ふと履いているビーチサンダルを脱いで製造元を見ると、made in Croatiaとなっていた。
それから20年。
パソコンの付属品(マウスなど)などを見るとmade in Koreaはほとんどみない。ほとんどが中国製である。
時折、インドネシア製などを見つけると変に親近感が湧く。
衣類またしかり。とりわけ夏に着ているものは、ほとんど中国製である。
ご近所で公共の植え込みのシャリンバイなどを「撤去」して
いろいろの花を植えられている方がある。
この道が塚口御坊を抜けて富松の札場の辻を通って富松神社前から
宝塚小浜へ通じていたのだ。
よって秀吉さんも塚口御坊を通ったことがあるのであろう。
尼崎市内には66の神社があるそうである。
伊佐具神社を初めて覗いた。
市内66社の内、唯一の「式内社」「官幣社」であることを誇っている。
延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。本来「神名帳」とは、古代律令制における神祇官が作成した官社の一覧表を指し、官社帳ともいう。国・郡別に神社が羅列され、官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒などの記載はない。延喜式神名帳とは、延喜式の成立当時の神名帳を掲載したものである。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社で、そこに鎮座する神の数は3132座である。
式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社で、その選定の背景には政治色が強くみえる。当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺となった神社、僧侶が管理した神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿がなかった神社などが含まれる。式外社だが六国史に記載がある神社を特に国史現在社(国史見在社とも)と呼ぶ(広義には式内社も含む)。
伊佐具神社は、全国で2861社認定された式内社のひとつで、
河辺郡(川辺郡)では筆頭社の扱いを受けたようである。
全国の神社の数は何万社とあるはず。
伊佐具神社の祭神は、この神社が立地する地域を拠点としていた坂部氏や
久々智氏のご先祖さまのようである。(上坂部 下坂部 久々知という地名は、今でも存在するし、私は赤松円心がこの辺りで何度も負け戦をやっていることも知っている。
全国の官幣社一覧はネット上にあるかどうかは未調査。
円心の墓も社内にあるという案内文を読んで、そこへ出かけてみた。
並河誠所が式内社と比定した社号標石。正面に「伊佐具社」と刻まれている。
伊佐具神社は式内社であることを「売り」にしていた。
その近くにある伊居太神社は、
近松線と呼ぶ広い南北道の、伊居太神社前の交差点を西へ渡ると
近松公園が見える
今から2500年前、儒学の祖、孔子(紀元前552~479)は、多くの子弟に見守られながら世を去り、山東省曲阜の泗水のほとりに埋葬された。門人たちは3年間の喪に服した後、墓所のまわりに中国全土から集めた美しい木々を植えました。今も残る70万坪(200ha)の孔林です。
孔子十哲と称された弟子の中で最も師を尊敬してやまなかった子貢(しこう)は、さらに3年、小さな庵にとどまって塚をつくり、楷の木を植えてその地を離れました。この楷の木が世代を超えて受け継がれ、育った大樹は「子貢手植えの楷」として今も孔子の墓所に、強く美しい姿をとどめています。その墓所のまわりには、孔子を慕う弟子や魯の国の人々が集まりはじめ、やがて住み着いた者の家が百あまりであったので孔里と名づけられました。
孔子は300年後の漢代中期以後、国家的崇拝の対象となります。しだいに墓域も拡大され、孔里は現在、孔林という広大な国家的遺跡になっています。その後、「楷の木」は科挙(中国の隋の時代から清の時代までの官僚登用試験)の合格祈願木となり、歴代の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』とも言われるようになりました。合格祈願木とされたのは、科挙の合格者に楷で作った笏(こつ)を与えて名誉を称えたからだと考えられています。また、その杖は「楷杖」として暴を戒めるために用いたとされます。
アナベルや柏葉紫陽花では例句なし。
数えていないが、赤丸が66個あるはずである。
神社詣を「趣味」にしているわけではないが、
町内を中心にその隣の地区・集落・住宅地をめぐっているうちに
あちらこちらで神社に遭遇する。
由緒書を画像にとって、神社の杜で何か珍しい植物・動物(鳥)に出会わないかとうろうろしている。
尼崎市内66社の所在地地図があったので、借用。
江戸時代の村々には、最低1社があったはずである。
しかし我が家のように、昭和の時代になってから住宅地化した地域のそのまたはずれ
の周辺には徒歩10分以内には神社も寺もない。
(しかし新興宗教の寺や教会を名乗る建物はかなりある。天理教、金光教、モルモン教会、創価学会や幸福の科学の集会施設など)
