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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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クロアチア

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神戸の大地震よりまえのことだからもう20年以上まえのことである。
ふと履いているビーチサンダルを脱いで製造元を見ると、made in Croatiaとなっていた。
それから20年。
パソコンの付属品(マウスなど)などを見るとmade in Koreaはほとんどみない。ほとんどが中国製である。
時折、インドネシア製などを見つけると変に親近感が湧く。
衣類またしかり。とりわけ夏に着ているものは、ほとんど中国製である。

サンゴバナ

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ご近所で公共の植え込みのシャリンバイなどを「撤去」して
いろいろの花を植えられている方がある。

ネット上で問いあわせたら、珊瑚花という応答が4件あった。
英語名はフラミンゴ プランツ。
熱帯性植物ではあるが、強健で関西でも越冬可能とか。

少女はも珊瑚の色に日焼して 行方克己 昆虫記

癒え近き冬しののめの珊瑚いろ 成田千空

珊瑚樹の朱き実房や長崎忌 斎藤朗笛

陵に敷く珊瑚の小片に蟻まぎれ 上田日差子

春一番珊瑚の海をゆさぶりて 稲荷島人

しらなみは珊瑚環礁暮れ遅し 文挾夫佐恵

鬼やらふ遠く珊瑚の海があり 神尾久美子

初髪に沈む珊瑚の紅きいのち 長谷川秋子 『菊凪ぎ』『鳩吹き』『長谷川秋子全句集』

珊瑚玉首より垂らし初詣 上村占魚 『かのえさる』

海青く珊瑚樹は実を滝なして 村沢夏風

珊瑚樹のいただきくらきまで熟す 古舘曹人

珊瑚ころと呑みこみ尾長去る 谷 和子

初東雲珊瑚の薄紅鮮しき 川口爽郎

銀の泡珊瑚をはなれ昇りくる 三橋敏雄

旭光に枝張る霧氷白珊瑚 福田蓼汀

珊瑚婚ほどの花数サイネリヤ 岡崎光魚

貝寄風に玉と拾ひし珊瑚かな 佐藤清香

雪すこしとけて珊瑚か藪柑子 及川 貞

待宵の湖まだ暮れず珊瑚草 澤田緑生

地ビールや星をゆたかに珊瑚浜 長谷川閑乙

珊瑚拾ふ点景にして大干潟 安田 晃子

春の海珊瑚の枝は伸びつつあり 福田蓼汀

大霧のせまる軒端や草珊瑚 三空坊

雪すこしとけて珊瑚か藪柑子 貞

オホーツクに神の一と刷毛珊瑚草 嶋田摩耶子

珊瑚つむ船の行方や蜃気楼 松瀬青々

日覆を長繰出しや珊瑚店 小澤實

五月雨に父の血を知る珊瑚かな 五島高資

珊瑚樹のいただきくらきまで熟す 古舘曹人

群れてこそ雨降つてこそ珊瑚草 坊城中子

オホーツクの風育てしや珊瑚草 坊城中子

人骨に似たる熱砂の枯珊瑚 秋光道女

珊瑚井蓋にくらき水ひびく 角川源義

夏満月魚も珊瑚も 繁殖期 小嶋公子

珊瑚咲く海に生れて虹淡し 吉野義子

珊瑚樹のうちに鳥ごゑさき彼岸 岸田稚魚

雪すこしとけて珊瑚か藪柑子 及川貞

貴妃が肌に珊瑚汗ばむ暮の春 中勘助

亡き人のかたみの珊瑚春あさし 中勘助

古代埋蔵の村で 艶もつ山珊瑚 伊丹公子

夕焼けて 珊瑚になった エルクの角 伊丹公子

珊瑚珠のごと蟹沈む清水かな 下村梅子

珊瑚樹は熱風の吹き入りしまま 岡田史乃

島栄ゆ鈴なる鴎白珊瑚 横光利一

珊瑚敷きあをぞらよりも濃き卯波 佐川広治

尼寺の珊瑚樹鵯に実をこぼす 大島民郎

海底に珊瑚花咲く鯊を釣る

見よ左翼より玉砕の珊瑚の樹 鈴木六林男 悪霊

銀の泡珊瑚をはなれ昇りくる 三橋敏雄 まぼろしの鱶

最果志向 阻み 波立つ珊瑚の海 伊丹三樹彦 覊旅句集三部作 島嶼派

焚火屑珍の珊瑚に紛ふあり 日野草城

珊瑚樹の梢はづれの露地の月 京極杞陽


泰山木

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もう30年前になるかも

経済学部のすべて見下ろす泰山木

という句を発表した。好評であった。

「俳諧歳時記」を覗いてみると、泰山木だけでも夏の季語になるようだが、
ふつうは泰山木の花が夏の季語(5月6月)となる。

歳時記無視の時代であったから支持者があったが、同じ系譜の結社ではあるが
いまや旧習派が多くなって、この句には季語がないなどという人もあるだろう。


この句を記憶している理由の一つが、以後結社内では
医学部や文学部、農学部など学部名を持ち出すのが流行ったからである。

西宮市の丘陵地帯に関西学院大学がある。
最寄駅から近いこともあり、学内への立ち入りが自由なこともあり
(大学の多くは郊外の田園地帯に立地しているが、
こういう場所はあぜ道や林道が通っている。それらを含んで広い土地を購入するのだが
その道を通らなければならない住民が少しは残ってしまう。
公道はいまや広い学内道路の一部になり、そこが畦道であったことを記憶する人はいなくなってしまうが、大学としては当初売買契約時の内容を尊重し
夜間も学内通行可能(門を終日開門状態にする)にしている。)
結社の吟行会でよく利用する。

そんな折には、さすがに経済学部は登場しないが、神学部や法学部などを詠った句がじゃんじゃん登場。

さらには、馬術部や茶道部などの学内サークルの案内パンフや練習風景に触発された句が目についた。

ところで上掲句などは今の大学風景としては詠いにくい。

代表が東京にある諸大学である。

本郷の赤門をくぐると、20年以上前なら、三四郎が覗いたであろうようなレンガ建て2階建、3階建ての学舎が、工学部の一学科の表札を付けて残っていた。

早稲田大学は近年急速に高層ビル街へ変貌していった。

泰山木の標準背丈ではもう学舎を見下ろすことはできなくなっている。

受験生を乗せて高速エレベータ

エレベータを降りて、国語だろうが英語だろうが、
正解と思われる記号を一日がかりで塗りつぶしてゆくと合格通知が届く仕組みになっている。

多くの大学は合格者の学内掲示板での発表さえやめてしまっている。
IDとパスワードをインプットすれば合否が分かるようになっている。

今日見た泰山木


その下では桔梗が咲き乱れていた。


そのまた昔、野沢温泉の学生村で夏を過ごしていた時、その家は、夜業で、まだ開花していない桔梗を箱詰めしていた。
翌日には東京の花卉市場へ出荷されたのであろう。
畑を見にゆくと、何本も紐が横に張られて、キキョウがまっすぐ育つように仕組まれていた。

最初に利用した時は、1泊3食が550円だった。
「ユートピア」荘という名の民宿だった。
ゲレンデも所有・経営なさっていたので、
冬場が掻きいれ時だったと思う。
冬場なら10人くらい押しこまれる広い部屋を隣室部分も含めて独占していた。8月も半ばになると、窓から青りんごをむしりとることができた。

西粟倉村の春名さんっちも、親戚の住職さんの紹介で利用したことがある。
今年西粟倉村のアワクランド前の観光地図を見ていると
民宿「春名」の文字を見つけ懐かしかった。
岩倉寺で、春名さんはいまでも民宿やっているの?と聞いたら、
だいぶ前に当主がなくなり民宿はやっていないとのこと。

ここで勉強していたら、毎日先代の住職がやってきて何か差し入れをしてくれた。それから、それが昼過ぎなら夕刻までは碁を打っていた。
1局が20分くらいで終わる。


私の家庭教師のアルバイトが週2回各2時間英語と数学の指導で、
大学1年の時が月3000円、次の年は3500円であった。



泰山木と桔梗は、有馬道沿いの公園のものである。

この道が塚口御坊を抜けて富松の札場の辻を通って富松神社前から
宝塚小浜へ通じていたのだ。

よって秀吉さんも塚口御坊を通ったことがあるのであろう。

式内社

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尼崎市内には66の神社があるそうである。
伊佐具神社を初めて覗いた。
市内66社の内、唯一の「式内社」「官幣社」であることを誇っている。



官幣社、式内社ともに、何度も目にした「単語」であるが、中身はいまだ理解していない。

ウィキペディアの「官幣社」の説明はいやに短い

官幣社(かんぺいしゃ)は日本において官(朝廷、国)から幣帛乃至幣帛料を支弁される神社官社(かんしゃ)とも。」

この辺りについては、その「有難さ」については、曖昧ながら、理解していた。

デジタル大辞泉の解説:

古くは神祇官から、明治以降は皇室から幣帛を奉った、社格の高い神社。大社・中社・小社・別格官幣社の別があった。皇室崇敬の神社や天皇・皇族・忠臣などを祭る神社が多い。昭和21年(1946)廃止。→国幣社


兵庫県では官幣大社は、西宮の広田神社で、明治5年に「認証」されている。
10年後には淡路島のイザナミ神社が官幣大社となっている。

兵庫県の官幣中社は、生田神社、長田神社である。

(たいていはこのブログで一度は紹介している。長田神社の画像紹介はした記憶はないが、毎年年の暮れから神戸の須磨区板宿の大伯父の娘(私にとってはいとこ半)の家に泊りこんでいたので、大晦日の除夜の鐘が鳴ってから、近所の商店主に暮れのあいさつか新年の挨拶が忘れたがそれを済ませた従姉半に連れられて長田神社へ初詣にでかけた思い出がある)


湊川神社は別格官幣社という位置づけである。

この辺りの一覧法では、伊佐具神社の名は登場しない。

「式内社」で検索するとトップにウィキペディアの「延喜式神名帳」が登場する。

私などは、高校や大学の「日本史」関係科目でこの言葉は学ばなかったと思う。
しかし訪問した(見学した)神社仏閣の由緒書などではしばしばお目にかかっている用語ではある。

延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。

延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。本来「神名帳」とは、古代律令制における神祇官が作成した官社の一覧表を指し、官社帳ともいう。国・別に神社が羅列され、官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒などの記載はない。延喜式神名帳とは、延喜式の成立当時の神名帳を掲載したものである。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社で、そこに鎮座するの数は3132座である。

式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社で、その選定の背景には政治色が強くみえる。当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺となった神社、僧侶が管理した神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿がなかった神社などが含まれる。式外社だが六国史に記載がある神社を特に国史現在社(国史見在社とも)と呼ぶ(広義には式内社も含む)。


