Quantcast
Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
Viewing all 2577 articles
Browse latest View live

箕面

$
0
0
箕面には年に10回以上出かける。
たいていは車で行くのだが、桜やつつじ、そして売りものの紅葉の季節などには
会合が始まる2時間ほど前に阪急電車の駅に着いて、滝口までを往復する。
その度に、一度も足を踏み入れたことのない脇道を少しあるいてみる。

10月は珍しく2度目の箕面訪問。

車だったので、車を止めてから施設内の庭園をあるいてみた。



箕面だけあって、カエデの木が何本も植樹されているが、まだ青々としている。
今年も12月初旬が紅葉シーズンであろう。

色づいているのは桜である。

↑カランコエ属であろうか。弁慶草は姿かたちが多様。調べれば、分かるかもしれないが、
多肉は猫缶さんの専門領域。教えて。


20倍ズームだと、大阪梅田のビル街も見とおせる。
右端がツインビルである。(その横は阪急百貨店であろうか?)
ここのエレベーター内部で東芝(ツインビルの一つは積水、一つは東芝が利用していたように思う)に勤務していた同級生に声を掛けられてことがある。
部屋にも案内してもらった。
広大なワンフロアーであった。
窓を背に7つ位の机と椅子がかなり距離をおいて配置されている。(しかし大会社の部長さんの席にしては質素)
これが部長席で、どの机の上もきれいさっぱり。
ただひとつ小さなパソコンが置かれているのみ。
東芝はすでにこの時点(20年以上前)でペーパレスであったのかどうか。
ペーパレスという言葉さえなかった時のように思う。

十分な距離を置いて、部長席と並行にならんでいるのが、課長用で
そのまた横に課長さんの席と90度の角度で2列に一般社員用の机が並んでいた。

窓に向かって上から眺めれば部長さんの席を頂点とする2等辺三角形が7つ並んで、
一部屋を構成している。

この7つの部を統括する部門長(多分取締役)の部屋は別にあったのかどうか?


鶏鳴

$
0
0

今日は鹿の画像を紹介する予定であった。
正倉院展の入場券の有効期限が11月1日迄なので、今日奈良へ行くつもりであった。
秋風邪をひいて閉じこもり。
明日は幼稚園のバザーへ出かけるつもりであったが、目下これもとりやめ。

日曜日の句会で配ったちんすこう。↓

近所の建設現場

駅前の火事跡丸3年を経過する。
地権者たちの意見がまとまらないようである。

PCの容量が少なくなっているので、画像等は3日もするとDデッキへ移している。
名月姫関係のものは10日前に撮影したものである。

鮎落ちて村に一女が誕生す

私の句を紹介してくれているブログに出会った。
母の里では、村には牛・馬どころか鶏の1羽もいないということであった。
父の里でも、Mrs Kのキロロガーデン以外に鶏飼っている家はなくなったのかも。

牛糞の匂いや鶏鳴は日本の村の代名詞だったのに。

こんな句も。

母に繋がる細管あまた 青嵐  ショウちゃん 

細管とは、なんだろう。細管=血管、更に言えば遺伝子細胞と考えたい。子は親と肉体上の背が低いだの、目が細いなどの他、情緒的な内面までも、遺伝子で繋がっている。胎児して母体の中で臍の緒で繋がり、生まれ出て、真っ先に親として認識する、母親にそれを強く感じる。青嵐という季語を据えたことで、母への想いの強さと青春性の高い、清々しい句になっている。三好達治の詩の一節に「時はたそがれ/母や 私の乳母車を押せ/泣きぬれる夕日にむかって/りんりんと私の乳母車を押せ/(中略)母よ 私は知ってゐる この道は遠く遠くはてしない道」(乳母車より)達治もまた、母と強く繋がっていた。

評の方が作品より価値がありそう。

「風邪籠り」の中で、「ショウちゃん 俳句」と打ち込んでいて見つけたもの。

ガイスン夫人

$
0
0

 ようやくに冬越しの準備。ベゴニアを2鉢、2階のべランダまで運んだ。

管理不行届で、数を大幅に減らしてしまった。
残っているものも徒長気味。
なんとか越年させて10鉢位には増やしたい。
浮き沈みもあるがこれほどになるほど、今年は園芸に力が入らなかった。

-------------
私は、電車通学で大学を卒業したので、日本では下宿生活の経験がない。
その代わりかどうか、ドイツで4ヶ月、イギリスで3ヶ月の下宿生活経験がある。
下宿経験はドイツの方が先で、世話になったのはウルリッヒ婦人というより、当時すでに80歳のおばあちゃんだった。
ガイスン夫人はイギリスでの下宿生活のおりのlandladyである。
1週あたりの下宿代がいくらかは忘れたが、支払いは本人へ渡すのではなく、
斡旋者へまとめて支払った。

 平日は朝夕、土日(イギリスは週休2日制度導入の折に祝日をクリスマス以外全廃したようだ。代わって年数回月曜日が
banking holiday となり、世間一般も3連休となる日があった)は朝昼夕3食あてがいぶちであった。

 ガイスン家は典型的なヴィクトリア末期(19世紀末)のレンガ作りの家であった。
もう用がなくなった筈の煙突が何本も屋根から付きだしている。
グーグルのストリート・ビューで今でも同じ家が健在であるのを確認できる。

 家の一部は屋外へでないと入れない部屋になっている。
かつては家事奉公人が住んでいたのであろう。
キッチンのドアから外へ出ると、すぐ別の入り口があって、
ワンルームの部屋がある。
裏庭へ回って別の入り口から入ると、屋根裏部屋へ通じる入り口があった。
私が世話になった時には、「本館」の2階の一部屋はオランダ人のレントゲン技師研修生が下宿していた。
屋根裏部屋は下宿人というより借家人といった感じで背の高い中年の独身者が生活していた。何かの職人のようであった。
キッチンの外の部屋は空き部屋であったが、私の滞在中にトルコ人の若い夫婦が住み込んだ。

ガイスン夫人は市内にある私立女子高のロシア語の教師であった。
Landladyが勤務者であったため、かなり変則的な下宿人生活であった。(語学学校で他の「学友」と話すと
イギリス人は下宿人をキッチンへは入れないそうである)
朝飯はキッチン(とはいえかなり広い。昭和30年頃までの美作の農家の土間、土間の真中に3つ位のかまどがあった。
そこまでは広くないが50㎡以上はあった(別にドア付きの食料保存庫もあった。美作の家の味噌醤油蔵を思い出す)。私が結婚してから申し込み当選した2DKの公団アパートは全部で46平米であった。)
の入り口に近い所に配置されている6人ぐらいはゆうに座れるテーブルで、
トースト(薄黒いパン。ドイツでは真黒いパン塊であるが、それほど黒くはない。薄切りのパンで、日本ほど表面積は大きくない。
日本で食パン1枚で朝食を済ます人なら2枚半で量的に同じ位になる。)を自分でつくる。
バターも、世話になった4月、5月、6月なら食卓上に置いたまま。エダムチーズかチェダーチーズの塊。エダムチーズのこの種の大きさのものは
未だに日本では見たことがないが、ドイツではもっと大きなものをみたことがある。
それの半玉のものが置いてある。ジャムはブルーベリーのものが普通であった。
目玉焼きを自分でつくることも可能であった。
まあ適当に塩梅して食べる。
飲み物は紅茶である。これも勝手に沸かして飲む。ヤカンの内部の底に電熱線がとぐりを巻いていて、石灰で真っ白になっている。
手を入れてこすると石灰がぼろぼろとはげ落ちて来る。

ガイスン夫人は離婚経験者であったが、元の亭主が何かあると元秘書であった若い婦人を連れてやってくる。
どうしてか良く分からなかった。
ガイスン夫人が何人かの間借人や下宿人を受け入れなければならないのは、
私立高校の教師の給与だけでは広大な家屋敷を維持できなかったからであろう。

時々借金を月末に申し込まれたこともある。
いくらいくら貸してくれではなくて、センスベリーのようなスーパーなどでどっさり買いこんで、
そこで車のガソリンなども給油していると持ちがねで無くなってしまい、
ショウちゃんではない、イギリスではジョン(洗礼名がヨハネだったので)ちゃん10ポンド貸してといった具合である。
往年の1ポンドは1000円以上に値したが、変動為替相場制に移行してからは見る影もなく、当時は250円位であったか、
貸し倒れになってもこまる金額ではなかったが、貸し倒れはなかった。

私は週末はできるだけ家を空けることにして、1泊、月曜日も休日の場合は2泊の旅行に出かけた。
週末の食事負担を軽減してガイスン夫人の家計に貢献するためである。
そのかわり日帰りのサイクリングなどを計画した場合はサンドイッチの弁当や飲み物(紅茶)を用意してくれた。
時には周辺の町へのドライブにも誘ってもらった。
残念ながら中世の面影を強く残す連れて行ってもらった町は、聞き覚えのない町ばかりで名前を全然覚えていない。

友人がゴダルミンという町にある由緒ある全寮制パブリックスクールで寮母のような仕事をしていたので、
そこへ連れて行ってやろうということになり、全寮制パブリックスクールの貴ひん室へ泊めてもらったことがある。
夜に中学1年生位の小さな子が寮母の部屋へやってきて誰かがお腹が痛いといっているなどと告げに来るのである。
やおら寮母の出番である。ちょうど(運よく?)そういう場面に遭遇した。

中学一年から高校3年くらいまで生徒の部屋も案内してもらった。
豪華な部屋もある。部屋の前にプレートが掲げられ、この部屋は○○公爵が何年から何年まで在住などと記されている。
こんな部屋は特別料金がかかるのであろう。
中学一年生は4人の相部屋。それが2年では2人に、3年になると一人部屋になる。
上級生で学年を代表する級長さんの部屋は、会議が出来るほど広い。
翻訳小説では監督生といった訳語がついている特別の用語がある。しかも時に、パブリックスクール毎に名称が異なる場合がある。


ガイスン夫人は独り住まいであったが、息子と娘がいた。娘さんはまだオックスフォード大学に在学中か、卒業して他の町で職についていたか?
息子は私が下宿生活を始めた時は入院中でだった。最初の入院ではなかったと思う。
坂道(イギリスの街中にも少しは坂道がある)を自転車で下っている時にチェーンが外れて
横転し、そこへ後続のトラックが乗り上げタイヤで大たい骨周辺や内臓を傷つけた。

再手術やリハビリのために何度も入退院を繰り返していた。
私がピーターと口をきくようになった頃は日本では言えば1級身体障害者で、松葉つえなくしては
歩けず、片方の靴には調整用のしきりが入っていたよう。
かれが我が家に来た時に、靴を脱いでもらうのが気の毒であった。
後で学友などがやってきて聞くに、大学時代はスポーツマンであったらしい。

二人の子供をオックスフォード大学で過ごさすのは、高校教師の給与では大変であったよう。
学費や寮費が国庫負担であっても、その他の諸経費が結構かかる。
元の父親は事業に成功したようなので、そこから援助が出ていたかも知れないが、
あるいはそういうことも日常会話の中で傍でなされていたかもし知れないが
聞き取れないので(なかった)分からない。

ガイスン夫人についてはまだ10回位続編を書かねばならない。
ピーターは毎年クリスマスカードを呉れる。
イギリス外務省に職を得て、最初は日本担当、やがてロシア担当、そのご中国担当などに就いていたようだが
卒業時に正規の公務員試験を受験した者ではないようである。別枠、特別枠(多分障害者向け)で入省したのであろう。


