ようやくに冬越しの準備。ベゴニアを2鉢、2階のべランダまで運んだ。
残っているものも徒長気味。
なんとか越年させて10鉢位には増やしたい。
浮き沈みもあるがこれほどになるほど、今年は園芸に力が入らなかった。
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私は、電車通学で大学を卒業したので、日本では下宿生活の経験がない。
その代わりかどうか、ドイツで4ヶ月、イギリスで3ヶ月の下宿生活経験がある。
下宿経験はドイツの方が先で、世話になったのはウルリッヒ婦人というより、当時すでに80歳のおばあちゃんだった。
ガイスン夫人はイギリスでの下宿生活のおりのlandladyである。
1週あたりの下宿代がいくらかは忘れたが、支払いは本人へ渡すのではなく、
斡旋者へまとめて支払った。
平日は朝夕、土日(イギリスは週休2日制度導入の折に祝日をクリスマス以外全廃したようだ。代わって年数回月曜日が
banking holiday となり、世間一般も3連休となる日があった)は朝昼夕3食あてがいぶちであった。
ガイスン家は典型的なヴィクトリア末期(19世紀末)のレンガ作りの家であった。
もう用がなくなった筈の煙突が何本も屋根から付きだしている。
グーグルのストリート・ビューで今でも同じ家が健在であるのを確認できる。
家の一部は屋外へでないと入れない部屋になっている。
かつては家事奉公人が住んでいたのであろう。
キッチンのドアから外へ出ると、すぐ別の入り口があって、
ワンルームの部屋がある。
裏庭へ回って別の入り口から入ると、屋根裏部屋へ通じる入り口があった。
私が世話になった時には、「本館」の2階の一部屋はオランダ人のレントゲン技師研修生が下宿していた。
屋根裏部屋は下宿人というより借家人といった感じで背の高い中年の独身者が生活していた。何かの職人のようであった。
キッチンの外の部屋は空き部屋であったが、私の滞在中にトルコ人の若い夫婦が住み込んだ。
ガイスン夫人は市内にある私立女子高のロシア語の教師であった。
Landladyが勤務者であったため、かなり変則的な下宿人生活であった。(語学学校で他の「学友」と話すと
イギリス人は下宿人をキッチンへは入れないそうである)
朝飯はキッチン(とはいえかなり広い。昭和30年頃までの美作の農家の土間、土間の真中に3つ位のかまどがあった。
そこまでは広くないが50㎡以上はあった(別にドア付きの食料保存庫もあった。美作の家の味噌醤油蔵を思い出す)。私が結婚してから申し込み当選した2DKの公団アパートは全部で46平米であった。)
の入り口に近い所に配置されている6人ぐらいはゆうに座れるテーブルで、
トースト(薄黒いパン。ドイツでは真黒いパン塊であるが、それほど黒くはない。薄切りのパンで、日本ほど表面積は大きくない。
日本で食パン1枚で朝食を済ます人なら2枚半で量的に同じ位になる。)を自分でつくる。
バターも、世話になった4月、5月、6月なら食卓上に置いたまま。エダムチーズかチェダーチーズの塊。エダムチーズのこの種の大きさのものは
未だに日本では見たことがないが、ドイツではもっと大きなものをみたことがある。
それの半玉のものが置いてある。ジャムはブルーベリーのものが普通であった。
目玉焼きを自分でつくることも可能であった。
まあ適当に塩梅して食べる。
飲み物は紅茶である。これも勝手に沸かして飲む。ヤカンの内部の底に電熱線がとぐりを巻いていて、石灰で真っ白になっている。
手を入れてこすると石灰がぼろぼろとはげ落ちて来る。
ガイスン夫人は離婚経験者であったが、元の亭主が何かあると元秘書であった若い婦人を連れてやってくる。
どうしてか良く分からなかった。
ガイスン夫人が何人かの間借人や下宿人を受け入れなければならないのは、
私立高校の教師の給与だけでは広大な家屋敷を維持できなかったからであろう。
時々借金を月末に申し込まれたこともある。
いくらいくら貸してくれではなくて、センスベリーのようなスーパーなどでどっさり買いこんで、
そこで車のガソリンなども給油していると持ちがねで無くなってしまい、