伊佐具神社は、全国で2861社認定された式内社のひとつで、
河辺郡(川辺郡)では筆頭社の扱いを受けたようである。
全国の神社の数は何万社とあるはず。

伊佐具神社の祭神は、この神社が立地する地域を拠点としていた坂部氏や
久々智氏のご先祖さまのようである。(上坂部 下坂部 久々知という地名は、今でも存在するし、私は赤松円心がこの辺りで何度も負け戦をやっていることも知っている。

全国の官幣社一覧はネット上にあるかどうかは未調査。

円心の墓も社内にあるという案内文を読んで、そこへ出かけてみた。

どうやら円心がこの神社へ戦勝祈願のために立ち寄り、また戦死者の慰霊碑を建てたようである。円心の墓なるものは、智頭鉄道の「赤松円心」駅の近くの寺にある。

私の一族が、円心を祖神とする若宮の前で毎年春4月に寄り合いをやっているが、
まったく同じことを私の母親の里でもやっている。

吉野川の川渕に、(この村へ住みついた初代の記念)碑を建ててやはり若宮さんと称していた。田んぼの中なので、近年場所を一族の墓地がある高台の一角へ移し祠を用意したが、
昨年からはその催しが中止になった。その高台へ各家の当主が登ってこれなくなったからである。

母親の実家は一族の本家であるが、私の従兄である当主は60歳になるまで都会で働き、
父親の死後しばらく空き家になっていた家を新築して村に戻ってきたが、田は人に貸したままで、農作業を本格的にやる自信がないまま、軽い脳こうそくを何度も患い、せっかく切り開いて
円座を組むことができる場所に祠を新調しながらも杖一本では山道を登れない身になってしまった。

不都合なことに、この村の若宮祭は、女人禁制なのである。

他方父方の里の祀りは、女人禁制の掟がない。よってここでも高齢化現象が生じてはいるが10数人が今でも集まっている。
この祠も、祀りの前には、その時にしか利用しない山道の除草や滑り止めのための鍬入れなどの作業が必要である。
それも本家では無理になり、今は、その場所にもっとも近いのが
Mrs Kの家であり、作業可能な人員があるので、もっぱらMrs K夫婦で用意をしているようである。

 一族の講などもいまではもっぱらMrs K宅が利用されているようである。いいことかどうか、村の寄り合い所である集会所も、Mrs Kの家の、道路(国道)を挟んだ南側にある。

若宮祭の折など、弁当が足らない、座布団がたらないとなると
Mrs Kが山道を飛ぶように何度も往復している。

現に参加者も半分は当主の足腰が弱ったなどの理由で、女性陣である。そして何よりの強みは、Mrs K宅は後2世代が、よって後70年は
継承確実である。

母親の里の従兄は、その長男が未だ都会暮らしであり、しかも独身である。


本日地元での句会

席題 (早く席題をお願いと催促されたので)「願」

百合いつも願いの姿勢新林道
そういえば醤油瓶など煙の木
亡き人の笑顔を泛べ濃紫陽花
いつまでも詮ない話心太
砂浜の気弱な靴跡花トベラ


伊佐具神社についてはウィキペディアに独立の項目があった。


境内社


  • 史跡
    龍稲荷神社 もと社坊の真言宗福円山浄徳寺のお堂を社殿とし、神仏習合の名残を残す。
  • 八幡神社

並河誠所式内社と比定した社号標石。正面に「伊佐具社」と刻まれている。

  • 五輪塔 元応頃(1319年~1321年)の石塔で、赤松円心の墓と伝える。





前方後円墳

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伊佐具神社は式内社であることを「売り」にしていた。
その近くにある伊居太神社は、

豪族酒部氏の墳墓と推定される前方後円墳の後円の部分に在ることを「売り」にしている。
この前方後円墳が、尼崎市内最大のものらしい。

航空画像でも利用しないと前方後円墳の輪郭などまったくつかめない。

杜はすべて立ち入り禁止になっている。

藪茗荷なるもの最近やたら目にするようになった。

近松線と呼ぶ広い南北道の、伊居太神社前の交差点を西へ渡ると
近松公園が見える

JRの塚口駅からなら徒歩10分以内の地点であるが、
このあたりは塚口地区を含む立花地区なのか、東隣の園田地区になるのか目下私にはわからない。

と書いてから、ウィキペディアの園田村を検索:


以上の解説で知った新事実!

JR「塚口」駅は、園田村に位置したらしい。

よって伊居太神社も伊佐具神社も園田地区に含まれる。

それどころか、阪急塚口駅の南西に位置する私立学校に園田学園と呼ぶ学校がある。どうみても塚口学園と呼ぶべき位置にあるのに
「園田」の方が「塚口」(墓の前)より印象がいいので、越境借用したにちがいないと思っていたが、なんと阪急塚口駅の南側は、今では南塚口町という町名を持っているが園田地区(の支配下)にあるようである。

よってもって近松公園は園田地区に位置する。

この公園には、私は尼崎市内唯一ではないかと思う句碑がある。

中島双風は尼崎市の在住の俳人である。

↑近松記念館
隣の伊丹市は鬼貫の句碑だけでなく、浄水場がある公園などへいけば
歌碑・句碑めぐりができるほどであるが、尼崎市内にはそれがない。

近松門左衛門の墓地はなんどかこのブログで紹介しているが、
墓地は、公園隣接の広済寺という寺にある。

墓石そのものは、去来並である。

このお寺は蓮を壷でたくさん育てておられる

神仏分離で、隣のスサノオ神社と寺域を分けたのを今もなお悔やんでおられる様子。



大学の高層ビル化
1昨日の記事を書いていて思い出したこと。

お茶の水の駅前にそびえる医科歯科大学、人々の後について行って
入り組んだ学舎と病棟の間を抜けていくと裏門へ抜けることができる。
裏門を出たところにあるホテルを利用する時には何度も利用したが、
その後あちらこちらで通せんぼが始まってさらに巨大な新ビルの建設が始まってからは利用しなくなった。

代わりに湯島聖堂への道草をよくやった。
夏は藪蚊に襲われるが、そこで楷の木を知った。
その後閑谷学校でも楷の木を見つけて、儒学と楷はなんか関係ありそうと思いながら「調査」しなかった。

高層ビル大学と言えば、東京の街を歩いていて目の前に工学院大学のビルを見つけて
驚いたことがある。


しかし最近は、15階建て位の大学を見ても全然驚かなくなった。


そういえば、東京や横浜の私立学校も最初に見た時には驚いた。
しかしイギリスへ出かけて、道路沿いの建物の一角にあるドアが学校の
入口(学校と言えば門があって、植え込みがあって学舎の入口があるものと思っていた)
であるのが「先進国」的であるのを確認。

同じような変革が寺院にも生じ始めている。
名古屋の中心街では寺がビル化し始めている。


「楷の木」で検索したら、
長い長い「歴史」を解説したHPに行き当った。


今から2500年前、儒学の祖、孔子(紀元前552~479)は、多くの子弟に見守られながら世を去り、山東省曲阜の泗水のほとりに埋葬された。門人たちは3年間の喪に服した後、墓所のまわりに中国全土から集めた美しい木々を植えました。今も残る70万坪(200ha)の孔林です。

 孔子十哲と称された弟子の中で最も師を尊敬してやまなかった子貢(しこう)は、さらに
3年、小さな庵にとどまって塚をつくり、楷の木を植えてその地を離れました。この楷の木が世代を超えて受け継がれ、育った大樹は「子貢手植えの楷」として今も孔子の墓所に、強く美しい姿をとどめています。その墓所のまわりには、孔子を慕う弟子や魯の国の人々が集まりはじめ、やがて住み着いた者の家が百あまりであったので孔里と名づけられました。

孔子は300年後の漢代中期以後、国家的崇拝の対象となります。しだいに墓域も拡大され、孔里は現在、孔林という広大な国家的遺跡になっています。その後、「楷の木」は科挙(中国の隋の時代から清の時代までの官僚登用試験)の合格祈願木となり、歴代の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』とも言われるようになりました。合格祈願木とされたのは、科挙の合格者に楷で作った笏(こつ)を与えて名誉を称えたからだと考えられています。また、その杖は「楷杖」として暴を戒めるために用いたとされます。



アナベル

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アナベルや柏葉紫陽花では例句なし。


数えていないが、赤丸が66個あるはずである。


神社詣を「趣味」にしているわけではないが、
町内を中心にその隣の地区・集落・住宅地をめぐっているうちに
あちらこちらで神社に遭遇する。
由緒書を画像にとって、神社の杜で何か珍しい植物・動物(鳥)に出会わないかとうろうろしている。

尼崎市内66社の所在地地図があったので、借用。
江戸時代の村々には、最低1社があったはずである。


しかし我が家のように、昭和の時代になってから住宅地化した地域のそのまたはずれ
の周辺には徒歩10分以内には神社も寺もない。
(しかし新興宗教の寺や教会を名乗る建物はかなりある。天理教、金光教、モルモン教会、創価学会や幸福の科学の集会施設など)
徒歩20分に拡大すると、旧集落の領域へ入り込むので数多くの真宗寺院を中心に仏教系寺院や神社に出会う)


中学生になってからよその町からこの家に引っ越してきて
しかも地元ではないよその町にある学校や勤務先へ行くために
家と最寄駅を往復するだけで生活してきた者にとっては
散歩の途上で神社を見つけると、そこが生活の中心であった人々のことを思って
羨ましく思う。 けれど神社の周りは、現在では、多くの場合新興住宅地で
神社で拝礼している人の姿はまずはみない。



「尼崎神社巡り」 に66社の一覧があり、各神社名をクリックすると、
由緒や所在地を見ることができる。

ブログでこれまで画像紹介した神社は20社ほどだと思う。

1889年、現在の尼崎市の領域には、隣村5村と合併した新尼崎町、
12村の合併で生まれた武庫村、9村合併で生まれた大庄村(「大島の庄」から生じた新村名)、20の村の合併で生まれた園田村、12村合併の立花村、18村合併の小田村が存在した。

尼崎旧城内が中心の尼崎町を除いて76の村があった。ならば最低でも77の神社が存在してもおかしくはない。
明治の神仏分離政策で生まれた新神社も加えれば、旧尼崎町町内に1つしか神社がないということもないだろうから、100位あってもいいかも。

