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亀岡城

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亀山城(かめやまじょう)は、京都府亀岡市荒塚町周辺(旧丹波国桑田郡亀岡)にあった日本の城

 

亀岡城とも。

 

明智光秀によって丹波統治の拠点として築城され、江戸時代初頭には近世城郭として整備された。

 

大正時代に新宗教大本」が購入、神殿を築いたが大本事件で日本政府により爆破・破却された。

 

戦後再建され、大本の本部が置かれている。小説家の司馬遼太郎は明智光秀と出口王仁三郎という2人の謀叛人を出したと評した[1]

 

Wikipediaの解説である。

 

菅沼氏について知見を得ようと思ったが、上の解説からは江戸期に藩主として「転勤」してきたことはうかがえない。

 

主な改修者岡部長盛
主な城主明智氏羽柴氏石田氏岡部氏

この解説にも菅沼氏の名は登場しない。

↑禅宗2派の戒名の基準は、私が馴染んでいる真言宗のものと似通っている。

明治以後は、一般「市民」は9文字戒名である。「院号 居士(大姉)」

格が一段上がると「院殿 大居士」となり11文字になる。

 

家康の戒名は「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」14文字。

時に安国院殿の前に、「東照大権現」を付けて19文字とすれば、これが日本で一番文字数が多い戒名と言われる。

 

↑の墓地は亀岡城の御土居の上にたっている。曹洞宗宗堅寺境内。

15文字である。藩主クラスである。事実、藩主であった。菅沼氏。

 

しかし簡単な亀山城史には登場しない。亀山城主になったが、息子が若死にして改易になったようである。

 

 

御土居跡に残る15文字戒名の墓の横には6文字(院号なし)戒名のものが4基。

殉死した家臣3名と乳母の墓とか。

宗堅寺は、1635年に入封した菅沼定芳が亡き父の法要の一環で、寺号となったようである。父の戒名は11文字。

 

さしたる功績もないような菅沼氏が藩主とはいえ、15文字戒名という破格の待遇を受けたのであろうか。家は断絶している。戒名の石碑は新しい。筆写間違いかも。

 

戒名に居すわる居の字著莪の花 中原道夫
 
逝く春のまだ戒名の出来て来ぬ 中原道夫
 
戒名のよそよそしかり秋の蝶 中原道夫
 
師の戒名うつろに見たり菊の墓 柴田白葉女 『夕浪』
 
戒名のみな美しき盆供養 外川玲子
 
一経木に一戒名のにじむ秋 吉原縫子
 
戒名をつけてやらねば雀の子 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨
 
畜生に戒名はなし夏花供げ 富安風生
 
戒名で呼ばれてをりし朧かな 齋藤愼爾
 
俗名と戒名睦む小春かな 中村苑子
 
戒名のおぼえやすきも寒さかな 久保田万太郎
 
俗名と戒名睦む小春かな 中村苑子(1913-2001)
 
戒名は真砂女でよろし紫木蓮 鈴木真砂女
 
戒名を思ひ出したる紫蘇畑 柿本多映
 
元日や「積善院夢道居士」生き戒名 橋本夢道 無類の妻
 
戒名のおぼえやすきも寒さかな 久保田万太郎 流寓抄以後
 
戒名をことづかりたる夜寒かな 久保田万太郎 草の丈
 
戒名の文字をうかがふ羽抜鶏 原裕 出雲
 
たのまれて戒名選む鶏頭哉 夏目漱石 明治四十四年
 
戒名が付いてほほうと木莵の声 木内彰志

 

亀山城は、

 

織田信長の命を受けて丹波攻略に従事中であった明智光秀が、口丹波にある亀岡盆地の中心であった亀山に天正6年(1578年)から築城した。

 

丹波平定後はそのまま丹波経営の拠点となったが、光秀は天正10年(1582年)に本能寺の変を起こし、まもなく羽柴秀吉に敗れて、逃走中に討死。

 

その後は天下を統一した秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉の甥・の夫 )・豊臣秀俊(小早川秀秋)豊臣政権五奉行の一人となった前田玄以などが入った。

 

秀吉の死後に天下を手中にした徳川家康もこの城を重要視し、慶長14年(1609年)に譜代大名である岡部長盛(在任1609年 - 1621年)を入封させ、丹波亀山藩主に任じた。

 

さらに「天下普請」により幕府が西国大名に命じ近世城郭として亀山城を大修築した。

 

藤堂高虎が縄張りを勤め、慶長15年(1610年)夏ごろに完成し、本丸には5重の層塔型天守が上がった。

 

寛延元年(1748年)以降は、形原松平氏が居城し、明治2年(1869年)に亀岡藩へ改称。同4年(1871年)に亀岡県が置県され、廃藩となった。

 

↑戦国期における明智光秀の築城から、江戸期1748年松平氏までの歴史の中では菅沼氏が有する政治史的価値は余りなかったのであろう。

 

形原松平氏:ウィキペディアより

 

形原松平家(かたのはらまつだいらけ[2] )は、松平信光の四男・与副(与嗣とも[3])を祖とする松平氏庶流[1]三河国宝飯郡形原(現・愛知県蒲郡市形原町)を領したことから形原松平家と称した。

 

4代・松平家広の頃より宗家徳川家康に従い、5代・松平家忠長篠の戦いで武功を上げ、6代・家信小牧・長久手の戦い小田原征伐で武功を上げた。

 

元和4年(1618年)、家信に故地である三河国形原藩1万石が与えられ、大名となる。その後、家信は翌年の摂津国高槻藩2万石への移封を経て、寛永12年(1635年)に下総国佐倉藩4万石へ移封された。

寛永17年(1640年)、7代・松平康信は高槻に3万6千石で再封され、慶安2年(1649年)に丹波国篠山藩5万石へ移封された。しかし、11代・松平信岑享保の大飢饉の最中に重税を課したことにより、寛延元年(1748年)に丹波亀山藩5万1千石に移封され、そのまま幕末まで存続した。

 

篠山藩から亀山藩へ移封された(追放された?)11代。

 

松平 信岑(まつだいら のぶみね)は、丹波篠山藩の第5代藩主。後に丹波亀山藩の初代藩主となる。丹波亀山藩形原松平家6代。

 

ちなみにこの人の戒名は7文字である。藩主が7文字なら、家臣のそれは6文字以下であろう。

 

 

 

この移封で、篠山から亀岡へ「転居・転勤」した人物が、ワイフのご先祖さんである。

 

よってワイフの墓参りは、亀岡の宗堅寺へとなる。

 

 

亀岡へ移った初代は、当然ながら6文字戒名である。

 

13世紀の作品。如意輪観音座像 京都府指定文化財

その他の詳細画像は「ひたすら仏像拝観」を参照。

 

 

寺の境内の馬酔木、めちゃきれい。

 

寺のある地域は寺町を形成している

 

↑↓臨済宗の寺

 

 

道幅狭し。狭い本道は山陰街道

 

亀岡祇園の山鉾は11基?

 

 

今一つ曹洞宗の寺院

 

 

JR京都嵯峨線は外国人客で一杯。嵐山へ、保津川下りへ、あるいは太秦の撮影村へ

 

帰りはバスに乗って阪急電車京都線桂駅へ。

 


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