阪神電車「尼崎」駅前 南側
その右手奥に「昭和大典記念」の時計台が見える。
昭和大典なるものはいつ開催されたのか。昭和元年ではないだろう。昭和元年は3日しかないから。
昭和二年であろうか。昭和天皇の即位の儀式はいつ行われたか?
即位の礼についてのウィキペディアの解説
即位の礼(そくいのれい)は、天皇が践祚(せんそ)後、皇位を継承したことを内外に示す儀典で、最高の皇室儀礼とされる。諸外国における戴冠式にあたる。即位式(そくいしき)の後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われる。即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される。
大典が天皇の即位式用の用語であることは、分かったが、その後、平安時代、明治、大正の事例が長々と書かれているすべて省略して、
昭和天皇についての説明へ。
1928年(昭和3年)11月6日、昭和天皇は即位の礼を執り行う為、宮城を出発し、京都御所へ向かった。京都へ向かう天皇の行列は2名の陸軍大尉を先頭に賢所の神鏡を奉安した御羽車、昭和天皇の乗る6頭立て馬車・皇后の乗る4頭立て馬車・皇族代表・内大臣(牧野伸顕)・内閣総理大臣(田中義一)の馬車と続いた。全長600メートルにも及ぶこの行列は、1分間に進む速度が86メートルと決められていた。
11月10日、即位の礼当日の参列者は勲一等以上の者665名、外国使節92名他、2,000名以上の参列者があり、式典では内閣総理大臣・田中義一が万歳三唱した。
天皇は紫宸殿の儀を終えた後、11月21日に伊勢神宮を親拝し、即位の大礼に係る一連の儀式を終えた旨、奉告し、帰京した。帰京後は宮中晩餐会、夜会などの祝宴の他、観兵式・観艦式等が執り行われた。
悠紀田は滋賀県野洲郡三上村、主基田は福岡県早良郡脇山村から選ばれ、3月に発表された。昭和の大礼の総予算は当時の金額で1968万3637円50銭5厘という。
どうやら昭和3年の暮に大典が行われたようである。
日程は、
- 1月17日 賢所に期日奉告の儀、皇霊殿・神殿に期日奉告の儀
- 2月5日 斎田点定の儀
- 6月1日 悠紀田田植式
- 6月5日 - 7日 主基田田植式
- 8月5日 大嘗宮地鎮祭の儀
- 9月16日 悠紀田抜穂の儀
- 9月21日 主基田抜穂の儀
- 10月16日 新穀供納の式、悠紀田修祓式
- 10月17日 新穀供納の式
- 11月6日 京都に行幸の儀
- 11月7日 賢所春興殿に渡御の儀
- 11月10日 皇霊殿・神殿に奉告の儀
- 同日 賢所大前の儀
- 同日 紫宸殿の儀
- 11月11日 賢所御神楽の儀
- 11月13日 大嘗宮鎮祭の儀・鎮魂の儀
- 11月14日 大嘗祭神宮に奉幣の儀、皇霊殿・神殿並に官国幣社に奉幣の儀
- 同日 賢所大御饌供進の儀、大嘗宮悠紀田の儀
- 11月15日 大嘗宮主基田の儀
- 11月16日 - 17日 大饗の儀
- 11月19日 伊勢に行幸
- 11月25日 明治天皇陵に親謁の儀
- 11月26日 東京に還幸の儀
- 11月27日 賢所・温明殿に還御の儀
- 11月30日 皇霊殿・神殿に親謁の儀
- 1929年(昭和4年)7月16日 大嘗宮地鎮祭の儀
- と1年以上の及ぶ。
- 鰤起し海抜ゼロの町揺する 篠田悦子
- 夏薊海抜千メートルの駅 宮内容子
- 夜振火を焚く海抜の高き川 矢田部美幸
- 体臭に海抜一〇〇〇の藤ふるふ 品川鈴子
- 酷寒の海抜千五百サイ口立つ 大島民郎
各地方公共団体も各種記念行事をやったのであろう。
ここまで書いて公開時間になった。
尼崎市がいつ大典記念時計台を設置したか、それが現在地であったかどうかは分からなかった。
その時計台の奥に、高潮標がある。
ジェーン台風と、室戸台風時の潮位を示している。高い。7mも潮に埋まったのである。このあたり。
そのたもと。
このあたりの海抜は1mで。満潮時には海面下になるのである。標識のOPないし0Pが分からない。ゼロかオーかも分からない。
大物駅前では、40センチ。
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