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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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道の駅

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道の駅制度は1993年4月に始まったようである。
2014年10月現在で全国に1040か所ある。
私の愛用する「道の駅」は「彩菜茶屋」。
中国道美作ICを降りて車で数分南下したところ、湯郷温泉へ向かう途中にある。
その半分くらいの頻度で、西粟倉村の「あわくらんど」(ここは鳥取方面へ抜ける観光バスの昼食・トイレ休憩の場所になっているので、大型バスがいつも数台止まっていて繁盛している)
佐用の「平福」なども利用する。
エケナセアが囃す入賞道の駅
という句は佐用平福で作った。

↓ここも毎年のように利用している。

 

そこを出て少しゆくと窓越しに福知山城が見える。
ワイフはここに生まれた俳人の弟子となったので、
よく来ているらしい。
その俳人は急逝されたが、その地に友人(俳句仲間)がいて、
朝日新聞の俳句欄にワイフの句が載ると
「ショウちゃんコンビニに走れ」とFAX連絡が入る。



大江山に近づくと俄然残雪が目立つ。
↑あたりでは、歩道部分は完全に雪にうずまり歩けない。

小野小町出生の地、静御前出生の地、与謝蕪村出生の地と
今はすべて京丹後市になったそれぞれの町が大きな看板を出している。

↓ここへは車を利用して丹後半島へ行った折に立ち寄ったことがある。
「道の駅」とは道を隔てているが、短いバス旅行でのトイレ休憩時間では
坂を下りて道を横切ってゆく時間がない。







 



細井和喜蔵の碑があるらしい。
細井さんって誰だとワイフが尋ねる。
確か、「女工哀史」の著者のはず。
私には、それより「野麦峠」の方が「面白かった」。
斡旋業者に引率され、雪の峠を越えて諏訪の生糸工場へ出かける少女
たちの中には、100円を稼いで親のために家を新築した者もいた一方、
廃業した工場主はほとんどが「しもたや」以外の家を残せなかったらしい。


丹後ちりめんの里ではどんなことがあったのであろうか?

ウィキペディアの解説

細井 和喜蔵(ほそい わきぞう、1897年5月9日 - 1925年8月18日)は、日本の文筆家である。京都府与謝郡加悦町(現・与謝野町)生まれ。

略歴

幼いときから両親と別れ、13歳の時には唯一の保護者だった祖母にも死なれ、学校をやめて近くの機屋の小僧となる。その後、いろいろと職場を変える。1916年に大阪に出て、紡績工場に勤める。まもなく、草創期の労働運動にも参加するようになる。1920年に上京して、紡績工場に勤めるが、当時の労働運動のなかのいわゆる「アナ・ボル論争」の中で、実際の運動からは距離をおくようになる。そのころから雑誌『種蒔く人』の人たちと知り合い、文学の道に向かう。

1924年、藤森成吉の斡旋で紡績工場の現実をルポルタージュにした「女工哀史」を雑誌『改造』に発表し、翌年単行本として改造社から刊行し、注目を浴びる。和喜蔵本人の職場経験あればこそのリアルな観察、古老からの聞き書き、妻としをの職場経験や、としをとの討論などが生かされ、内容は多岐にわたっている。

その後もいくつかの作品を準備したが、1925年8月18日、急性腹膜炎にて死去した。

女工哀史に描かれた内容の多くを提供し、執筆に向かう和喜蔵を支えたのも妻としをであった。しかし、和喜蔵の死後、長男(暁)も生後1週間で死亡し、内縁の妻であったとしをが印税を受け取ることはなかった。

網野往復はバスを予約していたが、帰りはキャンセル。
京丹後鉄道と福知山からはJRを利用してあわただしく帰宅した。


京丹後鉄道(KTR)の網野駅前




始発駅であったが、車内はガラガラ。出発7分前。


生嶋荘

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尼崎市の中央部分を南北に流れる庄下川。
付近に「庄下」といった地名が見つからず
川の名前の由来が分からなかったが
尼崎市の歴史事典的HPを読んでいると、
川の上流に中世には、生嶋荘という荘園があり、
その下(南)に発していたので荘下川⇒庄下川と呼ばれるようになったという
説が紹介されていた。
 
三つの川の合流地点。かつてはここから下流を庄下川と呼んでいたが、
1990年以降流れ込む川のひとつ東富松川の伊丹市境界地点までが1級河川庄下川に組み入れられた。
2級河川庄下川の1級河川への「昇格」と河川域の「拡張」とは時期が別であることも学んだ。
歴史的には3つの川の合流地点あたりに水源があったようである。


以下は生島荘についての解説。

尼崎地域史事典(apedia)から

現在の尼崎市富松から東難波〔なにわ〕付近に位置した荘園。中世では、富松郷浜郷を中核とした。もと多田源氏の一族源実国が開発した所領で、代々相伝し、康治年中(1142~1144)、三河権守雅行のとき、年貢100石を納入することを条件に皇嘉門院聖子に寄進し、生島荘が成立した。雅行は預所職を安堵されたとみられる。その後、当荘は皇嘉門院より九条兼実に伝わり、鎌倉初期、兼実がその領家職の一部を春日神社に四季八講料として寄進したため、春日大社興福寺の支配が及ぶこととなった。本家は九条家であったものの、次第に実質的な荘園支配を春日社・興福寺が行なうにいたり、鎌倉末期には、開発領主源実国の子孫の覚照の預所職を没収しようとして対立事件をおこしている。南北朝期以降も春日社・興福寺は、武士勢力の侵略などに抵抗してよく荘園支配の維持につとめ、室町時代後期でも、富松郷で14町余、浜郷で17町余の田地を確保している。応仁・文明の乱が勃発すると、浜郷は一時不知行になるが、まもなく知行を回復し、春日社・興福寺は、現地の百姓に年貢の納入を請け負わせる地下請や、伊丹与三郎親時らの在地武士を代官にする代官請などを採用しつつ懸命の努力をはらい、16世紀初頭ころまで荘園支配を存続させた。このため、九条家もそのころまで本家としての地位を維持することができた。なお、12世紀末に、これとは別に、長講堂領の荘園として生島荘が立荘されているが、詳細は不明である。


現在の「尼崎」の地は当時(平安時代)まだ地図上には存在していなかった。

長洲より南の岬に漁民(尼)が居住を始めたのは平安末期~鎌倉初期と言われている。

土曜日の句会に

冬菫どこかでお会いしましたか

という句が出ていて、私も入選とした。当日最高点句であった。

この句どこかで目にしたような気もするが・・・が私の「評」であったが、
まったくの類似句はないようである。

冬菫草にまみれて濡れてをり 瀬在苹果

冬菫厨子玉虫のひかりあふ 岡部六弥太

陽に遠く機屋の端の冬菫 梶山千鶴子

いかを干す手のひらひらと冬菫 国武十六夜

冬菫集めカシミール地方を思う 中北綾子

墓を守る歪なクルス冬菫 尾田明子

雲と鳥みることもなき冬菫 大木あまり 火球

わが齢わが愛しくて冬菫 富安風生

笑顔もておのが盾とす冬菫 旗 こと

又会ふ日確かめぬまま冬菫 高橋静子

ゆがみたる須恵器の口や冬菫 久保 寥

若き死を悼み尽せず冬菫 水原春郎

離宮田の畦のひとつに冬菫 根岸善雄

渓空に仰ぐ日疎し冬菫 下村ひろし

大和の土となるそれもよし冬菫 小澤満佐子

わが影に添ふ光あり冬菫 秋元草日居

冬菫買ひて明るき日の中へ 丹羽啓子

冬菫母の句集に母生きて 岡田晏司子

冬菫校舎の上に海展け 宮津昭彦

ありしと思ふところにありし冬菫 勝又一透

わが影に添ふ光あり冬菫 秋元草日居

帯織るや中庭に咲く冬菫 長谷川かな女

わが齢わが愛しくて冬菫 富安風生

冬菫空に瑕瑾のあるごとし 齋藤愼爾

冬菫少年拳で嗚咽せり 齋藤愼爾

子を生まぬこと冬菫愛さぬこと 夏井いつき

貌おもひ出さぬ日もあり冬菫 谷口桂子

冬菫咲く万貫の巌を割り 藤井亘

妻に現れわれには隠れ冬菫 相蘇としお

冬菫かけがへなき受苦もあり 友岡子郷

冬菫絶壁となる乳房かな 杉田桂

冬菫外浜の砂の荒れ易き 八十島稔 筑紫歳時記

仮の世のほかに世のなし冬菫 倉橋羊村

わが影のさして色濃き冬菫 右城暮石

さびしさの冬菫買ふ墓参帰途 及川貞

唇のはや色失せぬ冬菫 龍岡晋

仮の世のほかに世のなし冬菫 倉橋羊村(1931-)

冬菫かたまつていてどれも毒 宇多喜代子 象

冬菫フォッサ・マグナはここから海 原田喬

語尾甘き親を日向に冬菫 栗林千津

冬菫しゃがむつもりはないけれど 池田澄子

風呂敷に形見を包む冬菫 伊藤敬子

白墨の匂かぎいる冬菫 宇多喜代子

しやがむとき女やさしき冬菫 上田五千石

我が家の冬菫(匂い菫)









カラス

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火曜日はゴミ出し日

4月1日結婚記念日ゴミ出し日

去年の4月1日は火曜日だった。
私の結婚記念日は4月1日である。
婚約して結婚式の日取りを4月1日に決めた時、私はまだ学生で
就職も決まっていなかった。

生涯忘れにくい日ということでこの日を選んだ。

その後で就職が決まったが、4月1日の結婚式が都合が悪いなどとは全然考えなかった。

年が明けてからしばらくしてから4月1日に辞令交付を行うので
出頭せよと連絡が入った。
そのころには新婚旅行の日取りや予約も終わっていた。
住む家は決まっていなかったが。

やむなく赴任先へ出頭してこうこうの理由で4月1日の出勤は不可能と告げた。
曜日は覚えてないが、それなりに人を招いたので、土曜日ではないかと思う。

(今調べたらやはり土曜日である)

仕方がない、3日の月曜日に出て来いということになった。
あの~ 新婚旅行中でして~

てなわけで、後につづく話はまた別の機会に・・。

 
我が家の今日のゴミ。わが市指定のごみ袋である。
隣近所
 
↑今どき変だと思う人はゴミ出しの通である。通でなくとも常識ある人には信じられない風景かも。

通りを一本隔てると




こうなる。↑黄色かブルーのネットでごみ袋を覆っている。

こうしていても、↓のごとき惨状となる。


カラスが群れをなして襲うのである。
我が家周辺のみこういう事態は起こらなかった。
しかし数年前に被害が道を越して周辺にも襲来。
我が家も急いでブルーネットを購入したが、
その後どうも我が家周辺はカラスさえ見向きもしないものしか
ごみとして出ない地区らしく、
カラスの姿が消えた。

