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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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石田波郷

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芍薬の例句を紹介したが、ほとんど芍薬負けした句ばかり。
ワイフが
芍薬や枕の下の銭減りゆく 石田波郷

なんてつまらない句だとつぶやいた。
実は平凡な句が多いと思っていた中で、気にいっていたのがこの句だった。
句意はなんだ?と問われたので、
庭に咲いた芍薬を見ながら、療養生活の地味な心配をしているのだ。生活に余裕がないわけではないが、人間臭い心配から芍薬は解放してくれなかったというところがうまい。
確か、波郷は医者ではなかったかなどと返答。

名前は良く知っているが、実は全然経歴を知らなかった。

どうも生活に余裕があったとは言えないようだ。

いつものようウィイキペディア頼み。

石田 波郷(いしだ はきょう、1913年大正2年)3月18日 - 1969年昭和44年)11月21日)は、昭和期の俳人。本名哲大(てつお)。正岡子規高浜虚子を生んだ近代俳句発祥の地、愛媛県温泉郡垣生村(はぶむら)(現・松山市西垣生)に生まれた。明治大学文芸科中退。戦後の俳壇を先導し、俳句文学に大きな功績を残した。また伝記や句集を編んだ俳人の友人に村山古郷楠本憲吉がいる。

愛媛県温泉郡垣生村大字西垣生980番地に、父惣五郎、母ユウの次男として生まれる。1919年4月、垣生尋常高等小学校に入学。小学生の頃から友人と俳句を作って遊んでいたが、本格的に句作を始めたのは県立松山中学校(現・松山東高校)4年の時で、同級生の中富正三(後の俳優・大友柳太朗)に勧められたことによる。俳号は「山眠」、「二良」とつけた。ちなみに中富は「如煙」、「悠々」と号した。中学5年の頃、同級生と「木耳(きくらげ)会」を起こす。同村の村上霽月主宰の今出(いまづ)吟社に出入りし、句作に励む。



1930年3月、松山中学校を卒業した波郷は自宅で農業を手伝いながら、同年4月、近くに住む俳人、五十崎古郷(いかざきこきょう)に指導を受けた。「波郷」という俳号は古郷による命名。水原秋桜子の指導を受けたことのある古郷の勧めで秋桜子主宰の『馬酔木(あしび)』に投句を始める。高屋窓秋らとともに流麗清新な抒情俳句に新風を開き、水原秋桜子門の代表的俳人となった。


1932年2月20日、単身上京。5月頃、東京市経営の深川一泊所に勤務。10月頃、秋桜子の下で『馬酔木』の事務を、後に編集を担当するようになる。石橋竹秋子牛山一庭人らと親しく交わり、俳句以外の文芸の世界にも目を開く。1934年4月、明治大学に入学(第3期生)。1935年11月、第1句集『石田波郷句集』を刊行。1936年3月、大学を中退し、久保田万太郎を慕って句作に専念する。同年9月、馬酔木新人会『馬』創刊。同人として加わる。1937年9月、『馬』と『樹氷林』を合併し、句誌『鶴』を創刊、主宰となる。波郷24歳であった。秋桜子は波郷の句「吹きおこる秋風鶴をあゆましむ」を「昭和時代を代表する秀句」と絶賛した。1938年6月末、目黒区駒場町761駒場会館アパートに転居する。1939年8月、『鶴の眼』を上梓。新興無季俳句運動の素材的・散文的傾向に同調せず、韻文精神に立脚した人間諷詠の道を辿り、中村草田男加藤楸邨とともに人間探求派と呼ばれた。



第二次世界大戦中は、俳句固有の方法と格調を元禄俳句に探り、古典と競う俳句一途の決意を深めた。1942年3月吉田安嬉子(本名せん。のちに俳号をあき子とする。)と初めて会い、同年6月27日九段軍人会館にて結婚挙式。1943年5月19日、長男修大(のぶお)が誕生し、同年6月浦和市本太後原2145の岳父の家作に転居する。


同月、未召集兵教育を受ける。波郷の禍福は
9月23日、30歳で召集されたことに始まる。月末、千葉佐倉連隊に入隊し、10月初旬、華北へ渡り、山東省臨邑に駐留する。1944年元旦を不寝番兵として迎える。同年3月、左湿性胸膜炎を発病、陸軍病院を転々とし、1945年1月22日夕刻に博多に帰還する。同年3月9日、安嬉子と修大を伴い北埼玉樋遺川村に疎開する。6月17日兵役免除となり、8月15日、盆休みの農家の庭先にて終戦の玉音放送を聞く。この頃より病気が再び悪化、以後、1969年に死去するまで、手術と入退院を繰り返す。


しかし波郷は、
病気との闘いを通して、生をかみしめ自分を見つめる数々の秀句を詠みついでいった。1946年1月、妻子を伴って上京、葛西(江戸川区)の義理兄吉田勲司(本名:吉田登一)宅に仮寓。同年3月10日江東区北砂町1-805に転居。3月15日、長女温子(はるこ)が誕生。9月、綜合雑誌『現代俳句』を創刊、編集に当たり、1947年11月には現代俳句協会の創立など、俳壇の再建に尽力する一方、焦土俳句を経て、1950年6月に刊行された『惜命(しゃくみょう)』は、子規を先駆とする闘病俳句の最高傑作と位置付けられている。「俳句は生活そのもの」とする波郷は、『ホトトギス』の「花鳥諷詠」に対する「人間探求の」俳句を深化させることに成功した。その後、病苦を乗り越え人生の日々を静かに凝視した句境を格調正しい表現によって詠み続けたが、1969年11月21日午前8時30分、肺結核で病没した。墓所は調布市深大寺。戒名は風鶴院波郷居士。墓碑銘は「石田波郷」(自筆)。


代表的な句に、
バスを待ち大路の春をうたがはず(『鶴の眼』)
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ(『鶴の眼』)
雁やのこるものみな美しき(『病鴈』)
霜の墓抱起されしとき見たり(『雨覆』)

今日、見た薔薇
近くの公園で野草を写して戻ると、薔薇見学へ行くと言う館長さんに出会い、案内してもらった。一軒の家の塀回りとガレージの屋根部分である。


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