December 9, 2014, 6:17 am
カヤツりソウでは出てこない。俳句では漢字尊重だから「蚊帳吊草」で検索
蚊帳吊草昼酒のややふかかりし 草間時彦
草の戸の二帳三帳蚊帳吊草 山口青邨
島に来て蚊帳吊草の日暮かな 守山琴女
筆塚にかしづく如し蚊帳吊草 笠原古畦
ながらへて蚊帳吊草を吊り遊ぶ 和田祥子
脛痒く蚊帳吊草の中にゐる 中原道夫
吾が弱気妻の強気や蚊帳吊草 鈴木鷹夫
旅の野の蚊帳吊草をすいと割く 入江朝子
枯れ枯れて蚊帳吊草とわかるまで 上村占魚
塗薬吹いて乾かす蚊帳吊草 鈴木鷹夫
かたくなに一人遊ぶ子蚊帳吊草 富安風生
枯れ枯れて蚊帳吊草とわかるまで 上村占魚
蚊帳吊草海へ去りゆく風ばかり 有馬籌子
蚊帳吊草蚊帳知らぬ児に吊りて見す 中原冴女
思ひ出は蚊帳吊草をつりしこと 牧野風
いつぽんの蚊帳吊草よ父の墓よ 塚原夜潮
蚊帳吊草早く昔になればいい 齋藤愼爾
月明の蚊帳吊草の下は崖 岸本尚毅 鶏頭
蚊帳吊草用なきもののたくましき 西村和子 かりそめならず
昭和日暮の蚊帳吊草を吊る遊び 柿本多映
蚊帳吊草繃帯の子に憧れて 正木ゆう子
蚊帳吊草はらばへば見ゆ補陀落も 河原枇杷男
蚊帳吊草日当つて花紛れけり 宮津昭彦
向脛に蚊帳吊草の花の露 高濱虚子
蚊帳吊草繃帯の子に憧れて 正木ゆう子
昭和日暮の蚊帳吊草を吊る遊び 柿本多映
蚊帳吊草日当つて花紛れけり 宮津昭彦
母死なむ蚊帳吊草にわが佇てば 藤田湘子 黒コシュロカヤツリグサの名を知ってから、ネットでいろいろ「調査」
カヤツリグサもまた種類が豊富。
春から夏の野では、街中では、背の低い蚊帳吊草の外来種みたいのが目につく。
名前を知りたいがぴったりの画像にはまだ出会っていない。
川岸などにはそれよりは脊の高いものをよく目にする。それが本来のカヤツリだと思っていた。
12月の野で立派なカヤツリグサに似た?草を発見。
猫缶さんからコシュロカヤツリグサという名を教わった。
その後で、もう一度確認するため「現場」へ
更地のまま放置されて囲われている処の側溝から芽を出しているようである。
3株程である。
一番立派なのは1mはある。
コシュロカヤツリで調べると高さ25センチほどの園芸種とある。
これはコが付かなシュロカヤツリではないかと思う。
一度家に戻って鋏持って出直し。
ヒイラギナンテンも色々種類があるよう。
今日の画像
これはヒイラギ 花が白い。画像は悪いが。↓
トゲトゲがない葉もあるよう。ホソバ系
コモカブリを作っている会社。出荷の最盛期のよう。
社長さん宅 多分
72リットルが1樽の容量なのだ。
南町⇒東町⇒清水町⇒北町 グルッと歩いてみて、塚口御坊は
1周1キロもない狭い地域であると、歩き慣れたこともあり、改めて確認。
逆に言えば、旧の塚口村の端に半世紀住んでいて、中心地の塚口御坊に頻繁に足を踏み入れるようになったのは、ブログ始めたからである。
東町での遺跡調査の期限は12月末である。
ここで私は、イチビなど初めて知った草の数々を撮影した。
塗り絵(ないし線画)しているのはこの人。
発掘説明会などには一度も参加していないので、柱跡とか炉の跡とかなどは何も分からない。
今日は、車の出入りのため、金網の一部が開いていたので、
「無断侵入」して撮影。
かたわらでユウゲショウがまだ咲いている。
水仙が咲き始めた。
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December 10, 2014, 6:23 am
俳句で、じかに、「晩秋」と詠ったものには余りお目にかからない。
例句はいかに?
晩秋家族瞳それぞれ淵をなし 高野ムツオ 蟲の王
晩秋の夕靄あをき佐久平 篠田悌二郎
晩秋や金屏除けて富士を見る 鈴木花蓑
愉しまず晩秋黒き富士立つを 山口誓子
軍鶏の首晩秋の陽に立てりけり 林 徹
終点が故郷晩秋磯の香も 古舘曹人
真白なる晩秋蚕の繭の玉 屋舗 信子
風傷みせし桑ばかり晩秋蚕 柴山 つや子
晩秋のいまだなじめぬ新居かな 森田 たえ
晩秋を巣箱担いで男来る 吉田さかえ
犬小屋より晩秋の吾が家を見る 夜基津吐虫
晩秋や村の樹々みなほうきぼし 奥山甲子男
父の名の晩秋翳る裸岩 佐藤鬼房
晩秋の唇涸き蝶といる 金子兜太
ぼんやりと晩秋蚕に灯しあり 波多野爽波 『湯呑』
晩秋や一位三本父の墓 阿部みどり女 『雪嶺』
晩秋や水輪の中の雲幾重 山田節子
晩秋や風樹の中の一ベンチ 大野林火
晩秋の木曾谷汽車の遠谺 福田蓼汀
晩秋の蜂がよろめく石の上 高尾まもる
晩秋の園燃ゆるものみな余燼 山口青邨
晩秋の池釣舟の影坐る 水原秋桜子
立呑みの晩秋の脚二本づつ 内田美紗
鳶の眼とあふ晩秋の旱山 福田甲子雄
父在りし日の晩秋の桑畑 倉田絋文
晩秋や山いただきの電柱も 細見綾子
晩秋の葉洩れ日兄弟だけの言葉 佐藤真次
晩秋や両掌に挾む犬の貌 滝春一
晩秋や山いただきの電柱も 細見綾子
晩秋の水に色あり深さあり 小寺正三
晩秋の貨車にこくりと馬の首 原コウ子
晩秋や山越えて来し人の顔 中川宋淵
晩秋の園燃ゆるものみな余燼 山口青邨
ただ長くあり晩秋のくらまみち 田中裕明 花間一壺
濁流に杭一本が晩秋のあらきひかりをうけとめてゐる 加藤克巳
晩秋の野の明るさを歩きけり 前田震生
晩秋という輪郭なき遠景 対馬康子 吾亦紅
洗濯すもう晩秋のものばかり 対馬康子 純情
モナリザの背にある道も晩秋に 対馬康子 愛国
晩秋は一重仕立ての顔の中 櫂未知子 蒙古斑
晩秋を女優の顔でやりすごす 櫂未知子 貴族
釣舟に晩秋の湖色深む 金沢葭舟
晩秋の誰が私を暖める 高澤晶子
帰るのはそこ晩秋の大きな木 坪内稔典(1944-)
十字路の晩秋 文字から鳥抜けて 伊丹公子
晩秋を病み水薬のごとき日暮れ 藤木清子
晩秋や鳥籠に吊る父の寝息 増田まさみ
風の音晩秋老人たち黙つて 清水径子
晩秋の日本に駱駝老いにけり 小泉八重子
晩秋や艶あるものは愛を得て 原コウ子
私を消す消しゴムがない晩秋 栗林千津
晩秋の肉より立てりうす煙 柿本多映
空席に母晩秋のサキソフォン 栗林千津
私を消す消しゴムがない晩秋 栗林千津
晩秋の影失ひし敵味方 栗林千津
帰るのはそこ晩秋の大きな木 坪内稔典
晩秋や蔵の中吹く風の音 中川宋淵 遍界録 古雲抄
晩秋や藪ころげ出る栗のいが 中川宋淵 詩龕
晩秋の日本海暗夜は碧(へき) 金子兜太 詩經國風
晩秋のはるかな音へ象の耳 有馬朗人 耳順
晩秋やイタリア青きゲーテの地図 有馬朗人 天為
晩秋の魚を描いて道しるべ 有馬朗人 知命
やがて来る者に晩秋の椅子一つ 有馬朗人 母国
イエス売るべし晩秋のひげそられゐて 有馬朗人 母国
なべて晩秋愁雲散り瀬は咽び哭き 福田蓼汀
晩秋や何におどろく屋ねの鷄 蕪村遺稿 夏
自我ぐずぐずとあり晩秋のひかり 金子兜太
例句意外に多数。
句会でお目にかからないのはわれらが句会の特徴かも。
画像は晩秋の神戸市北区 六甲山の裏
↓真中の草は、スペアミントみたいだけど、踊り子草のようみ見えるが。季節外れ?主脈の数は?
