族でも知っている人はほとんどいないであろう。




今日、従兄の一人の「一日葬」に参列した。通夜を行わない葬を「一日葬」と呼ぶらしいが、
そのことじたい、今回初めて知った。


散骨へ一日葬へ猪子槌

猪子槌去年の今日と同じ位置

平成の世にも猪子槌は元気である。


亡くなった従兄とは頻繁にお付き合いしていたわけではないが、
親族の葬儀や法事の折には出あっていた。
従兄の大学時代の同級生の一人が
私の高校時代の同級生であったことがあり、
私の高校時代のあれこれを聞き知った従兄が、それを話題にしていたのを思い出す。

なにより良く付き合ったのは、1995年以後で、私が家系譜の作成をはじめてからである。
堺市の自宅から車で出て、私を自宅前で拾って美作まで連れて行ってもらったこともある。

共通の祖父のそのまた父親(共通の曽祖父。入り婿であった)の里を一緒に訪問したこともある。その家では、当主はすでに亡くなっていてその配偶者という人に会ったが、曽祖父は、その家から分家した家の息子であったらしいが、断絶して、墓も寺に預けたということであった。

その寺があじさい寺であることも確認したが、まだ墓石や位牌の視認はしていない。
従兄と一度一緒に行こうと約束したきりである。

小さな家族葬であった。それでも親族が20人近く参列していた。
未亡人となった(義理の)従姉関係の御親族とは多分初めての出会いであった。
会社関係の人か地域関係の人か、従兄が趣味としていた金剛山登山関係の人かはしらないがそれ以外にも10名ほどの方が出席しておられた。

Mrs K夫婦など、従兄を兄、弟、伯父(叔父)とみなす3親等までの人が火葬場へ同道したが
私は見送る側でお別れした。
私の参列は想定外であったろうから。

私はもっとさびしい葬儀にも参列したことがある。
伯父の一人の葬儀の参列者は私を含めて7人であった。

この従兄は、夭折二人を加えて9人きょうだいの8番目の子であった。

名目上は5男である。

式場近くの風景




七月尽

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阪急神戸線の南側、JR塚口駅の東側の9ヘクタール弱の新しい町。
完成までまだ時間がかかりそうだが、
阪急電車の駅前でもモデルルームの案内板を持った人が終日立っている。


