摂津国分寺(せっつこくぶんじ)は、大阪市北区にある真言宗国分寺派の寺院。
由緒ある寺ゆえにこの地区自体の町名が国分寺町である。
寺伝によれは斉明天皇の頃、日本法相宗の祖・道昭が孝徳天皇の菩提を弔うために難波長柄豊碕宮の一角に建てた長柄寺を起源とする。天平13年(741年)、聖武天皇の国分寺創建の発願により、長柄寺が摂津国の国分寺になったという。後には歴代天皇十四帝の勅願道場となっている。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の戦火にあい全焼。そのまま江戸時代の初期、約百年近くに渡って荒廃してしまう。享保3年(1718年)、中興の祖・快円律師によって復興し、後には関所道中御免の鑑札発行所としての特権を江戸幕府から与えられている。
明治時代となり、廃仏毀釈の混乱で境内が大幅に縮小するも1897年(明治30年)にようやく教昇大僧正が諸堂を営繕して整え聖武天皇尊殿や記念碑を建立している。
しかし、1934年(昭和9年)の室戸台風により甚大な被害を受けその修復もままならない1945年(昭和20年)6月15日の第4回大阪大空襲で旧書院門(現山門)を残し、寺宝諸共全て灰燼に帰した。
↑この門以外はすべて往時のものは失われたよう。
戦後、またしても境内地を大幅に縮小するも、1947年(昭和22年)には真言宗国分寺派本山となって独立する[2]。1965年(昭和40年)には昭和金堂を落慶させている。
国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。
正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。
↓の前の同rを隔てた公園の一画
慰霊碑 天六バス爆発の犠牲者を弔うもの
その日私もその近くにいた。
国分寺内にも慰霊堂がある。
天神橋六丁目と国分寺町は境を接している。
句碑
泳ぎ出て淋しくなりぬ雲の峰 雲啼
摂津名所図会
国分寺 国分寺村にあり。正国山金剛院と号す。真言律宗。
本尊阿弥陀仏 聖徳太子御作、座像、三尺五寸ばかり。
赤不動尊 弘法大師作。初めは高野山に安置しけるなり。
敷石地蔵尊 初め玉造鍵屋坂にありしなり。
当寺は国毎の国分寺のその一箇寺にして、本願は聖武帝、開基は行基僧正なり。
荒蕪の後、快円比丘中興して律院となる。国分寺料むかしは一万五千束、その外施料の事、『延喜式』あるは『文徳実録』にも見えたり。また東生郡にも国分寺あり。いづれ一ヶ寺は国分尼寺の跡ならん。後考あるペし。
ウィキペディア:
摂津名所図会(せっつめいしょずえ、『攝津名所圖會』)は、摂津国の名所を絵画と文章で紹介した地誌である。
京都の町人・吉野屋為八が計画し、1796年(寛政8年)-1798年(寛政10年)に刊行された9巻12冊となる摂津国の通俗地誌であり観光案内書でもあった。
編集は俳諧師・秋里籬島(あきさと りとう)が担当し、絵は『名物浪花のながめ』(絵本)や『鳥羽絵欠び留』などを描いていた絵師・竹原春朝斎(たけはら しゅんちょうさい)が担当。秋里籬島による名所の由来記、竹原春朝斎による俯瞰図を多用した挿絵が特徴である。この2人は、1780年(安永9年)に刊行された京都の案内書『都名所図会』(6巻11冊)を皮切りに、その後、吉野屋為八が企画した多くの「名所図会」を手がけていた。その上、籬島、春朝斎以外にも編者や画家として、たとえば絵師の丹羽桃渓らの参加を求めたので、「名所図会」は見た目が一層にぎやかになった。
秋里籬島、竹原春朝斎が中心となった大坂シリーズには、この『摂津名所図会』以外に、『河内名所図会』『和泉名所図会』『住吉名所図会』があった。なお、歌川広重にも『浪花名所図会』がある。また東都の『江戸名所図会』が刊行されるのは、この『摂津名所図会』刊行の約40年後のことである。
今日の花オキザリス
今の時期オキザリスの名で売られているのはこの花 「モモノカガヤキ」(桃の輝き)
徒歩20分ほどのホームセンターでは
オキザリスの名でもう1種が並んでいた。
こちらはかたばみ特有の葉形をしている。「雅」と名札が付いていた。
どちらも日本で作出されたのであろうか。
OXALIS VULCANICOLA
ちなみにピンクの花の方の学名は oxalis momonokagayakiである。