ピーターは私のクロケーの先生である。夜10時過ぎまで家の庭で遊んでいた。1982年のことである。
6月に下宿生活は終ったが、それ以降も週末にはガイスン邸でよくクローケーをやった。
1983年に帰国すると日本では同じようなゲームが大はやりであった。ゲートボールなど1982年3月まで日本ではやっているのを
みたこともなかったが、1983年では誰もが知っているゲームになっていた。
日本の新聞を読んで、ロンヤスも分からなかった。
たった1年の空白で、理解できない新聞記事が増えていた。











駅前広場

$
0
0

次々に歌手の来訪予定あるも

今日の2階広場は閑散としている。
KOUJINさんの繪が少しはげかかっているが、

ご本人の本拠地は俄然派手になっている。

広場の隅にコンクリートコンテナが、数えると15個。年間を通じて今年は植え替え等の管理いっさいなし。

↑↓これはアオイゴケと教わった。一度聞くと忘れない。まさにアオイの葉だから。
しかしこれが苔とは気付かなかった。

他所で余り見ないと思っていたが、街路樹の下草として見つけた。


このコンテナだけに一株、コボレt種によるものらしいベゴニア。
野性のマツバボタンと花蔓草。あとは何か?トキンソウに見えるし、詰め草かも。


触ってみたが痛くないからトキンソウではなさそう。

地上広場の紅葉


阪急電車の線路に沿って3層の自転車置き場が設置されている。
これは有人有料駐輪場。4時間以上駐輪する場合は、こちらの方が安上がり。
この駐輪場のあるところに商店が4,5軒存在した。その一軒が古本屋であった。
そこの主人に俳句入門した。主の名は伊丹三樹彦。店の名は伊丹文庫であった。
シャッターには、俳句雑誌「青玄」発行所と大書されていた。


今日のブルグマンシア

.


不揃ひの噴水原爆忌の広場 河野南畦 『広場

青蔦広場の糸取唄は労働歌 鈴木栄子

噴水の広場を通り絵を運ぶ 久保 武

広場銀杏黄葉に旅の人 戸田 利枝

広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み 赤尾兜子

採血車とまり秋暑の駅広場 河野南畦

炎天広場群衆はみな遠くあり(北京二句) 河野南畦 『元禄の夢』

コンコルド広場の釣瓶落しかな 石原八束 『風信帖』

映画散じ一樹秋めく月の広場 野沢節子

造り滝市民広場へひびき落つ 山根きぬえ

十億の民の広場の雲の峰 高橋真佐子

広場に裂けた木 塩のまわりに塩軋み 赤尾兜子

葉牡丹に午後の人出の駅広場 若倉文子

泉居前広場の雨後の蟇 橋本榮治 逆旅

メーデーがはらみ来るものを広場に待つ 榎本冬一郎

本丸の跡の広場の出初かな 加藤覚範

元旦の広場の雀かくれもなし 榎本冬一郎

コンコルド広場の広さ椿落つ 皆吉司

枯芝の道は十字にある広場 対馬康子 吾亦紅

広場より出ず鳥獣の寒の飢え 対馬康子 吾亦紅

冬光は広場円形たるために 対馬康子 純情

屋根根のなき遺跡より出で春広場 対馬康子 愛国

雨あしの広場にしぶきユッカ咲く 飯田蛇笏

大時計止まりし広場冴返る 山村達也

一葉落つ絵描き広場の石畳 小原菁々子

コンコルド広場の釣瓶落しかな 石原八束(1919-98)

楡若く露けき広場ありにけり 久米正雄 返り花

桜木の駅の広場にたむろして世の白猫をなす風太郎 山崎方代 方代

燕帰る駅の広場の土砂降りに 中拓夫

肩冷ゆるまで愛の広場に酢を流す 攝津幸彦

独楽を打つモスク広場の大理石 山田弘子

食卓は話題の広場さくらんぼ 山田弘子

執拗なヘリコプター死者の広場があり 林田紀音夫

白雨中胸に広場をもち歩む 村越化石

向き~に羽子ついてゐる広場かな

広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み 赤尾兜子

月が出て月がまんまる恋猫広場 横山白虹

コンコルド広場の釣瓶落しかな 石原八束



歳時記

$
0
0

こんな本が手元にある。2007年第3刷と奥付にある。
私は買った記憶がない。
「ダイソーミニ辞典シリーズ」の第29巻である。
タイトルの「年中行事と歳時記」というのが気になった。

今や歳時記といえば俳句用語である。

神社へ行けば、かならず年中行事を記した掲示板が掛かっている。
あれこそが歳時記の原典であると思う。
年間行事を誌して、それにともなう準備を適当な時期に開始する道標とするのである。

伊勢神宮や皇居などは相当分厚い歳時記を所有しているはずである。皇居では天皇の出番を減らし、行事を簡素化するのに苦労しているらしい。

日本では倭と呼ばれた時代には、ヒミコさんが生れる以前から、いかなる方法によってか中国に新しい皇帝が着座したという知らせがあれば、生口を何人か連れて挨拶に伺っていた。
「歳時」に伺候していたのである。

だから「年中行事と歳時記」というタイトルは同じ内容を2度誌していることになる。

俳句を作る手引としての歳時記は、それゆえに「俳諧歳時記」と名乗る必要があったのである。

そのうちに俳句制作用の歳時記が有名となり、単に「歳時記」といえば俳句作家用のものを指すようになった。

で、この本のように、俳句歳時記から特に年中行事だけを取り出して、「年中行事と歳時記」といったタイトルも許容されるのであろう。

ミニ辞典である。しかもダイソーが発行するものである。
定価は100円のはずである。
11月の項を見ると、最初の1ページで20ほどの行事一覧を載せ、以下8ページを割いて
各々の行事を3~6行で説明している。

11月は旧暦では冬である。だから1月の項の末尾に、冬の季題が一覧で示されている。

↑画像の形式で4ページ使って冬の季語を平仮名表記を加えて紹介している。

最初に「編者」の「はじめに」が置かれているが、誰が編者であるかは紹介されていない。



スカイビル

$
0
0

その名も「しょんべん横町」

全焼ではなかったので、部分的に改築・開店している店もある。まだ日が高いが結構賑わっている。もちろん往時ほどではないが。阪急電車「十三(じゅうそう)」駅西口(神戸線用改札口)
を出て線路沿いに北側へ細い道が延びていた。ほとんどが立ち飲み屋であるが、スナック的な店も多かった。


右手の1角がまだ整地も出来ていない。


まだ再開できない店の案内。

↑この辺りに、「小便小僧」の像をたてて募金運動を展開していた。私も、なにがしかを投げ入れた。一人でどこかの店に入ったことはないが、安酒が飲めるならどこでもいいという先輩がいて、なんどか途中下車してつきあったことがある。

ともかく昼だろうが夜だろうが、その店もよく混んでいた。
スーツ着た人もけっこういた。


駅の反対側、東口(京都線側)へ回って見る。
そこから

梅田スカイビル(ツインビル)が見える方向へ歩く、淀川は目の前である。

梅田スカイビルのHPから。

「新梅田シティの中核のひとつ梅田スカイビルは地上40階建て173mの連結超高層ビル。世界初の連結超高層ビルはその卓越したフォルムだけでなく、大阪を代表する人気スポット空中庭園をシンボルに映画館やレストラン、イベントホールなどの多彩な機能が大きな魅力。遊ぶ、食べる、憩う、見る、聞く、知る、さまざまな楽しみが凝縮された梅田スカイビルではきっと豊かな時間がすごせます。」

淀川左岸から見たスカイビル
阪急電車の鉄橋である。

土手を降りて、鉄橋をくぐると、こんな感じ。
すぐそこに見えるが、十三と梅田駅との間にある「中津」駅前から歩いても、梅田駅から歩いても、10分位かかる。

一番左端が茶屋町アプローズで、その右手が阪急百貨店の新ビルで、グランフロント大阪の第3、第2ビルで、その向こうが大阪ステーションビルだと思う。


河原では咲き誇っている花はない。人影も少ない。

午後1時から中之島で句会があったのだが、いくつか所用をこなしている内に間に合わなくなった。
そうなる可能性があったので、不在出句。「空」が兼題。

4句

空忘れ増えて健啖文化の日

藤袴平成人に成りきれず

入場門の手早い解体夕紅葉

百歳翁の葬の賑わい山はしゃぐ

十三辺りで2時を回ってしまったので、途中下車して淀川の岸辺散歩にきりかえ。



遺跡

$
0
0


薯蕷を掘るや遺跡を掘るごとく 椎名康之

唐黍の花の咲きゐる遺跡かな 茂上 かの女

雨季の遺跡に太平洋が浮かぶ 藍原弘和

バックルに手を当てる癖遺跡にて 伊藤淳子

縄文遺跡春大根に囲まれぬ 中村明子

古草や遺跡といふも石ひとつ 飯島正人

水田は古代の遺跡田螺這ふ 高橋悦男

一列に遺跡掘る人息白し 今井真寿美

吉野ケ里遺跡の*はたはた目の清し 堀田美智子

パラソルの下で遺跡を掘つており 内藤住子

王宮の遺跡をあるく日傘かな 中矢伸子

大旱の水なき河も釈迦遺跡 永岡うろお

縄文の遺跡の空を雁渡る 山下佳子

揚羽蝶使者のごとくに遺跡ゆく 鈴木 照子

猫柳遺跡の土手に目覚めをり 浦田 宏

遺跡掘る春田一枚境とし 長谷英夫

かぎろへる弥生の遺跡掘られをり 太田 研二

春の雪遺跡ふたたび眠らせて 鈴木文子

かたばみが咲いてボンペイ遺跡かな 加藤世津

城下町茶房も遺跡花ミモザ 嶋田摩耶子

遺跡とて穴のいくつか初燕 上田日差子

簾ひく遺跡に貧富ありしこと 対馬康子 吾亦紅

遺跡より宿なし猫が春に出て 対馬康子 吾亦紅

水没の遺跡は鳥の帰路往路 対馬康子 吾亦紅

遺跡守冬のにおいで目覚めたり 対馬康子 愛国

屋根根のなき遺跡より出で春広場 対馬康子 愛国

遺跡とは無言の歴史油照 田中まさし

町中にローマの遺跡蔦青む 関森勝夫

ぎしぎしや先土器遺跡一平ら 川村紫陽

野火を前に棒数本の遺跡かな 原田喬

稲架の中離れ離れに遺跡あり 深見けん二

古代遺跡の虹のむかうを人歩く 今瀬剛一


中世と言えども、16世紀半ば戦国期末期の遺構だが、年末までかけて発掘するよう。
塚口城跡とあったが、城と言っても城館のようなもので、3重5重の天守閣を持つものではない。
西側からだと覗き見もままならなかったが、東側に回ると金網の隙間から少しは様子がうかがえる。


↑東の端は、北向きに溝がある。遺構の一部といえないこともない。寺内町の東端には2重の濠が巡らされていたらしいが、多分これはその一部の名残だと思う。しかしこの部分へは立ち入れない。