で、だんだんと我が家周辺のみ、だれもネットを利用しなくなった次第。

唯一言えることは、我が家周辺の人は収集車が来る寸前でないとゴミを外へ出さない人
が多い。

ごみ袋を写しに出たついでに近所を散歩。


↑公園のトイレ。
数年前に、今12歳の子が公園で急にトイレへいきたいと
いうので、上の画像は男子トイレだが、同じような構造のベンザ付きの女子トイレへ
連れていった。

出てきた子が、じ~じトイレの流し方が分からないと訴えた。
見るとタンクが壁の上部に据えられているタイプであった。
この紐を引っ張るんだと教えると

じ~じは物知りだとほめてもらったことがある。

じ~じ知ってた紐ひっぱって流すこと

どこにも公表していないが、その時の句である。

 
水はきれいだが、水量が極端に減っている。富松川。
 
2羽のカルガモが泳ぐというよりはとぼとぼ歩いていた。
 

その向こうにはコサギも。ということは餌になるものがいるのであろう。
 

家から徒歩1分くらいのところ。
水量が増えるとこのあたりにも鯉がやってくる。
餌になる小魚は、いくら目を凝らしても見つからなかった。

兵庫県の調査報告書の一部

これまでの生物調査で確認された魚類
(昭和61年、平成5年、平成12年尼崎市調査)
庄下川:カワムツ、オイカワ、タモロコ、モツゴ、カマツカ、コウライモロコ、
コイ、オオキンブナ、ゲンゴロウブナ、ギンブナ、ドジョウ、ナマズ、メダ
カ、カダヤシ、ボラ、ブルーギル、ドンコ、トウヨシノボリ、マハゼ
<重要種>
コウライモロコ:Cランク(兵庫県RDB)
ドジョウ:Bランク(兵庫県RDB)
メダカ:絶滅危惧Ⅱ類(環境省RDB)、要注目種(兵庫県RDB)



シュロカヤツリグサはまだ枯れずに年を越していた。


県立高校の正門前のとおりである。カヤツリグサが生えているのは。ここ以外ではこの草をみたことがない。

ず~と周辺を一めぐり。ゴミ出し日だが、全然カラスの姿を見かけなかった。

冬桜

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新年2回目の冬桜報告
家から歩くと10分。
最初に出会うのが
江戸彼岸桜

↑裸木状態である。
そして最初に出会う冬桜。
江戸彼岸と比較しても細枝が曲線的である。そのうえ混み合っている。


曇り空だからここにこの木があることを知っている人しか見上げない
買い物に出かけた付近に生活している人もあまり関心はないよう。


私の野草観察地点であった更地は、去年の秋以降、年末まで遺跡調査のため
囲われて遮蔽されていたが、
今日は
 



立札は以前のもので、建設計画の部分は「遺跡調査のお知らせ」が上貼りされたままで
隠れている。
そのあたりから残りの桜(ソメイヨシノはない)を眺めると


 歩道も広いし、右側の道路も広い。
しかしこの道は200メートルくらいで旧の「塚口御坊」と接触するために
この道を利用しなければ生活できない人しか車での往来は難しい。
南へ行くにも西へ行くにも込み入った一方通行路と狭い線路を越える必要がある。

↑の画像の中で見えている車はパトカーである。
左前方に見える交通信号のところで右折(南へ)すると阪急電車神戸線の高架をくぐり
上坂部川にそってゆくと緑化植物園である。

長期的な都市計画の一環として整備されたのであろうが、
よってもって
目下は利用者・利用車は少ない。
その一画の更地であったので、かつ出入り自由であったので
さらにまた野草の刈り込みなどがいっさいなされていなかったので、
多くの草の名を知ることができた。

昨年初めて名前を知った草の多くはここで見たものである。
その更地の前の冬桜

 
 

ともすれば風に消え入る冬桜 高澤良一 暮津

たましいのいくたび撓う冬桜 寺井谷子

冬桜湯煙立つる独鈷の湯 詫摩まつ子 『卒寿』

越は雪毛の国晴るる冬桜 山田千代 『淡墨』

水音のそこだけ消えて冬桜 清水衣子

母癒えて言葉少なや冬桜 岡田日郎

月の出に風をさまりぬ冬桜 茂恵一郎

今日ありと思ふ余命の冬桜 中村苑子

うつし世のものとしもなし冬桜 鈴木花蓑

咲くだけの軽さ耀く冬桜 吉居珪子

冬桜あとひと日だけ見栄を張る 上原みすず

申し子の如くちらほら冬桜 西村美子

水音の空へ抜けゆく冬桜 勝又民樹

妻逝きてその母も追ふ冬桜 山本富万

仰ぎ見る顔へ日こぼす冬桜 林 昌華

残されし二人の時間冬桜 佐々木節子

おほかたの友は彼の世に冬桜 神谷耕輔

観音のふところにゐて冬桜 水野好枝

冬桜はらりと重き言葉かな 若泉真樹

振り向けば消えてゐさうな冬桜 中島秀子

切り立ちし崖を楯とし冬桜 岩田小夜子

うす紙のごとき日をのせ冬桜 行廣すみ女

冬桜風が間引きし花の隙 高澤良一 ぱらりとせ

今着きしばかりの日差し冬桜 高澤良一 ぱらりとせ

松聖髭濃く行くや冬桜 菅原庄山子

清滝寺水卍なす冬桜 松林朝蒼

紅ほのと千代尼の塚の冬桜 梅田 葵

男女の川ひとすぢ流れ冬桜 陣場孝子

山中の神輿庫守る冬桜 中野真奈美

皇神の在す一山の冬桜 針ヶ谷隆一

吹き晴れし空ひしひしと冬桜 小竹梨花女

冬桜音を絶ちたる峡の空 柴崎富子

白湯たぎる音のどこかに冬桜 浅沼艸月

冬桜ことば足らざるおもひかな 保住敬子

冬桜空青ければ散りもせず 百瀬美津

夏井いつき

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夏井いつきさん

ウィキペディアで経歴を覗いてみた

1957年生まれである。有名俳人としては異常に若い。
(実は今日まで正確な名前を知らなかった。テレビで吉本「組」と共演なさってるのを家族がみているので、時々画面に注目したことはあった。
どんな例句をお持ちなのかと「夏木いつき」で検索。0であった。
おかしいなと思って俳句検索システム以外で検索したら「夏井いつき」では?
として以下のウィキペディアを紹介してくれた。)



愛媛県南宇和郡内海村(現・愛南町)出身。京都女子大学文学部国文科卒業後、郷里で中学校の国語教師として教鞭を執る。

黒田杏子を師とし、俳句を本格的に手がけるようになり、1988年(昭和63年)に教職を辞して、俳人となる。感じたままを表現するという自由な句作をモットーとしつつも、季語と五七五の定型を守る「有季定型」に則った句作も大切にしている。

1997年平成9年)俳句集団「いつき組」を組織。「組長」として、全国の小中学高校生を対象としたカリキュラムの一環としての俳句教室(「句会ライブ」という)をおこなっている。また、吟行会、故郷・内海愛媛県愛南町)でのイベント『トレッキング・ザ・空海』や松山市での俳句甲子園への参画など、活動を精力的に行っている。愛媛新聞に「集まれ俳句キッズ」というコーナーを持っている。

近年、月刊俳句マガジン「いつき組」を発行し、携帯電話のiモードサイトで、毎日更新の「俳句の缶づめ」に携わるなど、活躍の場を拡げている。また、正岡子規後100年の俳句の現在から、さらに、俳句の未来に向かった活動を展開すべく、「100年俳句計画」を提唱している。

活動は松山市をベースとしており、東京で仕事をする際はその度に飛行機で往復している。




「春近し遠きあの日の赤れんが」の句を一位に推しておられる。
「席題」があったのかどうかは知らない。「春近し」などが席題であったかも。
背景に復元なった東京駅が映っていたので、あるいは「東京駅」がテーマであったかも。
何を気に入ったかというと、この句(実は他にどんな句が提出されたのか知らない)を一位に推薦したことと、点数が(たぶん100点満点の)75点であったからである。

「遠きあの日」に朱が入っている。学校を卒業し職を得て初めて上京した日なのかどうか
もう少し具体化した方がいいとかなんとか解説されたのかどうか。

画面を見て急いで2階の部屋からカメラを持って降りて、
夏井さんの顔が映った瞬間にシャッターを押し
そのまま2階へ持って帰ってPCへ移したので
前後の展開を全く見ていないが。

この句、俳句をいつもは作っていない芸能人の即興の句としてはうまい。
しかし俳句を読み慣れた眼からすれば、まさに75点なのである。

この人が「俳句甲子園」の仕掛け人の一人であることも今日初めて知った。



↑今日、近所の門前、排水溝上のプランター花壇でこの花を見た。
まさにこの花である。網野の夕日ヶ浦の浜辺で繁茂していたのは。
ところでこの花の名前は?教えて。猫缶さん!






