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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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式内社

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尼崎市内には66の神社があるそうである。
伊佐具神社を初めて覗いた。
市内66社の内、唯一の「式内社」「官幣社」であることを誇っている。



官幣社、式内社ともに、何度も目にした「単語」であるが、中身はいまだ理解していない。

ウィキペディアの「官幣社」の説明はいやに短い

官幣社(かんぺいしゃ)は日本において官(朝廷、国)から幣帛乃至幣帛料を支弁される神社官社(かんしゃ)とも。」

この辺りについては、その「有難さ」については、曖昧ながら、理解していた。

デジタル大辞泉の解説:

古くは神祇官から、明治以降は皇室から幣帛を奉った、社格の高い神社。大社・中社・小社・別格官幣社の別があった。皇室崇敬の神社や天皇・皇族・忠臣などを祭る神社が多い。昭和21年(1946)廃止。→国幣社


兵庫県では官幣大社は、西宮の広田神社で、明治5年に「認証」されている。
10年後には淡路島のイザナミ神社が官幣大社となっている。

兵庫県の官幣中社は、生田神社、長田神社である。

(たいていはこのブログで一度は紹介している。長田神社の画像紹介はした記憶はないが、毎年年の暮れから神戸の須磨区板宿の大伯父の娘(私にとってはいとこ半)の家に泊りこんでいたので、大晦日の除夜の鐘が鳴ってから、近所の商店主に暮れのあいさつか新年の挨拶が忘れたがそれを済ませた従姉半に連れられて長田神社へ初詣にでかけた思い出がある)


湊川神社は別格官幣社という位置づけである。

この辺りの一覧法では、伊佐具神社の名は登場しない。

「式内社」で検索するとトップにウィキペディアの「延喜式神名帳」が登場する。

私などは、高校や大学の「日本史」関係科目でこの言葉は学ばなかったと思う。
しかし訪問した(見学した)神社仏閣の由緒書などではしばしばお目にかかっている用語ではある。

延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。

延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。本来「神名帳」とは、古代律令制における神祇官が作成した官社の一覧表を指し、官社帳ともいう。国・別に神社が羅列され、官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒などの記載はない。延喜式神名帳とは、延喜式の成立当時の神名帳を掲載したものである。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社で、そこに鎮座するの数は3132座である。

式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社で、その選定の背景には政治色が強くみえる。当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺となった神社、僧侶が管理した神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿がなかった神社などが含まれる。式外社だが六国史に記載がある神社を特に国史現在社(国史見在社とも)と呼ぶ(広義には式内社も含む)。


伊佐具神社は、全国で2861社認定された式内社のひとつで、
河辺郡(川辺郡)では筆頭社の扱いを受けたようである。
全国の神社の数は何万社とあるはず。

伊佐具神社の祭神は、この神社が立地する地域を拠点としていた坂部氏や
久々智氏のご先祖さまのようである。(上坂部 下坂部 久々知という地名は、今でも存在するし、私は赤松円心がこの辺りで何度も負け戦をやっていることも知っている。

全国の官幣社一覧はネット上にあるかどうかは未調査。

円心の墓も社内にあるという案内文を読んで、そこへ出かけてみた。

どうやら円心がこの神社へ戦勝祈願のために立ち寄り、また戦死者の慰霊碑を建てたようである。円心の墓なるものは、智頭鉄道の「赤松円心」駅の近くの寺にある。

私の一族が、円心を祖神とする若宮の前で毎年春4月に寄り合いをやっているが、
まったく同じことを私の母親の里でもやっている。

吉野川の川渕に、(この村へ住みついた初代の記念)碑を建ててやはり若宮さんと称していた。田んぼの中なので、近年場所を一族の墓地がある高台の一角へ移し祠を用意したが、
昨年からはその催しが中止になった。その高台へ各家の当主が登ってこれなくなったからである。

母親の実家は一族の本家であるが、私の従兄である当主は60歳になるまで都会で働き、
父親の死後しばらく空き家になっていた家を新築して村に戻ってきたが、田は人に貸したままで、農作業を本格的にやる自信がないまま、軽い脳こうそくを何度も患い、せっかく切り開いて
円座を組むことができる場所に祠を新調しながらも杖一本では山道を登れない身になってしまった。

不都合なことに、この村の若宮祭は、女人禁制なのである。

他方父方の里の祀りは、女人禁制の掟がない。よってここでも高齢化現象が生じてはいるが10数人が今でも集まっている。
この祠も、祀りの前には、その時にしか利用しない山道の除草や滑り止めのための鍬入れなどの作業が必要である。
それも本家では無理になり、今は、その場所にもっとも近いのが
Mrs Kの家であり、作業可能な人員があるので、もっぱらMrs K夫婦で用意をしているようである。

 一族の講などもいまではもっぱらMrs K宅が利用されているようである。いいことかどうか、村の寄り合い所である集会所も、Mrs Kの家の、道路(国道)を挟んだ南側にある。

若宮祭の折など、弁当が足らない、座布団がたらないとなると
Mrs Kが山道を飛ぶように何度も往復している。

現に参加者も半分は当主の足腰が弱ったなどの理由で、女性陣である。そして何よりの強みは、Mrs K宅は後2世代が、よって後70年は
継承確実である。

母親の里の従兄は、その長男が未だ都会暮らしであり、しかも独身である。


本日地元での句会

席題 (早く席題をお願いと催促されたので)「願」

百合いつも願いの姿勢新林道
そういえば醤油瓶など煙の木
亡き人の笑顔を泛べ濃紫陽花
いつまでも詮ない話心太
砂浜の気弱な靴跡花トベラ


伊佐具神社についてはウィキペディアに独立の項目があった。


境内社


  • 史跡
    龍稲荷神社 もと社坊の真言宗福円山浄徳寺のお堂を社殿とし、神仏習合の名残を残す。
  • 八幡神社

並河誠所式内社と比定した社号標石。正面に「伊佐具社」と刻まれている。

  • 五輪塔 元応頃(1319年~1321年)の石塔で、赤松円心の墓と伝える。






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