御節料理(おせちりょうり)は、節会や節句に作られる料理[1][2]。節日のうち最も重要なのが正月であることから、正月料理(しょうがつりょうり)を指すようになった[3]。単におせちともいう(注釈)。
2018
「おせち」は「御節供(おせちく、おせつく)」や「節会(せちえ)」の略であり[1][4][5]、中国から伝わった五節供の行事に由来する[6]。奈良時代には朝廷内で節会(せちえ)として行われ、そこで供される供御を節供(せちく)と言った。現在のような料理ではなく、高盛りになったご飯などであったとされる[7]。
この五節会の儀を一般庶民がならって御節供を行うようになったものと考えられている[8][注釈 1]。もともとは五節句の祝儀料理すべてをいったが、のちに最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになった[5]。正月料理は江戸時代の武家作法が中心となって形作られたといわれている[9]。
江戸時代、関西では「蓬莱飾り」、江戸では「食積(くいつみ)」、九州の佐賀・長崎などでは「蓬莱台・手懸け盛り」[10]と称し歳神様に三方などでめでたい食べ物などを床の間に飾り、また年始の挨拶に訪れた客にも振舞ったり家族も食べたりした。
嗚呼傍廂(1853年)によれば天明の頃までは食べていたがそれ以降は飾るだけとなり、正月料理は重詰め等へと変化していく。膳に盛られた料理と重に詰められた料理が用意され、このうち膳に盛られた料理を「おせち」と呼んだ[11]。のちの「東京風俗志」(明治34年)によるとお膳に供えた煮物を「御節」、重詰めしたものを「食積」と呼んでいる[注釈 2]。
重箱に本膳料理であった煮染めを中心とした料理が詰められるようになり食積と御節の融合が進んだ。現在では重箱に詰めた正月料理を御節と呼ぶようになっている[12][13]。重箱に御節料理を詰めるようになったのは明治時代以降のことと言われている[11]。
重箱に御節を詰める手法が完全に確立した時期は第二次世界大戦後でデパートなどが見栄えの良い重箱入りの御節料理を発売したことによるとも言われている[14]。正月料理の重詰めについては江戸時代の文化・文政年間の料理茶屋における料理の影響を受けているとみる説もある[9]。
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元旦にお節の画像なし 2013年12月の画像より
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ブログは2011年の秋に開設したので、
2011年元旦の画像はない。
- 頭の大き子規の画像に冬籠る 原裕 『出雲』
- 春火桶伐折羅画像を師と見つゝ(谷沢白城氏居二句) 『定本石橋秀野句文集』
- 遺画像は青きくち唇まげ藁ぼつち 岡崎万寿
- 顔大き虚子の画像を祀りけり 石倉啓補
- 屠蘇の座や画像の父の笑まひまし 小原菁々子
- 惜春の虚子の画像に対すかな 大橋敦子
- 釈迦牟尼の画像金色夏花赤