墨染寺門前
禅宗寺である。伊丹城の砦跡らしい。
上島鬼貫の碑があることを伝えている。
ウィキペディア:
源義仲が創建した七堂伽藍を構える巨刹であったが、天正7年(1579年)荒木村重の有岡城の戦いで焼失した。[1] その後、道元禅師旧跡の墨染寺(京都市伏見区)が荒廃したため、伊丹の住人加楽井氏が有岡城の支城であった上﨟塚砦の跡地に遷座して再興した。
後には荒木村重の菩提所となる。
寛文年間(1661年~1672年)には池田の大広寺に属し、宝永年間(1704年~1711年)に上島常音が再建して、大広寺十六世雲峯瑞大和尚を開山とした。 現在の堂宇は平成7年(1995年)の新築。
本殿前の燈籠。元禄の年号がはっきり読み取れる。
寺そのものが上島家による再興なのである。
↑が「鬼貫碑」
鬼貫句碑と鬼貫親子墓
秋ハ物の 月夜烏は いつも鳴
鬼貫の伊丹市内にある句碑については、「鬼貫句碑巡り」に詳しい。
女郎塚 遊女墓ではない。
天正7年(1579年)の有岡城落城後、織田信長は城中の婦女を1所に集めて焚殺させた。 その供養塔で、表に草書体で「女郎塚」、右側に天正7年己卯12月13日落城と刻む。
そのまた横の九層塔
荒木村重の墓と伝えられてきた九層の石塔。正和2年の銘がある。
ただし正和2年は、荒木村重の時代(16世紀後半 村重自身は江戸時代になっても生き延びていたらしいが)よりも250年以上前の年号である。
九層塔は他のものから転用されたのであろうか。
荒木村重;
天文4年(1535年)、摂津国池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(よしむら)[1]の嫡男として池田[5]に生まれる。荒木氏は波多野氏の一族とされ[6]、先祖は藤原秀郷である。
鬼貫もまた奥州藤原氏を先祖としている。
荒木氏と上島家は同族ということになる。
伊丹シティホテルを挟んで墨染寺と、鬼貫の生誕地(跡)はほぼ直線状にある。
ホテルから道を渡って三井住友銀行に向かうと、鬼貫句碑の背面に出会う
酒樽の菰に記された「商標」↑
旧伊丹酒造組合所蔵の印帳は、酒銘の所謂登記簿の様なもので、極近年の幕末頃のものまで記入されているがこの中にある鹿島や茂兵衛の商標は 白鹿
等が載っている。(鹿島や清太郎と茂兵衛は同一家である)叉この印帳の初めの方に載っているのは古いもので正徳の油屋の顔ぶれが見える。例えば八尾八左衛門は紙屋八左衛門であり、小西新右衛門は薬屋新右衛門、上嶋八郎兵衛は油屋八郎兵衛、柄谷庄右衛門は植松庄右衛門である。
上島は上嶋と表記したのかも。
如つほ里と秋の空なる富士の山
この筆跡は
↑の真ん中に展示されているものを写したのでだろう。
今柿衛文庫では
鬼貫展をやっている。岡田柿衛さんが集めた色紙などを展示している
岡田さんは、小林(おばやし)にあった聖心女子大の短期大学部の教授をなさっていた。
私が中学生の頃は、伊丹のカトリック教会の信徒総代的存在であった。
他にもこの大学で教鞭をとられた人を知っているが、その人曰く。
今でも阪急の駅で聖心の小学生などを見かけるとその母親の名前を言い当てることが出来ると。
↑旧岡田邸 ↓石橋邸 北側に柿衛文庫がある。