ショウちゃんではない、イギリスではジョン(洗礼名がヨハネだったので)ちゃん10ポンド貸してといった具合である。
往年の1ポンドは1000円以上に値したが、変動為替相場制に移行してからは見る影もなく、当時は250円位であったか、
貸し倒れになってもこまる金額ではなかったが、貸し倒れはなかった。
私は週末はできるだけ家を空けることにして、1泊、月曜日も休日の場合は2泊の旅行に出かけた。
週末の食事負担を軽減してガイスン夫人の家計に貢献するためである。
そのかわり日帰りのサイクリングなどを計画した場合はサンドイッチの弁当や飲み物(紅茶)を用意してくれた。
時には周辺の町へのドライブにも誘ってもらった。
残念ながら中世の面影を強く残す連れて行ってもらった町は、聞き覚えのない町ばかりで名前を全然覚えていない。
友人がゴダルミンという町にある由緒ある全寮制パブリックスクールで寮母のような仕事をしていたので、
そこへ連れて行ってやろうということになり、全寮制パブリックスクールの貴ひん室へ泊めてもらったことがある。
夜に中学1年生位の小さな子が寮母の部屋へやってきて誰かがお腹が痛いといっているなどと告げに来るのである。
やおら寮母の出番である。ちょうど(運よく?)そういう場面に遭遇した。
中学一年から高校3年くらいまで生徒の部屋も案内してもらった。
豪華な部屋もある。部屋の前にプレートが掲げられ、この部屋は○○公爵が何年から何年まで在住などと記されている。
こんな部屋は特別料金がかかるのであろう。
中学一年生は4人の相部屋。それが2年では2人に、3年になると一人部屋になる。
上級生で学年を代表する級長さんの部屋は、会議が出来るほど広い。
翻訳小説では監督生といった訳語がついている特別の用語がある。しかも時に、パブリックスクール毎に名称が異なる場合がある。
ガイスン夫人は独り住まいであったが、息子と娘がいた。娘さんはまだオックスフォード大学に在学中か、卒業して他の町で職についていたか?
息子は私が下宿生活を始めた時は入院中でだった。最初の入院ではなかったと思う。
坂道(イギリスの街中にも少しは坂道がある)を自転車で下っている時にチェーンが外れて
横転し、そこへ後続のトラックが乗り上げタイヤで大たい骨周辺や内臓を傷つけた。
再手術やリハビリのために何度も入退院を繰り返していた。
私がピーターと口をきくようになった頃は日本では言えば1級身体障害者で、松葉つえなくしては
歩けず、片方の靴には調整用のしきりが入っていたよう。
かれが我が家に来た時に、靴を脱いでもらうのが気の毒であった。
後で学友などがやってきて聞くに、大学時代はスポーツマンであったらしい。
二人の子供をオックスフォード大学で過ごさすのは、高校教師の給与では大変であったよう。
学費や寮費が国庫負担であっても、その他の諸経費が結構かかる。
元の父親は事業に成功したようなので、そこから援助が出ていたかも知れないが、
あるいはそういうことも日常会話の中で傍でなされていたかもし知れないが
聞き取れないので(なかった)分からない。
ガイスン夫人についてはまだ10回位続編を書かねばならない。
ピーターは毎年クリスマスカードを呉れる。
イギリス外務省に職を得て、最初は日本担当、やがてロシア担当、そのご中国担当などに就いていたようだが
卒業時に正規の公務員試験を受験した者ではないようである。別枠、特別枠(多分障害者向け)で入省したのであろう。
ピーターは私のクロケーの先生である。夜10時過ぎまで家の庭で遊んでいた。1982年のことである。
6月に下宿生活は終ったが、それ以降も週末にはガイスン邸でよくクローケーをやった。
1983年に帰国すると日本では同じようなゲームが大はやりであった。ゲートボールなど1982年3月まで日本ではやっているのを
みたこともなかったが、1983年では誰もが知っているゲームになっていた。
日本の新聞を読んで、ロンヤスも分からなかった。
たった1年の空白で、理解できない新聞記事が増えていた。
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