家の近くの10階建てマンションも8月の完成を目指して最後の追い込み

周辺の景色がかなり様変わりするであろう。交通も。


晩秋のいまだなじめぬ新居かな 森田 たえ

藺草干す今も昔の新居宿 後藤比奈夫

蝿叩一閃したる新居かな 岸本尚毅

月光や新居に婚の荷まだ解かず 菊地美智子

移り来て藺草の香り立つ新居 乙武佳子

父の日や灰皿のなき子の新居 満田玲子

風そよぐ田島ヶ原の桜草 新居さくを

風殊に薫るか君が新居の辺 憲吉

燕や川を越えれば子の新居 大久保白村

あたりまだ梨畑にしてわが新居 松尾緑富



迷路めく階段冬の夜の新居 皆吉司

秋雨の新居はじめて電話鳴る 皆吉司

鏡台を捨てて新居にくる晩夏 対馬康子 吾亦紅


確かに、今や、鏡台や下駄箱は嫁入り道具ではなくなっている。
多分洋服ダンスも。


子の新居父の来てをり松手入れ 樹生まさゆき

五月富士出窓の多き子の新居 南俊郎

汝が新居古潭の鷹と空頒つ 西本一都

机据て新居の春も暮れにけり 会津八一

やや寒きことも親しや新居訪ふ 深見けん二

秋風も里春さんも訪ふ新居 山田弘子

白梅の影壁にある新居かな・・・福岡の竹下しづの女、新築祝


まえにうしろに百の窓冴え新居とす 赤城さかえ


7月尽とはあまり言わない。俳句検索では用例なし。

俳句では「2月尽」ではじまった用例が、9月尽へ波及。今では3月尽も4月尽もほとんどの月で許容されている。

そう書いたが、「二月尽」の例句なかった。

三月尽船ゆつくりと夕闇を 大井雅人

ポストまで通ふ日多し三月尽 馬場利春

街川に水輪増やして三月尽 下山宏子

あり暮らす三月尽の草戸哉 松瀬青々

三月尽校塔松と空ざまに 石田波郷

三月尽兄妹いつまで倶にあらむ 石田波郷




白波が白波追へり九月尽 千田一路

うす霜のむぐらが門に九月尽 細谷源二

妻病みて目尻の乾く九月尽 穴井 太

昨日よりくらき白山九月尽 阿部完市

九月尽瓦漸く鋭き色に 宇佐美魚目

真昼野に焚く火透きけり九月尽 富田直治

まが雨の降りもつづきて九月尽 佐藤鬼房

九月尽胸あつくなる風邪ぐすり 古沢太穂

かんがふる一机の光九月尽 森 澄雄

命綱すぐ手のとどく九月尽 角川源義『西行の日』以後

ガラス器を磨きてしまふ九月尽 種市清子

真昼野に焚く火透きけり九月尽 富田直治

少年の商才かなし九月尽 楠本憲吉

大の字に寝て一畳の九月尽 土生重次

パソコンでつける家計簿九月尽 満田春日

かんがふる一机の光九月尽 森 澄雄

会議室海の絵も寂び九月尽 村田 脩

雲表に山々ならび九月尽 福田蓼汀


まが雨の降りもつづきて九月尽 佐藤鬼房

真昼野に焚く火透きたり九月尽 富田直治

九月尽まぶしきものを一日見ず 和田祥子

少年の商才かなし九月尽 楠本憲吉

かんがふる一机の光九月尽 森澄雄



雨降れば暮るる速さよ九月尽 杉田久女

九月尽日許六拝去来先生几下 高浜虚子



井の端の風露の乾き九月尽 菅裸馬

九月尽机の端に手紙かな 高浜虚子


九月尽遥に能登の岬かな 暁台



雨降れば暮るる速さよ九月尽 杉田久女


古寺に狂言会や九月尽 雁宕

九月尽深き曇りに鳥飛ばず 相馬遷子



傾城の小哥はかなし九月尽 宝井(榎本)其角 (1661-1707)

六尺の人のけむりや九月尽 攝津幸彦

九月尽深き曇りに鳥飛ばず 相馬遷子 山河

月影の不破にも洩らず九月尽 黒柳召波 春泥句集

褌に贈別の詩や九月尽 黒柳召波 春泥句集




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歳晩の新橋おもと掘りかへす 中村汀女

新橋に居ると電話や花の果 依光陽子

新橋にありと教へて切山椒 及川貞





東富松川が阪急電車の高架の下を潜る前にかかる橋

柳縁橋 かつてはやなぎが生えていたのであろう。

阪急電車のレールの向こうが南側、他の2川と合流するまで直線であと100メートル地点

↑改修工事が終わった東富松川「上流」
この細い水路にも、カルガモや鯉がやってくる。
かかっている橋は平成になって作られたものである。
昭和末期までは一面の田圃であったが、今は住宅街化している。
マンションが多い。


少し西側にある踏み切りを渡って、柳縁橋の反対側へ出ると、そこにも橋がかかっている。
西塚口新橋
その橋の真中から下流を見ると、東富松川にかかる最後の橋が見える。
それが西塚口橋
橋の向こう、右手に見えるのは大きな海桐
花盛りである。


道路の一部になっていて、橋の欄干らしきものもないので、車で通れば橋を通過したことを意識することもないはず。この辺りを車で通過したことは一度もないが。

トベラの花と呼ぶべきか、実と呼ぶべきか、実は分かっていない。

西塚口橋を渡ると、最近、その通称を知ったばかりのX橋になる。

X橋の奇妙な形態はなかなか写し撮れない。

東富松川を真中に、富松川と西富松川(捷水路)の3川を跨いでいる。

車は通れないが、自転車は通れるようにしてある。

出入口は7か所ある。

Xの4つの端っこからそれぞれの川の両岸へ出られるように工夫されている。

それが8つではなく、7つなのは、富松川の左岸には道がないからである。


西富松川の右岸へ通じる出入り口はあるが、そこは舗装されていない。私道扱いなのであろう。こういった未舗装の細い道が、町内にもいくつかある。そこにもマンホールはあるので、
下水管は通っている。


この橋の欄干からは鯉に餌を投げやすい。
そのためか鯉の集団が真下で待ち構えている。
おこぼれ期待で、雀、鳩、時にヒオやムクドリも寄ってくる。
冷蔵庫にあったパンを持って家を出るつもりが、持ってこなかったことに気付く。


庄下川にかかる最初の橋。高松橋。名前の謂れは知らない。
この辺りは上の島と呼ばれる地域であるが、その名を使った橋はない。
別のところ(富松川などに)にかかっているのかも。