神社も統廃合が行われているし、氏子がいなくなると廃社もありうる。


伊居太神社:市内最大の前方後円墳上にある
伊佐具神社:市内唯一の延喜式内社

久々知須佐男神社は : 多田源氏の祖 源満仲の建立 

源氏よりいまバルザック夜の秋 遠藤タミ子

源氏香春の霰となりにける 延広禎一

桐一葉源氏ゆかりの薬医門 的場敏子

助炭の絵どうやら田舎源氏らし 阿波野青畝

源氏ならで上下にいはふ若菜かな 立圃

笹鳴の途切れては又源氏山 山田閏子

源氏興り滅びたりこの春山に 村松紅花


扮し得たり幼き源氏欝金香 高浜虚子

晩学の源氏読みつぐ花の夜 茂里正治

富士を背に源氏蛍の小宇宙 佐藤一色

紅梅やうつつごころの源氏とも 原コウ子

扮し得たり幼き源氏鬱金香

焼芋がこぼれて田舎源氏かな

淑気満つ源氏嬰児いだく絵も 堀口星眠 青葉木菟

大手より源氏寄せたり青嵐 夏目漱石 明治三十年


門の松たてのならびか源氏の御代 紀子 選集「板東太郎」

をみな泣く源氏絵巻の露けさよ 野見山朱鳥

源氏などほのめく藤のあるじ哉 高井几董

花の香やむかしの袖に源氏雲 上島鬼貫



目下の英雄は

私にとっては、アナベル


廣済寺は、近松公園を一度外へ出なければ近寄れないが、
須佐男神社はアナベル苑の横を通って公園へ入っていける。




昼顔

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昼顔で検索したら、なにかしらないが、視聴率が高そうな不倫ドラマに関するHPばかりが出てきた。
改めて「花 昼顔」で検索、ウィキペディアなどの解説を読んだ。

川べりを歩いていると、季節がまた少し変化しているのを発見。

ミゾソバの花は目立ち始めた。ミゾソバが、1か月以上前ならスイバが占めていた場所を占拠している。

賭事はやまひ溝蕎麦またぎゆく 中原道夫

溝蕎麦の花引き抜きて測量す 広瀬恵美

溝蕎麦は水の際より咲きそめし 高浜年尾

溝蕎麦の溝よりあふれ出て咲ける 江藤 都月

造成の地に溝蕎麦の居を構ふ 三輪田育夫

シンバルの音溝蕎麦にとどきけり 安藤綾子

溝蕎麦や遅れがちなる二人連 加藤知子



溝蕎麦や多摩の小流ここに又 高浜虚子

溝蕎麦や足摺へ向く遍路みち 中平泰作

溝蕎麦や峡田乏しき水をひき 平松草太

いえづとの溝蕎麦の花こぼるるよ 中村わさび

溝蕎麦にだんだん水音暗くなり 諸角せつ子

溝蕎麦に明朝体の雨降れり 幅田信一

溝蕎麦や土橋明るく田をつなぐ 三輪千代子

溝蕎麦の鳥の脚よりなほ繊き 永野孫柳

ほぼ同じ場所で昼顔が咲いている。

昼顔の例句は多い。
最初の100句からダブりや「浜昼顔」の句を除いてみた。

昼顔や雨降りたらぬ花の顔 智月 俳諧撰集玉藻集

いざ子供昼顔咲きぬ瓜剥かん 松尾芭蕉

昼顔は吹かれ易くて雨上る 行方克己 知音

こゑ少し嗄れゐしよ昼顔に 行方克己 知音

昼顔が咲いてドックの廃れたる 行方克己 無言劇



昼顔や玉石据えし流人墓 那須乙郎



昼顔の雨にくづほれ安礼の崎 稲垣法城子

昼顔は摘まぬ花なり石の門 中村苑子

昼顔に認めし紅の淋しさよ 松本たかし

昼顔に廃れて巨き鮭番屋 堀口星眠

昼顔や真昼の海の鳴るばかり 伊藤晴子

昼顔に積みおろす荷のみな墓石 有馬籌子



手ぶらとは淋し昼顔ひとつ摘む 佐竹 たか

昼顔の沖ゆく淡路通ひかな 高瀬 初乗

なすこともなく昼顔の咲いており 前田保子

昼顔や水平線に触れて咲く 北澤瑞史

昼顔を吾が白骨の咲かすべし 和田耕三郎

昼顔にスクランブルの一機来る 菊川貞夫

昼顔のここ荻窪は終の地か 角川源義 『西行の日』

昼顔や老い美しき家郷の人(水橋町) 角川源義 『西行の日』

昼顔や十三の砂山米ならよかろ 角川源義 『冬の虹』

昼顔や流沙の波紋金に炎ゆ 石原八束 『仮幻』

昼顔や渋民村に家少し 飴山實 『少長集』



昼顔や蕊のまはりのうすぼこり 大木あまり 雲の塔



昼顔の花の中にも砂多少 阿波野青畝



昼顔に海女身をいとふ磯草履 野沢節子

昼顔のしぼみかくるる夕野原 高浜虚子



昼顔を吾が白骨の咲かすべし 和田耕三郎

大汐や昼顔砂にしがみつき 一茶

昼顔の花に干くや通り雨 正岡子規

昼顔に猫捨てられて泣きにけり 村上鬼城

昼顔や煩ふ牛のまくらもと 蕪 村



昼顔のほかは働く男たち 石井禾人

昼顔にシーソー齢ほど傾ぎ 倉本 岬



昼顔を吾が白骨の咲かすべし 和田耕三郎

昼顔やふるさとを向く流人墓 藤原たかを

昼顔や砂丘の果ての波の音 鈴木文野

昼顔や水平線に触れて咲く 北澤瑞史

昼顔の見えるひるすぎぽるとがる 加藤郁乎

葉月かな昼顔の砂踏み荒るる 伊丹さち子

干網に昼顔が手を伸ばす午后 藤原たかを



昼顔や屈託のなき海女の笑み 水原 春郎

昼顔のほとりによべの渚あり 石田 波郷

昼顔や神父をおろす島渡舟 坪井かね子

昼顔や捨てらるるまで櫂痩せて 福永 耕二

磯の海女昼顔よりも淡き火を 伊丹 丈蘭

昼顔や砂より波のひびき来る 織田 道子



砂叩く雨に昼顔花やぶれ 岡本無漏子

いつ咲きし昼顔を犬嗅ぎにくる 小巻豆城

昼顔や流浪はわれにゆるされず 鈴木真砂女

漆庫くらく昼顔雲にのぼる 松村蒼石

昼顔に浅間高原あはれなり 室生犀星

昼顔の咲きのぼる木や野は広し 中村草田男

昼顔を摘まんとすれば萎れけり 富安風生



昼顔の咲きからむ麦刈られけり 野村喜舟

昼顔にしばしうつるや牛の蝿 几董

昼顔や錨は波につながれて 酒井和子



思ひ出す伏見の町の昼顔を 岸本尚毅 舜

昼顔の大きな花が雨の中 岸本尚毅 舜

昼顔の咲きつぐ墓に参りけり 岸本尚毅 舜



昼顔のいくつも蘆にからみけり 岸本尚毅 鶏頭

昼顔のいくたびも吹きすぼめられ 岸本尚毅 鶏頭

昼顔の花のかたちのくづれつつ 岸本尚毅 鶏頭



草を出て昼顔のひらきつぱなし 佐々木六戈



昼顔の花のかたちのくづれつつ 岸本尚毅



昼顔のうすき花びら地熱持つ 和田耕三郎

昼顔を吾が白骨の咲かすべし 和田耕三郎

昼顔や罪のかたみの影法師 二村典子

トラックの風にやぶれて昼顔は 夏井いつき

昼顔に小包が来る気配あり 五島高資

昼顔が口開けている無人島 五島高資



たくさん咲いているのだが、10花以上をまとめて画像に収めると、全然目立たなくなってしまう。


我が家の前は、サポナリアの花が終わってしまったので、
子規庵で採種した鶏頭を14,5本並べてみた。


大阪句会出席

4句(兼題「成」 私が出題したらしいが忘れていたので、会場で席題として作句

拝殿前の久々知兵助濃紫陽花
夕涼みも古語となりたるうるう秒
透明も色のひとつか川床料理
成功作を並べる父の日の父


ソラナム・ラントネッティ

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普段はあまり近づかない、短い路地の露地庭に鉢植えになって咲いていた。(鉢そのものは今や移動困難であろうが)

↑真ん中のボケた画像を除く2枚を夕べ投稿、今朝覗くと、ソラナム・ラントネッティと、聞いたことがない名前を教わった。
その名前で画像を検索すると、日当たりいいと↓のようになるらしい。


ソラナム・ラントネッティの花

2メートルに成長するとか。私が見た木もそれに近く成長していた。
もっと小ぶりの鉢植えの画像が多かった。

ソラナムはナス科の総称だとか。

1昨日の雨で、鶏頭が横倒し状態になっていたが、今朝あたりは元の姿に戻っていた。
綿の木はゆがんだままなので、鶏頭の復元力の強いのに驚いた。  と書くつもりで、
合わせて、本数を数えて、14,5本より1,2本の多いのを確認したと報告するつもりで画像撮り。


そのことをワイフへ報告しようと思ったら、先方から先に、鶏頭、まっすぐになっているでしょうと話しかけられた。ワイフが支え棒を誂えたとのこと。(自分が買ってきた子規庵の鶏頭だから
大事に育てようと思ったらしい)。

そこでもう一度外へ出て、つっかえ棒の撮影を強要される。

川べりではミゾソバや昼顔が目立つが、町中では、むくげの花がめだつし、
百日紅も咲き始めた。


百日紅

御堂筋淀屋橋の上の植え込み。園芸用矮性種なのであろう。

ついでに7月1日の市役所・中之島公会堂周辺

↓朝鮮朝顔(俳句でダチュラが詠まれていれば、この花のことである。
ただし平成10年以降ならブルグマンシアかもしれない)

我が家の今夕のブルグマンシア
例句などとしてはまだ収録されていないと思うが、最近ではこれをダチュラとして詠う句も増えている(ハズ)。

ダチュラだらんとぴちょぴちょ雨の路地 高澤良一 暮津

夕立の叩き甲斐あるダチュラの葉 高澤良一 暮津

月光にダチュラ怪人佇つごとし 高澤良一 暮津

終末の喇叭を吹けり花ダチュラ 高澤良一 暮津

ダチュラ咲く水底に似て島の闇 黒田杏子

満開のダチュラの花に靴かくす 岩淵喜代子

ダチュラ見て俳句作りの面白さ 高澤良一 鳩信

淡紅の眠気もよほす花ダチュラ 高澤良一 素抱

仲違ひダチュラがそっぽ向いてゐる 高澤良一 素抱

ぶらさがり咲きが得手なり花ダチュラ 高澤良一 宿好

アトリエを包む潮騒花ダチュラ 高澤良一 宿好

曙いろダチュラ大きく開けゴマ 高澤良一 寒暑

ダチュラ押さばぱふぱふ鳴るならむ 高澤良一 ぱらりとせ

ダチュラ咲き当地至つて温暖な 高澤良一 さざなみやつこ

むつとして妻良の明け方ダチュラ咲く 高澤良一 ももすずめ

月の香のダチュラを積みて島を去り 黒田杏子 花下草上


高澤良一作品は、どうもブルグマンシアを詠っているように思える。

「ぶらさがり咲き」という表現は、朝鮮朝顔ではできない。
朝鮮朝顔は上向きに咲くので。

はてそれは下向き咲きのブルグマンシア


蝸牛通り

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阪急塚口駅の西側の踏切を北から南へ渡ると、塚口町(1丁目)から南塚口町へ移動することになる。