↓この草、実はどうだんつつじかと思ってました。葉がよく似ている。よくみかける。




駅前の小さな花屋さんを覗いたらワイヤープランツと名札が付いていた。
冬でも繁茂するのがいい。

ここまで書いて、あらためて「夏井いつき」で検索。205句と表示。
最初の100句

さびしさの絶対量を問ふふくろふ 夏井いつき

椿よりはげしき水のありにけり 夏井いつき

冬の星よりも冷たきものを言へ 夏井いつき

秋夕焼芯はまつくろかもしれぬ 夏井いつき

霧走ることばを熱う熱うせよ 夏井いつき

猫の目の秋風色とおもひけり 夏井いつき

帆船や野菊は風の中にある 夏井いつき

野菊には小さき鈴をつけてやる 夏井いつき

月に風東はおそろしき方角 夏井いつき

もう小鳥来ぬか曇天ひろがるか 夏井いつき

月よりも遠くに椅子を置かれたる 夏井いつき

がくがくと止まりて月の電車かな 夏井いつき

石榴割れたり月光に耐へきれず 夏井いつき

水音や野菊のあかるさをおもへ 夏井いつき

海鳴やしんじつ白き月なるぞ 夏井いつき

糸山の色なき風のほそきこと 夏井いつき

子規の日をすぎて芒の日々ありぬ 夏井いつき

こほろぎの跳ねれば水に落ちにけり 夏井いつき

僧にして銀杏を焼く係なり 夏井いつき

花葛やこはれさうなる昼の月 夏井いつき

洞窟の中に野菊を置きにゆく 夏井いつき

秋風に建つ太柱十二本 夏井いつき

コスモスににらみをきかす赤ん坊 夏井いつき

西ノ島ではぐんぐんと月太る 夏井いつき

いとけなき鶏頭月光菩薩かな 夏井いつき

椿の実打てば火花のでるやうな 夏井いつき

階段に雨くる鳥羽の僧正忌 夏井いつき

右の耳ばかりが熱きカンナかな 夏井いつき

空蝉や夕景といふ白きもの 夏井いつき

鰭に朱の走れる二百十日かな 夏井いつき

ちぎつてやらねばこんなに赤い芥子になる 夏井いつき

こひびともかもめも炎天のこんじき 夏井いつき

夏蝶のまだらマグダラマリアかな 夏井いつき

ふりむけばすでに日傘の人である 夏井いつき

トラックの風にやぶれて昼顔は 夏井いつき

野いばらや水よりひかるものを言ヘ 夏井いつき

行水の子の首にあるクルスかな 夏井いつき

快楽や青野に朽ちてゆく木椅子 夏井いつき

情欲やこはれてひかる夏の蝶 夏井いつき

こま鳥やこの明るさを演じねば 夏井いつき

船室の一隅に髪洗ひをる 夏井いつき

夏蝶のはるかにくだる港かな 夏井いつき

ロンドンの瓢の花のたよりせよ 夏井いつき

こま鳥やことばはこころより遅れ 夏井いつき

蟻走らねば月食に間に合はぬ 夏井いつき

蛾の羽をうかべてゐたる泉かな 夏井いつき

属性は火星その名はアマリリス 夏井いつき

夏の雨かすかに触れてゐる右手 夏井いつき

白桃に眠りの紐のゆるびたる 夏井いつき

橋上に日傘をひらく合図かな 夏井いつき

石棺や濡れたるものにひめぢよをん 夏井いつき

猿田彦さまに供へしダリアかな 夏井いつき

枇杷熟るる国の大河をたどりけり 夏井いつき

眼前にくまばち眼下に壇ノ浦 夏井いつき

伸びすぎてしまへば曲がる松の芯 夏井いつき

ぎしぎしや困つたことがあれば言ヘ 夏井いつき

青梅雨や花魁山も皿山も 夏井いつき

指にきて指にをののく雨蛍 夏井いつき

うつくしき李ならもぎとりてくれよ 夏井いつき

海に月しらじら映ゆる芒種かな 夏井いつき

ごんごんと芒種の水を飲み干せり 夏井いつき

あめんぼのぶつかりあうて知らぬかほ 夏井いつき

茅花さわいでさわいでさわいで汽車が来る 夏井いつき

暖かにしてぼろ紐のつかひやう 夏井いつき

馬の尾のぼろぼろである春の暮 夏井いつき

青芝に寝て8ミリのやうな空 夏井いつき

花は花のうねりにおびえはじめたる 夏井いつき

一切を桜のせゐにしてしまふ 夏井いつき

鶏の目のわづかにひらく草朧 夏井いつき

ぶらんこに乗つて助役は考へる 夏井いつき

さへづりのすとんとやめば波の音 夏井いつき

地獄図に春の山あり真つ赤なり 夏井いつき

薬箱の中に椿が入れてある 夏井いつき

初蝶をとらへるための双手かな 夏井いつき

鳩の目に金のまじれる桜かな 夏井いつき

しやぼん玉ふく陳さんのフィアンセと 夏井いつき

舟上の竃に煮ゆる春の粥 夏井いつき

椿よりはげしき水のありにけり 夏井いつき

霾やひしやげてながきクラクシヨン 夏井いつき

うつぶせに落ちて椿の息熱き 夏井いつき

なづななづな何にも聞こえないなづな 夏井いつき

水掻きがつかむ日永の水なりき 夏井いつき

春の川きらりきらりと失念す 夏井いつき

記録映画の白黒のチユーリップ 夏井いつき

みはるかす霞の底の都かな 夏井いつき

わたくしの家みえてゐる春の山 夏井いつき

石の碗ささげて水の朧かな 夏井いつき

春の鳥くればもてなす用意あり 夏井いつき

をんをんと朧に月のそだちゆく 夏井いつき

芹匂ふオモニは風の中に立つ 夏井いつき

涅槃図に跳ねて加はる赤蛙 夏井いつき

月ありてあのくらがりが椿山 夏井いつき

春の狛犬にさはりたがりしかな 夏井いつき

椿東風沈思の髭の尖りやう 夏井いつき

兄神も弟神も春の山 夏井いつき

うぐひすに冷たき舌のありぬべし 夏井いつき

大仏師たる後ろ手に桃の花 夏井いつき

春の鵙しづかに水のわくところ 夏井いつき

うぐひすやふんと結んで邪鬼の口 夏井いつき

春の水ふきあげられてちりぢりに 夏井いつき

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ヒマラヤユキノシタ

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↑ヒマラヤユキノシタだそうである。


伊丹市の柿衛文庫の枯山水の庭の岩陰に咲いていた。

吟行会参加

出句2句

次節柄と書かれた葉書冬しぐれ
そぞろ歩きの伊丹郷町冬しぐれ

まあ言えば、60点俳句。


岡田邸内部。例年ならば梅の盆栽などが飾られているが
ウィールスの発生で今年も梅の展示はなし。











岡田邸と石橋邸と柿衛文庫は庭を共有しているように見える
 











柿の木
 


この花はガザニア。昨年5月頃盛んにこの花を紹介していたように思う。
恥ずかしながら名前が思い出せなかった。またまた猫缶さんに教えてもらった。

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耳鼻科へ午前の診療時間終了間際の12時1分前に入った。
最後の一人として診療室へ入ったのは午後1時過ぎ。



この待合室、鬼面だらけである。
数えたら24面あった。






待合室に誰もいなくなったのでシャッターを押してみた。

一度も中へは入れなかった更地は48戸の豪華マンションへ変身中。
今はこんな状態だが8月末には完成するらしい。


↑作業車が止まっているあたりがメインゲートないし車などが出入りする裏口になる気配である。北面である。
右手が南面である。
遠望ながらここでは何も新しい草の発見なしだった。
葦が生えていたのが印象に残っている。




この空も見えなくなるであろう。阪急電車の最寄駅の駅前だけでなく
あちらこちらの駅前で豪華なパンフレットを配布中である。

↓駅前へ出るたびにほぼ毎日ここの画像を撮っているが、
改めて驚くような変化はない。火事以降4年目の2月が来る。
 





初句会

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 新年になって5回目の俳句関係行事の参加
しかし私にとっては本年最初の「本拠地」句会出席である。
配られた菓子の一つに「要冷蔵」とあったので、
席題は「要」に決定。

出句5句

あらたまのまずはパソコンONにして
大寒のサランラップの裏表
あらたまの不要メールの山ほどに (席題句)
アンテナの向きを揃えて寒の街
雪催い郷町酒町蔵の町

旧の所属結社の句会はなべて3句出句でそろっていた。
俳人協会系結社の句会はおおむね5句出句が一般的である。
現代俳句を標榜する所属結社は昔から3句だったようである。

句会形式の違いに依存すると思う。

伝統俳句系(ホトトギス系)結社の句会は5句ないし時に7句出句であると聞いている。

披講(=担当者の読み上げによる各出席者(一般選者)の選句紹介)の後、
主任選者(結社誌の発行所周辺句会では結社の主宰者)の選の紹介があり、
これが最も重要な行事で、その後は主宰の講評があって会は終了である
(一般参加者には発言の機会はほとんどない)が、

現代俳句系句会では、主宰(これも親分子分の印象が強いというので呼称が変わる場合が
ある)選を紹介した後、高点句から順に、主任選者の選とは関係なく、その句を選んだ人
選ばなかった人の評を、一人の司会者のもとに発表しあう。

話がうまい人、発言したくてむずむずしている人への指名度合いは多いが、
原則として高点句の場合は、選んだ人すべてに発言を求める。
これを1点句まで丹念にやってゆくのである。

代表選者が主宰の場合は、すべての句について一番最後に主宰が指名され
最終評価をおこなう。

一句についていろいろ評価が終わるまでは、作者が名乗りを挙げないのも
現代俳句系句会の特徴であった。
だから主任選者(主宰)の句についても、けちょんけちょんにやっつけることができる。
(女性作家が増え始めた昭和50年代からはこの傾向は少し「下火」にはなったが。)

伝統俳句系は披講の段階で、その句の作者が名乗りを上げる。
30人出席で5句出句で、5句ともに高点であれば、
ひっきりなしに一人の人の名乗りが繰り返される。

それにもかかわらずどの句が何点句であったかは、伝統俳句系結社句会では
公式には発表されない。

現代俳句系では、公式句稿の横に丹念に
選者名を記入して、披講が終わった段階で、
各句について選者名を書き入れた句稿が、司会者へ渡される。

・・・・・

ちょっと筆が逸れた気配・・・

実は3句出句句会の定型的な句会に飽きて
私の「本拠地」句会ではいろいろ「新奇な」試みを導入するも
周辺句会でも真似をするものが増えて、
今ではわが句会独特のものはそれほど多くない。

俳人協会系結社では当り前の「兼題」「席題」は現代俳句系結社ではもともとなかった。
いまでは現に所属している結社でも「兼題」を出す句会がある。

しかし俳人協会系(&伝統俳句系)結社誌のように、毎号の末尾に
各句会の「兼題」をまとめて公表する欄がないので、
「兼題」は各句会の開催当日口頭で伝えることになるので
句会欠席者は句会幹事に電話等で問い合わせる面倒さが加わる。

わが句会はかなり早く「席題」方式を導入した。
3句出句では物足りない人が増えたからである。
「席題」といっても季語ではない。
「要」といった漢字一文字のようないろいろな熟語の一部として使える語が選ばれる。
「山」でも「川」でもいいのだが、「冬の山」とか「一月の川」などと簡単に季語と組み合わせが
できるようなものは避けている。

わが句会の最大の特徴は、披講の廃止である。
今ではほとんどすべての句会で、
出句された全句記載の句稿コピーを番号付きで配布している。
適当な呼称がないので、私は「コピー句会」と呼んでいる。

