尼崎藩主松平(桜井)
は7代。
松平〔桜井〕家
譜代 4万8千石→4万石→4万5千石 (1711年 - 1871年)
この間、湊川神社なるものは存在していなかったが、楠木正成の墓所は1336年、楠公死去の年に造営されたようであり、16世紀末の秀吉の検地によっても東西4間南北6間は免租地に指定されたようである。荒れ果てた墓地で
なでしこにかかる涙や楠の露 松尾芭蕉
と芭蕉が詠んだ。元禄元年(1688年)のことである。
余談だが、1689年には、ショウちゃんのご先祖さんが、美作内の転居により、明神村から
引っ越して現在地へやってきた。
西軍 毛利藩の(多分下級)武士として戦い、傷つき、たった一日の関ヶ原の戦いの翌日9月16日に死去している。それから89年を経て何故、どのような位置付で現在の村へやってきたのかが分からない。これが分かった時点で、現世代(あるいは前数代の世代)が知らなかった事実が加わるので、1冊にまとめたいと思っている。
そう思って20年の月日が経ち、20年間の移動(出産、結婚、死亡)の追加記入をしなければならない。気力・体力がもつかどうか?!
墓域の近くで、後醍醐天皇の勅願で創立された広厳寺の住職が、「大日本史」(1657年)を纏め、南朝正統史観を打ち立てた水戸光圀に墓碑建立を願う。
1692年光圀直筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」竣工。3間四方の碑堂は1695年に完成した。
1751年尼崎藩主松平家2代目の忠名(ただあきら)が石灯籠を寄進。
以降歴代藩主が石灯籠を寄進する。
↑第6代 松平忠栄(ただなが)の寄進
松平忠栄文化元年(1804年)12月、第3代藩主・松平忠告の九男として生まれる。文政12年(1829年)に甥で第5代藩主の忠誨が死去したため、その養子となって家督を継いだ。天保8年(1837年)に大塩平八郎の乱が起こると、土井利位に従って鎮圧に貢献した。天保13年(1842年)には大砲7門を鋳造している。
嘉永6年(1853年)のペリー来航では、幕府に対して鎖国をあくまで堅持するよう提言している。翌年にロシア船が大坂に現れると、大坂の警備を務めた。なお、このような出費続きで藩財政が逼迫したため、鶏卵を専売している。文久元年(1861年)8月6日、病気を理由に家督を七男の忠興に譲って隠居する。明治2年(1869年)9月7日、尼崎で死去した。享年66。
著書に「胎蕨編」がある。
上の碑でも天保13年3月と読める。
↑第7代忠興(ただおき)寄進のもの
松平忠興
弘化5年(1848年)1月18日、第6代藩主・松平忠栄の七男として生まれる。
文久元年(1861年)8月6日、父の隠居により家督を譲られる。慶応4年(1868年)1月の戊辰戦争では新政府に恭順し、所領を安堵された。2月に徳川氏との訣別の証として姓を桜井と改称する。
明治2年(1869年)の版籍奉還で尼崎藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で知藩事職を免職された。明治6年(1873年)1月、東京へ移住する。明治10年(1877年)、博愛社(後の日本赤十字社)の設立者のうちの1人となった。尼崎城址の一角に建立された桜井神社には博愛社の記念碑がある。明治17年(1884年)に子爵に叙せられた。
明治28年(1895年)4月29日に死去、享年48。
全部で6基あるはずだが、撮影後に松平7代の名前を確認したばかりで、1,2,3・・と数え切ってはいない。文化6年、第4代松平忠宝(ただとみ)のもの↑
この地点は尼崎藩の領内であった。ウバラ郡でも魚崎や御影など酒蔵があって実入りのいいところは幕府に取りあげられ、代わりに赤穂や宍粟などかなり遠隔地の村村が尼崎藩の支配下に置かれたようだが尼崎藩の財政はどんどん悪化していったようである。
そういう関係で墓碑堂の横に水戸光圀の銅像も立っている。
弘化3年(1846年)には西国街道に標石が建った。
尼崎藩の領界石によく似ている。
1864年に薩摩藩、尾張藩、水戸藩などが神社建設を請願
1868年明治天皇の勅許あり、1872年に湊川神社が生まれた。
この神社に、神社本庁の兵庫県支部が置かれている。
生田神社、広田神社が中社であるのに対し、湊川神社は別格官幣社であるからだろう。
どの神社よりも新しい創設なのに格は一番上なのである。
「忠臣」では例句探せなかった。
「忠」は作家名の中に出てくるのでそれらを削除。
残った例句も時忠をはじめとする名前の一部が多い。
本日神戸句会参加。