徒歩20分に拡大すると、旧集落の領域へ入り込むので数多くの真宗寺院を中心に仏教系寺院や神社に出会う)
中学生になってからよその町からこの家に引っ越してきて
しかも地元ではないよその町にある学校や勤務先へ行くために
家と最寄駅を往復するだけで生活してきた者にとっては
散歩の途上で神社を見つけると、そこが生活の中心であった人々のことを思って
羨ましく思う。 けれど神社の周りは、現在では、多くの場合新興住宅地で
神社で拝礼している人の姿はまずはみない。
「尼崎神社巡り」 に66社の一覧があり、各神社名をクリックすると、
由緒や所在地を見ることができる。
ブログでこれまで画像紹介した神社は20社ほどだと思う。
1889年、現在の尼崎市の領域には、隣村5村と合併した新尼崎町、
12村の合併で生まれた武庫村、9村合併で生まれた大庄村(「大島の庄」から生じた新村名)、20の村の合併で生まれた園田村、12村合併の立花村、18村合併の小田村が存在した。
尼崎旧城内が中心の尼崎町を除いて76の村があった。ならば最低でも77の神社が存在してもおかしくはない。
明治の神仏分離政策で生まれた新神社も加えれば、旧尼崎町町内に1つしか神社がないということもないだろうから、100位あってもいいかも。
神社も統廃合が行われているし、氏子がいなくなると廃社もありうる。
伊居太神社:市内最大の前方後円墳上にある
伊佐具神社:市内唯一の延喜式内社
久々知須佐男神社は : 多田源氏の祖 源満仲の建立
昼顔で検索したら、なにかしらないが、視聴率が高そうな不倫ドラマに関するHPばかりが出てきた。
改めて「花 昼顔」で検索、ウィキペディアなどの解説を読んだ。
川べりを歩いていると、季節がまた少し変化しているのを発見。
ミゾソバの花は目立ち始めた。ミゾソバが、1か月以上前ならスイバが占めていた場所を占拠している。
昼顔の例句は多い。
最初の100句からダブりや「浜昼顔」の句を除いてみた。
普段はあまり近づかない、短い路地の露地庭に鉢植えになって咲いていた。(鉢そのものは今や移動困難であろうが)
阪急塚口駅の西側の踏切を北から南へ渡ると、塚口町(1丁目)から南塚口町へ移動することになる。
踏切を渡って、通りの右側(西側)が南塚口町1丁目で、左側(駅改札口方面)が2丁目である。
この事実を昔から知ってたわけではない。最近ようやく南塚口町の丁目境が分かってきたところ。
その道をさらに南下してバス道を渡ると「蝸牛通り」
7月3日、もう七夕笹が「満開」でろうと思って覗くと、
書いてある内容が良く分からない。
各児童会や保育園・幼稚園には主催団体から笹を配布していたが、
契約農家の笹が不作で近隣都市へ笹刈りに行っていたということなのか?
サッカー、鉄棒、水泳の上達を願うもの多し。
囲碁・将棋・俳句関係はなし。
「七夕」なら例句は多いだろう。
「七夕笹」で検索
ここまで文字情報をコピー貼り付けしていると、しばしば4万字を超えた。
文字数を減らさないと「公開」してやらないぞという表示が出る。
そのたびに解説の部分を削除している。
ソヨゴ
カクレミノ
ハゼラン(爆蘭、米花蘭、学名: Talinum crassifolium、英: coral flower)はスベリヒユ科の多年草で、鑑賞用に栽培もされるが、現在は多く野生化している。
衆愚制に勝るものなしアカンサス
アカンサスはギリシャの国花。
年金をもっと減額せよと脅迫されてますが、皆さんどうですか。
反対票を入れて圧力を撃退しましょう。
こんな国民投票でも、40%近くの人がやむを得ません、従いましょうと、
社会保障費の減額と増税に賛成票を投じたところを私は評価したい。
駅前にもいつのまにか10階建てを超える高層建築がいくつかできているが、
我が家周辺は15メートル規制範囲。
しかし1丁目と3丁目の境には4車線道路が通っており、その道路を挟む歩道もかなり広いので、
15メートル規制対象外のよう。
そこへ10階建てマンションの建設が始まり、
今日あたりは7階部分の枠組み、2階までの内装工事が始まっている。
最終の高さは29.6メートルになるよう。
建物自体は防音遮蔽幕で覆われているが、傍を通らないと駅前へ出られない。
日々圧迫感が増している。
1800平米の土地に10階建てのビルを作り、48戸の入居を期待してモデルルームの公開や
案内パンフの配布なども始まっている。
尼崎藩主松平(桜井)
は7代。
譜代 4万8千石→4万石→4万5千石 (1711年 - 1871年)
この間、湊川神社なるものは存在していなかったが、楠木正成の墓所は1336年、楠公死去の年に造営されたようであり、16世紀末の秀吉の検地によっても東西4間南北6間は免租地に指定されたようである。↑第6代 松平忠栄(ただなが)の寄進
松平忠栄文化元年(1804年)12月、第3代藩主・松平忠告の九男として生まれる。文政12年(1829年)に甥で第5代藩主の忠誨が死去したため、その養子となって家督を継いだ。天保8年(1837年)に大塩平八郎の乱が起こると、土井利位に従って鎮圧に貢献した。天保13年(1842年)には大砲7門を鋳造している。
