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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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平家古跡

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倉敷界隈の紅葉(昨日UPできなかった分)

↓ホテル「山桃花」の庭↑
寒いので座る人はいない。


↑楽天イーグルズ秋期キャンプ一行様宿泊ホテル 歓迎幟がいっぱい吊るされていた。

大原美術館裏庭↓市に寄贈されたそうである。



倉敷の川沿い散歩にはボランティアガイドが手配されていた。
「上倉敷」について尋ねてみた。
よくご存じであった。
先年に訪ねられたとか。
そもそも上倉敷の方が先に倉敷を名乗っていて、
我が町も上倉敷のように倉の並ぶ町になりたいと思って
倉敷という地名が出来たそうである。
すなわち、下倉敷の繁栄を見て、倉敷の名を返上して林野という町名に変更した美作の倉敷の方が先輩だったのである。
先輩の町には、もう倉は余り残っていない。
・・・・・
14日は平家の対源氏後退戦の古跡をたどった。
倉敷市に40年勤務した人の立案コースで
バスも宿泊先の送迎バスを利用。
乗車人数が36名なので、ホテルの大型バスで
補助席を使わずちょうど満席。


海鼠ともならてさすがに平家也 涼莵 (赤間関にて平家蟹といふを見て)

初詣受けて平家の赤破魔矢 百合山羽公

平家武者敗走のみち兎罠 國本正巳

河豚鍋や平家亡びし汐を見て 筑紫太郎

冬天へ杉は槍なす平家村 鍵和田[ゆう]子

平家納経紺地黄落ふりかかる 細見綾子

平家村昼ふかく来て添水聴く 高井北杜

芭蕉咲く平家名残の見張台 川勝ミヨ

紙魚の痕とどめ平家の幡守る 鷹羽狩行

長恨の丹のいろうすれ平家蟹 中原道夫

三軒の平家の裔や夏蚕飼ふ 市ノ瀬 翔子

夏潮の今退く平家亡ぶ時も 高浜 虚子

酒仕込む道具なかりし平家村 窪田英治

身にしむや平家の裔の飾太刀 高橋悦男

瓜咲かす平家の裔の一重瞼 神蔵 器

余り苗平家の墓に供へけり 飴山實 『辛酉小雪』

身にしむや平家の裔の飾太刀 高橋悦男

待宵の平家ゆかりの小さき尼寺 有賀玲子

固まつて秋蚕の眠る平家村 佐川広治

冬濤は鬼の奏でる平家琵琶 出井哲朗

錦繍の山を砦に平家村 下田千里

秋簾平家は序章より哀し 阿部正調

奥山に滝かくしたる平家村 御子柴弘子

辛夷咲く寺に伝へて平家琵琶 山本隆一

滅びたる平家の裔か桜鯛 西川織子

平家山残る伝説落し角 岡崎憲正

猪鍋や成人の日の平家村 長谷川史郊

平家納経ほのめく箔の初あかり 平井あい子

ひたに守る平家軍旗や粟干して 渡 たみ

いつよりの平家贔屓ぞ女郎花 荒井書子

月に聴く平家哀史の琵琶の音 岩田つねゑ

滅びたる平家の裔か桜鯛 西川織子

遅日なほ平家納経見つつ飽かず 原 柯城

*ささげ赤し落人らしく平家住む 阿波野青畝

紫蘇の実のふたいろ平家部落かな 上野登み子

夏潮の今退く平家亡ぶ時も 高浜虚子

いく尾根の果とし雪の平家村 桑田青虎

流し雛平家滅びしさまにかな 小路生雅

十六夜や海の底より平家琵琶 成瀬櫻桃子

冬すみれ汝も平家の裔として 津田清子

青梅雨や呂の音はねる平家琵琶 浅野岳詩

夏潮の今退く平家亡ぶ時も 高浜虚子

平家読むうしろ十能の火が通る 猿橋統流子

つつしみ繰る平家の系図冬の日に 杉本寛

草をたつ平家蛍の一火二火 赤松[ケイ]子

平家とふ詩をもて秋を惜しみけり 西本一都

瀬戸夕焼平家不幸と誰が決めし 三好潤子

平家納経紺地黄落ふりかゝる 細見綾子

秋潮の満ちくるときに平家琵琶 佐川広治

尿道を断たれてをりて平家蟹 斉藤夏風