南側の囲いにも張られている「安全第1」の布の継ぎ目を指で押せばカメラのレンズが入る位の隙間ができる。

20人弱の人が作業をしている。一人だけ何もしないで作業を見守っている人がいる。
市の学芸員であろうか。
小さな遺跡発掘だが、3ヶ月もやるとなると
人件費も1000万以上かかると「推計」。

笊を篩っている人もいたので、陶器・磁器の破片なども出てきたのかも。

寺内町の東門跡と聞いていたが、付随する建物跡、あるいは住居跡もでてきたのかも。

施設建設予定者は貴重な物が出てこないことを願っているだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

センダングサという名前は知ったばかりだが、秋の野を代表する草のように思える。
これで1句と思えど、まだ作っていない。「舌状花持たぬ栴檀草」などと言ったて、
全然通じないと思うし・・・。

昨日見たセンダングサ。


これもまた「ひっつき虫」である。

淀川の土手の一画はセンダグサ王国である。


今日見たセンダングサ↓

こちらはまだあおあおとしている。
どちらもコセンダングサで、単葉も舌状花も持たない。

ひっつき虫といえば、オナモミ

みんな去りオナモミだけがついてくる


広報板

$
0
0

時にはすでに過ぎ去った行事案内が2枚ほどしか貼られていない広報板も、このところ、にぎやかである。


家から最寄駅までの通勤経路にはこの種の広報板がなかった。
もっとも近い場所にある広報板は、家から駅前への方角、東へではなく、
西へ1,2分歩いた場所、もっとも近い公園への途上にある。
そこは富松川が大きく湾曲して南下する地点故、さらに川の流れを調整する工事によって
生れた僅かばかりの空地があって季節ごとの野草が観察できる地点故、
しばしば立ち止まって川の流れを観察する場所でもある。


ここで立ち止まって広報板を読んでいる人の姿など見たことがない。

この界隈がまだそれほど住宅密集地になる以前に、広報板の設置場所は決められたのだろう。

旧町の塚口御坊あたりを歩くと、広報板の数が多いのに気付く。


その近くで真新しい植木鉢を並べている家に気付いた。
花を見るなり、「アンデスの乙女」ではないかと思って近づくと、
まちがいなく「アンデスの乙女」であった。

カッシア属ゆえ、カッシアと呼ばれるようである。

「アンデスの乙女」と呼ばれる品種は日本に自生するコバノセンナに近いので、暖かい地域では露地で越冬します。 

という解説も見つけた。

コバノセンナという名前は初めて見たように思う。

日南海岸のコバノセンナの画像。無断借用。


アンデスの例句は少ないが、このブログで紹介したことがある。
カッシアやコバノセンナではもちろん例句はない。

乙女の例句。多かった。
最近は乙女などという言葉は余り耳にしない。


乙女の掌乙女くさくて花すみれ 永井龍男

若狭乙女美し美しと鳴く冬の鳥 金子兜太

おん祭春日乙女が神馬曳き 本多炬生

柚子湯して髪ゆたかなる山乙女 有泉七種

汽車へ乗る頬しもやけの佐久乙女 岡田日郎

ふるさとの那須の乙女の頬かむり 深見けん二

風花や市に箸売る能登乙女 山田春生

殉教の乙女峠の萩こぼる 森 操

十和田湖や乙女の像に照る紅葉 磯野充伯

医王寺や乙女椿に実のたわわ 磯野充伯

踏み濯ぐ湯原乙女に石叩 吉田丁冬

馬肥えて対馬乙女を乗せにけり 林美代子

大竿灯乙女の笛にあやつられ 田中敦子

樅の道素足乙女に銀河澄む 千代田葛彦

郭公や靴に鞭挿し騎馬乙女 岡田貞峰

乙女こらへぬ欠伸致しけり 高本時子

馬攻むる嬬恋乙女青嵐 富田うしほ

花蘇枋乙女盛りを巫女溜り 堀 古蝶

照鷽や吉備の乙女ら弓しぼる 神蔵 器

耶馬乙女少し粧ひ麦を蒔く 穴井 研石

洗ひ髪孫のうなじの早や乙女 小野 武子

乙女らの白きもの縫ふ冬休 赤尾兜子

鉄の乙女が操る鮃は最低だ 夏石番矢

冬の鵙時に石打つ乙女の鍬 飯田龍太

若狭乙女美し美しと鳴く冬の鳥 金子兜太

茘枝熟れ乙女も熟れて島を発つ 前西一尾

汽笛愉し梨棚乙女一瞬過ぎ 草間時彦

八朔やわが真乙女の湯浴ごゑ 藤田湘子

ビーチパラソル乙女の対話かがやける 羽田岳水

ハーリーヘ赤き領布振る蜑乙女 澤木欣一

ガーベラや乙女等均しく胴しめて 中村明子

忍冬乙女ら森を恋ひ来り 堀口星眠

海棠に乙女の朝の素顔立つ 赤尾兜子

鱒青み旅の乙女の髪短か 原 裕

花かたかご八十乙女らの声のして 神蔵 器

春着乙女が礼して過ぎぬ誰なりし 草間時彦

餅花や吾子が連れ来し乙女の香 細川加賀 『生身魂』

彩ちらし乙女さびたる雛まつり 原裕 『王城句帖』

喫茶去の乙女の背丈涼しかり 原裕 『王城句帖』

乙女らはかすみの光り吊橋揺り 長谷川双魚 『風形』

山車かつぐ乙女のありて里神楽 中村きみ子

冬の鵙時に石打つ乙女の鍬 飯田龍太

鬼灯も乙女も雨をいとひけり 石田波郷

乙女らに刈られて薄荷匂ふなり 三嶋隆英

夕月夜乙女の歯の波寄する 沢木欣一

紅蜀葵肱まだとがり乙女達 中村草田男

ユッカ高し背高き乙女より高し 赤城さかえ

夏風邪や乙女の瞳をして演歌聞く 安斉君子

忍冬乙女ら森を恋ひ来り 堀口星眠

乙女来てうつ聖午鐘豆咲けり 古賀まり子

春光や金の鳩抱く乙女像 満田玲子

祈る乙女墓原雀交み落つ 石田波郷

仰向き歩みつ髪結ふ乙女復活祭 中村草田男

雪解光逢はぬ乙女を愛しゐる 野沢節子

乙女みな絣似合ひて春祭 古賀まり子

爪研いで成人の日の乙女はも 石塚友二

有るものを摘み来よ乙女若菜の日 高浜虚子

初釜にスカート緑濃き乙女 百合山羽公

乙女駈けて初電車得しを祝福す 石田波郷

爪研いで成人の日の乙女はも 石塚友二

八尾乙女のあぎと美し石蕗あかり 島津城子

乙女らの笑い通れり柚子の花 有角正巳

言はるゝがまゝにならびて鍋乙女 森田 峠

白木蓮乙女には充つ不安と自負 赤城さかえ

海棠に乙女の朝の素顔立つ 赤尾兜子

乙女の琴よりはじむ花鎮 宮岡計次

乙女らの小町顔なる春まつり 村松 堅

花粉症の乙女のリボンゆらぎづめ 奈良比佐子

万葉の乙女となりて若菜摘む 吉田 信子

わが針子春著乙女となりて出づ 小澤満佐子

枯芝に膝抱く乙女ジードの忌 和田 祥子

掃きてすぐまた散るさざんくわ乙女いろ 及川 貞

明治節乙女の体操胸隆く 石田波郷

霧の栃五箇山乙女脚早に 小澤満佐子

乙女の香とすれちがふ青芒 千代田葛彦

水木咲く乙女聖尼を誓ふ日は 秋月すが子

緑蔭や読譜乙女の指躍り 岡田貞峰

桑の実やその葉がくりに瑞乙女 石塚 友二

石南花や淡く優しき山乙女 岩波千代美

乙女等のギターつまびく花氷 伊丹さち子

ホップ摘む細目乙女や朝焼に 原 柯城

着替へして乙女にかへる稽古海女 伊東 白楊

乙女らの草髪寄りて針祀る 百合山羽公

寒椿朝の乙女等かたまりて 沢木欣一

雲引くかに乙女と真綿引きし日はや 中村草田男

玻璃磨き乙女が冬の湖澄ます 設楽紫雲

髪洗ふ沼の乙女や菱の花 片岡奈王

巴旦杏熟れしをささげ峡乙女 野口雅秀

百日紅乙女の一身またゝく間に 中村草田男

御田植うる白扇胸に乙女さび 岸風三楼

湖沿ひにちり~雨の鍋乙女 山本八重子

言はるゝがまゝにならびて鍋乙女 森田峠

泳ぐべく来て泳がずや乙女客 石塚友二

歌声も朝の草刈乙女かな 石塚友二

いまや水着水を辞せざる乙女跳ぶ 中村草田男

日祷の乙女に近く田水沸く 下村ひろし

きやべつ抱く乙女夏暁の地に湧けり 三宅一鳴

荻若葉乙女よびつつ母に似ぬ 多賀九江路

桑の花信濃乙女のつつましく 平沢桂二

祈る乙女墓原雀交み落つ 石田波郷


川巡り

$
0
0

近所に皇帝ダリアを植えている人がいるが、花はまだ咲いていない。
造園業を営んでおられると見える家の煙の木に感動したことがあるが
その木の前の皇帝ダリアは空高く咲いていた。


オーシャンブルーと呼ばれる種のできない朝顔はまだ咲いているが
この朝顔は何という種類なのであろうか。
咲き誇っていた。

↑実に写りが悪い。

2反弱の田圃の跡地に作られた畝で豆が芽吹いている。(冨松)1寸豆であろうか?

東富松川と呼ばれる小さな川を、合流する庄下川とは反対の方向、北側へ向かって遡って歩いてみた。
だいたい一度はこのブログで異なる季節に紹介した場所に、次々に遭遇する。