嘉永6年(1853年)のペリー来航では、幕府に対して鎖国をあくまで堅持するよう提言している。翌年にロシア船が大坂に現れると、大坂の警備を務めた。なお、このような出費続きで藩財政が逼迫したため、鶏卵を専売している。文久元年(1861年)8月6日、病気を理由に家督を七男の忠興に譲って隠居する。明治2年(1869年)9月7日、尼崎で死去した。享年66。
著書に「胎蕨編」がある。
↑第7代忠興(ただおき)寄進のもの
松平忠興
弘化5年(1848年)1月18日、第6代藩主・松平忠栄の七男として生まれる。
文久元年(1861年)8月6日、父の隠居により家督を譲られる。慶応4年(1868年)1月の戊辰戦争では新政府に恭順し、所領を安堵された。2月に徳川氏との訣別の証として姓を桜井と改称する。
明治2年(1869年)の版籍奉還で尼崎藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で知藩事職を免職された。明治6年(1873年)1月、東京へ移住する。明治10年(1877年)、博愛社(後の日本赤十字社)の設立者のうちの1人となった。尼崎城址の一角に建立された桜井神社には博愛社の記念碑がある。明治17年(1884年)に子爵に叙せられた。
明治28年(1895年)4月29日に死去、享年48。
全部で6基あるはずだが、撮影後に松平7代の名前を確認したばかりで、1,2,3・・と数え切ってはいない。
吟行会参加。
神戸市役所1号館24Fの展望台とその南側にある遊園地。
ルミナリエの「ゴール」地点なのでおなじみの場所でもある。
この中に6000名の名を記した地下慰霊ルームがある。
展望台からの眺め
海側
人工島が東側から六甲アイランド、ポートアイランド、ハーバーランドと続く。
画像はポートアイランドへモノレールが走っている。この中に花鳥園がある。
島の南にさらに空港島があり、モノレールでつながっている。
相次いで廃線となり一日2,3便までに減ったが、LCCのおかげで
今は黒字化していると思う。
これらの島を埋め立てるのに六甲山の裏側から土を採取、
ベルトコンベアーのトンネルで海に運んだ。
で、私は六甲山は屏風山になったと言っている。
山側
↓市役所の本館北側に日本最初の花時計がある。
この角度からだと緑の樹木に隠れたところである。
↓何の数字でしょう?
全国 | 28,489 円 |
神戸市 | 37,399 |
京都市 | 36,835 |
大阪市 | 34,339 |
堺市 | 34,227 |
岡山市 | 34,050 |
奈良市 | 33,787 |
大津市 | 33,755 |
松山市 | 33,404 |
和歌山市 | 32,609 |
川崎市 | 31,973 |
東京都区部 | 31,951 |
金沢市 | 31,946 |
さいたま市 | 31,753 |
福岡市 | 31,304 |
広島市 | 31,214 |
徳島市 | 31,149 |
福井市 | 31,006 |
富山市 | 30,612 |
横浜市 | 30,512 |
高松市 | 30,000 |
↑このベゴニアは美作のノースビレッジで初めて見たが、最近はそう珍しくもなくなった。
品種名を知りたかったので、「花図鑑」で問い合わせたが、3,4件ご教示あり。
しかしすべて「木立性ベゴニア」であった。軸(幹)がやや木化し、葉がやや赤っぽく、斑点があり、根元からよく分枝するものを木立性ベゴニアと思っていたので予想外の応答であった。
6時起床
パンとチーズとコーヒだけの朝食食べて
7時過ぎに家を出た
7時13分発の神戸三宮行きの電車に飛び乗って
西宮北口で特急に乗り換え(7時23分発)
三宮を越えて「花隈」で下車。7時40分。
予定したより30分以上早く駅に着いてしまったので、
日曜日の朝の閑散とした通りを赤信号などまったく無視で港の方へのろのろ
街路樹のための囲いの土を利用した植樹・園芸ものを眺めながら
中突堤中央ターミナル「かもめりあ」北側正面
昨年ここへ来た時は、レトロバスを利用した。
今回もそうしようと思って、数日前に、三宮駅前のバス停の時刻表を眺めると
日曜日の初発は9時過ぎだったので、
神戸高速鉄道花隈駅利用に切り替えた。
綿の一番花が咲いた。
(うつむろ)跡:(宮崎県西都市三宅字石貫)
無戸室跡は石貫神社から約200mぐらいの近距離にある。当地では火柱殿(ひじゅどん)とも呼んでいる。木花開耶姫が、自らの貞淑と潔白を証明するために、戸の無い完全な密室となる産屋に隠れ、自ら火を放った産殿(無戸八尋殿)の跡と伝えられる。 道路より一段上がった、一辺が約30m四方の敷地の中央に、無戸室跡と刻された石碑が建っている。その上には樹齢数百年とおぼしき楠の大木が頭上を覆っている。敷地の境を良く見るとかっての土塁の跡であろうか、土がこんもりと盛り上がっている。
うつむろといえば、上記の西都市のものを詠ったと理解すべきよう。
一般の部B・65歳以上 大賞 | 行けば行くところに記紀(きき)の梅真白 | 吉田亜司 |
猪名寺廃寺跡(いなでらはいじあと)とは兵庫県尼崎市猪名寺にある、飛鳥時代から室町時代にかけて存在した仏教寺院遺跡。 猪名寺の地名の由来となった寺院跡である。