室内
カランコエの花穂が一気に伸びてゆく。ムラサキ葉八重咲きベゴニアも。
塚口御坊風景
どでかい葉。オキザリス
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December 11, 2014, 6:58 am
駅構内の掲示板(広告版ではない)
大阪府の最低賃金が大きく報じられている。
三宮へ。北野坂を歩いて風見鶏を写す予定だったが、雨で出足が悪く。ルミナリエの最終地点、慰霊碑のある場所へ。
1.17以後に植えられたものであろうからまだ若い木々。メタセコイア。
「復活」「再生」のシンボルになったのかも。
テントはルミナリエ向けの屋台である。
今年は15日まで。13日には大阪のイルミネーションを見に行く予定なので、
夜にここに来ることは目下予定なし。
↑神戸市の各区の花が勢ぞろい。ゼラニュウムは、須磨区であったか垂水区であったか。
花時計発祥の地だそうである。今年は葉牡丹。去年はアキランサスであった。あるいはアキランサスが新年用に植えかえられたのか。どちらも対照色があるので利用しやすい。
パンジーなどだと隙間ができてしまう。
神戸市のマンホールを探していて途中で失念。
明日また神戸へ出かける(出かけざるを得ない。句会場にスマホの充電用ケーブルを忘れた)ので、再挑戦。先日茨木市のもの「備蓄」済み。
この場所の風景は、1月17日のテレビで全国版で流されるであろう。
2015年は20周忌となる。
句会出席
3句ライオン老ゆ晩秋の橋の端
選挙カー薮マオの穂の俯いて
車椅子の着地確認グロキシニア
家へ戻ると↓が届いていた。
「津波ハザードマップ」「内水ハザードマップ」(想定以上の降雨で下水管が溢れた場合)
「洪水ハザードマップ」(武庫川・猪名川・庄下川すべてが欠壊した場合)「高潮ハザードマップ」が付されている。冊子の中には「武庫川が氾濫した場合」「猪名川だけが氾濫した場合」などの
被害状況も解説されている。
それによるとJR神戸線より南側は、海抜が、平常時の満潮時より低い。
海岸沿いに5.7mの防潮堤があり、通常の満潮位は80センチ、予定の高潮位が3.9mで
防潮堤はこれを食い止める能力はあるらしい。しかし5.7m以上の津波が押し寄せると防潮堤は根こそぎその能力を失う可能性がある。そうなると、我が家のある場所も海抜3.9mゆえ
海水が押し寄せて来ることになる。
できるだけ高いところに、かつ川から遠い所に逃げろと指示されているが
尼崎市には標高8メートルを越える場所はどこにもない。
3.11で宮城県を襲った津波の最大高は40メートルを越えている。
我が家からまっすぐ北へ3キロ歩いて伊丹市へ入るとやっとこさ標高15mの台地へたどりつくが、そこへ至るまでの人家を洗い流すような津波であれば、行政機能もマヒするであろう。
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December 12, 2014, 5:25 am
老いたりライオン晩秋の橋の端で 1句送れというところがあったので、
上の句を送った。
もちろん原風景は難波橋のライオンだが、
目の前の北浜証券取引所の没落を象徴しているようであり
わが自画像でもある。
イルミネーションは14日から。ルミナリエ対抗版である。ルミナリエは15日まで。いくつかは試し点灯中。
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猫缶さん。これはどうだろう?名札はなかったが、これは多分アベリア・ホ―プ・レイズ
例の木はこれでは?
東洋陶磁器館の裏側川べりはヒノキが植えてあり、いい匂いがする。
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December 13, 2014, 6:04 am
寒かった。
手袋が欲しい感じ。
↑上部はグランフロント大阪の1号館(南館)とJR大阪駅をつなぐ回廊。
それを越えて梅田スカイビルへ。ドイツ屋台をやっている。
ワイフと娘はブリューワイン、6歳児と私はココア。あてはポップコーンひと袋。
あとはドイツソーセージ1本とパン一個
馬小屋もあれば、ライブもある。
クリスマスの馬小屋を詠った句は意外にもなかった。
当時宿泊施設は回廊形式で、中庭で火を焚いている。そこで暖をとったり煮たきをおこなう。
回廊に適当に敷物を引いて寝るというプライバシーなし状態。
中世ヨーロッパの一般市民もおなじようなものであったらしい。
出産というプライバシーを守るためにヨゼフは敢えて馬小屋を借りたらしい。
馬かどうかは定かではない。家畜小屋である。羊であったかもしれない。
ユダヤ教の社会だから豚小屋ではない。馬小屋ではクリスマスの例句が出てこない。
現代俳句協会のデータベースで季語「クリスマス」で検索したら
聖夜や降誕祭など関連季語の例句まで登場。
クリスマスの夜、聖夜劇と称して、「父帰る」を私の演出・主演でやったことがある。
高校生の頃である。当時はクリスマスミサは午前0時に始まったので、
多くの人は電車で初発まで時間をつぶす必要があった。
今は高齢化が進んでいるので、午後8時頃からクリスマスミサを始めるので、
終電で帰ることが出来るし、多くの人は車で教会へやってくる。以下の画像は、今日の阪急百貨店梅田本店
土曜日だからすごい人出である。
9階10階11階12階吹き抜け広場
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December 14, 2014, 6:52 am
6歳児お泊まりで、当然の如く朝のお散歩。
最終は例によってディッパー・ダンと決めて出発。
とてもじゃないが、アイスクリームを注文する気にはなれない寒さ。
当地では、近年まれな低温である。しかも3日続いている。
東北でも年内の降雪量としては記録的な様子。
毎年だれかが某党の支援要請にやってくる。今年もお一人、ワイフの友人というのがワイフの留守中にやってこられた。今回も楽勝でしょうと応接。
で、
まずは投票場へ。全然列ができていない。ガラガラ。幼児を連れていてもまったく邪魔にならない。
投票場から公園へいつもとは違う道を通っていると、マンション建設に伴う割譲地のような小さな小さな遊園地に出会う。
猫缶さん。最近気になっている↓のかたばみ名前教えてください。
やたらあちこちで目立つ。他のかたばみはともかくこの種類だけは寒いなか旺盛に育っている。葉に黒い点々がある。
柿の木に目白とそれより大きな尾の毛の白い鳥が一杯。かけすかなあ?
