ルエリアは中央アメリカ原産
ブッシュになるのはヤナギバルエリア
これはムラサキルエリア
いつが盛期かわからないが今の時期にも花数が増えている。
この花が咲くお宅から東へ向かうと数分で駅前。
駅前の高層建築現場が見える
高いパネル形式の囲いが取り払われ、工事現場が良く見えるようになった。他の場所でも同じような措置がとられている。
基礎工事の段階では工事現場の横を通っても中が見えないのに、地上階の建設が始まる頃には↑のような囲いに代わる。
境界面の排水溝ないし道路との仕切り付近に工具が入るためだろうか
これは東側の2階通路からの画像
東側は背の高いパネル型囲いが維持されているが、以前のものとは違うかも
壁面に貼られていた店舗案内等がなくなっている
土木や建築に関する基礎知識がまったくないので、工事の進捗状況などはまったく分からない
ここに15階建てのビルが建つ。3階までが商業施設で、それより上はマンションのはず。
この部分が工事中のため
幽霊の基礎平面がチェロである 夏石番矢
2階通路に面した広場は閑散としている。
この背の高い植物は
ひまわりかと思ったが花の姿がない
元号俳句と題するエッセイを書き上げて送付。
一部 明治の部分のみ紹介
元号俳句の元祖さんと言っても反対者0であろう。
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男
明治末年に小学校に入学した人の中には、中学高校は大正、大学卒業時には昭和に改元という経歴の持ち主もいる。明治三十四年生まれの草田男の場合は、尋常小学校を終えると大正に改元、中学、高校での休学もあり、東京帝国大学文学部に入学した翌年には昭和に改元された。新興俳句運動が始まり、九月には柳条湖事件が起こる昭和六年、満三十歳の誕生日を迎える前に、母校である小学校を訪ね、この句を作った折には独文科から国文科へ転科、大学の卒業時には三十二歳になっていた。一九七七年、母校である小学校にこの句碑が建立された。
草田男が明治を「遠くなりにけり」と嘆じたのは、大正の十四年を挟んで、わずか二十年前のことである。
草田男よ明治は遠くならぬ「君が代」の歌復活
橋本夢道
「君が代」が国歌として復活したのは一九七七年。
奇しくも、草田男の句碑が建立された年であった。 草田男のこの句が知られるようになると、明治を詠う場合にはこの句を意識せざるを得ないほどの影響力をもった。著名俳人の明治を詠った句を以下に並べてみたが草田男の句ほどインパクトのある句はないようである。
外套の裏は緋なりき明治の雪 山口青邨
身に入むや焚く人のなき明治の炉 鷹羽狩行
柏餅家に明治の掛時計 辻田克己
芽柳や明治の鉄の橋架けて 石塚友二
明治の死暮春一瞬すきとほり 橋本榮治
豊年や明治トンネル口すすけ 平畑静塔
かにかくに明治は恋し菊膾 富安風生
鳥雲に入るほど遥か明治の世 能村登四郎