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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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牡丹

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6歳児と一緒に2週間前(3月末)にイタリアン・パセリの種を播いた。
種まきや挿し芽用には新しい園芸用土を使っていたが、
庭中が用土過剰状態になってきたので、
最近は石灰を撒いただけのものを再利用。
結果的に各種各様のもの芽吹いてきた。
イタリアンパセリは初めてなので、
どれが残すべきものか分からない。
猫缶さんわかりますか?

肝心のパセリは芽吹いていないとか・・。

農業公園
牡丹はこれからである。
白雲閣↓

花王↓




花水木も咲き始めたが、樹が真っ赤になるにはまだ1週間くらいかかりそう。


尼崎市の北部地区は、東から園田地区、塚口地区、武庫地区に3分される。(阪急電車の駅名に対応している)。
塚口地区は立花地区(塚口村は合併により立花村に吸収された)と呼ぶのが一般的である。

阪急電車以南の立花地区には庄下川沿岸という大公園がある。
下流で昆陽川と合流する地点までは両岸の川岸に遊歩道が整備されている。

園田地区の大公園は農業公園、塚口地区は緑化植物園、武庫地区には交通公園と大井戸古墳公園がある。

農業公園は八重桜、菖蒲園、牡丹園が売り、
農業公園は猪名川に接していて、土手を下ればすぐ橋があり、
その橋を渡って東岸に出れば、目の前は、尼崎伊丹西宮共同配水場で、その工事中に出土した田能遺跡(公園)、猪名川河川敷運動公園につながっている。

緑化植物園は、温室と川辺の山桜、

大井戸公園はなんといってもバラ、

武庫公園はサクラ。夏には市内で唯一ホタルが飛ぶ。

農業公園へ通じる道は浄水場(阪神水道企業団)の広大な敷地によって行き止まりになっているので、
車の行き来は少ない。広い道路の両脇に花水木(市の花木)が植えられかなり成長して盛期には見ごたえがある。



農業公園の東側の端から土手に登ると猪名川の流れが見えるとともに
私にとっては、ヘラオオバコを人に頼らず小型の図鑑と照らし合わせて同定できた記念すべき場所である。

猪名川の流れはこれで1級河川かと思うほどか細い。
川幅の10分に1以下の部分しか水が流れていない。

その理由: 1 すぐ上流で猪名川から藻川が分流する。
        2 最大の理由であろうか、阪神水道企業団が大量の水を略奪する

 それを3市で分け合う配水場の建設中に、田能弥生遺跡の発掘につながった。

イタドリ(虎杖)が成長中。


シーボルトの名を冠した植物は多い


など。イタドリもまたシーボルトが日本から持ち帰り欧米に繁茂。
いまでは第1級の駆除対象となっている。

1997年ハムステッド(大自然公園)の随所に、
Japanese knot weed 除去中の看板が立っていて土が掘り起こされていた。
土壌等の改変が禁止されている地域である。
園芸講座のようなところへ出かけて担当者にJapanese weed とはどんなもんだ?
と尋ねたら、待っておれといわれて
その人が持ち帰ったものが、ちょうど上の画像と同じ幼芽であった。

幸い私は、それよりわずか前に、スカンポ状のものではなく、この幼芽がイタドリであることを
美作の従兄から教えてもらっていた。

イギリスでは、その後7年間の試験をやって、シーボルトが持ち帰った長崎産いたどりに
有効な天敵昆虫を熊本から輸入して野に放したようである。

九州大学の研究成果

イタドリは、19世紀にシーボルトにより日本(長崎)からヨーロッパへ持ち込まれました。

当時、イギリスでも観賞用として歓迎されましたが、繁殖力旺盛で野生化し、アスファルトやコンクリートを突き破るなど猛威をふるっています。

イギリスではイタドリの生物的防除資材として日本から植食性昆虫や植物病原性微生物を導入することが検討され、国際生物的防除研究所(CABI,イギリス)と協力して研究を進めてきました。
(共同研究に関する記事が2009年8月16日の朝日新聞朝刊に掲載されました)

その結果、イタドリマダラキジラミはイタドリのみを餌とする(他の植物に害を与えない)ため環境に悪影響を及ぼさないこと、イギリスでも越冬可能であることなどが確認され、イタドリマダラキジラミを日本から導入することが決定されました。


日本も同じようなことをやって大失敗をしている。ハブ退治が好例であるが、
他にもいくつかあるようだ。

ヘラオオバコとワスレナグサ


農業公園の八重桜



昨日三菱電機の新人研修参加ご一行様と出会ったことを報告。
同期の友人で三菱電機に入社した者がいるかどうか「思案」、どうもいないようである。
工学部へ進学した友人の多くは鉄鋼関係が多かった。
前にも紹介したが、高校の1期先輩で、同じテニス部だった人が三菱電機に就職した。
この人も何年かは塚口勤務であったようだ。
一度だけ、朝の出勤時間に、駅前ですれ違ったことがある。
なんとか課長職に就いていた。
当時私が目下指導役になっている句会の指導者は、ず~と三菱電機の衛生課長であった。
そこで、衛生課長に、こういう名の課長がいるかどうか聞いてみた。
衛生課長は公務員の格でいえば、転勤のないノンキャリア組だったので、
そういえば、そういう名の新しい人が着任した位にしかご存じではなかった。