他の句会では披講は従来通りやっている。
司会進行掛以外のすべての参加者(たぶん私は例外)が披講に従って
各句稿に設けられている選者記入欄に選者名を記載している。

他の句会に出て、あらかじめ当日の司会進行係を依頼された時以外は
私は点数だけを「正」の字を使って記入するのみで選者名記入は怠っている。

画像は
自宅から句会場の公民館までの500メートルの間のスナップ




↑ここは震災(大地震)まえはテニスコートであった。
震災後長く駐車場であったが、昨年の暮に保育所となった。
建物がロの字型になっていて、子どもたちは中庭で(不審者の侵入 覗き見なしに)遊べる。
ー私は時折正面のガラス越しに覗き見している)
 
 
その横は大手建設会社の倉庫(というよりは物置き場)であった。

家からまっすぐ北へ歩いてバス道を渡ると県立高校。
新築期間中、去年の4月までは、西方一キロ弱の市立高校に同居していた。
東側一キロ地点には、もうひとつ県立高校があり、その南側には阪急電車をはさんで
二つの高校を統合した新設の市立高校がある。


地震とその後の新築によって、塀際の桜はかなり切られて痩せてしまった。


斑入りヒイラギナンテン


高校前で右折すれば、途中にモルモン教の教会があり、
その東前は、豪邸がつぶされ7件くらいの家になっている。


冬薔薇目力強き女王像  ◎ △

爪のびる早さよ手毬よく跳ねる

春の霜命の要の音を聞く  △

逆立ちの洗濯挟み春近し ◎

大海鼠来世は人に生まれ来よ

要点を書き出すひと日おでん鍋 △

◎:特選句 △:選者が私一人の1点句

↑本日の私の選(主任選者と一般参加者の選を同数にし、合わせて全員が特選2句を選ぶのもわが句会の特徴)

本日の最高点句は8点句

いつからか逆らわぬ子ら枯木星
待針の終りの一本抜いて春

どちらも私は選ばなかった。

どちらも俳句にはなっているが・・・。

「子ら」の「ら」が気になる

「待針」の句、句意、作意は分かるが、「終りの一本」は最後の一本の意味だが
ちょっと気になる。 そして「春」もやや常套的に映った。

昨年の11月句会が、第444回例会であった。

参加者の高齢化が顕著になってきたこともあり、10年くらい前に
第444回例会あたりが有終句会になりそうだと発言したことがある。
第300回句会あたりを知っている人は私以外には
今日の出席者では久々の参加のもう一人くらいになってしまった。

句会は引き続き継続開催のつもりだが、
句会機関誌(4ページ建て オールカラー)は休刊することにした。

アベさんは喜ばない(日銀総裁も)かもしれないが
句会参加費も今月から300円に値下げ。

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アメリカ鬼薊

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火事跡の枯れ草の中に堂々たる新芽が出てきている。
目をこらすといたるところから芽吹いている。
 
傍らには去年のものがまだ姿をとどめている。
 
初めてこの鬼薊を見た時には、周辺には同種のものが見当たらなかったので
それなりに感動した。
ネット上で鬼薊を検索。
かなりかわいい。
例句などはそれを詠ったのであろう。芭蕉の時代にも存在していた。

 
ながらへて見てきし地獄鬼薊 石橋 哲

伊賀衆の番所の庭や鬼薊 野原春醪

鬼薊遠流絵島の見たるもの 田上石情

ここ過ぎて火の巷あり鬼薊 河原枇杷男

夏草やところどころに鬼薊 山中北渚

炎天の室戸怒濤の鬼薊 橋本夢道 無類の妻

花は賎の目にも見えけり鬼薊 松尾芭蕉

私は、画像の鬼薊をアメリカオニアザミと名付けてみた。
今日改めて「アメリカ鬼薊」で検索してみた。画像だけなら、
私がここ数年見ているものよりは、花の色が薄く、花だけ見ると可憐な感じがしないこともない。
しかしまちがいなく私がアメリカ鬼薊と名付けたものである。

アメリカ原産ではなく、メキシコかもしれないなどと思ったが、1940年代以前なら「唐」、19世紀なら「南蛮〇〇」と呼ぶものを、20世紀になると「メリケン〇〇」と呼び、1950年代以降は「アメリカ〇〇」と呼んでいる習慣に応じてアメリカオニアザミという名を編み出したが、

アメリカオニアザミという名は1960年代からすでに存在していたようだ。

北海道の牧場で確認され、アメリカからの輸入飼料(牧草)に種(胞子)が入り込んでいたのであろうという推測である。その後急速に本土、四国に広まったようである。

しかし原産地はユーラシア大陸ゆえ、ヨーロッパ鬼薊と呼ぶこともあるらしい。
ヨーロッパからアメリカへ移入、さらにアメリカから日本へ渡ってきた「非意図的移入植物」
である。非意図的とは園芸店が輸入したわけではないということである。

スコットランドの国花は鬼薊だが、その鬼薊は、このアメリカ鬼薊であるとのこと。
どちらかというと冷涼な環境を好むらしい・

その昔、デーン人がスコットランドの海岸に夜襲をかけた時、
この鬼薊の群落に迷い込み大声をあげて痛みを訴えたので
守備隊が襲撃に気づき、撃退できたことから、「国花」へ昇格したとか。













ホワイトサザンクロス

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↑こんな花がプランター植えされているのを街角で見つけた。
幸い名札が土に差し込んであった。「ホワイトサザンクロス」。
念ために持っている信玄袋みたいな帆布バッグから手帳を取り出して記入。
こうしておかないと、簡単に記憶できたはずの名前も数時間後には確実に忘れる。

家に戻ってこの品種名から一般名を探し出そうと思ってネット検索。

品種名がそのまま販売用の一般名として使われているよう。
クロウエアが一般名で、
単にサザンクロスというと赤花を指すよう。

草ではなく低木のようである。オーストラリア原産と分かるとなるほどそういえばといった風情を持っている。

もちろんこんな花に例句があるわけがないと決め込んで、
「南十字星」で検索。7音だし、北半球文化である俳句ではあまり詠われていないはず。
しかし第2次大戦中に南方に派遣された従軍兵作家のものが出てくるかもと思い検索。
(今から実行)

もの言はぬ鸚鵡よ南十字星 関根あつ子

    蚊柱へ傾く南十字星 中島畦雨

洗ひ髪吹かれ南十字星仰ぐ 大木さつき

迎春の宴に南十字星 峰山 清

南十字星見えず四月の月真上 川口恒星

   月の空南に南十字星 高野素十

従軍句か戦後の旅吟なのかよくわからない。

「新俳句検索」の方もあたってみたがそこには例句はなかった。

高野素十に従軍経験があるのかどうか。経歴を調べてみた。

1893年茨城県北相馬郡山王村(現取手市神住)に生まれる。新潟県立長岡中学校第一高等学校を経て東京帝国大学医学部に入学。法医学を学び血清化学教室に所属していた。同じ教室の先輩に秋桜子がおり、医学部教室毎の野球対抗戦では素十が投手を務め秋桜子が捕手というバッテリーの関係にあった。

1918年大正7年)東京帝大を卒業。大学時代に秋桜子の手引きで俳句を始める。1923年(大正12年)『ホトトギス』に参加し、高浜虚子に師事する。血清学を学ぶためにドイツに留学。帰国後の1935年(昭和10年)新潟医科大学(現・新潟大学医学部)法医学教授に就任し、1936年東京大学医学博士 「高野与巳 :パラチフス腸炎菌属菌種の鑑別用免疫血清(独文) 」 その後、第6代学長となる。1953年(昭和28年)60歳で退官。同年、俳誌『芹』を創刊し主宰する。退官後は奈良県立医科大学法医学教授を1960年(昭和35年)まで勤める。

1976年(昭和51年)没、享年83。千葉県君津市の神野寺に葬られた。

代表的な句に、

  • 方丈の大庇より春の蝶
  • ひつぱれる糸まつすぐや甲虫
  • 蟻地獄松風を聞くばかりなり
  • 甘草の芽のとびとびのひとならび
  • 翅わつててんたう虫の飛びいづる
  • づかづかと来て踊子にささやける

などがある。素十の作風は虚子の唱えた「客観写生」に忠実な実践者であり、自然を徹底して客観的・即物的に描写し「純写生派」と呼ばれた。また特に近景の描写に優れていたが、その一種の瑣末主義から「草の芽俳句」とも評された。

この「草の芽俳句」という批判的な文言は秋桜子の批評がもとになっている。秋桜子は同窓の後輩であった素十と一種のライバル関係にあったが、お互いの師であった虚子は「秋桜子と素十」(『ホトトギス』1928年11月号)において両者の句を比較し、素十のほうを自説にかなったものとして軍配を上げた。のち『ホトトギス』を離脱した秋桜子は「自然の真と文芸上の真」(『馬酔木』1931年10月号)において、素十の「甘草の芽のとびとびのひとならび」を非近代的な句として批判、以後同種の客観写生に対する批判的言辞として「草の芽俳句」が用いられるようになった。

私が20歳のころ、句会へ主婦作家が加わり始めた。
公民館活動の一環で俳句教室なるものが各地に生まれたからである。これが現在のカルチュアセンターの隆盛の出発点である。

社会性俳句がようやく下火になろうとしていた時代に、主婦作家は独自の生活俳句を発表し始めた。
これを「草の芽俳句」をもじって、「台所俳句」としてけなしていたのを思い出す。

画像は近所の整骨院・接骨院・整形外科・整体院



 

整形外科(リハビリテーション)や接骨院は保険が効くが、整体院あたりが境目で保険が利用できる場合とそうでない場合がある(ように思う)。

ともかく調剤薬局とともに近年大幅に「店舗」が増えている。
上の掲げた画像(店)は、自宅から数百メートルの範囲で目にしたものであるが、
阪急電車より北側の部分であり、どこかで踏切を渡り南側へまわるとさらに多くの「院」「店」が
ある。

60分3000円くらいのマッサージ店もかなりある。

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冬の花

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かならずしも冬の花というわけではないが、
残花的に咲いている花、先駆け的に咲いている花がある。

俳句ではあまり「冬の花」という表現は現れない。
「室の花」などが代わって登場する。

↓ネメシア



尼崎市内にはいくつものボランティアグループがあって、「花のまち委員会」を構成している。
種の植え付けから仮植えなどを行う共同圃場を持っているようである。
今日は初めてネット検索で活動の様子を知った。
本部は私がよく出かける「緑化植物園」の事務所にある。





大株になれば外で越冬でき花まで咲くようである。
金のなる木。イギリスでも「ゴールド&シルバー」と呼ばれていた。金貨銀貨という感じか?





