永観堂 追加
東京市下谷区上野山下町(現在の東京都台東区上野)に生まれる。1905年より朝鮮に移住し、京城(現在のソウル特別市)の小学校を経て京城中学校(現在のソウル高等学校)で学ぶ。その後帰国し1918年第三高等学校第一部乙類(英文科)入学、1921年京都帝国大学法学部法律科に入学。1924年、同大学を卒業、大阪海上火災保険に入社。
中学時代より「ホトトギス」に投句。三高では1919年に「神陵俳句会」をつくり、翌年拡大して「京大三高俳句会」となる。同句会には山口誓子などが参加した。またこの句会を基盤として草城、鈴鹿野風呂を中心に長谷川素逝らを加えて「京鹿子」を創刊。1922年には「京大三高俳句会」を解散し「京鹿子俳句会」を創立、学外に公開する。この間「ホトトギス」で高濱虚子に学び、1921年には20歳で同誌の巻頭を飾り注目を集めた。同誌ではのちに課題選者も勤め、1929年に29歳で同人となった。また「破魔弓」が1928年7月号から「馬酔木」となった際には水原秋桜子らとともに同人のひとりであった[1]。1933年には水原秋桜子、山口誓子、鈴鹿野風呂、五十嵐播水らとともに新興俳句誌「京大俳句」創刊顧問となる。
1934年、『俳句研究』4月号に、新婚初夜をモチーフとしたエロティックな連作「ミヤコホテル」10句を発表。この連作は京都東山に実在するミヤコホテルを舞台にしているが、草城自身は新婚旅行などはしておらず完全にフィクションの句であった。しかしフィクションの句やエロティシズムの句への理解が乏しかった当時は俳壇の内外に騒動を起こし、ことに客観写生、花鳥諷詠を題目とする虚子の逆鱗に触れ、1936年の草城の「ホトトギス」同人除名にまで発展した。俳壇では西東三鬼などは一定の評価をしたものの中村草田男や久保田万太郎が非難、また文壇でも中野重治が批判を行っている。しかし文壇にいた室生犀星は「俳句は老人文学ではない」(『俳句研究』1935年2月号)という文章を発表し「ミヤコホテル」が俳句の新しい局面を開いたとして積極的に評価した。この犀星の賛辞をきっかけにして中村草田男が『新潮』誌上で「ミヤコホテル」を批判する文章を発表、これに草城自身が反駁し、『新潮』『俳句研究』で「ミヤコホテル論争」と言われる論戦に発展した[2]。
1935年、東京の「走馬燈」、大阪の「青嶺」、神戸の「ひよどり」の三誌を統合し、「旗艦」を創刊主宰。「ホトトギス」除名後は無季俳句を積極的に唱導、自らもエロティシズムや無季の句をつくり新興俳句の主導的役割を担う。戦後の1946年には肺結核を発症。以後の10数年は病床にあり、これまでの新興俳句とは別種の静謐な句をつくった。1949年「青玄」創刊、主宰。1956年、心臓衰弱のために死去。慶伝寺(大阪市天王寺区)に眠る。
「ミヤコホテル」と題する10句
- けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
- 夜半の春なほ処女(おとめ)なる妻と居りぬ
- 枕辺の春の灯(ともし)は妻が消しぬ
- をみなとはかかるものかも春の闇
- バラ匂ふはじめての夜のしらみつつ
- 妻の額(ぬか)に春の曙はやかりき
- うららかな朝のトーストはづかしく
- 湯あがりの素顔したしく春の昼
- 永き日や相触れし手は触れしまま
- 失ひしものを憶(おも)へり花ぐもり
1920年、20歳でホトトギスの巻頭となり、29歳で同人になっている。
そして1936年にミヤコホテル10句により、ホトトギスを除名されている。
手元に、妻が鎌倉の古書店で購入した、『ホトトギス』昭和30年1月号がある。新同人が「社告」のかたちで発表されている。
その中に、「日野草城」の名がある。(除名解除になったのである。)
そして翌年、1956年草城は亡くなる。
雑詠の選者は、虚子から年尾に代わっているが、そこには高濱汀子
の2句も掲載されている。出版事情も良くなったためか、2句投句を3句投句に変更するということが「消息」欄に載っている。
現在私が所属している結社の代表同人(同人誌故主宰はいない)は、この日野草城の一人娘と結婚している。
ノケイトウ 今が盛り