現在住所は、橋の両側とも南塚口町8丁目。川を下ってゆくと南塚口町7丁目になり、
橋の西側は栗山町(立花村になる以前の栗山村)となる。2丁目が北側にあり、川を下ってゆくと1丁目1番地の標識に出あう。


↑高松橋の上からX橋を眺めている。X状には見えない。

この右岸には数珠玉が群生している。(画面左側)

↑高松橋

↑橋上からは南側に次の橋が見える。
東川端橋

別格に立派な橋である。
橋の左右はケヤキ並木になっている。
東側に女子大があるので、そこの初代理事長の政治力によるのかも。


このあたりから川は大きく東へ湾曲して、女子大の「領地」へ近づいてゆく。右岸が西で、左岸が東と思っているが、次の橋にかかると、右岸は南で左岸が北になるよう。
何度も歩いているのに、太陽の位置等から方角を正確に知る知恵が身についていない。

昔そのせいで、信州のある村総出で捜索隊が出る恥をかいた。
運悪いことに、その村内放送を耳にした高校の後輩がいた。
後輩は同じテニス部だったので、私のことをよく知っていた。
その君は東大生だったが、
さらに運の悪いことに、木地師の里の姓を持つその君の里が同じ美作であった。


その折り、直接に顔を合わせることはなかったが、後で無事でよかったですねと葉書が舞い込んだ。私と同じように学生村に滞在していたのである。

上生嶋橋、この付近に現在の12歳児と初めて来たのが3年前か?



さらに生嶋橋があって、4車線の幹線道路をくぐってゆく。このあたりで、
左岸の川沿い遊歩道はなくなり、右岸も幹線道路部分は、一度土手道へ上がって道路を
渡らないと川沿いは歩けなくなる。

したがって、遊歩道を散策する人も、ここから上流を利用する人と、ここより下流の遊歩道を利用する人では構成が変わるように思う。

右岸へ進出した女子大のスポーツセンター

左岸が女子大のメイン学舎

↓生嶋橋 架橋は昭和35年。他の橋はみな平成のもの。

女子大が遠くになる。

そのまた南に見えるのが幹線道路で、そこの橋は「新庄下橋」。 たぶんその南に見える短い橋が「庄下橋」で
新庄下橋は、幹線道路(山手幹線)の整備の中で新しくできたものであろう。


東側には塗料会社の塀の一部が見える。

おおむね庄下川の散策はこの地点でUターンしている。往復5キロ7000歩ほどの距離である。

全長わずか7キロの庄下川の上流2.5キロにかかる橋と、そのまた上流の
東富松川に架かる橋3つを確認したことになる。



アキノタムラソウ

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朝車を出すとき、温度計を見ると外気温31度
10時になると34度 11時には37度を表示。

いつもの神戸市北区の山かげの施設の物置の裏、山裾を見ると
群生開花している野草があった。

場所はこんなとこ


ボケ画像も含めて以下


↓これは葉が違うし、花のつき方も違う。
家に戻って「花図鑑」に投降。盗人萩と言われてなるほど、よく見れば葉が盗人萩のそれである。

ふとアキノタムラソウではないかと思ったが自信が持てない。
これも1枚画像投稿。アキノタムラソウ、中には、サルビヤ・ヤポニカなる名前も併記しての応答が6件。

その応答を覗く前に、私もアキノタウラソウで画像確認。まちがいなくこの花である。


粗筋を書き換え秋の田村草


昨日見た花

ボタンクサキ↑     ボタンクサキで検索したら、去年7月18日付の私のブログが出てきたのでインク文字に変えた。猫缶さんへの「感謝状」も添えられている。

ピグライフがちょうど赤い向日葵を集めるクエストをやっていた。
赤いひまわりは架空の花であろうと思っていたのに、現物に出会い感動。

ボタンクサキの花には、今日も神戸市北区の路傍で出会った。運転中であったので画像はないが。

上記のインク文字をクリックしてもらうと塚口御坊の西の出口跡と思われる公園にたくさん咲いているのを紹介している。


 シーソー錆び牡丹臭木が咲き揃う

幼児が公園のシーソーで指を切断する事故があってからだろうか、
最近の児童公園ではジャングルジム、ブランコ、滑り台以外の遊具はあまり見ない。



灌漑用であった池

の周りの土手に繁茂しているこの植物↓

キクイモだと思うのだが、猫缶さんのお墨付きはえられるかどうか?

