現代尼崎の地図の上に、旧街道と道標の位置を示している。
ガイドブックに見開き2ページで掲載されている。
昨日は、夕刻に、27を訪ねる。北向き地蔵道標。
今日は午前中に、23を「訪問」ついでに、守部の素盞鳴神社境内の2つの道標(24、25)も再撮影。周辺で見逃していたものを追加。
昼食後、↓④を撮影。
「出屋敷」行きのバスに乗って、1駅前に下車。東へ100メートル。
撮影終わったら、出屋敷駅まで歩いて、「阪急塚口」行きのバスに乗った。
ターミナル出発時点で、客は私1人。最後まで貸し切りかと思ったが、そうでもなく、
次の駅(往路の下車停留場)で一人追加、次々に乗客有り。半分以上の人が証明書見せて
お金払わないで乗ってくる。私は割引料金払っている。
帰りはいつも1つ手前の停留場で降りて歩く。
尼崎市内には、素盞鳴神社ないし須佐男神社は計22社ある。
市内の神社の数は66社だからちょうど3分の1がスサノオ神社。
「オラの村でも祭はじめようではないか」
「そうか、伝兵衛さんが裏の土地を分けてくれるなら、ワシが社殿建設費用を払ってやろう。
隣村の神主の次男坊主もそろそろ二十歳だんべえ。ならばあれを禰宜に迎えようではないか。
ついでに名前も素盞鳴神社とすべえか。漢字がむつかしいけん、「須佐男」の方がよかろう」
「では代表が手分けして、伝兵衛さんとこと、隣村の素盞鳴さんとこへいくべえか」
「山車や山車庫は、村中で配分して金子用意せねばなるまい。まあ3,4年豊作がつづいたし
村の(醤油・味噌・菰などなどのどれか)の売り上げも伸びてるからなんとかなるべえや」
人口が増えた新開地村で、つぎつぎにスサノオ神社が増える背景
泥付地蔵道標
お地蔵さん本体ではなく、
地蔵堂前に置かれた線香置き供物置きが道標になっている。
か婦と山
右 ミち
にしの宮
となっているらしい。か婦と山は甲山のことである。
今は見えないが、家々の隙間から六甲の峰は見える。
武庫川の傍だから、昔ならすぐ目の前に甲山が(中腹に神呪寺かんのんじがある)。
武庫川を守部の渡しで渡れば(この地区は守部村である)西宮である。
しかし今道標の前に立つと、右へ行けば、守部素盞鳴神社への参道をあるくことになる。
ガイドブックはこの道標がかつてどこにあったかには触れていない。
この道標の石は五輪塔の最下部の地輪を転用したものらしい。
五輪塔は上から、空輪、風輪、火輪、水輪、地輪の5つの石からなっているらしい。
ウィキペディア
五輪塔(ごりんとう)は、主に供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種。五輪卒塔婆、五輪解脱とも呼ばれる。
一説に五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれるが、インドや中国、朝鮮に遺物は存在しない。日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く見られるようになる。このため現在では経典の記述に基づき日本で考案されたものとの考えが有力である。
教理の上では、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪からなり、仏教で言う地水火風空の五大を表すものとする。石造では平安後期以来日本石塔の主流として流行した。五輪塔の形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝殊型によって表される。密教系の塔で、各輪四方に四門の梵字を表したものが多い。しかし早くから宗派を超えて用いられた。
石造のものは石造美術の一分野として重要な位置を占める。
ウィキペディア:(結構長い。詳しくは左をクリック)

参道わきの水路極めて奇麗な水が流れている。武庫川から取り入れたばかりだからか?
氏子中の会長・副会長クラスの家並み
↑水屋である。まさか現役とは思わないが。
撤去は市から禁じられているかも。
というより市の墾請を受けいやいやながら残っている。?
茶碗などを洗うのであろうが、いったいどんな姿勢で洗っていたのだろう。一度水を汲み上げるのであろうか?
水屋(みずや)
- 輪中地帯で、水害時の避難場所として高い場所に作った建物。輪中#施設を参照のこと。
- 水を扱う場所=台所の古称。転じて、そこに置かれる収納家具(水屋箪笥=食器棚)の別称。
- 水を売る商売のこと。
- 貨物利用運送事業の俗称。
ここで水屋とは2番目の前半の部分の意味である。
私は、美作用法の名残か(もっと一般的であったか)2番目の後半部分の意味で、使っていたが、今では私にとっても死語である。
ついでに守部素盞鳴神社「所蔵」の道標2本。再掲。
手水鉢
↑盃状穴 祈願のために穿った跡らしい。
またまたウィキペディア
石に対する信仰は日本でも古くから存在した。日本の盃状石は縄文時代から作られている。元々は磐座に彫られ、子孫繁栄や死者の蘇生を願ったものとされている。古墳時代には古墳の棺に彫られた。
鎌倉時代には村の入り口に魔よけの目的で作ったり、神社の灯篭や手水石等に彫る事が多くなった。東大寺の転害門に彫られた盃状穴もこの頃に彫られた物である。江戸時代には従来の目的に加えて、昔作られたものを元にして新たに数多く作られた。盃状穴信仰は維新後も残り、昭和初期までは作られていたという説もある。
日本では明治時代に坪井正五郎や鳥居龍蔵によって考古学的な研究が行われたが、その後の考古学者の興味を引く事はなく、あまり研究は行われてこなかったようである。最近は民俗学の学者が研究している。
西本町8丁目道標
立派。これならかなり遠くからでも識別できる。
↓ 発起人 竹屋儀右衛門
世話元 卯之助
左 西ノ宮 兵庫
右 大坂道
↓
弘化三年 (1846年) 丙午歳 八月建立
世話人 難平 梶宗 東新田太蔵
道善 綿源 大物豆九 玉伊 綿五
屋号のようだ。
午前は自転車利用
午後は往復バス故、徒歩は5619歩
10月2日は、11,507 3日は不携帯故、記録なし。