踏切を渡って、通りの右側(西側)が南塚口町1丁目で、左側(駅改札口方面)が2丁目である。

この事実を昔から知ってたわけではない。最近ようやく南塚口町の丁目境が分かってきたところ。

その道をさらに南下してバス道を渡ると「蝸牛通り」

歩道はレンガ道、車道(一方通行)はセメントタイル。欅の片並木。

樹の下は未央柳、クチナシ、山茶花
クチナシやビヨウヤナギは少し花が残っている。

右側が1丁目で左が2丁目。
1938年創立の女子中高は見える。

ケヤキの木は他でもみることができるので、(私が)名づけて「蝸牛通り」

かたつむりがいっぱいいる。

蝸牛の例句は200句以上あった。

蝸牛や青山半蔵幽居の間 西本一都

蝸牛やくるぶし冷ゆる湖の風 石川桂郎

蝸牛や汝との刻のすぎ易し 加畑吉男

牧に降る雨は明るし蝸牛 嶋田一歩

昏れんとし幹の途中の蝸牛 桂 信子

蝸牛昨日も今日も同じ葉に 竹田 ひろし

浜木綿の花の傷みや蝸牛 射場 延助

撒水の庭に出てきし蝸牛 高木 冨美

木に草に雨明るしや蝸牛 長谷川 櫂

夕焼けは神話のほとり蝸牛 橋口 等

きざはしに日照雨すぎたる蝸牛 長谷川双魚 『風形』

いつの間に近くにをりし蝸牛 岸田稚魚 『紅葉山』

蝸牛と童女のあはひ密とせり 岸田稚魚 『萩供養』

佐渡昏れてしまひぬ一枝の蝸牛も 加倉井秋を 『真名井』

蝸牛や家のどこかに焔あり 加倉井秋を 『午後の窓』

光陰は竹の一節蝸牛 阿部みどり女 『光陰』

勁き拇指蝸牛のごとく覗く足袋 中村草田男

どうしても吾に似てをり蝸牛 大牧 広

蝸牛やどこかに人の話し声 中村草田男

蝸牛虹は朱ケのみのこしけり 大野林火

行く先を聞けば角振る蝸牛 大塚とめ子

蝸牛いつか哀歓を子はかくす 加藤楸邨

蝸牛をつまむ微かに抗ふを 山田みづえ

やさしさは殻透くばかり蝸牛 山口誓子

よべの雨馬藺に殖えぬ蝸牛 黒柳召波

寒に入る蝸牛らも石の類 鷹羽狩行

隠岐蝸牛眠る月夜の怒濤かな 仲田藤車

メビウスの輪を抜け出せぬ蝸牛 下村まさる

先生の鞄より出る蝸牛 光成敏子

蝸牛月を運んでをりにけり 和田耕三郎

月明の岩より湧きし蝸牛 田中冬子

戸袋の節穴ほどの蝸牛 田中美沙

太き殻引きずり上げし蝸牛 高橋清柳

蝸牛版木は蔵に眠りゐて 本居三太

蝸牛生涯かけて飲む薬 斎藤道子

蝸牛おのが微光の中をゆく 千代田葛彦

やさしさは殻透くばかり蝸牛 山口誓子

うこぎ摘ム蝸牛もろき落葉かな 言水

蝸牛おのが微光の中をゆく 千代田葛彦

向きかはるとも一途なる蝸牛 杉山 岳陽

蝸牛も岐れ合ふ枝もわかわかし 石田 波郷

策もたぬことが策なり蝸牛 平子公一

蝸牛生涯かけて飲む薬 斎藤道子

蝸牛が一日の行の石めぐる 水内鬼灯

泣きし子に神父の見せし蝸牛 藤野 力

蝸牛子に偏差値の世界あり 野上 水穂

露地草履ほの湿りして蝸牛 池松昌子

泥んこの子に余白なし蝸牛 中田ゑみこ

力まずに過す余生や蝸牛 八谷きく

玄奘三蔵渡天したまふ蝸牛 佐々木六戈 百韻反故 初學

蝸牛玉と変りて冬眠す 百合山羽公

このままの晩年でよし蝸牛 石田あさ子

蝸牛気にかかる故延びのびに 油布五線

妻の疲れ蝸牛はみな葉の裏に 沢木欣一

葉より落つ夏満月の蝸牛 目迫秩父

蝸牛遊ぶ背に殼負ひしまま 山口波津女

わが足に蝸牛摧くる音ぞかし 相生垣瓜人

蝸牛喪の暦日は過ぎ易し 安住敦

蝸牛いつか哀歓を子はかくす 加藤楸邨

あかるさや蝸牛かたく~ねむる 中村草田男

やさしさは殻透くばかり蝸牛 山口誓子

朽ち臼をめぐりめぐるや蝸牛 西山泊雲

蝸牛や降りしらみては降り冥み 阿波野青畝

一生の重き罪負ふ蝸牛 富安風生

雨の森恐ろし蝸牛早く動く 高浜虚子

蝸牛の頭もたげしにも似たり 正岡子規

蝸牛忌の近づくころや照りつゞく 塩谷半僊

梅雨寒や屏風を渡る蝸牛 庄司瓦全

蘭の香や角ふりもどす蝸牛 桃隣

石よりも地よりも生ける蝸牛冷ゆ 橋本多佳子

世辞うときままの生涯蝸牛 四倉喜美子

蝸牛の遠く到りしが如くかな 松根東洋城

蝸牛いつか深山の夢のなか 金子青銅

詩仙堂雨の扉の蝸牛 田中王城

蝸牛道へ擲ち庭手入 吉良比呂武

蝸牛を踏むや足駄の渡守 石島雉子郎

草庵の三幹竹や蝸牛 岩木躑躅

星ひとつ殻に灯せし蝸牛かな 桜井千種

日向ぼこ遠目に墓の影据ゑて 阪上蝸牛

亡き星の光さしこむ蝸牛 光部美千代

採つて来し零余子の中に蝸牛 岸本尚毅 舜

仰向きに人運ばるる蝸牛 岸本尚毅 舜

夏山や桶に大きな蝸牛 岸本尚毅 鶏頭

つひに降らずじまひの暗さ蝸牛 上田日差子

蝸牛月を運んでをりにけり 和田耕三郎

蝸牛素足濡らしつ森に入る 小川特明

寒に入る蝸牛らも石の類 鷹羽狩行

光陰は竹の一節蝸牛 阿部みどり女



天上に火をつけにゆく蝸牛 あざ蓉子

このままの晩年でよし蝸牛 石田あき子

ねむたくて殻を曇らす蝸牛 鷹羽狩行

青き夜の猫がころがす蝸牛 真鍋呉夫

蝸牛いつか哀歓を子はかくす 加藤楸邨


お花好きの家も多い。

一歩横道に入ると、自家農園も残っている。
塚口村だったのか、この辺りすでに園田村であったのか。

黄花コスモス
             ムギワラギク

その農場?から女子高の正門をみると

テニスシングルス全国ベスト16!大学だと優勝が常態だったが?

女子高の運動場を囲うメタセコイア
テニス部員は、大学のコートを利用するために移動するのであろうか?


メタセコイアは神経の束冬澄めり 小檜山繁子


行こうと思ってる方向が同じなので、
別の道を選ぶ。こんな道は行き止まりが多い。今日も1箇所、袋小路へ迷い込んだが、
この道は幸い通り抜け可能だった。

広い道(五合橋線)を、横断歩道のないところで、横断。
初めての道である。

ここはもう塚口村ではなく、栗山村の領域(11村が合併して立花村が誕生した時の村役場は
この栗山地区にあった。多分それが市の文化財保蔵庫として転用されたのではないか?
突き当りに見える緑地は栗山公園。
公園の向こうに女子大があって、
そのまた向こう(西)に庄下川が流れている。


椋の木




訂正:
夏の野沢温泉村で、民宿の経営者が夜なべ仕事に、キキョウの出荷作業をしていたと書いたが、
はるか昔のことを思い出すに、軸がもっと太かったようだ。
桔梗ではなく竜胆だったと思う。

撤回:

透明も色の一つや夏料理 なる句を伝統俳句系のカレンダーで見つけた。
よって私の1句は撤回。この句を見て、透明色なるフレーズを利用しょうとして、
結局原句へ戻っていった気配。 ブログからも削除。

ブルグマンシア

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お客さん来訪故、
玄関前にブルグマンシア3年物配置。

幹が根元近くで2本に分かれ、しかも1本は曲がっている。


庭の20年物?も今年初めての満開状態

他にも今年の4月に挿し芽したものも、根付いたよう。

お客さんは心理療法士さんで、高齢者のボケ具合の診断が専門のよう。

私の父の兄(長男)の3男の3番目の娘さん。この3男は、私の祖父の配偶者の兄の娘の養子になったので姓は、父方祖母の旧姓と同じだが、同時にその姓は、この3男の配偶者の旧姓と同じ。この心理療法士さんは、その旧姓と結婚後の姓を使い分けておられる。

わが家より、一駅西側に住んでおられるが、駅の東側、すなわち、私の家に近い方にお住まいなので、雨降りかかっていたけれど、家の近くまでお見送り。

途中、市立高校の中を通り抜けて行ったが、部練のために登校している生徒の礼儀正しいのに驚いた。門の前を通るときには、立ちだまって守衛室の守衛に礼をするだけでなく、
部外者通り抜けお断りのはずのわれわれに向かっても礼をしてくれる。

↑川は西富松川、ここの橋の袂でお別れ。
川の右側を傘をさして歩いている。
一緒に昼ごはん食べようと思っていたが、調査が長引いて
亭主殿とバーゲンセールへ行く時間が迫っているとかで、実現せず。

市民マラソン参加経験豊富だから20分くらい歩くのは平気みたい。

「親戚」では例句3句。「親族」は0

親戚の家の中から黒揚羽 佐々木六戈 百韻反故 初學

鉾を待つ窓に親戚中の子よ 西村和子 かりそめならず

辣韮が親戚の色してゐたり 大石雄鬼


立花村

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7月3日、もう七夕笹が「満開」でろうと思って覗くと、

ガラーン!!!

書いてある内容が良く分からない。
各児童会や保育園・幼稚園には主催団体から笹を配布していたが、
契約農家の笹が不作で近隣都市へ笹刈りに行っていたということなのか?