黄色い花が2枚目の画像に見えるが、それがキクイモの花かどうかは定かではない。




茗荷

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茗荷

大陸からショウガとともに持ち込まれた際、香りの強いほうを「兄香(せのか)」、弱いほうを「妹香(めのか)」と呼んだことから、これがのちにショウガ・ミョウガに転訛した[7]との説が有力である。

名前の由来に関しては、下記の俗説もある。

釈迦の弟子である周利槃特が、自分の名前を忘れてしまうため、釈迦が首に名札をかけさせた。しかし名札をかけたことさえも忘れてしまい、とうとう死ぬまで名前を覚えることができなかった。その後、死んだ周梨槃特の墓にいくと、見慣れない草が生えていた。そこで「彼は自分の名前を荷って苦労してきた」ということで、「名」を「荷う」ことから、この草に茗荷と名付けた。

この説は前節の俗信「物忘れがひどくなる」がさらに派生したものである。これは、民話「みょうが宿」が起因となり、世の人々の評判になって知れ渡ったことで前節の俗信が一般化した。

その他

  • 早稲田みょうが 江戸時代に早稲田村、中里村(現在の新宿区早稲田鶴巻町、山吹町)で生産された。赤みが美しく大振りで晩生(おくて)のみょうがである。
  • 東京都文京区に、茗荷谷という地名があるが、これは江戸時代に早稲田からこのあたりまで広がる茗荷畑を見下ろす谷であったことに由来する。
  • 領地のために命を張った戦国武士などは、戦闘で命が残る「冥加」にかけて、「茗荷」の紋を好んで使用した。事例として「影茗荷」「鍋島茗荷」などがある。
  • 一部地方では、みょうがぼち(岐阜県)、みょうが饅頭(熊本県)、釜焼き餅(鳥取県東部)といった、みょうがの葉を使ったお菓子が今でも食べられている。

主な生産地


アジア中国朝鮮半島台湾日本)に分布し、日本では関東地方以西の暖地の林縁などに自生するが、湿気の多い土地を好む。

沖縄県の山地には変種コヤブミョウガ(学名 Pj var. minor)が自生する。
5月頃から発芽し、夏にかけて草丈 50cm~ 1m 前後に生長、ミョウガに似た長楕円形のを互生させ、葉の根元は茎を巻く葉鞘を形成する。葉は茎の先端部分だけに集中する。なお本種の葉は表面がざらつくところ、葉が2列に出ないことなどでミョウガと区別できる。なお、ミョウガはショウガ科であり、花の構造は全く異なる。

8月頃になると茎の先端から花序をまっすぐ上に伸ばし、白い花を咲かせる。花には両性花雄花があり、前者は白い雌蘂が目立ち、後者は黄色い葯の付いた雄蘂が目立つところで判別できる。白い花弁が 3枚、も白く 3枚、雄蘂 6本、雌蘂 1本で、花冠直径は 8mm 程度である。

花が終わると初秋にかけて直径 5mm 程度の
状の実を付け、じきに葉を落とす。実は若いうちは緑色で、熟すと濃い青紫色になる。この種子のほか、地下茎を伸ばしても殖え、群生する。

わが家、例年よりかなり遅れて(忘れていて)初収穫。

青シソも摘んできて

↑7月31日

今日の収穫

午後2時半過ぎに家を車で出発。外気温37度。動き出すと38度
39度と変化。


画像に撮ろうとして信号待ちでカメラ取り出した瞬間に

神戸市北区につくと35度までに低下。

昨日は気付かなかったが、アキノタムラソウを見つけた辺り、
一面の花盛り。

 合歓の木の幼芽や盗人萩も目立つ。
何度もシャッターを押しているが見栄えのする画像はない。

正岡子規の茗荷の句

茗荷よりかしこさうなり茗荷の子 茗荷の子 正岡子規

老が歯のきれ味ゆかし茗荷の子 茗荷の子 正岡子規

すさましや野寺の庭の茗荷竹 茗荷 正岡子規

山里の春は淋しき茗荷かな 茗荷 正岡子規

茗荷とは虫さへくはぬ名也けり 茗荷 正岡子規

蕗の薹のわすれかたみや茗荷の子 茗荷 正岡子規

すさましや庫裏のうしろの茗荷竹 茗荷 正岡子規

かくれ家の四隅を見れば茗荷哉 茗荷 正岡子規

此畑も親が譲りの茗荷哉 茗荷 正岡子規




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バジルソース出来上がり↑
↓150枚ほど剪定切りして、100枚を使用。切り取ったあとのバジル園
(プランター2つ)