2つの堰に出会う。灌漑用に水を堰止め、田圃や畑に流していたのであろう。
今や錆ついて放置状態である。

かなりの量の水が東富松川へ高低差をもって流れ落ちてゆく。

↑かつてその水の配分を受けていた地は造成され他の用途に用いられている。

「堰」の例句は意外に多い。

一の二の越えて水温む 森高たかし

暗がりにの音ある恵方かな 広瀬直人

流し雛落つるとき立ちにけり 鈴木花蓑

小さき波立てゝをり春の川 高木晴子

落つる音に真菰の花の揺れ 有働 清一郎

萍のふくれ上りてを落つ 瀬戸 十字

落鮎や流るる雲にはなく 鷹羽狩行

一つ国を隣りぬ夏大根 小林輝子

かの柳逆さ靡きや洗 森田 峠

枸杞を摘む人来てのかがやける 宮下翠舟

若鵙にこころのを切られけり 野澤節子 『存身』

落花また小の遺構目覚めしと(甘楽の城下町二句) 河野南畦 『広場』

水薄くすべりてや赤とんぼ 石川桂郎

花うばらふたたびにめぐり合ふ 芝不器男

漕ぎ乱す大の水や花見船 高浜虚子

枸杞を摘む人来てのかがやける 宮下翠舟

春の水越す時はひかり合ふ 皿井節子

を越す水のとらへし初明り 木下夕爾

宙に足上げて越ゆ茄子の馬 鈴木木鳥

待宵や越す水のなめらかに 田中俊尾

の水豊かに溢れ鶯菜 杉田英子

枸杞を摘む人来てのかがやける 宮下翠舟

毛馬に岐るる流れ鳥雲に 邑上キヨノ

待宵や越す水のなめらかに 田中俊尾

近く萍まはりはじめけり 松本美簾

いぬふぐり落つる水力あり 秋元草日居

奔り出て落花を誘ふの水 小林碧郎

ひらく渦なり鮒も乗込めり 水原秋櫻子

つくるより崩るゝや泥鰌掘 田上一焦子

稲無限不意に涙のを切る 渡辺白泉

布袋草ひつくりかへり越ゆる 草野駝王

松蝉や水磨かれてを落つ 幸治燕居

上げし水澄みゆくや竜蝨(げんごろう) 松原地蔵尊

若芦にうたかたを逆ながれ 杉田久女

急雨鮒乗込むと見えにけり 水原秋桜子

春水のおもむろにあふれけり 長倉閑山

の水たゝへて待てり出初式 清水よしみ

春山を出でくる川にいくつ 林火

稲無限不意に涙のを切る 渡辺白泉

を越す水に暮春のひびきあり 大隈チサ子

春山を出でくる川にいくつ 大野林火

の水音高き雨月かな 福井圭児

寒禽を呼ぶが如くにのあり 鈴木洋々子

瀬をあらびに遊べる螢かな 原石鼎

やひろ~落つる春の水 野村泊月

傘さしての上ゆく春の雨 野村泊月

かゝりゐる大の舟の置火燵 皿井旭川

の水豊かに落つる合歓の花 皿井旭川

嵐山うつる大の濡れ燕 皿井旭川

初筑波のうぐひのはねにけり 小川軽舟

椿落つ心のの在りどころ 木内怜子

若蘆にうたかたを逆ながれ 杉田久女

松蝉や水磨かれてを落つ 幸治燕居

を越す水のとらへし初明り 木下夕爾 定本木下夕爾句集

一本の大柳散る哉 滝川愚仏

花うばらふたたびにめぐり合ふ 芝不器男

水に浮草ひがな巻きこまれ 南典二

野の朝日いづるやにやまべ釣 水原秋桜子

の音遠からずして畦火かな 水原秋桜子

とめて筏ひたせり枸杞の雨 原石鼎

高らかにの戸開けぬ朧月 前田普羅

辛夷咲く水神の辺に喧嘩 太田土男

切つて水は五月の田をめざす 影島智子

落ちし水の白炎ほたる噴く 関森勝夫

夕焼のに激ちてより天竜川 荒井正隆

ひと雨や唄に切る風の盆 佐野美智

三伏のづくろひの真葛刈る 木村蕪城

籾漬けし音きこえつつ寝まる 亀井糸游

花うばらふたたびにめぐり合ふ 芝不器男(1903-30)

春をいて手越の長の雛まつり 中勘助

人のまへさびさびひゞき冬の 原コウ子

群雀落つわが胸白いのごと 金子皆子

露けしやもろもろ映すの水 伊藤敬子

水勢のへ寄りたき水遊 山田弘子

花芹にうすぎぬのごとの水 山田弘子

なるほど! この日も芹の青さが目立った。


風邪の神にかゝれり冬の川 内田百間

を越す水のとらへし初明り 木下夕爾


落鮎や流るる雲にはなく 鷹羽狩行 第九

といふ水の切口初紅葉 上田五千石 琥珀

かの柳逆さ靡きや洗 森田峠 三角屋根

雪しろの流木をさかしまに 野沢節子 八朶集

若鵙にこころのを切られけり 野沢節子 存身

書魔いて書庫の鉄扉が生む朧 竹下しづの女句文集 昭和十一年

花うばらふたゝびにめぐり合ふ 芝不器男

氷苦く鼠(えんそ)が咽をうるほせり 松尾芭蕉



区画整理の過程で生れた公園。

川の両岸には新しい家が立ち並ぶ。

堰から東富松川へ流れ落ちる水。
下の流れが東富松川であるが、これも庄下川の川上部分とみなされている。よって1級河川なのである。

川沿いでは1句

鵞鳥の列は川沿いがちに冬の旅 寺山修司(1935-83)

2つの堰を越すと東富松川の水量は極端に減少。ちょろちょろの流れとなる。川幅はかなり広いのに、水の流れは無きに等しい。理由は、後で判明。
重要な水の流れが堰止められているからである。

鯉が泳げる水は、西側から流れ込む水によって確保されている。
しかも川幅いっぱいには水量確保ができなので、川の中央部分を掘り下げて、その部分に水が集中するように改修されている。


2つの堰を越えると、したがって鯉の姿を見ることはできない。
造園業主の庭。キュウイが沢山実のっていた。


みかんも。

↑そこからは川沿いの道は極端に細くなる。通常は人は通らないよう。
この道も初めてではない。ただこの川が東富松川の本流であると知ってからは初めてである。

ここから先は歩けそうにない。
家の庭の一部になっているところがある。↓
河川改修工事はこのあたりではまだ続行中である。

↑迂回して、工事現場を反対の方向から眺めている。

撮影現場が、富松川と東富松川の交差点である。
右手から流れて来る川、すぐ西が伊丹市であり、伊丹市では富松川とは異なる名前を付けているが、この川が尼崎市に入ると富松川という名を持つ。明らかに東富松川より西側からやって来る。この地点で、東富松川を直角に横切り、東富松川より東側を流れてゆく。

今やっている改修工事のためには東富松川はあまり水量が多くない方がいい。
富松川の水の多くは、東富松川で交差する以前に、堰止められ疎水へ廻される。灌漑用水として利用されていたのであろう。


↑左側の川よりかなり高い部分を疎水が流れてゆく。これは二つの川の交差点より下流の風景。交差点の手前で疎水として流れ出した水がこの部分では、東富松川と並行して流れている。
↓アカシアの黄葉

↑小学校があって、運動場の端に植えられているアカシアの黄葉が水面に降り注いでいる。

↑交差点の部分。北側の東富松川から流れて来る水も、直角に横切る富松川の方へ誘導している。


交差点より北側の東富松川。ここも川の横を歩く事はできない。この辺りは初めて歩く道である。
川の交差点の北側の道は、阪急電車塚口駅へ伊丹市の住民を運ぶ、(伊丹)市営バスの幹線ルートの一つである。
公立学校共済組合経営の病院がある。その周辺は、三井グランドと称して、広大な運動施設があったが、バブル崩壊後大部分が高級マンション街となった。一部部分が河津桜を植えた公園になっている。マンション街のお住まいの方々の憩いの場となっている。

 この辺りは伊丹市と尼崎市が複雑に入り組んでいる。尼崎市立の中学校があるが、その部分などは、門を出れば三方に伊丹市の住居表示が見える。

 ここまで家から一目散に歩いても一五分では到達できない。だらだら歩いて川の方向を確認しながら、かなりの遠回りをして、適当にシャッターを押しつつ歩けば一時間の距離。

さらに遠回りをして、川の交差点より北部の東富松川の流れの傍に寄って見る。他所者が通りにくい道があって、そこがまだ尼崎市であることがわかる。

「庄下川用資材」という文字が見える。いまでは行政上は、この部分も庄下川として扱われているよう。

伊丹市の境界を越えてみて、そこは実は私がよく知っている場所であるであることを発見。
この水路が東富松川だったのかと改めて確認。
俳句関係で付き合っていた人たちが何人か住んでいた地域である。


雨模様になってきたので、できるだけ直線ルートで帰路に。並み足なら二〇分ほどの距離である。
次の機会には、この地点からさらに北の部分(完全に伊丹市領内)の川の様子を紹介したい。

・・・
今朝の「美作の風」にUPされていた
美作の空。
「きろろガーデン」は最近では観光バスが止まるポイントになっているようだが、
そのガーデンはこの和風庭園の背後にある。



なんか剪定直後のような感じ。

エキナセアが囃す入賞道の駅

↑この画像も「美作の風」から。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今朝の、駅前の大西さんち。
ますますド派手に。

