阪神電車尼崎駅の東端を潜った庄下川 北(駅)から南を見ている。
左手にクレーンが見える。
来年の初めには姿を現す尼崎城である。
早手回しに城の建設者の石碑が新設
戸田左門氏鉄(うじかね)。
忠実な再現ではない。しかし石材の多くは旧城のものであろう。
ここには現在は尼崎中央図書館が建っている。
旧城内であるのは事実。城はこの東に建設中。
旧左門殿(さもんど)川に名を遺す。
Web版尼崎地域史事典(apedia):
1577年(天正5)3月(1576年(天正4)とも) - 1655年(承応4)2月14日
1617年(元和3)7月、近江国膳所〔ぜぜ〕(現滋賀県大津市)3万石から5万石で入部した尼崎藩初の譜代大名。入封の年幕命をうけて天守閣をもつ尼崎城を築き、幕府のために大坂の西を固める拠点とし、市街を整備造成して近世城下町をつくった。
1620年からは大坂城修築の普請大奉行となり二の丸の石垣と堀の修築、
1622年本丸天守台と堀の普請総奉行、
1624年(寛永元)には本丸・山里丸の石垣と堀の修築、
1628年には二の丸工事の普請奉行と10年にわたって大坂城の修築に築城の巧者ぶりを発揮した。
領内でも城下町の東、神崎川分流の拡張改修築堤を行ない、川名の左門殿川に名(氏鉄の官職名左門)をとどめた。尼崎にいること18年。
1635年に美濃国大垣(現岐阜県大垣市)10万石に移った。そして尼崎藩以来の民政の成果を踏まえ、近世大名にはまれな初期藩政の大本を定めた総合法典、488条40法度から成る「定帳」を作った。また学問・修身・治国に関する修養の資とするための『志学文集』『八道集』を著わし、家訓を残している。
私、この執筆者から、大学時代に「日本史」を習った。
江戸時代の農民一揆史がテーマだった。
氏鉄の生誕年月については「戸田家譜」(東京大学史料編纂所所蔵、『尼崎市史』第5巻収録)が1577年(天正5)3月としており、『寛永諸家系図傳』『寛政重修諸家譜』等は1576年(天正4)生誕としている。
また、氏鉄の尼崎入部について、「戸田家譜」には「元和三年丁巳七月二十五日秀忠公ヨリ所領ヲ増シテ摂州尼ヶ崎ノ城五万石ヲ賜フ」(元和3年=1617年)とある。『寛永諸家系図傳』『寛政重修諸家譜』には元和2年(1616年)7月25日移封とあるが、『徳川実紀』(改訂増補国史大系第39巻)は「本光国師日記」の記述等を根拠に元和2年説を退け元和3年説を採用している。加えて、元和3年7月25日付細川忠興書状(「細川家記」/『大日本史料』第十二編之二十七)が氏鉄移封を記すことや、尼崎城築城経緯との整合から、元和3年が正しいと考えられる。
城下町には戸田の名を残すものはないと思う。
寺町の寺の一つ、禅宗寺が膳所から移されたことが記されている。
apedia
左門殿川:
戸田氏鉄(戸田左門)の開削した水路として左門殿川の名がついているが、三国川(神崎川)の場合と同様に既存水路の改修によってできたものであろう。かつては八十島と呼ばれる多くの島や洲の間を縫って流れていた一分流の利用であろう。三国川の場合は京と西海を結ぶ最短距離の水路を開くことに目的があったが、左門殿川の場合は尼崎城の防禦的(軍事的)役割を持っていた。大坂側からは左門川と呼ばれたようである。神崎川から分流点より佃島の西を通って中島川との合流点まで、2,250mにおよび、1965年(昭和40)3月に1級河川に指定された。
尼崎藩藩主としては桜井(維新以後の姓)松平氏の方が名を残している。
幕末までの7代。
城主の子孫だと子爵 ↑の神社名揮毫者 従三位となっている。維新以後のインフレ。
城主7代はなべて従五位下
- 復元の民家につくる盆の棚 仲佐方二
- 夏落葉復元住居を覆ひけり 長崎小夜子
- 黒蟻の這へり山城復元図 小林紀代子
同じ仕様のものが復元城にも利用されているはず。
神社の東側に税関がある。
掘っ建て小屋風
税関旗?