倉敷界隈の紅葉(昨日UPできなかった分)
↓ホテル「山桃花」の庭↑
寒いので座る人はいない。
↑楽天イーグルズ秋期キャンプ一行様宿泊ホテル 歓迎幟がいっぱい吊るされていた。
大原美術館裏庭↓市に寄贈されたそうである。
倉敷の川沿い散歩にはボランティアガイドが手配されていた。
「上倉敷」について尋ねてみた。
よくご存じであった。
先年に訪ねられたとか。
そもそも上倉敷の方が先に倉敷を名乗っていて、
我が町も上倉敷のように倉の並ぶ町になりたいと思って
倉敷という地名が出来たそうである。
すなわち、下倉敷の繁栄を見て、倉敷の名を返上して林野という町名に変更した美作の倉敷の方が先輩だったのである。
先輩の町には、もう倉は余り残っていない。
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14日は平家の対源氏後退戦の古跡をたどった。
倉敷市に40年勤務した人の立案コースで
バスも宿泊先の送迎バスを利用。
乗車人数が36名なので、ホテルの大型バスで
補助席を使わずちょうど満席。
藤戸(寺)周辺を詠ったものはないと思う。「源平藤戸合戦」について、事前知識0。
ウィキペディアの解説:
寿永3年2月7日(1184年3月20日)の一ノ谷の戦いで敗れた平氏は西へ逃れた。平氏は瀬戸内方面を経済基盤としており、備前・備中などの豪族も大半が平氏家人であり、瀬戸内海の制海権を握っていた。
寿永3年/元暦元年[1]9月1日 (旧暦)(1184年10月7日)、源範頼率いる平氏追討軍は京を出発して西国へ向かった。海上戦に長けた平氏軍に対し、水軍を持たない追討軍はその確保が課題であった。瀬戸内海の武士団を味方に付けるべく、鎌倉の頼朝は9月19日に平氏から離反したと思われる讃岐国の家人に対して、西国伊予国の武士橘公業に従い、平家討伐のため鎮西に向かうことを命じている。また武蔵国の御家人豊島有経が紀伊国の守護に任じられ、兵士や兵糧の調達にあたった。また梶原景時は10月に淡路国で水軍の調査を行い、石見国の有力武士益田兼高を源氏方に付けるなど軍事・政治両面での工作活動を行っている。
しかし源氏軍の水軍確保は進まず、範頼は10月に安芸国まで軍勢を進出させたが、屋島から兵船2000艘を率いて来た平行盛によって兵站を絶たれ、11月中旬になると範頼から鎌倉の頼朝へ兵糧の欠乏と東国武士たちの士気の低下を訴える手紙が次々送られている。
現在の藤戸周辺は干拓により陸地となっているが合戦の当時は海に島が点在している状態であった。平行盛は500余騎の兵を率いて備前児島(現在の児島半島)の篝地蔵(かがりじぞう、倉敷市粒江)に城郭を構えた。九州上陸を目指す源氏軍にとって、この山陽道の平氏拠点の攻略は必須課題であり、追討軍の佐々木盛綱が城郭を攻め落とすべく幅約500mの海峡を挟んだ本土側の藤戸(現在の倉敷市有城付近)に向かう。『吾妻鏡』によると、波濤が激しく船もないため、渡るのが難しく盛綱らが浜辺に轡を止めていたところ、行盛がしきりに挑発した。盛綱は武勇を奮い立たせ、馬に乗ったまま郎従6騎を率いて藤戸の海路三丁余りを押し渡り、向こう岸に辿り着いて行盛を追い落としたという。平氏軍は敗走し、讃岐国屋島へと逃れた。
この合戦は『平家物語』「藤戸合戦」の段で9月の事として書かれ、盛綱の活躍も吾妻鏡と一致しているが、盛綱が先陣の功を狙って浦の男に地形を尋ね、浅瀬を見つけた後で口封じの為に男を殺してしまう場面は、覚一本など語り本系『平家物語』のみに見られ、延慶本や『源平盛衰記』にはない話である。
まずは平家本陣跡

ここまで書いて、「篝地蔵」周辺のいい画像がないかと思い、「篝地蔵」でネット検索。画像一覧を見ていると、数時間前にUPした私の撮影した画像がでてきた。
次にバスが停まったのは、(佐々木)盛綱橋のたもと。
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バラで購入。バスの車内で配ったが余ったので、ワイフへのお土産に。
いま刈田にて海渡る兵馬見ゆ 山口誓子
1976年の作品
山口誓子は、他にも
盛綱の駒踏みし海刈田なる
海底は刈田となりて棚田なす
海変じいま穭田が緑なす
という句を作っている。
経ケ島秋の下闇深かりし 高濱年尾