1か所のみ


7月5日
(昨日駅前へ出て撮影と思ったが、客人を徒歩で西隣の駅方面へ送っていったので、
できなかった)
朝刊の地方版で七夕笹120本が「満開」との記事を見ていそいそと。



園芸家になりたい、農業を継ぎたい、電車の運転手になりたい、早く年金生活者になりたい
などという「願望」は見当たらなかった。


サッカー、鉄棒、水泳の上達を願うもの多し。
囲碁・将棋・俳句関係はなし。

↑ここの児童会には折り紙細工の好きな先生がいるのであろう。

「七夕」なら例句は多いだろう。
「七夕笹」で検索

水の色して雨の七夕笹飾り 寺井谷子

七夕笹立てて湖山青募る 谿昭哉 『航跡』

自転車に七夕笹と子を二人 星野恒彦


年配の色に七夕笹の出来 後藤比奈夫 めんない千鳥

七夕笹潮引いて島ひろがりぬ 友岡子郷 風日

子育て期の活気 七夕笹に風 伊丹公子 機内楽


↑これはお母さんの願いであろう。

おおむね旧立花村区域からの参加であるが、中に「杭瀬」からの参加もあった。

旧立花村の解説:

1889年(明治22)4月の町村制施行によって、当時の三反田組戸長役場管轄区域(上之島栗山大西三反田尾浜七松水堂の7か村)、東難波組の西半部(西難波・東難波の2か村)、南野組の一部(塚口東富松の2か村)の11か村が合併して立花村となった。人口5,080人(1889年末)、村役場は栗山村に新設された。

1916年(大正5)東難波・西難波両地区は立花村から分離して尼崎町と合併し、尼崎市となった。その後東海道線電化にともない1934年(昭和9)立花駅が設置され、その南北の広大な地域に区画整理が実施された。

また同年
阪急電鉄塚口駅周辺に住宅地を開発し、ともに阪神間のベットタウンとして発展した。また森永製菓塚口工場郡是製糸塚口絹製品工場などの工場化もすすみ、1942年2月11日の尼崎市との合併のさいには人口3万2,731人となっていた。

塚口村は南野組だったのだ。この「組」の意味はよく分からないが、
南野という地名には覚えがある。
私が通った伊丹市立伊丹南小学校の校域に南野という地名があったように思う。
「組」の実態はよく分かっていないが多分、南野組の大部分は伊丹市に編入されたのであろう。

またの機会に調べてみようと思う。


森永製菓工場跡地は、目下ズットシティ建設中。
郡是製糸跡は、西武百貨店になり、
それもつぶれたが、
一大SCになっている。グンゼ・スポーツセンターもあり、
グンゼの名が残っている。

郡是では例句なし、

「森永」では、

じいさんは窓から見てます森永牛乳 吉沢敏江








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「組」とは何か?

apedia の「大庄屋おおじょうや」の解説

 尼崎藩では、戸田青山の時代(16171711)には郡右衛門と称したが、1711年(宝永8)に入封した松平のとき、入封まもなく、これを大庄屋と改称した。

 藩側の領村支配の職制である郡代・代官・諸奉行の指揮下にあって、数か村ないし30か村程度の村々(の庄屋)を統括することを任とした村役人である。

 郡右衛門の時代には、組は川辺郡(城下尼崎を除く)に3組(地廻り組)、武庫・菟原〔うはら〕郡に各2組、八部〔やたべ〕郡に1組(以上中灘大灘組)、計8組があった。大庄屋の時代になって、藩領の減少から、菟原・八部両郡は合わせて2組となり、1組減じた。組は郡右衛門・大庄屋の居住する村の名を冠して
長洲組生津組などと称した。

1769年(明和6)武庫・菟原・八部3郡の海岸部24か村が公収され、替え地として播磨国多可・宍粟〔しそう〕・赤穂3郡のうちにおいて71か村が与えられた。


これにともない村数の減じた武庫郡は組数1組に、菟原・八部も2郡で1組に減じ、地廻り3組と合わせて摂津における組数は5組となったが、
播磨の飛び地では宍粟・赤穂郡各2組、多可郡1組が新設された。


その後
1828年(文政11)、宍粟郡の飛び地31か村のうち21か村が公収され、その替え地として摂津の川辺・武庫・有馬郡において13か村が与えられた。このときには宍粟郡で1組(岩野辺組)減少したが、新領13か村は地廻り3組と武庫郡の組(瓦林組)に分散編入され、摂津における組数に変化は生ぜずそのまま廃藩に至った。

組という用語が当然の如く解説なしに使われている。

藩の地方統括官(郡代 代官 諸奉行)の指揮の下、村村を監督するのが大庄屋という官職で、そのもとで、村村はいくつかの組に分けられたようである。

南野はたしかに現在の伊丹市南部地域を指すようである。南野地区の南2村東富松村と塚口村が、1889年の立花村へ編入を希望したのであろう。

「組」を日本史辞典でひいてみた。というのも、ネット上にころあいの解説をみつけることができなかったので・

組は与とも表記するとか。いろいろの使い方がある。五人組とか年貢組とか水車組とか
ゆい組とか・・・

説明の最後に、「領主が領内をいくつかの行政単位に分け、これを組とした場合もある。」
という解説があった。

塚口組などの組は、まさにこれであろう。

それにしても各組とも名称の変化が激しいのはなぜだろう?



上之島組の解説

 16941764年(元禄7~明和元)に置かれた尼崎藩郡右衛門組大庄屋組。別所組・難波〔なにわ〕組・富松組・時友組・三反田組などに組名が変わった。川辺郡の藩領を3組に分けたうちの1組。領地替えその他により編成された村に変遷はあるが、東難波西難波別所竹谷新田尾浜上之島栗山大西三反田新城屋新田初島新田、武庫郡西富松時友武庫庄が属した。

塚口組の解説

  16841701年(貞享元~元禄14)・17151740年(正徳5~元文5)・17891801年(寛政元~享和元)に置かれた尼崎藩郡右衛門組大庄屋組荒牧組・南野組・富松組などに組名が変わった。川辺郡の藩領を3組に分けたうちの1組。領地替えにより編成された村に変遷はあるが、塚口東富松・荒牧・荻野・鴻池・南野のうち・野間、武庫郡川面・友行のうち、有馬郡名塩・生瀬、が属した。

塚口組は、荒牧組、南野組、富松組などと名を変えている。


1889年以前の尼崎の行政区分を調べようと思うと、江戸時代に遡ることになった。


ここまで文字情報をコピー貼り付けしていると、しばしば4万字を超えた。
文字数を減らさないと「公開」してやらないぞという表示が出る。

そのたびに解説の部分を削除している。

フウとムクノキ


ホルトノキとシマトネリコ

ソヨゴ

カクレミノ

奈落築く木春の冷え 吉原文音

恋の尾長の幾渡る欅の秀 山田みづえ

就職中学を出てしまひけり 三橋敏雄

厩出し九重も阿蘇も隣り 倉田凡人

皿のいち枚欠くる女正月 佐々木良子

敷かれて口惜しき顔や菊人形 相島虚吼

成人の日の躬を緊むるいくつ 岸風三楼

天懸る氷河や避暑の木荘 桂樟蹊子

上や下座の黒御簾やぶ畳 龍岡晋

上や多田の薬師の石置場 龍岡晋

聖堂に鐘吊せ麦の秋 後藤綾子

水仙の葉略せぬ今日の客 朝倉和江

上やいしくもつりし一文字 久保田万太郎 草の丈

で猶分別やすまひとり 炭 太祇 太祇句選

曲水やどたり寝ころぶ其角 一茶 ■文政三年庚辰(五十八歳)

恋の尾長の幾渡る欅の秀 山田みづえ 忘

跡さきを木戸で締めたる屋敷 山店 芭蕉庵小文庫

一露の嶋蓬莱の秋ぞ知る 立独 選集「板東太郎」

五月雨や筏行く日傘 丸露 選集「板東太郎」

若竹も塩硝くさし屋敷 中村史邦

棚葛華ぞの寺の天井 井原西鶴

虻と虻ここも討げんげ揺れ 阿波野青畝

かけし塔むつかしや冬木立 加舎白雄




ハゼラン

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爆蘭とは線香花火のような姿からきているらしい。

ウィキペディア

ハゼラン(爆蘭、米花蘭、学名Talinum crassifoliumcoral flower)はスベリヒユ科の多年草で、鑑賞用に栽培もされるが、現在は多く野生化している。

南米原産で日本には明治時代にもたらされた[1]

は長さ数cmで多肉、互生する。夏に高さ30cmほどの茎の先に円錐花序を出し、径3mmほどの赤い5弁のをまばらにつける。ただしこの花は午後の2 - 3時間ほどしか開かないので(そのため三時花などとも呼ばれる)、丸いつぼみの状態で見かけることが多く、線香花火を連想させる(ハゼランの名はこのイメージから)。


画像に撮ったのは午後4時過ぎだが、この時間帯にのみ花が開くようである。
三時草とか三時花とも呼ばれるそうである。

これも「みんなの花図鑑」で教えてもらった。画像を投稿したら6,7人の人から
一斉にハゼランという回答があった。


雨上がりに近くの公園へ出かけた。

家から徒歩1分で、富松川の湾曲部に出会う。
改修工事の結果生じた小さな空き地は、私にとっての貴重な野草観察地点。
付近の更地がなくなってしまったので、ここに立ち止まる機会が増えた。