猫缶さん教えて。↓これは?(後、もう一件、下に)



スペアミントと仏の座と思う。残花ではなく早咲き花。

↓姫蔓蕎麦(ポリゴナム)ほとんど四季咲きといってもいいかも。

数年前までは他を圧して路傍を占領していたが、嫌地現象かどうか、やや勢力が衰えている感じである。

マンションの入り口付近の花壇の典型↑
オタフクナンテン、フッキソウ、ホソバヒイラギナンテン、そしてメインの木として何か。
花ミズキはやや流行遅れで、↑のような2季以上にわたって派手な花が咲くもの。



赤紫の花が写ってないが、これにも名札が立っていたが読めなかった。
そんな場合は引っこ抜いて確認するが、よそ様の玄関前だったので、控えた。
猫缶さんわかりますか?

「冬の花」で検索。やはり0だった。
忍冬の花の句が何句か登場したが。

室の花 (新俳句検索より)
カタコトとスチームが来る室の花 富安風生

やはらかに反れる花びら室の花 清崎敏郎

陰るより照る日を背き室の花 三枝青雲

耳たぶのふはふはとして室の花 牧野洋子

凩や暖室の花紅に 凩 正岡子規

凩ののぞくがらすや室の花 凩 正岡子規

妻のほか人なき日々の室の花 上村占魚

味方にはならぬ人なり室の花 神野紗希

鉄管を熱湯巡る室の花 杉浦嘉太郎

身と心病みて脆きや室の花 加藤千枝子

人の目の優しさに合ふ室の花 保坂リエ

厨房に母のためなる室の花 上田日差子

カタコトとスチームが来る室の花 富安風生

むらさきのうすむらさきの室の花 久垣大輔

四捨五入ばかりしている室の花 細谷トミ子

チェリストの指先つよし室の花 弥永信子

天井低き明治のホテル室の花 鈴木康世

一度だけ使ひし旅券室の花 内田美紗 魚眼石

なぐさめる人がよく泣き室の花 内田美紗 誕生日

灯ともるを待ちゐしごとく室の花 片山由美子 風待月

匂いなき室の花あり旅一夜 磯 直道

紅唇の濡るるがごとく室の花 富安風生

暗き方は海に雪ふる室の花 篠田悌二郎

無戸室の跡を標して綿の花 吉田亜司




川鵜

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ある地域では鵜を追い払うのに四苦八苦している。
わが地元の川では川鵜はそう嫌われてはいない。
大集団にはなっていないからであろう。
昨日見た川鵜の様子を妻に語ると
(未だお粥生活だが気力は復活)
連れて行けというので、
一緒に(とはいえ私は徒歩、妻は自転車)外出。

昨日の画像 鳥は、カルガモ、コサギ、川鵜、カササギ。 今日はそれにかもめ(ゆりかもめ)1羽追加。
鳩と雀と鴉は無視。



鷺と鵜は敵対関係にはないようである。
というより庄下川でみる鳥はみな仲がよい。
近づいてきた同類、他類の鳥を追い払うようなしぐさをみたことがない。
鳩、雀、烏なども










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小鷺でも水面近くを羽を広げて飛ぶ姿はなかなかあでやかだが、
画像を得るのは難しい。

庄下川の最上流で見かけるのは珍しい。かもめ
さらに数キロ下流へ行けば橋の欄干に群れ並んでいるとか。
 


この花は、ギョリュウバイ 猫缶さんありがと。
 
ここにはスペアミントは写ってない。
近所で見るものと葉が違うように見えたがすべて仏の座。
昨日アップして今日もう一度確認した後の訂正。



↑は黄金カズラ。 初雪カズラによく似ているが。

鵜だけなら例句500句近い。最初の100句(ダブり放置)

檻の籠も秋の風の中 島谷征良

北陸線の礁の礁暗くなる 森 澄雄

じまひのの火を落す川迅し 西村公鳳

の岩にのをらざりし旱かな 鮫島春潮子

疲れ縄たるむをゆるさざる 岸田稚魚 『萩供養』

籠のコウと声あげ祓はるる 河本好恵

篝やの羽ばたきのしぶき浴ぶ 今牧茘枝

の礁にがきていつも冬初め 永井一穂

繋りゐて舟は舟同士なる 大橋はじめ

づかひの手にが逸りかちわたる 木津 柳芽

の岩をのはなれつぎ雷きざす 金尾梅の門

かをかをと疲れ綱ひきずつて 橋本多佳子

の崖にの影もなし葉月潮 蕪城

づかひの手にが逸りかちわたる 柳芽

この椅子の三日の涼に生き延びし 林火(安房原、原館)

馴らしややがて川となる水に 高濱虚子

啼くあり白崩崖際の捕鳥屋 石原八束 黒凍みの道

疲れ縄ゆるめば啼きにけり 鷲谷七菜子 天鼓

の岩にのかげみえず冬の海 久保田万太郎 流寓抄

杉のが竹のを呼ぶ日暮かな 臼田亞浪 定本亜浪句集

馴しややがて川となる水に 高濱年尾

おもしろやふりむくあり行あり 松岡青蘿

らし春潮をうちうつて飛ぶ 行方克己 知音

梭の如く海よぎれり春の雪 行方克己 知音

磯のを車窓にかぞへ初詣 中山純子

初茜海は海面離れずに 千田一路

茶の花やの目は水を湛へたる 殿村菟絲子

の墓の昏きに一樹寒椿 松井慶太郎

川端に籠洗ふも年用意 藤井智子

寒潮をくぐりての眼青深む 星野恒彦

しまき晴れ海さみしき鳥となる 古賀まり子

凍つるまでの瀬の水のひびきかな 桂 信子

沈みては浮きては海年惜しむ 東海林照女

の小屋に燈明一つ年は逝く 松井慶太郎

海のに十一月の日は移る 小宅容義

岩礁のの目緑に冬半ば 柴崎左田男

の宿に母家離れ家葉鶏頭 吾妻規子

のくぐる水の底まで黄落期 きくちつねこ

の瀬訪ひその夜は酒を温むる 森田 峠

初潮や戸の神岩たたなはり 下村梅子

かがりの散りて音あり秋の川 永井東門居

秋の水の脚へ来て急ぎけり 竹貫示虹

供養の飼装束そぞろ寒 岩島妙子

烏瓜の花よの巣の三番子 細見綾子

繋がるる舟細身よ月見草 冨田みのる

昼寝のさめたるまるき目なりけり 細川加賀

月光の仄と一の病みゐたる 斎藤梅子

千のの一塊となる夕ごころ 浦井文江

雨足の近づいてくる海のよ 鈴木六林男

波にのり波にのりのさびしさは 山口誓子

の中のさびしきは羽ひろげをり 林 翔

曇天に時に湧きたつなりけり 細見綾子

松明川面の闇を切りすすむ 鷲谷七菜子

血まなこの荒に爆ぜる篝かな 高井北杜

おもしろうてやがてかなしき舟かな 芭 蕉

さし入りて西日さみしき籠かな 石原舟月

疲れの瑠璃の泪目なせりけり 石川桂郎

疲れを労はる己が指噛ませ 栗田やすし

の修羅のはじまりて水深まりし 長谷川双魚

疲れの互に嘴をかみ合はす 伊藤敬子

潜り出て鮎を得ざりしの顔よ 西東三鬼

仁和寺に入る稚子二人袷かな 塩谷

夕焼の手足洗ひて川びと 渡辺 昭

荒梅雨のの目あをあを飼はれたり 宮田正和

海底にゆらぐ夏日や戸の宮 米谷静二

をだまきの花に雨ふる宿訪ふ 宮下翠舟

巣立に草の匂ひの風吹けり 中川幸子

の瀬まで春の時雨の手松明 長谷川久々子

の岩をとりまく波のおぼろかな 加藤三七子

長き橋渡りて風の都鳥 川 易子

一雨のありたることも初嵐 川 易子

灯を消して闇ひろがりし川かな 森光 兎喜恵

冬うらら海の声の三河かな 岩井久美恵

朝凪に首だけ漂うを見ている 尾田明子

つかまへて篝火にをかざしゐる 三森鉄治

緩みて張りてもこがねなす綱 上井正司

漓江連綿になれぬ人がみえます 阿部完市

おもしろうてやがてかなしき舟哉 松尾芭蕉

南風に向きて南風を聞くなり礁の 岩間民子

鉄線花ととぐんぐんと近づきたる 金子兜太

の修羅のはじまりて水深まりし 長谷川双魚 『ひとつとや』

の目冬海ばかり見て炎ゆる 野澤節子 『鳳蝶』

憩ふも沖へ嘴向け五月来ぬ 野澤節子 『花季』

茶の花やの目は水を湛へたる(岐阜) 殿村菟絲子 『菟絲』

帰りやいまし全島日矢の中 岸田稚魚『負け犬』

夏潮や遠き一を恋ふ目して 小林康治 『華髪』

真鶴の岬も秋めくの聲は(真鶴半島) 河野南畦 『硝子の船』

荒れ群れ海の底まで雪降れり(尻屋崎付近二句) 河野南畦 『硝子の船』

猛りのむんずと水を掴みたり 岸田稚魚 『萩供養』

遊びのまはり末枯初めにけり 岸田稚魚 『萩供養』

寧楽に水送りしの瀬春終る 角川源義 『西行の日』

一礁に一の冬も深まりぬ 加倉井秋を 『欸乃』

疲れを見分け聴きわけ綱さばき 加倉井秋を 『真名井』

松落葉(ざら)さらひ除けて捕師通りけり 石原八束 『黒凍みの道』

舟行の水脈の乱れの荒かな 『定本石橋秀野句文集』

五橋てふ酒をたゝへて舟かな 飴山實 『次の花』

春寒しを荒海へ残し去る 阿部みどり女 『雪嶺』

陽炎となるか川の棒立ちに 大木あまり 火球

枯るるもの枯れての島鴨の島 大木あまり 火球

の飛ぶは悲しき眺め浪の華 久國兆元



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エビソウ

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伊勢海老のびくんとたかが二千年櫂未知子
伊勢海老の不思議のこゑを秋の暮宇佐美魚目
伊勢海老の月にふる髭煮らるると加藤楸邨
伊勢海老の死の曲線や油ぎる小檜山繁子
伊勢海老や佃の渡しいまもあり志摩芳次郎
催花雨や空き家に人の出入りして海老名衣子
冬うらら海老の尻っぽを噛みあぐね和田浩一
卒業のあとの四五日雨催い海老名衣子
大鋸屑(おがくず)に埋められし海老すこし動く星野恒彦
天丼の海老おし黙る秋の暮横須賀洋子
嶺とさくら空間残し海老と鯛椿山静女
巻尺の寒さ巻き込む早さかな海老根和子
憲法九条伊勢海老のあとずさり畑佳与
断魂の世の伊勢海老に朱の疼き玉置信乃
春海の伊勢海老やトロリ葡萄酒煮松根東洋城
曼珠沙華蒼い地球は戦好き海老根和子
母子草袋小路が好きらしい海老名衣子
海老の眼のあまりに黒し年忘れ横山白虹
生きて着く伊勢海老に灯をともすべし清水径子
花の山巡査一人は幼顔海老名衣子
退屈の時間がほしいマスカット海老根和子
鈍くなることの確かに走馬燈海老根和子
鮟鱇のよだれの中の小海老かな阿波野青畝