この公園をいつもは「たこ公園」と呼んでいる。
しかし色々他の動物も増えている。
正式には「松が本公園」。かつての字名であろう位に考えていた。
良く見ると確かに、他の公園と違って松の木が目立つ。
午後は、懇親会付句会参加。
↑噴水前が待合場所。寒い。
最寄駅前発11時10分発の市バスに乗り遅れ、次は28分発。これでは11時40分の集合時間に遅れると思っていると、他の停留場に止まっている阪急バスの後部の行き先表示が「阪神尼崎」になっているのを見つけて、そちらへ小走り。こちらは20分位の発車でゆうゆうセーフ。
懇親会場は「がんこ」
3時まで会場を借りているとかで、ここが句会場。3句出句無花果の実縮む遺跡発掘中
田と山と墓石を継いで大根干す
穭田へ雀の群れて投票日
この会の会長さんは小泉八重子さんだった。
5年勤めて順調に「成長した」ので、勇退され目下の会長さんは前田野生子さん
で、
最初は、泉源に八重山茶花の溢れ落つ
前の田を野生のままに枯芒
などと捻っていたが、八重子さん欠席と聞いて、とりやめ。
父の実家、玄関先からすぐの田はず~と休耕田。
春には苗代を作っている。
覆いを取ったばかりのところを目にしたことがあるが、緑の苗の密集は見ごたえがあった。
この家だけが苗代作りをしているとも聞いた。
用土は山から採集するとも。
その家の近く(田園地帯標準。10キロ位はある)の従兄の家で、園芸店で売っている用土のような袋を山積みしているのを見たことがある。苗代造り用土であった。苗代造るのに土を買うのかと驚いたことがあるが、今は昔で、今は、土曜日の朝、田植やると農協へ電話しておくと、
田圃の前に苗が届いているそうである。
母の実家も近くにある。7キロ位東側である。
そこは、コメ作りの農作業から撤退している。
農地レンタル用として毎年数俵の米を受け取っているようだが、
その量は年間消費量に届かないので、米を買っているとも。
そんなあれこれを思っている内に出句したような句ができた。
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December 15, 2014, 6:59 am
「圧勝」で検索 1句のみ。
激流へ激流へ圧勝の鮎香を発す 橋本夢道 良妻愚母
新しい俳句を作ろうと頑張っているが、しばしば例句検索で登場するこのひとの句には敵わない。
川の藻だけを食べるのは鮎だけかもしれないが、鯉も川べりに着いた藻を食べる。
比較的流れのある川岸を流れに身を任せて藻を掬い食べている鯉の姿をなんどもみたことがある。
能弁な池上彰さんいわく。圧勝の自民党の得票数÷全有権者数=17%だそうである。
しかし有権者の半数は投票に参加していないので、母数を52%まで割り引くと33%以上になる。
兵庫県第8区は、尼崎市が選挙区で、有権者は378,523、投票に出かけた人は173,617。投票率は45%である。
当選した人の獲得数は94,687。本来なら泡沫候補であるはずの2位(落選)の人は60,849。
大阪での花博の折、OSAKASAKASOというキャッチフレーズ感動した。
誰が思いついたのか。
ローマ字回文になっている。
「あまがすき」もまあ2塁打位
↑駅前ビル3番館は市が管轄権を持っているようだが、空きスペースが増えている。
6階ががら空きになったので、市の出張所がそこへ移転。
けっこう「流行っている」。
しかしそれでも空きスペースがあるので、広場があり、各種の展示会などをやっている。.
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December 16, 2014, 6:59 am
貧乏・孤独・病魔
私の場合は、そのいずれもが中途半端である。
貧乏とはいえないが、豊かでもない
孤独ともいえないが、賑やかなドンチャン騒ぎは嫌いだし
友人が多いともいえない
病魔に冒されて日常生活に多大な不便があるともいえないが
今年、国民健康保険に切り替わってからは保険証の出し入れに忙しい。
だからもって橋本夢道さんみたいな句に徹することもできなかった。
「橋本夢道」で検索したらダブりもあるだろうが、521句例句が収録されている。
何冊かの句集の全句が収録されているのであろうか。
最初の100句
雪道を来相知の鮨屋龍安寺道 橋本夢道 『無類の妻』以後
癌夢道九死一生の大元旦 橋本夢道 無類の妻
元日や「積善院夢道居士」生き戒名 橋本夢道 無類の妻
九十九の母の命へねぶか汁 橋本夢道
一生を棒に俳句や阿波おどり 橋本夢道
振子のように明け暮れ麦飯と芋汁菜汁 橋本夢道
世の中や金も欲しいが一度大声で笑いたい 橋本夢道
良妻にヤミ米騰るに農相『善処します』 橋本夢道
無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ 橋本夢道
精虫四万の妻の子宮へ浮游する夜をみつめていた 橋本夢道
無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ 橋本夢道
妻よおまえはなぜこんなにかわいんだろうね 橋本夢道
九十九の母の命へねぶか汁 橋本夢道
恋のなやみもちメーデーの赤旗を見まもる 橋本夢道
母の渦子の渦鳴門故郷の渦 橋本夢道
江東区は存して秋の雨波紋 太穂 (橋本夢道逝きて)
降り積む雪赤き思想を覆いきれず 橋本夢道
村は新緑戸籍に死にし兵帰る 橋本夢道
うぐいすの匂うがごときのどぼとけ 橋本夢道(1903-74)
無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ 橋本夢道(1903-74)
妻よおまえはなぜこんなにかわいんだろうね 橋本夢道(1903-74)
精虫四万の妻の子宮へ浮游する夜をみつめていた 橋本夢道(1903-74)
うごけば、寒い 橋本夢道(1903-74)
人間や働いて勝利の果てる命かな 橋本夢道 『無類の妻』以後
かぼちや太らせるため北海道は眠るかな 橋本夢道 『無類の妻』以後
雪の蝦夷を生涯の眼福に 橋本夢道 『無類の妻』以後
桃咲く藁家から七十年夢の秋 橋本夢道 『無類の妻』以後