今見えるのは、ランタナ、カラー、十二単、芙蓉。
↓雨上がりなので、公園には人がいない

ギリシア危機夏も傷持つ野良の猫

梅雨ザンザ年金減額やめてくれ

姫女苑も盛りは過ぎた

梅雨の例句は1200句以上。

身のまはり梅雨たゞ梅雨のあるばかり 遷子



走り梅雨返り梅雨胃の重きかな 徳永山冬子

梅雨は降り梅雨は晴るるといふことを 後藤夜半

梅雨小袖昔八丈梅雨なれや 久保田万太郎 流寓抄

梅雨籠り白雪*(かう)をしくと割る 中原道夫

音がして生まれる廃墟梅雨の虹 高野ムツオ 蟲の王

梅雨の雷化石の森にはじまれり 高野ムツオ 蟲の王

わが胸の冥王星や梅雨の夜 高野ムツオ 蟲の王

吾も子も毒虫となり梅雨に入る 高野ムツオ 雲雀の血

豆腐屋の家族のような梅雨の星 高野ムツオ 蟲の王

枕辺に魚龍百頭梅雨滂沱 高野ムツオ 雲雀の血

梅雨の夜の書物に海が一つずつ 高野ムツオ 雲雀の血

冷蔵庫の未明の音や梅雨ふかく 行方克己 知音

梅雨の酔眼なにも見てをらぬ 行方克己 知音

消えがての伝言板の梅雨の文字 行方克己 無言劇

神苑のところかまはず梅雨きのこ 藤井圀彦

大形に崩れてしまふ梅雨茸 殿村菟絲子

離宮道古りぬ梅雨茸あちこちに 五十嵐哲也

梅雨茸の子がぞろぞろと古墳山 兒玉南草

まつ白き梅雨蝶となり草に飛ぶ 星野立子

水流の厚きを摶つて梅雨燕 上田五千石

梅雨冷のふところに猫楸邨忌 中 拓夫

掛茶屋の葭簀の隙の梅雨の海 松根東洋城

辛子黄に梅雨上りけり心太 永井東門居

梅雨出水簗の緊張つづくかな 大橋敦子

輪中村囲みて濁る梅雨出水 松井利彦

飛騨の子の花いちもんめ梅雨晴間 松崎鉄之介

梅雨晴間焼むすびなど匂はせて 星野麥丘人

梅雨晴の飛瀑芯までかがやけり 野澤節子

梅雨晴の船赤土を満載し 林 徹

金魚田の時々光り梅雨の闇 川瀬孝子

大和路や麦生に塔に梅雨晴るゝ 松根東洋城

山の膚艶ますばかり梅雨旱 相馬遷子

飛鳥仏みな面長に旱梅雨 馬場三柿

塩倉にうねる太梁送り梅雨 飯島晴子

梅雨の鵜の目あをあを飼はれたり 宮田正和

四万十川に白波を見ず梅雨曇 桂 信子

磨崖仏へ畦ふみはづす走り梅雨 田中水桜

梅雨湿り水上バスで来しことも 永井東門居

いちじくの広葉潮来の走り梅雨 井本農一

梅雨の足袋に蝋塗る野外能 田川飛旅子

御神馬も羽目板を蹴り梅雨長し 鍵和田[ゆう]子

鐘撞いて僧が傘さす送り梅雨 森 澄雄

梅雨秘仏朱唇最も匂ひける 水原秋櫻子

大仏に鳶きて梅雨を鳴きにけり 菊地一雄

馬洗ふ梅雨のすげ笠最上川 細見綾子

天竜の幅八町の梅雨濁り 高浜年尾

「くずきりあります」鍵善良房梅雨漕氾 楠本憲吉

梅雨月や松屈強の大井川 庄司圭吾

ホップの蔓梅雨満月を支へたり 青柳志解樹

春の月ありしところに梅雨の月 高野素十

牡蠣筏しづかに梅雨の終りけり 大串 章

梅雨さむや撫づるにまかす老神馬 高桑義生

樹も草もしづかにて梅雨はじまりぬ 日野草城

泰衡の首級桶見す梅雨寒し 大橋敦子

梅雨冷や工衣に光る漆垢 古畑丁津緒

梅雨寒の砂丘の帰路はあらあらし 古舘曹人

水郷の水の暗さも梅雨に入る 井沢正江

菜種梅雨輪中の村を包みけり 大貫湖域

舞良戸や人も仏も菜種梅雨 古舘曹人

寺の炉に酒をたまふや菜種梅雨 細見綾子

菜種梅雨畦いく筋も渓へ消え 河野南畦

幻に建つ都府楼や菜種梅雨 野村喜舟

大和路に塔みうしなふ菜種梅雨 遠山柚香

炉に生えし梅雨茸炉火に少し焦げ 打出 たけを

梅雨茸倒れしままの道しるべ 熊谷 秋月

今宵また梅雨の炬燵に火を入るる 橋爪 巨籟

天水に頼れる島の走り梅雨 工藤 芳久

一枚の梅雨の瓦の雨跳ぬる 倉田 紘文

山中に独りの日あり梅雨菌 若月瑞峰

男体山の頂上に生れ梅雨茸 山口恭徳

水禍頻々朱き梅雨茸土に水に 野澤節子

梅雨の茸地を彩りてゐたらずや 石原八束

道標が朽ちて梅雨茸にも劣る 鷹羽狩行

梅雨晴れて一度に生れ糸とんぼ 稲畑汀子

米をとぐ水のつづきに梅雨鯰 大木石子

木の又に巣組みし鷭や走り梅雨 田中敦子

畦際を濁すゐもりよ梅雨晴間 阿部ひろし

草のさき出でて吹かるる梅雨出水 山上樹実雄

梅雨ふかし隣の猫が鳴きに来て 奥野桐花

競り牛の梅雨に濡れたるかざり綱 数馬あさじ

すつぽりと五十三次梅雨の中 手塚七木

梅雨の森祭壇のごとしづかなり 脇 祥一

梅雨に入る車の音に目覚めつゝ 秋田裕弘

梅雨に入るソファー「人間椅子」の僕 萩山栄一

ひそかなる恋そのままに梅雨に入る 桂 信子

校門に山が集まり梅雨兆す 廣瀬直人

タンカーに豊葦原の菜種梅雨 岡 あきら

鯉痩せてしづかに浮かぶ菜種梅雨 福田甲子雄

菜種梅雨念仏の膝つめあわせ 桂 信子

くしやみして厠に子ゐる菜種梅雨 飴山 實

夜の明ける色に従ひ菜種梅雨 廣瀬直人

絵硝子のイエスも梅雨に入りにけり 細川加賀 『玉虫』

曳船の煮炊も梅雨に入りにけり 細川加賀 『玉虫』

梅雨寒の薄き屍と弟子ひとり 細川加賀 『傷痕』

梅雨の海平らならんとうねりをり 原裕 『出雲』

ほころびの天衣となりし梅雨の蝶 原裕 『出雲』

梅雨の月金ンのべて海はなやぎぬ 原裕 『青垣』

梅雨はげし傘ぶるぶるとうち震ひ 波多野爽波 『鋪道の花』

「梅雨湿り」4句

梅雨湿り水上バスで来しことも 永井東門居

コソボ停戦その朝刊の梅雨湿り 倉本 岬

八重むぐら瀬をさへぎりて梅雨湿り 飯田蛇笏

梅雨湿り犬は飯食ふことに飽き 長谷川かな女

時事俳句のつらいのは、人はその惨状をすぐ忘れてしまうことである。
自分の体験であっても。

ギリシアについて何か1句と思えどもできない。

梅雨小袖昔八丈希蠟危機

↑イヌガラシ?

クローバーとヘラオオバコ


西洋ニンジンボク

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衆愚制に勝るものなしアカンサス

アカンサスはギリシャの国花。

年金をもっと減額せよと脅迫されてますが、皆さんどうですか。
反対票を入れて圧力を撃退しましょう。
こんな国民投票でも、40%近くの人がやむを得ません、従いましょうと、
社会保障費の減額と増税に賛成票を投じたところを私は評価したい。



駅前にもいつのまにか10階建てを超える高層建築がいくつかできているが、
我が家周辺は15メートル規制範囲。

しかし1丁目と3丁目の境には4車線道路が通っており、その道路を挟む歩道もかなり広いので、
15メートル規制対象外のよう。

そこへ10階建てマンションの建設が始まり、
今日あたりは7階部分の枠組み、2階までの内装工事が始まっている。
最終の高さは29.6メートルになるよう。

建物自体は防音遮蔽幕で覆われているが、傍を通らないと駅前へ出られない。
日々圧迫感が増している。

1800平米の土地に10階建てのビルを作り、48戸の入居を期待してモデルルームの公開や
案内パンフの配布なども始まっている。



いろいろの角度から撮ってみた。

建設の春燈起重機の頂点に 斉藤夏風

建設の秋水鉄の火を映す 斉藤夏風



ほぼ同じ広さの駅前の火事跡は依然として空き地のまま。
ニンジンボクの天下である。
間もなく、ヒメムカシヨモギやオオアレチノギク、セイタカアワダチソウも目立ち始めると思うが、
コマツヨイグサやアメリカ鬼アザミはやや勢力減退のよう。



忠臣

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尼崎藩主松平(桜井)
は7代。

松平〔桜井〕家

譜代 4万8千石→4万石→4万5千石 (1711年 - 1871年)

  1. 忠喬(ただたか)
  2. 忠名(ただあきら)
  3. 忠告(ただつぐ)
  4. 忠宝(ただとみ)
  5. 忠誨(ただのり)
  6. 忠栄(ただなが)
  7. 忠興(ただおき) 官位官職は全藩主、従五位下・遠江守
この間、湊川神社なるものは存在していなかったが、楠木正成の墓所は1336年、楠公死去の年に造営されたようであり、16世紀末の秀吉の検地によっても東西4間南北6間は免租地に指定されたようである。


荒れ果てた墓地で

なでしこにかかる涙や楠の露  松尾芭蕉

と芭蕉が詠んだ。元禄元年(1688年)のことである。

余談だが、1689年には、ショウちゃんのご先祖さんが、美作内の転居により、明神村から
引っ越して現在地へやってきた。

西軍 毛利藩の(多分下級)武士として戦い、傷つき、たった一日の関ヶ原の戦いの翌日9月16日に死去している。それから89年を経て何故、どのような位置付で現在の村へやってきたのかが分からない。これが分かった時点で、現世代(あるいは前数代の世代)が知らなかった事実が加わるので、1冊にまとめたいと思っている。

そう思って20年の月日が経ち、20年間の移動(出産、結婚、死亡)の追加記入をしなければならない。気力・体力がもつかどうか?!

墓域の近くで、後醍醐天皇の勅願で創立された広厳寺の住職が、「大日本史」(1657年)を纏め、南朝正統史観を打ち立てた水戸光圀に墓碑建立を願う。

1692年光圀直筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」竣工。3間四方の碑堂は1695年に完成した。


1751年尼崎藩主松平家2代目の忠名(ただあきら)が石灯籠を寄進。
以降歴代藩主が石灯籠を寄進する。

↑第6代 松平忠栄(ただなが)の寄進

松平忠栄

文化元年(1804年)12月、第3代藩主・松平忠告の九男として生まれる。文政12年(1829年)に甥で第5代藩主の忠誨が死去したため、その養子となって家督を継いだ。天保8年(1837年)に大塩平八郎の乱が起こると、土井利位に従って鎮圧に貢献した。天保13年(1842年)には大砲7門を鋳造している。

嘉永6年(1853年)のペリー来航では、幕府に対して鎖国をあくまで堅持するよう提言している。翌年にロシア船が大坂に現れると、大坂の警備を務めた。なお、このような出費続きで藩財政が逼迫したため、鶏卵を専売している。文久元年(1861年)8月6日、病気を理由に家督を七男の忠興に譲って隠居する。明治2年(1869年)9月7日、尼崎で死去した。享年66。

著書に「胎蕨編」がある。


上の碑でも天保13年3月と読める。


↑第7代忠興(ただおき)寄進のもの

松平忠興

弘化5年(1848年)1月18日、第6代藩主・松平忠栄の七男として生まれる。

文久元年(1861年8月6日、父の隠居により家督を譲られる。慶応4年(1868年)1月の戊辰戦争では新政府に恭順し、所領を安堵された。2月に徳川氏との訣別の証として姓を桜井と改称する。

明治2年(1869年)の版籍奉還で尼崎藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県知藩事職を免職された。明治6年(1873年)1月、東京へ移住する。明治10年(1877年)、博愛社(後の日本赤十字社)の設立者のうちの1人となった。尼崎城址の一角に建立された桜井神社には博愛社の記念碑がある。明治17年(1884年)に子爵に叙せられた。

