備蓄バター1KG 秋うらら
200グラム入り2箱まで減って焦った。ダイエーはいつも品切れであったが、ここ数日、雪印とイオンバターが入手可能となった。イオンバターの方が50円安い。正確には6箱、1.2キロ備蓄中。
睡蓮や夕べの風を着こなせる
うまい句だ。『俳句』11月号掲載の競詠で巻頭になっていた句
作者はショウちゃんではなく、ショウちゃん’s wife。
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昨日のつづき。一日で掲載したかったが、4万字の上限を超えたので
3日に分割。
もう1社 初訪問、杭瀬の熊野神社
阪神電車「杭瀬」駅前。神社の案内では、「杭瀬」という地名は、尼崎では「神崎」についで古いとか。
主祭神が、「素盞嗚命」ではなく、口偏に「鳥」(とり)となっている。掲示板の注文主か、業者が間違ったと思いたい。
apediaの解説:熊野神社
市域では西難波・杭瀬・若王寺に鎮座する神社。祭神は伊奘冊尊〔いざなみのみこと〕、素盞嗚尊〔すさのおのみこと〕、応神天皇、天児屋根尊〔あめのこやねのみこと〕、稲荷大神など。
和歌山県東牟婁〔むろ〕郡に鎮座する熊野三山(本宮・新宮・那智)の信仰が戦国期ころに尼崎に伝播していたことは、1602年(慶長7)3月6日付の「旦那売券」(橋爪文書)に「一津之国尼カ崎并西之宮一円者、我等重代相伝之旦那ニ而候ヘ共」と見えている。
その後1692年(元禄5)の「寺社御改付込写帳」(岡本紀士生文書)には、若王寺の熊野大神社が「熊野権現」と記されている。
元禄年間の『摂陽群談』は、西難波の権現社が行基の開いた摂津国四十九院に勧請〔かんじょう〕された熊野社の一つであった伝承を記す。一説には紀伊・大和から摂津尼崎方面への航路が、往時の熊野詣の帰路に用いられ、海路の熊野の一王子として発祥したことが指摘される。
一王子とは?
ウィキさんの解説挿入
{ 若一王子(にゃくいちおうじ)は、神仏習合の神である。若王子(にゃくおうじ)ともいう。
熊野三山に祀られる熊野十二所権現は三所権現・五所王子・四所明神に分けられ、若一王子は五所王子の第一位である。若一王子の本地仏は十一面観音で、天照大神あるいは瓊々杵尊と同一視された。熊野本宮大社・熊野速玉大社では第4殿、熊野那智大社では第5殿に祀られる(いずれも、現在は「若宮」と称し、天照大神のこととしている)。
熊野信仰が日本各地に広まるにつれ、熊野権現が各地に勧請されたが、若一王子のみを勧請する場合も多かった。神仏分離に伴い、「若一王子」を天照大神や瓊々杵尊に変えた所も多いが、従前のまま「若一王子」として祀っている神社もある。
- 東京都北区の王子神社。
- 長野県大町市の若一王子神社。紀伊国より勧請。
- 和歌山県田辺市の神社。現存せず、若一王子権現碑が跡地にある。
- 和歌山県西牟婁郡すさみ町の周参見王子神社の古名「若一王子権現社」。
- 静岡県藤枝市若王子若一王子神社の社叢 }
なるほど、「にゃくいちおうじ」⇒「にゃくおうじ」がなまって「なこうじ」という地名になったよう。
apedia解説 つづき
杭瀬の熊野社は1838年(天保9)「巡見使通行御用の留」(『尼崎市史』第6巻)に「熊野新権現」と記されている。社伝によれば、17世紀(元和年間・1615~1624)に本殿が造営されたと伝えられ、境内には樹齢千年という楠木が繁る。境内の右手に「子安の池」があり、この池の水を飲めば安産になるという伝承が伝えられている。
↓子安の池
また現在4年に1度、例大祭日に氏子の稚児行列が盛大に行なわれる。
若王寺の熊野社は雨乞いに効験があり、かつては雨を求める農民が同社に群参したという。難波熊野神社の末社である摂津難波稲荷は、通称「願の稲荷、願掛け稲荷」として、当地の人びとに篤く信仰されている。
「三の坪」などという地名が残っているということは条里制が敷かれた場所を意味するので、確かに古い土地柄である。奈良時代には田園地帯になっていた証拠であろう。
3の坪とは、109メートル(=1町)四方(これも1町)の田が1坪で、
これを6×6並べて、おおむね西北から南へ321メートル下った地点を
西北の角として1町四方の土地区域を指す。これを「三の坪」というらしい。全国各地に「三の坪」という地名は、他の坪以上に、よく残っている。
条里制については目下勉強中。かつて歴史の教科書に書かれていた事実は、現在、大幅に書き換えられているようである。
市の南部の神社の秋祭りは、たいてい体育の日とその前日の日曜日である。