原稿を頼まれれば、ワード文書のファイルを作り自由に打ち込んでゆく。事前のメモとか下書きはほとんど利用しない。
調べ物をする必要が出てきたら、その都度、最近なら事典や年表やウィキペディアを調べて、ウィキペディアの場合ならそのままコピー・ペーストし、文体や重複を後で調整する。
1昨日留守電で原稿の催促を受け、昨日電話で今日中にfax送信する約束をした。
ようやくFAXしたところである。
伊丹公子さんへの追悼文。2段組み2ページで
4人が執筆だから、分量は1ページの半分。
42行×23字で約一〇〇〇字と思っていたら
24字×23行が制約条件であった。
800字ほど書いて、
24字×23行に設定したら本文は500字も書けない。改行を削ったり、修飾文を削ったりしてなんとかしあげ。
ずっと公子は死なないよ
「ずっとずっと公子は死なないよ」これは死を恐れる少女きみ子への母の声である。公子さんは多分死を予感しながら、遺稿となった詩の中にこの言葉を書き付けている。
中学一年生で古本屋通いを始めた私は、まだ二十歳代だった公子さんとそのお母さんに出会っている。古書の値段を確認する公子さんを見て、この人眼鏡を買うべきだと思った。それから十年後に私は「青玄」に入会した。私は連日店に立ち寄って未熟な俳論をふっかけていた。そのうちに三樹彦は私が行くとかならず急用を思い出し、相手を公子さんに任せるようになった。
同じように公子さんに懐いていた坪内稔典などとともに、公子さんを交えた句会を開いたり俳論を交わしたりしたことも懐かしい思い出である。
その当時から私は公子さんの句は、俳句ではなく詩だと思っていた。
もっと長い松葉をと二十歳の森に昏れ
これは私の句として公表したが、公子さんの添削が入った句である。かなり後までこの句が詩になっていることに気付かなかった。
三樹彦は十二月十五日を「珊瑚忌」と名づけた。「珊瑚忌のひかり束ねよ 首飾」(中永公子)。
本文中 公子ではなく、きみ子となっている部分がある。ここだけは編集長に電話して、公子の誤植ではないきみ子のままにしてくれと念を押した。
本名はきみ子で、公子は俳号である。
遺稿の詩を実は今日知ったばかりである。
「青群」(三樹彦・公子夫婦の長女が編集)の春号が今日届き、そこに紹介されていたからである。
遺稿の詩は2014年の7月に書かれたようである。
雨だったので、今日はあまりシャッターを押せなかった。
尼崎商店街新聞なるものが存在するのを初めて知った。
市内5つの商店街の中で全然商店街らしくないのが
最寄駅前 東側の商店街。その1軒で昼食中に発見。
テーブルの上に置かれている以上、当然この店も紹介されているのであろうと思って開いたら、やはり載っていた。「竹葉」という和食店である。
昼食は5種あって、いずれも1080円。
枝垂れ梅。昨年も、このブログでもっときれいな満開時の画像を紹介しているはず。
ホルトかどうか自信が持てないので確認用に撮影
塚口御坊西の口あたり。