夜の秋の平家におよぶ話かな 大峯あきら

平家納経紺地黄落ふりかかる 細見綾子 天然の風以後

夏潮の今退く平家亡ぶ時も

漂着の平家供養の盆踊 山口誓子 紅日

くらやみに なおも花散る 平家琵琶 伊丹三樹彦 花恋句集二部作 夢見沙羅

五月雨の端居古き平家をうなりけり 服部嵐雪

月の夜やなすこともなき平家蟹 井上井月

よろよろと平家蛍の草隠り ぱらりとせ

五月雨の端居古き平家ヲうなりけり 服部嵐雪




上に詠われているのは、さらに西の壇ノ浦が多い。

藤戸(寺)周辺を詠ったものはないと思う。「源平藤戸合戦」について、事前知識0。

ウィキペディアの解説:
寿永3年2月7日1184年3月20日)の一ノ谷の戦いで敗れた平氏は西へ逃れた。平氏は瀬戸内方面を経済基盤としており、備前・備中などの豪族も大半が平氏家人であり、瀬戸内海の制海権を握っていた。

寿永3年/元暦元年[1]9月1日 (旧暦)(1184年10月7日)、源範頼率いる平氏追討軍はを出発して西国へ向かった。海上戦に長けた平氏軍に対し、水軍を持たない追討軍はその確保が課題であった。瀬戸内海の武士団を味方に付けるべく、鎌倉頼朝9月19日に平氏から離反したと思われる讃岐国家人に対して、西国伊予国の武士橘公業に従い、平家討伐のため鎮西に向かうことを命じている。また武蔵国の御家人豊島有経紀伊国守護に任じられ、兵士や兵糧の調達にあたった。また梶原景時は10月に淡路国で水軍の調査を行い、石見国の有力武士益田兼高を源氏方に付けるなど軍事・政治両面での工作活動を行っている。

しかし源氏軍の水軍確保は進まず、範頼は10月に安芸国まで軍勢を進出させたが、屋島から兵船2000艘を率いて来た平行盛によって兵站を絶たれ、11月中旬になると範頼から鎌倉の頼朝へ兵糧の欠乏と東国武士たちの士気の低下を訴える手紙が次々送られている。

現在の藤戸周辺は干拓により陸地となっているが合戦の当時は海に島が点在している状態であった。平行盛は500余騎の兵を率いて備前児島(現在の児島半島)の篝地蔵(かがりじぞう、倉敷市粒江)に城郭を構えた。九州上陸を目指す源氏軍にとって、この山陽道の平氏拠点の攻略は必須課題であり、追討軍の佐々木盛綱が城郭を攻め落とすべく幅約500mの海峡を挟んだ本土側の藤戸(現在の倉敷市有城付近)に向かう。『吾妻鏡』によると、波濤が激しく船もないため、渡るのが難しく盛綱らが浜辺に轡を止めていたところ、行盛がしきりに挑発した。盛綱は武勇を奮い立たせ、馬に乗ったまま郎従6騎を率いて藤戸の海路三丁余りを押し渡り、向こう岸に辿り着いて行盛を追い落としたという。平氏軍は敗走し、讃岐国屋島へと逃れた。

この合戦は『平家物語』「藤戸合戦」の段で9月の事として書かれ、盛綱の活躍も吾妻鏡と一致しているが、盛綱が先陣の功を狙って浦の男に地形を尋ね、浅瀬を見つけた後で口封じの為に男を殺してしまう場面は、覚一本など語り本系『平家物語』のみに見られ、延慶本や『源平盛衰記』にはない話である。


まずは平家本陣跡

合戦は1184年12月のこと。


ここまで書いて、「篝地蔵」周辺のいい画像がないかと思い、「篝地蔵」でネット検索。画像一覧を見ていると、数時間前にUPした私の撮影した画像がでてきた。

次にバスが停まったのは、(佐々木)盛綱橋のたもと。

.

そこから藤戸寺と経ケ島を見学。橋のたもとに「藤戸饅頭」の製造販売元があったので、
バラで購入。バスの車内で配ったが余ったので、ワイフへのお土産に。



いま刈田にて海渡る兵馬見ゆ 山口誓子
1976年の作品
山口誓子は、他にも
盛綱の駒踏みし海刈田なる
海底は刈田となりて棚田なす
海変じいま穭田が緑なす

という句を作っている。

このあたり一帯は古代・中世あるいは昭和の初めまでは浅瀬の海であったらしい。

経ケ島秋の下闇深かりし  高濱年尾




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