明治28年(1895年)4月29日に死去、享年48。


全部で6基あるはずだが、撮影後に松平7代の名前を確認したばかりで、1,2,3・・と数え切ってはいない。

文化6年、第4代松平忠宝(ただとみ)のもの↑

この地点は尼崎藩の領内であった。ウバラ郡でも魚崎や御影など酒蔵があって実入りのいいところは幕府に取りあげられ、代わりに赤穂や宍粟などかなり遠隔地の村村が尼崎藩の支配下に置かれたようだが尼崎藩の財政はどんどん悪化していったようである。


そういう関係で墓碑堂の横に水戸光圀の銅像も立っている。


弘化3年(1846年)には西国街道に標石が建った。

尼崎藩の領界石によく似ている。

1864年に薩摩藩、尾張藩、水戸藩などが神社建設を請願

1868年明治天皇の勅許あり、1872年に湊川神社が生まれた。

この神社に、神社本庁の兵庫県支部が置かれている。

生田神社、広田神社が中社であるのに対し、湊川神社は別格官幣社であるからだろう。

どの神社よりも新しい創設なのに格は一番上なのである。


「忠臣」では例句探せなかった。
「忠」は作家名の中に出てくるのでそれらを削除。

葛の花流人時ただ哀れ 誓子 (平時歌碑除幕式)



わが衣に時卿の草じらみ 阿波野青畝



の一門の墓夏薊 星野立子




も義もとどのつまりは掘炬燵 仁平勝 東京物語



の子の時国の夏館 倉田紘文



寒の雨ぬらす軍馬の霊塔 成重昭女

の墓守稲を刈りゐたり 井上玉枝

草茂る魂碑跡母校なる 広瀬一朗



時雨忌になる雨か降り出でし 相生垣瓜人

秋気澄む伊能敬的散歩 佐々木六戈 百韻反故 初學







燕来ぬ伊能敬先生に 川端茅舎



秋夕重さまの館訪ふ 佐藤春夫 能火野人十七音詩抄

信が狐に戻る師走かな 辻桃子

梔子を一輪浅井の墓 岡田史乃

雁わたり七いまだ病めるかな 久保田万太郎 流寓抄

目醒めがちなるわが尽は俳句かな 高柳重信

度と灰にかゝれし火鉢哉 榎本其角



度の腕これ見よと大根引 松岡青蘿


残った例句も時忠をはじめとする名前の一部が多い。

本日神戸句会参加。


ユキハナソウ

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吟行会参加。

神戸市役所1号館24Fの展望台とその南側にある遊園地。
ルミナリエの「ゴール」地点なのでおなじみの場所でもある。
この中に6000名の名を記した地下慰霊ルームがある。


展望台からの眺め

海側

人工島が東側から六甲アイランド、ポートアイランド、ハーバーランドと続く。
画像はポートアイランドへモノレールが走っている。この中に花鳥園がある。
島の南にさらに空港島があり、モノレールでつながっている。
相次いで廃線となり一日2,3便までに減ったが、LCCのおかげで
今は黒字化していると思う。

これらの島を埋め立てるのに六甲山の裏側から土を採取、
ベルトコンベアーのトンネルで海に運んだ。
で、私は六甲山は屏風山になったと言っている。

山側

↓市役所の本館北側に日本最初の花時計がある。
この角度からだと緑の樹木に隠れたところである。

市章山


ロープウェイのルートとハーブ園が見える。

錨山

北前船山

展望台のあるビル

私は諸所にある花壇のひとつに感動した。

名前は手帳に書き写して、家に戻ってから「学習」。

グラマトフィラム・ヒヒマヌ、ストロビランデス・ティエリアナ、アガペ・アデナータ・・・
半日どころか1時間以内に忘れしまう。

出句2句

山と海の間の命羽化の蝉
港コウベに記念碑多し百日草



カラジュームやクロトンを詠おうと思ったがうまくいかなかった。


  アモーレで逢いアガペという花に会う

家に戻ってとりあえず画像を「花図鑑」に投稿


ユーフォルビア・ダイヤモンド・フロスト(ユキハナソウ)という応答多数。
御礼。

花壇

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↓何の数字でしょう?

全国 28,489 円
神戸市 37,399
京都市 36,835
大阪市 34,339
堺市 34,227
岡山市 34,050
奈良市 33,787
大津市 33,755
松山市 33,404
和歌山市 32,609
川崎市 31,973
東京都区部 31,951
金沢市 31,946
さいたま市 31,753
福岡市 31,304
広島市 31,214
徳島市 31,149
福井市 31,006
富山市 30,612
横浜市 30,512
高松市 30,000


総務省の家計調査中、2012~2014年平均のパン消費額を政令指定都市と県庁所在都市でランキングしたものである。
金額では神戸市が日本一である。

(kg で示すと京都市が一番になるようだ)

JRと阪急と阪神とモノレールの駅が集まる三宮周辺を歩くと、
次々にパン屋が現れる。多くの店がイートイン形式を採用しているが、
どこもいつも客がいっぱいである。

(我が家の近く、徒歩5分のところにもイートイン形式のパン屋が
最近開店した。)

なかでも駅前百貨店を代表する「そごう」の地下食品売り場は圧巻である。
有名店が軒並みに出店していて、どの店も縄をはってレジへの行列を規制している。

一度駅前のパン屋の画像を並べてみようと思う。

統計はパンをまったく、あるいはほとんど食べない所帯を含む支出総額を調査対象の所帯総数で割ったものであるから、「普通に」朝食はパンである所帯だけを集めれば、金額はこの倍以上になるかも。 

我が家も朝食はパンだが、家計簿をつけていないので正確な数字(金額)は出せないが、
ざっと見つもっても、朝食用のパンだけでも1か月3000円以上支出しているように思う。


読売新聞の夕刊に「ええやん!かんさい マチタビ」という欄がある。土曜日だけのシリーズかもしれないが、7月11日は、「須磨」を特集。

瀬戸カトリーヌという人がふるさと須磨を語っている。

日本人と結婚したフランス人の父が3歳の一人娘を連れて来日。

1979年から1995年まで
月見山商店街で「カトリーヌ」という名でパンとケーキの店を開いていたそうである。
須磨寺の近くの自宅から父の店を覗いて登校。
放課後は須磨離宮公園のアスレチックで身体を動かし、

ラッコを見に須磨海浜水族館へよく出かけていたそうである。
商店街の人とは家族のようなつきあいがあったとか。

1995年店は全壊。父は近所の人を助けに、母とカトリーヌちゃんは壊れた店からクッキーやパンを取り出し配り歩いたそうである。

なじみのある施設や場所が記載されていたのと、もうひとつは、
特色あるパン屋として板宿駅前の「パン工房ミツヤ」のメロンパンが紹介されていたから紹介する気になった。

先日我が家を訪問した臨床心理士さんにとっては、私以上になじみのある土地である。


私は第1の故郷は美作だが、第2の故郷は板宿である。

幼少期、ここには、私の父方の伯父が3人、かなり年齢が上の従兄、従姉、
祖母方の大伯父の子が住んでいた。年齢が近い従姉弟や従姉の子がいた。
大伯母の子が、一族50人近くを第1楼という、神戸市役所近くの中華料理屋へ招待してくれたことが何度かある。

一度は新婚のワイフを連れて参加した。
ワイフはこういう親族付き合いの経験がなかったのと、ほとんどすべての人が初対面の人だったからおおいに面喰ったらしい。

私の第3の故郷は野沢温泉村であったが、最近はまったく出かけていないので、故郷感は無くなっている。

画像は昨日見た花壇の花

ルドベキアもいろいろ種類があるようだ。

↑このベゴニアは美作のノースビレッジで初めて見たが、最近はそう珍しくもなくなった。
品種名を知りたかったので、「花図鑑」で問い合わせたが、3,4件ご教示あり。
しかしすべて「木立性ベゴニア」であった。軸(幹)がやや木化し、葉がやや赤っぽく、斑点があり、根元からよく分枝するものを木立性ベゴニアと思っていたので予想外の応答であった。




散骨

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6時起床
パンとチーズとコーヒだけの朝食食べて
7時過ぎに家を出た
7時13分発の神戸三宮行きの電車に飛び乗って
西宮北口で特急に乗り換え(7時23分発)
三宮を越えて「花隈」で下車。7時40分。
予定したより30分以上早く駅に着いてしまったので、
日曜日の朝の閑散とした通りを赤信号などまったく無視で港の方へのろのろ

街路樹のための囲いの土を利用した植樹・園芸ものを眺めながら

紫の花びらに白い縁取りが特徴のデュランタ・タカラヅカ。開発されて20年になるらしいが、
最近はよくみかける。タカラヅカは宝塚を指すのだが、なぜそう呼ぶのか?
宝塚歌劇のなんらかのイメージとの関係?
宝塚(ないし池田)の園芸家が開発した?

マリンロード
すぐに元町商店街を「縦断」
角にある標識

山裾に旧街道や桐の花 吉田 伝治

接骨木の花にはじまる旧街道 長谷川せつ子

枸杞の芽や旧街道の機の音 火村卓造

旧街道峠の茶店の長火鉢 蕪木啓子

猪の注意札立つ旧街道 斉藤葉子

芋水車門川流る旧街道 中村しげ子

旧街道草津の宿の蝿叩 橋本榮治 越在

風死して旧街道の半旗かな 中田朗子


旧街道藁屋根残り桐の花 吉屋信子

高層ビルの建築予告が貼りだされているような旧街道を詠った句は見当たらない。


その南の西の角のビル

その向い


中突堤中央ターミナル「かもめりあ」北側正面
昨年ここへ来た時は、レトロバスを利用した。
今回もそうしようと思って、数日前に、三宮駅前のバス停の時刻表を眺めると
日曜日の初発は9時過ぎだったので、
神戸高速鉄道花隈駅利用に切り替えた。


のろのろ歩いて道草しているのに、7時52分
指定の時間は8時半。
ノートルダム神戸
ウェディング・ホールのよう。豪華な施設である。

中央ターミナルビルかもめりあの「開店」は日曜日は8時15分と記されている。
どのドアも施錠されている。仕方ないので、海側へ回ってみる

↑ハーバーランド

↑ファンタジー号 たぶんこれに乗船するはず。

豪華なマンション。分譲別荘か?よく見ると最上階のベランダで朝食らしい人影。
後は、日曜日の朝寝中か、利用者が滞在していないか?
まだ8時01分。

遺族らしい人影が入口付近にあったので、近付く。故人にそっくりだから息子さんと分かる。

ご夫婦が相次いで亡くなられた。遺言によって散骨となった。

二人は大阪商大(現大阪市立大学)の同級生であった。
ご夫人は画家であった。毎年年賀状に描かれていた画を拝見するのを
楽しみにしていた。

神戸女学院から大阪市大へ進学した(多分)変り種でもあった。

男性の方は山口の酒造家の息子で飲み助であった。
晩年を過ごされた介護付きハウスでは、
アルコール禁止であったにも関わらず
夕飯時には1合だけ特別許可を貰って欠かさなかったと聞いている。
参列した友人の中には、山口産の酒がなかったのでと、広島県産の一合瓶を用意してきた者もいた。