$
0
0
山眠る=冬 127句


山眠る眠るは己れかも知れず しかい良通

名山の百に凭れて山眠る 中原道夫

いくたびも虹を吐いては山眠る 高野ムツオ 蟲の王

勾玉の転がるたびに山眠る 高野ムツオ 雲雀の血

山眠る星の投網を打つごとく 神蔵 器

山眠る切支丹墓千と抱き 山本杜城

老い母の背なのまろさの山眠る 伊藤白潮

牧水の歌の一つの山眠る 児玉 菊比呂

睡迹の神列なりて山眠る 大西淳二

土いまだ木の葉のかたち山眠る 正木ゆう子

墨壺の糸ぴんぴんと山眠る 長谷川双魚 『ひとつとや』

山眠るいたるところに忍び釘 仁平勝 東京物語

火事注意の看板かかげ山眠る 金元喜代子

撞くごとに違ふ鐘の音山眠る 鍵和田[のり]子

山眠る交通止めの札立てて 宮田俊子

山眠る駅に一人の改札員 八巻絹子

硝子戸にはんけちかわき山眠る 久保田万太郎

奥へ奥へ夕日を送り山眠る 大野林火

炭竃に塗り込めし火や山眠る 松本たかし

山眠る田の中の道犬走り 山口青邨

ロボットの犬を里子に山眠る 小平 湖

火の窯を懐にして山眠る 小木曽かね子

狛犬に乳房が六つ山眠る 仙 とよえ

山眠るガラス工房懐に 北原富美子

山眠る神話の星が語りだし 宇咲冬男

眠れざる山山眠るなどといふな 川代くにを

山眠るでかんしょ節で囃しても 梅原富子

わたくしの前おほらかに山眠る 野末たく二

山帰来の実のつやつやと山眠る 近本セツ子

滅びたる狼の色山眠る 矢島渚男

山眠るさまを身近に眠りけり 杉山岳陽

スケートの渦ふところに山眠る 前田 鶴子

銃声を呑みて熊野の山眠る 坂口 麗峰

なほ青き牧を抱きて山眠る 澤田緑生

本陣の跡形もなく山眠る 坪井のぶ子

密猟の漢を隠し山眠る 星野秀則

山眠る噴火名残の蒸気上げ 上柿照代

背負ひたる子の温もりや山眠る 松山 敏子

山眠るときどき甘き匂ひして 仙田洋子 雲は王冠以後

山眠る光の音を聴きながら 仙田洋子 雲は王冠

山眠る信玄側に寝返つて 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨

十二経奇経八脈山眠る 佐々木六戈 百韻反故 初學

五六戸の狩宿かゝへ山眠る 鈴間斗史

山眠る夕日の溜り場をふやし 村越化石

山眠る大和の国に来て泊る 山口青邨

炭竃に塗込めし火や山眠る 松本たかし

山眠る一と焔にて檜燃え 神尾久美子

大いなる足音きいて山眠る 前田普羅

ひとりいる時はよく見え山眠る 鈴木六林男

鳰潜きあとの無音に山眠る 野見山ひふみ

銃身にけものの匂ひ山眠る 森田かずや

山眠る柩にならうとする木々も 中原道夫

筬音のひとつが残り山眠る 神尾久美子

山眠る神話の星が語りだし 宇咲冬男

みどり児にふしぎなにほひ山眠る 二階堂文子

土いまだ木の葉のかたち山眠る 正木ゆう子

山眠る真白き山もその奥も 岡田きよ

縄跳びのこゑのむかうで山眠る 鈴木蚊都夫

滅びたる狼の色山眠る 矢島渚男

山眠るさまを身近に眠りけり 杉山岳陽

御配流と伝ふ帝の山眠る 猿渡青雨

山眠る噴火の怖ささらしつつ 安原葉

炭竃に塗り込めし火や山眠る 松本たかし

干菜風呂に祖母のこゑして山眠る 伊東美也子

いくたびも虹を吐いては山眠る 高野ムツオ

山眠るまばゆき鳥を放ちては 山田みづえ

山眠るなめくぢ一つ大きくて 岸本尚毅 舜

山眠る信玄側に寝返りて 佐々木六戈

チェロの音にベースを重ね山眠る 吉原文音

山眠る間に璞玉掘り出せり 柴田奈美

山眠るその懐に碧き沼 柴田奈美

山眠る信濃や鯉の飴煮食ひ 石嶌岳

筬音のひとつがのこり山眠る 神尾久美子

木も草もいつか従ひ山眠る 桂信子

山眠る恋の終りを見届けて 黛まどか

山眠るまばゆき鳥を放ちては 山田みづえ

妻の骨ひそと納めて山眠る 本井英

山眠る田の中の道犬走り 山口青邨

いくたびも虹を吐いては山眠る 高野ムツオ

炭竃に塗込めし火や山眠る 松本たかし

山眠る罠がどこかにありさうな 藤本始子

夜よりも昼深々と山眠る 古住蛇骨

また次の千年京の山眠る 田山康子

凍らざる湖の謎山眠る 大和あい子

窯中に紅蓮の炎山眠る 上田佳久子

山眠るはざまの駅に下り立ちし 柴田宵曲

どつしりと座せと訓へて山眠る 太田土男

枝打ちの梯子残して山眠る 冨田みのる

茅堂に一尊おさめ山眠る 荒井正隆

長老の葬列長し山眠る 杉本寛

朝鮮も満州もなく山眠る 遠藤梧逸

塩炒つてぬくめる腹や山眠る 龍岡晋

手習のまつくろ草紙山眠る 龍岡晋

炭竃に塗込めし火や山眠る 松本たかし(1906-56)

日あたりの海ほか~と山眠る 尾崎紅葉

水涸れし磧のはてに山眠る 田中冬二 麦ほこり

山眠る岡山兵庫国境 吉屋信子

山眠るまばゆき鳥を放ちては 山田みづえ

木も草もいつか従ひ山眠る 桂信子

柳生道浮びおちいり山眠る 井沢正江

山眠る机の疵の一つならず 鈴木真砂女

落石の余韻を長く山眠る 片山由美子

土いまだ木の葉のかたち山眠る 正木ゆう子

荘守の声からからと山眠る 古賀まり子

山眠る浮世絵いろの夕焼に 朝倉和江

母ここに育ちし窓や山眠る 深見けん二

山眠るとはよく水に映ること 今瀬剛一

窓口に嵌めこまれたる山眠る 瀧井孝作

笠を編む麓の村や山眠る 内田百間

山眠る行く人なしの道入れて 上田五千石 琥珀

ひとりいる時はよく見え山眠る 鈴木六林男 後座

青空や道に巻かれて山眠る 鈴木六林男 王国

山眠るまばゆき鳥を放ちては 山田みづえ 木語

弘法の井のあたゝかさ山眠る 森田峠 逆瀬川

切り売りの大糯菓子に山眠る 有馬朗人 耳順

長城や烽火連ねし山眠る 有馬朗人 天為

柳生道浮びおちいり山眠る 井沢正江 一身

よく焼けしうなぎの肝や山眠る 久保田万太郎 流寓抄

硝子戸にはんけちかわき山眠る 久保田万太郎 流寓抄

炭竈に塗込めし火や山眠る 松本たかし

落葉みな万骨となり山眠る 楠本憲吉

山眠るごとくに臥すか牛として 赤尾兜子

山眠る石仏無韻の鈴を振り 福田蓼汀

大いなる足音きいて山眠る 前田普羅

母ここに育ちし窓や山眠る 深見けん二

缶コーヒー膝にはさんで山眠る 津田このみ

炭竃に塗込めし火や山眠る 松本たかし

江戸時代の例句がない。「俳諧歳時記」を見るに(索引のページ数表示に校正ミスあり)、やはり
芭蕉、蕪村、一茶などの例句表示なし。時代考証などもない。明治期以後の「新季語」か?
「俳句歳時記」の挙げている例句はなべて「ホトトギス」掲載の句であり、
しかも「山眠る」という語の定着以前の様子を呈している。


妹山に誘われ眠る背山かな 十二星
大原路や比叡より眠る嶺つづき 北人
眠る山閂下す詩仙堂     青蛾
鷲ケ嶽眠り九頭龍涸れにけり 小照


例句一五句の中では
市中は烈しき風や山眠る   草城
山眠る大和の國に来て泊る 青邨


だけが「山眠る」を終止形で使っている。この辺りが「山眠る」の季語化・実作の発祥かも。
ごく限られた資料からの推察だから、仮説の域をでないが。



山粧(ふ う )=秋 は少ない。

山粧う八瀬童子が謀りごと 仁平勝 東京物語

秘めごとを持ちてより山粧へる 満田春日

山粧ふけものの道もくれなゐに 檜 紀代

楢くぬぎ枝染め分けて山粧ふ 荒 久子

滝になる水湛へたり山粧ふ 菅 裸馬

芭蕉像置去りにして山粧ふ 斎藤 都

山粧ふいつよりの火の記憶かな 石田阿畏子

水靄の奥に色あり山粧ふ 手島靖一

雲仙を隔て眉山粧へり 高浜年尾

十三陵眠らしめ山粧へる 西村和子 窓

老眼始めて明かに山粧へり 尾崎紅葉




山笑う=春   も少ない (「山笑」で検索したら0だった)

俳諧歳時記の「山笑ふ」の項では、「古書校註」で、『滑稽雑談』では「郭熙晝譜」に云くとして。
「春山淡治にして笑ふが如く、夏山蒼翠にして滴るごとく、秋山明浄にして粧ふが如く、冬山惨淡として眠るが如し」 が引用されている。
この文は『臥遊録』の中の文章として、『年浪草』『琹草」等では引用されている。


山笑う消しゴムでその山を消す 清水冬視

山笑うたしかに長き馬の顔 仁平勝 東京物語

噴煙の仁王立ちして山笑う 仲丸くら

手入良き仏足石や山笑う 脇本良太郎

一族の真ん中に母山笑う 伊関葉子

山笑う隠れてもまた隠れても 二村典子

山笑う生活保護を受けている 清水哲男(1938-)


よって、山笑う、山滴る、山粧う、山眠るの季語は、出所が同じということになる。

俳諧歳時記では、山滴るは、「山滴り」の形で登載されている。しかも主季語は「滴り」であって、その傍題として「山滴り」が登場するので、
夏山の形容としてではない。

この季語(山滴る)は句会でも、俳句雑誌でもお目にかかったことはない。

よって夏山の様を形容する季語としての「夏滴る」は未だ成立しているとは見なせない。

私は、かつて

花粉症が一面記事に山恥じる

ごく最近

百歳翁の葬の賑わい山はしゃぐ

という句を作った。

この「山はしゃぐ」は新季語のつもりである。



ところで「俳諧歳時記」の索引をみていると、「山」が夏の季語となっていた。
そのページを開くと(開く前から予想できたが)、祇園会の傍題すなわち鉾と山の山を指している。
しかしそれと切り離して「山」は夏の季語という扱いは、無理がある。

街の粧い

/

山笑ふ

$
0
0

昨日のブログで、「山笑う」の例句が少ないと書いた。
読み直していて、「山笑ふ」で検索していないから少ないのではないかと思いだした。
「山笑ふ」で検索。

「山眠る」並みの例句がでてきた。


山笑ふうしろの山も笑ふなり 石川静雪

鑿痕の粗々しきを山笑ふ 中原道夫

杣の子に縁談のあり山笑ふ 長田穂峰

山笑ふ聴けばきこゆる雨の音 千代田葛彦

なだなにもなき田の上の山笑ふ 林 千恵子

機関士のまゝに定年山笑ふ 野崎 夢放

羽音みな空へ還りし山笑ふ 堀米秋良

山笑ふ画室に白湯をいただきて 黒田杏子

山笑ふたしかに次の日も白髪 田波富布

山笑ふわが顔避けて鏡傷 河野南畦 『元禄の夢』

検問所奥なにごとか山笑ふ(メキシコ国境) 河野南畦 『元禄の夢』

山笑ふ初めて穿きしスニーカー 八幡より子

面つけて忽ち女身山笑ふ 角川春樹

伐口の大円盤や山笑ふ 阿波野青畝

腹に在る家動かして山笑ふ 高浜虚子

ことごとく雲を放ちて山笑ふ 村田 脩

山笑ふふるさとびとの誰彼に 楠本憲吉

山笑ふ放して釣らす鱒釣場 小林勇二

故郷やどちらを見ても山笑ふ 正岡子規

山笑ふあつけらかんと物忘れ 杉山青風

山笑ふどこに置いてもきしむ椅子 鈴木さち子

川どれも海へ走れり山笑ふ 久野鈴一

かるがると死後の約束山笑ふ 竹之内清江

生き死は人の世のこと山笑ふ 半田陽生

山笑ふ木には戻れぬこけしかな 小林松風

傘寿得て米寿を目ざす山笑ふ 竹下一記

切口の大円盤や山笑ふ 阿波野青畝

山笑ふ二上山は笑はざる 川崎展宏

ワープロは新仮名づかひ山笑ふ 佐藤星雲子

マラソンの一団くづれ山笑ふ 渡邊千枝子

釉厚きピカソの皿や山笑ふ 岡田 貞峰

山笑ふ釘を使はぬ塔一つ 船木幸人

長き汽車ひと呑みにして山笑ふ 小野 喬樹

山笑ふ傷いつぱいのランドセル 多田 淑子

白球のゆくて筑波の山笑ふ 後藤郁子

検診の一つ褒められ山笑ふ 府中谷幸枝

山笑ふ中の檜山は口重し 白岩てい子

山笑ふ胎動ときにへその裏 仙田洋子 雲は王冠以後

喪の年となりし今年も山笑ふ 仙田洋子 雲は王冠

山笑ふ灰となられてしまひけり 仙田洋子 雲は王冠

太陽を必ず画く子山笑ふ 高田風人子

故郷やどちらを見ても山笑ふ 正岡子規

山笑ふみづうみ笑ひ返しけり 大串章

山笑ふ野はさざ波の光満ち 手塚順

みどり児に貝ほどの舌山笑ふ 辻美奈子

山笑ふことに雑木の明るさに 安立公彦

山笑ふ木には戻れぬこけしかな 小林松風

天鈿女命笑へば山笑ふ 堀口星眠

人に生死国に興亡山笑ふ 山田豊

山笑ふふるさとびとの誰彼に 楠本憲吉

山笑ふ日の古障子明けておく 野島島人

太陽を必ず畫く子山笑ふ 高田風人子

山笑ふ土偶のやうに妊婦われ 仙田洋子

山笑ふ胎動ときにへその裏 仙田洋子

食卓に塩こぼしつつ山笑ふ 皆吉司

みどりごに貝ほどの舌山笑ふ 辻美奈子

山笑ふおほらかに乳あふれしめ 辻美奈子

動脈は赤で描かれ山笑ふ 柴田奈美

金魚田の赤きさざなみ山笑ふ 橋本薫

人乗せて馬の機嫌や山笑ふ 長谷川かな女

余生とは歩くことらし山笑ふ 清水基吉

山笑ふ村のどこかで子が生れ 尾形不二子

山笑ふ静けさに人働けり 玉木春夫

三畳の仏間より見え山笑ふ 長谷川双魚

片方の耳を動かし山笑ふ 笹木弘

山笑ふみづうみ笑ひ返しけり 大串章

外出のおしやれ眼鏡や山笑ふ 影島智子

里鴉啼いて大きく山笑ふ 影島智子

諍ひを水に流せし山笑ふ 関森勝夫

濯女の桶頭にのせて山笑ふ 遠藤梧逸

騾に騎して行くやチヤハルの山笑ふ 遠藤梧逸

松かさでお手玉すれば山笑ふ 西本一都

山笑ふ日や放れ家の小酒盛 井上井月(1822-86)