漁師三代あきあじ(鮭)帰る石狩川 橋本夢道 『無類の妻』以後
青蝦夷の動脈光る石狩川 橋本夢道 『無類の妻』以後
これは見事なり大蝦夷の天の川 橋本夢道 『無類の妻』以後
玉葱の吊り乾しの下からも見ゆ石狩川 橋本夢道 『無類の妻』以後
とうもろこし横食いに石狩川光る 橋本夢道 『無類の妻』以後
石狩の大粒の夏の雨に遭う 橋本夢道 『無類の妻』以後
石狩は大愚のように流れるかな 橋本夢道 『無類の妻』以後
しるこあん蜜、妻よ石狩の小豆畑だよ 橋本夢道 『無類の妻』以後
これやこの大夢の如き黒牡丹 橋本夢道 『無類の妻』以後
炎天や「うごけば寒い」吾が墓石 橋本夢道 『無類の妻』以後
石狩の秋は大粒の大納言 橋本夢道 『無類の妻』以後
天の声喜雨葛の葉を流れけり 橋本夢道 『無類の妻』以後
炎天に吾が生き墓石自若たり 橋本夢道 『無類の妻』以後
青梅の青の非情や緘口妻 橋本夢道 『無類の妻』以後
稲妻の如く石狩川光るかな 橋本夢道 『無類の妻』以後
春鮑船乗り夫恋うかあさん海女 橋本夢道 『無類の妻』以後
初鰹五十年酒に背きし時あらず 橋本夢道 『無類の妻』以後
越前海女の長き一と呼吸落花の風 橋本夢道 『無類の妻』以後
浮き桶に吹けよ春風妊り海女 橋本夢道 『無類の妻』以後
七尋や十尋の底へ落花の呼吸 橋本夢道 『無類の妻』以後
花びらが花を離れてゆく海女の浮き桶 橋本夢道 『無類の妻』以後
大牡丹いまや崩れん悲運の刻 橋本夢道 『無類の妻』以後
枯芦や大沢の雪降る池にやすらぎぬ 橋本夢道 『無類の妻』以後
妻とエレベーターの急行に乗る春の宵 橋本夢道 『無類の妻』以後
降る雪や竹藪庵に香を聴く 橋本夢道 『無類の妻』以後
野の仏と語る嵯峨野の雪の声 橋本夢道 『無類の妻』以後
嵯峨野の佳景集めて藪の雪の音 橋本夢道 『無類の妻』以後
ここに這個あり十五の石に雪ふる 橋本夢道 『無類の妻』以後
大茜のこす最後の鴉かな 橋本夢道 『無類の妻』以後
先ず目には東寺の塔や細雪 橋本夢道 『無類の妻』以後
竹藪を曲り雪降る直指庵 橋本夢道 『無類の妻』以後
霏々翩々雪の香舗の香を買う 橋本夢道 『無類の妻』以後
「無類の妻」上木を手に涙妻 橋本夢道 『無類の妻』以後
新年といえども与す世にあらず 橋本夢道 『無類の妻』以後
寒くとも人の後に従うな 橋本夢道 『無類の妻』以後
残躯寒し鋤焼亭の花八ツ手 橋本夢道 『無類の妻』以後
改札の鋏におこる雪降る旅 橋本夢道 『無類の妻』以後
炎天や鍋釜持たぬ野猿の顔 橋本夢道 『無類の妻』以後
ひとひらの掌をふる 橋本夢道 『無類の妻』以後
炎熱や癌の吾を俯仰天地に妻祈る 橋本夢道 『無類の妻』以後
猫鮫の歯が欲し予後の初秋刀魚 橋本夢道 『無類の妻』以後
第二芸術や吾が句集成る菊日和 橋本夢道 『無類の妻』以後
戦死戦災死者忘却や敗戦忌 橋本夢道 『無類の妻』以後
猶癌の予後延命の大暑作 橋本夢道 『無類の妻』以後
「又こいよ」と目にゆく春の鳥辺山 橋本夢道 『無類の妻』以後
昇り蝶大群青の富士初夏 橋本夢道 『無類の妻』以後
根本中堂の香を指頭に妻の春 橋本夢道 『無類の妻』以後
比叡から五月の湖を掌握す 橋本夢道 『無類の妻』以後
老鴬や必須の石が十五かな 橋本夢道 『無類の妻』以後
万緑の声あげて「南無妙法蓮華経」かな 橋本夢道 『無類の妻』以後
翼立て苗代の泥を取る初燕 橋本夢道 『無類の妻』以後
散るわ散るわ桜、貨物列車が通過する 橋本夢道 『無類の妻』以後
みぞれ中君を待たしたよふぐ鍋へ 橋本夢道 『無類の妻』以後
春の弁当を妻も膝にし大裾野 橋本夢道 『無類の妻』以後
梅咲くや大藁家から馬を出す 橋本夢道 『無類の妻』以後
おのずから腹背二色初つばめ 橋本夢道 『無類の妻』以後
晩鐘を撞くや否や桜散る寸前 橋本夢道 『無類の妻』以後
人生や手辛万苦新巻をそこに吊り 橋本夢道 『無類の妻』以後
元日や山容無類不老富士 橋本夢道 無類の妻
炎天を来て無類の妻の目の涼しさ 橋本夢道 無類の妻
毛髪立つ術後の疼痛奈落の如 橋本夢道 無類の妻
息たしか起死回生の麻酔覚む 橋本夢道 無類の妻
党への票強まる病躯師走の投票へ 橋本夢道 無類の妻
降る雪や九死一生皆懺悔 橋本夢道 無類の妻
癌の予後枇杷よ咲き栄えせぬ花よ、な 橋本夢道 無類の妻
或ときは母の如く姉のごと大馬鹿ものよと無類の妻 橋本夢道 無類の妻
友に恵まれ五十年苦楽一如の青葉妻 橋本夢道 無類の妻
貧乏癌よ「掠めること火の如く」死も涼し 橋本夢道 無類の妻
吾が詩根癌めに食い荒らされて夏に入る 橋本夢道 無類の妻
絶望の吾れをたよりや百日紅 橋本夢道 無類の妻
釈然と痩躯の鶴も梅雨に入る 橋本夢道 無類の妻
天命のたまいし石を負う他ない 橋本夢道 無類の妻
一生吾に離れじと必死の妻の目は老いず 橋本夢道 無類の妻ウィキペディアの解説橋本 夢道(はしもと むどう、本名:橋本 淳一、1903年4月11日 - 1974年10月9日)は、徳島県板野郡藍住町出身の俳人。
生涯
徳島県の小作農に生まれ、高等小学校卒業後、15歳で上京し、肥料問屋に就職。仕事の傍ら、1923年自由律俳句誌「層雲」に参加。その後、東京都月島に移り住み、俳句を作るようになる。1930年代には、栗林一石路たちとともにプロレタリア俳句運動に参加する。その後、1941年には弾圧を受け、入獄。戦後、1946年の新俳句人連盟創立に参加し、俳句運動の中心的存在となった。
句集に『無礼なる妻』(1954年)、『良妻愚母』(1964年)などがあり、妻への愛や故郷を詠んだ句が多い。『橋本夢道全句集』(1977年、未來社)がある。
夢道はあんみつの発案者であるとも云われている。1981年、徳島県鳴門市に句碑が建てられた。
受賞
私も俳句で「社会」を詠うが、なにも新俳句人連盟の人に影響を受けたわけではない。
一般の歳時記にごろごろしているような句をなぞっていてはいけないという信条からで、
その点では伊丹三樹彦の影響を受けている。
しかし三樹彦は比較的短期に「社会派」には背を向けるようになった。最近町の中でも更地などでみかけるカヤツリグサ(と私が思っている草)
猫缶さん、これだってカヤツリグサですよねえ?