後から気付いたが、港内巡りの観光船の初発前の時間帯を貸切船として利用したようだ。

9時半に船は元の波止場に戻った。

ニッコウキスゲ

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綿の一番花が咲いた。

少しクリーム色がかっているが、遠目には純白に見える。

露のあち知らぬふり也綿の花 棉の花 正岡子規

絆とは入日にしぼむ綿の花 福田甲子雄


物忘れ多くなりけり綿の花 我妻文雄

綿の花素足に慣れて来し移民 栗原義人堂

塔二つ遠くに見えて綿の花 鈴木灰山子

丹波路や綿の花のみけふもみつ 闌更「半化坊発句集」

無戸室の跡を標して綿の花 吉田亜司

正岡子規の句、「露のあち」とはなんだ?
吉田亜司の「無戸室」もなんのことかわからない。

あち は「広辞苑」では、あちら、あちこちのあちだけが登載されている。

「むとしつ」は広辞苑にはない。
ネットで検索。「うつむろ」と読むよう。

四面を土で塗ってふさいだ、出入り口のない室(むろ)。上代、出産のときにこもったという。

(うつむろ)跡:(宮崎県西都市三宅字石貫)

無戸室跡は石貫神社から約200mぐらいの近距離にある。当地では火柱殿(ひじゅどん)とも呼んでいる。木花開耶姫が、自らの貞淑と潔白を証明するために、戸の無い完全な密室となる産屋に隠れ、自ら火を放った産殿(無戸八尋殿)の跡と伝えられる。 道路より一段上がった、一辺が約30m四方の敷地の中央に、無戸室跡と刻された石碑が建っている。その上には樹齢数百年とおぼしき楠の大木が頭上を覆っている。敷地の境を良く見るとかっての土塁の跡であろうか、土がこんもりと盛り上がっている。

うつむろといえば、上記の西都市のものを詠ったと理解すべきよう。


書かれていることを読む限り、この件について何度か読んでいるはずだが、
そこをうつむろと呼ぶことは完璧に失念ないし記憶していなかった。

我がブログに宮崎県人の読者はいないと思うけれど、綿の花の件なにか知っている人があればコメント歓迎!!

無罪、潔白を踏まえての措辞(季語の配置)であろう。作者は九州人ないし宮崎県人ないし
古代神話に詳しい人か、観光と案内パンフから発想を得た旅人か?

「吉田亜司」で検索すると、
「お~いお茶大賞」で 大賞を得られた吉田さんが登場。同じ人物か?

一般の部B・65歳以上 大賞行けば行くところに記紀(きき)の梅真白吉田亜司

記紀好きの方である。

俳人協会の機関誌にも作品が出ている。

私の過去ブログも登場。「ベゴニア」と題した記事の中でなんと、この「無戸室」の句を
引用している。

コアジサイ↓



セレモニーが早朝の1時間で終わったので、式に参列した友人3人と、
六甲山でジンギスカンを食べようということになった。

バスを乗り継ぐのは面倒なので、かもめりあの前から六甲ケーブルの駅までタクシーで移動。
山上についてもまだ10時なので、

植物園を散策。

ニッコウキスゲの見ごろであった。

今日も猛暑であったが、昨日も暑かった。六甲山は少しは涼しいが、
寒いという感じはまったくなかった。

手前は水芭蕉


オカトラノオ


満員の盛況
禁酒中なれど堪らず中ジョッキ1杯だけ

テラスからの遠望


4人の中では私が最年長。あと3人は、退職が一年ずつずれていて、一番若い人は
今年の3月に定年退職した。3人とも10時就床、5時起床だそうである。
午前3時就床は私だけ。

猪名寺

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猪名寺廃寺跡(いなでらはいじあと)とは兵庫県尼崎市猪名寺にある、飛鳥時代から室町時代にかけて存在した仏教寺院遺跡。 猪名寺の地名の由来となった寺院跡である。


藻川西岸の洪積台地上、現・佐璞丘公園(さぼくがおかこうえん)[1]に位置する。

昭和33年(1958年)までの発掘調査の結果、東に金堂、西に五重塔、これらを回廊が囲む伽藍配置が法隆寺とほぼ同等の寺院であった。 川原寺式軒瓦など出土した瓦片から、創建時期は飛鳥時代後期の白鳳時代とされる。同様に出土した埴輪類から、寺院建立以前に古墳や住居が存在していた可能性も推定されている。

伽藍は
天正6年(1577年)の荒木村重織田信長の戦乱により焼失し、廃寺になったと推定されている。


apedia(尼崎地域史事典)の解説:法園寺

猪名寺字佐璞丘〔さぼくがおか〕(現猪名寺1丁目)にある真言宗御室派の寺院。山号は猪名野山。猪名寺廃寺跡に再興されたもので、廃寺の寺名は猪名寺であったとする説と法園寺であったとする説がある。1696年(元禄9)に長応が作成した「略縁起」には、開山法道仙人の徳をたたえた孝徳天皇(在位645・大化元~654・白雉5)が建立、元亨年間(1321~1324)の戦乱で寺領を失い衰退、1578年(天正6)荒木村重の反乱時に焼失とある。また「明治12年寺院明細帳」(『地域史研究』第7巻第1号)には和銅年間(708~715)行基開基、1579年(天正7)焼失廃寺、1758年(宝暦8)定法印再興、1873年(明治6)伊丹金剛院へ統合、1882年再興とある。


藻川の土手からの風景。

璞 珍しい地名である。初めて耳(目)にする。

ちょっと長いが、図説尼崎の歴史から引用。
 尼崎市の北東部、猪名川の支流・藻〔も〕川の西岸に猪名寺と呼ばれる地域があります。この猪名寺周辺の猪名川流域は、古くから猪名野または稲野と呼ばれた地域です。『日本書紀』応神天皇31年8月条は、新羅王から船造りの技術者が派遣され住み着いたことを記しています。
 その技術者は猪名部〔べ〕と言われる木工技術者でもあり、雄略12年と13年条によると、宮殿建設に関わっています。平安時代の『新撰姓氏録』では為奈部首〔いなべのおびと〕と書かれています。この一族と見られる氏族は畿内以外にも住んでいて、伊賀の木工の活躍が有名です。この猪名野は、以上のような技能を持つ技術者の居住地であったと考えられます。
 そんな猪名野に猪名寺廃寺〔はいじ〕があります。JR猪名寺駅から北東の旧村にこじんまりとした森があり、「摂津国 猪名寺廃寺址」の標識が尼崎市教育委員会によって建てられています。そこが猪名寺廃寺の遺跡地で、森を背景として法園寺〔ほうおんじ〕のお堂と庫裏が建ち、遺跡地の一部には佐璞丘〔さぼくがおか〕公園という児童公園が設けられています。遺跡地の前の道を東にゆるやかに左へ曲がって下ると、藻川の堤防に出ます。標高10mの洪積〔こうせき〕台地(伊丹台地)の先端にあたっていて、今は南方に民家が建ち並び見通しがききませんが、かつては尼崎市域を見下ろすことができました。また、寺の規模は現地形から方1町半(約160m四方)と推定されています。


地名の由来はこれ以下↓

寺跡がある地名は今は猪名寺1丁目ですが、昔の小字名は「佐璞丘」〔さぼくがおか〕と言いました。「佐璞」とは唐の官制で左大臣のことをさす「左僕射〔さぼくや〕」に通じます。蘇我氏が滅んだ「乙巳〔いつし〕の変」(大化元年・645、大化の改新の年)ののち、都は孝徳天皇によって難波〔なにわ〕に移されました。その孝徳朝において左大臣を務めたのが阿倍内麻呂なので、内麻呂が創建に関わったとする考え方がありました。したがって、創建の時期は内麻呂が活躍した7世紀中頃とする説です。
 しかしながら、寺域から出土する瓦は、7世紀後半に飛鳥の川原寺で使われた川原寺式軒瓦(「猪名寺廃寺の軒凡」参照)です。出土する瓦の時期と地名に由来する創建時期とは年代が合いません。時代を決める手がかりとして瓦の時代観を優先させると、猪名寺廃寺の創建時期は7世紀後半と見るのが妥当でしょう。
 そこで、小字名が付けられた由来が気になります。猪名寺廃寺跡に現存する法園寺の「略縁起」(元禄9年-1696-作成)があり、法園寺の堂塔は法道仙人の徳を讃えた孝徳天皇によって建立されたとしています。この孝徳期創建説が江戸時代になって流布し、いつ頃かに左大臣阿倍内麻呂に由来する「佐璞丘」という小字名が付けられたのではないかと推測されます。

予算不足で本格的な発掘調査は手つかずのまま、ここを「万葉の森」に戻そうとするプロジエクトが企画されているようだが、それも予算不足のよう。

森を出て、寺の遺跡についての説明がないか探したが見当たらず。
↓森の北側は工場。
東リ とある。懐かしい。中学1年の折の自由研究で工場見学をやったときに、
東洋リノリウムという会社も訪ねた。目の前に見える工場の西側に工場の正門があるはず。
広大な敷地を占めている。
なかなか親切な応対で、帰り際に、リノリウムの断片見本を10枚くらい貰ったことを覚えている。

大阪酸素で、卒業した先輩に声をかけられたこと
森永製菓ではチョコレートが練られている傍まで寄って工程見学ができたこと、
三菱電機で不愉快な応対を受けたこと
川上塗料も見学したこと。
あとどの企業を回ったかまったく覚えていなこと

同じ道沿いに

QPマヨネーズの会社があるが、ここは訪ねなかった。当時まだこの工場はなかったかも。
そのまた近くにブルドックソースという会社があったがそこを訪ねたかどうか記憶があいまい。


家から猪名寺まで歩き、藻川沿いに南下しているうちに、東西が分からなくなり、

バス停で駅名を確認すると、隣の駅園田に近いところをうろついていることに気付き、
園田駅まで歩いて、電車に乗って最寄駅へ戻る。

途中、中食満という地区を通り、尼崎66社の一つ、中食満稲荷神社の前を通った。
その時点では、まだ歩いて塚口へ戻るつもりであった。

↓たんぼの向こうに由緒ありそうな建物が見えたが、覗く体力がなくなっていた。
画像の時刻をみると家を出て2時間経過している。

食満とは御食(みけ)と関係があるとのこと。このあたり穀倉地帯であったのであろう。

事初いでや猪名野のしらうつぼ 上島鬼貫
.

しらうつぼ 不明。いのししの子供のことか?
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