馬叱ってそれから唄や山笑ふ 秋灰

ほろ~と土まろばせて山笑ふ 星野立子

縄飛びを跳んで二つの山笑ふ 佐川広治

一片の転勤辞令山笑ふ 辻田克巳

村一の長寿の父に山笑ふ 山田弘子

山見えぬ部屋に通され山笑ふ 田川飛旅子

天鈿女命笑へば山笑ふ 堀口星眠 青葉木菟

ぽつねんと砂漠の果の山笑ふ 有馬朗人 天為

頂きに偽天守閣山笑ふ 井沢正江 湖の伝説

牛小屋に牛の新角山笑ふ 皆吉爽雨

たぷたぷと溜池かかへ山笑ふ 古河ともこ

手庇にすっと収まり山笑ふ 上井正司

初孫はいとしき獣山笑ふ 増田耿子

山笑ふみづうみ笑ひ返しけり 大串 章



ならば「山粧ふ」も。

楢くぬぎ枝染め分けて山粧ふ 荒 久子

滝になる水湛へたり山粧ふ 菅 裸馬

芭蕉像置去りにして山粧ふ 斎藤 都

水靄の奥に色あり山粧ふ 手島靖一


こちらは多くはない。

もう一度、「山粧」で検索


山粧ふけものの道もくれなゐに 檜 紀代

山粧う八瀬童子が謀りごと 仁平勝 東京物語

秘めごとを持ちてより山粧へる 満田春日

山粧ふけものの道もくれなゐに 檜 紀代

楢くぬぎ枝染め分けて山粧ふ 荒 久子

滝になる水湛へたり山粧ふ 菅 裸馬

芭蕉像置去りにして山粧ふ 斎藤 都

山粧ふいつよりの火の記憶かな 石田阿畏子

水靄の奥に色あり山粧ふ 手島靖一

山粧ふけものの道もくれなゐに 檜紀代

山粧ふいつよりの火の記憶かな 石田阿畏子

雲仙を隔て眉山粧へり 高浜年尾

十三陵眠らしめ山粧へる 西村和子 窓

山粧ふけものの道もくれなゐに 檜紀代

老眼始めて明かに山粧へり 尾崎紅葉


検索機能の限界も感じる。
「山粧ふ」で検索した際に登場すべきものも含まれている。


「俳諧歳時記」では、「山粧ふ」は、「秋の山」の傍題として示されるが、
例句はない。掲載されている例句はなべて「秋の山」である。しかもその例句は江戸時代のものである。理由の一つは、秋の巻の(例句採録)編者が高濱虚子ではなく、松瀬青々だからである。


以下ウィキペディアの解説:
松瀬 青々(まつせ せいせい、明治2年4月4日1869年5月15日) - 昭和12年(1937年1月9日)は、関西俳壇の俳人である。大阪生まれ。通称、弥三郎。俳句は正岡子規に学んだ。明治32年(1899年)、それまで勤務していた第一銀行を辞め、9月から明治33年(1900年)5月まで『ホトトギス』の編集にたずさわり、明治34年(1901年)3月『宝船』を創刊し、のち『倦鳥』と改題し、その経営に当たった。句集に『妻木』、また『巻頭言集』もある。書をよくした。

・・・・

8日 道路を挟んだ西隣の主人(昭和2年生)の葬儀参列。

市バス「新庄下橋」下車。目の前にあるセレモニーホールにて。

ここは、↓の橋の名を取った大きな交差点の南西の角地で、私の母の葬儀もここで行った。
家族葬ということで、参列者は少なかった。ご近所の方はほとんどまったく姿なし。生存中に、父親が故人と時に夕食をともにしたこともあると
いう娘さんが来ておられた。その父親という人は、娘さんが引きとっておられるとのこと。

9日 神戸市北区の施設のふれあい交流まつり。
雨だったが盛況だった。
私は例により、焼きそば担当。
でも焼いたのはわずかに30食分。

後片付けが済んだ鉄板↓

朝出した時に少し錆びていたので、丁寧に後処理(私が、ではない)。

↓猫缶さんに教わった花。ヤブコウジだったか?

相変わらず写りが悪いが↑、フラッシュ利用したら割合綺麗に撮れた。↓

違う季節に見たのと場所は同じで、同じように群れて咲いていたが、
咲き方が少し違うようにも見える。

UP後、ヤブコウジで検索点検。実の画像(十両とよぶよう。万両、千両、百両、十両、一両もある)が多いが、ヤブコウジではなさそう。点検依頼中。

シロヨメナ

$
0
0

↓のような比較表をみつけた。
印象的には、シロヨメナのような気がする。
猫缶さんが指摘なさった第2候補である。
理由:1.ゴマナの花は舌状花の花径1.5センチとあったが、もう少し長いような気がした。
(近所で見掛けたものなら確認にでかけるところであるが、月1回しか出かけない
車で1時間かかる場所故、翌月にはもう姿を消しているので、確認できない。
画像を10枚位撮っていればいいのだが、雨だったこともあり葉や幹の様子が不鮮明)

2.季節外れであったからかもしれないが、沢山の頭花という感じではなかった。
ゴマナの画像の中には、群咲き状態のものもあった。
(ここでも注意が必要。「ゴマナの画像」で検索して出てくる画像がすべてゴマナであるわけではない。他のものも混じる可能性がある。)


ゴマナといえど、胡麻とは関係ないらしい。
シロヨメナといえど、ヨメナ(嫁菜)とは無関係らしい。




名称草丈花期





ノコンギク白色から青紫
枝先に3㎝の頭花

中心の筒状花は黄色
50~100㎝10~11月葉は互生
卵状長楕円形から長楕円形、短毛が生える。
葉縁にまばらな鋸歯
ゴマナ白い頭花をたくさんつける100~150㎝8~9月葉は13-19㎝長楕円形で粗い鋸葉があります
葉の基部に3本の主脈がないことから
シロヨメナ
ヨメナの名が付いているが、ヨメナ属ではない
 シラヤマギク、イナガギクに似る
舌状花は白色だけ
頭花の径1.5~2.0㎝
8~11月全体の毛は少なめ
葉 は薄くてやや大きいものもある 
葉 の基部は茎を抱かない
根元近くの葉などは大きく、ザラツキも少ない
葉の基部に3本の主脈がある
シラヤマギク舌状花の数が少なく、花弁が歯抜けのように見える90~150㎝8~10月根出葉の葉身が卵状心形、長い葉柄がある
葉は荒い毛が生えていてざらざら
イナガギク本州中部から九州9~11月


さてブログの原稿を書き足そうと思ったら、すでに仮設定の公開時間を過ぎていて、
猫缶さんにすでに覗かれていたので、つづきは、明日以降に。


見つめゐる影まで掃かれ菊花展 能村研三

もたれあふことなき菊や菊花展 大木あまり 火球

特選に友の名のあり菊花展 福島武蔵

懸崖の滝のひびきて菊花展 村上辰良

亡き人の鉢も加はる菊花展 小林千穂子

閲兵のごと歩を移し菊花展 轡田 進

菊花展大賞は元学校長 堀 政尋

比宮の神みそなはす菊花展 松本美簾

菊花展めぐりし髪の重さかな 丹羽 啓子

蓑虫庵出で来て眩し菊花展 斎藤節子

急逝の友の特選菊花展 熊田鹿石

本丸の人流れ来る菊花展 藤谷紫映

受付も菊に埋もるる菊花展 川村ひろし

子育てもかくやと並ぶ菊花展 石井達郎

国賓の雨を厭はぬ菊花展 中山允晴

媼らの日向選りゆく菊花展 高野喜八郎

菊花展より戻りたるばかりの鉢 西村和子 かりそめならず

菊花展背後は弱き風の幕 山下幸子

城壁に矢弾の痕や菊花展 小路智壽子

猪垣をして菊花展してをりぬ 上野さち子

風が来て蓆を飛ばす菊花展 遠藤梧逸

菊花展見てきて紐をもてあそぶ 鳴戸奈菜

飾り了へ掃き了りたる菊花展 深見けん二

うしろよりさし込む夕日菊花展 深見けん二

菊花展と天守を結ぶ飛行雲 田川飛旅子

うしろよりさし込む夕日菊花展 深見けん二

飾り了へ掃き了リたる菊花展 深見けん二

美作

$
0
0

「美作」で検索
なんか一度やったような気もするが。
2003年版

美作の空を横切る火事の雲 赤尾兜子

美作や田の面をのぼる冬の霧 大谷あさ子

実柘榴や因幡美作国境 和田しずえ


美作の茶屋の麦飯三鬼の忌 大岩節子

美作は法然の国かすみ立つ 今川凍光

花木槿美作に来て汗白し 森澄雄




2007年版

美作へ風の急げる吹流し 大石悦子


美作や喜雨を待ちゐる山の墓 倉持嘉博


美作の日ぐれに逢はむかたつむり 磯部実


美作の春や藜の杖の人 川崎展宏

美作の父母の墓辺も鮎の頃 光信春草


は、あかざと読む。草である。若葉は食用になる。しかし茎は杖に利用される。

・・

広報誌「みまさか」は、どうやら継続的に送ってくれるよう。
10月号、11月号を読んで気付いたこと。

毎月30人以上の方が亡くなっておられるが、大半の方が、
香典返しは市への一括寄付のかたちを取っておられる。

美作市にはJRの駅が4つある。(その他に智頭急行の駅がある。)
楢原駅では普通切符を買って乗車する人は、一日1人。一番大きな駅である林野駅でも32名。

土居、江見、楢原はもちろん無人駅だが、湯郷温泉最寄駅である林野でさえ無人駅になっている気配。

よってもって、人口は確実に減少。あと3年すれば、人口は28,000台へなる気配。

毎月、出生者の倍以上が逝去されている。

逝去者の中に、毎月かならず100歳越えの方がおられる。11月号掲載分では3人も!



