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猿丸太夫と百人一首の結びつきさえ知らなかったので、ウィキペさんで学習。
猿丸大夫(さるまるのたいふ / さるまるだゆう)とは、三十六歌仙の一人。生没年不明。「猿丸」は名、大夫とは五位以上の官位を得ている者の称。
元明天皇の時代、または元慶年間頃の人物ともいわれ、実在を疑う向きもある。しかし『古今和歌集』の真名序(漢文の序)には六歌仙のひとりである大友黒主について、「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次(つぎて)なり」と述べていることから、すくなくとも『古今和歌集』が撰ばれた頃には、それ以前の時代の人物として知られていたものと見られる。
「猿丸大夫」という名について六国史等の公的史料に登場しないことから、本名ではないとする考えが古くからある。さらにその出自についても、山背大兄王の子で聖徳太子の孫とされる弓削王とする説、天武天皇の子弓削皇子とする説や道鏡説、また民間伝承では二荒山神社の神職小野氏の祖である「小野猿丸」とする説など諸説ある。
猿丸大夫に関する伝説は日本各地にあり、芦屋市には猿丸大夫の子孫と称する者がおり、堺にも子孫と称する者がいたという。長野県の戸隠には猿丸村というところがあって、猿丸大夫はその村に住んでいたとも、またその村の出身とも伝わっていたとの事である。しかしこれらの伝説伝承が、『古今和歌集』や三十六歌仙の猿丸大夫に結びつくかどうかは不明である。
なお哲学者の梅原猛は、著書『水底の歌-柿本人麻呂論』で柿本人麻呂と猿丸大夫は同一人物であるとの仮説を示しているが、これにも有力な根拠は無い。
『小倉百人一首』には猿丸大夫の作として、以下の和歌が採られている。
おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき— 小倉百人一首5
ただしこの歌は、『古今和歌集』では作者は「よみ人しらず」となっている。菅原道真の撰と伝わる『新撰万葉集』にも「奥山丹 黄葉踏別 鳴鹿之 音聆時曾 秋者金敷」の表記で採られているが、これも作者名はない。また三十六歌仙の歌集『三十六人集』には、猿丸大夫の歌集であるという『猿丸集』なるものがあるが、残されているいくつかの系統の伝本を見ても、その内容は全て後人の手による雑纂古歌集であり、『猿丸集』にある歌が猿丸大夫が詠んだものであるかは疑わしいとされる。なお「おくやまに」の歌は『猿丸集』にも入っているが語句に異同があり、
- あきやまの もみぢふみわけ なくしかの こゑきく時ぞ 物はかなしき
となっている(御所本三十六人集に拠る)。
キソケイが咲き始めた。
蝋梅なみの春告草である。
ヒマラヤ原産で明治時代に導入された常緑低木。名前の由来は、花が黄色でソケイ(素馨)に似ることから。枝はよく分枝し、5-7月に枝先に散形花序をだし、2cm程の黄色の漏斗形の花をつける。花冠は先が5裂する。葉は互生し、奇数羽状複葉、1-3対の小葉は2-6cmの長楕円形、先は尖り、縁は全縁。ジャスミンの仲間だが花に強い芳香はない。庭木などで植栽される。
中之島公会堂での句会参加
「男 漢」が兼題
乾布摩擦に拘る漢大くしゃみ (くしゃみ、漢字が出てこない)
繰り返す過真冬の水鉄砲
モデルは金さん
摂社末社へ焚火には近寄らず