尼崎市の中央部分を南北に流れる庄下川。
付近に「庄下」といった地名が見つからず
川の名前の由来が分からなかったが
尼崎市の歴史事典的HPを読んでいると、
川の上流に中世には、生嶋荘という荘園があり、
その下(南)に発していたので荘下川⇒庄下川と呼ばれるようになったという
説が紹介されていた。
三つの川の合流地点。かつてはここから下流を庄下川と呼んでいたが、
1990年以降流れ込む川のひとつ東富松川の伊丹市境界地点までが1級河川庄下川に組み入れられた。
2級河川庄下川の1級河川への「昇格」と河川域の「拡張」とは時期が別であることも学んだ。
歴史的には3つの川の合流地点あたりに水源があったようである。
以下は生島荘についての解説。
尼崎地域史事典(apedia)から
現在の尼崎市富松から東難波〔なにわ〕付近に位置した荘園。中世では、富松郷と浜郷を中核とした。もと多田源氏の一族源実国が開発した所領で、代々相伝し、康治年中(1142~1144)、三河権守雅行のとき、年貢100石を納入することを条件に皇嘉門院聖子に寄進し、生島荘が成立した。雅行は預所職を安堵されたとみられる。その後、当荘は皇嘉門院より九条兼実に伝わり、鎌倉初期、兼実がその領家職の一部を春日神社に四季八講料として寄進したため、春日大社・興福寺の支配が及ぶこととなった。本家は九条家であったものの、次第に実質的な荘園支配を春日社・興福寺が行なうにいたり、鎌倉末期には、開発領主源実国の子孫の覚照の預所職を没収しようとして対立事件をおこしている。南北朝期以降も春日社・興福寺は、武士勢力の侵略などに抵抗してよく荘園支配の維持につとめ、室町時代後期でも、富松郷で14町余、浜郷で17町余の田地を確保している。応仁・文明の乱が勃発すると、浜郷は一時不知行になるが、まもなく知行を回復し、春日社・興福寺は、現地の百姓に年貢の納入を請け負わせる地下請や、伊丹与三郎親時らの在地武士を代官にする代官請などを採用しつつ懸命の努力をはらい、16世紀初頭ころまで荘園支配を存続させた。このため、九条家もそのころまで本家としての地位を維持することができた。なお、12世紀末に、これとは別に、長講堂領の荘園として生島荘が立荘されているが、詳細は不明である。
現在の「尼崎」の地は当時(平安時代)まだ地図上には存在していなかった。
長洲より南の岬に漁民(尼)が居住を始めたのは平安末期~鎌倉初期と言われている。
土曜日の句会に
冬菫どこかでお会いしましたか
という句が出ていて、私も入選とした。当日最高点句であった。
この句どこかで目にしたような気もするが・・・が私の「評」であったが、
まったくの類似句はないようである。
我が家の冬菫(匂い菫)



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