市内にいくつかある近松関係モニュメントの一つ。
近松公園へ行く道の角の立っている。
尼崎公式案内より
行動美術協会の彫刻家・小林陸一郎さんの作品で、近松作品の陽と陰を表現したものです。○と―のデザインは近松の紋所をアレンジしたもので、1986年(昭和61)に市内のライオンズクラブから市に寄贈されました。
近松公園東側、近松線沿いにあります。
伊佐具神社の石碑
この書体は独特。江戸期からつづく石屋ないし彫師に聞いてみたいことがある。
一見かなり乱暴な書体である理由を
伊佐具神社の「自慢」は、市内唯一の式内社であること。
延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。
本来「神名帳」とは、古代律令制における神祇官が作成した官社の一覧表を指し、官社帳ともいう。国・郡別に神社が羅列され、官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒などの記載はない。
延喜式神名帳とは、延喜式の成立当時の神名帳を掲載したものである。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社で、そこに鎮座する神の数は3132座である。
式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社で、その選定の背景には政治色が強くみえる。当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺となった神社、僧侶が管理した神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿がなかった神社などが含まれる。式外社だが六国史に記載がある神社を特に国史現在社(国史見在社とも)と呼ぶ(広義には式内社も含む)。
もう一つは赤松円心ゆかりの社である。
神社の案内より
赤松(則村)円心(西暦1277-1350)は、当初は後醍醐天皇を助けて働きましたが、建武の中興が武士団に不公平な政策であることに心を痛め、のちに足利尊氏に力を貸した、優れた武将でした。
戦国時代まで播磨國を支配した大名、赤松氏の先祖です。
円心は幾たびもの合戦を経験していますが、当社近くに布陣して奮戦したこともありました。
社殿右手に舟形の大石が横たわっています。社伝によれば、この石の下には円心の甲冑など武具が、必勝を期して伊佐具大神に埋納されたと言われています。ただ、無礼に掘り起こされることを嫌って大石を被せるように納めたということですので、調査は行っていません。
『太平記』によれば、赤松方3千、鎌倉幕府方23万という圧倒的戦力差ながら、円心は勝利したとされています。
境内の一隅には赤松円心を偲び、供養したという塔頭が建てられています。
他にも行在所跡があること
行在所とは、天皇が遠出をなさるときの仮の御所のことを言います。
あの「大化の改新(西暦645年)」の時の天皇である孝徳天皇が、難波長柄の豊碕(難波宮)に遷都なさったとき、当社近くに上陸され、風光明媚な景色をお歓びになって行在所「小墾田宮」を営まれました。
碑に「おはただの 板だの橋の と絶えしを ふみなおしても わたる君かな」(源実連)と刻まれています。
私には源実〇しか読めない
伊佐具神社西にお堂があり、観音様が祀られています。この観音様はもとは福円山浄徳寺といい、伊佐具神社末社、白龍稲荷神社の場所にありました。そしてこのお稲荷さんのお社は一見してお寺のようです。
慶応4(1868)年3月28日、新政府はすぐそこに迫った明治に備え神仏判然令を発し、神社の神域に仏堂がないようにしました。神仏判然令といえば排仏棄釈と結びつけられることがありますが、地域の人々の神仏を敬う心がこのような穏やかな分離を行わせた証左ともいえるでしょう。観音様には新しくお堂を建立し、いわば空き家になったお堂をお稲荷さんのお社としたのです。
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バックウォーターという語覚えた梅雨明けた
救急車の湯気たつルーフ大夕立
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