コンソメを使いすぎたので、ちょっと色が悪いが
バジルソース和えできあがり。

バジルソース作り以外は私の作品。

その折りの外気温(ベランダ1.6メートル)

午後11時現在35度


apedia (web版尼崎地域史事典)による
庄下川の解説。


大物川が古くから東西方向に流れていたのに対し、庄下川は常に南北方向をとってきた。

これは尼崎デルタを形成してきた武庫川の一分流であることを物語る。弥生時代の遺跡が、当時の河口と思われる庄下川中流地域にあり、古墳時代への移行も考えられる。


また奈良時代の条里遺構も部分的に残っており、古代における武庫郡河辺郡の郡界も、部分的には庄下川の流路に沿っている。

中世には生島荘が上流に位置しており、庄下川の名称も同荘の下流であったことに由来するという説がある。近世尼崎城と城下町は河口両岸に位置しており、城の外堀の役割も果たした。近代には、大正期の大阪板紙の悪水問題などを端緒に水質が極度に悪化した。このため、1988年(昭和63)には建設省による「ふるさとの川モデル河川」の指定を受け、整備工事を進めるなか水質の改善を見た。

  

現在は富松川・東富松川・西富松排水路の合流する南塚口町8丁目から左門殿川に合流する松島ポンプ場まで5,954mを庄下川と呼び、2級河川であったが、1972年4月に1級河川となった。

執筆者渡辺久雄

  

1995年4月には1級河川の指定を変更、東富松川を含んで伊丹市との市境まで上流端を移動し、7,296mとなった。

  2000年、建設省(現国土交通省)等による「近代水道制度100年記念行事」の一環として庄下川が「甦る水100選」の一つに選ばれた。



富松川は伊丹市へ入っても富松川の名称の変更はない。
東富松川は伊丹市へ入ると名前が変わる。金岡川と。


東富松川にかかる橋

南側から

X橋 これは4つの川すべてをまたいでいる。
庄下川、東富松川、富松川、西富松川(捷水路 排水路)。

最初は西塚口橋 西塚口新橋 ともに車通行可能。以上は阪急神戸線の南側、

北側はレール沿いにヤナギべり橋(柳縁橋) 車通行可能

その北にあるのが、梅の木橋


↓遠くに次の橋が見えている。

近くに梅の木塚跡がある。この地区は梅の木地区と呼ばれている。
 そこから北に、富松(とみまつ)橋、富松(とまつ)中央橋、明和橋、富松新橋、富松本橋
とつづき、名のない小さな橋を越えて伊丹市へ入る。そこからは金岡川と名を変える。

途中堰がいくつもある。稼動中のものもある。まったく使用されていないものもある。
軸が錆びているかどうかで分かる。

稼働中 西の方からきた流れを食い止めている。

富松橋の右岸に造園業を営む人の家がある。よってこの辺りは一年を通じて花が絶えない。

左岸は人家が連なり通行不可能。
右岸も人一人がやっと歩ける程度の道だが、舗装はされている。

左岸に自然石を利用した墓碑がある。ここで誰かが、洪水の折に遭難したのであろう。
この日は花がなかったが、いつもは花が供えられている。御親族ないし子孫の方がまだご近所にお住まいなのであろう。

左岸沿いには、どこも歩けない。この部分は歩けそうだが遮断されている。

↓では、私は右手(右岸)の柵沿いを歩いてきた。

東富松川の富松橋右岸の北へ延びる道。初めての人は通行可能とは思わない。
私は何度も通っているが、人とすれ違ったことは一度もない。


この道を行くと、1本名のない橋があって、狭くなった道をなおゆくと、広い道と交差する。そこに架かっているのが富松新橋

西側に幼稚園があり、東側に果樹園がある。

ここから川沿いの道は草道となる。川は湾曲。


↑見えてきた橋が明和橋。横手は同じ名前の幼稚園の裏門。

そこから先は、右岸沿いには歩けない。左岸もだめ。
川から離れて通りに出て、川の方向へ歩ける場所を探すことになる。


遊歩道ができているように思うが、通り抜けできないのであろう。立ち入り禁止である。

横道へそれると、水路が見える。これは多分富松川が東富松川へ合流交差する手前の堰で
分離された水の流れだと思う。とうことは間もなく、富松川と東富松川の交差地点

途中人家の入口があって、川で行き止まりになっているところを見つけ、「侵入」。

川の柵からの眺め。↑


to be continued




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