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December 17, 2014, 6:59 am
木々芽吹く生存証明投函し 工藤克巳
伴天連でなき証明の紙魚の書に 辻口八重子数日前に印鑑証明を取りに市役所の出張所へ出向いた。
今日それが必要であった。
2,3日前から探していたが見つからず、とうとうまた出張所へ出向いて再交付手続きをした。
ビルの6階の広い空きスペースを利用した展示場をまた写した。
駅前の再開発で3つのビルが建つ前後の写真展
吉田時計店、記憶にない。和菓子店「きねや」はいまもある。大繁盛には見えないが、この地の代表的和菓子店で、富松一寸豆もなかを、「小さいねえ」などといいながら年に何回か買っている。
町の人の顔なども、ずいぶん変わったと感じる。
映画館は、ビルの1号館に入った。
↑何処をどの角度から写したのかさえ分からない。
市内に残る共同浴場である。
わが俳句の師匠伊丹三樹彦夫婦は、家に風呂の施設があるにもかかわらず、
沸かすのが面倒と、毎夜二人で共同浴場へ出かけていた。
その行き帰りに鉢合わせすることが何度かあった。
風呂だけでなく一日3食もすべて外食で、俳句に打ちこまれていた)
ある人がどうして家の風呂を利用しないのかと尋ねると
(というのも近所の風呂屋が次々に廃業してゆき、冬の風呂行きが湯ざめするほど遠くになってゆくのを心配して)
家の蛇口はひねると赤水が出るという答えだったとか、
それをふれて回る人がいたらしく、私の耳にも届いた。
今は昔の話である。
このビルが建った後に、すぐ傍に新築されたマンションも
高層化され、再度そこへ居を移された師匠は健在である。
夫人の方が出歩くことが不自由になり、
今は家の風呂を使われていると思う。
車で家を出る時の外部温度5℃。帰りは午後7時になったが外部気温は2℃。
明日はさらに下がるとか。
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December 18, 2014, 3:44 am
神戸市須磨区にある須磨寺の境内に伊丹三樹彦の句碑が建っている。
春夏秋冬+無季句の5句が並んでいる。
(5句目の句、季語はないのは確かである。無季語句であるが、無季句といえるかどうか?
夏期の句会に登場すれば当然ながら夏の句と思ってしまう)
「甘酒のいま存命の一本箸」という句が、夏の句として揮毫されている。
この5句を揮毫中の現場に立ち会った。
甘酒の句は冬用に、4句目に配されていた。
しかし誰かが先生甘酒は夏の季語ですよと注進。
急遽入れ替え差し替え、揮毫やり直しが行われた。
当時我が結社では歳時記は禁書扱いであった。句会で歳時記を持参する者など皆無であった。
この「事件」があって、私も甘酒が夏の季語(梅雨寒の頃に飲む飲料)だということを知った。
今年でいえば、11月の第2週に倉敷の寺で甘酒の振舞いを得たが、夕紅葉が照っているとはいえ寒い時だったのでありがたく頂戴した。しかもちゃっかり、間を置いて2杯も。
寒い季節の甘酒はいい。
そういえばで、梅雨時の赤穂市内の寺で甘酒を呑んだ記憶がある。この記憶を甘酒が夏の季語であると知った時に思い出したことを思い出した。
『俳諧歳時記』(私の所有するものは改造社版昭和22年発行となっているが、例言(まえがき)等は昭和8年―「夏之部」は昭和8年6月ーとなっている)。
その間の経緯を調べているが未だによく分からない。
昭和8年の年号を誌したまま、終戦後まで印刷されなかったのかどうか。
高濱虚子はいやいや「春の部」を付き合ったのか(「春之部」は昭和8年11月の日付け)
牧野富太郎が全巻を通じて「植物」を担当しているが、これは実にしっかい的で、俳句で利用されるかどうかは配慮されていない。植物学的な紹介で、私にはけっこうありがたい。
こういった編集の裏話などどこかに記載されていないか折々にHPをワンダリングしている。
↑の2つの画像は、夏之部の158~9ページを写したもの。
甘酒は、「醴」(サケ偏に豊か)とも表記するよう。
「古書校註」では延喜式の造酒司式が引用されている。
ウィキペデイアの延喜式に関する記述は短い。
延喜式(えんぎしき)とは、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。
概要
三代格式のうちほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけであり、細かな事柄まで規定されているため、古代史研究のうえで重視されている。
成立
905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たった。『弘仁式』『貞観式』とその後の式を取捨編集し、927年(延長5年)に完成した[1]。その後改訂を重ね、967年(康保4年)より施行された。
構成
全50巻、約3300条からなる。律令官制に従い、以下のような構成となっている。
- 神祇官関係の式(この部分を神祇式という。また、巻9・10を特に「延喜式神名帳」という)
- 太政官八省関係の式
- その他の官司関係の式
- 雑式
内容
神祇官関係の式
巻8に祝詞を掲載。巻9・10は神名帳(神社の一覧表)となっていて、祈年祭で奉幣を受ける2861社の神社が記載されている。延喜式神名帳に記載があるのは当時朝廷から重要視された神社であり、一般に式内社と言って社格の一つとされたが、現在では消滅したり不明となっている神社も多い。
太政官八省関係の式
巻22の民部省上の中に、「凡諸国部内郡里等名 並用二字 必取嘉名」とあり、全国の地名が変更された。
巻23は民部省下である。
巻24の主計寮上には、全国への庸、調、中男作物の割り当て等が書かれており、当時の全国の農産物、漁獲物、特産物を伝える。
巻25は主計寮下である。
巻28は兵部省関連である。その中の諸国駅伝馬条には五畿七道の402ヶ所の宿駅の名称と備えるべき駅馬や伝馬の数が記載されている。
写本
『延喜式』原本は現存せず、室町・戦国期の古写本もほとんど散逸した。最古の写本には九条家伝来品の東京国立博物館所蔵本(平安時代、10・11世紀)や、大阪府河内長野市天野町の金剛寺所蔵の三巻(巻第十二残巻、巻十四、巻十六、平安時代、12世紀前半)がある。
皇學館大學が延喜式のテキスト検索システムを運営しているようだが、
どうも巻50に含まれていると思われる「造酒司式」は出てこない。巻1~7位しかまだデータベース化されていないよう。
ともかく、延喜式では、醴は、6月1日~7月30日の間しか造酒されなかったよう。
一夜酒ならば、8月1日に飲む甘酒がその年最後のものとなる?!これを紹介している『滑稽雑談』とは、俳諧歳時記。四時堂其諺(しじどうきげん)著。1713年(正徳3)8月成立。写本24巻。成立のゆえんは,自序に〈余若年より此道に執深く,わづかの書籍を管見するに,俳諧の便ならん事を而已おもへり〉と記した,季語注釈書である。四季の時令,行事,名物等を月の順に配列して2286項目を収録。説明は類書中最も詳密で,ひろく和漢の書を典拠とし,著者の見聞を加えて考証する。著者は京都円山正阿弥の住職で,宮川松堅(しようけん)門。
インク文字をクリックするすれば当該事項に関するHPへ飛ぶはず。159ページ掲載の、「参考」欄では
「甘酒はむかしよりありてもとは冬夜売り歩きたるもの」とある。
江戸日本橋横山町ゑびす屋を祖としている、という記述もあるので
冬の季語として扱ってもいいわけである。
ふらここ(ぶらんこ)が春の季語となるのと同じ理由で、夏の季語とされているが、
このあたりは江戸時代の特定の歳時記の記述を有職故実よろしく継承した誰かの権威が
居座っている弊害を感じる。
どうしてだろう。2日続けて伊丹三樹彦について思い出を書いたら、
十八日の夜九時前に、伊丹公子さんの訃報が届いた。
弱っておられたとは聞いていたがやはり訃報に接すると寂しい。
十五日逝去。十七日に家族葬が営まれたようだが、詳細は不明。哀悼!
