- 屠蘇くむや流れつつ血は蘇へる 加藤楸邨
- 金泥の屠蘇や朱塗の屠蘇の盃 漱石
- 屠蘇祝ふ傘寿の母を戴きて 大橋敦子
- 屠蘇注ぐや吾娘送りきし青年に 加倉井秋を
- 大和一の宮三輪明神の屠蘇給ぶ 安住 敦
- 白朮酒といひて屠蘇とはいはざりし 後藤比奈夫
- 金泥の鶴や朱塗の屠蘇の盃 夏目漱石
- せはしなき人やと言はれ屠蘇を受く 水原秋櫻子
- 屠蘇つげば頬白鶲つぎつぎに 黒田杏子
- 屠蘇酌んで悔なき生と思ふべし 鈴木真砂女
- 音楽の鳴らぬ他郷の屠蘇に酔ふ 八木三日女
- 屠蘇の座のその子この子に日がさし来 加藤知世子
- 屠蘇注ぐや吾娘送りきし青年に 加倉井秋を
- この窓も大島の景屠蘇をくむ 山口青邨
- 屠蘇の酔ひ醒ます土竜の土を踏み 奥谷亞津子
- 父の座は床の間のまえ屠蘇祝う 森松 清
- 曽孫にも屠蘇舐めさすと騒ぎをる 武井三重
- 人の世に素直に向ふ屠蘇機嫌 岡本まち子
- 屠蘇祝ふ病みても夫の長寿眉 増田 富子
- ひとりくむ屠蘇にかなしや酔ひ心地 菖蒲あや
- たくましき子の手となりぬ屠蘇をつぐ 八木けい子
- 屠蘇飲むは幸を飲む如くなり 相生垣瓜人
- 次の子も屠蘇を綺麗に干すことよ 中村汀女
尼崎戎神社 本番は9~11日
神社内にミモザの木は珍しい。幼木であったが成長が早い
蕾をつけている。花時は3月中下旬
2日の水菜雑煮食って、17歳と散歩。出屋敷駅までバスに乗って
出屋敷駅→貴布祢神社→寺町→尼崎戎→阪神尼崎 直線距離1,2㌔ 寺町は5か寺ほどを覗いたので計6000歩
じ~じお腹減ったでがんこへ 家はカレーだったらしい。
カウンター席で
ほぼ毎年数回はこの界隈で一緒に昼食摂るので、初めての店はなくなってきている。
尼崎戎からがんこへ向かう途中に新しい案内板を発見
白髪一雄:
白髪 一雄(しらが かずお、1924年8月12日 - 2008年4月8日)は、日本の抽象画家。
兵庫県尼崎市西本町に生まれる。生家は呉服商。尼崎市立第三小学校(現尼崎市立明城小学校)に入学。その後、新設された尼崎市立竹谷小学校に編入して卒業。兵庫県立尼崎中学校(現兵庫県立尼崎高等学校)の在学時に絵画部に入ったことがきっかけで画家を目指すようになる[1]。京都市絵画専門学校(現京都市立芸術大学)日本画科を卒業後、油絵に転向。大阪市立美術研究所に学ぶ。
1952年、金山明、村上三郎、田中敦子らと0会結成[2]。また、同年に結成された現代美術懇談会に参加[3][4]。1955年、具体美術協会に参加。
1971年、比叡山延暦寺で得度。1999年、文部大臣から地域文化功労者を表彰。2001年、「白髪一雄展 "アクション・ペインター"の代表作展」(兵庫県立近代美術館)が開催された[3]。
更地になって新しい建物が建築中で、ほぼ完成したあと張られたよう
白髪さんの代表作
床に広げたカンバスの上に絵の具を置き、天井からぶら下がったロープにつかまりながら裸足で描く手法を考案。70歳を超えてもなおこの手法を貫いた [5]。
- 『陽華公主』
- 『臙脂』
- スターバックスコーポレーションの会長兼社長兼最高経営責任者、ハワード・シュルツ専用のオフィス・ルームには、白髪の『臙脂』が飾られている[7]。
- 『作品Ⅰ』
- 1958年、油彩、布、182.8×243.0cm、兵庫県立美術館蔵