現代俳句協会のデータベースで「海老」を検索。
作者名が右端へかなりはなれて表記されている
元のものがエクセル表であったのか削除キーでは幅を縮めることができない。
俳句に「エビ」が登場しない句は、作者名の中に「海老」が含まれているからである。

エビソウがベロペロネと呼ばれるのを初めて知った。
ベロペロネはもちろん、よく見る花(木)だが、海老草でも小海老草でも
俳句を見た記憶がない。

例句も見つからなかった。


この画像には花は写っていない。しかし赤い苞も素人目には花である。
花期は5~11月という解説があったが、丁寧に探せば、今の季節でも一輪位は咲いているかも。

エビソウ、アプチオン、アベリア、ポリゴナム、・・・最近ではごく一般的な草ないし木ないし蔓
であるが明治以降の歳時記に記載がないので、俳句で詠われることがない。

一つには、これらの草木はいずれも花期が長いくて3季咲きである。
しかしトマトやナスビを夏の季語とするなら、これらの花も夏扱いは可能である。

今、頼まれて総合誌用に1句送信。
すぐ受領報告があって、無季句ですねえという応答。

ドーナツの穴食べつくす納税日

私にとって納税日は3月15日である。
ほぼ毎年この日の朝に税務署へ徹夜して書き上げた書類を持参している。
いまではインターネット申告する人も増えているのであろうが、
どうせ添付書類など膨大なものを郵送するのであれば
電卓はじくのもボケ防止にはよかろうと思っている。

若い時に家を建て住宅ローンを組んだので、以来勤め先から「支給」される
源泉徴収票を基礎にして追加支払い額が大きくならないように、
あるいは還付金が出るように書類を作成している。

以下は整体・整骨院めぐりの第2回
家から一番近いところにある店

腰痛というより尻痛ないし臀部痛で、歩けなくなり、
先日紹介した整体外科の一軒に飛び込んだというよりは、
ワイフに強制連行された。
原因不明で、電気療法かなにかを受けて退散した。10年以上までの話である。
「事故」ないし
自覚症状がテニスコート上で起こったので、
以来テニスラケットは布団たたきに転用された。
その折同僚からカイロプラクテックを勧められた。

「懐炉プラスチック」ってなんだと、その時思った。
未だにカイロプラクテックの意味が分かっていない。
近くの一軒家にこんな看板を出しているのにまったく気付かなかった。

ある日玄関前で「農作業」していると、
家が角地にあることもあって、通りを歩いている人から
道を聞かれることがよくあるが、その日もご婦人から道を聞かれた。
番地を聞くとすぐ近所だが、整体マッサージの店と聞いて

そんな店近所にはないはずだと
思いながら住居番号氏名入りの付近地図をとりだして案内したらこの店であった。



先日は最寄駅の北側を調べてみたが、この日は駅の南側の道を歩いてみた。


↓整体院と整骨院が並んでいる。

リンパオイルマッサージ店 ここは美容用かも。

歩いているうちに駅前へ到着。すると足は自然に火事跡へ。
4年目の火事跡で今やシンボル化した桐
「リンパ」も「整体」も例句はなかったが「整骨」では、

整骨も效なきまゝに夜寒哉 内田百間

生々しすぎる。

按摩も死語か三寒四温の肩凝りか
まだその季節ではないが、私も一時肩こりに悩まされたことがある。
しかし職を退いてからは気にならなくなった。




マンション

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新俳句検索では、2句

マンションのおねしょの布団あっかんべぇ 高澤良一 石鏡

マンションの物干竿の梅雨布団 高澤良一 素抱
2000年に開設の「俳句検索」では

台風に寝てマンションは玻璃一重 品川鈴子

寒柝を打つマンションの密室へ 品川鈴子

豆を撒く新マンションに棲む鬼へ 品川鈴子


現在(1月27日) 撮影地の陸橋の上から、間もなくダイエーのマークが見えなくなる。
そのころにはイオンマークに変わっているのだろうか。
京阪神の大型店舗はダイエーブランドが残るとも聞いているが。
いまでもすでにイオンブランドのパンやバターが棚に並んでいるが、この店もイオンになると
この辺り一帯イオンだらけになる。
南部のコストコの横にあったカルフールもイオンになったし、JR伊丹駅隣接の大型SCの中核店舗もイオンだし
宝塚市に近い大型マンション付近にもイオンができて交通渋滞を巻き起こしているし。


8月末にはこうなるらしい

1800平米の土地である。

2014年10月24日


俳句では「高階」といった用語が用いられる。
とはいえこういう言葉は結社ごとに違うものである。
マンションという言葉は余り見ない。
昨年出席した句会ではまったくみなかったような気がする

小春日や高階は背中合せ 玖保律子

高階の三日の松に水を遣る 寺井谷子

高階の木箱に育つ花糸瓜 房川喜三男

谺せずビル高階のつくり滝 船坂ちか子

高階の歯科に子が泣く花曇 秋元不死男

高階に花びらとどく西行忌 坂本登美子

新年会降る雪を見て高階に 川畑火川

 
多佳子忌の高階に泛くエレベーター 桂 信子

どこかに死高階今日も蒲団干す 西川 織子

 
高階に硯を洗う鈴の空 鈴木六林男

 
高階にメロンすすれば海光る 田邊香代子

高階の窓に星入れハロウィーン 伊藤京子

高階にハンカチひとつもとめたり 藤木清子

水無月や弱りし者を高階に 森田智子

高階に素足を拭ふ夏は来ぬ 沼尻巳津子

やはりマンションより高階の例句の方が多い。

高層ビルとともに高層(豪華)マンションとしても詠われている。



あちらこちらの露地でアロエが咲いている。


我が家のカランコエも花盛り


.今では原色のあでやかな花を咲かすカランコエが出回っているが、
これは何年間は庭先に冬も放置されたままであったものをある年、プランターへ植えかえ
越冬のため家の中に持ち込んでいるものであるが、
4プランターに増えてしまった。おざなりな挿し芽ないし刺し穂で増えたものである。
赤、青、黄の派手な色のものも追加したいと思うが置き場所がない。

金の生る木

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↑スペアミントに見えたが、仏の座に訂正。
しかし葉の形、大きさが違う。

今日見た別の場所での同じ草


ホトケノザも見えるが、メインはヒメオドリコソウである。
花をつけているのは2枚とも仏の座である。

↑のヒメオドリコソウの横の畑の巨大大根↓



「金の生る木」の語源?は、葉の形が小判に似ているからと思ったが、
英語名dollar tree の翻訳かもしれないという説をネット上で見た。
私の知っている名はgold & silber。
これはイギリスのオープンガーデンで居合わせた他の訪問客から聞いた名である。
ドルの木なら、これはイングランド名ではなく、アメリカ名であろう。
イングランド名が金銀であることを確認するために、
イギリスのネットを訪問。money tree というのはあったがgold & silber

はなかった。金の生る木は「木」ではない。草である。「〇〇草」の「草」にあたる部分に英語はウィードをよく使う。野草ではない場合は、
プランツか。

G & Sでは他の植物が画像付きで登場。このブログへ貼り付けたら禁止タグが組み込まれていたよう。盗用できなかった。


この時期露地でいたるところで花盛りである。


他方でまったく花をつけていないものもある。あるいはこれは
カランコエ?
株の大きさとは関係なく、「年齢」の高さによるのであろうか。
メス株とオス株があるわけではないだろう。葉差しができるので。

葉差しの段階で5円玉の穴をくぐらすということを園芸屋さんがやったとか。
そこから金の成る木という呼称が生まれたという説もあるらしい。


冬立つやのなるに薄埃 小見山希覯子

一句だけ例句を見つけた。

虐殺報真っ赤に染まる花月の葉
 
「花月」:広辞苑では、風流な遊びと、能のタイトルの二つのみ登場。
花月は金の生る木の正式?名。





























1句だけ例句を見つけた。

冬立つやのなるに薄埃 小見山希覯子

20日早や埃を貯める戎笹

これは私の句

虐殺報真っ赤に染まる花月の葉


8.4ha

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この建設現場は1800㎡

地上10階で、48戸のマンションが建つ。
広い更地だと思ったが、鉄骨がつみあがってゆくと手狭な感じ。元は、銀行の社員寮が数棟建っていた。その銀行は三菱銀行に合併されたので、この地の再開発に三菱地所が携わるのは自然かも。

↓は2000㎡。更地に戻った。半年くらいは遺跡調査ということで囲まれて中がのぞけなかったが、今は取り払われ立ち入り自由。
建築計画を示す板の内、建築予定の建物の部分が「遺跡調査案内」掲示で覆われたままである。計画変更があったのかどうか。


イチビ、メリケントキンソウ、アメリカセンダングサ、巨大なアメリカ鬼薊群落、コマツヨイグサ、
・・・猫缶さんや水円岳さんに教えてもらった植物の多くはここで見たものである。
昨年の夏まで、私、ヤブカラシとセンダングサの区別もできなかった。



さてさてここはぐ~と広い。8.4ha 300メートル四方弱。↓
1月中旬にJR福知山から尼崎まで特急列車に乗って、
宝塚駅ででかい駅広告を見た。
ズットシティ! なんだそれ?と思ったら宝塚駅前ではなく「塚口」駅前の再開発計画の広告であった。ようやく現況を確認できた。







クレーン車が作業している部分だけで、上に紹介した更地や48戸のマンション建設中の土地の
10倍以上の広さがある。



建つマンションの戸数も10倍以上。23,000㎡以上。戸数587戸。
もっとも48戸のマンションはかなり高級志向で、一戸が100㎡を越すようだが。

全体を囲う塀に書かれた文字が一度には写しきれない。
この歩道の横はJR塚口駅構内であるからあまり距離を取れない。





なにしろJRの線路沿い、JR塚口駅の東側出口の目の前である。
駅より徒歩1分と表示されている。
ホームのエレベーター付近の扉から飛び降りて、改札口を出れば目の前が我が家である。
この建物の前に駅ビルが拡張されるようだから、駅ビルを出て道を渡ればマンションの入り口である。
駅(ビル)から徒歩0分と表示しても誇大広告とはならないくらい。
4つのプロジェクトを足すと1200戸が販売されるよう。
「ズット(住んでいたい)シティ」という意味であろうか。