長く夫婦で、神戸新聞の俳句欄の選者をなさったいたので、神戸新聞は報じていたかもしれない。
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December 19, 2014, 6:59 am
フェニックス渚銀座に年つまる 角川源義 『西行の日』
フェニックス必死の翼台風裡 森田峠 避暑散歩海抜マイナス1.1メートル地帯である。
この辺りの武庫川の川底は地面より高いかも。
↑それでも海水のように見える
西岸(西宮市)は突端が見える。
阪神高速道路湾岸線は川の上を越えているのか、それとも海上部を越えているのか。
どちらにしても橋桁には海水が押し寄せているのは確か。
東岸の遊歩道が無くなってしまったので、土手に登り、それを下ると
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December 20, 2014, 6:17 am
ウィキペディアの解説。「東粟倉村」
東粟倉村(ひがしあわくらそん)は岡山県北東部に位置し兵庫県と境を接していた村。現在は合併により美作市となり、旧村役場は美作市役所東粟倉総合支所となっている。
地理
中国山地に位置し山林と高原で占められている。村の東部、兵庫県宍粟郡千種町(現・宍粟市)との境界には県内最高峰の後山(1345m) がある。道仙寺が管理する女人禁制の修験道の霊山である。
歴史
沿革
教育
現在は両校とも美作市立
交通
私は、「ひがしあわくらむら」と発音していたが「ひがしあわくらそん」が正しい発音のよう。
町も同じで、まちと読むのか思っているとちょうと読むのが正しい場合がある。留守中に宅配便があったようで、電話するとすぐに再配達してくれた。
↑東粟倉村の説明: 宮本武蔵誕生の村に「隣接し」がいい!
送り主が美作市になっていたので、急いでデジカメ撮影。担当者は入札で品物を選ぶのだろうか?それとも旧6ヶ町村均等配分に重点を置くのであろうか?ふるさと納税の還元である。
地産米と愛の泉の水を使ったものというのがウリ。
愛の泉、なんどか利用したが、20リットル単位だから業者さんみたいなのが利用されている。
そのおこぼれで十分で、10リットル入りポリ缶だと2つ用意せねばならない。
僅かな距離だがそれを車まで運ぶのが難儀で、最近は余り近寄らない。かならず沸かして飲めという注意書も気になる。
ペリビドールへも熊が怖くて最近は行っていない。本日夕食は、寒いので、鴨なべ。そこへ早速、小餅を4つ利用させてもらった。
午前午後は、神戸市北区の施設のクリスマス・パーティに参加。冷たい雨。今にも雪に変りそう。外気温は5℃以上あったので雪にはならず午後からは雨も小ぶりに。
ポインセチア神父に午後の憩あり 藤岡晴丘
裾ひいて神父のまびく貝割菜 伊藤仙女
だれよりも神父が食ひぬ南瓜汁 綾部仁喜
黒衣より掌を出し神父枇杷をもぐ 津田清子
懺悔うけて神父いでゆく日除帽 津田清子
霜害を神父も嘆きくるるなり 武藤 万瓢
鶏合せ覗き去りたる神父かな 吉川 耕花
帆柱を伐れば神父が一人立つ 高柳重信
海峡やまなこ大きく老神父 下山光子
バスクより来たる神父や今日の秋 水野真由美
東風に髪なぶらせて神父との対話 原裕 『葦牙』
凶年や霧に傘さし神父来る 飴山實 『おりいぶ』
老神父カーネーシヨンを持ち散歩 星野立子
海棠や道化ごころは神父にも 鷹羽狩行
葬の渦とはぐれた神父死鼠の発光 赤尾兜子
かまくらの子らに神父の招かるる 沼澤石次
極月や神父と出遭ふエレベーター 実渕真津子
秋燕や神父薪割る痩拓地 宮坂静生
海棠や道化ごころは神父にも 鷹羽狩行
年忘れ神父祖国の歌うたひ 佐々木美津子
草の絮神父の裾をよろこべる 渡邊千枝子
露の栗神父の巨き掌より受く 鷹野 清子
理髪椅子神父をのせて敬老日 朝倉和江
昼顔や神父をおろす島渡舟 坪井かね子
未草神父午睡の刻過ぎて 下村ひろし
神父干す木沓に蜥蜴出てあそぶ 山野邊としを
泣きし子に神父の見せし蝸牛 藤野 力
リラの風握手撒きつつ新神父 矢野 聖峰
浦上や花の莚に神父さま 築城 京
新海苔を灸つてゐたる神父かな 橋本榮治 越在
手首より覗く冬襯衣わが神父 草間時彦
甘藷車押すは大江の神父かも 古場青芒
老神父カーネーシヨンを持ち散歩 星野立子
神父の汗どつと惜しげもなし場末 平畑静塔
わが仔猫神父の黒き裾にのる 平畑静塔
継目なき神父のカラー復活祭 加藤かけい
球根植う毛に蔽はれし神父の手 町垣鳴海
春一番島に神父のおくれ着く 中尾杏子
神父ヨゼフ追羽子よけてすぎたまふ 高橋潤
天金こぼす神父の聖書秋夜汽車 齋藤愼爾
愛を説く神父に大き火蛾の翳 上田日差子
神父老い信者われ老いクリスマス 景山筍吉
神父見えて隠れし館文化祭 藤田湘子
逍遥の神父を濡らす露葎 向井秀
島の子に神説く神父汗涼し 小原菁々子
聖書説き世俗に媚びず炉の神父 小原菁々子
聖夜ミサ祈る神父の息白し 小原菁々子
絵硝子にまどろむ蛾あり神父留守 大島民郎
夏痩の神父午後よりシヤツ姿 大島民郎
波乗に巡回神父けふ来る日 大島民郎
森たどる黒衣の神父ほととぎす 大島民郎
見てゐたる神父加はる毛虫焼 朝倉和江
竹馬へもどる子高し神父より 朝倉和江
降誕祭眼鏡光らせ老神父 伊藤敬子
うすらひへ言葉を与ふ老神父 村越化石
薔薇のアーチの窄き門神父館 上田五千石 田園
三等車神父めざめる谷の雪 沢木欣一 塩田
この国の夏鬱々と神父来る 鈴木六林男 王国
夾竹桃から 湧く風 信じ 神父昼寝 伊丹三樹彦 樹冠
復活祭神父の腰に鍵あまた 有馬朗人 天為
昼寝の後の不可思議の刻神父訪ふ 中村草田男
神父の竿に虹鱒躍り吾妻笑みぬ 中村草田男
ましろなる神父の髯やクリスマス 富安風生
ミラーボールは今年新調。
食事会の後、いくつか余興的な催しがあり、コーヒタイム
