伊佐具神社は式内社であることを「売り」にしていた。
その近くにある伊居太神社は、
この前方後円墳が、尼崎市内最大のものらしい。
航空画像でも利用しないと前方後円墳の輪郭などまったくつかめない。
杜はすべて立ち入り禁止になっている。
藪茗荷なるもの最近やたら目にするようになった。
近松線と呼ぶ広い南北道の、伊居太神社前の交差点を西へ渡ると
近松公園が見える
このあたりは塚口地区を含む立花地区なのか、東隣の園田地区になるのか目下私にはわからない。
と書いてから、ウィキペディアの園田村を検索:
- 1578年(天正6年) - 有岡城の戦いの際、村域内に織田信長の本陣が置かれたことが記録に残る。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、川辺郡田能村、法界寺村、穴太(あのお)村、富田村、椎堂村、上食満村、中食満村、下食満村、瓦宮村、小中島村、猪名寺村、南清水村、口田中村、若王子(なこうじ)村、上坂部村、森村、御園村、善法寺村の一部、岩屋村の一部、口酒井村の一部が合併して川辺郡園田村が発足[1]。
- 1891年(明治24年) - 関西初の馬車鉄道である川辺馬車鉄道が開業(後に摂津鉄道、阪鶴鉄道、更に国鉄福知山線となる)。村内に塚口駅が置かれる。また村の北端、伊丹町との境界付近には伊丹南口停車場が置かれる。
- 1897年(明治30年)12月 - 阪鶴鉄道伊丹南口駅が廃止
- 1930年(昭和5年) - 淡路競馬場が村の北東部に移転し、園田競馬場として開設。
- 1936年(昭和11年)10月20日[2] - 村の東部田園地帯に阪神急行電鉄(当時の社名)の園田駅が新設開業。
- 1947年(昭和22年)3月1日 - 尼崎市に編入され、同日園田村廃止。
以上の解説で知った新事実!
JR「塚口」駅は、園田村に位置したらしい。
よって伊居太神社も伊佐具神社も園田地区に含まれる。
それどころか、阪急塚口駅の南西に位置する私立学校に園田学園と呼ぶ学校がある。どうみても塚口学園と呼ぶべき位置にあるのに
「園田」の方が「塚口」(墓の前)より印象がいいので、越境借用したにちがいないと思っていたが、なんと阪急塚口駅の南側は、今では南塚口町という町名を持っているが園田地区(の支配下)にあるようである。
よってもって近松公園は園田地区に位置する。
この公園には、私は尼崎市内唯一ではないかと思う句碑がある。
中島双風は尼崎市の在住の俳人である。
↑近松記念館
隣の伊丹市は鬼貫の句碑だけでなく、浄水場がある公園などへいけば
歌碑・句碑めぐりができるほどであるが、尼崎市内にはそれがない。
近松門左衛門の墓地はなんどかこのブログで紹介しているが、
墓地は、公園隣接の広済寺という寺にある。
墓石そのものは、去来並である。
このお寺は蓮を壷でたくさん育てておられる
神仏分離で、隣のスサノオ神社と寺域を分けたのを今もなお悔やんでおられる様子。
大学の高層ビル化
1昨日の記事を書いていて思い出したこと。
お茶の水の駅前にそびえる医科歯科大学、人々の後について行って
入り組んだ学舎と病棟の間を抜けていくと裏門へ抜けることができる。
裏門を出たところにあるホテルを利用する時には何度も利用したが、
その後あちらこちらで通せんぼが始まってさらに巨大な新ビルの建設が始まってからは利用しなくなった。
代わりに湯島聖堂への道草をよくやった。
夏は藪蚊に襲われるが、そこで楷の木を知った。
その後閑谷学校でも楷の木を見つけて、儒学と楷はなんか関係ありそうと思いながら「調査」しなかった。
高層ビル大学と言えば、東京の街を歩いていて目の前に工学院大学のビルを見つけて
驚いたことがある。
しかし最近は、15階建て位の大学を見ても全然驚かなくなった。
そういえば、東京や横浜の私立学校も最初に見た時には驚いた。
しかしイギリスへ出かけて、道路沿いの建物の一角にあるドアが学校の
入口(学校と言えば門があって、植え込みがあって学舎の入口があるものと思っていた)
であるのが「先進国」的であるのを確認。
同じような変革が寺院にも生じ始めている。
名古屋の中心街では寺がビル化し始めている。
「楷の木」で検索したら、
長い長い「歴史」を解説したHPに行き当った。
今から2500年前、儒学の祖、孔子(紀元前552~479)は、多くの子弟に見守られながら世を去り、山東省曲阜の泗水のほとりに埋葬された。門人たちは3年間の喪に服した後、墓所のまわりに中国全土から集めた美しい木々を植えました。今も残る70万坪(200ha)の孔林です。
孔子十哲と称された弟子の中で最も師を尊敬してやまなかった子貢(しこう)は、さらに3年、小さな庵にとどまって塚をつくり、楷の木を植えてその地を離れました。この楷の木が世代を超えて受け継がれ、育った大樹は「子貢手植えの楷」として今も孔子の墓所に、強く美しい姿をとどめています。その墓所のまわりには、孔子を慕う弟子や魯の国の人々が集まりはじめ、やがて住み着いた者の家が百あまりであったので孔里と名づけられました。
孔子は300年後の漢代中期以後、国家的崇拝の対象となります。しだいに墓域も拡大され、孔里は現在、孔林という広大な国家的遺跡になっています。その後、「楷の木」は科挙(中国の隋の時代から清の時代までの官僚登用試験)の合格祈願木となり、歴代の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』とも言われるようになりました。合格祈願木とされたのは、科挙の合格者に楷で作った笏(こつ)を与えて名誉を称えたからだと考えられています。また、その杖は「楷杖」として暴を戒めるために用いたとされます。