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Channel: ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
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井組

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三平井組(さんぺいゆぐみと読む)に関するapediaの記述 (尼崎地域史事典)

三平は人名である。禁を犯して、堰を切り、水を旱田へ流して、その場で自害したとか。
これが「三平伝説」の概要である。


三平井を利用する井組田中万多羅寺岡院上坂部村を含む)を井親とし、猪名寺清水上食満塚口を井子とする8か村で組織する。井組結成の時期は不明。1589年(天正17)大井が本堰を造るときに抗議をしたこと、また1592年(同20)大井組村々と猪名川の井河原で水の「大取合」を演じたことなどから、取樋口を築いた時期から間もなく井組が結成されたと推定される。17481749年(延享5~寛延2)の瀬掘り願いなどに、田中・万多羅寺・岡院・上坂部の4か村の名が三平井組を代表する形で見える。地元では、上記4か村を本縄(四縄)と呼んでいる。

  引用した段階では、「灌漑用水の共同管理組織」であろう位の知識。
農業公園の藻川堤防沿いにも似通った石碑が立っていたが、自分が居住する地域の地勢図さえよく分かっていないし、解説に出て来る地名(村名)のいくつかについては馴染みがない。

三平井は藻川の水を受水するものである。増水期以外、藻川の流れは僅かである。よって受水口は川の中央部分までせり出しているが、それでも十分な水が得られない。そこでさらに受水口を掘り進めるうちに猪名川部分にまでせり出してゆく。となると猪名川東岸で堰を構える村がだまってはいない。そこで「水争い」が生じる。




あるいは藻川の水は、三平井より下流で井を構えている村にとっても重要なな用水である。

 元禄時代(1688年が元禄元年。これは我がご先祖さんが初めて美作の現在地へお引っ越してこられれるのが
元禄2年1689年であることを記憶しているので、私にとっての歴史理解の基準年)の、尼崎藩の所領配置図が手元にあるが、それによると猪名寺、清水、田中は大名領で、曼多羅寺は幕府領、田能、上食満、中食満、下食満は大名もしくは旗本領。その西にある塚口村は猪名川用水を僅かに利用していたが、この村は一貫して尼崎藩領であった。その東に大名領が多いのは、大阪城代を勤めた大名や、単身赴任した旗本が出張手当的にこのあたりの村を幕府から与えられ、役職退職後も相続財産として次男以下にも分与されたからである。

 まずは井組なるものから学習の必要あり。


apediaの関連項目(執筆者はどちらも山下幸子さん)

1592年(天正20)、先に本堰を築いた大井村々が干ばつにさいして新堰を造ろうとしたため、三平井村々と争いになった。これは双方の農民が槍・長刀を持っての大乱闘となり、6人の即死者を出した。おりから領主の大谷氏が文禄の役に出動中で不在であったために、庄屋7人が責任を問われて斬罪となった。取水場所である猪名川藻川の分岐地点付近での水流が一定しないため、先例となるべき分水協定が成立せず、その後も水争いが繰り返された。1670年(寛文10)の水論は、三平井の堰と下流の大井の堰の間は29間として解決したが、その後も179017931797年(寛政2・5・9)、1866年(慶応2)と渇水の年や水流の変化により藻川に水が流れにくくなると、大井側からの掘登りや三平井側の横堰をめぐって争いがおきた。

刀狩りの前のことだから、農民も斧・鍬以外にも武器を持っていた。



我が市は武庫川と猪名川(と藻川)に挟まれた50平方㎞の平野部である。
6000年前には、我が家が建つ場所は、海岸が眼の前に迫る場所であり、我が家の南側を東西に走っている阪急電車神戸線より南は、海の底であった。今でも我が家は海抜10メートル以下の所に位置するようである。
新しい防災マップによれば、武庫川と猪名川が、10数メートルの津波によって逆流氾濫すれば、40センチ水(多分海水)に浸かることになっている。
(ジェーン台風の時、室戸台風の時、阪神電車沿いは3~10メートル水に浸かっている。)

三平さんの子孫を名乗る人が今でもいるのであろうか?




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