サンタも登場して・・。
・
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December 21, 2014, 5:49 am
↑昨年の12月に購入したポインセチアとシクラメン。
今年もそろそろ売り出し日であろうかと思い、植物園へでかけてみる。
がらんとしている。遠くからでも温室に花が並んでいないのが分かる。
2日前が売り出し日であったよう。
民業を圧迫してはいけないという配慮からだろうか。
全然告示・ポスター等に気付かなかった。
事務所を覗くと、売れ残りのものが並んでいた。
もちろん、いいものは残っていない。
黄色のポインセチアがやたら多数残っている。
黄色のものと赤いもの、2鉢だけ買った。自転車の前籠だと2鉢しか運搬不可能。
↑これは2012年12月に購入したもの。今日の温室風景
↑パピルスである。カヤツリグサと同類である。触ってみるとやはり茎は3角であった。
外
明日、パソコンの入れ替え。
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December 22, 2014, 6:13 am
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December 23, 2014, 6:59 am
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December 24, 2014, 6:53 am
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December 25, 2014, 5:15 am
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December 26, 2014, 3:14 am
大辞林 第三版の解説
しょうすいろ【捷水路】
蛇行する河川の屈曲部を直線的に連絡するために開削した人工水路。洪水防止や土地利用を目的として行われる。
上坂部川も昆陽川の捷水路で、昆陽川も猪名川の捷水路の役割を果たしているような解説を読んだように思う。
↑西富松捷水路が画面左側から、情報からは東富松川が、右手からは富松川が合流して
庄下川となる地点。
行政上は、東富松川を主流として庄下川として扱っている。
尼崎の最新の防災マップは、庄下川上流部分で、東富松川と表記すべきところを、富松川と
表記している。誤記だと思う。
↑これは富松川が阪急電車の鉄路の下をくぐって上方(北側)から南下している部分。
↑は阪急電車神戸線をくぐる直前の富松川。
右手奥に豪邸が見える。
3川合流地点のすぐ北側の東富松川をまたぐ橋上から。
餌を投げやすい地点故、いつもこの部分には鯉がいっぱい集まってくる。
川沿いに見事なトベラの大木がある。
狭い道路いっぱいにはみ出している。
テニス用の帽子くらいしか持っていなかった。
しかしサーブするのに邪魔でその帽子もあまりかぶらなかった。
↑同じ帽子を写したものである。昨年ルミナリエを見るために神戸三ノ宮駅を下車して高架下の商店街を歩いていた時に、寒いので衝動的買った。
それ以降ワイフにいろいろな夏帽子を買い与えられた。
一つには、狭い庭で作業をしていると木の枝に頭をぶつけることがある。
毛虫被害に遭うことがある。その防止用に帽子の必要性を感じていたからである。
夏休み期間中に迎えた孫と炎天下毎日のように散歩にでかけるためでもある。
今や私は帽子マニア的なほどに帽子を持っている。(ちょっと大袈裟!)
↓最近私自身で買ったもの
↑この帽子はクリスマスプレゼントとして息子からもらった。
商札がでてきたので、記録的に記すと、すべてが中国製というのは間違い。中国へ進出した企業が、少しずつ他の国へ「引っ越し」を検討している。いろいろの理由があるが、ひとつは賃金コストが高くなっていることである。
ウールフェルトハットとフルジップジャケットは中国製だが、ウォームイージーパンツ(リップストップ)なるものはインドネシア製であった。
例句も多いはず。
帽子は俳句では無季語である。春帽子、夏帽子、冬帽子などとして利用される。秋帽子はあまり聞かないが、使ってはならないというものではない。
成功すれば貴重な例句として諸所で紹介されるであろう。
爺と婆と江戸見に行くや綿帽子 綿帽子 正岡子規
黄落や帽子なき日の帽子掛 櫨木優子
硝子器の濡れて麦藁帽子かな 山西雅子
凭りかかる一樹を探す冬帽子 三田きえ子
冬帽子めんどりを背に感じをり 永島靖子
さきをゆく亡父にはあらぬ冬帽子 金久美智子
木の葉髪帽子の中にしまひけり 上野 章子
夏帽子のみが新し子は旅へ 石田あき子
大正やわが天鵞絨の冬帽子 文挾夫佐恵
春帽子飛ばし頭をわしづかみ 小原紫光 『めくら縞』
籠り居に別れんと買ふ夏帽子 後藤房枝 『蕗童子』
九十九里に一点われの夏帽子 角田敬恵 『花しづめ』
聞法へ老母の雪の茣蓙帽子 中川博秋 『加賀野』
狩人帽子の人に夜ごとの雪女 佐々木とく子 『土恋』
冬鴎黒き帽子の上に鳴く 西東三鬼
大阪に慣れて淋しき冬帽子 西村和子
くらがりに歳月を負ふ冬帽子 石原八束
産土の苗字に還る冬帽子 山田みづえ
冬帽子低く来るなり上野駅 石田勝彦
居酒屋のさて何処に置く冬帽子 林翔
大正やわが天鵞絨の冬帽子 文挟夫佐恵
一塵もゆるさず黒の冬帽子 前田普羅
癆咳の頬美しや冬帽子 芥川龍之介
よこはまに近づく紺の冬帽子 長谷川双魚
別れ路や嘘実かたみに冬帽子 石塚友二
冬服と帽子と黒し喪にはあらぬ 谷野予志
旅のわが青き帽子に玉霰 秋元不死男
茉莉花に帽子の鍔の触るるまで 西村和子
飾窓に帽子の咲く木巴里祭 宮脇白夜
汐浴の帽子大きく休み居る 篠原温亭