 紅葉見物に美作行きを検討。ワイフが母親の世話をしなければならないので、1泊2日しか無理だと言う。

・・・
暦の上では(よっては俳句においても)、8月、9月、10月が秋で、11月は冬である。
生活実感からかなりずれている。
おおみね半袖のシャツ一枚で過ごせる時期が夏とすれば、
日本の本州、太平洋側、平地では、6月(年によっては5月中旬から)、7月、8月、9月そして
10月初旬までは夏である。

私の肌感覚では、金木犀が匂い初めると、初秋である。中秋の名月などは初秋にやってくる。
仲秋は何と言っても紅葉のシーズンであろう。関西平野部の山際の紅葉(箕面や嵐山の)は、近年では11月下旬から12月初旬が見頃である。よって平野部中央では、11月中旬では、木々はまだ本格的には紅葉していない。

初秋の終りといったところ。

私に肌感覚では、いちょうの葉がすっかり散り果てた頃が、初冬で、
出勤者もコートを着るようになる。
私の知人の数名は、冬服を年間を通じて着用しない人がいる。
コートを着用しない人がいる。
しかしまあ普通の人が外出時にコートを手放せない時期が冬とすれば、
12月初旬以降、1月、2月が冬であろう。

本格的紅葉シーズン前の公園の木々。

↑正面の高木は、アメリカ・ヒトツバタゴ

↑メタセコイヤは花盛り。↓この公園には数本のメタセコイヤが育っているがこの2本は、
ある時期はシンボル的存在。


尼崎の公園にはナンキンハゼが多いが、この樹は市を代表するような存在である。
間もなく、真っ赤に紅葉する。


銀杏(いちょう)はまだあおあおとしている。↑
↓灌木であるがニシキギ

↑けやき

園内を回遊する川は、昆陽川の水である(と思う)。

↑この川が昆陽川の本流。画像の上方が南(海まで7キロ地点)
公園の東の部分を回遊する小川の水はここへ流れ落ちる。
水源は公園の東北の隅にあるが、かなり上流で昆陽川から分流して(させた?)ものを
ポンプで引き上げているように思う。


↑ラクウショウ(沼杉)


山桜↑

↓桐


我が家。花大根(諸葛菜)を何度かに分けて播いた。

まだ芽吹いていない鉢も多いが、適当に間引いて、株間を揃える作業をやった。

$
0
0

道を挟んだ北側のお家のボケ

帰り花というべきか、早咲きというべきか?↑
ご近所の皇帝ダリアも咲いた。

まだ咲いていない株も多い。数えたら20株位育っている。


近くの公民館へ寄って11月句会用に予約していた部屋の使用料を支払った。
日曜日午後、20人ほど座れる部屋の目下の使用料は1,140円。
消費税が8%になった4月以前の金額はもう忘れている。備忘録として書き留めておく。

今頃になって、わずか2年の間に消費税が2倍になった国はないなどと
言い始めている。政権交代を期待して、法律規定通り、粛々と10%へ向かうべきであると
早くから主張していた重要経済閣僚もいる。

公民館の隣は信用金庫。なんども営業マンの訪問を受けていたので、ふらりと寄ってみる。

そこからだと徒歩数分で隣接市へ足を踏み入れる。
初めて歩く道で、門を開放なさっている家に出くわす。

お一人で手がけられているのであろうか。
期間中は、車をどこか他へ置いておられるであろう。

その家の近傍で

ともかく皇帝ダリアはこの色しか目下はないようである。


「造り山し」については、私は松本清張の説を思い出す。
前方後円墳の造り山しに注目し、そこが船着き場であって、また墓地を礼拝する場所であり、
祭祠を行う場所であり、並べた祭道具は祭の後、壊すなどと初めて主張したのは松本清張さんのはず。だから専門の研究者は長く、これを無視し続けたとも。



↑の最後の2行は、そのことに触れていると私は思う。

この墓の場合は、船を出す必要があったかどうか。周濠のかつての幅はどうだったのか?

今は無住の神社の本殿があるのみ。

明和6年(1769年)の年号が読める。

直ぐ近くの家。ご高齢なって数が減ったように思う。




「塚」で検索 最初の100句 未調整

太郎次郎下萌えにけり 阿部王一

京の近江のや花行脚 角川照子

枯野胴と別れし首三千 ひろし (愛津首)

やそのまうしろも竹の秋 旭 (和泉式部歌)

京の近江のや花行脚 角川照子

御火葬落葉の嵩に足とられ 毛静枝

殿に姫の蛇来てゐたり 町田しげき

を経て虫へ草朧 櫛原希伊子

鶴の藁人らの藁と相へだて 亀井糸游

陽炎やより外に住ばかり (芭蕉翁にまうでゝ) 内藤丈草(1662-1704)

程遠からじ守るべし・・・日見峠に去来の芒を見、井上米一郎に寄す

とはあらはづかしの落葉

同じ淋しさに個の藁複の藁 伊丹三樹彦 人中

とはあらはづかしの落葉 高浜虚子

ずんぐりと藁ふっくらと藁の影 松下宏民

に一本ざしの曼珠沙華 行方克己 昆虫記

胞衣に産毛のごとく薺生ふ 辻田克巳

子宝のに日のあり初雀 富田潮児

敦盛成人の日の娘が訪へる 大星たかし

国栖舞の二人まことの翁顔 二元子

供華匂ふ敦盛の淑気かな 小路智壽子

を馬が嗅ぎをり枯薄 出沢寿美子

遊女あらはに萩の枯れてゐし 竹中弘明

に日のふりそそぎ萩枯るる 宮内林童

の雪折れ杉のばさら髪 きくちつねこ

木曽殿に侍して巴の枯葉 伊藤滋郎

木の葉降る寂光音のなりけり 山口草堂

の辺に来てゐたる凍鶴よ 高木良多

実盛ののほとりを冬耕す 林 徹

雪原の突起もつとも白き藁 河合凱夫

野に在るは首ひとつ冬ざるる 松本透水

御火葬膝より低き穂蓼燃ゆ 鳥羽とほる

へぬれしみちあり唐辛子 吉田汀史

の影のうごかぬ血止草 渡辺 昭

大芭蕉天蓋として芭蕉 西居 浩

秋ぐみを噛めば海見ゆ奉行 手美佐

菩提子のほろと一笑小さき 新井佳津子

胞衣に日箭あり満天星紅葉して 富田潮児

のしんと吹かるる柿の村 村上しゆら

酔芙蓉阿国とて岩ひとつ 高島筍雄

に山の蟷螂来てをりぬ 小林清之介

敵味方を一つに昼の虫 小田実希次

あぶれ蚊や去り難くゐて翁 見市六冬

軽井沢かかるところに文化の日 石友二

武蔵野の藁は小さくなりにけり 杉木 寛

の中棒突き抜けて湖晴るる 猿橋統流子

に一つの強き棒挿さる 平畑静塔

も屋根も伊吹の側に雪 橋本多佳子

となりてぬくもりたき日和 鷹羽狩行

が見えて目のふち痒きかな 高柳重信

*ひつじ田を踏めば能因はすぐ 西上禎子

は眼の高さにてすさまじき 北澤瑞史

ちらと見し清姫やうそ寒き 高橋淡路女

関寺の小町のの蛇いちご 村木佐紀夫

にかしづく如し蚊帳吊草 笠原古畦

おもだかの花の溶けゆく能因 花谷和子

その面影の紫蘭咲き 下村ひろし

木曽の夏草ひきし人のこと 星野石雀

烏麦吹かれどほしに蒙古 児玉南草

小さし芍薬ほぐれそむ 深見ゆき子

といふは二つの茂りかな 小野素雨

パイン食べ潮の匂ひに縛さるる 毛静枝

敦盛葉ざくら雫もて祓ふ 山田みづえ

の老杉雷を呼ぶごとし 石原八束

に入鹿贔屓のぺんぺん草 津田清子

けまん咲き道の絶えけり安寿 桂樟蹊子

花しきみ遺髪うづめし故郷 上村占魚

の荒れ桜蘂降るばかり 加吉宗也

墓二つ訪うて長居の桜山 手美佐

恋雀敦盛にこぼれけり 池上果山

に梅枝垂れて誓子忌を修す 蔵本青嵐

といふ浅春の石ひとつ 細川加賀

麦の芽やと呼ばれて古墳群 佐藤 千兵

寺裏に雨の藁十ばかり 江藤 都月

の寄り合ひながら傾ける 坂田 玲子

夏ぐみの庚申をかくしけり 畑中 圓子

ふくろふが啼く胞衣を過ぎたれば 黒田杏子

凍雲が耳になるかも一揆 牧野桂一

奥多摩は藁の日和や尉鶲 石田勝彦

たましひの抜けてゆくなり雨の藁 堀米秋良

袖口の明るい産衣島の藁 矢野千代子

や母の齢で祖母は呆けし 柴田美代子

に水の日返す変声期 牧野桂一

はまなすや星近付けて遊女 堺 信子

絵暦を解く百姓に半夏雨 戸時不知

うつぼ草安寿のは田の中に 数馬あさじ

篠の子や石手の奥の一里 清水基吉

人稀な蚕神のの暮春かな 佐野美智

末黒野の雨も新しと古墳 河野南畦

雪しまく行人の雌狐 望月精光

の崩えゆくさまを水明り 長谷川双魚 『ひとつとや』

道の辺や冬日にぬくむの膚 小林康治 『玄霜』

桂郎ありや祷る形に藁くづれ 小林康治 『玄霜』

露けしや真葛がもとの蝉は 小林康治 『玄霜』

あたたかに亀看経す馬の 角川源義 『神々の宴』

が並び家々に子供あり 加倉井秋を 『胡桃』

老松の花ながるるや水の空(加州片山津は斎藤別当実盛が古戦場、古松をもつてを今にせり) 飴山實 『次の花』

死のう列島首めぐる桜狩 仁平勝 花盗人

にきしねんねこの掃きはじむ 大木あまり 火球

茶の花や刈田のに水の音 角川源義


菊花展

$
0
0

神戸句会出席。

 よく売れる防災グッズ紅葉晴


そういえば明日晴れの国へ行く。


 山眠る前の翁の大往生

熟柿吸う祖母眼裏に美作路

阪神電車尼崎駅前でのささやかな菊花展
これを見るために阪神電車に乗って神戸三宮へ。

沼杉の並木↑

↑市長選挙の幟の方が目立つ

30位の賞を10くらいの人で分けあっている(感じ)。
よって一人で3つも4つも賞を得ている人がある。

美作市も本年第1回の菊花展を開催しているようである。
入場料を払うような菊花展には最近でかけたことがないせいか、大型の懸崖菊や千本仕立てを見ない。
倉敷市でお目にかかれるであろうか。


展覧会

$
0
0

昨日、菊花展を見てから句会へ行くと、ワイフに言うと、それならついでに市の美術協会展も覗いたらと言われ、
慌てて、招待状を探し出して鞄の中へ。


受付で招待状を見せると、それは15日からと言われ、2階の催しを誘われる。
1階のホールを覗くと、絵の展示準備中。

ふと見ると、顔なじみの人がいる。

その人に案内してもらった。どの絵もまだ壁の下に並んでいるだけ。


その人の作品。絵の中のパンツ、あれはこれですと、今はいている物を指さし。
まるで本物を貼り付けたような立体感のある絵で、
水彩画などもやられるが、いつもこんな感じの古物市が取り寄せたようなものを
一杯並べて絵となさっている。

