毛馬と言えば蕪村。↑は毛馬橋東詰の場所にある公園 その名も蕪村公園
公園のメインの部分は道路の北側
右手に流れる川は大川↓ 天神祭の行われる方へながれてゆく
木立は蕪村公園の南端部分
橋の名は毛馬橋
けまばしと表記
毛馬=蕪村といった説明板
公園の東側に神社 淀川神社
無住社ではない。
神社の由緒
当社の創建年代は詳細不詳ですが、旧摂津国東成郡友淵村(現在の毛馬町1丁目)に鎮座。平安朝の初期或いはその以前より友淵の地名が見え、口伝等によれば淀川河口に海賊を取締るための役人が配備され、それらの役人により全国の名だたる十五柱の神々を守護神として祀り、その名も十五神社と呼ばれていました。
また旧摂津国東成郡毛馬村(現在の毛馬町4丁目)には八幡大神宮が鎮座、十五神社と同年代に奉祀せられたものと思われます。
蕪村も氏子であったことが案内に書かれている
氏子には、俳句で有名な与謝蕪村がおられます。生誕地の近くには当時、十五神社・八幡神社の二社が御鎮座し、神社祭礼など幼少の頃より慣れ親しんだと思われ、村人たちの心の拠りどころであり、祭りは何よりの楽しみでありました。こういった環境の中、蕪村の感性が研ぎ澄れたのではないでしょうか。
蕪村は享保元年(1716年)八代将軍吉宗が将軍に就いた年、摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)に生まれました。生まれた月日は不明で、蕪村は自ら出身地についてはほとんど語らず、例外が『馬堤は毛馬塘也則余が故園也。』の一文である。これは、安永六年(1777年)2月23日付、伏見の柳女(りゅうじょ)と賀瑞(がずい)という門人の母子に宛てた手紙の中で「春風馬堤曲」を自解しながら、自らの故郷のことを語った文言である。
これに続く手紙の文章は『余、幼童之時、春色清和の日には、必友どちと此堤上にのぼりて遊び候』というものである。時に蕪村62歳。
蕪村と親交が深き大阪の俳人、大江丸がその著『俳諧袋(はいかいぶくろ)』の中で「生国摂津東成郡毛馬村の産」と書いてある。自らの生い立ちを多くの人に知られることはあまり望まなかったようであったが、大川と新淀川の分岐点、ここが蕪村のふるさとであることは間違いない。
以上は淀川神社のHPから引用。
蕪村公園(北側)を一周して蕪村句碑を写した
道路側(淀川神社の対面)にある句碑。穂の長い柳 さいきんとんとお目にかからない
柳と蕪村の関係ないし縁は?
すべての句碑に読み札が加えられている
毛馬の閘門へ
↓は閘門へつづく公園脇の柵。右手奥に水門が見える
大川
水門がみえる。奥が閘門
遊覧船
水門脇は花壇
↓は水門 上流側
大部分は荒地状態
キンギョソウ植え込み中
キダチダリア = タラノハダリア=皇帝ダリア
フウセントウワタ↑↓
閘門下のサクラモミジ↑
桜はいろいろな品種が植えられている
大川側から
淀川側(大川との分岐点側)から
淀川大堰
川幅300メートル
さすがに景色がひろい
to be continued