手にとれば月の雫や夏帽子 泉鏡花
年々の夏帽子購ひ老いにけり 上野さち子
天袋からふんはりと春帽子 肥田埜恵子
担任の先生の夏帽子かな 山本一歩
きのこ雲胎内で見て夏帽子 室生幸太郎
空の窪みは父の帽子よ麦の秋 林 桂
馬券場へ行くと知れけり冬帽子 堤 高嶺
春愁の帽子愛しと言はれけり 津川絵理子
助手席にロードマップと夏帽子 大久保白村
失ひしものを探しに冬帽子 有馬朗人
冬鴎黒き帽子の上に鳴く 西東三鬼
晩年のなかりし父の冬帽子 関口謙太
定刻に鳩の餌を撒く冬帽子 三宅境川
冬帽子墓地突つ切つて逢ひに行く 新海あぐり
冬帽子へこませ畳むナポレオン 酒井隆博
古本のアンダーライン冬帽子 比嘉芳香
稽古後の怒髪宥めて冬帽子 山鹿喜朔
船主の沖を眺める冬帽子 金山敦観
植木鉢古刹に集ふ雪帽子 平松昌子
湯畑の湯煙何処へ冬帽子 板倉由美子
すれ違いざまに横目の冬帽子 船曳青峰
冬帽子ふるさとに来て旅人なり 間瀬奈津子
探鳥の人それぞれの冬帽子 太田芳男
冬帽子アンネの如き少女かな 大石そよ
福耳のはみだしてゐる冬帽子 阿久津勝利
遠くより夫とわかりし冬帽子 橋本喜子
宇宙より大きな頭脳冬帽子 山田北夫
冬帽子その日その日のかぶり分け 塩澤倫子
ミサ果つや世俗へ戻る冬帽子 里村江遊
つかぬ事うかがいますと冬帽子 渡辺和子
冬帽子かむり先祖の顔となる 中沢秀子
別れゆく目が物を言ふ冬帽子 阿部加代
頑に杖を拒みて冬帽子 福山英子
ベルリンの壁を識りをる冬帽子 中村青径
少年は戦争知らず冬帽子 加地美栄子
そこまでのおつかひの子の冬帽子 羽賀 明
置けばすぐ夜の色となる冬帽子 濱田のぶ子
冬帽子あと先われも旅仕度 橋本一峰
髪切って耳ほめられる冬帽子 入倉智恵
人違いらしき会釈の冬帽子 谷原おさむ
冬帽子風の相手をして来よか 菅谷ユキエ
熊・猫の耳ふれ合へる冬帽子 田中元子
癆咳の頬美しや冬帽子 芥川龍之介
在りし日の帽子が燃える枯野かな 谷口慎也
両の手を耳の帽子に枯野行く 四条ひろし
哀しき色ぞ酒席の彼の冬帽子 鈴木鷹夫 渚通り
黒杉を讃へて去りぬ冬帽子 鈴木鷹夫 渚通り
遺されしこの漆黒の冬帽子 鈴木鷹夫 大津絵
どういうわけか、フォント設定が一括でできない。
今年の春先、毎日のように紹介した冬桜。
また咲き始めた。
4本の冬桜をいろいろの角度から写してみたが、画素数制限を課していなかったので、
数枚だけ縮小して紹介。
細枝が込み合っているので、他の種類の桜と見分けやすい。
今日のブログは、1.17分に書き終えた。公開は午後8時過ぎに設定。
その時間帯例年通り私は、京都の蛤御門前のホテルに宿泊予定。宿泊付き同窓会へ参加である。
アルコールを断じているので、舞妓さんには会えないかも。
そこでまた1枚追加
スマホの裏ぶたに貼り付けている。
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December 27, 2014, 5:57 am
とら屋の(羊羹ではなく)最中が食べたいというので、
地下鉄の駅を降りてまずは、とら屋の一条店へ
ホテルチェックイン後すぐに蛤御門へ
冬至を経て夕刻5時なんとか撮影可
⇒蛤御門をくぐったところから見た、我が宿泊ホテル。
似たようなホテルが3軒、50メートルか100メートルの距離を隔てて。
すべて旧貴族邸跡である。宿泊のホテルは江戸時代は水戸藩邸であった。
薩摩藩邸址は同志社大学になっている↓
道を隔てて南西側からズームで。
同志社大学に並んで冷泉家がいまも存在。
ホテルの南側は護王神社
もっとでかい像は、和気神社にある。藤の花の時期に数回訪れたことがある。
でかい像はこのブログでも紹介したことがある。
今朝の蛤御門
文字はかなり薄くなっているが、新しいカメラの解像能力は悪くないようだ。
門をはいってすぐの大きな十字路の真中に椋の木、1本。
ということは今ある道は、明治以後に整備されたもので、
この路上にも住宅(屋敷 第)があったのであろう。
内裏のすぐ南、椋の樹の対角線上には琵琶第(藤原道長邸)があった。
今は桃林や梅林になっている。
立命館もこの辺りに発祥している。
27日朝食
7時オープンだから一番乗りと思ったが3番くらいだった。
ただし同宿の仲間内では1番。
↑昼食は毎年この店の敦盛蕎麦
敦盛で検索 やはり敦盛蕎麦では例句はなさそう。
敦盛塚成人の日の娘が訪へる 大星たかし
供華匂ふ敦盛塚の淑気かな 小路智壽子
敦盛塚葉ざくら雫もて祓ふ 山田みづえ
恋雀敦盛塚にこぼれけり 池上果山
敦盛草開けば谷戸の風動く 坂本登美子
敦盛草熊谷草に後れたり 山田みづえ
敦盛草筧の竹の古り寂びて 小松崎爽青
敦盛草の母衣も夕焼く雲の頭も 野沢節子
母衣濡れて敦盛草は草のなか 青柳志解樹
潮まねき敦盛馬を引返す 堀切武雄
敦盛の兜はかなき葎かな 野中亮介
雨脚や敦盛草に強うして 佐々木六戈 百韻反故 冬の皺
敦盛塚より雑兵の蟻の列 前山松花
敦盛塚浪音聞かず花散らず 岡部六弥太
故園訪ふごとし敦盛草も咲く 木村蕪城
飯蛸や敦盛さまは討たれたる 龍岡晋
敦盛の果てし渚に水着われ 品川鈴子
敦盛草しなのはどこも日蔭冷え 上田五千石 風景
帰宅すると6歳児と台湾から戻ったばかりの12歳児がスカイプ中。
ピグのIDとパスワードがわからず、それを知っている12歳児へ問い合わせをしている最中であった。ピグワールドで出会ってなにかやっていた。
それ終わって、寅屋の最中を食ってから散歩。
↓なにがなにでもこの画像をブログに取り込めと強請されて
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December 28, 2014, 6:59 am
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