この先輩とは、まったく偶然に1997年にロンドンで再会した。

ベンツを運転していた。家賃を聞くと100万円払っているとのこと。私は14万円払っていた。
さらに12万でスターレットをレンタルしていた。

肩書きを聞くと、欧州三菱電機社長だった。

三菱電機についてはこのブログで他の件についても書いたことがある。

中学1年の時、社会科の自由研究で、友人と二人で、塚口周辺の工場見学をしてその報告を提出した。もちろん秀抜の評価を受けた。

その工場名で覚えているのは、大阪酸素、東洋リノリューム、川上塗料、森永製菓である。
特に森永はまだ公式の見学システムを構築していなかったが
原料のチョコレートが波のようにうねっている傍まで案内してもらった。
東洋リノリュームでは、見学後たくさんの見本をもらった。
阪急電車の駅の停車位置案内の下にはすべて、「川上塗料」の会社名が記されていたこともあり、
以来、塗料会社といえば川上塗料の名を思い浮かべるほど
丁寧な説明を受けた。何を記念に貰ったかは覚えていないが、訪ねた会社はみな好意的であった。

大阪酸素を訪問後、門を出ようとすると若い社員が追いかけてきて
「私はあんたらの先輩や」と挨拶してくれた。私の学校の制服は特徴があるのですぐに識別できたのであろう。

唯一の例外が三菱電機であった。

横柄な門衛の応対で、付近住民も不愉快な思いをすることがあるのではないかと思った。

ところで同じことを繰り返して書いたのは、この会社訪問をともにした友人が行方不明なのである。親は関西ペイントの重役であったように記憶している。名前は増田隆義。

大学卒業後数年で同窓会名簿はいずれも住所不明のままである。

親の住所、ないし大学卒業後まで住んでいたのは、阪急電車伊丹線の「新伊丹」駅まえの
閑静な住宅地であり、私にとっては毎日新伊丹駅を下車して登校する途中にあった。
親は金沢出身だったか、泊めてもらった時、朝食に鼻つき飯を出されて驚いた記憶がある。
まさにご飯に箸をつけようとするとご飯のてっぺんが鼻についてしまうほど、ひや飯が盛り上がっていた。
それが金沢の慣行でなければ福井であったかも。


友人はやや肥満であった。私はやせぽっちであった。このご飯は半分も食べれなかったように
思う。

同じ伊丹南小学校を卒業して、3人受験2人が合格ということで、この友人とは
中学・高校・大学(彼は同志社大学だった)と仲良く付き合った。
園田の競馬場へ一緒に行った。
私は賭けるような金は持っていなかったが、
彼は何レースかで当てていた。
その後阪神競馬場へ俳句の吟行会で行ったことがあるが
競馬場への(日本での)出入りは、園田へ数回行ったきりである。

彼が車を買った(買ってもらった)ので、
一緒に未熟な運転で処処に出かけた。
多田神社が多かった。
付近のゴルフ場へもぐりこんで、
碁盤と碁石を持ち込み
芝生に座って碁を打った。


母親が死んで遺産分け前を得たので
淡路島の高級旅館に夏1か月くらい滞在した時には
私もしばらく同宿させてもらった。


20畳くらいある部屋で、毎食、若い女性が侍って給仕をしてくれる。
ダンスホールがあるので食後どうぞなどといろいろ
誘ってくれるが
二人は全くその方面に関心なく
碁ばかり打っていた。
後に飽きると海が目の前に見える露天風呂風の部屋風呂にながながと浸かっていた。


船を用意したので釣りでもと誘われ
これには二人とも応じて
たくさん釣った。
その夜からはキスかなにかの揚げ物が山盛り食卓に登場した。
それに懲りて釣りの誘いも断った。

あとから思うに
その旅館の娘さんともう一人の美人がもっぱら部屋係を務めてくれていたようである。

私の父親は、警察官であり、勤務が不規則でもあったので
子供のことについてあまりうるさく言わなかったが
ある日、家族にも知らせていなかった(友達に誘われたので淡路島へ行ってくると行って家を出たのみ)のに、宿泊先を探しだし
警察電話で、「そろそろ帰って来い」と言ってきた。

私が滞在したのは1週間か10日であるが、
これほど豪華な旅館生活は以後経験していない。

3食部屋食で、毎回初めから終わりまで給仕役がそばに控えているなどという
システムは今や日本には存在しないと思う。

残念なのは食に無関心だったので、その時、どんな料理が出たのかまったく覚えていない。
その料理に追加して船いっぱい分の魚の揚げ物の船盛りが出てきた時だけはさすがに驚いていつまでも忘れない。

その後父親が後妻さんを迎え、家が勧める縁談を断ったということまでは聞いていたが
その後突然消息を絶ってしまった。

私は彼のGod Father である。私より後に洗礼を受けたので、私が代父を務めた。

私の家にもよくやってきた。相変わらず碁を打っていた。
糸でつながったウィンナーソーセージが売り出されたころで、
二人ともこれが好きで、彼が家にやってくるときにはかならず大量のウィンナーソーセージを
持参していた。
フライパンで炒めてぱくつくだけなのだが、
かれはひときわお気に入りであった。

母親は別室で和裁の先生などやっていたので
友人が来ても特に何も世話などしなかったが
帰り際にはいつも
私の妹を売り込んでいた。

その後私はカトリック学生運動にのめりこんでいったので
彼との付き合いも間遠になっていたころで
消息不明もかけ落ちでもしたのでろうくらいにしか考えていなかった。

やがてどこかで、ばったり三菱の社長のように会えるのではないかと
思っていたが、只今現在は会いたいという気持ちが非常に
強くなっている。
小学校時代からの友人と言えば彼しかいないし。

実名で紹介するのも、ひょっとしてこのブログがきっかけで
彼の所在に関係する情報が得られるかもしれないと思うので。

ということで美作紀行文はさらに順延




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