この人のお誘いで、神戸の六甲教会へ
「祈りと音楽の集い」に。
所属が六甲教会の旧友も誘って。
会が終わって聖堂の外の庭の花をみていると可愛い3歳くらいの子が寄ってきて
友人のあごひげを見て「サンタクロースさん」と呼び掛けていた。
教会の前の道、六甲ケーブル駅へつながる道に名前が付いているのを知った。
立派な鐘楼。地震で倒壊はしなかったが修復されている。高らかに時を告げる鐘がなっていたが
付近にマンションが増え、騒音苦情が出て、まったく鳴らないわけではないが、鳴る回数は大幅に減らしていると聞いた。
花壇は余り丁寧には管理されていない。
司祭館と聖堂の間には段差があり、往来には階段を使用していたが、
段差をなくし、元の聖堂が在った場所は駐車場になっている。
会の後、友人の車で御影の山手幹線沿いへ
ここのにしむらコーヒ店は初めて
チーズケーキはメニューではケーゼ・クーフェンとなっていた。
この友人にはドイツで世話になった。
西ベルリンの壁際に建つ3DKのアパートで1か月一部屋借りた。無賃居候だった。
40年以上前の話。
トイレは上下の2戸の共用で、外階段の真ん中にあった。
水圧が低いので、使用後ブラシで押込むのである。
風呂は台所に盥を置いての行水であった。
友人一家はドイツ政府からの奨学金を貰っての医学研修中であり、
私は私費での「遊学(遊遊?)」であった。
毎日の如く、自己責任で登れと記されている台へ登って東ベルリンの方を覗いていた。
週一くらいで地下鉄に乗って東ベルリンへ出かけた。
パスポートに越境印を貰い、無理やり、1対1の割合で東ドイツマルクを買わされた。
闇レートは1西ドイツマルク=10東ドイツマルク位だったが、
東地区に入ると通りすがりにそれ以上のレートで西ドイツマルクか米ドルを買いたいと声をかけられたが
怖くて対応できなかった。
友人と二人で、東ドイツのチューリンゲン地方、ゲーテのゆかりの地やライプチッヒ、イエーナなどを3泊ほど車で旅行した。
これは東ベルリンの旅行店(ライゼ・ビュロー)予約支払い済み。これが旅行許証明(ビザ)を兼ねていた。
アウトバーンの出口では毎日のように交通警察に止められ、証明書を示す必要があった。
友人は闇レートで仕入れた東マルクを隠し持っていた。しかし東ドイツ地区を離れる時には、入国時に正規に購入した東マルクの
額と東で購入した物品の領収書を示さなければならないので、闇東マルクで可能なのは飲み食いへの消費だけだった。
この飲み食いがまためっぽう安い。というより裏世界ではない場所でのレストランのメニューが極めつけに貧弱だった。
9月から子供3人(友人はすでに3人の子持ちであった)のすべてであったかどうか忘れたが、
日本での小学校入学の都合で、友人より一足早く帰国せねばならない母子の世話が唯一の代償であった。
↑はキンシバイ ↓はビヨウヤナギ