区画の西側はJRの鉄路である。東側はこれまた工場跡地に建った新築マンション街である。
鉄路を越えた西側には緑化植物園があり、小学校がある。
たぶん東側にも別の小学校があるだろうが、大マンションが次々に建ってゆくので、
校区を変更する必要がでてくるかも。

下校時間帯と私の散歩時間が奇妙に一致していて
北から南へ流れる庄下川沿いを歩いていると、
西から東へ庄下川を渡って下校する生徒の一群に出会ったと思うと
次には東から西へ庄下川の橋を渡って下校する生徒に出会い、
それぞれに下校路を保護する黄色い旗を持ったボランティア老人に
胡散臭い目でみられることがある。

緑化植物園の通りをはさんで北側に位置する上坂部小学校(上坂部もまた由緒ある地名(豪族名)はすでに違う工場跡地に建ったマンションから通う生徒の受け入れで悲鳴をあげているはず。(と書いた途端にそういえばそのマンション街も写していることを思い出し、一枚追加)



画像の右手あたりに幼稚園のバスが止まり、何名ものお母さんが待ち構えて井戸を掘っているのによくでくわす。マンションが新しいので、デイケアバスは余り通らない。
ディケアバスや介護タクシーの行き来が激しいのは我が家周辺地帯である。




↑これは俄然古い町塚口御坊の西の端。旧町名は南町。
市場があったがここも焼失。この通りはほとんど通らない。
火事以後に建ったマンションで行き止まりになっている。
そこに昔ながらの魚屋がある。朝4時開店、13時閉店の卸商である。
火事跡は駐車場になっている。ダイエーマークが見える。


ここが火事の時は、京都に住んでいた友人M君から電話見舞いがあった。
確かに火の粉の一部は我が家周辺まで飛んできた。
心配はしなかったが火事の臭いは嗅いだ記憶がある。


塚口駅近くでの列車事故の折も電話してくれた。
そういえば阪神淡路の大地震の折も電話が通じるや否や安否を尋ねてくれた。
その時はM君は名古屋住まいであった。


養花天比良に消え入る魚屋道 六本和子

魚屋が行ってしまひぬ秋の山 斎藤夏風

湯の山の魚屋に鰤床濡らす 石川桂郎

魚屋の箱積み重ね盆休み 横田和子

遊ぶごとし魚屋の朝の水打ちは 森 澄雄

鰯買ふポセイドンてふ魚屋に 吉村玲子

魚屋が散らす紅鱗福寿草 林 翔

湯の山の魚屋に鰤床濡らす 石川桂郎

湯の山の魚屋に鰤床濡らす 桂郎

北風や鍛冶屋魚屋の腰障子 六花

春泥や魚屋の荷の鯛鰆 喜舟

日和じやと魚屋言ひけり桜かり 公遠

魚屋の夕べは巻きて葭簀丈 蓬田紀枝子

魚屋が行つてしまひぬ秋の山 斉藤夏風






魚屋に雪の色して猫飼われ 宇多喜代子

遊ぶごとし魚屋の朝の水打ちは 森澄雄 花眼



魚屋の夕べは巻きて葭簀丈 蓬田紀枝子

魚屋が行つてしまひぬ秋の山 斉藤夏風

魚屋に雪の色して猫飼われ 宇多喜代子

 

月峰山大覚寺

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さすがに2本は無理。それでも1本半頑張った。ネリマ入りよりも並みの方がうまかった。


2時からの豆まきには間に合わなかった。


昨年の画像

↑裃を着た舞台後方の女性が市長さん。
昨年無事再選を果たした。
選挙カーに乗った姿をJR尼崎の駅前で見かけたので、大仰に手をふって激励。
たぶん午後2時の市長さん参加の豆まきの時が一番人が集まるのであろう。
駆け付けた時は、寺の外の方が賑やかであった。





ウィキペディアによる大覚寺の解説

大覚寺(だいかくじ)は、兵庫県尼崎市寺町にある律宗寺院。山号は月峯山、本尊は千手十一面観音

摂津国八十八箇所第65番札所で、現存する尼崎最古の古刹である。

寺伝によると、百済の僧・日羅聖徳太子の命により剣尾山大阪府豊能郡能勢町)に月峰寺を創建、推古天皇13年(605年)には長洲(尼崎市)に剣尾山を遥拝する灯炉堂を建立したのが始まりと伝えられる。

  • 大覚寺文書 - 兵庫県指定重要有形文化財に指定されている(昭和42年(1967年3月31日)。

  • 2月3日 節分祭 - 本堂手前の能舞台で、大覚寺狂言が執行される。狂言は、明治以後、行なわれなくなっていたが、昭和28年(1953年)に復活した。

 

寺のHPでの解説
毎年二月三日の午前十時から午後八時まで大覚寺狂言の上演、ならびに豆まきが行われます。

次の豆まきは午後5時からであるが、
狂言を1つだけ見た。

十王堂という名の舞台で、演目も「十王堂」
金を取られた琵琶法師が大覚寺へ駈け込むのである。

無言劇である。

演目の解説から撮影


境内はせまい。300人はいなかったと思う。
でも一日がかりの祭りゆえ、1万人が参拝といっても頷ける。








狂言を真面目に見ている人は100人もいない。
厄払いの札を書く人、売る人、境内をうろうろする人が200人。



↑祇園祭の芦刈山  この大覚寺が舞台である。16世紀でもこの辺りは芦原であったかも。


檀家のぼんぼんであろうか。





(たぶん)ケーブルテレビの撮影を盗み撮り。

豆撒き 追儺会の例句は取り上げたことがあると思うので、
「琵琶法師」
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麦哥の声まね行や琵琶法師 高井几董

油断せぬかほや時雨るる琵琶法師 立花北枝
談林風である。
現代俳句の題材にはなりにくい。
 
他の寺。臨済宗。やはり禅宗の雰囲気。
菩提樹である。







尼ロック

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尼崎のロック(閘門)を初めて見た。



↑第1と第2の二つの閘門がある。

(koumon とローマ字変換で文字を打っているので、いちいち漢字を確認する必要がある。)

見学者コースで目の前に立つとどちらが海でどちらが川(運河)か分からない。

パナマ運河もスエズ運河も見たことがない。

見たことがあるのはギリシャのペロポネス半島の閘門である。
確か、アテナからオリンピアへ行く途中でバスを降りて上から覗き込んだ記憶がある。
巨大なものである。両壁は自然の崖を削ったままのものであった。

それに比すれば尼ロックはかなり小型で、模型のようにも見える。








イギリスに張り巡らされた運河のところどころにある小川をせき止めたようなロック
と原理的には同じものである。

尼崎の閘門は、埋め立てられた土地が、実は海面より低いことに起因する。
案内文によれば尼崎の標高は、市内の3分の1が海面下すなわちマイナス表示になっている。
その先端部分に工業地区が密集している。川の水位は海面より低い。
原料の搬入や製品の搬出を船による場合には、運河と海の接続部分で高低差を調整しないと
船は運航できない。



運河から海(尼崎港)へ出るには、まずは海側のゲートを閉めて閘門内部の水位を海面の高さと揃える。そこへ船が進入したら、今度は川側のゲートを閉めて、海側のゲートを開ける。
どの程度のスピードで水を海へ流し込むのかは知らない。
 ものすごいでかい排注水パイプがあるので、ゲートを開けずに注水してゆくのかも。


海と水位がそろったところでゲートを開けるのかもしれない。
実際の様子は、目の前を船が通るところを見なかったのでわからないが、
素人考えでは、海の潮位より1メートル低いプールの壁の1面を一気にあるいは徐々に開放するのは危険かもしれない。技術的にもかなりの無理がかかりそうである。浮かんでいる船は半開きになった壁面に向って「突進」するかもしれない。

 閘門の両側にブイがあったので、プール内部に入った船はブイで固定するのかも。




立春のロックを脱ける運搬船

周囲は高さ7メートルの防潮堤で囲まれているらしい。
この地点でのジェーン台風、室戸台風の高潮は3メートル余。想定される南海トラフの地震でも5メートルであることが記されている。

それでも各河川への津波の逆流によって、我が家周辺でも40センチの海水混じりの泥水の侵入をうけることになっっている。







御製が彫られて目立つ場所に設置されている。

「県民」としないで「県人」としたところに昭和天皇の見識を感じる。
それでもやや上から目線が気になる。
「下じもよ、余は満足じゃ」といった感じ。

ロック周辺では防潮堤が見えない。
かなり高い場所に立地しないと全貌が見えない。

こんな感じである。7メートルはありそうである。



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中島川

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大阪府大阪市と兵庫県尼崎市との境界を流れる短い川、潮の干満に合わせて流れの向きが変わる中島川に初めて遭遇。


町工場が川沿いに並んでいる。一般の通行人が川の土手へ上がるためには、土手で行き止まりになっている道を探せねばならない。
やっと見つけて土手へ上がるも、高い防潮壁に阻まれて川岸へ降りれない。
1キロよりは短い間隔でゲートがある。台風時にはサイレンとともに閉まるゲートである。



↑塀越しに、海へ向かってシャッター。


↑これは上流に向かって。 どちらも向こう岸は大阪市である。
上流といってもすぐ東側である。
そこは神崎川と左門殿川の合流地であるが、そこから海までの数キロが中島川である。



川をまたぐ橋の中央部に、(これより)「大阪市」の標識が見える。
土手を2キロほど海に向かって歩いた。

大阪と尼崎市の西側の境界は、普通には猪名川である。猪名の笹原と万葉集に詠われているあの猪名川である。猪名川と藻川という二つの川は合流して神崎川となる。

神崎川は川中島を挟む形で、左門殿川と神崎川本流に分かれる。
どちらを本流とするかは、まだ公式名がない時には、時間当たり流量の多い方を本流とする。
そうやって名前が決まったのかどうかは知らない。

よってもって左門殿川という川もごく短い。1キロ程度か? apedia (尼崎地域史事典)では、

戸田氏鉄(戸田左門)の開削した水路として左門殿川の名がついているが、三国川神崎川)の場合と同様に既存水路の改修によってできたものであろう。かつては八十島と呼ばれる多くの島や洲の間を縫って流れていた一分流の利用であろう。三国川の場合は京と西海を結ぶ最短距離の水路を開くことに目的があったが、左門殿川の場合は尼崎城の防禦的(軍事的)役割を持っていた。大坂側からは左門川と呼ばれたようである。神崎川から分流点より佃島の西を通って中島川との合流点まで、2,250mにおよび、1965年(昭和40)3月に1級河川に指定された。

2.2キロあるようである。

ついでに中島川の解説
apediaは見つからなかった。

阪神間の海浜地域を流れる、神崎川最下流部の分流。
同じく神崎川分流の左門殿川を入れ大阪湾に注ぐ。
一級河川の起点は神崎川からの分派点(大阪市西淀川区佃・中島境)
国道43号線中島出来島橋の上手・阪神電鉄西大阪線出来島駅の西方で神崎川最下流部よりわかれ、南西流し西淀川区中島と兵庫県尼崎市東海岸町の境で大阪湾に注ぐ。
末流運河のため流れはほとんどなく、潮の影響を受ける。


 川の長さが記されていない。

猪名川の水も、藻川の水も、神崎川のそれも、すべて中島川の名がついた水路で大阪湾へ流れ込む。これは実は尼ロックの外側の流れである。

庄下川は最後は尼ロックで排水調整される。なにせ海面の方が高いので、放置しておいたら
庄下川は海になってしまう。



かなり殺風景な景観である。








花と言えば、この花だけが目についた。
猫缶さん、何かわかりますか?