- 『タジカラ男(お)』
- 『作品B』
白髪さんの作品の常設展は、市の文化ホール内にある。なんどか覗いたことがある。
本興寺の冬桜
↑竜吐水の傍
もう1本はあまり日当たりの良くない場所
それでも
山門は工事中
貴布禰神社山門
HPから:
貴布禰神社は「尼のきふねさん」で親しまれる尼崎屈指のお宮です。かつて尼崎城主のご祈願所を務め、たびたび雨乞いの神事が行われてきた市内唯一の元縣社です。
戦後は工都・尼崎の守護神として信仰も篤く、毎年8月に行われる夏祭りは、約8万人の参拝客で賑わいます。
2日はどこも空いている。 HPより:
創建年代は明らかではありませんが、摂津志には嘉暦元年(1326)に創建されたと伝えられています。尼崎城内三ノ丸に鎮座していましたが、元和3年(1617)の戸田氏鉄による改築城の際、現在の西桜木町に、現社地には正徳5年(1715)に遷座しました。
山車の数は8つ
山合わせは8月1日
山合わせ遅参早退市長さん
ここでは県の局長さんが主賓なのが御気に入らないか。2年まえの作。
裏鳥居は享保2年
尼崎神社案内より:
貴布禰神社は全国に約460社(その内、福岡140社、大分94社)あり、総本宮は京都・鞍馬の貴船神社。伝承によると「神武天皇の皇母・玉依姫命は雨風の国潤養土の徳を尊び、その源を求めて、黄船に乗り、瀬戸内から尼崎、淀川、鴨川を遡り、その川上貴船川の上流のこの地に至り、清水の湧き出ずる、霊境吹井を認めて、水神を奉斎す」とある。この尼崎とは旧社地(長洲)と推察される。
京都の貴船神社は表記が違うが、これは明治4年に太政官達を以て変更されたもので、それまでは気生嶺・気生根・木生嶺・木生根・黄船・貴布禰・木船と諸書に見られる。降雨、止雨を司り、降った雨を地中に蓄えて適量湧き出させる働きを司る神様。水は万物の命の源であり、水がなければあらゆる生物は命を維持することができない。片時もおろそかにすることができない大切な水を供給する水源の神様である。
長洲貴布禰神社によれば、平安京遷都の折、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が任務の成就を己が護神に祈願したところ、予定通りに事が運び、報謝のために吉備真備(きびのまきび)に謀りこの地を定めて社を奉建したと伝えられる。長洲貴布禰神社は京都鴨社の社領である長洲御厨に位置し、長洲の集落の微高地に建てられている。
大覚寺との関係が多大で、加茂の御厨の雑掌として鎌倉末期に尼崎・長洲の地に来た大覚寺が、賀茂御厨の守護神として賀茂別雷大神と賀茂御祖大神を奉斎していた。その後、貴布禰社を京都より勧請して自寺の境内社とし、賀茂社を吸収したものと考えられる。この三神は鴨川水系の同系神と見られ合祀されたようである。その後、同寺の南進に伴い当社も転々とした。
1500年代の尼崎築城とともに城内三の丸(旧尼崎市役所付近)に鎮座
燈籠は文化年中
平重盛の寄進になる赤門を持つ専念寺 この寺が寺町11カ寺の一番西(貴布禰神社より)にある。
夕食は6時前から
8人集合
総勢は11名だが調整がうまくいかない
メインはなんといっても小学生の若手バイオリニスト
ピアノはユーチューブでの独学らしいがなかなかのもの
演奏後
今日見た花
冬桜
右手に見えるのは笠塔婆
花とは言えないがピラカンサ