会場を出て、折角だから、寺町をちらりと。
本興寺では信徒総代会のような催しをやっていた。

↑これは小さな団体の勉強会か見学会を遠くから写したもの。

「末法下種」?そのうちに調べる予定。
日蓮宗にとっては重要なキーワードなんでしょう。

境内の冬桜。私が初めて冬桜を知ったのは、この木。かなり剪定されているような気がするが
季節にはなかなか豪華な花形を示す。




一番後ろに居られるグループは小倉からやってこられたよう。
各房院の表には、全国各地から来られた方々の宿営地の表示があった。



紅葉

$
0
0



14日夜の句会。
会場は、今は倉敷市となった由加山温泉ホテル 「山桃花」2階の広間

2句出句

振舞いの昆布茶の熱し夕紅葉
盗人萩アリバイ不要な旅ながら

紅葉

14日の見学コース
茶屋町発⇒平家本陣跡(篝地蔵)⇒藤戸寺⇒盛綱橋⇒経が島⇒瑜加大権現

ショウちゃん選5句

かがり地蔵もみじ明りの届かざる
経塚の言の葉ほどの落葉踏む
合戦の大戦の靈共々冬
地蔵の大頭木の実降るままに
捻子巻いて廻してみたいわらぼっち

画像もう10枚位入れたかったが、全然UPできない。
PCの容量がすくなくなってきているためかと
あきらめてホームへ戻ると、
画像取り入れに障害が発生しているとメッセージが表示されていた。
明日追加。

平家古跡

$
0
0

倉敷界隈の紅葉(昨日UPできなかった分)

↓ホテル「山桃花」の庭↑
寒いので座る人はいない。


↑楽天イーグルズ秋期キャンプ一行様宿泊ホテル 歓迎幟がいっぱい吊るされていた。

大原美術館裏庭↓市に寄贈されたそうである。



倉敷の川沿い散歩にはボランティアガイドが手配されていた。
「上倉敷」について尋ねてみた。
よくご存じであった。
先年に訪ねられたとか。
そもそも上倉敷の方が先に倉敷を名乗っていて、
我が町も上倉敷のように倉の並ぶ町になりたいと思って
倉敷という地名が出来たそうである。
すなわち、下倉敷の繁栄を見て、倉敷の名を返上して林野という町名に変更した美作の倉敷の方が先輩だったのである。
先輩の町には、もう倉は余り残っていない。
・・・・・
14日は平家の対源氏後退戦の古跡をたどった。
倉敷市に40年勤務した人の立案コースで
バスも宿泊先の送迎バスを利用。
乗車人数が36名なので、ホテルの大型バスで
補助席を使わずちょうど満席。


海鼠ともならてさすがに平家也 涼莵 (赤間関にて平家蟹といふを見て)

初詣受けて平家の赤破魔矢 百合山羽公

平家武者敗走のみち兎罠 國本正巳

河豚鍋や平家亡びし汐を見て 筑紫太郎

冬天へ杉は槍なす平家村 鍵和田[ゆう]子

平家納経紺地黄落ふりかかる 細見綾子

平家村昼ふかく来て添水聴く 高井北杜

芭蕉咲く平家名残の見張台 川勝ミヨ

紙魚の痕とどめ平家の幡守る 鷹羽狩行

長恨の丹のいろうすれ平家蟹 中原道夫

三軒の平家の裔や夏蚕飼ふ 市ノ瀬 翔子

夏潮の今退く平家亡ぶ時も 高浜 虚子

酒仕込む道具なかりし平家村 窪田英治

身にしむや平家の裔の飾太刀 高橋悦男

瓜咲かす平家の裔の一重瞼 神蔵 器

余り苗平家の墓に供へけり 飴山實 『辛酉小雪』

身にしむや平家の裔の飾太刀 高橋悦男

待宵の平家ゆかりの小さき尼寺 有賀玲子

固まつて秋蚕の眠る平家村 佐川広治

冬濤は鬼の奏でる平家琵琶 出井哲朗

錦繍の山を砦に平家村 下田千里

秋簾平家は序章より哀し 阿部正調

奥山に滝かくしたる平家村 御子柴弘子

辛夷咲く寺に伝へて平家琵琶 山本隆一

滅びたる平家の裔か桜鯛 西川織子

平家山残る伝説落し角 岡崎憲正

猪鍋や成人の日の平家村 長谷川史郊

平家納経ほのめく箔の初あかり 平井あい子

ひたに守る平家軍旗や粟干して 渡 たみ

いつよりの平家贔屓ぞ女郎花 荒井書子

月に聴く平家哀史の琵琶の音 岩田つねゑ

滅びたる平家の裔か桜鯛 西川織子

遅日なほ平家納経見つつ飽かず 原 柯城

*ささげ赤し落人らしく平家住む 阿波野青畝

紫蘇の実のふたいろ平家部落かな 上野登み子

夏潮の今退く平家亡ぶ時も 高浜虚子

いく尾根の果とし雪の平家村 桑田青虎

流し雛平家滅びしさまにかな 小路生雅

十六夜や海の底より平家琵琶 成瀬櫻桃子

冬すみれ汝も平家の裔として 津田清子

青梅雨や呂の音はねる平家琵琶 浅野岳詩

夏潮の今退く平家亡ぶ時も 高浜虚子

平家読むうしろ十能の火が通る 猿橋統流子

つつしみ繰る平家の系図冬の日に 杉本寛

草をたつ平家蛍の一火二火 赤松[ケイ]子

平家とふ詩をもて秋を惜しみけり 西本一都

瀬戸夕焼平家不幸と誰が決めし 三好潤子

平家納経紺地黄落ふりかゝる 細見綾子

秋潮の満ちくるときに平家琵琶 佐川広治

尿道を断たれてをりて平家蟹 斉藤夏風

夜の秋の平家におよぶ話かな 大峯あきら

平家納経紺地黄落ふりかかる 細見綾子 天然の風以後

夏潮の今退く平家亡ぶ時も

漂着の平家供養の盆踊 山口誓子 紅日

くらやみに なおも花散る 平家琵琶 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 夢見沙羅

五月雨の端居古き平家をうなりけり 服部嵐雪

月の夜やなすこともなき平家蟹 井上井月

よろよろと平家蛍の草隠り ぱらりとせ

五月雨の端居古き平家ヲうなりけり 服部嵐雪




上に詠われているのは、さらに西の壇ノ浦が多い。

藤戸(寺)周辺を詠ったものはないと思う。「源平藤戸合戦」について、事前知識0。

ウィキペディアの解説:
寿永3年2月7日1184年3月20日)の一ノ谷の戦いで敗れた平氏は西へ逃れた。平氏は瀬戸内方面を経済基盤としており、備前・備中などの豪族も大半が平氏家人であり、瀬戸内海の制海権を握っていた。

寿永3年/元暦元年[1]9月1日 (旧暦)(1184年10月7日)、源範頼率いる平氏追討軍はを出発して西国へ向かった。海上戦に長けた平氏軍に対し、水軍を持たない追討軍はその確保が課題であった。瀬戸内海の武士団を味方に付けるべく、鎌倉頼朝9月19日に平氏から離反したと思われる讃岐国家人に対して、西国伊予国の武士橘公業に従い、平家討伐のため鎮西に向かうことを命じている。また武蔵国の御家人豊島有経紀伊国守護に任じられ、兵士や兵糧の調達にあたった。また梶原景時は10月に淡路国で水軍の調査を行い、石見国の有力武士益田兼高を源氏方に付けるなど軍事・政治両面での工作活動を行っている。

しかし源氏軍の水軍確保は進まず、範頼は10月に安芸国まで軍勢を進出させたが、屋島から兵船2000艘を率いて来た平行盛によって兵站を絶たれ、11月中旬になると範頼から鎌倉の頼朝へ兵糧の欠乏と東国武士たちの士気の低下を訴える手紙が次々送られている。

現在の藤戸周辺は干拓により陸地となっているが合戦の当時は海に島が点在している状態であった。平行盛は500余騎の兵を率いて備前児島(現在の児島半島)の篝地蔵(かがりじぞう、倉敷市粒江)に城郭を構えた。九州上陸を目指す源氏軍にとって、この山陽道の平氏拠点の攻略は必須課題であり、追討軍の佐々木盛綱が城郭を攻め落とすべく幅約500mの海峡を挟んだ本土側の藤戸(現在の倉敷市有城付近)に向かう。『吾妻鏡』によると、波濤が激しく船もないため、渡るのが難しく盛綱らが浜辺に轡を止めていたところ、行盛がしきりに挑発した。盛綱は武勇を奮い立たせ、馬に乗ったまま郎従6騎を率いて藤戸の海路三丁余りを押し渡り、向こう岸に辿り着いて行盛を追い落としたという。平氏軍は敗走し、讃岐国屋島へと逃れた。

この合戦は『平家物語』「藤戸合戦」の段で9月の事として書かれ、盛綱の活躍も吾妻鏡と一致しているが、盛綱が先陣の功を狙って浦の男に地形を尋ね、浅瀬を見つけた後で口封じの為に男を殺してしまう場面は、覚一本など語り本系『平家物語』のみに見られ、延慶本や『源平盛衰記』にはない話である。


まずは平家本陣跡

合戦は1184年12月のこと。


ここまで書いて、「篝地蔵」周辺のいい画像がないかと思い、「篝地蔵」でネット検索。画像一覧を見ていると、数時間前にUPした私の撮影した画像がでてきた。

次にバスが停まったのは、(佐々木)盛綱橋のたもと。

.

そこから藤戸寺と経ケ島を見学。橋のたもとに「藤戸饅頭」の製造販売元があったので、
バラで購入。バスの車内で配ったが余ったので、ワイフへのお土産に。



いま刈田にて海渡る兵馬見ゆ 山口誓子
1976年の作品
山口誓子は、他にも
盛綱の駒踏みし海刈田なる
海底は刈田となりて棚田なす
海変じいま穭田が緑なす

という句を作っている。

このあたり一帯は古代・中世あるいは昭和の初めまでは浅瀬の海であったらしい。

経ケ島秋の下闇深かりし  高濱年尾



蓮台寺

$
0
0




ここのあんころ餅も買った。これは分け難いので持ち帰った。






マンホール2

$
0
0

箕面(みのお)の紅葉
といっても滝口まで足を伸ばす時間なし。市内の木である。

ピラカンサも鮮やか

箕面市のマンホール蓋。当然ながら紅葉。中央部分は滝と瀧壺だと思う。

ついでに2,3.
伊丹市のもの。
昆陽池の鴨と白鳥である。

尼崎のもの。庄下川のとんぼと説明したが、鯉や目高もいるよう。
お尻が光っているのは螢か?
武庫川沿いの公園内を流れる川に蛍が飛ぶのを、10年以上前に見に行ったことがある。その少し前に、美作で螢の群舞を見た後だったので、
まあ工都にも蛍が飛ぶようになったんだという思い以上の感動はなかった。
外縁部の花がよくわからない。薔薇なら分かるが、どうも薔薇には見えない。館長さんわかりませんか?

音消えて工都に春の雪しきり 松岡和子

冬鵙や石も煤けて工都の墓地 北野民夫

倉敷市のもの、どうみても藤の花である。↑↓
市在住の俳句仲間に聞いてみた。藤の花で間違いなし。
藤が市の花らしい。
樹齢400年の有名な藤があるとか。

またいくつか溜まったら紹介。


美観地区で目に付いたのは、柳、はぎ、栴檀。

栴檀の実が写っているが、まるで川面の影のごとく、大きくぶれている。拡大禁止。

栴檀の木の幹に停泊する船のともづなを結びつけたらしい。
この木↑が代表格らしく、縄の後が残っていた。
こういうのは、ガイドなしでは気付かない。


/

Viewing all 2577 articles
Browse latest View live