後は、潮風に強いのか?トベラが繁茂。他の樹木も植えられたようだが、トベラの陰で枯れていた。
 





ところどころにシャリンバイも。

かくして、私、1年余りかかって、庄下川に関する以下のウィキペディアの解説が
90%以上理解できて、同文ではないししても、内容を復唱することができる状態になった。

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庄下川(しょうげがわ)は、兵庫県尼崎市に流れる淀川水系の一級河川1972年二級河川から一級河川となった。

概要

上流の東富松川の伊丹市境を起点とし、尼崎市南塚口町八丁目で2つの支流が合流する(以前はこの合流地点より下流を庄下川と称した)。川は南下し、大西町と名神町の境で五合橋線と交差(新庄下橋)、昆陽(こや)川と尾浜町で合流。南下してJR神戸線東海道本線)と交差し、工業地帯の間を通り、西長洲町で玉江橋線(長洲橋)をくぐり同道路の東側に出る。左岸に尼崎総合文化センターを見ながら国道2号(玉江橋)をくぐり、さらに阪神尼崎駅の東側で阪神本線阪神なんば線の線路をくぐる。国道43号阪神高速道路3号神戸線と交差して、この南側で東西へ向きを変え、西へ分かれた流れ(旧左門殿川)は工場地域の運河となり河口部で尼崎閘門に達し東浜排水機場(ポンプ)により尼崎港大阪湾)へ注ぐ。東へ分かれた流れは松島排水機場・庄下川水門によって大阪市との境目を流れる、神崎川分流である左門殿川(さもんどがわ)に合流する。同排水機場は大阪高潮対策事業の一環として建設、1971年に完成した。

大正から昭和初期には尼崎閘門の完成で流れが淀み、また流域の工場排水などにより水質が悪化したが、昭和末期から平成にかけての整備工事によりが住めるほどに水質が改善。2000年には建設省の「甦る水100選」の一つに選ばれた。

支流

尾浜町の尼崎インターチェンジ南側で東から昆陽川が合流する。昆陽川をさかのぼると上流部ではさらに上坂部川伊丹川昆陽川捷水路に枝分かれする。昆陽川捷水路は、猪名川の分流である藻川から水を取り入れており、途中で伊丹川と交差している。

南塚口町八丁目の合流地点から北に3つに分かれる。東側から富松(とまつ)、北からは東富松川、西からは西富松排水路(西富松川)の3川となっている。なお、東富松川は尼崎・伊丹市境までの区間を庄下川に含むこともある。富松川と東富松川は一級河川に含まれるが、西富松排水路は普通河川の扱いとなっている。

東富松川を上流へたどると途中で富松川と交差し、南塚口町の3川合流地点から東側に分かれていた富松川が東富松川の西側に移る。東富松川はさらに上流をたどるといくつかの川が枝分かれするがそのうちの一つが伊丹市昆陽池に達する。

西富松排水路は、尼崎市立尼崎高等学校の敷地を通り、武庫之荘五丁目で尼宝線と交差、西武庫団地の東側付近からは水路が複数に分かれる。最終的には市内最北端の宮ノ北団地の西側にある六樋に達する。
この六樋は武庫川の水を農業用水にするため設けられた取水口であり、それまであった野間井、生島井、武庫井、水堂井、守部井、大島井の6つの取水口を1924年の武庫川改修に際し統合したものである。このため、庄下川には武庫川の水も流れていることになる。

文化

市中心部では、船で庄下川を下る祭り「船だんじり」が行われている。明治時代から昭和初期に行われていたが、平成に入り復活させた。

参照文献



90%であって100%でない理由は、
1.東富松川を伊丹市境を起点とすると書いてあるが、その起点とは行政上のものなのか
水源という意味なのか。川は市境を越えて流れ水源の一つが伊丹市の昆陽池という記述との整合性は?。
2.西富松川の流れをまだ十分には実見していない。



あまらぶ

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あまがさき・観光振興推進事業「あまかん」 という名のところに事務局を置き、
尼崎観光ガイド編集委員会が編集・発行している冊子「あまらぶ」
2014-2015版の表紙である。

市とかかわりのある施設の受付周辺に置かれている。take freeである。


表紙にはちょうど30人の人の顔写真が掲載されている。

そのうち、5名だけは画像が大きい。

見た瞬間に、右側の2人の名は分かった。松本人志と栃の若である。


この2015年版あまらぶは昨年の暮に発刊されたのであろうが、残念ながら栃の若は
引退して親方になった。

左側の2名のうち、下の男性はF1レーサーである。
とっさには名前が出てこなかったが
このブログでも駅前の店の看板を紹介したことがある。
小林可夢偉さんは、店を閉じ、
F1に復帰したようである。

左上の女性の顔はどこかで見たような気がするが、分からなかった。
しかし「現代」尼崎を代表する知名度の高い女性のはずだから
尼子騒兵衛ではないかと思ったら、やはりそうだった。

真ん中のカメラを持った童顔の人物は、まったく分からなかった。
写真家の小林哲朗という人である。

尼崎在住の有名写真家は他にもいるし、面識のある人もいるが、
こんなに若くはない。なぜ大画像になったのか。

冊子の中身を読むと、どうもこの表紙絵(画像集)じたい小林さんの作品のような気がする。
ちゃっかり自分をど真ん中に配置している。


尼子騒兵衛さんは現代尼崎を代表する人物であることは確かであろう。

娘や息子との会話で話題にならなかったし、テレビアニメ「忍たま乱太郎」も一話とて見たことがなかったが、
すでに50巻以上の漫画、アニメの全世界での放映で尼子さんは全国ブランドどころかグローバル・ブランドのようである。

尼崎市内限定で、尼崎地名入り切手が販売されている
(私もJPの窓口へ出かけたついでに切手購入希望を伝えたことがあるが売り切れであった)
が、

これなども尼子騒兵衛
(古いVISTAのワード辞書にはまだ登録されていないので、「そうべい」と打っても正しい字が出てこない)
さんの影響であろう。

忍たまには、尼崎の地名を使った人物がたくさん登場するというので、
ネットで忍たま乱太郎や尼子さんの名で検索したら、この物語、やたら登場人物が多いようである。

小学生が暗記できる量を超えているようにも思う。

私が探していた人物一覧に近いものを、丸写ししてみた。
朱塗りは尼崎の地名である。
青塗は尼崎周辺の旧国名・地名である。
      
      猪名寺乱太郎

摂津のきり丸

福富しんべヱ

黒木庄左ヱ門

二郭伊助

加藤団蔵

佐武虎若  

山村喜三太

皆本金吾

夢前三治郎

笹山兵太夫

土井半助

山田伝蔵

            川西左近

池田三郎次

能勢口

            時友四郎兵衛  

伊賀崎孫兵

次屋三之助

神崎左門

富松作兵衛

浦風藤内  

三反田数馬  

           平滝夜叉

綾部喜八郎

            田村三木ヱ門

            斉藤タカ丸

久々知兵助

不破雷蔵

鉢屋三郎  

竹谷八左ヱ門

潮江文次郎

立花仙蔵

           七松小平太

中在家長次

            善法寺伊作  

食満留三郎

山本シナ

大川平次渦正

戸部新左ヱ門

中には、高校時代の級友や先生の姓も利用されているかも。



有名なお二方を取り巻く人は知る人ぞ知るの存在だが、「あまらぶ」本文を読んで解明(解名)した。

騒兵衛さんの右横の人は、アンテノールの今井店長、
左側は上からニューヨークスタイル山下の山下さん
洋菓子店リビエール本店の西さん
パティスリーイデのオーナー井伊さん
左下は、女性で、ケーキハウスショウタニの房野店長

それぞれの店のお勧めは
順に
イチゴの載ったショートケーキ
ニューヨークチーズケーキ
ピラミッド
イチゴムースのブランタン
ショウタニさんはもちろんシュークリーム(創業以来100円)だが画像はモンブラン

これを取材した市内の女子大の「スイーツ探検家」4人の画像も、
松本さんと栃の花さんの周りに配されている。

他にもギターベース職人の高山さん、岸本商店で菰樽を作る横谷さんなどが登場。

ケーキ類は1店を覗いて、我が家よりは西の駅前周辺に集中している。



伊賀小春忍者に蹤かれゐる如し 須賀遊子 『保津川』

雪ばんば干されてありし忍者の衣 上原敬子

鳰潜り離れ浮かび来忍者貌 畠山 諭

ダム壁を忍者の登る秋意かな 大野宏峰

出没の忍者めきたる梅雨茸 麻生昌子

水蛸は海の忍者よ岩に擬す 上田常雄

庭の草取るに忍者の如く居り 渡部昭波

孫と瞻てナマコ忍者の黒装束 高澤良一 素抱

伊賀人の忍者姿の鬼やらひ 間瀬淑子

風涼し忍者屋敷のからくり戸 田淵定人

雷鳴の擬音江戸村忍者劇 倉橋羊村

すが漏りの忍者のごとく壁を這ふ 吉田一路

汐まねき横に走って忍者めく 清田柳水

忍者屋敷かまきり青き葉にひそむ 加々美鏡水

双六の忍者の伊賀を一跳びに 下村ひろし

名前を知ったばかりのイベリスは元気がない。周囲のハコベラはすくすく育っている。

しばらく花を見なかった立金花は元気がいい。

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